前回、優れた『私が棄てた女』論をものした映画批評家・蒼井一郎について書きながら、私は、もう一人、浦山桐郎の最も深い理解者であった同時代の映画批評家がいたことを思い出した。長部日出雄である。
直木賞作家の長部日出雄が、かつてきわめてジャーナリスティックなセンス溢れる映画批評家であったことはつとに知られている。『週刊読売』の記者時代に、大島渚らが一斉に登場した際に、「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」と命名したことはあまりに有名なエピソードだ。
長部日出雄は、今も『オール讀物』に「紙ヒコーキ通信」を連載中である。この「紙ヒコーキ通信」は、劇場で見たばかりの新作映画をとりあげた時評で、これまで『映画は世界語』『映画監督になる方法』『映画は夢の祭り』(すべて文藝春秋)という三冊の単行本になっているし、昨年は、ライフワークともいうべき『新編 天才監督 木下恵介』(論創社)も上梓している。
とりわけ、私は、虫明亜呂無ほか物故した映画人のメモワールを収めた『振り子通信』正続、『精神の柔軟体操』(すべて津軽書房)などのエッセイ集を愛読している。
長部さんは、映画好きが嵩じて、自らの原作・脚本で『夢の祭り』(89)という映画まで監督してしまったが、作家に転身して以降は、作り手の視点に寄り添うようになり、かつてのような鋭い批判的な言辞は一切、封印してしまったように思う。そこが、私は少し不満でもあった。
というのも、かつて佐藤忠男が編集長を務め、虫明亜呂無、品田雄吉が編集者だった一九六〇年代半ばの『映画評論』に長部日出雄さんが発表していた映画評論は、辛辣な批評精神と同時代をリアルにとらえる鋭敏で柔軟な志向性が融合した独特の魅力を放っていたからである。
その代表作といえるのが、『赤ひげ』を論じた「黒澤明の世界」(『映画評論』1965年7月号)で、マックス・ウェーバーを引きながら、黒澤明の作品世界に、一貫した家父長的な支配構造を見出したこの名高い論考は、図らずも、以後の映画ジャーナリズムにおける黒沢明批判の先鞭をつける役割を果たすことになった。
この時代の長部日出雄の批評で出色なのは、たとえば、「『裏切りの季節』―この汚辱にまみれた旗」(『映画評論』1966年8月号)である。冒頭の一節を引いてみよう。
「混沌とした映画である。が、これは新人がひさびさに、既成のモラルでない、それだけに不定型な自己の内部の観念を思うさまフィルムの上にぶちまけた作品だ。」
こんなぐあいに、悠然たるタッチで大和屋竺の鮮烈なデビュー作『裏切りの季節』を論じながら、当時、勃興していた三百万でつくられるエロダクション映画の可能性を見出している。
長部日出雄の生涯のベスト・ワンはフェリーニの『81/2』である。長部の「フェリーニの『81/2』」(『映画評論』1965年5月号)は、公開当時に書かれた数多の『81/2』の批評の中でも、もっとも長大で(原稿用紙で40枚以上あったと思う)、緻密で、卓越したスリリングな論考であった。私は、イメージの万華鏡のような『81/2』の魅惑的なディテールを鮮やかに再現する、その途方もない筆力に舌を巻いたが、この傑作評論は、たしか、『非行少女』をもってモスクワ映画祭に行った浦山桐郎監督から、その年のグランプリを獲得した『81/2』がいかに素晴らしかったかを延々と聞かされていた、という印象的なエピソードからはじまっていたと記憶する。
長部日出雄が『映画評論』の一九六四年八月号から始めた「日本の映画作家」という連載がある。第1回目が浦山桐郎で、以後、今村昌平、増村保造、市川崑、山田信夫、岡本喜八、蔵原惟繕、篠田正浩と続くのだが、この連載が途中で終わったのはなにか理由があるのだろうか。これも40枚以上ある長篇論考で、抽象的な作家論ではなく、監督の出身、背景を丹念に調べ上げ、周到な取材を積み重ねて、作品と監督の人物像の相関を見つめた秀逸なポルトレの趣があり、今、読んでも新鮮である。
私は、長部日出雄が『ヒッチコック・マガジン』(1962年6月号)に書いた、あるエッセーがずっと気になっている。というのも、小林信彦が名著『日本の喜劇人』の中で、次のように書いているからである。
「これは、彼の書いた多くの文章のなかでも、すぐれたものの一つだと私は確信している。〈あるコメディアンの歩み――石井均はなぜ東京を去ったか〉という短文を私は、ここに、全文、紹介したい気がする。長部は、惚れた相手にからみ、どう仕様もなくなってしまったとき、いい文章を書く。石井均もそうした対象の一人なのである。」
「あるコメディアンの歩み」は引用部分を読んだだけでも、優れた喜劇人論となっていると思えるが、ぜひ、全文を読んでみたい。小林信彦さんは、『日本の喜劇人』の中で長部さんについて「喜劇について語るに足る数少ない友人の一人」と書いているが、私もあるエピソードを思い出す。
一九八五年十月、浦山桐郎の訃報が入り、当時、『月刊イメージフォーラム』の編集者だった私は、すぐさま、長部日出雄さんに追悼文をお願いした。「〈戦後〉の最良の表現者」と題された、その追悼は、深い哀惜の想いを溢れんばかりに伝わってくる感動的な一文で、かつて日活社員だったオペラ演出家の三谷礼二さんが「一読し、泣きました」とわざわざ電話をくださったほどだ。
私は、長部さんの原稿を受け取った時に、新宿に飲みに誘われたのだが、私はその際、新宿の紀伊國屋書店の裏手にあった「あさぎり」というお店に長部さんをお連れした。その少し前に、昼間、偶然入ったカレー屋「あさぎり」のママさんが、話してみると伝説の喜劇俳優シミ金こと清水金一の奥さんで、引退した女優の朝霧鏡子さんであると知っていたからだ。朝霧さんからも「夜は、お酒も飲めますから、ぜひ、一度、いらしてね」と言われていたのである。
長部さんは伝説の女優に会えたので大感激し、全盛期のシミ金の映画を絶賛するや、朝霧鏡子さんも大喜びで、松竹少女歌劇団時代のチャーミングな写真が沢山貼られたアルバムを見せてくれたりもした。果ては美しいおみ脚を披露する大サービスもあって、長部さんも狂喜乱舞して、朝霧さんと松竹少女歌劇団のテーマソングを大合唱したりと、なんとも楽しい一夜であった。
その後、ずっと引退していた朝霧さんが、一九九五年、新藤兼人監督の『午後の遺言状』で、突然、華麗なカムバックを遂げたのは周知の通りである。
長部日出雄さんとは、その後、『夢の祭り』がビデオ化された際に、『A?ストア』誌でインタビューしたが、その際に、一九六〇年代に書かれた映画評論をまとめないのですか、と訊いてみたことがある。
長部さんは、「黒澤明の世界」をはじめ、当時、書いた映画批評を本にすることには否定的な発言をされていた。やはり、創作者、作り手に回ったことで、大きな意識の転回があったようである。しかし、私は、『映画評論』を中心に、長部日出雄さんが一九六〇年代に書かれた映画批評は、同世代もしくは同時代の監督への大いなる挑発であり、励ましであり、まぎれもない、血の通った繊細な創作者の〈言葉〉として、再発見されなければならないと思っている。