2004.04.01大作『ゼームス坂物語』

   刊行は少し先の予定だが、いま精力的に編集制作を進めている単行本シリーズがある。『ゼームス坂物語』で全4巻の大作だ。それを今回は紹介したい。この企画の刊行スケジュールは、今のところ、第1、第2巻を5月中旬、第3、第4巻を6月下旬の予定となっている。清流出版の持っている力をすべてそぞぎ込み、フルパワーで当たりたい企画であり、私自身、不退転の決意で挑みたい。過日、3月24日、清流出版?満十周年記念パーティーをささやかに挙行した際も、この『ゼームス坂物語』シリーズ企画の成功を祈って、社員全員で誓いを新たにした。清流出版11年目にして初めて世に問う超問題作であり、従来の小説という枠組みを超えた大きな文芸のうねりを引き起こす作品だと言いたい。
   幸い、弁護士の金住典子さんと名編集長原田奈翁雄さんの事務所『編集室 ふたりから』が発行している季刊『ひとりから』第21号(2004年3月刊)誌に、なぜ私がこのシリーズの刊行を決めたか、について原稿を書いた。その文章(高尾五郎さんの『ゼームス坂物語』)を原田さんのご好意で許可を得たので、ここに転載する。読者の参考に供すれば幸いと思う。(加登屋陽一)

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高尾五郎さんの『ゼームス坂物語』、
人間教育の原点を問いなおす秀作
読めば読むほど「本物」だ!

   原田奈翁雄さんから「なぜ私が、高尾五郎さんの『ゼームス坂物語 四部作』を清流出版から刊行することを決めたのか、その経緯をぜひ書いてほしい」というご依頼を受けた。
   どちらかといえば、わが社の出版物は文芸エッセイが中心で、教育ものや小説等に、特別強いわけではない。それに出版はもともと水物のところがある。刊行して果たして採算ベースに乗るのかどうかという不安もあったが、刊行を決断した。損得抜き、赤字覚悟でも出そうと決めたのである。その決定に至る経緯を書いていくと、いくつかの目に見えない縁の不思議さに思い至らざるを得ない。
   実は十年前、私が清流出版という小さな出版社を興したのは、原田さんの来し方に触発された部分が大いにある。原田さんは筑摩書房の名編集長として『展望』『人間として』『終末から』などクオリティの高い雑誌を編集した人である。幾多の前途有為な才能を開花させているほか、大物作家、評論家たちにそれまでの路線と違う新しい分野に挑戦させてもいる。原田さんの編集した雑誌を拝読するたび、本来、詩人としての原田奈翁雄の感性が誌面から生き生きと立ち上がっている気がしたものである。
   また、ご自身で径書房という出版社を設立されてからも、時代を撃つ真摯な出版活動をされた。かつて原田さんは『死ぬことしか知らなかったボクたち』という本を、径書房からお出しになった。サブタイトルに「龍野忠久・原田奈翁雄 往復書簡集」とある。実は龍野忠久さんも私にとって思い出深い人。多感な十八歳の時に知遇を得たのだが、文学、絵画、音楽等の楽しみ方を教えていただいた方だからである。その龍野さんとの交友を往復書簡等から細部にわたり編み、龍野さんがお亡くなりになった四年後の一九九七年に刊行されている。死後一年、龍野さんを偲ぶ集いで初めて見た手書きノート十四冊に触発されたものだという。
  「(龍野は)なんて奴だ! しょうがねえ、あれほどまでに言いつづけてきたんだから、何とか本にしてやろう」と刊行に漕ぎつけた経緯が綴られている。「他人にとって意味のあるものなんだろうか。その疑いはもちろんいまも変わらない。ましてこの自分の幼い日々の中身を人目にさらす恥ずかしさはかぎりない」と原田さんは躊躇の末、刊行に踏み切っている。この本が刊行されたおかげで、龍野さんと原田さんとの濃密な交友関係が明らかになった。私自身、伝説と化した交友の一部始終が分かり、この本の刊行を喜んだひとりだ。出版記念パーティーも企画され、原田さんはなんと友情に厚い男気のある方だろうと、それまで以上にますます原田奈翁雄ファンになった。
   かつて龍野さんからいただいた原田さんの詩集『落陽神』(一九五七年)。扉に「白菊」という素晴らしい詩があって、ページをめくると「好きなやつらに 愛するひとに」の献辞の後、「人間」と題する次のような詩が掲載されている。 
      何時だって
      不幸です
      でも
      何時だって
      幸福です
      ――「人間」
      その名のゆえにです
   と続く珠玉の詩集である。「あとがき」に、《こんどこそ「男たちに 女たちに 人間に」と心からの献辞を書きたいものだ》というメッセージがあり、それが強く印象に残っている。
   その原田さんが推薦する高尾五郎さんである。しかし、『ひとりから』の年来の読者なら、高尾五郎さんのお名前も作品もとっくにご存知であろうが、私は原田さんに紹介されるまで、この人の名は全然知らなかった。不明を恥じるしかない。
   その高尾さんもまた同じ詩心を持つ人である。それは『ゼームス坂物語 四部作』を読み始めてすぐにわかった。読めば読むほど「本物」だと確信できた。素晴らしい作品を眼前に、久しぶりに感激し、涙で顔を濡らした。一言で言うと、愛と涙と笑いの感動物語といってよい。一話ずつエピソードは完結している。しかしながら、それでいて全体が感動的なフィナーレへと集約していく。大河小説のように成長していく構成で、物語が紡がれている。登場人物が、生き生きと躍動している。物語の形をとっているが、偏差値偏重、いじめ、不登校などを含めた今日の教育問題をズバリと抉り出している。学校と教師、地域社会の中のこども、塾の役割と学校教育等、人間教育の原点を問い直す今日的な視点が息づいているのである。人間の永遠の課題に取り組んだ骨太で壮大な問題作といえよう。
   原田さんから送られた『ひとりから』第十五号の高尾五郎さんのページに不思議な六社連合広告を見つけたときは、思わずウーンと唸ってしまった。「草の葉クラブ」の放つ第一弾! として、W・ホイットマン『草の葉』(岩波書店)と小宮山量平『昭和時代の落穂拾い』(上田新聞社)など、高尾さんの発案になる六社の連合広告が載っていた。また、同時に送られてきた『草の葉』誌の第十二号は、『ゼームス坂物語 パート4』の「天山山脈を征く者たち」と小宮山量平さんの『千曲川――または明日の海へ』の最終回を同時掲載した記念すべき号であった。小宮山量平さんこそ、私が生涯忘れることのない敬愛する椎名其二さんの思い出の本を出された方である。
   椎名さんは老いて日本へ帰ってきたものの、祖国の惨状に絶望する。仕方なく四十年間住み慣れたフランスへ、死ぬために帰っていくのだが、その旅費を工面できずに困っていた。その窮状を救ったのが画家の野見山曉治さんと小宮山量平さんだった。椎名さんの翻訳した『出世をしない秘訣――すばらしきエゴイズム』(ジャン・ポール・ラクロワ著 理論社)を刊行したのが小宮山さんである。その印税にプラスして、野見山さんの絵を有志が買って得たお金で、椎名さんは貨物船でフランスへ帰ることができたのだ。
   椎名其二さんは、よくエマーソン、ソーロー、ホイットマンの話をしてくれた。私が好奇心旺盛な十八歳の頃、すでに椎名さんは七十二、三歳というご高齢だったが、一九五九、六〇年のわが国は心が貧しく、物情騒然たる状況で、老アナーキストに耐え難い世の中と映ったのであろう。エマーソン、ソーロー、ホイットマン等の名前は、およそ誰も口に出さない時代だった。それが、いま二十一世紀を迎えて小宮山量平さんとホイットマンを、高尾五郎さんの「草の葉クラブ」の広告で見ることになろうとは! 
   しかも小宮山さん(上田市)、原田さん(飯田市)、草の葉クラブ(明科町)……いずれも長野県ゆかりの人と情報で、偶然にしてはよくできすぎている。この奇遇は、五歳の時、上田に近い塩尻に疎開をして以来、信州が大好きになっていた私にとって、人生の予定された調和だと直感したのである。
   だから高尾五郎さんの『ゼームス坂物語』シリーズ本を出すのは、原田さんと小宮山さんへの年来の出版オマージュであると同時に、私が若かりし頃、影響を受け続け、感銘も受けた椎名さん、龍野さんに出版報告をするつもりで出した答えであった。簡単に言うと、原田さんが出版の困難を超えて「龍野のために何とか本にしてやりたい」と決意して、『死ぬことしか知らなかったボクたち』を出されたのを、私もちょっぴり真似たいと思ったというのが本音である。
   この感動的な大作をどうやって伝えていけばいいのか。私は悩んだが、今では心ある方たちがそれこそ口コミで世に広めていくのが一番だと確信している。燎原の火のように、うわさがうわさを呼ぶほうが、絶対に好ましい。物量作戦で大新聞のスペース取りをして広告効果を期待しなくても、いいものは絶対に世の中の人に受け入れられるはず。そう私は確信している。情報の受け手である読者を信用しなければいけない。よい情報は、たずね、たずね、さらにたずねて、初めて掴むことができるものだ、と私は思っている。感動した本があれば、友人・知人に薦めたくなるのが人間というもの。そんな夢と希望を胸に、このシリーズを世に問いたい気持ちである。ご紹介いただいた原田さん、本当に有難うございました。

■加登屋陽一さん、私こそありがとうございます。高尾五郎さんの素晴らしい大作、しかも子どもにも大人にも胸のときめきを呼んでやまない問題作を、ぜひ大勢の方々に読んでほしいと願っていたのですが、本の売れない昨今、四冊にもなる本を出してくれる出版社があるだろうかと、とても危ぶんでいたのです。四月中旬に刊行開始とのこと、重ねてありがとうと、心からのおめでとうを申し上げます。(原田)

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○上記の原田さんの「四月中旬に刊行開始とのこと、……」という期待を裏切ることになって、申し訳ない思いでいっぱいです。2004.3.31現在

 

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高尾五郎さんの『ゼームス坂物語』全4巻の刊行を強く薦めてくれたのが原田奈翁雄さん。その原田さんと親友・龍野忠久さんは、生涯に亙って切磋琢磨する間柄であった。『ゼームス坂物語』は、このお二人の交友関係から生まれたといっていい。写真のページは、月刊『清流』1998(平成10)年2月号に、原田奈翁雄さんが執筆された「友(龍野忠久)を語るーー”自分自身を生きること”を希求し続けた男」からのもの。龍野さん(写真:向かって左)は、1993年秋に肺癌でお亡くなりになった。