2008.08.01岩波唯心さん 落合恵子さん
岩波唯心さん
・ある日、わが清流出版に身体に障害を持つ天才がやってきた。僕と同じで右半身が麻痺していて、さらに目が不自由だという。なぜ天才かは、順を追って説明する。今は無名だが、そのうち天下に認められるだろうと断言して、僕ははばからない。その人の名前は岩波唯心さん(写真)である。
・岩波茂雄(39)さんが本名で、岩波書店の創立者と同姓同名だ。出身地も同じ長野県諏訪市である。岩波さんは幼少の頃から絵と書に関心があったという。持参した作品の一部(注1)を見て、40歳前の年齢でいながら枯れた味がして、しかもとうてい身障者が描いたものとは思えない繊細なタッチに見とれた。墨で描いたもぐらの絵は、体毛の一本一本が精緻に描きこまれ、鯉を描けば、うろこの一枚一枚まで精密に描き込まれている。書も水茎のようで流麗そのもの。見事というしかない。とても利き腕を失い、左手で書いたものとは信じられなかった。「天才だ!」と僕はうなった。来し方や精進の経緯、師事した画家など詳しい話を聞いて、岩波さんの本を刊行することにした。
・岩波さんの経歴書によると、4歳で油絵を習い始め、8歳で書の手ほどきをうけた。これまでの人生は波瀾万丈。艱難辛苦を乗り越えてきた。少年から青年期への移行期にも、学校生活や家庭の事情により荒波を受けている。中学時代、生徒会の会長をやり、会議での発言が物議をかもすことになった。やがて先生方も含め、全校を真っ二つに割る大騒動となった。渦中にあった先生から「君が来ると授業にならない。もう学校にこなくてもいい。卒業証書は出すから」といわれたこともある。本人は正論を吐いたつもりだったが、学校側には問題児と受けとられたのである。高校は文化学院高等課程美術科へ画家・村井正誠さんの推薦で進学した。しかし、家庭の事情により、ほぼ2ヶ月で中途退学をせざる得なくなる。16歳の終わりには、社会への厭世観と疑念により、家を出てある仏画師の下で修業した。
・22歳の時、難病の網膜色素変性症に罹患していることが判明(現在、視野障害1級)。次第に悪化し、仏画師としての道を断念せざるを得なくなる。その後、薄明かりの中で墨絵と書をかいた。公募展にも数回入賞。請われて各種審査員等も委嘱されるが、自分の性に合わないことを覚り、26歳の初めまでにすべての肩書を捨ててフリーとなる。その後は自らの心情を文字と言葉に託す「書」にして、「人の心、命とは何か」の問いと模索を主題として作品を制作し続けてきた。
・間もなく更なる試練が襲う。31歳の終わり、原因不明の脳内出血により、右半身麻痺となったのだ。歩行に困難をきたすとともに、利き腕がいや応なく右手から左手に変わった。185?前後あった身長も、3?位縮まったという。そうした障害の結果、肉体的、経済的な自立の困難さが岩波さんの身にのし掛かった。だが不屈の精神力で耐え抜いた。
・1992年から2年おきぐらいに個展を開いている。主だった個展は、高島屋立川店、吉祥寺のあーとらんだむ、大塚の?マスミ企画、帝国ホテル内絵画堂、銀座ふそうギャラリーなどが挙げられる。個展を通じ、作品を世に問うてきたが、思ったほどにはまだ評価はされていない。
・岩波さんは、右半身麻痺に陥る前、世界に向けての活動を始めていた。例えば、2000年5月、オランダの映画に出演し、ドキュメンタリー映画『日本の激流の中で』(ルイ・ファン・ファステレン監督)で、書作品の製作風景が紹介された。この時、映画のキーワードであった「自然」を揮毫した。また、2000年11月には、インドのジャイナ教テーラーパンダ派の研修所の一つジャイン・ヴィシュバァ・バーラティーを訪れる。最高指導者アーチャリヤ・マハープラギャによる教徒への説法の折、御前揮毫で書作品「不殺生」「無諂曲(むてんごく。”無所有”の意)の2点をしたためた。その作品は同センター内にあるギャラリーに収蔵された。このアーチャリヤ・マハープラギャ師とあった場所は、宗教や思想を超えて世界平和を祈り、チベット仏教のダライラマ14世も訪れ、立たれた場所という。
・話は変わるが、岩波唯心さんが5月中旬、銀座・ふそうギャラリーで個展を開催した際、臼井君と僕が行き、ある作品を買ってきた。わが社に来社してくれた人は応接室に実物があるので、ぜひご覧になってほしい。その作品は「so ham(ソー・ハム)というサンスクリット語の文字(注2)が書いてある。15センチ位の木片に書かれた書だが、岩波さんの緑色でしたためた文字が美しい。岩波さんの解説では「あなたがいるが故に、わたしがいる。」という意味だそうだ。実際にはひげ文字で分からないが、インドで紀元前5世紀頃から紀元9世紀頃まで有識者階層間で、法律、詩文、宗教に使われた古典サンスクリット語である。その言葉の文字が紀元前4世紀頃から紀元4世紀位までインドの北西部からアフガニスタンにかけて主に碑銘文に使われたカローシュティー文字で表わしたものだ。僕は、その意味を知って、ぜひ清流出版のコレクションにしたくなった。「あなたがいるが故に、わたしがいる」。われわれ人間の存在は、この関係に尽きると思う。
・岩波さんの本は、9月末に『岩波唯心書画集』(A4判並製 予価2700円)の書名で刊行予定。この網膜色素変性症と右半身不随の身でありながら、渾身の筆を取り、見る人に訴えてくる水墨書画の迫力を多くの読者に見てもらいたい。
(注1)
岩波唯心さんの書画の一つ。文字も墨絵も素晴らしい。とても半身不随の身で書(描)いているとは思えない。
(注2)
なんの変哲もない流木片に書かれた緑色の筆が美しい。「あなたがいる故に、わたしもいる。」という意味のサンスクリット語。覚えやすい「so ham」(ソー・ハム)という言葉。
落合恵子さん、背後に岡部伊都子さんの遺影
・名文の随筆家として知られ、多くファンを持っていた岡部伊都子さんが惜しくも今年4月29日、お亡くなりになった。享年85。その岡部さんの追悼会が5月31日、同志社の新島会館で、東京では7月6日(日)、新宿中村屋本店「レガル」で、「岡部伊都子さんを偲ぶ会」があり、臼井君と僕が参加した。
・この偲ぶ会の発起人の一人で、わが社から『トゲトゲ日記――サボテンとハリネズミ』を出された落合恵子さん(左)が挨拶された。後ろに岡部伊都子さんの遺影がある。かつて落合恵子さんと評論家・佐高信さんは、ともに岡部さんの熱烈な支持者として、岩波書店版『岡部伊都子集 全五巻』の編者を務めた。落合さんは、さすがに話がお上手で、しんみりとした中にも、一本筋が通った追悼の言葉だった。その他、利根川裕さん(作家。見事な白髪が印象的)、藤原良雄さん(藤原書店社長)、海勢頭豊さん(注3)(ギタリスト、シンガーソングライター兼作曲家)、李広宏さん(注4)(中国の歌手、『シカの白ちゃん』中国語対訳者)、岡田孝子さん(帝京平成大学教授)、岡村遼司さん(早稲田大学教授)……などが挨拶し、しばし岡部さんを偲んだ。
・一番印象的だったのが元・岩波書店の編集者高林寛子さんのお子さんとお孫さんたちが「いっちゃん」(岡部さんの愛称)を偲んで挨拶されたこと。高林寛子さんは定年後、藤原書店に入り、岡部さんの本を次々と16冊ほど出し、名編集者として業績を残されて、今年1月にお亡くなりになった。病床にあった岡部さんには、最後まで高林さんの訃報は秘密のままであった。著者と編集者の関係でこのような良い話を聞いて一同、感激した。
・思い返してみると、岡部ファンになったのは僕が大学生の時。『藝術新潮』誌に載った岡部さんの「観光バスの行かない…埋もれた古寺」や「古都ひとり」の連載を読んでからである。以来、50年間、岡部さんの愛読者だった。かつて月刊『清流』にも、「映すしらべ」というシリーズ名で、見開き2ページの珠玉のエッセイを書いていただいた。何度も賀茂川近くにある岡部さんの家を訪れ、色々と楽しく語り合った。ある時は、僕が以前勤めていた出版社の話をしたことがある。入社して間もない頃、荒畑寒村さんが同じフロアーにいて、会話を交わしたことなどを語ると、乗り出すようにして聞いてくれた。また、ある時は、京都の美味しいお酒が手に入ったので飲みましょうと誘ってくれた。お宅を辞す時、「花あかり」と名づけた蝋燭をいただいたことがある。水に浮かべて灯す丸いおしゃれな蝋燭で、その下さったときの言葉とともに懐かしく思い出される。その後、僕が第一回の脳出血になり、病院へ入院したと同時に雑誌連載は終わった。約1年間の連載だった。岡部さんは、新しい単行本を出す度に律儀に送ってくれた。その本を読み返しながら、岡部さんの残した重いメッセージ、反戦、沖縄、差別、在日、ハンセン病等を忘れてはならないと思いを新たにしている。
・偲ぶ会の終了間近、この会を企画立案した藤原書店の藤原良雄社長さん(注5)に、ご挨拶をした。良い会を企画してくれたことに感謝の言葉を述べた。また、僕の恩師・椎名其二さんのことを書いた『パリに死す 評伝・椎名其二』(蜷川譲著 1996年 藤原書店刊)も、よくぞ出版してくださったとお礼を申し上げた。今、出版界に一定の価値ある出版物を刊行する先達として、藤原書店こそ掛け値なしの優良な会社である。少しでも見習いたいものである。
(注3)
ギタリスト、シンガーソングライター、作曲家の海勢頭(うみせど)豊さん。沖縄から遠路参加された。岡部さんとの逸話をはじめ、ギター演奏しながら岡部さんゆかりの歌を歌ってくれた。なかでも「鳥になって」が記憶に残る。
(注4)
中国の歌手・李広宏さん。この方は、岡部伊都子さんの童話『シカの白ちゃん』を中国語対訳した方である。中国蘇州市出身で、現在兵庫県西宮に在住である。李さんも素晴らしい声の持ち主。最後に「千の風にのって」を日本語と中国語で歌ってくれた。
(注5)
藤原書店の藤原良雄社長さんと。1990年創業というから、清流出版の4年前に作られた出版社で、「新評論」の有力編集者だった藤原さんが独立創業した。設立して間もなく、初の発行物のフェルナン・ブローデル『地中海』全5巻を刊行し、出版界で大きな反響を呼んだ。その後も、意欲的な刊行物で、数々の話題を提供している。学芸総合誌の季刊『環』やPR誌『機』等、僕の気になる出版物を出している。