2019.01.25小山明子さん
・女優の小山明子さんから年賀状をいただいた。新春のご挨拶が書かれた後に、小山さんがテレビ出演される放映予定が達筆でしたためられていた。それによると1月9日に『昭和偉人伝』がBS朝日系で、2月5日にはテレビ朝日系の『徹子の部屋』に出演される予定だという。僕は早速、見逃さないようにビデオ録画をセットしておいた。その後、しばらくして小山さんから、『徹子の部屋』の放送予定日が1月21日に早まったとのお知らせが届いた。僕は2月の一口メモで小山明子さんについて書こうと思ったが、今号に繰り上げることにした。印象が鮮明なうちに書いておきたいと思ったからだ。
『徹子の部屋』、放送日変更を伝える葉書
・小山明子さんには、月刊『清流』に長く連載エッセイをお願いした。女優時代からのファンも多い上に、講演先などで月刊『清流』の定期購読を薦めてくださったこともあり、購読者数を随分増やしてもらったらしい。連載エッセイを元に、『しあわせ日和 大島渚と歩んだ五十年』(2010年)、『女として、女優として』(2011年)の2冊を刊行させていただいた。この本は話題にもなり、販売実績もよかったが、実は病院経営されていた小山さんの兄上には、何度もまとまった冊数を購入していただいた。大島渚監督の著になる単行本未収録のエッセイ集『わが封殺せしリリシズム』(2011年)も刊行になったが、これにも大いに感謝している。
・1月21日の『徹子の部屋』には、次男の大島新さんと出演された。新さんは、1969年生まれの49歳。早稲田大学文学部を卒業後、フジテレビに入社。「NONFIX」「ザ・ノンフィクション」などドキュメンタリー番組のディレクターを務めた。1999年、フジテレビを退社しフリーランスとなり、現在は、株式会社ネツゲンの代表取締役だ。驚いたことに小山さんはお洒落な杖をついていた。小山さんは、今年84歳になるが、昨年、転倒して尾骶骨の剥離骨折をされた。さらに心臓手術もされたとか。この番組の中でも少し触れられたが、長男の大島武さんは経営学者で、東京工芸大学芸術学部教授である。新さんによれば、2017年9月に行われた小山さんの乳癌の手術、そして、昨年の心臓手術など、いずれも術後に知らされたという。新さんは「いかにも母らしい」と苦笑されていたが、我がことは自ら決するという性格、いかにも小山さんらしいと僕は思った。
・心臓手術について小山さんは、大したことはなかったとお話されていたが、体力的にも覚悟が必要だったのではないかと推察する。可笑しかったのは、二人の息子さんは立派に活躍されているのに、小山さんからは多少不満があるらしい。女の子のほうがよかったというのだ。というのも、男の子は聞く耳を持たないという。女の子であれば、話し相手にもなるし、相談にも乗ってもらいやすいということらしい。新さんはこの発言にも苦笑していた。でも僕は、この下りを見ていて、心の裡をフランクに言い合える、とてもいい親子関係だと思った。男の子は頼りにならないどころではない。小山さんも認めていたが、大島監督の葬儀の際は、息子さんたちは大いに役に立った。それほど八面六臂の活躍ぶりだったとか。監督の七回忌だというが、介護は言葉では言い表されないほどの過酷さだったようだ。介護ウツになり、自殺を考えるまで追い詰められたこともあったのだ。
弊社刊の2冊
・1月9日に放映された『昭和偉人伝』は、僕が知らなかった事もあり、興味深く見させていただいた。大島監督と小山明子さんの波乱万丈な映画人生と、夫婦愛の軌跡をたどるドキュメンタリーだ。戦後の映画界に現われた大島監督は、数々の傑作を手掛け、日本映画の黄金時代に名を連ねたお一人。小山明子さんもまた、女優として第一線で活躍してきた。大島監督は、6歳の時に父親が急死し、母親の実家がある京都へ移り住む。苦学して京都大学に入学。学生運動に情熱を傾ける一方、劇団を立ち上げ、演劇活動にもいそしんだ。大学卒業後は、松竹へ入社し、異例の若さで映画監督デビューを果たす。翌年には、『青春残酷物語』『太陽の墓場』が立て続けにヒット。時代背景や世相の暗部を抉り出し、話題を一身に集めた。ヒットをきっかけに、篠田正浩、吉田喜重らと共に“松竹ヌーベルバーグ”の旗手として人口に膾炙することになる。
・一方、小山明子さんは、神奈川県立鶴見高等学校卒業後、ファッションショーに出演し『家庭よみうり』のカバーガールがきっかけで、スカウトされ松竹入りした。1955年(昭和30年)に松竹映画『ママ横をむいてて』で女優デビュー。当時、松竹の助監督だった大島渚と仕事を通じて知り合い1960年(昭和35年)に結婚する。小山さんの芸達者ぶりは僕の記憶に新しい。花登筺原作のテレビドラマ『道頓堀』(1968年)では、往年の浪速情緒あふれる大阪の女性を演じ、1976年(昭和51年)放送のテレビドラマ『あかんたれ』でも、明治・大正期に格式の厳しかった大阪船場の成田屋のご寮はん(お久)を演じて注目を集めた。1978年(昭和53年)には『続あかんたれ』が製作されたが、前作同様にご寮はん役を演じている。
『日本の夜と霧』のポスター
・大島監督がメガホンを取り、小山明子さんも出演した1960年製作の『日本の夜と霧』は、当時の社会情勢を反映した意欲作だった。しかし、公開からわずか4日で上映が打ち切られた。その余波で、晴れの結婚式の祝辞は、松竹への呪詛が相次ぎ、台無しになってしまったという。松竹との関係はその後泥沼化、大島監督は独立を決意し、小山さんもその後を追う。松竹を辞めた2人は、プロダクションを設立するも業界からは干されてしまう。独立の直前に結婚した2人の門出は、経済的にも困窮し波乱の幕開けとなった。
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・その後、息を吹き返した大島監督は、1971年、『儀式』で「キネマ旬報」の第1位にランクインし評価を高めていく。「阿部定事件」を題材に、男女の愛欲の極限を描いた『愛のコリーダ』で世の話題をさらうと、1978年には、『愛の亡霊』でカンヌ国際映画祭の監督賞を獲得。かつて5年間で360通に及んだ小山明子さんとの手紙の中で、世界に通用する映画監督となってカンヌ映画祭へ連れて行くと誓った監督が、ついに世界にその名を轟かせることになった。さらに、1983年公開の『戦場のメリークリスマス』では、ビートたけしや坂本龍一、デビッド・ボウイなど異色のキャスティングで話題を呼んだ。初めて映画音楽を担当した坂本龍一は、英国アカデミー賞作曲賞を受賞している。
・好事魔多しとはよくいったもの。大島監督がイギリス・ロンドンの空港で脳出血に見舞われたのは、1996年のことであった。余談だが、僕が第1回目の脳出血で倒れたのも、1996年のこと。だから僕は勝手に大島監督を戦友だと思い、親しみを感じていた。話を戻そう。仕事中だった小山さんは、すぐに駆け付けられず自分を責めた。女優を休業し、先行きの不安を抱えて献身的に介護を続けた。やがて後遺症は残ったものの、復帰を果たした大島監督は、映画『御法度』を制作する。カンヌ映画祭で『御法度』は高い評価を受け、平穏な日々が訪れると思った矢先、再び病に倒れてしまう。
・2013年(平成25年)1月15日、大島監督は肺炎により80歳で死去する。奇しくも小山さんの18年ぶりの舞台出演となった「女のほむら」初日の前日であったため、最期を看取ることが叶った。舞台への出演は監督も知っており、応援していたという。 17年間という長年に渡った介護の末であった。小山さんは大島監督の亡くなった翌日も、気丈に舞台の主役を務めた。舞台終わりのインタビューでは、時折涙で声を詰まらせながらも、亡き夫に対して「ご苦労さまでした。もう何も悔いはありません」と応えている。葬儀では喪主を務め、数多くの参列者へ感謝の言葉を述べた。
・一人の妻として介護に専念できたのは、偶然、新聞広告で見つけた一冊の本のおかげという。ドイツの哲学者で神父のアルフォンス・デーケンの『よく生き よく笑い よき死と出会う』で、中に出てくる「手放す心」という言葉が心に響いたのだ。監督も女優もない。一人の人間として、身体の不自由な夫を支えていくだけ。女優には代わりがいるが、妻は自分一人だけと思えるようになった。これまで見えなかったことに気付き、感謝の気持ちが込み上げてきたという。17年は監督のために生きた小山さん、未亡人になれば、一人でどう生きるかを考えなければならない。自分の生きた証しを残したいと思うようになったというのは、僕も理解できる。小山さん自身、乳癌になり、心臓の病を患い、人間なんていつどうなるか分からない、と肝に銘じたのである。
・小山さんは、自分が認知症になった場合のことまで、二人の息子さんに伝えてあるという。「ある日突然、『あなたはだあれ』と言ったとしても、私の心は生きているからね。『大好きだよ』といって手を握ってちょうだい」。そして施設の入るよう手配をしてほしい、と。小山さんは、家で監督を看取ったが、その大変さを息子夫婦には味わわせたくない親心が透けて見える。だから自分が認知症になったら、介護の専門施設に入れてほしいというのだ。そのための費用は用意してある。ただし、「入れっ放しにしないでね」というのが小山さんらしい。見舞いには、好きな花やチョコレートを所望するとともに、好きな音楽もかけて、と要求済みだとか。人工呼吸器や胃ろうなどの延命治療も勿論希望していない。
・大島監督の部屋は今も当時のままという。「毎朝ご飯をあげたり、お花をあげたり、いろんなことを報告したりしています。映画監督だったので、作品に関連し、何かにつけて、いろんなことを思い出させてくれます。その意味で彼は私の心の中に生きています」。しみじみと夫婦愛の深さが伝わってくる。残りの人生をよりよく生きるため、葬儀や墓、遺言や遺産相続などまで元気なうちに準備する。見事なまでの小山さんの終活である。これからは、人のために役立つ生き方をしたいという。東日本大震災で福島の人たちを支援する「未来・連福プロジェクト」へ参加したのもその一つ。聞けば、「ローマの休日」が大好きで、オードリー・ヘプバーンの大ファン。ある時、彼女がアフリカ難民の子どもと一緒に写っている写真を見てショックを受けた。女優を辞め社会支援活動をしていたオードリーは、顔がしわだらけで、かつての面影はなかった。しかし、とてもいい笑顔で、「大女優だった人が、こういう生き方ができるんだ」と衝撃だったという。小山さんはわが道を切り開いて貫く方である。これからも、僕は陰ながら応援したいと思っている。