2011.12.08「清水邦夫の劇世界を探る」を観る
劇作家・清水邦夫さん(右)は、素晴らしい人物で、作品も極めてユニークだ。うれしいことに清水さんと僕は、ある所で毎週、親しくお付き合いする仲である。
・「福田恆存生誕百年記念公演」のお芝居を観た翌週、今度は、現代劇の異才・清水邦夫さんの劇を観るチャンスが訪れた。今年は清水さんの作品が頻繁に上演された。『血の婚礼』、『あなた自身のためのレッスン』、『署名人』等がそうだが、僕は最後にあげた『署名人』を観た。その約一ヵ月前、新聞に多摩美術大学と世田谷文学館の共同研究で『清水邦夫の劇世界を探る』を講演するという告知がなされた。僕はすぐに応募して、抽選の結果運よく当たった。
・その共同研究の幹事役・庄山晃さん(多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科准教授)がパンフレットにこの経緯を書いている。「そもそも共同研究を立ち上げる発端は、演出家の蜷川幸雄氏が昨年、文化勲章を受章された慶事にちなむ。蜷川氏が演出家として衝撃的なデビューを果たしたのは、群衆が長い行列を舞台に連ねている清水邦夫作の戯曲『真情あふるる軽薄さ』であった。それ以後、二人はコンビで車の両輪の如くエネルギッシュに数々の話題作を世に問うてきた。(略)清水邦夫氏は平成6年から平成19年に定年退職されるまで本学の教授を勤められ、在職中には『イエスタデー』、『草の駅』、『破れた魂に侵入』の3篇を卒業公演に書き下ろして下さった。」と語る。
・ここでちょっと脱線する。最近号(2012年1月号)の月刊『清流』だが、「著者に聞く」欄で『蜷川ファミリー』(朝日新聞出版刊)について、ライターの浅野祐子さんが著者・蜷川宏子さんに会って、インタビューしてくれた。この記事で、宏子さんが「私はこれまで『演出家の蜷川幸雄さんの奥様ですか』と声をかけられることが多かったのですが、近頃は若い人から『写真家の蜷川実花ちゃんのお母さんですか』と言われることのほうが増えました……」。そのあとにも面白い文章が続く。この記事を詳しく読みたいという方は、ぜひ月刊『清流』(定価700円)を買って読んでください。
・共同研究の『清水邦夫の劇世界を探る』の第1部は、『署名人』の劇である。これは、清水さんが21歳(1958年)のときの作品だ。早稲田大学三年生の時、夏に実家(新潟県新井市)に帰省した。家の2階で、生水をガブ飲みしながら、腹這いになって書き上げたと伝えられる衝撃的な処女作である。清水さんは幼少から絵画が大好きで最初、文学部美術科に入った。だが、早稲田大学在学中、長兄が学生劇団を主宰していたこともあり、その影響を受け、文学部演劇科に転科した。その転科に際し書いたのが『署名人』である。この作品は雑誌『早稲田演劇』、『テアトロ』と次々に掲載され、倉橋健氏、安部公房氏らの知遇を得る切っ掛けとなった。
・署名人とは、今日、一般的には分からない概念である。新聞雑誌の署名を、大金を受け取って肩代わりし、讒謗律(ざんぼうりつ)に引っかかった場合、監獄に入るのが仕事である。当時、憂国の志士たちは新聞雑誌に政府批判の論文を書いたとしても、発表など一切許されなかった。そこで、論文執筆者の身代わりとなっての入獄を稼業とする便利屋、つまり署名人という下賤なやからが出てくる。讒謗律とは明治8(1875)年、新聞紙条例と共に明治政府によって公布された言論規制法令のこと。著作類により人を讒謗する者を罰する、つまり名誉毀損に対する処罰を定めた法律である。その狙いは自由民権運動などの政府批判の抑圧であった。清水さんは明治時代の歴史を勉強され、その存在をストーリーにしようと、一気に書き上げた。
『署名人』の舞台は明治17年代の国事犯官房の一室。理想の立憲政体を実現しようと自由民権運動に身を捧げた憂国の志士、赤井某(酒向芳)と松田某(平野正人)が舞台に登場する。彼らの権力者暗殺計画は事前に露見し、国事犯として収監されていた。そこに署名人・井崎某(大島宇三郎)が入牢してきたとこらから3人の間に波紋が広がってゆく。やがて命を懸けた激しい葛藤が生まれる。この3人と、典獄(監獄の事務を司る職)の獄吏(囚人を取り扱う役人)2名(田山仁、増田雄)計5名が全登場人物だ。そして、獄吏の猫が木に登って降りられないという事件が起き、それにからんで、2人の脱獄の目的が明らかになってゆく……。
・この劇における個々の人物設定、対立する人間関係、舞台設定、事件の発生と結果、登場人物の心理描写などが見事で、重厚感さえ漂っている。実によくできた芝居であり、これが大学3年生、21歳での処女作とは本当に驚いた。
・『署名人』を観劇した後、共同研究『清水邦夫の劇世界を探る』の記念公演第1弾として、演劇研究者・井上理恵さんの『署名人から始まる清水戯曲の魅力について』を聴かせてもらった。この講演がなかなかよかった。井上さんは、『久保栄の世界』、『近代演劇の扉をあける』、『菊田一夫の仕事』(いずれも社会評論社刊)など精力的に執筆活動をするほか、桐朋短大、白百合女子大などで教壇にも立つ。演劇学会副会長の要職にもある方だ。
・その井上さんの講演を聴いて、「清水戯曲の魅力」がよく分かった。僕はメモを取れないので、覚え間違いもあるかと思うが要点をまとめておきたい。清水作品はまず「タイトル」が斬新。今までの戯曲とは全然違うことに注目したいという。僕も以前からタイトルにインパクトの強さを感じていた。例えば『狂人なおもて往生をとぐ』(1969年)、『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』(1971年)、『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』(1975年)、『わが魂は輝く水なり』(1980年)、『昨日はもっと美しかった』(1982年)、『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』(1982年)、『救いの猫ロリータはいま……』(1985年)、『オフィーリア幻想』(1998年)、『ライフ・ライン(破れた魂に侵入)』(2000年)、『真情あふるる軽薄さ2001』(2001年)……。どのタイトルをとっても、実にユニーク。
・井上理恵さんの講演は1時間ほどだったが、いくつかの解説が耳に残る。例えば、清水邦夫さんが、長兄からシェイクスピアとチェーホフの作品を読めと言われ、この2人から劇作術を学んでいる。また、清水作品の底流には『アリストテレス・詩学』が存在している。そして、『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』(1975年)までが活躍の場は新宿であったが、労演(勤労者演劇協議会)が衰退していくと同時に脱新宿路線を歩まざるを得なかった。世は寺山修司や唐十郎人気に沸いていた。路線変更には塗炭の苦しみを味わった。しかし、結果的に独自路線を切り拓くことになり努力は報われたのである。特に印象深いのは、「殺(ころ)す=将門」のテーマがギリシャ悲劇を意識したということ。僕はこの解説を聴いて、全然違うことを考えていた。ギリシャ悲劇の重要な役目の「コロス」のことだ。能のワキ的な観客の代表としてコロスが存在する……等、井上さんの話に触発され、次々連想が閃いた。
・清水邦夫さんは、大学を出てすぐ岩波映画社に入社。同期だった田原総一朗(2歳年上)さんと知り合う。その結果、二人は共同監督で『愛よよみがえれ』(1967年)という映画を製作した。今、その時のシナリオ『愛よよみがえれ』(栄光社刊)がなんと29800円以上の高値がついている。僕も読みたいのはやまやまだが、この値段では手も出ない。
今週号(2011.12.15)の『週刊文春』に、興味ある記事が出ている。田原総一朗さんのコラム「Close Up」で、1971年に監督した唯一の劇場映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』が、製作から40年の時を経て初のDVD化がなった。その作品は清水邦夫と共同で脚本・監督したATG作品だという。『週刊文春』には、「幻の監督映画が初DVD化」のタイトルがあった。その作品の4年前(1967年)に製作された『愛はよみがえれ』を僕は観たい。これこそ幻の映画であり脚本であろう。
・それはそれとして、清水邦夫さんは、過去、多くの演劇・文学の賞をお取りになった。主だった賞だけを挙げる。「岸田國士戯曲賞」(1974年)、「紀伊國屋演劇賞個人賞」(1976年)、「芸術選奨文部大臣新人賞」(1980年)、「泉鏡花文学賞」(1980年 『わが魂は輝く水なり』)、「読売文学賞」(1983年)、「テアトロ演劇賞」(1990年)、「芸術選奨文部大臣賞<演劇部門>」(1990年)、「芸術選奨文部大臣賞<文学部門>」(1993年)……それから、2002年には「紫綬褒章」を受章。芥川賞候補にも三度ノミネートされている。
こういう素晴らしい方と親しく付き合って、例えば世田谷美術館を訪ね、名画を観たり、美味しいフランス料理を食べて過ごすのが僕の至福の時である。