2011.11.11ガストン・レビュファとモンブラン
ガストン・レビュファ――伝説的な登山家、山岳の名ガイド。山岳文学を著し、「山の詩人」と呼ばれた。生涯1000回以上、モンブランを登ったフランス人。
・モンブラン――アルピニストが一度は挑戦したい山である。ヨーロッパ・アルプスの最高峰で、標高約4810m。モンブラン(「白い山」の意味)、フランス語ではMont Blanc(モン・ブラン) 、イタリア語ではMonte Bianco(モンテ・ビアンコ)。別に「白い貴婦人」を意味するLa Dame Blanche(ラ・ダーム・ブランシュ)というフランス語の異名もある。
53年前、大学のワンダーホーゲル部の練習(もっぱら自分と先輩の重いリュックも持たされてグラウンドを走る)が辛くて1年で部を辞めてしまった僕に、登山を語る資格はない。その代わりといってはなんだが、山岳写真を楽しむことにしている。
それにしても「モンブラン」の名称は、多くの品々で使われている。例えば美味しいケーキのモンブランを筆頭に、モンブラン万年筆、モンブランボールペン、モンブランオーガナイザーシステム手帳(丸善で5万円以上した)など、僕の生活エリアにモンブランの名を冠した物は多い。
・肝心の山岳のモンブランの話に戻そう。モンブランは、仏伊の国境に位置している。山頂が仏伊のどちらの国に属するかが、つねに論議の対象になっていると訊く。1957年から1965年にかけて、フランスのシャモニーとイタリアのクールマイユールの二つの町を結ぶ全長約12kmのモンブラン・トンネルの掘削が行なわれ、アルプス越えの主要ルートの一つとなった。僕の1969年から1970年のフランス滞在中、友人にモンブランを臨むシャモニーに誘われたことがあったが、残念ながら忙しくて断った。
だが、モンブランには少々思い出がある。僕は、今年11月7日、NHK–BSテレビの画面でモンブランにまつわる懐かしい人が出ているのを見た。記憶に残る今、書き留めておかなければと思った。今をさかのぼる45年前、僕が26歳の若造だった頃のことである。
・その人はフランス人のアルピニスト、ガストン・レビュファである。1921年マルセーユの生まれで、1985年にパリで逝去した。生涯1,000回以上、モンブランを登った伝説的な登山家で、山岳の名ガイドである。山岳文学を著し、「山の詩人」と謳われた。
NHK-BSテレビの伝えた番組は、そのガストン・レビュファの姿を、活き活きと映し出した。当時(1966年)のことがまざまざと思い起こされて、思わず涙が出そうになった。レビュファは、その日、東京港区の虎ノ門ホールで、「近代スポーツ アルピニズム」のテーマで講演をしたのである。数々の山々の写真、登攀技術、ピッケル、アイゼンなど登山用具類、自らの体験……を交え、満場の観客も真剣に聞き惚れる素晴らしい内容だった。
講演終了後、当方の取材を受けてもらった。僕が以前勤務していた出版社が請け負っていたJTBのPR誌『パスポート』の取材であった。当時、僕は別の編集部にいたが、しばしば友軍記者として『パスポート』の取材を頼まれていた。この話は、約300名の社員の中でもアルピニストとして有名な、田中義朗さん(通称デンさん)が、いち早く来日をキャッチし、『パスポート』編集部に伝えたことに端を発する。田中さんの所属は確か印刷事業部だった。当時、『パスポート』編集部にはアルバイトながら荒木弥栄子、天野和美という2人の有能な女性編集者がいて、編集活動をされていた。即断即決でいい企画を先取りして掲載していたが、レビュファのケースがまさにこれだった。
・早速、レビュファを取材するためのアポをとり、僕が記事を書く段取りになった。その際、通訳を引き受けてくれたのが、今井通子さんだった。今井さんは、当時、まだ23歳位で、東京女子医科大学泌尿器科(医学博士)を卒業し、翌年のマッターホルン登攀を目指していた。今井さんは美しい方で、しかもフランス語を流暢に話すアルピニストだった。その後、女性としては難しいと思われた、マッターホルン、アイガー、グランドジョラスの三大北壁登攀に成功してその名をとどろかすことになる。律儀な方で、45年経った今でも、僕のところに毎年、(株)ル・ベルソー(今井通子事務所)特製のカレンダーを届けてくれる。
『パスポート』編集部の企画として、他にも忘れられない企画がある。オーストリア出身の“黒い稲妻”の異名をとった天才スキーヤー、トニー・ザイラーの取材である。この取材で通訳をお願いしたのが鰐淵晴子さんだった。彼女が、ドイツ語を自在に駆使して、トニー・ザイラーの本音を引き出してくれた。楽しい思い出である。
・ガストン・レビュファに話を戻す。取材することになったので、すぐに参考資料として彼の著書を買いに行った。その時、虎ノ門書房にあったのは、『モン・ブランからヒマラヤへ』と『天と地の間に』の2冊だけ。後で調べてみると、その時点で、レビュファが書いた本は5冊出ていたが、翻訳はことごとく近藤等さんであった。
当日、虎ノ門ホールのレビュファの講演会でも、近藤さんが挨拶したが、そもそもレビュファを呼び、著書を宣伝するというプランは、近藤さんのアイデアの賜物だったらしい。レビュファと近藤さんは、期せずして1921年生まれで同年齢だった。近藤さんの略歴をざっと触れておこう。早稲田大学文学部仏文科卒。早大商学部助教授、教授、名誉教授を歴任した。ヨーロッパ・アルプスの名だたる120余峰に登頂。シャモニー名誉市民、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章受章、1998年、日本山岳会名誉会員。
近藤さんはその後も、ガストン・レビュファの本を訳出し、都合15冊にも及んだ。その上、レビュファのDVDを監修、翻訳され、われわれ山岳ファンの期待に応えてくれた。近藤さんという存在がなければ、レビュファの印象も違っていたかもしれない。僕の勝手につけたレビュファの本ベスト3は、『氷・雪・岩』、『星にのばされたザイル』、『星と嵐――6つの北壁登行』である。この内、最後にあげた本は、1955年に白水社から、1987年に新版が出、さらには新潮文庫、集英社文庫、山と渓谷社の単行本、その後ヤマケイ文庫などで再刊された。よい本は、各出版社が永遠に再刊しづつけることがわかる。
・また、近藤さんは『わが回想のあるアルプス』をはじめ自著も15冊、共著が6冊、翻訳書が約90冊、合わせて110冊強の堂々たる書き手だ。今思い起こすのは、ガストン・レビュファの来日で、近藤先生と親しくなって渋谷区西原のお宅に呼ばれたが、後のフォローがまずかった。当時、単行本を手掛ける出版部とは縁のない雑誌部門にいたこともあり、積極的に企画に結びつけようという発想がなかった。近藤さんの本を何冊か出したかったと今にして思う。いつ、どこでも、編集者としては出版の企画に熱心でないと、将来の芽を摘んでしまうことを学んだ。
取材が終わって、ガストン・レビュファと握手した時、驚いたことがある。なんと大きな手だろう、そしてなんと柔らかな手だろうと思った記憶がある。そういえば、山登りで親指を下向きに持つ保持法を「ガストン」というのはガストン・レビュファの名前に由来するという。その魔法の手の感触を、今もって忘れられない。