2014.10.16櫻井友紀さん
櫻井友紀さんと僕。新世界飯店にて。(撮影:臼井雅観)
櫻井友紀さんと斉藤勝義さんと僕。
・櫻井友紀さんが来社された。実は臼井雅観君から櫻井さんの近況を聞いて、会いたくなったのだ。臼井君は柏在住で、櫻井さんが流山。住まいも近く、交流もあったようだ。そこで久し振り、一緒にお昼ご飯でもとなった。櫻井さんとは、僕が元気だった頃に会って以来、しばらく会っていなかった。会うなり櫻井さんが言った言葉は、僕の印象が随分変わったということ。太って、脂ぎっていたあの頃の僕と、現在とを見比べれば、それは当然、違っているはずだ。随分、顔が細くなったらしい。自分では意識していないが、多分そうなのだろう。酒好きの僕だが、櫻井さんも呑兵衛らしいので相性はピッタリ。昼食時に焼酎を一杯飲んで、また会社に戻ってから、美味しいワインで乾杯することになった。外国版権担当顧問の斉藤勝義さん、臼井雅観君、社長の藤木健太郎君も加わった。旧交を温めると共に、談論風発する楽しい場となった。
・櫻井さんは弊社から『ルンルン海外透析旅行――透析患者だって旅に出る』(2002年)を刊行させてもらった著者である。今年、最愛のご主人を亡くされ、失意のどん底にあったが、持ち前の前向き精神で立ち直りつつある。絵筆をとって好きな絵も描き始めている。弊社で刊行した『ルンルン海外透析旅行――透析患者だって旅に出る』は、透析患者であったご主人と海外旅行を楽しんだ、その体験談である。夫婦でアメリカ旅行、ヨーロッパ旅行と世界を旅してきたが、透析の病院を予約しての旅だから大変である。ハプニングも続出する。海外の病院とは、電話とファックスで予約を取ってあっても、先方の手違いで予約がなされていないこともあった。1日置きの透析ができなければ、死と直結してしまう。そんなハプニングも持ち前の行動力で、切り抜けてきた。実際、何度も死を覚悟した、そんな場面もあったという。腹の座り方が、このご夫婦の場合凄かった。特に櫻井さんは、体は小柄だが肝っ玉は大きい。
・先日、櫻井さんは、つくば市にある櫻井家の菩提寺「普門寺」住職から依頼され、80人ほどを前に講演をしてきたという。テーマは『放浪の自分史とブラジル』だったそうだ。そう、櫻井さんはブラジルを放浪した体験がある。28歳の時である。お金をセーブするために、船旅で地球を半周してブラジルに辿り着き、実に2年半もの長きに亘ってブラジル放浪をしたのである。20代、女性の一人旅である。男でも躊躇しそうな広大なブラジルの地、ある意味、危険と隣り合わせの未知の旅である。どう生きるか、という自分探しの旅でもあったというが、素晴らしい行動力である。ブラジルから帰った櫻井さんは、その後イギリスに渡って、ロンドンで1年ほど過ごしている。ちなみに櫻井さんの学歴を尋ねると、名門の都立日比谷高校出である。同級生には芥川賞作家となった古井由吉がいる。当時は日比谷高校がトップで、今をときめく私立開成高校は滑り止めで、一段ランクが低い時代であった。
・櫻井さんは今年、ブラジルでお世話になった方々への恩返しも兼ね、小説仕立ての原稿を書き上げた。依頼されて臼井君もこの小説を読んで、全体構成についてアドバイスをしたという。この作品を締切ギリギリで『小説すばる』新人賞に応募したが、惜しくも受賞は逃した。しかし、ブラジル放浪の旅で、沢山の日本人、日系人に会い、勝ち組、負け組の諍いなどを取材して、書きたいテーマには事欠かない。単行本化を目指して、新たに書き進めたいという。また、ニューギニア日本兵の兵站史も編集担当して刊行されたことがある櫻井さん、父君が送られた戦場でもあり、この悲惨な戦禍の顛末を書き残したいという。5000キロもの彼方のニューギニアがなぜ戦場になったのか、いろいろ疑問が湧いてきて、自分なりに調べて書き加えたいという。戦死者から託された熱い思い、また、日記など多くの資料が残されている。兵站史の全体構成を見直し、新たな事実を書きくわえて、後世に残したいという。この旺盛な執筆欲、大いに楽しみである。
・それにしても今回、久し振りで櫻井さんと会って、共通の知り合いがいて話題が繋がり、お互い世間の狭さを痛感させられた。例えば、菅原佳子さんというベテランライターに創刊直後から手伝って頂いていたが、この菅原さんと櫻井さんがごく親しい間柄だった。二人揃って、清流出版へ来社されたこともある。また、かつて古満君が担当したねじめ正一さんの新刊『老後は夫婦の壁のぼり』(2006年)のサイン会が吉祥寺の弘栄堂書店で行なわれた。その際、菅原さんが長い行列に並んでくださった。有難いことだった。かつて藤木君は、菅原さんと一緒に取材することが多く、そういう時、テーマとか取材先とかをめぐり論争し、反発しながらもより良い仕事を目指したと言う。藤木君は菅原さんをいわば戦友として懐かしがっていた。
・また、僕の学生時代からの知人に青木画廊の青木外司さんがいるが、櫻井さんもこの青木さんと親しいという。青木さん(89歳)も櫻井さん(77歳)も丑年生まれ。丑年生まれの集まり「ウッシッシの会」というのがあり、主な会員は画商仲間らしいが、櫻井さんはそこにオープン参加しているという。絵を見てもらいによく行っているらしい。早速、清流出版の応接室で、櫻井さんはご自分の携帯電話を駆使しながら、青木さんへ連絡された。「今、どこにいると思いますか?」と言った櫻井さんが「加登屋さんと清流出版にいま―す」。この電光石火の早業にビックリした。この積極的な行動が櫻井さんの取り柄だ。おかげで僕も青木さんと久しぶりにお話しできた。
・神田西小学校というのが櫻井さんの母校。すでに廃校になり、現在は官僚用のマンションになっているらしいが、神田神保町界隈は箱庭のようなもの。実際、昼食を一緒に摂ろうと中華料理店まで歩いたのだが、突然、神田神保町の陽明堂武道具店に入って行った。経営者の種井さんとは小学校時代からの友人だという。軽口を叩き合う親しい間柄のようだ。元々、櫻井さんは愛嬌があるので、人に好かれる。旅行作家協会に所属しているが、会長だった故・斎藤茂太さんに随分可愛がられたという。新世界飯店でお昼を食べたのだが、この店の創業社長(中国の浙江省寧波《ニンポー》出身)とは知り合いだという。流石に神田神保町界隈は詳しい。健康の秘訣は水泳。毎週1回、先生について習っているとか。西山さんというコーチのファンが集い、1時間で4種目を習っている。毎年11月上旬、全国年齢別水泳競技大会(いわゆるマスターズ水泳大会)が開催されるが、その大会に出場予定という。4種目すべて泳ぐメドレーで挑戦するというから恐れ入る。
・櫻井友紀さんと言えば、親戚筋に当たる櫻井書店のことが忘れられない。この出版社は、『出版の意気地―櫻井均と櫻井書店の昭和』(櫻井毅著、西田書店、2005年)によると、戦争の最中、情報局の指導や圧力に逆らってまで、一貫して出版の自由を愛し、守り、戦後もなお、その情熱を燃やし続けた。その櫻井書店の経営者こそ櫻井均氏であった。その出版に意気地をかけた生涯に、ご子息である著者(元武蔵大学学長、武蔵大学名誉教授)が迫って、本にされたものだ。この方と、櫻井友紀さんは、年が6歳ほど離れているが、近い親戚だと思う。こうした立派な版元には、もっと頑張ってもらいたいが、現実は厳しい。ともかく出版業はマンガ以外、軒並み苦戦している。櫻井書店のこともさることながら、僕は大学生時代、神田の古本屋で買い求めて、大切にしていた本があった。櫻井書店から刊行された『年を歴た鰐の話』(レオポール・ショヴォ作、山本夏彦訳、昭和16年)である。
・山本夏彦さんは24歳のときにフランス寓話『年を歴た鰐の話』の翻訳で文壇デビューされた。その後、僕がダイヤモンド社の社員時代、すぐ近くに在った山本夏彦さんが経営していた工作社(月刊誌『室内』を発行していた)を訪れ、当時、暇にまかせて何時間でも四方山話をしたものだ。そのうちに2、3年経ち、夏彦さんのコラムや意見が名文の評判が呼び、様々な週刊誌、月刊誌に引っ張りだこになった。今度は、会う機会が限られる。そうした中で、僕が持っていた夏彦さんの処女出版本『年を歴た鰐の話』を持ってゆくと、山本さんが喜んでサインしてくれた。だが、今この本をいくら探しても見当たらない。何回も引っ越し、その度、蔵書が多過ぎて処分せざるを得ず、古本屋に引きとってもらった。その際、間違って出してしまったのかも知れない。とても残念である。夏彦さんも財産を残してくれた。弊社から刊行され、ベストセラーになった『昭和恋々――あのころ、こんな暮らしがあった』(久世光彦・山本夏彦共著、清流出版、1998年)である。弊社で増刷を重ねた上に、文春文庫から文庫判として刊行された。夏彦翁には様々な意味で感謝している。櫻井友紀さんの『ルンルン海外透析旅行――透析患者だって旅に出る』が刊行されたのが、2002年秋、ちょうど山本夏彦さんがお亡くなると同じ頃であった。僕の気持ちとしては、山本夏彦さんから櫻井友紀さんへバトンタッチされたようで、不思議な縁を感じている。櫻井さん、これからもよろしくお願いします。
櫻井友紀さんの著書『ルンルン海外透析旅行――透析患者だって旅に出る』