2014.01.22芳賀綏さん
芳賀綏さんから近著を贈られた。混迷の世、是非読んで欲しい内容だ。
・評論家、東京工業大学名誉教授の芳賀綏(はが・やすし)さんから、近著『日本人らしさの発見――しなやかな〈凹型文化〉を世界に発信する』(大修館書店、定価2000円+税、257ページ)を贈られた。早速、読んで、素晴らしい内容に感銘を受けた。現在、日本は政治から外交、環境、文化……諸々の状況で、危うい岐路に立たされている。そのような混迷の時代を生き抜く意味で、皆さんに是非、お薦めしたい書籍である。早速、ブログで取り上げることにする。なお、この本は芳賀さんが同じ大修館書店から刊行された『日本人らしさの構造――言語文化論講義』(定価2000円+税、322ページ、2004年)と対をなすもので、ほぼ10年がかりで発刊にこぎつけたという。
・本の内容を触れる前に、日本語学者・芳賀綏さんの略歴を簡単に紹介しておきたい。昭和3(1928)年生まれ。北九州市のご出身。昭和28(1953)年、東京大学文学部国文学科卒業。東洋大学・藤女子大学・法政大学各助教授、東京工業大学・静岡県立大学各教授、旧西独ルール大学客員教授を経て、現在、東京工業大学名誉教授。この他、NHK部外解説委員、BRC(放送と人権等権利に関する委員会)委員長代行などを務めたほか、NHK「視点・論点」「ラジオ深夜便」等に出演多数、産経新聞「正論」欄メンバーのほか、活字・電波メディアの評論で活躍中である。
・芳賀さんの著書も紹介しておこう。『日本語の社会心理』(人間の科学社、2007年)、『日本人の表現心理』(中央公論社、1979年)、『言論と日本人――歴史を創った話し手たち』(講談社学術文庫、1999年)、『定本高野辰之』(郷土出版社、2001年)、『売りことば買いことば』(日本経済新聞社、1971年)、『新・売りことば買いことば』(人間の科学社、1994年)、『失言の時代 ことばの十字路』(教育出版、1976年)等、多数ある。
・弊社からも二冊、刊行させていただいている。『威風堂々の指導者たち――昭和人物史に学ぶ』(2008年)と、『昭和人物スケッチ――心に残るあの人あの時』(2004年)である。なにしろ博覧強記のご仁であり、政界、芸能界、角界、ジャーナリズムにと幅広い交際関係をお持ちで、透徹した鋭い観察眼と驚異的な記憶力に裏打ちされた人物論は、他の追随を許さない。イラスト風のスケッチも得意とし、弊社刊行の二冊ともご本人の装画・さし絵付きである。『威風堂々の指導者たち――昭和人物史に学ぶ』は、戦後を貫く政治の大きな流れを描く一方、吉田茂、石橋湛山、三木武夫といった日本を牽引した政治家の知られざるエピソードと、似顔絵等によってその人となりを浮き彫りにする。また、『昭和人物スケッチ――心に残るあの人あの時』は昭和の“人間山脈”を、希代の筆致で見事にスケッチして見せる。まさに“人間山脈”という名に恥じない登場人物で、ジャンルとしては三つに分けられる。福田赳夫、海部俊樹、中川一郎といった政治家たち、田中絹代、杉村春子、森繁久彌といった芸能人、宮本常一、阿川弘之、臼井吉見など言論人といった色分けで、実に多士済々である。添えられた似顔絵も、プロのイラストレーター顔負けで、それぞれの特長を過不足なく捉えていて文句なしの傑作だ。これだけでも楽しめるほど。
・さて、最新刊『日本人らしさの発見――しなやかな〈凹型文化〉を世界に発信する』の内容に触れるが、基本的には、日本人にお馴染みの「和を以て貴しとなす」〈凹型文化〉を世界に広めていくことの重要性を説いている。そもそも対をなすこの二冊の本を刊行するきっかけとなった論稿があるという。それは、文化人類学者・石田英一郎博士の『自由』、『中央公論』各誌上(1961年)に発表した論稿で、芳賀さんは一読、この考え方に触発された。芳賀さんご自身の日本文化論、比較文化論的日本人論の原点になったとまで書いている。
・芳賀さんが石田英一郎博士から学んだという核心を次に掲げる。(1)日本人のコア・パーソナリティと見るべきものは、遅くとも弥生時代の稲作農耕民の間には形成されて永続してきた、(2)グローバルに見渡すと、牧畜の長い伝統を有する文化圏と日本は隔絶して異質の文化圏を形成しており、そこに日本の特性がある、とした考え方であった。(1)を主眼として日本文化の内部を照射したのが前著『日本人らしさの構造』であり、新著では(2)に軸足を置いて、地球上に分布する牧畜主体の凸型文化圏と日本が属する農耕主体の凹型文化圏の多面的・重層的な比較をしたものだ。多様な具体例を駆使して縦横に論を展開して、そこから”日本人らしさ”を浮き彫りにしようとしている。
・攻撃・征服を当然のこととする凸型民族、とりわけ白人諸民族は、自己の文化的所産というべきものを後進諸国に押し付けるように広めてきた。西欧文明の物的側面である科学技術は、結果的に大きな問題を引き起こすことになった。すなわち、環境破壊、ひいては人間を含む自然界の生命の危機に陥ったのである。地球生命科学・深海生物学などの立場から、有限の地球システムを維持するためにはどうすればいいのか。淡泊で控えめであった凹型国家日本は、先進国の一員でありながら、世界の脇役に位置し続けてきた。しかし、ことここに至って、人類中心の視点から人間も自然の一要素という考えに立ち還って考えざるを得なくなった。
・八百万の神々を信奉し、自然と共に生きてきた日本人。人間も自然の一要素という考え方こそ、日本人本来の自然観・宇宙観そのものではないか。アニミズムの伝統の息づく日本人こそ、今世界からもっとも待望されているというのである。「愛でる」「いつくしむ」「思いやる」……日本人の細やかなる心遣い、繊細な意識の素晴らしさは、自他を対立と捉えるのではなく、自他を一体感として捉える考え方にある。芳賀さんは、世界史の転換点ともなる今世紀、凹型日本文化は脇役に甘んずることなく、主役としてその美風を世界に発信して、地球と人類の生命を守る新文明を創出すべき使命があると説く。僕もこの論稿には大賛成だ。是非、次代を担う若い世代の人々にも読んでいただき、地球存亡の危機を日本人主導で堂々と乗り切って欲しいと念願している。
・僕が芳賀さんと知り合ったのは、今からほぼ40年前のことになる。芳賀さんが旧西独ルール大学客員教授だった頃、僕はダイヤモンド社で創刊間もないマイナー雑誌の編集者をしていた。その雑誌に、「今遠く日本を離れて、日本の政治状況はどのような問題があるか、率直に書いてくださいませんか」と原稿依頼をしたのだった。面識があったわけでもなく、創刊したばかりの無名の雑誌である。多分、断られると覚悟していたのだが、芳賀さんは快く引き受けてくださった。独自の視点から日本の政治状況を抉ったタイムリーな原稿を、掲載することができた。
・芳賀さんに協力していただいた企画が、もう一つある。芳賀さんと知り合った頃、僕が発案した企画がある。『情報源に強くなる』というムック本がそれだ。今でいう『マスコミ電話帳』の原型といったら分かりやすいだろう。ビジネスジャンルを中心に、3000人の住所、連絡先、学歴、著書、所属学会、研究テーマ等のプロフィールなど、個人情報を入れた情報源であった。幅広く日本の状況を鑑みて、ビズネス・ジャーナリズム、政治、経済、社会、経営一般、国際経営、法律、教育、人事・組織・管理、労働・労務、情報管理、マーケティング、会計・経理、コンピュータ、生産管理、行動科学・心理学、理学、工学、農学、薬学・医学、哲学、マスコミ論、科学・技術評論、ルポライター、イラストレーター、写真家、文化人、作家・評論家など28ジャンルに分けた。それぞれの分野でブレーンとなる方々をピックアップし、一冊にまとめあげたのだ。このメタ情報は都合三回ほど発行したが、僕の手元に残っているのは、最後の刊行となった『1980年版 情報源に強くなる本――あなたのブレーン3000人』(週刊ダイヤモンド別冊、1980年)しかない。
・最後となったこのメタ情報誌の「政治」欄を見ると芳賀さんの名前もある。その中で芳賀さんは、専攻分野として「日本の政党、政治文化」、今後1年間の研究テーマとして「日本人の政治心理、日本人の言語」、所属団体として「日本社会心理学会、日本記者クラブ」と書いている。また、趣味欄には「旅行、写真、相撲」とお書きになっている。このメタ情報誌を完成した後、僕はやっと念願だった出版局に人事異動することができた。長年、経済畑の記者・編集者として雑誌部門と離れられなかったが、夢が叶って出版局に異動し、単行本のジャンルに挑戦することになったのだ。その意味では僕の人生にとって最後の記念すべきムックとなった。年齢も40歳になっていた。
・芳賀さんは博学の上、無類の記憶力の持ち主でもある。あまりの詳細な情報力に唖然とさせられることも度々であった。例えば、大相撲の話である。笠置山という相撲取りがいた。笠置山の息子さんと僕は高校の時、同級生だった。そこで、話題として出したところ、芳賀さんにかかれば、笠置山のデータベースがすでに頭の中にあって、たちどころにこんなエピソードを引っ張り出してきた。笠置山は理論派として知られ、早稲田大学を卒業したインテリだった。だからといって、早稲田大学の相撲部に所属したことはない。大学相撲には一切関わらなかった。双葉山を破ったら、それを花道に引退しようとしていたともいう。とにかく、へたな大相撲解説者以上に詳しい。僕がかつて月刊『レアリテ』誌でドイツ文学者、評論家、随筆家だった高橋義孝さんの編集担当を務めたことがある。その高橋さんは横綱審議会委員長として素晴らしい識見と幅広い知識の持ち主だったが、芳賀さんも高橋さんに比肩する才の持ち主である。
・また、芳賀さんの話がプロ野球草創期に転じたことがある。1950年、日本職業野球連盟は大地殻変動により、12球団がセパ両リーグ6球団ずつに分裂した。その時の、阪神タイガーズと大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)との因縁話を微に入り細を穿つように語った。いまや当時のことなど、事情通でも記憶が曖昧になっているはず。ところが、芳賀さんのデータベースに不可能はない。名実ともに巨人と対等の強豪だった阪神が、セパ両リーグに分かれるとき、主力を新球団大毎オリオンズにひき抜かれたというのだ。1番 金田、2番 呉、3番 別当、4番 藤村、5番 土井垣、6番 本堂、7番 大館、8番 長谷川、これは当時ダイナマイト打線と呼称され、巨人と何ら遜色のないオーダーだった。ところが阪神タイガーズに残留したのは金田、藤村だけで、大エース若林まで引き抜かれてしまう。この被害の甚大さは、大毎オリオンズが第一回の日本シリーズの覇者になったことで証明される。このように立板に水のごとく解説し、昨日あったことのように鮮やかな印象で語る。総じて、プロ野球の細部のことに関しては、芳賀さんの話を聞いて、うなずかされることが多かった。
・芳賀さんの話で、僕が一番関心あったのは、文部省尋常小学校唱歌のジャンルである。数々の唱歌・童謡を手掛けた作詞家の高野辰之のことは、芳賀さんが監修した大型本『定本 高野辰之』(郷土出版社)の本に詳しい。長野県出身の国文学者・高野辰之は、「春の小川」「故郷(ふるさと)」「朧(おぼろ)月夜」「春が来た」「もみじ」などの歌を作詞したほか、専修大学、松本商業学校(現松商学園高校)校歌をはじめ、100近い学校の校歌の作詞も手掛けた人物である。聞くと、芳賀さんの奥様(文子様)の祖父に当たるという。大型本『定本 高野辰之』は、現在、図書館でしか見ることができない。だが、デイサービス(老人福祉施設・通所介護事業)では、老人たちが喜びそうなことをいろいろ催すが、これら高野辰之をはじめとする唱歌がもっとも人気があるという。