2002.11.01山本夏彦翁の訃報
一旦、「編集部から」の原稿を書いたあと、山本夏彦翁の訃報が新聞で伝えられたので、急遽、書き直すことにする。
小社と夏彦さんとの付き合いは、月刊『清流』創刊時に、「あのころ、こんな生活があった」欄の連載執筆を依頼したことに始まる。超多忙の夏彦さんから、同欄は久世光彦さんにバトンタッチされ、いまも好評裡に続いている。
1998年、この連載をメインに「昭和恋々 記憶の中の風景」と題するお二人の対談を加えて一冊に纏め、『昭和恋々――あのころ、こんな暮らしがあった』という本を出した。久世さんが前書きで「山本夏彦の一味となれば、世のテロリストたちの標的になりかねない」などと揶揄しているが、丁々発止、当意即妙のやりとりが面白く、装丁もうまく仕上がり、わが社としては久々のベストセラーになった。いまは、文藝春秋の文庫本に納まっている。
また、月刊『清流』の連載を元に『昭和恋々』の後編を出そうかと思っていた矢先、夏彦さんの訃報に接したわけで、私としては残念至極。久世さんお一人で頑張っていただくしかない!
思い起こせば、私が夏彦さんと初めてお会いしたのは、32歳の時である。当時担当していた月刊誌への原稿執筆の依頼がきっかけだった。早いものでちょうど30年の歳月が経っている。
その時のことはいまでも鮮やかに思い出す。執筆依頼が終わったあと私は、「椎名其二さんのことをご存知でしたら、詳しく聞かせてくださいませんか」といった。夏彦さんは「君は若いのに、随分、古い人、幽霊のような人を知っているね」と答えたものだ。後年、夏彦さんは半自叙伝『無想庵物語』等に椎名其二さんのことをチラッと書いてくれたが、その時の会話は弾みに弾み4時間を超えた。
私は、敬愛する故・椎名其二さんの話を聞けて一生の思い出となったばかりか、夏彦さんの怪紳士ぶりに触れることができ、その日は人生の至福の時だった。
当時、月刊『室内』編集兼発行人で虎ノ門に事務所を持っていたが、その工作社は、狭くて、汚くて、乱雑だった。名前との乖離がはなはだしくて、工作ないしレイアウトの要ありと思った。しかし、一向に気にしている様子もなかった。
その後も、しばしば訪れた私とよく長っ噺(ぱなし)をしたが、その度、夏彦さんには教えられることが多かった。ラ・ブリュイエールの『カラクテール』やラ・ロシュフーコーの『箴言集』などは名著だが、その本を現実に実践してきた人との印象があり、説得力があった。軽妙辛辣、しばしば毒舌、東西古今の智慧を超えて発想できるのは、ご本人は意識するとしないに拘らず、フランスのエスプリ精神が底流にあることは間違いないと、私は思った。
当時、夏彦さんはまだ週刊誌、月刊誌の連載もなく、本業の雑誌発行の仕事がメインだったので気安く立ち寄れる雰囲気があったが、瞬く間に名コラムニストとして評価が高まり、引っ張りだこのようにお忙しくなった。
しばらく途切れていたが、月刊『清流』の目玉として白羽の矢を立てたことにより、10年前、また私たちの交流が始まった。今日、残念なことは、大学生時代、神田の古本屋で買い求めて、後年、夏彦さんにサインを貰った名翻訳『年を歴た鰐の話』(レオポール・ショヴォ作 櫻井書店 昭和16年)をわが家の書庫で探しているが、何回も引越ししているので、なかなか見つからない。確か、『小林五郎第壱詩集』と同じ書棚にあったのに!
櫻井書店の親戚筋に当たる櫻井友紀さんの『ルンルン海外透析旅行』が近々、わが社から刊行の見込み。このことに不思議な縁を感ずる。夏彦さんの処女出版(夏彦さんが処女とは、面白いでしょう!)『年を歴た鰐の話』(櫻井書店)の縁で、櫻井さんの本も売れるよう、夏彦さん、草葉の陰から祈ってください。
山本夏彦さんは、工作社の編集兼発行人を長く務めた方。お会いした時、一世を風靡した月刊『室内』成功の秘密は? と尋ねると、呵呵大笑しながらこうおっしゃった。「人の逆をやればいいのですよ」と。銀行がきても、郵便局がきても、お引取りを願う。儲け話には一切耳を傾けなかった。新聞も肝心の記事は読まず、広告を専ら読む。できたら記事も、お仕着せの特大の記事でなく、1面から全部等量のスペースで見たい。ラジオは特別ニュースでも、声を大きく出さないではないか……等々。夏彦翁の言は、ことごとく納得でき、反論の余地はない。ひょっとすると、若かり時、翁が翻訳した『年を歴た鰐の話』は、自分の話として予定調和的に用意した話だったという気さえしてくるのだ。