2018.04.26升本喜年さん
升本喜年さん
・実は先日、臼井雅観君が松竹関係者に取材した際に、聞いて分かったのだが、升本喜年さんが昨暮、お亡くなりになったという。好きな著者だっただけに、僕はとてもショックだった。それだけ升本さんは、弊社にとって大切な人だった。とにかく一本気な方で、曲がったことが大嫌い。かといって文章を書けば、絹糸を吐くような繊細さも持ち合わせていた。升本さんには弊社から『田宮二郎、壮絶! いざ帰りなん、映画黄金の刻へ』(2007年刊)という本を刊行させて頂いた。この本はアマゾンを見て頂ければ分かるが、4人のカスタマーレビューで満点近い「4.5」の評価がついている。400頁を超える大著ながら、これだけ評価されたのは、田宮二郎という人物の魅力であり、陰になり日向になり支え続け、共に歩いた升本さんの筆力によるものであろう。京都生まれのボンボン、学習院大学卒業で英語がペラペラだった田宮二郎。幼い頃に肉親を相次いで亡くしたことによる愛情の欠如があり、なかなか芽が出なかった大部屋時代も経験した。そして二面性を持つ繊細で複雑な性格の持ち主でもあった。そんな田宮二郎という俳優がもつ魅力に、升本さんがいかに共鳴していたかがよく理解できる。
右から升本喜年さん、嶋田親一さん、僕、小黒通顕さん(嶋田さんと小黒さんは別企画での来社だったが同席しての企画会議になった。相乗効果が発揮されるので僕は大いに歓迎した)
・升本さんは大変、エネルギッシュな方であり、地声も大きく、弊社に入ってくるとすぐにそれと知れたものだった。大の話好きであり、いつも映画関係の話やテレビ関係の話で大いに盛り上がった。お蔭様で『田宮二郎、壮絶! いざ帰りなん、映画黄金の刻へ』は増刷となり、弊社に利益をもたらしてくれたが、実はもっと売れる可能性があった。というのも、著者である升本さんと田宮二郎とはかなり近い関係にあったので、ご遺族にとってはあまり好ましくない表現や記述があったものと思われる。刊行を直前にして、弊社宛に田宮二郎のご遺族から内容証明便が届いており、刊行に至った場合には訴訟も辞さないとの内容であった。ただ、升本さんはこの本を執筆する前に、ご遺族には会って仁義を切っており、了解を得ていたことは事実である。
・確かに、この本の中には、升本さんから見た等身大の田宮二郎が語られている。初めての出会いから、田宮が五社協定に苦しんでの不遇時代を過ごして後、TVに活躍の場を移し、あの「クイズタイムショック」の司会に活路を見出すまで、さらには田宮が「白いシリーズ」で一躍TV界の大スターに登りつめてゆくまでが語られる。升本さん自身も「白い巨塔」のドラマ製作が念願だったことにも触れられている。田宮二郎の個人的な頭髪に関する、オフレコにしたいような記述も確かにあった。田宮二郎という俳優は、几帳面であり生真面目な性格だったようだ。そのため心身を病んで、終には猟銃自殺に至るのである。映画の世界が興行成績を金科玉条とすれば、TV業界は視聴率がすべてである。田宮二郎はそんな視聴率という魔物に取りつかれてしまったのであり、彼の良くも悪しくも律儀な点につけこんだ男達に滅ぼされたということになろうか。
・さて、この訴訟も辞さないといっていた田宮二郎のご遺族はどうしたのか。結局は刊行した後、ご遺族からはなんのリアクションもなかったが、僕には訴訟に対しての自信があった。というのも、僕には強力な助っ人がいたからだ。それは升本さんのご子息で、小柄な升本さんとは正反対の180センチを超える長身、イケメン弁護士の升本喜郎さんである。経歴を紹介する。1962年、神奈川県生まれ。東京大学卒業後、最高裁判所司法研修所入所。1993年、第二東京弁護士会登録、TMI総合法律事務所勤務。2000年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校ロースクール卒業。ニューヨークのソニー・ミュージックエンタテインメント・インク法務/ビジネスアフェアーズ部勤務。2001年、TMI総合法律事務所復帰。2002年、パートナー就任。2004年、中央大学法科大学院兼任講師。2006年、映画専門大学院大学教授(―2012年)。2007年、一般社団法人外国映画輸入配給協会理事。2010年、一般社団法人衛星放送協会理事(―2012年)。2017年、一般財団法人映画倫理機構理事、映画倫理委員会委員、と素晴らしい経歴の持ち主の方なのである。
・升本喜年さんのご子息・升本喜郎さんの著書を見れば、どんな弁護士かが更によく分かる。『著作権の法律相談』(共著・青林書院)、『あなたがアーティストとして成功しようとするなら』(ドナルド・S・パスマン著、升本喜朗訳、ソニー・マガジンズ)、『エンターテインメントと法律』(共著・商事法務)、『スポーツMBA』(共著・創文企画)、『映画・ゲームビジネスの著作権』(共著・著作権情報センター)、『知的財産法をめぐる理論と実務』(共著・新日本法規出版)、『知財ライセンス契約の法律相談』(共著・青林書院)、『エンタテインメント訴訟における主張・立証活動?映画・音楽等に関する著作権侵害訴訟を中心として』(著作権情報センター)、『日本映画の国際ビジネス』(共著・キネマ旬報社)等々、とにかく映画業界・ゲームビジネスなどに、滅法お詳しい方なのだ。この喜郎さんが、訴訟を起こされた場合、全面的に協力してくれることになっていた。だから僕は、まったく恐れてはいなかった。むしろ訴訟になって、本が話題になってくれたら、販促に寄与してくれるのではないかと期待していたくらいなのだ。
升本さんの『田宮二郎、壮絶! いざ帰りなん、映画黄金の刻へ』(2007年刊)
・升本喜年さんの経歴にも触れておこう。1929年、熊本県玉名の生まれ。日本大学芸術学部(映画学科)卒業後、早稲田大学大学院(演劇学専攻)修了。1954年、松竹大船撮影所にプロデューサー助手として入社している。映画興行では松竹がトップを走っていた時期であり、升本さんが入社する半年ほど前には、大島渚や山田洋次らが助監督として入社した年でもある。1963年、プロデューサーに昇格し、『大根と人参』(1965)、『アンコ椿は恋の花』(1965)、『男の顔は履歴書』(1966)、『コント55号』シリーズ(1968―)、『薄化粧』(1985)など、多くの作品を担当した。松竹シナリオ研究所所長、松竹映像社取締役を経て、1988年、松竹を退社している。その後、テレビドラマの企画制作会社「梟雄舎(きゅうゆうしゃ)」を設立し代表となった。主な著書には、『紫陽花や山田五十鈴という女優』、『女優・川田芳子の生涯』、『女優 岡田嘉子』といった女優論。『人物・松竹映画史―蒲田の時代―』、『松竹映画の栄光と崩壊―大船の時代―』、『映画プロデューサー風雲録』など映画業界の興亡史などが光る。とりわけ『紫陽花や山田五十鈴という女優』は、戦前戦後を通じて映画・演劇のスター女優として他の追随を許さず、私生活では四度の結婚離婚を繰り返し、ひとり娘・瑳峨美智子との死別など山田五十鈴の波瀾万丈の人生が描かれる。女優道ともいうべき彼女の生き方を、松竹プロデューサーとして私的な思いを込めて綴っており、あまたある山田五十鈴論の中では、一番心に残っている。女優論でありながら、日本映画・演劇の興亡史ともなっている。
升本さんが紹介してくれた太田哲生さんの『僕は、なんのために生きて来たんだ』(2006年刊)
・升本さんの紹介で太田哲生さんを知り、『僕は、なんのために生きて来たんだ』(2006年、弊社刊)という本が誕生したことにも触れておかねばなるまい。太田哲生さんの本名は太田哲哉。1926年、香川県の小豆島に生まれた。拓殖大学商学部を卒業して、1952年、松竹株式会社に入社している。本社宣伝部員として木下惠介監督『二十四の瞳』、『野菊の如き君なりき』、『喜びも悲しみも幾歳月』など木下監督作品のほとんどを担当した。大船撮影所宣伝課長を経て、映画製作本部芸文室長となり、松坂慶子、森田健作、由美かおるなどの俳優の育成にあたる。その後、映画宣伝部チーフプロデューサーとして、『衝動殺人息子よ』、『父よ母よ!』、『機動戦士ガンダム』、『魚影の群れ』、『化粧』などを担当、1986年に松竹を退社している。この太田さんと升本さんはウマが合ったようだ。『僕は、なんのために生きて来たんだ』は、太田さんのご子息が20歳の若さで亡くなり、その追悼の意味も込めて出版された本だったが、升本さんは、この本を自身の制作会社で映像化しようと考えていた。豊富なプロデューサー経験にプラス、独立後はドラマの企画提案や制作の仕事を続けてきた升本さんが自らのプランを持って来社された。
アイデアを伺ってみると、得意だった映画・テレビの力を借りて単行本のパワーを全開したいとおっしゃる。僕も、もっともな路線だと思ったし異存はなかった。メディア・ミックスの相乗効果は、大いに有望路線である。僕は、ぜひ映画化、テレビドラマ化にご尽力をお願いした。升本さんの構想には、松竹時代に交流のあった某大物俳優も含まれ、これが実現したらと思うとわくわくしたものだった。
お嬢さんの升本由喜子さんは元女優
・この映像化の打ち合わせに、升本喜年さんに伴って来たのが、娘さんの升本由喜子さんだった。升本由喜子さんは、渡瀬ゆきの芸名で活躍した元女優さん。旧芸名は渡瀬由喜子さんといった。早稲田大学中退後、劇団所属を経て、1980年に「太陽にほえろ!」に本名でデビュー。その後「西部警察」にゲスト出演の際に渡哲也の命名で「渡瀬由喜子」に改名した。「渡瀬ゆき」に再改名後の1983年から1987年まで、「太陽にほえろ!」で、ブルースこと澤村誠刑事(又野誠治)の妻・泉役でセミレギュラー出演していた方である。「太陽にほえろ!」終了後は、プロデューサー業に転じ、父・喜年さんが設立したプロダクション「梟雄舎」の代表取締役として現在も、数多くの作品制作の現場に立っている。この親子で各テレビ局のディレクターに働きかけて、作品制作を摸索したのだが、残念ながら実現には至らなかった。今も僕の心残りとなっている。
・それにしても升本喜年さんの素晴らしいDNAは、見事に受け継がれたといっていい。ご子息のイケメン敏腕弁護士は、著作権分野では日本を代表する弁護士として知られる。そして美人でプロダクション経営を任された娘さんである。その意味でも、僕は升本喜年さんに心から拍手を送りたい気分である。衷心より、升本喜年さんのご冥福をお祈りしたい。どうぞ安らかに。