2017.08.25青木外司さん
青木外司さん(中)、千代浦昌道さん(右)、僕が手にしている本が、『一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961―2016』
・東京・銀座にある青木画廊の創業者、青木外司(とし)さんが、ある日の午後、千代浦昌道(獨協大学名誉教授)さんと一緒に、わが家を訪ねてくれた。実は昨年4月、青木さんが自転車で転倒し骨折したというので、お会いする約束を取りやめにした経緯がある。青木さんの家は世田谷区上祖師谷でわが家に近いのを知りながら、なんとなく会えないままになっていた。千代浦さんは同じ世田谷区の下馬在住で、成城のわが家を2度ほど訪ねてくれたこともあり道をよくご存じである。青木さんと会うのは、僕の親友・故長島秀吉君の葬儀(2009年11月)以来で、ほぼ8年ぶり。92歳になるというが若々しい。普段、呼吸のために酸素ボンベを持ち歩かなくてはならない身にはとても見えない。
会って話してみると、青木さんは僕と同じディサービスに通っておられることが分かった。ディサービスは、上祖師谷と成城の2か所にあり、青木さんは上祖師谷、僕は成城でお世話になっている。代表者は坪井信子さんといい、介護福祉分野で有名な方だ。その両方のディサービスを担当している杉本三奈さんが、青木さんと僕のメモをやりとりしてくれた。聞くと、上祖師谷の理事をされていた伊藤社長が先日急逝され、青木さんにはショックだったようだ。伊藤さんとは月1回会って、食事会を始め、飲み会や落語会の開催から、仕事上でも、表具、額装等、何やかやと、お世話になった方だと言う。さらには、青木さんの奥様が2011年の東日本大震災があった年、ご自宅で心臓の「動脈解離」で、急死されたと聞き、びっくりした。
青木さんの知遇を得たのは、1960年だから優に半世紀になる。きっかけは故龍野忠久(1927年―1993年、享年66)さんが作ってくれた。当時、龍野さん32歳、千代浦さん21歳、長島君と僕が19歳で、山内義雄教授のフランス語を通じ親しくお付き合いし、いわば“龍野グループ”を形成していた。そして、しばしば銀座の青木画廊に集まった。わが青春の思い出は、青木画廊によって作られたと言っても過言ではない。その僕は30年以上経て52歳でダイヤモンド社を辞め、その後、清流出版を立ち上げるのに忙しく、挙句の果て脳出血で右半身不随となった。人と会うのが億劫になり、青木さんとも会えずにいた。われわれを指導された龍野さんも清流出版は知らないで永眠された。もう一つ、青木画廊から遠のいた理由がある。会うには、青木画廊に行かなくてはならないが、入り口が急勾配なのだ。半身不随の身には大きなネックとなる。2、3階の会場に行くことができず、もう青木さんとは会えないと思っていた。その間、千代浦さんはといえば、青木さんとはカメラと猫趣味で結ばれ、ずっと付き合ってきたと言う。
懐かしい写真。千葉県御宿の辺りまで旅行した。多分、1968年頃。前列左から次男・径(青木画廊後継者)さん、後列左より青木外司(とし)さん、幸子(ゆきこ)さん、長男・純さん。われわれは龍野忠久さん(前列右から二人目)を中心に、千代浦昌道さん、長島秀吉君、加登屋と同行した。この旅行の途中、画家の高松純一郎さんの家に立ち寄ったが、近くの料亭の席を取ってくれ、ご馳走になった。高松さんは、青木さんを「先生!」と呼んでいたことが耳に残っている。
・今回、青木さんはごく最近、刊行されたご著書、『一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961―2016』(青木画廊編、風濤社刊、 2017年5月)を持参してくれた。これは有難いプレゼントだった。青木画廊の来し方を俯瞰する意味で、過去に開催された数々の個展、美術評論家や作家との交流などが網羅され、素晴らしい「年代記」と認識した。青木さんは富山県生まれ。戦後、上京し、最初の数年間は小学校教師として図工を教え、その後、知り合った東京画廊の社長・故山本孝さんの勧めで画商の道に。東京画廊で、画廊経営のノウハウを学び、青木画廊をオープンする。僕はオープン前に一度、青木さんと龍野さんの打ち合わせに同行したことがある。飯田橋駅にほど近く、青木さんは碁会場を営んでおられた。その頃、息子さんはまだ7、8歳ぐらいで、奥様が美人だったことを覚えている。1961年、青木画廊をオープン。画廊については、「素晴らしい!」の一語に尽きる。日本初、本格的なウィーン幻想派、シュルレアリズムを紹介された。同じ富山県出身の美術評論家だった瀧口修造さん、フランス文学者・翻訳者・エッセイストの澁澤龍彦さんの企画内容が見事だった。他にも、著名な方々が数々の名文を寄せ、美術ファンのみならず文学ファンの間に衝撃を呼んだ。僕にとっても衝撃的だったウィーン幻想派、シュルレアリズムをもっと知りたいと思った。
・青木画廊のような画廊は他にない。それは以下の文章でも頷けよう。
『一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961―2016』によると、
≪ようこそ幻想絵画の巣窟へ――ウィーン幻想派の紹介、金子國義、四谷シモンの展覧会デビューで、1960年代―70年代はアヴァンギャルドの牙城となり、瀧口修造、澁澤龍彦もオブザーバー的に関わった孤高の画廊。その画廊精神は現在にも引き継がれ、澁澤龍彦曰く「密室の画家たち」が発表の場を求めている。青木画廊で個展を開いた70数人の作家、寄稿文7本、座談会5本、展覧会パンフレットのテクスト90本で辿る55年の軌跡、青木画廊大全!≫――この魅力的な惹句がすべてを物語っている。目次を見ると、より詳しい内容が分かる。目次の一部をご紹介する。
≪ウィーン幻想派を中心に海外作家≫ エルンスト・フックス、ヘルマン・セリエント、エーリヒ・ブラウアー、カール・コーラップ、F.ゾンネンシュターン、ペーター・プロクシ、ペーター・クリーチ、ホルスト・ヤンセン、ケーテ・コルヴィッツ、バット・ヨセフ、ヨルク・シュマイヤー、マリレ・オノデラ、ボナ・ド・マンディアルク ◎原稿 川口起美雄「フッター先生のこと」、市川伸彦「3人の“B“」、マリレ・オノデラ「エルンスト・フックス」、多賀新「シュマイサーとベルメール」
≪青木画廊 黎明期≫ 池田龍雄、中村宏、山下菊二、横尾龍彦、前田常作、齋藤真一、小牧源太郎、野地正記、松澤宥、北脇昇、石井茂雄、藤野一友、秋吉巒、桂川寛、堀田操、森弘之 ◎座談「黎明期の青木画廊」 池田龍雄×中村宏×青木外司×青木径
≪青木画廊 アヴァンギャルド≫ 金子國義 四谷シモン、川井昭一、高松潤一郎、小沢純、大山弘明、藤野級井、宮下勝行、直江眞砂、松井喜三男、杉原玲子、樹下龍児(龍青)、渡辺高士、上村次敏、スズキシン一、池田一憲、渡辺隆次、高橋一榮、砂澤ビッキ、三輪休雪(龍作) ◎鼎談「青木画廊 アヴァンギャルド」 四谷シモン×青木外司×青木径 ◎原稿 三輪休雪「青木画廊の事」
このあと、≪青木画廊 第三世代≫、≪青木画廊 新世代≫と続くが省略する。目次の最後に≪展覧会に寄せられた文章群≫がある。それには、◎瀧口修造「一角獣の変身」、「エルンスト・フックス展」(1965―66年)◎澁澤龍彦「未来と過去のイヴ」、四谷シモン人形展「未来と過去のイヴ」(1973年)◎種村季弘「文明の皮剥ぎ職人」、「ホルスト・ヤンセン展」(1971年)◎針生一郎「怪鳥年代記」、「山下菊二展」(1964年)など、展覧会に寄せられテクスト90本を収録している。
僕にとって、忘れかけていた「青木画廊の宝庫」が、もう一度蘇ったようだ。青木画廊の企画展の歴史、軌跡、数多くのアーティストたちと作品群は、画廊のホームページや今回の本『一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961―2016』をご覧いただければ幸いである。
・僕が今もって忘れえぬ画家、推薦された評論家について、少し述べてみたい。
まず、エルンスト・フックスである。1930年生まれで、オーストリア、ウィーンの画家。ウィーン幻想派の代表的作家の一人。1944年聖アンナ美術学校で、さらに46年ウィーン国立美術学校で学び、48年アート・クラブに参加。51年「フンズグルッペ」を創立し、58年ギャラリー「エルンスト・フックス」を設立する。69年サンパウロ・ビエンナーレ展で受賞し、74年「一角獣の凱旋」(エッチング)で注目される。ゴシック絵画やマニエリスム絵画の影響を受け、旧約聖書や神話を題材に預言的な幻想絵画を作り出した。
瀧口修造さんが青木画廊の「エルンスト・フックス展」に名文を寄せている。その一節に、「私(瀧口)はあまりに聖書の叙事的な画家になろうとするときのフックスよりも、ヘブライ神話の新しい変貌譚をみずから創りださずにはいられないフックス自身の心情に惹かれる」、「その迷路のように晦渋なフォルムがいよいよ明澄性に迫ろうとするのを見ると、これひとつだけで画家にあたえられた誘惑にみちた完全な命題のように思われる。いずれにしろ、知天使ケルビムの究極の象徴は一瞬にして視透す遍在的な瞳であるにちがいない」云々。エルンスト・フックスと瀧口修造さんのコラボが、わが青春に衝撃を与えた。エルンスト・フックスに入れ込み、机の片隅に彼の絵葉書を飾っていたほどだ。
・次に、エーリヒ・ブラウアーとフリードリヒ・ゾンネンシュターンについて。エーリヒ・ブラウアーもウィーン幻想派であるが、異端の画家だ。1928年生まれ、オーストリア、ウィーンの画家、版画製作者、詩人、ダンサー、歌手で舞台演出家でもある。恋多き人生を送ったボヘミアンだ。もう一人は、フリードリヒ・ゾンネンシュターン。1892年―1982年の生涯、ドイツ、東プロイセンのティルジット生まれの画家だ。本名フリードリヒ・シュレーダー。 色鉛筆でシュルレアリスムの絵を描いたアウトサイダー・アートの作家。「ゾンネンシュターン」とは、ドイツ語の「太陽(Sonne)」と「星(Stern)」からなり、自らを「月の精の画家」と称した。この2人を、瀧口修造さん、澁澤龍彦さん、種村季弘さんが、クローズアップした。幻想的でエロティクな画風に魅了された紹介文には、澁澤、種村両氏の情熱が感じられた。僕は、この2人が推薦するものは、原文のドイツ語で読みたいと思った。瀧口、澁澤、種村の各氏を、僕が編集に携わった月刊『レアリテ』(ダイヤモンド社)に、翻訳、企画記事として採用させて頂いた。
・もう1人がフンデルト・ヴァッサーである。僕が青木画廊から買った絵はこれだけだがとても気に入っている。本名フリードリヒ・シュトーヴァッサーは1928年12月、ウィーンの生まれ。20歳のときウィーン美術アカデミーで本格的に絵を学んだ。21歳のとき、フンデルト(“百”の意味)・ヴァッサー(“水”の意味)と名乗る。1959年、画家アルヌルフ·ライナーとエルンスト·フックスと一緒に、“ピントラリウム”と呼ばれる芸術家のための新しいプログラムを提唱。彼の絵にはカラフルな赤や黄色、緑、青が多用され、やがてどこまでも続く線や螺旋渦巻きが登場し、その曲線で家が描かれる。彼の作品には、家と人と自然の共存という意が込められている。
フンデルト・ヴァッサーの絵。僕の自宅の玄関に飾っている。
フンデルト・ヴァッサーは環境芸術にも貢献した。例えば、青い煙突の建物「舞洲スラッジセンター」は、下水汚泥をブロックなど建築資材に転用する機能を持つ施設である。建築を画家としての大きなテーマと位置づけ、機能性を重視した建築の合理主義を否定し、自然と共に生きることを生涯にわたって訴え続けてきたフンデルト・ヴァッサーの思い描く建築の合理性が、舞洲工場の奇抜な外観に集約されている。
・また、国内作家では、池田龍雄、中村宏、山下菊二、齋藤真一、野地正記の各氏を紹介された。その中でも、金子國義さん、四谷シモンさんの展覧会デビューは美術界に衝撃を与え、一躍アヴァンギャルドの画廊として広く認知されるところとなった。瀧口修造さん、澁澤龍彦さんがオブザーバー的に企画にも絡み、瀬木慎一、針生一郎、種村季弘、高橋睦郎、吉岡実など各氏は美術評論家・作家・詩人として数多くの文章を寄せ、美術ファンのみならず文学ファンにも知られる存在になった。その画廊精神は現在も引き継がれ、澁澤龍彦さん曰く「密室の画家」たちがこぞって発表の場を求めていると言う。とくに、金子國義さんは、埼玉県蕨市出身で、日本大学藝術学部卒業後、1966年、『O嬢の物語』の翻訳を行っていた澁澤龍彦さんの依頼で同作の挿絵を手がけている。翌1967年、澁澤さんの紹介により青木画廊で個展「花咲く乙女たち」を開き画壇デビューした。世紀末的・デカダンスな雰囲気を漂わせる妖艶な女性の絵、独特な描写の人物像など退廃的な画風が人々の関心を惹く。活動・表現領域は幅広いが、『ユリイカ』『婦人公論』の表紙や新潮文庫の『不思議の国のアリス』の挿絵を担当。コシノジュンコとは、古くから親交があった。2015年、虚血性心不全のため東京都品川区の自宅で死去、78歳没。澁澤龍彦さんが発見したが、金子國義さんは「時代のアジテーターの寵愛する画廊」として、青木画廊のファン拡大に一役買ったのである。
青木画廊は1960―70年代にセンセーショナルでアヴァンギャルドな画廊として、認知されていく。面白い話がある。同じ名前で、同年生まれの横尾龍彦さんと澁澤龍彦さんが知り合いで、横尾さんを通じて、青木外司さんは澁澤さんの知遇を得る。澁澤さんは個展パンフレットに1966年の横尾龍彦展を嚆矢として、金子國義、高松潤一郎、四谷シモン、川井昭一、ボナ、秋吉各氏と、1982年までに8本の原稿を寄せている。ちなみに横尾龍彦さんは東京自由大学初代学長、画家。1928年、福岡県生まれ。東京藝術大学日本画科卒。1965年ルドルフ・シュタイナー研究会、高橋巌教授のセミナーに参加。1978年より鎌倉三雲禅堂、山田耕雲老師に師事、以後毎年、接心、独参を続ける。1985年ケルン郊外に居住。現在ベルリンと秩父にアトリエを設け東西を往来する。B・B・K・ドイツ美術家連盟会員。1989年、東京サレジオ学園の聖像彫刻、吉田五十八賞受賞。これまでに、国内はもとより、海外での個展、グループ展多数開催。青木画廊の先駆的な役割が目立つ。
澁澤龍彦さんと同じく、もう一人の翻訳家が種村季弘さん。こちらは独文学者。種村季弘さんが書いた『迷宮の魔術師たち――幻想画人伝』(求龍堂刊)やフリードリヒ・ゾンネンシュターン著『シュルレアリスムと画家叢書「骰子の7の目」』(河出書房新社刊、1976年)、『一角獣物語』(大和書房刊、1985年)などが青木画廊の個展に結び付く。また、ドイツ語と言えば、坂崎乙郎さんも青木画廊の個展へ解説者となっている。僕は早稲田大学高等学院の時、坂崎先生にドイツ語を習っている。その5年後、坂崎さんの『夜の画家たち―表現主義から抽象へ 』(雪華社刊、1960年) が話題となった。著名な父親・坂崎坦さんが長生きしたのに、彼の自害は、残念だ!
・忘れられない方が前田常作さんだ。1926年―2007年、享年81。富山県生まれで、武蔵野美術学校を卒業。1957年、第1回国際青年美術家展で大賞受賞。翌年、奨学金を得てフランスに留学。パリ滞在中、美術批評家K.A.ジェレンスキーの批評により、≪夜のシリーズ≫などの作品を「マンダラ」と評される。そこでマンダラに関心をもち、帰国後、東寺の両界曼荼羅に触発され、マンダラを描き始める。前田さんは、以来「人間風景」「人間誕生」「人間星座」「人間空間」「空間の秘儀」「人間波動粒子」などのシリーズを発表。さらには、「須弥山マンダラ」「観想マンダラ」とマンダラ・シリーズを展開した。それにより、1979年には、第11回日本芸術大賞受賞。1983年、武蔵野美術大学教授。1992年、紫綬褒章受章、翌年、安田火災東郷青児美術館大賞受賞。1994年、武蔵野美術大学の学長就任。素晴らしい人生だが、ご本人は肩書や賞に関係なく、「生きること=毎日マンダラを描く」と、徹底的に追究する日々を送った。曼荼羅以前の作風から大きく変ったのも凄いが、僕とは大好きな映画の話で盛り上がる。「あれは観たか、これは観たか?」という調子。60年代から80年代まで、青木画廊はじめ、銀座や新宿の喫茶店、飲み屋で気軽に談笑したが、1990年になるとお互い忙しくなり、会うことができなくなった。
・僕の記憶では、瀧口修造さん、吉岡実さん、大島辰雄さんのトリオで集まることが多かった。3人で青木画廊の展覧会を観た後、銀座の店に繰り出した。また他の画廊や展覧会、さらに各種イベントに集う時、例えば、後楽園の「ボリショイ・サーカス」や赤瀬川原平さんの「千円札裁判」まで付き合って、ご一緒した。そして、その度に、僕はご馳走になった。ほとんどが『藝術新潮』編集長だった山崎省三さんがお支払い、新潮社に奢ってもらったことになる。コーヒー、食事はもとより、特にお酒が入ると大いに談論風発し、楽しい集まりであった。集まりの中では、僕だけが若輩者だった。なんという幸せな一時を過ごしたことだろう。
瀧口さんは1903(明治36)年―1979(昭和54)年。享年76。近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。戦前・戦後の日本における正統シュルレアリスムの理論的支柱であり、近代詩の詩人とは一線を画す存在。
吉岡実さんは、1919(大正8)年―1990(平成2)年。享年71。筑摩書房に勤務、取締役も務め、詩人。H氏賞、高見順賞、藤村記念歴程賞、を受賞。シュルレアリズム的な幻視の詩風で、戦後のモダニズム詩の代表的詩人である。
大島辰雄さんも1909(明治42)年―1982(昭和57)年。享年73。美術評論家でフランス文学の紹介と翻訳、フランス文学の紹介のほか、昭和30年代前後から主に西洋近・現代美術に関する執筆、翻訳活動を展開し、また映画にも深い関心を示した。『藝術新潮』への執筆に「囚われの画家・シケイロス」などがある。
こうした集まりは、まず青木画廊や展覧会、イベントが出発点であり、3人の偉大な方々と、スポンサーシップの『藝術新潮』編集長、山崎さんが必要不可欠の存在だった。僕の勤務先が経済誌中心の出版社であり、芸術や文学のジャンルに野心がないことを山崎省三編集長もよく知っていて気軽に呼んでくれた。山川みどり(『藝術新潮』編集長・作家・山川方夫氏夫人)さんの前任者、山崎省三さんには心からお礼を言いたい。山川みどりさんは、のちに、弊社から『還暦過ぎたら遊ぼうよ』の著作を刊行された。不思議な縁である。長じて僕は、自分の出版社を持つ身分になりながら、山崎さんのようにはついぞなれなかった。
・池田龍雄さん。日本経済新聞(夕刊)に8月14日から5日間、「こころの玉手箱」と題して、『予科練時代の写真』『花田清輝の著作』『岡本太郎にもらったカフスボタン』『瀧口修造の瓶詰オリーブ』『1950年代から愛用するペン』というエッセイをお書きになった。いずれも魅力的な記事だ。1928(昭和3)年生まれで、現在89歳。1948(昭和23)に上京、多摩造形芸術専門学校(多摩美術大学)へ入学する。同年秋には学友に誘われ岡本太郎や花田清輝らの「アヴァンギャルド芸術研究会」に参加し、アバンギャルド(前衛芸術)の道を歩む。60年代以降には政治的主題を離れ宇宙や時間など物理学的なテーマへ移り、「百仮面」「楕円空間」「玩具世界」「BRAHMAN」「万有引力」「場の位相」シリーズなど風刺や諧謔を交えたペン画シリーズを制作している。
・まだまだ書いておきたい方々がいる。例えば、中村宏さん、森弘之さん、渡辺隆次さん、建石修志さん……等など、僕の青木画廊への思い出につながる人たちについても、機会があったら、書きたいと思っている。
世田谷区美術館で「瀧口修造 夢の漂流物 ――同時代・前衛美術家たちの贈物1950?1970――」(2005年)。