2019.07.24リー・アイアコッカ
・急に過去の記憶が蘇ることがある。実は、リー・アイアコッカの死が報じられた時、僕は古巣ダイヤモンド社での、あの懐かしい喧噪の日々を思い出した。1970年代後半から80年代前半にかけ、破綻寸前だった米自動車大手メーカーのクライスラー(現フィアット・クライスラー・オートモービルズ=FCA=)の再建に手腕を発揮したリー・アイアコッカ元会長が7月2日、パーキンソン病に伴う合併症のためにロサンゼルスの自宅で死去したとマスコミ各紙で報じられた。享年94だった。僕はこの訃報に接し、様々な思いが交錯してしばらく呆然としていた。アイアコッカは1924年の生まれ。ビジネスの世界における、アメリカン・ドリームの体現者として今も記憶に新しい。古巣のダイヤモンド社で僕が単行本の編集者をしていた時代、翻訳者の徳岡孝夫さんとのコンビで、実に99刷までいったリー・アイアコッカ著『アイアコッカ――わが闘魂の経営』(1985年刊)の出版にこぎつけ、その後も、第2弾ともいうべき『トーキング・ストレート』(1988年刊)を刊行した思い出深き人物であった。さまざまな思いが去来したのも無理はない。
この本の版権を取得するのが結構大変だった。現在、清流出版の顧問をしてくれている斎藤勝義さんがダイヤモンド社の版権担当者として活躍してくれたことをよく覚えている。アイアコッカは経済雑誌や日本経済新聞等などで取り上げられ、カリスマ経営者として知られていた。しかし、サラリーマンの間ではまだそれほどの知名度はなかった。実際、新橋あたりのサラリーマンに訊くと、「コカ・コーラなら知っているけれど、アイアコッカなんて知らないよ」などと揶揄する人もいた。ダイヤモンド社の販売本部の連中も、「日本人にはまったく知名度がない。どうせだったら、レーガンをやった方が売れるのでは」などと僕の企画に冷ややかな目線だった。
・しかし、アイアコッカは立志伝中の人物であり、アメリカで原著が発売されるや評価は一変することになった。『パブリッシャーズ・ウィークリー』、『ビジネス・ウィーク』、『ニューズ・ウィーク』、『ニューヨーク・タイムズ』、『フォーチュン』など各紙誌の書評等で絶賛されることとなり、爆発的な売れ行きを見せたのである。そうなれば日本での版権はどの出版社が取得するか、取り合いとなったのは必然であった。新潮社、講談社、三笠書房をはじめ、名だたる大手出版社の敏腕編集者、版権担当者が版権取りに参戦してきたことをよく覚えている。日本ユニ・エージェンシーがこの本の版権代理店だったが、アドバンスは値上がりするばかりであった。
日本ユニ・エージェンシーの武富義夫さんは、当時、まだ社長にはなっていなかったが、経営者に一番近い存在で、ばりばりの凄腕で知られていた。その武富さんと出版社の一編集者であった僕が、『アイアコッカ』の件ではことごとく対立したが、一歩も引かなかったのはいい思い出だ。これには版権担当者だった斎藤勝義さんも苦労されたと思う。結局、武富義夫さんは、1993年、僕がダイヤモンド社を辞めた後で、日本ユニ・エージェンシーの社長に就任した。武富さんの後は、長澤立子さん、山内美穂子さんと二代続けて女性が社長に就任したが、このお二人とはロンドン国際ブックフェア、フランクフルト・ブックフェア、ブックエキスポ・アメリカなど「国際ブックフェア」の会場でよくお会いし、意見交換をしたり、食事をご一緒したりしたものだった。
・なぜダイヤモンド社が版権を取れた決め手だが、過去の経済物の実績と、どうしても出したいと編集者と経営者の熱意の差ではなかったか。僕にも編集企画の心構えとして、まだ日本人には知られていないが、注目すべき人物を追い、世に知らしめたいとする路線は間違っていないとの感覚があった。事実、ダイヤモンド社はビジネス書において、他社の追従を許さぬ実績を積んできていた。ベストセラーとなった本も多々ある。例えば、クラウド・ブリストルの『信念の魔術』(1954年刊)やE.G.レターマンの『販売は断られた時から始まる』 (1964年刊) などは、新装版として何度も装丁を変え、判型を変えたりしながら現在に至るまで売れ続けてきている。また、1950年代からピーター・F・ドラッカー博士の経営学シリーズを一手に引き受け、現在もダイヤモンド社の大事なドル箱路線となっている。
アイアコッカの第2弾
・ドラッカー博士の本でもそうだったが、版権担当の斎藤勝義さんがこのアイアコッカの本の版権取得に、大手出版社の猛者に負けず奮戦してくれたことも特筆しておかねばなるまい。斎藤さんは、版権代理店の日本ユニ・エージェンシーをすっとばして、自宅から米国の版元であるバンタム・ブックスの版権担当者であったピアジェ女史に直接電話して売り込んでくれたりもした。そのかいあって、編集者だった僕は勇躍、アメリカに飛び、アイアコッカ本人とその弁護士と直に会い、契約にこぎつけることができたのである。両者のサインを受け、ゲラの一部を日本へ持って帰ることで、大手出版社との版権取得競争に決着をつけることができた。大手出版社がいくら切歯扼腕しても、ことここに至っては敗北を認めざるを得なかったのである。このアメリカ出張に際し、思い出に残る1シーンがある。それはワシントンの日本料理店で笹川良一氏とジミー・カーター前大統領が密談している光景を見かけたことであった。
翻訳出版についても一言述べておきたい。すでに僕は自動車業界ものでベストセラーを出していた。『晴れた日にはGMが見える』(1980年、J.パトリック・ライト著)がそれ。普通だったら翻訳者として『晴れた日にはGMが見える――世界最大企業の内幕』をお願いした風間禎三郎さんに頼むところである。この本は、シボレーの売上げを伸ばし、いくたびかGMの救世主となって、GM史上最年少の重役に昇進した男が、次期社長を目前にして、突然同社を辞した。いったい何故なのか? 自動車業界の風雲児デロリアンの証言と弾劾は、王国の聖域「十四階」のヴェールを剥ぎ取った。デロリアンは、世界的にヒットした映画『バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ』に登場するタイムマシンのベースカーとして広くその存在を知られている。
・この本で翻訳をお願いした風間禎三郎さんに、『アイアコッカ』でもお願いしようかと考えたのは当然であった。しかし、風間さんの場合、一つネックがあった。風間さんは翻訳の仕事に取りかかっても、スムーズに波に乗れないことがある。すると、翻訳を放り出して、釣り竿を持って近くの浅川に日参することがよくあった。発行日を念頭において、締め切りを守ろうとする立場からすれば、とかく編集者泣かせの部分があった。1週間も新しい原稿がいただけないとなれば、ストレスも溜まろうというもの。あれやこれやと今後の道を探っているうち、この『アイアコッカ』の翻訳は、新規軸として、関西弁を駆使した新鮮味と、自動車好きの翻訳者であった、新進気鋭の徳岡孝夫さんにお願いすることにしたのである。
実は、それより20年も前に遡る1965年の本だが、徳岡孝夫さんの著になる『太陽と砂漠の国々――ユーラシア大陸走破記』という本を読んでいた。その時の印象が強く、自動車関係の本だったら徳岡孝夫さんにお願いしてみたい、と僕なりに思っていたこともある。それに徳岡さんは翻訳が手慣れてうまい上に、早いという噂で、編集者からすれば大変に魅力であった。『晴れた日にはGMが見える』を超える販売実績を摑みたいというコケの一念だった。そして『アイアコッカ』の初版部数が4万部に決まった。この初版部数であれば、ちょっとした広告宣伝費もかけられるとほっとしたものだ。実際に、版を重ねる度に、有識者や本の読み手がどんどん増え、思ったよりダイヤモンド社の経費負担は少なくて済んだ。結局、最終的に『アイアコッカ』の実部数は、70万部を優に超えたのである。
話は変わるが、イギリス出身のジャーナリストで、ニューヨーク・タイムズの東京支局長だったヘンリー・スコット=ストークスの著になる『三島由紀夫 死と真実』の翻訳をお願いし、徳岡孝夫さんの名訳には感服していたことも後押しした。日本文学界の鬼才、あの三島由紀夫が、なぜ自衛隊市ヶ谷総監部を占拠し、最期は切腹自決するに至ったのか? 偉大なる芸術家である彼の生い立ちから最期の時までをヘンリー・スコット=ストークスが詳しく取材編集したドキュメント本であった。そもそも徳岡さんが三島由紀夫とごく親しかったこともあり、とてもいい本に仕上げることができた。僕はこの本が気に入っていたので、清流出版で復刊したほどである。
ダイヤモンド社の本
・さて、アイアコッカの話に戻るが、彼はイタリア移民の子として生まれ、プリンストン大大学院修了後の1946年に米フォード・モーターに入社している。アイアコッカが開発を主導した低価格のスポーツカー「マスタング」は、1964年の発売直後から若者の間で爆発的に売れた。この成功が評価され社長にまで上り詰めたが、創業家と対立して、1978年に解任された。同年、ライバル社のクライスラーに請われて社長として入社し、1979年に会長に就任している。低燃費小型車の開発遅れと日本車の追撃を受けて、5億ドルの累積赤字と史上最大の在庫を抱えたレームダック状態であったが、アイアコッカは、矢継ぎ早に大ナタを振るって企業体質の改善に努めた。アメリカ議会を説得して政府の債務保証を取り付けた上で、なんと自らの年俸を1ドルにカットする。人員削減や小型車強化策を断行し、石油危機の影響で販売不振にあえいでいたクライスラーの黒字化を果たすことになるのだ。
清流出版で復刊した三島由紀夫本
この再生手腕によって「カリスマ経営者」として名をはせ、結局、自伝『アイアコッカ』は世界累計で700万部を超える大ベストセラーとなったわけだ。その日本語版でレジェンドの一翼を担うことができたことに僕は誇りを持っている。『アイアコッカ――わが闘魂の経営』は結局、増刷に次ぐ増刷となり、最終的には99刷となった。しかし、この大ベストセラーがありながら、ダイヤモンド社出版局全体ではその期の損益バランスは、なんと赤字だったのである。販売本部も『アイアコッカ』だけを増刷しながら売っていれば、営業的に問題はなかったはず。しかし、出版局としてそうはいかない。他の出版物が目論見通りには売れずに足を引っ張ることになった。
しかし、嬉しいことにタイミングよく助っ人が現れた。新潮社の前田速夫さんである。前田さんは、当時、雑誌『新潮』の編集長であった。『アイアコッカ』は充分にダイヤモンド社の米櫃を潤わせてくれたが、更に、版権が前田さんの仲介によって新潮社に売れることになった。『アイアコッカ』はダイヤモンド社で99版を達成したが、100版は新潮社に任せればよいと僕は決断した。これによって、ダイヤモンド社は印税をしこたま稼ぐことかできた。印税が3割、新潮社から振り込んでくる。2度美味しい単行本企画となったのである。ちなみに前田さんは東大英文科卒の俊英であった。大学時代はボクシング部に所属していたと言う。僕も趣味と言えばボクシングだった。大学3年生の時、後楽園ジムで、生物学者アルビン・R・カーンに1年間教えを受けたこともある。カーンさんはあの白井義男の名トレーナとして知られた方である。前田さんの話に戻すと、その後数年して前田さんは新潮社を退社、民俗学者・歴史研究者となり、『渡来の原郷――白山・巫女・秦氏の謎を追って』(2010年、共著)をはじめ、『白山信仰の謎と被差別部落』(2013年)、『異界歴程』(2016年)、『北の白山信仰 もう一つの「海上の道」』(2018年)などの他、最新刊は今年2月に『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』を刊行されるなど、素晴らしい研究実績を残しておられる。僕は『アイアコッカ』の出版によって、出版の世界の面白さと怖さを十分に思い知らされることになった。
・アイアコッカは著書でこう語っている。「自分が絢爛たる人生を送ったことを、私は否定しない。私にチャンスをくれたのはアメリカであり、私はその機会を掴んだ。私は一夜にして有名になったテレビ・スターではない。40年近い勤勉努力によって、今日に至ったのだ」と。フォード社を首になったアイアコッカの契約書には、フォードを辞職した場合には、新しい職が見つかるまでオフィスを一つ与えるとあった。その新オフィスとはケチな倉庫の中であった。小さな部屋に小さな机と電話があるだけ。そして彼の秘書ドロシーが目にいっぱい涙をたたえていた。アイアコッカがシベリアに流刑になった気分だったというのも理解できる。人間は逆境に立たされた時、凄まじい反発力が生まれることがあると言える。アイアコッカがまさにそれだった。「内心の苦痛は忍ぶことができる。だが、公衆の面前で侮辱された私は、怒り狂った」と書いているが、アイアコッカの反発力は凄まじかった。電光石火というべき速さの、退社からわずか2週間後に、クライスラー社長に就任したのである。こうしてレジェンドとなりえたのだ。
・アイアコッカが、日本へ来たことについても話しておこう。日本語版は1985年1月1日に発売開始されたが、売れ行きが好調だったので来日したのである。翻訳者の徳岡孝夫さん、ダイヤモンド社の川島譲社長、版権担当者の斎藤勝義さん、編集担当の僕が帝国ホテルのスイートルームに呼ばれたのである。その時の写真撮影は許されていなかったので、残念ながら証拠写真はない。徳岡孝夫さんはビジネス英会話も堪能な方である。アイアコッカと丁々発止と早口で話し続け、アイアコッカが何度も頷いていた。僕は、アイアコッカの燻らせたシガー、見たことのない長い太巻きの葉巻の方に気をとられ、「日本での本の売れ行きは、あっという間に30万部を達成したが、翻ってクラスラーの車は100台も売れていない。社長の権威が丸つぶれとなった」と嘆息していたところしか記憶に残っていない。話は変わるが、ある時、アイアコッカご自慢のイタリアのワイナリーで熟成されたワインがダイヤモンド社に届けられた。「VILLA NICOLA BRUNELLO DI MONTALCINO 1981 bottled for LEE IACOCCA PRODUCT OF ITALY」というラベル。僕はそのワインをまだ試飲していない。訊けば、斎藤勝義さんもまだ飲んでいないという。万感の意がこめられたこのワインである。僕は体調がそろそろ危なくなった時に、このワインを飲み干そうと思っている。
徳岡孝夫さんと僕
最後に徳岡孝夫さんについて触れておきたい。僕の人生の公私共において、一番大切な人が徳岡孝夫さんである。ダイヤモンド社でお付き合いが始まり、今日まで実に35年以上の長きにわたり親しく交情を深めてきた。思い起こせば、徳岡さんにはどんなに助けられたことか。筆舌に尽くしがたいほどである。月刊『清流』にも長い間、ホットなニュース解説を連載していただいたが、目が不自由になって字が見えないと聞けば、無理に原稿執筆をお願いするわけにはいかない。やむなく連載を下りて頂いた。僕も両目ともに白内障の手術をしたが、目が不調だと気分が萎えるものである。これだけ科学技術、医学が発達した世の中である。何か特効薬や画期的治療法が発見されても不思議はない。徳岡さんと再び、コンビを組める日がこないものだろうか。僕はそんなささやかな夢を見ている。