2005.02.01有限会社無限代表取締役

   わが清流出版の力強い外部編集協力者・野本博君が、ぜひ紹介したいと連れてきてくれた方がいる。編集工房を経営している奥田敏夫さんだ。名刺の肩書きに有限会社無限 代表取締役とある。有限会社なのに社名は「無限」、これを見ただけで、この人はいいセンスの持ち主だと思った。現在、月刊誌の『趣味の水墨画』を約8名のスタッフで手がけているとの由。野本君とは、以前、同じ会社(株式会社エス・プロジェクト)の同僚で、野本君が編集責任者、奥田さんが電子出版の「エンカルタ」編集長だったという。話をしてみると、お互いの関心事がぶつかった。奥田さんは僕より8歳位若い五十代半ばの方(小生は当年とって64歳)だが、生死を問わず偶々同じ人を知っているのには驚いた。例えば、僕の敬愛する編集の達人・野田穂積さん(株式会社グループ8代表)も奥田さんとは古くからのお付き合いであることが分かり、不思議な縁を感じ、心から親しみが湧いてきた。僕は野田さんとはかれこれ35年のお付き合いになるが、いつもアイデアに溢れた言動には感心させられている。つい最近、野田さんの仲間一行が昔懐かしい(江戸)神田川巡検の船旅を催した。その際、わが社の藤木健太郎君も企画立案から参加して、その経緯を聞いていたので、この奥田さんとの会話(というより酒宴)に参加してもらった。「船の中に確か、あの時は……お名前も存じ上げないで失礼をしました」――二人のやり取りを聞いていて、川遊びという「清遊」は、淡々として君士の交わりとはこうあるべきだと感じた。
   談たまたま、椎名其二さん、森有正さんの話題に及ぶと、奥田さんも身を乗り出した。ともに尊敬している人物だったからである。関係する野見山暁治さん、近藤信行さんの名前まで飛び出し、話が弾んだ。森有正さんの『バビロンの流れのほとりにて』をはじめ、野見山暁治さんの『四百字のデッサン』以下、懐かしい書名も次々出てくる。現在、僕の依頼で野本君が野見山さんの本を企画進行中だが、今後、奥田さんにも手伝ってもらえると密かにほくそえんだ。それにしても、椎名其二さんは滞仏四十年、モラリストの自由人として知る人ぞ知る人物。知っていたとしても記憶のかなたに消え去りつつある名前であろう。初めて知り合った同士がこの椎名其二さんを話題にして盛り上がるなんて予想だにしていなかった。それだけに、その日の酒に心地よく酔った。話をしているうち、椎名さんの秋田なまりのズーズー弁が脳裏に甦り、懐かしさに鼻の奥がツーンとしてきた。
   応接室には、若い頃、編集した月刊『レアリテ』の0号が置いてある。その雑誌には辻邦生さんの書いた「森有正の書斎」が掲載されている。その原稿依頼の経緯に触れると、実は椎名其二さんが自分の持っていたアランの全著作を森有正さんに寄贈したことを僕が知っていたことにある。そんなわけで、森さんの若い弟子で、当時、立教大学の助教授だった辻邦生さんに原稿を依頼することができたわけだ。あの当時、僕も29歳の若造で、生意気にも辻さんと文学の可能性を論じたものだ。辻さんも『廻廊にて』『夏の砦』が好評で、次はどんなテーマで書くのか注目を集めていた。新進気鋭の作家として地歩を築きつつあった頃だ。辻さんは、会社を辞めるかどうか迷っていた僕に、別れ際、こう言った「加登屋さん、”男子三日会わざれば刮目してみるべし”の心境でしょう。会社に残って、新雑誌を成功させるよう、がんばってください」と……。この言葉が今も心に残る言葉となっている。
   話が飛んでしまったが、奥田さんと最後に盛り上がった話題は、新雑誌の創刊話だった。このプランは世間的にも有意義なアイデアだと思う。これもマル秘情報のうちに入るだろうが、いよいよとなったら公開してみようと思っている。今後のお付き合いに期待してお開きになった。

 

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野見山暁治さんの近影。東京・中野区方南町の「長島葡萄房」にて。撮影者は長島秀吉氏。僕が野見山さんのお名前を知ったのは、今から45年前、大学生の頃だった。七十歳を過ぎた椎名先生がまたフランスへ帰る渡航費用の一部を捻出するために無償提供された野見山さんの絵画を、僕も購入した。学友の長島秀吉君は僕より金持ちだったので、彩色されたもっと大きな絵画を買った。二人にとって思い出深い絵画となっている。