2003.02.01さようなら ヤスケン
わが学友・天才ヤスケンこと安原顯が、闘病の甲斐なく亡くなった。若かったこともあるのだろう、肺癌という酷薄な病魔は、情け容赦なくヤスケンの命を蝕んだのである。「おい、癌め! 私の大事な友人を、なぜあと数ヶ月だけでも生かしてくれなかったのだ?」。周りのお荷物と自認している右半身不随・言語障害の私より、周囲のみんなに超元気を与える才能のあるヤスケンをなんでもう少し生かしてくれなかったか!という思いが、私の偽りない気持ちである。
せめてもの慰めは、ヤスケンの死が苦痛も呼吸困難に陥ることもなく、おだやかだったということ。眠るような静かな黄泉の国への旅立ちだったのである。退院して後のヤスケンは、痛みのためゆっくり横になることもできず、何かに寄りかかり首を垂れてウトウトするしかなかった。ところがその日の午後は、横になることができて午睡をはじめたのだという。それを見たまゆみ夫人とお嬢さんの眞琴さんも、看病疲れもあってか、すぐ傍らで仮眠していた。夕方になってハッと夫人が気づいてみると、ヤスケンひとりが眠るように絶命していたのだった。
ヤスケンの著書三冊の編集を手伝ってくれた井上俊子さんによれば、日頃から彼は、溺れるように苦しみながら死ぬことを恐れていたということだから、苦痛もなく穏やかな死際だったというというのはなによりの朗報だった。
私には幻冬舎の見城徹氏のように、「ヤスさん、元気に死んでくれっ!」という腹の据わった表現はできないが、「ヤッさんよ、安らかに、安心して死んでくれ。いずれ追いかけていくから!」と言いたい。
1月21日の夕刊各紙には、安原顯の死亡記事が写真入りで大きく出た。ちょうどその日、わが社では朝日新聞の夕刊に、「三冊とも週刊誌・月刊誌、ウェブサイト等で話題の人、天才ヤスケンの新刊!」というタイトルで「安原顯の本」を告知する全五段の広告を出した。私としては、まだまだ大丈夫、ぜひ頑張ってもらいたいとの気持ちがあってのことだった。
久世光彦、村松友視、田口ランディ、井狩春男、寺島靖国、ねじめ正一の各氏の推薦文を付けて、「●闘病中の天才ヤスケンに、親しい作家・評論家たちが熱いメッセージを寄せてくれました―――」という応援メッセージ入りの広告だった。それが社会面の死亡記事と重なり、夕刊第3版から「闘病中の」の文字を削って、急遽、つじつまを合わせた。そういう死亡記事と出版広告が併載された夕刊となったのも、bk1のタカザワさんの表現を借りると、いまとなっては天才ヤスケンらしい演出であった。
その三冊の本の後、『ヤスケンの死ぬまでパワーアップ』という四冊目を、フリー・エディターの浅間雪枝さんに編集してもらう話が着々と進んでいた。原稿枚数はヤスケンの談をテープから起こした七十枚弱に、月刊『清流』連載の原稿を合わせて百五十枚ほどで、ほぼ一冊の半分ほどの原稿はすでにあったのだが……。まったくもって、残念でならない!
お別れの日、上野の寛永寺・輪王殿には、故人を偲んで多数の関係者が集まった。そこで新潮社の伊藤貴和子さんが、紹介してくれた辻邦生氏の未亡人・辻佐保子さんに初めてお会いできたことは、私にとって望外の喜びだった。私が二十代の頃、辻佐保子さん訳著になる『ロマネスク美術』『ゴシック美術』(美術出版社)を読んで目を見開かれる思いをしたのが、当時、売り出し中だった新進作家・辻邦生さんに結びつくこととなる。
三十数年前、立教大学文学部助教授時代の辻邦生さんに、私は原稿依頼をした。あるフランス系創刊誌のゼロ号へ、「森有正氏の書斎」というエッセイを書いてもらったのである。その後、しばしばお話する機会も得、お葉書も数多くいただいている。
辻文学のファンの一人として、辻邦生さんを前に、『廻廊にて』『夏の砦』の一連の作品を読んでいた私が、「『夏の砦』のモデルは奥さんでしょう」と尋いてみると、本人は照れながら、「いやー、ほんの少々です。女房は比べてあれほど魅力的ではないですから」とおっしゃって、否定しながらも、まんざらでもない風だった。信州育ちらしい控えめなお応えに違いないと思った記憶がある。
会葬の合間に、年来の憧れの人、佐保子さんに会うことができ、辻邦生さんを思い出すことになったのも、ヤスケンが引き合わせたものだと思う。
「ヤスケンさんは、その場の空気を前向きに盛り上げる人。サービス精神旺盛で、他人を鼓舞する。重たい気持ちでお見舞いに行ったら帰るときには勇気づけられていた」とは、辻邦生さんの一番弟子の中条省平さんの発言。昨年12月27日号『週刊朝日』に掲載されている。
その中条省平さんの本『中条省平の密かな楽しみ(仮題)』も、近々、わが社から刊行される。ヤスケンの本と同様、「読書の醍醐味と快楽」を楽しんでもらえれば嬉しい。