2017.05.26鈴木秀子さん
・僕が敬愛する鈴木秀子(シスター鈴木)さんには、まだ一度しかお会いしたことはない。弊社から『「こころの目」で見る』(2004年刊)を発刊させていただいた際、ご挨拶を交わしただけだ。しかし、そのときのインパクトは、僕の心に強く焼き付いている。明るく軽やかで、少女のような愛らしさがあった。ニコニコと笑顔を絶やさず、人の心を和ませるオーラが出ていた。そんなシスター鈴木の書いた本である。この本の要諦は、モノやお金にこだわっている限り、本当の幸せは手にできない、ということ。「こころの目」で見ることとは、見えない世界に目を向けることである。そしてその見えない世界にこそ大切なものが隠されている。つまり「肝心なことは、目に見えない」ということなのだ。
「肝心なことは、目に見えないんだよ」の言葉は、フランスの作家で飛行士でもあったサン=テグジュペリの書いた『星の王子さま』の一節にある。『星の王子さま』は児童文学であるが、大人向けのメッセージに満ち溢れている。目に見えるものが必ずしも真実とはいえず、心の目で見ること、子供のように曇りのない目で見ることの大切さなど、教えが随所に散りばめられている。人は、正しくものを見ているようでいて、自分にとって損か得かという自己中心的で自分勝手な見方でしか物事を見ていないことが多い。だから、往々にして何が本当で何が偽りなのかを見極めることができないのだ。
・現代社会に生きる私達は、目に見えるものばかりに心を奪われ、数値ばかりを追い求めてきた。その典型が経済至上主義の考え方である。その結果、大切なものを見失い、目に見えない多くのものに支えられていることに気付かない。今こそ、物質的な豊かさではなく、心の豊かさ、心の糧を大切にすべき時期にきている。そして、一人ひとりが、物事の本質、真実の姿、本当に大切なものを見つけていかなければならない。そのためには、純真な心と真実を見定める智慧の眼が必要となるのだ。
『「こころの目」で見る』に挿入された例話が素晴らしい。例えば、森鷗外の傑作に数えられる『じいさんばあさん』という短編小説がある。老夫婦の「互いへの敬意と自立」がよく描かれている。人を殺めて流刑の身となった72歳の夫・伊織が、37年ぶりに「永の御預御免」となって江戸に帰ることになり、71歳の妻「るん」に再会する。流れた37年という歳月は、「あの二人は隔てのない礼儀があって、夫婦にしては少し遠慮をしすぎているようだ」という言葉に表れている。シスター鈴木は、この1行には、読み返すたびに強く心を打たれると書いている。武士として、武士の妻として、一生礼儀をわきまえて生きてきた人の、磨きあげられた輝きが感じ取れるというのだ。高齢社会を迎えた日本では、夫婦の自立が求められる。多くの日本人夫婦の場合は、男性の自立が問題なのだという。その意味でこの小説の夫婦は見事なまでに自立していて、感動を覚える。顧みて、僕も、妻に依存し過ぎのきらいがあり、反省をさせらた小説であった。
また、「幸田露伴が中国の古書『陰隲録』(いんしつろく)から学んだ大切なこと」の挿話を挙げている。『陰隲録』とは、明代、呉江の人で、嘉靖年間から万暦年間を生きて、74歳で亡くなった袁了凡(えん・りょうぼん)が自己の宿命観を乗り越えて、自ら運命を創造してゆくことを悟った、その顛末を書いた本である。人生には、宿命、運命、立命があり、いかにして宿命から脱し、自らの運命に立ち向かい、さらに自ら立命となすのか、シスター鈴木は平易な文章で解説している。僕がまったく知らなかった話であり、とても興味深く読んだ。人生は宿命論だとするならば、どうあがこうと、あらかじめ路線は決まっている。しかし、自らの意志で人生を創造でき、立命に至ることができる、となれば話は違ってくる。例話の袁了凡は、自らの人生を創造し、立命に至っている。そういった元気が出るような例話が、この本には散りばめられている。是非、手に取って欲しい本である。
・ここで、簡単にシスター鈴木のプロフィールに触れておく。1932年、静岡県の生まれ。聖心女子大学文学部を経て、東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。文学博士。聖心女子大学文学部教授(日本近代文学専攻)を経て、国際コミュニオン学会名誉会長。聖心会会員。日本に初めてエニアグラムを紹介した、その道の第一人者である。
シスター鈴木の最新刊『わたしの心が晴れる』(七つの森書館刊、2017年3月)では、見えない世界について触れている。それによれば、命というものは平等に与えられ、しかもすべての命が深いところでつながっている。その命というのは、人間だけに留まらず、生物、動植物から、生きとし生けるもの、そして地球(ガイア)、宇宙まで、すべてを含めてだという。これこそが、「目に見えない世界」の根本原理である。シスター鈴木によれば、大切なことは、見えない世界と見える世界との関係をきちんと理解し、しっかり根を張った上で、見える世界で各人が個性を発揮し、活躍することが望まれている。仮に、見える世界だけに気を取られ、地位や財力を最優先した行動を取れば、人を蹴落とすような醜い争いばかりになりかねないというのだ。
シスター鈴木の“幸せ観”とは、他の人や、生き物と、深い絆で結ばれていることを実感できるときという。すべての人たち、動物、草花、命あるすべてのものとの共通点は何か、それは、みんな一つの願いで生きていること。すべて命あるものが「幸せになりたい」との願いをもって生きているのである。では、幸せになるにはどうすればいいのか。まず、自分を愛することが第一番だと説く。自分を受け入れ、愛している人からは、気持ちの良い波動が出ているもの。良い波動の人のそばにいれば気持ちがいいし、悪い波動の人のそばにいれば居心地が悪い。だから自分を許せない人は、まず自分を許すことから始めればよい。それができれば、放射される波動も良くなり、黙っていても周りの人と調和できるようになる。自らが幸せになることが、周りの人々を幸せにする第一歩なのだ。シスター鈴木のいう意味は、僕もこれまで多くの著名人に会ってきた経験から、実感としてこれは理解できる。良い波動の出ている人のそばにいれば触発されるし、確かに気持ちがいいものなのだ。
・人間という宝石箱には必ず宝石が入っている、とシスター鈴木はいう。外側ばかり見ていると、自分の魅力に気づかない。宝石箱とは誰にも等しく与えられた魂であり、この魂によって、存分に自分の命を輝かせていく。それがこの世に生まれてきた人間すべての使命だという。現在、悩みや苦しみにある人には、理解しにくいかもしれない。しかし、現状は現状として受け入れ、目の前にあるものから楽しみを見出そうとすれば、必ず見つかるはずだという。
目が覚めてみてありがたい。ご飯が食べられてありがたい。命があってありがたい。このような当たり前のことを、奇跡のように有難いことだと気づくことができれば、自分が今、悩んだり苦しんだりしていることが幻想であったとわかる。僕は人生とは苦しみや悲しみを乗り越えるため、自分を厳しく鍛錬するため、と思っていた時期があるが、シスター鈴木は、それは違うという。まさに人生は楽しむために与えられているのであり、その時その時、より楽しんだ人生こそ、よい人生となり得るという。実にポジティブになれる言葉で僕は感動を覚えた。
・ちょっと寄り道するが、僕は妻が海外旅行で不在だったとき、「ショートステイ」で10日あまり、ある介護施設にご厄介になったことがある。そこの図書室で、鈴木秀子さんと玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)さんの対談本を見つけた。『仏教・キリスト教 死に方・生き方』(講談社+α新書刊、後にPHP研究所刊)というタイトルだった。当時、ちょうど玄侑宗久さんが月刊『清流』で連載中だったこともあり、この対談を僕は大いに楽しんで読んだ。カトリックの聖心会シスター鈴木秀子さんと、仏教の臨済宗僧侶玄侑宗久さんが、お二人の宗教的基盤を超えて、素晴らしい対談をされていた。シスター鈴木はこの対談を「祝福に満ちた節理」であった、と述べている。読者である僕も、この本を読んで限りなく幸せ感を味わった。玄侑さんも「やはり宗教は人なのだ」「我々は充足した『今』を過ごし続けた。驚きも喜びも共感も、『今』にあった」と、お二人の対談を総括されている。「どんな宗教も、深く掘り進むと同じ水脈に通じるという昔からの思いが、今回確信になった」と述べているが、僕もこの感想に同意する。
・シスター鈴木が就職したころは、“自分らしく働く”という価値観は、女性にとっても男性にとってもまだ一般的なものではなかった。現代のように性別に関係なく仕事を選べる時代ではなかったし、女性が社会で働きに出ること自体珍しいことだった。男女ともに“こうあるべき”と進むべき道が決まって、選択肢が少なかったともいえる。
しかし、人生を豊かに生きようと思ったとき、自分が幸せを感じることとより多く接点をもっていた方がいいことは明白である。そしてそれは、シスター鈴木にとってそれは学びであり、教えることだった。好きなことをとことん突き詰めていったら、60年も続けられる仕事に出会えたということであろう。ただ、シスター鈴木のように好きなものが明確になった人ばかりではない。やりたいことがコロコロ変わってしまう人、自分が最も興味のもてることが何かが分からなくなっている人、“世間体”のように、さして重要ではないものに執着している人もいる。それではダメで、自身のことを深く理解していなければ、組織の中で意にそまない仕事をしながら心身を病んでしまうことになる。シスター鈴木はこれまで多くの人の悩み相談に乗ってきた経験から、自分の本心を欺いて世間の評価を尊重している人が幸せであったためしがないという。
・自分のことをよく理解している人は、単調な仕事やつまらなく思える仕事も、どうしたら楽しくなるかを考えて行動する。そうすると、仕事の成果にも違いが出てくるのは理の当然である。では、自己理解を深めるためにはどうすればいいか。大事なのは、頭でただ考えるのではなく、自分の好きなものや幸せを感じる瞬間のことをひたすら書き出してみることだ。騙されたと思って、自分が好きだと感じることやものについて100個書いてみると、自分自身の傾向が見えてくるはずという。
また、自分が普段、どんなものにお金と時間をかけているのか。書き出してみることも、自己理解を深める手助けになる。自分にとって価値のあることは何なのか。思いつくままに書き出してみると、その中にきっと軸になるようなものが見つかるはずだという。それが、自らの心を満たし、人生を豊かにしてくれるものなのだ。当たり前のことのように思うかもしれないが、書き出してみないと、その当たり前のことにさえ意外と気付かない。だから、20代、30代の女性たちには、意識的にでも自分自身としっかり向き合う時間をつくってみてほしいとシスター鈴木は提案するのだ。
・もう一つ、自分にとって価値あることを見つけるコツ。それは「聖なるあきらめ」という考え方だという。執着を手放す「諦め」と、物事をはっきりとさせる「明きらめ」の両方を行う、よい意味でのあきらめのことである。すると、目先のことや、見栄、お金、褒められることなど、部分的なことに捕らわれないようになる。ここで改めて、“自分らしく働く”とは何か。その答えは、自分の心が何によって満たされるか知り、それを仕事として周囲に役立てることだといえる。どんな仕事をしていようと、どんなワークスタイルであろうと関係ない。世間からの評価に左右される必要も一切ないのだ。
これからの時代、女性たちのキャリアは結婚しようが出産しようが長く続いていく。専業主婦になる選択ができる人なんてそうそういない。ライフステージが変わって、自分を取り巻く環境が変化する度に、「これからどうすればいいのだろう」と不安に襲われる女性も多いはず。けれども、自分の心が何によって満たされるのか、自分自身が分かっていれば大丈夫とシスター鈴木は説いている。どんな状況に置かれても、自分で自分を安心させ、楽しませることができるという。
・僕が特に興味をもっているのは、シスター鈴木の傾聴を土台にしたコミュニケーション能力についてである。自らの著書の中で、自動車王ヘンリー・フォードの言葉を例に挙げて説明している。フォードは「成功の秘訣というものがあるとすれば、常に他人の立場を理解し、自分の立場と同時に、相手の立場でものを見る能力である。効果的に聴くことができれば、相手の立場に立って物事を見ることができる」と語っている。このようにヘンリー・フォードは「聴く」ことを非常に重要視し、「聴く」ことによって成功の秘訣としていたのである。
コミュニケーション能力の重要性が、今ほど真剣に叫ばれている時代はない。企業は、社員のやる気や創造性、個性や自信を引き出して、生産性を高めようとしている。また、国境を越えたグローバル化の中で、有能な人材が活躍できる企業風土の改革にも取り組みつつある。「コミュニケーションの達人」というと、かつては話し上手で、面白い話ができたり、的を射たアドバイスができる人のことをいっていた。コミュニケーションの能力の比重は、「話す」ことに置かれていたのだ。
ところが近年、「話す」ことより「聴く」ことにその比重は移りつつある。いかに「聴き上手」になるかが、コミュニケーションの最重要テーマとされるようになってきている。また、上司や先輩など指導する立場にある人が、自分のアドバイスや意見を部下や後輩に受け入れてもらうのは、想像以上に難しいことになりつつある。人は情報を一方的に伝えられていると感じると、往々にして拒絶感をもつようになるからだ。その反対に、自分の話をよく聴いてくれる上司の意見は、驚くほど部下も素直に受け入れるものなのだ。人の話を「聴く」ことができれば、相手に届く言葉で、アドバイスや意見を述べることが可能になる。
・シスター鈴木は、ターミナルケア・グリーフケアにも永年たずさわり、「聴く」ことの重要性を説いてきた。この考え方は多くの著名人からも支持されている。「聴く」ことの価値は、広く認識されつつあるが、どのように「聴く」かについては、十分な知識をもっている人は、ビジネス世界でも決して多いとは言えない。そして、いまだに「聴く」ことの価値に気づいていないビジネスパーソンも、実は沢山いるのである。『愛と癒しのコミュニオン』 (文春新書刊)には、アクティブ・リスニング(傾聴)という言葉が出てくる。つまり、だれかが意見を言い、ほかの人がそれを聞くとき、ふつうは聞く人の心の中に賛成か反対か、どちらかの反応が動くもの。また、多くの人たちは、ただちにその賛成や、特に反対の意見を外に表したい気持ちにかられるものだ。しかし、真の傾聴とは、こうした賛成や反対の気分をすべて沈黙させねばならない。他人の話を聞き、それに自分なりの明確な意思表示や評価を行うことを、私たちは、知的な態度だと教わってきた。人から何かの意見を聞いた時に、賛成や反対を示せるだけの知識や知恵を持たねばならないと指導されてきた。それができるかできないかが、知恵のある者か、ない者かの指標とされることが多かったのである。
・しかし、オーストリアのルドルフ・シュタイナーも語っているが、他人の言葉に耳を傾ける際の望ましいあり方は、「自分自身の内なるものが完全に沈黙するようになる習慣」を身に付けることだという。それも「批判しない」「同情しない」「教えようとしない」「評価しない」「ほめようとしない」。これがアクティブ・リスニングの要諦ということらしい。これは言葉では簡単そうだが、実際にやってみるとかなり難しいと思う。完全に沈黙するなど、とてもできそうにないからだ。僕もサラリーマンとして、また、小さい会社ながらも経営者として仕事をしてきたが、人間関係の難しさは痛感してきた。風通しがよく、気持ちよく仕事に打ち込める環境を築き上げるには、上に立つものが聴くことの重要性を知ることが必要不可欠だと思う。「聴く」技能を高めていけば、人間関係は良好になり、新しい出会いと、チャンスが生まれてくるはずというシスター鈴木の言葉が腑に落ちるのだ。「聴く」技術を身に付けて、コミュニケーションにおける摩擦やギャップ、混乱を解消できれば、ビジネスにおいても飛躍的な成果をあげることができるのだ。
『心の対話者』 (文春新書刊)でも、聴く能力の大切さが語られている。家庭生活や学校、職場での人間関係に悩む人がいる。病気や高齢のため不安のうちに日々を過ごしている人がいる。私たちの周りには、心を閉ざしたまま孤立感を深めている人が大勢いる。こうした苦しみの中にいる人たちの心の叫びを、共感をもって受け入れ、その人たちが再び生きる意欲を取り戻せるよう側面からサポートするのが「心の対話者」である。この「心の対話者」に必須の能力とされるのが、「聴く」能力というのだ。これにより、人間関係は良好になり、新たな気づきと出会いが生まれてくる。
・激動の時代を迎え、ビジネスマンたちは、生き残りをかけた闘いを繰り広げているが、何か満たされない感じや空回りばかりしている感じにさいなまれている。会社に守ってもらいたいという願望や過去にしがみつきたいという衝動に囚われているビジネスマンも少なくない。自分の生き方、自分の生かし方がわからない日々は、あまりに心もとないのだ。確かに現在、生き方の手本を見つけるのは難しい。こんな状況下で自分を生かすための知恵としてスポットを浴びたのがエニアグラムである。エニアグラムは、二千年以上の歴史をもつ非常に神秘的な人間学だ。そしてその高度な知恵は、現在まで生き続け、現代人に譲り渡された。エニアグラムの概念を日本に初めて持ち込んだのが、シスター鈴木である。その目指すところは、人々がよりよく生き、自らの能力や個性を最大限に生かすための知恵を提供することにある。
・エニアグラムについて書いた『9つの性格 すべての人は、9つのタイプに分けることができる』(PHP研究所刊、2004年)は、発売されるやすぐに大きな話題を集め、44万部を超えるベストセラーとなった。このエニアグラムは、世界各国で科学的に検証され、日米の一流企業でも神秘の人間学“エニアグラム”として人事研修にも採用されている。タイプを分ける20の質問に答えれば、あなたが、(1)完全でありたい人、(2)人の助けになりたい人、(3)成功を追い求める人、(4)特別な存在であろうとする人、(5)知識を得て観察する人、(6)安全を求め慎重に行動する人、(7)楽しさを求め行動する人、(8)強さを求め自己主張する人、(9)調和と平和を願う人、の中でどのタイプかがわかる。自分のタイプを知り、こだわりや恐れから解放されれば、自らの能力と個性を最大限に生かすことができる。さらに、相手のタイプを知り、長所と短所を見極めれば、その人に合った対応の仕方がわかり、良好な人間関係も築くことができる。まさに、新しい生き方を実現するための“人生の地図”といえるのだ。
シスター鈴木は、まだ「マインドフルネス」という言葉が日本で知られる前から、こうしたエニアグラムの効果的な利用の仕方など、幸せを手にするためのセミナーを各地で開催し、多くの悩める人たちを救ってきた。いつに変わらぬその献身ぶりには、頭が下がるばかりだ。また、何かの機会にお会いできればと思うが、シスター鈴木はお忙しいし、僕も体が不自由なので行動範囲が制約される。だから僕の叶わぬ夢かもしれない。ただ、これだけはお伝えしておきたい。今後ますますお元気で、ご活躍をされ、多くの悩める人たちを救ってくださることを、衷心よりお願いするものである。