2012.08.17奥田敏夫さん
奥田敏夫さんと僕。真夏の暑い日、藤木君が撮ってくれた。
・本欄(2005年2月)に過去1度登場された奥田敏夫さんを、再度書かせていただく。彼は都立戸山高校から東京大学文学部を卒業された俊才である。弊社社長の藤木健太郎君とは、ある企画で頻繁に打ち合わせをしている様子。僕は同席する機会があると、奥田さんの話す芸術や出版界のホットな話題に熱くなっている。僕の親友・長島秀吉君が健在だった頃、東京・杉並区方南町の長島葡萄房のコンサートに奥田さんを誘ったことがある。その日、特別出演したピアニストの高橋アキさんと奥田さんが、何やらエリック・サティの話で盛り上がっていた。そこに僕も割り込んで高橋アキさんや兄上の作曲家・ピアニストの高橋悠治氏がなぜエリック・サティの音楽に魅せられるかを訊いてみた。お二人の会話に引き込まれて、思わず質問してしまったのだ。ことほど左様に奥田さんは僕にとって気になる方である。いうなれば幅広いジャンルに通じている真の教養人である。
・奥田敏夫さんに初めて会ったのは2005年1月のこと。当時、僕の恩師・椎名其二先生は知る人ぞ知るで、世間的にはそれほど高名とはいえなかった。ところが椎名先生のことを、奥田さんがご存じだった。これには大いに感心し、感激したものだ。椎名先生のお人柄もその人生哲学的な傾向も、実によく理解しておられた。僕が椎名其二さんを知ったのは学生時代。当時、椎名其二さんは70歳。まだ二十歳前の僕とは50歳以上も離れていた。奥田さんは僕より8歳から9歳ほど若いのに、椎名さんをよくぞ知っていたと思う。椎名さんは滞仏40年、モラリストであり自由人で実に高潔な方であった。東洋の哲人と言われながらパリでルリュール(製本装釘)の仕事をし、かつかつの生活費で暮らしておられた。その椎名さんに、60年安保の前年、椎名さんの故郷・秋田に労働大学を創設する話が持ち上がった。その学長にと白羽の矢がたち、椎名さんはフランス人の妻を離縁して帰国したものの、最終的に労働大学の話は立ち消えとなってしまう。
・当時、大学生だった僕と長島秀吉君は、山内義雄先生(『チボー家の人々』『狭き門』などの翻訳者として有名)の勧めもあって椎名其二さんの元に通い、フランス語や本物のモラリストの生き様を学んだ。椎名さんには不思議な魅力があり、哲学者・森有正、当時新進気鋭の画家・野見山暁治、作家・芹沢光治良、フランス語の泰斗にして翻訳の名手・山内義雄、作家・評論家・山梨県立文学館長・元中央公論社の名編集長・近藤信行、日本ロマン・ロラン協会会長・蜷川譲……こういう著名な方が、親身になってお世話をしていた。否、お世話をしたくならせるのが椎名其二さんという人だった。アミチエ(友情)は大いに受けるが、モノとかカネの援助は要らないのを信条とし、毅然として清貧の道を歩んだ椎名さん。僕と長島君はこの知的巨人に惚れ込んだ。7年前、奥田敏夫さんと初めて会った際、椎名さんのことに触れている野見山暁治さんの『四百字のデッサン』(河出書房新社刊)、『愛と死はパリの果てに』(講談社刊)、『パリ・キュリイ病院』(筑摩書房刊)、森有正さんの『バビロンの流れのほとりにて』『木々は光を浴びて』(各、筑摩書房刊)などを話題にしたが、奥田さんがすでに読んでおられることが分かり、嬉しくて興奮したのを覚えている。
・奥田さんの発言で印象にあるのが、「野見山暁治さんは文化功労章を取っているが、今度は文化勲章を授与されるのではないか」という言葉。弊社刊行の野見山暁治さんの『アトリエ日記』シリーズもすでに『アトリエ日記』(2007年刊)、『続 アトリエ日記』(2009年刊)、『続々 アトリエ日記』(2012年刊)の3冊。文化勲章をいただくことになれば、当然のことながら売れ行きに弾みが出る。僕も奥田さんの意見に同感だったが、結論的に言えば野見山さんは多分断わると思う。勲章を貰って喜ぶ姿は野見山さんらしくない。それより、意気軒昂として新しい世界にチャレンジされるほうが野見山さんらしい。
・昨年10月28日から12月25日まで開催されたブリヂストン美術館の「野見山暁治展」と、2012年5月10日から5月23日まで銀座のナカジマアートで開催された「野見山暁治の墨絵展」を観て、91歳の野見山さんの描くものがどんどん若くなってきている印象を強く受けた。絵画への情熱が衰えることなく、現在も新たな境地を見出すべく活発な創作活動を続けておられる。自ら死ぬ気が一向にしない、と言う力強い言葉も聞いた。ブリヂストン美術館の絵画を観て、あの自由奔放でエネルギーに溢れた絵画世界が形成されていくプロセスと、さらに表現の幅を広げようとする姿勢が素晴らしい。そして、ナカジマアートの「墨絵展」。現代洋画壇の巨匠が描く新作、しかも墨絵である。5月10日、奥田さんを誘って、藤木君、臼井君と僕が野見山さんの「墨絵展」を見に出かけた。小泉淳作さんから譲られた墨を使って、日本画とも洋画ともつかぬ不思議な新境地を紡ぎ出されていた。個展を観た後、銀座の「竹の庵」で一献傾けたが、観てきたばかりの個展をめぐり、侃侃諤諤。至福のひと時だった。
・奥田さんと初めてあった時の肩書は、有限会社「無限」代表取締役とあったが、いまも同じなのかは確かめていない。初めて会った時、約8名のメンバーと月刊『趣味の水墨画』を手掛けているとの話だった。素晴らしい企画でも、この出版不況の下、事業を継続させるのは大変に違いない。そういうのには訳がある。同じ誌名の月刊『趣味の水墨画』(ユーキャン刊)は、書店販売をしていない。通販のみで販売している。『趣味の……』ジャンルは不要不急の時代、苦戦しているが、奥田さんも例外ではないと思う。肩書が変わっていないことを望む。
・以前、奥田敏夫さんは別の会社にいた。野本博君(愛和出版研究所代表取締役)と一緒に(株)エス・プロジェクトという会社で働いていた。それも電子出版「エンカルタ」編集長だったと聞く。当時の事情が分らなかったが、2003年頃、(株)エス・プロジェクトの澤近十九一社長が僕に積極的に近づいてきた。「エンカルタ」を共同プロジェクトでやらないか、というのだ。「二億円出せば成功間違いなし」と言うが、僕は費用がかかるばかりで儲からないし、積算が疑問だと答えた。その後も、澤近さんとは何回も会った。今にして思うのだが、僕は話に乗らないで良かったと思う。その時すでに奥田さんは(株)エス・プロジェクトから離れて有限会社「無限」を立ち上げていた。澤近さんは、かつて平凡社の動物雑誌「アニマ」の編集長をされた。その関係で京都大学、国際日本文化研究センター(日文研)の先生方に滅法強く、業績を上げていたはずだ。だが、現実は厳しい。何時の間にやら優秀な編集者がどんどん辞めていった。いまでは、ご本人も図書出版(株)新樹社の編集長のポストにあるらしい。
・(株)エス・プロジェクトのスタッフで僕が一番買っているのが、西郷容子さんである。噂によると、西郷さんは西郷隆盛の子孫筋。英語が得意で翻訳ものを次々と僕に提案してくれた。国際基督教大学博物館湯浅八郎記念館、(財)日本野鳥の会などで働いた経験があり、翻訳作品には自然と関わりの深いものが多かった。主な訳書に『オーデュボンの自然史』(宝島社刊)、『熱帯林破壊と日本の木材貿易――世界自然保護基金(WWF)レポート』(築地書館刊)、『狼とくらした少女ジュリー』、絵本『ゆめのおはなし』、『レッドウォール伝説』シリーズ(各、徳間書店刊)などがある。自然ものの得難い翻訳の名手だと思う。
・わが清流出版に、西郷容子さんが翻訳出版を提案してくれたのが、ケニーゼ・ムラトの『皇女セルマの遺言』(白須英子訳、上下、2003年刊)、『バダルプルの庭』(井上真希訳、2006年刊)の2冊。オスマン帝国の皇女として生まれ、美貌と知性が讃えられ、インドの藩主に嫁ぎながらも、最後にはフランスで貧困のなかに死んでいったセルマ。一人残された娘ザフルは哀れにも孤児となり、3つの養家に次々と預けらながら、自分の本当の父を探し求め、アイデンティティーを確立しようともがき続けた。中東イスラーム問題の渦中を生きる作家、ケニーゼ・ムラトの壮大な自伝的小説である。この2冊を刊行した後、著者ケニーゼ・ムラトを日本に呼ぼうかというプランもあった。原作がフランス国内で数百万部のベストセラーとなり、1988年の「エル」読者大賞を受賞、23ヵ国語に翻訳されてもいるという話。だが、日本人はこういう異国の自伝的小説には、反応が鈍いと判断し、諦めざるを得なかった。いずれも西郷容子さんが提案されたものだが、お忙しいので、実際の翻訳は他の方に頼み、編集・進行のお手伝いをお願いした。
・奥田敏夫さんにからんで、(株)エス・プロジェクトのことを思い出した。出版不況の折、事態が刻刻移り変わっている。離合集散や合併などが当たり前の業界。幸い弊社の前に倒産が起こることなし。皆さんでこのことを認識して、今ある作業や編集に大いに邁進してほしい。