ピーター・ブルックの幻の傑作『蠅の王』 - 高崎俊夫の映画アット・ランダム
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ピーター・ブルックの幻の傑作『蠅の王』

 最近、必要があってイギリスの<フリー・シネマ>のことを調べるために、アマゾンで『長距離ランナーの遺言/映画監督トニー・リチャードソン自伝』(河原畑寧訳・日本テレビ)を買い直した。

それにしても、金井美恵子の『小春日和』、色川武大の『離婚』をそれぞれ前田陽一、森崎東の演出で二時間ドラマに仕立てた辣腕プロデューサー山口剛さんが、定年前に配属された日本テレビ出版局から出した一連の映画本のクオリティはほんとうにすごい。

本書以外に、『ビリー・ワイルダー・イン・ハリウッド』(モーリス・ゾロトウ著、河原畑寧訳)、『追放された魂の物語 映画監督ジョセフ・ロージー』(ミシェル・シマン著、中田秀夫・志水賢訳)、『スクリプター 女たちの映画史』(白鳥あかね他、聞き手・桂千穂)と見事なラインナップだ。

 

<フリー・シネマ>は同時代のフランスの<ヌーヴェル・ヴァーグ>やアンジェイ・ワイダ、ムンクらの<ポーランド派>と比較すると、過小評価されているきらいがある。ひとつは、批評家時代のフランソワ・トリュフォーの「イギリス映画は映画的ではない」という独断に満ちた否定的な言辞が、そのまま公理のごとく受け取られてしまったことが挙げられるだろう。

もうひとつは、<フリー・シネマ>が主に一九五〇年代の後半に興った<怒れる若者たち>、いわゆるジョン・オズボーンの戯曲『怒りを込めて振り返れ』に端を発するアングリー・ヤングメンと呼ばれたイギリスの若手作家の原作に依拠したためでもあったと思われる。

 

たしかにフリー・シネマの旗手トニー・リチャードソンの長篇デビュー作はオズボーンの『怒りを込めて振り返れ』(59)であり、彼は、その後もアラン・シリトー原作の『長距離ランナーの孤独』(62)、シーラ・ディレニー原作の『蜜の味』を監督している。彼がプロデュースしたアラン・シリトー原作、カレル・ライス監督の『土曜の夜と日曜の朝』(60)、さらに、デイヴィッド・ストーリーの原作を映画化したリンゼイ・アンダーソンの『孤独の報酬』(63)を加えれば、フリー・シネマの代表作の大半は<怒れる若者たち>の映像化だったことになる。

 

しかし、映画と文学は決して対立概念ではないし、むしろ、その相補的な関係こそ考察すべきであり、フリー・シネマもたんなる同時代の文学の映画化としてでではなく、その底流にはイギリス映画独自のドキュメンタリズムの伝統が流れていたことも見逃してはならないだろう。

 

この時代のイギリスの文学と映画を考える上で注目したいのは、フリー・シネマと微妙に距離を置きながら、特異な仕事をしたピーター・ブルックだ。

かつてイギリス劇壇で<神童>の名をほしいままにしたピーター・ブルックは、マルグリッド・デュラスの『モデラート・カンタービレ』を映画化した『雨のしのび逢い』(60)、ペーター・ヴァイスの戯曲が原作で、映画史上最も長いタイトルの『マラー/サド』(67)ほか数本の映画を撮っている。

私は、映画作家としてのピーター・ブルックについては、今一つ評価が曖昧なのだが、昔、輸入ビデオで見た『蠅の王』(63)だけは、文句のない傑作だと思う。

かつてルイス・ブニュエルが映画化を熱望したといわれるウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』は、ハリー・クック監督のリメイク版が一九九〇年に公開されているが、これはまったく原作の深い象徴性、寓意性が骨抜きにされてしまった駄作であった。

 

ウィリアム・ゴールディングは<無垢の喪失>というテーマを生涯、オブセッションのように執拗に描いた作家で、デビュー作『蠅の王』はその代表作としてあまねく知られている。

イギリスが原子爆弾の攻撃を受け、疎開先に向かう少年たちを乗せた飛行機が故障し、孤島に漂着する。そこで、ラーフという理性的な少年が率いるグループと、ジャック率いる野生の豚を狩る蛮行に夢中なグループが出来上がり、やがて、内なる獣性に目覚めた少年たちは凄惨な殺戮のゲームを始める。

 

ピーター・ブルックは、いわば『十五少年漂流記』のグロテスクなパロディともいうべきゴールディングの原作の言葉を忠実に生かしながら、突然、ハッとするような彼独自のイマジネーションを喚起させるシーンを創造している。

 

たとえば、海岸で松明を燃やし、少年たちが踊りながら、次第にトランス状態に没入していく呪術的な不気味なイメージは忘れることができない。

さらに、顔や全身に入れ墨のような装飾を施し、「豚を殺せ!豚を殺せ!」と絶叫しながら狩に奔走する少年たちを見ていると、『地獄の黙示録』で、河を上り詰めてカーツ大佐の王国にたどり着いたウィーラード大尉が、突然、仮面のような化粧を施した現地民たちの一群を目撃する異様な光景が思い浮かぶ。恐らく、フランシス・コッポラは、ピーター・ブルックの『蠅の王』を見ていたのではないだろうか。

 

 イギリスの模範的な子供たちが大自然の野生の脅威に遭遇するというヴィジョンは、ニコラス・ローグの衝撃的なデビュー作『WALKABOUT 美しき冒険旅行』(70)にもひそかに反響しているように思う。あの映画における砂と岩山が広がるオーストラリアという空間は巨大な孤島というイメージがあった。

 

 後に、ノーベル文学賞を獲ったウィリアム・ゴールディングは、昔から、私が偏愛する作家で、ネアンデルタール人の視点で人類の滅亡を描いた『後継者たち』、アンブローズ・ビアスの『アウルクリーク橋の出来事』と同じ手法で(つまり、ロベール・アンリコ監督の『ふくろうの河』だ)、一人の漂流する男が波間にある岩の上で延々と内的モノローグを繰り広げる『ピンチャー・マーティン』など奇想に満ちた面白い小説を書いているが、一冊だけあげるとすれば、『自由な顚落』だろうか。 

『自由な顚落』は、世俗的な成功を収めた画家が自分が自由意思を失った時期を探究するという、ゴールディングの中ではもっとも私小説的な色彩の濃い小説で、その苦さ、痛切な味わいはわすれがたい。ちょっと『つぐない』の原作であるイアン・マキューアンの『贖罪』に似た感触がある。

できれば、絶頂期のジョセフ・ロージーかニコラス・ローグに映画化してほしかった作品でもある。

 

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ピーター・ブルック監督『蠅の王』

著者プロフィール
高崎俊夫
(たかさき・としお)
1954年、福島県生まれ。『月刊イメージフォーラム』の編集部を経て、フリーランスの編集者。『キネマ旬報』『CDジャーナル』『ジャズ批評』に執筆している。これまで手がけた単行本には、『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティブック』『女の足指と電話機--回想の女優たち』(虫明亜呂無著、以上清流出版)、『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(キネマ旬報社)、『テレビの青春』(今野勉著、NTT出版)などがある。
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