2017.04.26渡部昇一さん

・保守派の論客として知られた英語学者・評論家・上智大名誉教授の渡部昇一(わたなべ・しょういち)さんが、心不全のため、この4月17日に亡くなった。享年86だった。お年を召してはいたが、天皇陛下の生前退位を巡る有識者会議のメンバーとして発言されたり、お元気そうだったので僕はこの訃報にショックを受けた。僕の古巣ダイヤモンド社で、月刊誌のため数回会った。清流出版では直接、姿を拝見したのは、ビジネス茶を提唱した荒井宗羅さんの著による『和ごころで磨く』(1997年6月刊)を弊社から出させていただいたとき、出版記念パーティにゲストとしていらっしゃっていた。以来、また渡部さんと僕の付き合いが始まった。実際は金井雅行君が担当で、毎回の連載は順調であった。僕の知っている渡部さんの家は練馬区関町南だったが、金井君の話だと、2007年からは杉並区善福寺の所へ引っ越しされたそうだ。その庭に素晴らしい鯉を何匹も買っていた。渡部さんは、専門は英語学者であったが、保守本流としての歴史論、政治・社会評論活動には目を見張るものがあった。こうした評論については、保守系オピニオン系雑誌である『正論』や『諸君!』『WiLL』『voice』『致知』などのメディアへの寄稿が多かった。

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大ベストセラーとなった『知的生活の方法』(講談社刊)

・僕は渡部さんの日本の近現代史の見直し論や、歴史認識問題への発言に注目していた。物議をかもしだした発言が多い中でも、特に記憶に残るのは、盧溝橋事件は中国共産党の陰謀であるとし、戦前の学校で習った歴史の見方の方が正しかったと主張していた。また、南京大虐殺に関し、「ゲリラの捕虜などを残虐に殺してしまったことがあったのではないか、こういうゲリラに対する報復は世界史的に見て非常に残虐になりがちだ」と殺害事実は認めたものの、「ゲリラは一般市民を装った便衣兵であり、捕虜は正式なリーダーのもとに降伏しなければ捕虜とは認められない。虐殺といえるのは被害者が一般市民となった場合であり、その被害者は約40から50名。ゆえに組織的な虐殺とはいえない」とし、虐殺行為は無かったと結論づけていた。

    慰安婦問題にも言及している。朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治の偽証を朝日新聞が何度も取り上げたこと、中大・吉見義明教授の慰安婦問題捏造報道、日本の弁護士の日本政府への訴訟、日本政府の安易な謝罪などが重なったことが原因で騒動になったものであり、国家による強制や強制連行はなく、捏造であることが証明されていると主張した。これには後日談があり、2007年、アメリカ合衆国下院による慰安婦に対する 日本政府の謝罪を求める対日非難決議案(アメリカ合衆国下121号決議)に対して、日本文化チャンネル桜社長(当時)の水島総が代表を務める「慰安婦問題の歴史的真実を求める会」が作成した抗議書に賛同者の一人として署名している。

・渡部さんは、1930年、山形県鶴岡市の生まれ。上智大学大学院西洋文化研究科修士課程を経て、ドイツのミュンスター大学(ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学)大学院博士課程を修了している。専攻は英語文法史であった。1975年に刊行のウォルポール時代のイギリスを例に取りつつ、政治的腐敗が必ずしも国民の不利益につながらないことを明らかにした『腐敗の時代』(PHP研究所刊)で日本エッセイストクラブ賞を受賞。また、1976年に出版された、読書を中心にした内面の充実を求める生活を実践してきたことを背景に、さまざまなヒントとアイデアを示した『知的生活の方法』(講談社刊)が大ベストセラーとなった。

    この本の発行部数はなんと累計118万部ということで、講談社現代新書シリーズの最大ヒット作だったという。また、大島淳一というペンネームで、ジョセフ・マーフィーの成功哲学を日本に紹介したことでも知られる。主なるジョセフ・マーフィーの訳書には、『マーフィー100の成功法則 』『マーフィー 眠りながら巨富を得る―あなたをどんどん豊かにする「お金と心の法則」』『眠りながら成功する―自己暗示と潜在意識の活用』(いずれも知的生きかた文庫刊)などがある。

 交友関係では、堺屋太一・竹村健一の両氏とは交流が深く、3人で講演会を催したり共著を出版したり、『三ピン鼎談 平成日本の行方を読む』(1990年2月、太陽企画出版刊)を刊行したこともある。また、谷沢永一氏とは共に蔵書家であり、思想的に共感できることが多かったこともあり、多くの共著を出している。渡部さんはテレビでもよくお顔を拝見した。竹村健一氏との掛け合いは面白かった。「竹村健一の世相を斬る」(フジテレビ)にゲスト出演していたのが懐かしく思い出される。また、自身の番組、石原慎太郎、加藤寛、田久保忠衛、岡崎久彦といった著名人を招いての対談番組「渡部昇一の新世紀歓談」(テレビ東京)、渡部昇一の「大道無門」(日本文化チャンネル桜)もやはり対談番組で、各界の著名人を招き、歴史、政治、時事問題などを語り合うホスト役を務めておられた。

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『ワタナベ家のちょっと過剰な人びと』(海竜社)

・渡部さんは、若い頃から音楽に深い関心はなかったようだが、夫人が桐朋学園音楽科の1期生でピアニストだったこともあり、3人のお子さんが全員音楽家となっている。クラシック音楽ファンの僕には、羨ましい限りの家庭環境だ。『ワタナベ家のちょっと過剰な人びと』(2013年2月、海竜社刊)という本がある。著者の渡部玄一さんはチェリストで、渡部昇一さんのご長男だ。母親がピアニストで姉もピアニスト。弟はヴァイオリニストという家族の来し方が描かれている。玄一さんは、桐朋学園大学を卒業し、同校研究科を卒業後、1993年、米国ニューヨークのジュリアード音楽院を卒業したエリートである。

 その本によれば、渡部さんは、子どもたちに幼い頃より独特な教育を課していたらしい。一日一つの『論語』を学ぶ、百人一首の暗記、縄跳びと、始めたら一日も欠かさず続けさせられたという。そのお陰で、毎日、必ずやり切る! というパワーを叩き込まれ、どんな厳しいレッスンにもめげることなく果敢に挑戦することができたと玄一さんは述懐している。家族五人でのエディンバラでの生活は愛に満ち、家族の絆を強くしたようだ。そんな家族愛を証明するかのように、渡部昇一、渡部玄一両氏の共著で交互にエッセイを綴った『音楽のある知的生活』(PHPエル新書刊、2002年)も出している。

・該博な知識の持ち主であり、個人の蔵書では群を抜く充実ぶりでも知られた。その蔵書数は実に14万冊を超えるというから半端ではない。渡部さんは、古書の蒐集家でもあり、専門の英語学関係の洋書だけでも約1万点を所有していた。その蔵書目録だけでもA4判600ページにも及んだという。1963年、愛書家で、本のコレクターであることを原則に発足した“国際ビブリオフィル協会”があるが、1999年に日本でこの大会が開催されたのを機に、渡部さんが会長となり“日本ビブリオフィル協会”を発足させている。

 本の買い方も豪快そのものだったようだ。『知的生活の方法』の印税で懐が温かだった渡部さんは、エディンバラに滞在していた時、オークションでトラック1台分の希少本を落札したという。自宅に書庫を増設したが、居住空間を侵され始めた夫人が、「ウチには『本権』はあるのに、『人権』はないのですか!」と反対したという逸話も残されている。ちなみに蔵書数でいえば、井上ひさしさんや阪神大震災前の谷沢永一さんの蔵書は20万冊、立花隆さんは10万冊、丸山眞男さんは3万冊ともいわれている。

 日本ビブリオフィル協会会長は稀覯本コレクターで知られる渡部さんにピッタリのジャンルだが、その他に務めていた主な役職としては、インド親善協会理事長、日本財団理事、グレイトブリテン・ササカワ財団(日本財団のイギリスにおける機関)理事、野間教育財団理事、イオングループ環境財団評議員、エンゼル財団理事、「日本教育再生機構」顧問等があり、実に多岐にわたって活躍されていたことがわかる。2015年には、瑞宝中綬章を受章している。

・最後に渡部昇一さんの盟友宮崎正弘さんの弔辞から抜粋してご紹介したい。渡部さんの情の深い人間的な温もりが伝わってくる見事な弔辞である。

【振り返れば、初対面は四半世紀以上前、竹村健一氏のラジオ番組の控室だった。文化放送で「竹村健一『世相を切る』ハロー」という30分番組で、竹村さんは1ヶ月分をまとめて収録するので、スタジオには30分ごとに4人のゲストが待機するシステム、いかにも超多忙「電波怪獣」といわれた竹村さんらしいやり方だった。ある日、呼ばれて行くと、控え室で渡部氏と会った。何を喋ったか記憶はないが、英語の原書を読んでいた。僅か十分とかの待機時間を、原書と向き合って過ごす人は、この人の他に村松剛氏しか知らない。学問への取り組みが違うのである。そういえば、氏のメインは英語学で、『諸君!』誌上で英語教育論争を展開されていた頃だったか。

 その後、いろいろな場所でお目にかかり、世間話をしたが、つねに鋭角的な問題意識を携え、話題の広がりは世界的であり、歴史的であり現代から中世に、あるいは古代に遡及する、その話術はしかも山形弁訛りなので愛嬌を感じたものだった。近年は桜チャンネルの渡部昇一コーナー「大道無門」という番組があって、数回ゲスト出演したが、これも一日で二回分を収録する。休憩時に、氏はネクタイを交換した。意外に、そういうことにも気を遣う人だった。そして石平氏との結婚披露宴では、主賓挨拶、ゲストの祝辞の後、歌合戦に移るや、渡部さんは自ら登壇すると言い、ドイツ語の歌を(きっとお祝いの歌だったのだろう)を朗々と歌われた。芸達者という側面を知った。情の深い人だった。

 最後にお目にかかったのは、ことしの山本七平授賞式のパーティだったが、氏は審査委員長で、無理をおして車椅子での出席だった。「おや、具体でも悪いのですか」と、愚かな質問を発してしまった。

 訃報に接して、じつは最も印象的に思い出した氏との会話は、三島由紀夫に関してなのである。三島事件のとき、渡部さんはドイツ滞在中だった。驚天動地の驚きとともに、三島さんがじつに偉大な日本人であったことを自覚した瞬間でもあった、と語り出したのだ。渡部さんが三島に関しての文章を書かれたのを見たことがなかったので、意外な感想にちょっと驚いた記憶がふっと蘇った。三島論に夢中となって、「憂国忌」への登壇を依頼することを忘れていた。合掌。】