2011.06.20石井英夫さん

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中央の石井英夫さんの手に注目! 両手に<華、花>状態でご満悦。

・産経新聞の名物コラム「産経抄」を35年間(昭和44年から平成16年まで)にわたって書き続けた石井英夫さん(中央)。その石井さんを囲んで、ある夕、小宴を持った。集ったのは、イラストレーターのくすはら順子さん(右)、松原淑子(月刊『清流』編集長)、藤木健太郎(今は僕の後を継いで、清流出版株式会社代表取締役社長)、そして僕。石井さんによれば、くすはら順子さんは名前がよいという。僕はiPod(アイポッド)を持っていて、移動の際よく聴いているが、約1万7000曲を収納している。長渕剛も好きなミュージシャンでアルバムが何枚分か入っている。検索してみるとズバリ、彼のヒット曲だった“順子”も入っていた。そこで、石井さんにちょっとさわりを聴いてもらった。「うーん、“順子”か、こういった世界もあるのかー」と感心された。

・石井さんは美女が大好き(僕も同様です)。今回も美しい女性を2人参加させているのがホストたる主要な役目である。今までにも石井さんとは、何回も打ち合わせと称して呑み会をしてきたが、石井さんの軽妙洒脱な話しぶりには感心させられるばかり。名文プラス名座談のコツを盗んでやろう、などという僕の魂胆はいつも空振りに終わる。真似ようにも真似られる次第のものではないのだ。美味しい辛口のお酒(静岡の名酒「花の舞」)を呑み、石井さんのお話をただ聞くばかりだった。

・石井英夫さんの名文には、かの司馬遼太郎さんも脱帽、「現代のもっともすぐれた観察者」と評したほどだ。日本記者クラブ賞(昭和63年)、菊池寛賞(平成4年)を受賞したことからも証明される。石井さんは、かの山本夏彦さんを師匠と仰ぐ。かつて山本夏彦、久世光彦、徳岡孝夫、石井英夫の四人を「現代の名筆」と讃える向きもあった。この四人が揃って、清流出版の雑誌連載をし、単行本を刊行できたことが、僕と松原淑子のちょっとした自慢である。この豪華メンバーと仕事をご一緒し、単行本を刊行するなど滅多なことではできない。

・ちなみにホームページでも、四人について僕が拙い文章で書いている。山本夏彦さん(2002年11月、2008年5月、2009年7月)、久世光彦さん(2001年12月、2003年1月、2003年2月、2006年2月)、徳岡孝夫さん(2001年12月、2003年1月、2006年4月、2008年4月、2008年7月、2008年9月、2009年8月、2011年2月)、石井英夫さん(2005年11月)。四人それぞれに、お付き合いのさまを触れている。

・宴の前に、石井さんから私に宛てた本年の年賀状を見せられた。「配達準備中に調査しましたが、あて所に尋ねあたりません」――それは、僕の旧住所・八王子市北野台に宛てた年賀状だった。僕が現在の世田谷区成城に引っ越してすでに八年が経っている。裏面を見ると、「兎の顔に何やらかける老蛙なり」の自作の句。いかにも洒脱な石井さんらしい。石井さんの名著『蛙の遠めがね』を思い出した。この宛先不明で戻った年賀状を有難く頂戴することにした。

・「加登屋さん、これまで18年間、単行本を出してきて、一番気に入っている本は何ですか?」と質問された。僕は「それは言うまでもない。『秋艸道人會津八一の學藝』(植田重雄著)です」と答えた。著者の植田さんは會津八一の研究家として知られた方で、『秋艸道人會津八一書簡集』『秋艸道人會津八一の生涯』等の著書もある。石井さんは「會津八一ですか、僕も関心があります」とのこと。書評をいろいろな雑誌にお書きになっている石井さんのこと、当然、この本もお贈りしたと思い込んでいたが、贈呈リストから漏れてしまっていたようだ。

・會津八一は猫も杓子も西欧文化にかぶれ、日本の伝統美をないがしろにする当時の風潮を断固否定し、日本本来の伝統美、例えば奈良の大仏、仏像、仏閣から、良寛の歌集など、多分、石井さんも好む世界を生涯かけて追究した。僕は「日本人の精神的拠り所を明らかにした」本だと確信する。恥をさらすようだが、僕はダイヤモンド社時代、悪友連と夏は新潟まで遠征し、地方競馬を楽しんだものだ。その際、定宿にしていた小さな旅館があって、そこには秋艸道人の真筆の額が飾られていた。見るからに書に品格があり、その日の競馬に運が呼び込めそうな気がしたことを懐かしく思い出す。

・その石井英夫さんの単行本が、わが社から7月末に刊行予定だ。月刊『清流』で連載していただいた「いとしきモノたち」を一冊に編むもので、松原の編集担当で順調に作業が進んでいる。タイトルも『いとしきニッポン』にほぼ決まっている。この話をすると、「おいおい、ちょっと待った! 著者がゴーサインを出してから日にちも経たない。ろくすっぽ検討しないうちに、刊行時期、書名、定価、ページ数……などを決めて……」と石井さんは驚いていたが、担当者の松原は動じない。そればかりか、「四六判の並製とし、珍しいフランス装にしたい。すでに書店向けのパンフレットも営業の木内文乃さんに作ってもらっている。全部で6章構成とし、読みやすい活字を組んでもらいます」と、カラー印刷の書店用チラシを差し出した。

・まあ、忙しくても仕事が早いのが松原の特技である。僕は、この本については校正者として川鍋宏之さんを使ってくれと頼んだ。「なべちゃんは、石井さんの大ファンで、かつて将棋のプロたちが集まっていた呑み所『あり』を経営していた有名な奥さんの燿子さんともども産経新聞を愛読している」と、僕は種明かしをした。脱線ついでに川鍋燿子さんについて触れると、野見山暁治さんの博多での連れ合い(2番目の妻)が亡くなり、その名物女将ぶりを慕っていた燿子さんが、追悼の席を企画し司会などをした。各界の人々が参集して、当時『週刊新潮』に載って話題を呼んだものだ。

・先日、蓼科から車山経由でドライブ旅行をしたが、ある素晴らしい彫刻家の作品を見た。日本を代表する芸術家(特に彫刻家)の一人で、明治17年生まれの北村西望(通例の呼び名は“せいぼう”だが、本名は“にしも”)である。文化勲章、文化功労者顕彰、紺綬褒章受章など数々の栄誉に輝いている。一番有名なのは、「長崎平和祈念像」である。お亡くなりになったのは昭和62年、享年104。北村西望は書もいい。僕は、ある場所で西望の書を見て、その闊達で雄渾な筆運びに圧倒された。藤木君もこの書を見たことがあるらしいが、あまり関心を持たなかったようだ。

・今回の旅行で、蓼科高原芸術の森の「マリー・ローランサン美術館」に隣接する彫刻公園を訪れ、たっぷり北村西望の彫刻作品を鑑賞した。彫刻公園には約70点の彫刻が所蔵されているが、そのうち約30点が北村西望の作品。「獅子―咆哮」「虎―青風」「母子像」「孔子像」「戦災者慰霊の女神」「天女」「光に打たれる悪魔」「十二支」「北村西望自像」……など、傑作が目白押しである。しばし、感激して見惚れていた。わが社の編集担当の金井雅行(石井さんが編集担当として優秀な男で、末が楽しみと褒めてくれた)君が、ほど近くの別荘によく来るので、作品を鑑賞したことがあるかもしれない。東京の武蔵野市御殿山にある井の頭自然文化園彫刻園にも北村西望作品があるはず。一度見たらみなさん必ずファンになること必至である。

・脱線ついでに、北村西望の経歴に触れておく。明治36年に京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)に入学。後に親友であり同志となる彫刻家・建畠大夢と出会う。建畠は僕のよく知る人物だ。北村西望と建畠大夢は明治40年、共に上京し、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学する。その建畠大夢のご子息が建畠覚造(彫刻家)である。覚造はイギリスのヘンリー・ムーアの影響を受け、抽象彫刻の道に進んだ。1959年、その覚造が多摩美術大学教授だった時、僕と数回、親しくお話しする機会があった。また、そのご子息(大夢の孫)建畠晢(あきら)は、詩人、美術評論家、国立国際美術館長を経て、2011年より京都市立芸術大学学長である。大学卒業後、新潮社『芸術新潮』の編集者だったこともある。僕とも何回か行動を共にした。そういうわけで近代彫刻と言えば、北村西望・建畠大夢の巨星を見逃してはいけないと肝に銘じている。

 

北村西望は彫刻のみならず、書が気魄に満ち満ちていて素晴らしい。