2006.11.01加藤日出男さん 山本容子さん 假屋崎省吾さん
翻訳家の田島葉子さん(右)が、ご子息の達夫さん(左)と来社された。田島葉子さんが用意した略歴を見て、上智大学フランス語学科卒、同大学修士課程で仏文学専攻、詩人ポール・クローデルを研究したという記述に注目した。
くわしく語る前に、僕の学生時代の思い出噺をするのを許してほしい。僕は第二外国語はドイツ語を専攻したのだが、ふとした縁でフランス語を、『チボー家の人々』『狭き門』などの名翻訳で有名な山内義雄先生(注1)の授業に出席させていただいた。おかげで政治経済学部フランス語学科(冗談!)のつもりで文学に入れ込んだ時期もある。ある時は山内先生がわれわれ三人の生徒(他の二人は高校から第一外国語でフランス語を取っていた正規の生徒)を連れ、校舎を離れレストラン「高田牧舎」の喫茶室で授業をされたこともしばしば。
田島葉子さんが詩人ポール・クローデルを研究された方と伺うと、真っ先に山内義雄先生のことが思い浮かんだ。その先生は、駐日フランス大使もおやりになった詩人ポール・クローデルと親交が深かった。いま思うと山内先生が果たした日仏文化交流の功績は計り知れなかったと思う。この話をすると、田島さんも上智大学の恩師から聞いて、ポール・クローデルと山内義雄の親交ぶりのことをよくご存じだった。こう話された途端、田島さんは僕には旧知の間柄のように親しみが湧いてきた。
実は、まだある。わが清流出版の位置する九段・俎橋の近辺は、かつて山内先生が東京外国語学校時代によく足を運んだ洋書専門の古本屋「堅木屋」のあった場所だと、ふと思い出した。かれこれ明治44年頃の話で、今から95年前になるが、いまはもうない古本屋のあった俎橋近辺に、田島さんと僕の接点が山内先生により用意されていたと思わざるを得ない。山内先生のポール・クローデルの訳本を紐解いてみると、先生が話してくれた大学時代の挿話を、僕が本の欄外にメモ書きしてあった。まことに不思議な因縁ではないか。
今回の田島さんの来社は、ポール・クローデルとは別件である。ベルギーの高名な詩人モリス・カレームを、日本に紹介しようとの想いで、彼の代表作である『お母さん』と『沈黙の声』の訳詩を持って訪れたものだ。原語では「MERE」、「LA VOIX DU SILENCE」の二篇の詩集で、全52の詩からなるが、二十余編の詩を精選して届けたいとおっしゃる。モリス・カレームは、日本人にはおよそ知られていないが、生涯にわたり八十余冊の詩集、散文集、小説、エッセイを残し、ベルギーやフランスなどで数々の文学賞を受賞した人だ。1971年にはパリで「PRINCE EN POESIE」(詩聖)の称号を受けている。
モリス・カレーム財団の現・理事長であるジャニーヌ・ビュルニさんは、日本人にモリス・カレームを知ってもらいたい一心で、詩集の版権を譲渡し、加えて翻訳料を100%負担、場合によっては出版の費用を持つとの案を訳者に提案されたという。こういう素晴らしい申し出に出版人として応えないでどうする? 弊社との縁を一言で言うならば、訳者である田島さんが数ある日本の出版社の中から清流出版を選んでくれたのである。
田島さんの翻訳はほぼ終わっていて、今回は詩をイメージ化した写真をバックに用いた本にしたいとおっしゃる。写真撮影とアート・ディレクションは、写真家「たじまたつお」。つまり、ご子息達夫さんを起用したいとのことである。文とアート・ディレクションが母子合作の詩集はむしろ大歓迎。素晴らしい本の仕上がりに期待している。
田島さんのレポートによると、モリス・カレームの2500篇以上の詩は、ダリウス・ミヨー、プーランクをはじめ多くの音楽家によって作曲されているという。また、この30年間にフランスの学校で最も学ばれた詩人の中にラ・フォンテーヌ、ユーゴー、ヴェルレーヌ、アポリネール…等と共に、モリス・カレームが入っているとの由。
翻訳者の田島葉子さんは、かつて『急いでいるときにかぎって信号が赤になるのはなぜ?――”あるある体験”の心理学』(セルジュ・シコッティ著 東京書籍刊)、『利瑪竇――天主の僕として生きたマテオ・リッチ』(ジャック・ベジノ著 サンパウロ刊)を共訳されている。特に後者は、17世紀に中国再宣教の道を拓き、フランシスコ・ザビエルの夢見た宣教に苦労のすえ成功し、明朝宮廷に活躍したイタリア人イエズス会員・カトリック教会の司祭マテオ・リッチのことを書いた貴重な訳出である。かつてアメリカの雑誌『ライフ』は1000?1999年の最も偉大な百人の1人としてマテオ・リッチを選んでいることも注目点だ。
今回、日本人に全く無名な大詩人モリス・カレームの詩を日本人に紹介できるのも、マテオ・リッチ並に田島葉子さんのような先見の明のある人のお蔭だ。
(注1)
ここからは、今までの形式とちょっと変える。写真添付はそのまま。本文は原則的に箇条書きで、簡潔にしたい。
有名な「若い根っこの会」、「財団根っこの家の会」会長加藤日出男さん(写真)。
先般、わが社から小川宏さんの著になる『夫はうつ、妻はがん――夫婦で苦境を踏み越えて』を機関誌『友情Dream』にご紹介くださったのが縁である。毎年、加藤日出男さんが団長を務めている洋上大学「ふじ丸 グアム・サイパン南十字星航路」には小川宏さんも過去何回かご一緒に乗船したとのことだ。
加藤日出男さん(77歳)の若々しさには舌を巻いた。僕と違って、髪の毛も黒くて、ふさふさ。今週も三日間、徹夜で働いたという。この日も三時間しか寝ていないというのに元気そうだった。やらなくてはならない仕事が次々とある上、財団の資金を人に頼らず自ら稼ぎたいからだと言う。
昨晩は、わが社に持ってくる試し原稿を十数枚執筆。その合い間に他社から刊行予定の自著の装画(クレパス画)を仕上げていたのだとか。
試し原稿を見せてもらってビックリ。すべて達筆な手書きだったからだ。活字で組むよりこのまま本にしたいくらい。それも、お持ちいただいた原稿は、一文字ホワイトで修正されている以外、誤字、脱字は一切ない。原稿はそのときの気持ちを大切にするので、途中で見直すことはなく最後まで書き終えてから、初めて見直す習慣がついているという。
加藤さんは現在、東京農業大学の評議委員も務めている。東農大は、スポーツの応援やイベント等で披露される「大根踊り」がよく知られている。箱根駅伝でも沿道で大根を両手に持って踊る応援風景がよく放映されたのでご存知の方も多いだろう。この発案者がこの加藤さんである。
洋上大学は過去38回にわたり行なわれてきた。前述の小川宏さんや、石井英夫さん、上坂冬子さんなど、わが社と関係の深い方々も講師として乗船されている。第39回目が来年のゴールデンウィークを含んだ9泊10日の日程で開催される予定だとか。これだけ続いているのも、加藤さんの器の大きさ、人徳というものだろう。
瀬川昌治さん(右)と高崎俊夫さん(左)。
瀬川さんは映画監督で、往年の新東宝をスタートに、東映、松竹と大手の映画会社を歩き、主に喜劇映画を中心に撮り続けた方である。
「ぽんこつ」「図々しい奴」「喜劇 急行列車」等50本以上の映画を撮り、脚本を40作以上書いておられる。
10月8日(日)?11月11日(土)まで、ラピュタ阿佐ヶ谷で『瀬川昌治の乾杯ごきげん映画術』と題したイベントが行われている。トークショーも前後4日あり、僕は淡島千景×瀬川昌治さんの日だけでも観たいと思っていたが……。
昨年、わが社から『ジャズで踊って――舶来音楽芸能史』を出された瀬川昌久さんは実兄。ともに八十歳を超えながら元気に現役で、東京帝国大学の出身。芸術畑に才気溢れる秀才兄弟である。
瀬川昌治さんの住まいは、清流出版から至近にある。なんと徒歩数分の神田神保町にビルを所有し、その一部を九段スタジオにされている。羨ましいほどの設備を完備し、それを拠点に、新しい映画、テレビの構想も立てていらっしゃる。
瀬川昌治さんの本を高崎俊夫さんの編集・企画でわが社から出す予定。「乾杯! ごきげん映画人生」(仮題)と題するエッセイ集。新人女優だった佐久間良子さん、三田佳子さんの魅力を開花させ、渥美清、フランキー堺両氏の人気シリーズを定着させた名匠なだけに、オールド映画ファンにはたまらない一冊になるだろう。
インターネットで瀬川昌治さんのサイトを覗いてみても面白い。映画村「CINEMA CLUB」は、映画好きな方にぜひお勧めしたい。
ねじめ正一さん(写真中央はサイン中の姿)。
ねじめさんのわが社から出した新刊『老後は夫婦の壁のぼり』のサイン会が10月25日(水)、東京・吉祥寺の弘栄堂書店で行なわれた。事前に朝日・毎日新聞で告知したこと、駅ビル内というロケーションも幸いして、多くの人が詰め掛け、成功裏に終わった。
わが社としては初めての地元でのサイン会ということで、人出を心配したが、予定の1時間を15分オーバーするほどの盛況ぶり。ご本人のねじめ正一さんをはじめ、弘栄堂書店の皆様、関係者の皆様、ご苦労様でした。
われわれ清流出版社員一同は、本書を編集担当した古満温君を筆頭に、役割分担しながら裏方で頑張ってくれた。そんなわけで、慰労会を吉祥寺「ろんろん」地下の日本料理店「けやき」で行なって、大いに盛り上がった。
当日、懐かしい方から声を掛けられた。月刊『清流』を立ち上げる際、お世話になったライターの菅原佳子さんだ。わが社のサイン会の度に、貴重な時間を割いて来てくれる感心な方である。菅原さんが手掛けた斎藤茂太さんの新刊等を頂いた。わが社向きの企画があったら、ぜひよろしくお願いします。
佐賀県武雄市から来た陶彩画の今心工房の草場一壽さん(右)。
陶板に釉薬をのせ焼成し絵画作品に仕上げる陶彩画は、基本的原理が焼き物の絵付けと同じだが、一つの作品の完成まで十数回の反復焼成が必要だとか。釉薬の種類、下絵の具に上絵の具、焼成温度、焼成回数など偶発的な要素もあるだけに、スリリングな芸術である。
鈴木須美子さん(中央)と大寶健悟さん(左)は実の親子。鈴木さんのご主人はサンマーク出版の編集者で、かつて草場一壽さんの単行本企画を担当された方。鈴木須美子さんは「今心工房/陶彩画」の名刺、大寶健悟さんは「not for sales Inc」の名刺を出された。親子で息の合った仕事をされている。
今回、わが社で刊行予定の草場一壽さんの単行本や、月刊『清流』の「この人に会いたくて」欄の取材に、お二人はいろいろの面で協力してくれた。
東京の港区南青山の「LA COLLEZIONE」(ラ・コレッツィオーネ)で、「草場一壽/陶彩画」展が10月26日?29日まで開催された。僕も臼井君と会場に足を運んだが、素晴らしい作品に出合い、陶彩画の魅力に惹かれた。
「青シリーズ」は、部分によっては1センチ近い盛り上がり。実際に触ってみることができる展示がされていた。塗るというより置く、乗せるといった表現の方が近いだろう。
「青シリーズ」だけを集めたコーナーでは、清々しい気に満たされていた。草場さんはこの青一色に、「神秘の輝きを表現したかった」と言っているが、この気を浴びながら喫した鉄観音茶の美味しかったこと。
杉田明維子さん(中央)の原画展が、東京・銀座の「ギャラリーヴィヴァン」で、10月16日?28日まで行なわれた。清流出版の絵本『うまれるってうれしいな』の原画が一堂に集められた個展である。この絵本の本文は、堤江実さん(左)がお書きになった。
この日、夜の6時半から、詩と朗読(堤江実)、パーカッション(依田真理子)、構成(佐藤よりこ)で、「堤 江実 ポエムコンサート」をこの画廊で行なう予定と聞いたが、われわれは夜のスケジュールがあり失礼した。このやり取りを聞いて、同席の日下部禧代子さん(右)が「このコンサートに参加していいですか?」とおっしゃった。
日下部さんはただ座っているだけでも光を放つ人で、それもそのはず、かつては土井たか子党首時代、社会党の副党首だった方。今は元・参議院議員(社民党)を名乗ろうとしないが、若い頃、ロンドン大学政治経済学部で福祉行政学を専攻した福祉問題研究家である。その日の三人の会話を聞いていて、今更ながら日本の女性は元気だな! と思った。
10月15日(日)、銅版画の山本容子さん(中央)が、新刊『Jazzing――山本容子のジャズ絵本』(講談社刊)出版を記念して、谷川賢作さん(左の後ろ姿)のピアノ演奏と演出・構成で「ジャズの夕べ」(Jazzing)を開催した。
場所は、東京駅の真ん前の東京ビルの2階「COTTON CLUB コットンクラブ」。山本さんの長年の願いだったジャズ演奏付きの出版記念会を行なった。
総勢30名弱の演奏家たちと山本容子さん、谷川賢作さんが乗りに乗って繰り広げる舞台に、僕も思わずハミングをしたくなった。
会社の古満温、長沼里香、秋篠貴子と若い社員三人と同道したが、多分、楽しんだと思う。山本容子さんの担当編集者・秋篠は風邪気味だったが、最後まで顔に体調不良の様子を見せなかった。
来年は、わが清流出版も山本容子さんの本を出す予定なので、趣向をこらしたブック&付録(例えば、全て食べものの話の本なので、チーズの付録付きとか)にしたい。秋篠と外部協力スタッフの井上俊子さん、よろしく。
目黒の雅叙園で開かれる「華道家 假屋崎省吾の世界」展のオープニングパーティに秋篠、臼井の両君と出かけ、会場入り口で假屋崎省吾さん(左)に挨拶した。会場には若い女性が多分二千人以上が押し掛ける盛況ぶりだった。
假屋崎省吾さんは、TV出演、イベント、トークショーと多方面で活躍中。今回も華道家という枠にとどまらず、空間プロデューサーとしての手腕も見せてくれた。
「昭和の竜宮城」といわれる雅叙園が誇る「百段階段」を舞台にした、華麗なる花の空間ショーは、夜の照明に映えて筆舌に尽くしがたい見事さ。直径50センチもありそうな大輪の菊、蘭など妖艶な草花、見たこともない大振りの果実、実をつけたままの柿の木をそのまま使うなど、大胆かつ豪快な空間を演出。声もなく見入ってしまった。
会場の本の売り場に、わが社から刊行された『假屋崎省吾の暮らしの花空間』が入っていないことに気づいたわれわれが販売担当者に確認すると、恐縮して「事務所から取り寄せている手筈だから」と言ってくれた。これだけの規模の大きな展示会になると、少々、仕事の手筈が狂ってしまうものだ。明日からの一般公開に間に合えばよいと思いながら、会場を離れた。
岡本半三さん(右)と戸田吉三郎さん(中央)の二人展に出掛けた。同展は東京・銀座の「ギャラリームサシ」で、10月22日?28日まで行なわれた。いつも僕が出掛ける時、世話をしてくれる野本博君とジュニアの親子が同行してくれた。
岡本半三さんは今年6月のホームページにも出てきた方である。10歳で日本画の奥村土牛、23歳で洋画の安井曾太郎という両巨匠に師事。1951年一水会展入選後、フランスへ留学。その時、野見山暁治さんと椎名其二さんの知遇を得た。
戸田吉三郎さんには、初めてご挨拶したが、僕は生涯にわたり尊敬すべき椎名其二さんの思い出噺で、以前からの知人のように打ち解けた。戸田さんも岡本さんと同じく、フランスで修業した画家の一人。
戸田さんは現在、逗子市に自宅があり、アトリエは千葉県の鋸南市にあるという。また、毎年、干支の版画を年賀状に描くという。力強い作風の絵画を見ると、僕も年賀状をもらいたくなった。お近づきになれたことで、来年の年賀状を出したい。
前の項目の画廊と近い東京・銀座の「GALLARY olive eye.」(ギャラリー・オリーブ・アイ)で、「井上長三郎展?生誕100年記念?」の開催通知を、僕の中学2年生の同級生の井上リラさん(右から二人目)からもらった。早速、野本親子を誘って、ある雨のそぼ降る午後に行った。
この井上リラさんは、4つ前の項目で紹介した杉田明維子さんのお友達という関係。今月は、銀座の画廊と縁がある月だ。
昨年10月に行なわれた「池袋モンパルナスの集い」で、井上リラさんがトーク番組の講師を務められたが、野本君が小熊秀雄企画の件に絡めて、この集いに参加していたという因縁だ。
井上長三郎さんは、反骨精神と諧謔性に富んだ絵画を得意とする方と僕も思っていた。画廊に集められた絵画を見ると、その印象は間違いないと思った。
画廊の一隅に、井上リラさんが書いた「父のラジオ」という文章が掲げられていた。いい文章で、リラさんは父親の画家という職業を継がなかったら、作家になっていたと思わせる名文家である。
個展会場にいた方たちを、右から紹介する。水根なみさん、井上リラさん、あべ黎子さん(自由美術の方)、野本君、僕。水根さんは多摩市永山から、あべさんは八王子市北野台から、というように決して近くない所から出かけて来て、画廊で絵画を楽しむ。女性たちが前向きに人生を謳歌しているのを、男の僕はひしひしと感じる。