2020.11.24辻輝子さん 植田いつ子さん
●辻輝子さん
陶芸家・辻輝子さん
・月刊『清流』のバックナンバーを繰っていて、陶芸家・辻輝子さんにご登場頂いたことを思い出した。輝子さんに僕が最初にお会いしたのは、かれこれ半世紀前になる。僕の古巣であるダイヤモンド社に勤務していた時代のことである。僕が編集担当していた『レアリテ』誌の取材でお会いしたのだ。当時、ダイヤモンド社はフランスの雑誌『レアリテ』の日本語版刊行を検討していた。その時、ダイヤモンド社の副社長である石山四郎さんのご指名により、責任者であった僕は、それに向けて入念な下準備をした。版権の交渉や編集技術、販売・広告戦略のノウハウを取得するために、パリにしばらく滞在して、『レアリテ』の本拠地であるSEPE社のあらゆることを学んだ。そしてようやく日本語版が軌道に乗り始めた頃、陶芸家・辻輝子さんを取り上げさせて頂いたというわけだ。
輝子さんはまさに女性陶芸家の草分け的な存在。作陶のテーマは一貫していて「自然」であった。「あるがままの自然の美を、陶器の中に映しとり、神様の作った自然の美しさを万分の一でも表現したい」との熱い思いで日々仕事に打ち込んでおられた。「近所を散歩するだけでも、次々にイメージが湧いてきて、時間がいくらあっても足りないほどでした。私にとって自然は師であり、よき友だったのです」と発言していた。また輝子さんは、富本憲吉、北大路魯山人、岡本太郎、棟方志功、土門拳、川端康成といった一流の芸術家、文化人たちと親交を結んでおり、その創作の糧としていた。特に魯山人とは深い親交があり、魯山人は輝子さんに仕事場を譲ろうかという話まで出たというが、魯山人が急死したことによって実現しなかった。
辻輝子作 手鉢
・輝子さんは、現上皇様、上皇后さまのご愛顧も深く、東宮御所で個展も開かれたことがある。1994年には、伊豆高原に個人美術館である「陶の華美術館」を開館している。 もう一つ、輝子さんが夢中になっていたのが、万華鏡であった。幼い頃、父君に買ってもらったヨーロッパ製の万華鏡に魅せられていたこともあり、陶芸の傍ら自ら万華鏡を作ろうと志した。そして多くの作品を生み、1999年には「仙台万華鏡美術館」を開館させている。この美術館には輝子さん自身が制作した万華鏡作品の他にも、貴重なアンティーク作品、そして現代日本で活躍している作家の作品など多数展示されている。また、オリジナル万華鏡の手作り体験が出来るというのも斬新な試みである。2002年、敬宮愛子内親王の万華鏡を制作したというから、陶芸に負けず劣らず万華鏡の世界でも突出した才能を発揮しておられたといえる。脱線するが、辻輝子さんの原稿を書いた照木公子さんは編集プロダクションを主宰していたが、輝子さんとの出会いを機に「万華鏡の世界」にはまった。その後、照木さんは万華鏡楽会代表に収まり、普及、啓蒙に尽力されている。
『独歩―辻清明の宇宙』(弊社)
この辻輝子さんの実弟が陶芸家・辻清明さんである。弊社は辻清明さんの作陶した陶芸品と世界各地で手に入れた収集品を掲載した豪華本を刊行している。『独歩―辻清明の宇宙』(3万2400円 2010年8月)がそれだ。この本には日本を代表する陶芸評論家、作家などから推薦文を頂いた。具体的には、「独歩の人 辻清明」として、頴川美術館理事長、菊池寛実記念智美術館館長などを務めた林屋晴三さん、「てのひらとゆびの 辻清明の器に寄せて」と題して詩人・谷川俊太郎さんの詩、「辻清明の陶業について」と題して美術史家、京都大学名誉教授、金沢美術工芸大学名誉教授、兵庫陶芸美術館名誉館長であった乾由明さん、「陶器に関するエッセイ」と題して芥川賞作家の安部公房さん、そして掉尾を飾ったのが「辻さんの作品」と題してのドナルド・キーンさんの推薦文(翻訳は徳岡孝夫さんにお願いした)であった。特にキーンさんの文章は、奇才・辻清明という陶芸家の作家魂を過不足なく伝える名文であった。ちなみにこの豪華本の写真はすべて、土門拳の愛弟子として知られる藤森武氏が撮影したものである。弊社にとって初の豪華本であり、販売に不安をもってスタートしたが、杞憂に終わり、お蔭様でほぼ完売してしまった。弊社としても豪華本発行に向けていい知的財産になった。
●植田いつ子さん
・上皇后美智子様の話が出たので、もう一人上皇后様にゆかりのある女性をご紹介したい。1976年から美智子妃殿下のデザイナーを拝命した植田いつ子さんである。月刊『清流』にもご登場頂いたことがある。毎年、11月の半ばくらいに、東京千代田区紀尾井町の紀尾井ホールでヴァイオリニスト・天満敦子さんとピアニスト・岡田博美さんの「デュオ・リサイタル」が行われる。僕はこのリサイタルを楽しみにしている。天満さんの代名詞ともいうべきポルムべスクの「望郷のバラード」など、1993年の初演以来、すべての公演で弾き続けてきたという。「万という回数を弾き続けているにもかかわらず、一度もまたかと思ったことがない」と天満さんは語っているが、聴く側もまったく同様である。僕は聴くたびに切なく胸に響いてきて、新たな感慨に浸っている。いまから136年前、29歳で獄中死したルーマニアの天才が残したこのメロディが、天満さんの素晴らしい演奏を通して、遠く離れた日本人の心を震わせている。まだこの曲を聴いたことがない人は、是非聴いて欲しい、それもできれば生演奏で。
仕事中の植田いつ子さん
天満さんのヴァイオリン演奏は天衣無縫とでも言おうか、自在に音色が飛翔する。ヴァイオリンは名器アントニオ・ストラディヴァリウス「サンライズ」であり、弓は伝説の巨匠ウージェーヌ・イザイ遺愛の名弓である。豪放な音楽ともいうべき天満敦子さんと、完璧なテクニックでクールに、そして繊細な音楽を作り出す岡田博美さんの絶妙のコンビである。このお二人の演奏家の資質がうまく合っているのだ。岡田さんの弾くピアノの切れ味、リズム感のよさは抜群である。それに天満さんの弾くストラディヴァリウスは、まるで複数の奏者が弾いているような超絶技巧に裏打ちされた個性あふれる音色である。このリサイタルには、天満さんが「誠ちゃま」と呼ぶ親しい間柄の窪島誠一郎さんも常連である。その窪島さんのエスコートする女性が僕の関心事でもあった。ある時は、作家の澤地久枝さんであり、デザイナーの植田いつ子さんもよくご一緒しておられた。僕は月刊『清流』にご登場頂いたこともあるので、お会いするとご挨拶させて頂いた。
窪島誠一郎氏(右)と藤木健太郎君(左)と僕。天満敦子さんの演奏会場「紀尾井ホール」で
さて、植田いつ子さんであるが、1928年熊本県玉名市に生まれた。桑沢デザイン、文化学院で服飾デザインを学び、56年に東京・溜池のアメリカ大使館にほど近い、小さな2階家の一室に「植田いつ子アトリエ」を開設する。以来、オートクチュールを中心に幅広く活躍してきた。上皇后様の洋服を作り始めた頃、こんなことを言われたという。「意外といろいろな姿勢をとることがあるので、そうした動きに無理のないように作ってくださいね」と。「テレビをよく拝見して、なるほどと納得させられました」。実際、病院や老人ホームでは、ベッドに身を屈めたり、体育館にお見舞いの折りには、膝を床につけ、目の高さで話をされていたからだ。いつ子さんは初めてヨーロッパへ行った時、日本文化と対極にある西洋文化と遭遇した時、相容れないものを感じ、心身ともに打ちのめされてしまった。ヘトヘトに疲れて帰国したいつ子さんは、「取りあえず、日本の古いものに埋まりたくなりました」。すぐに京都や奈良の寺々を訪ね、子供の頃から好きだった仏像と語ることで、心の平穏を取り戻そうとしたのだ。薄暗い寺の一隅から射す陽光に、ぼんやりと浮かび上がる仏像の尊顔を見つめるうちに、「私は日本人なんだ。日本人なのだから、日本人の心で作ればいいんだ」との思いが湧き上がってきた。その時、植田さんは真の日本人向けの「衣装哲学」を体得されたに違いない。「人間の身体は本来丸いものです。服はその身体の上に立体的な型をつくり、人体そして精神までも一致したものでなくてはなりません」と。
2015年 集英社文庫
1990年、ニューヨークの国際ベスト・ドレス委員会は、内外記者団に対し、1989年から1990年度における授賞者リストの発表が行われたが、冒頭、上皇后様は、次のような特別な言及をお受けになられたという。「日本の皇后さまは、皇太子妃でいらした頃より、和洋の着こなしとともにこの上なく美しい感覚の持ち主として注目を受けてこられたが、この度、世界の服装界における国際的宝(インターナショナル・トレジャー)との評価をお受けになった」(発表文要約)。植田さんもこの特別な言及には感動一入ではなかったか、と推察するのだ。「自分になじまず、不似合いなものは拒否する勇気も必要です。決してかたくなではなく、柔軟な心を持ち、着るものに着せられず、あまり意識しなくなったときから、真の個性ある装いが出発するものです。何を、どのように選び、どのような方法で、自分の生き方とかかわり合流させるかによって、服の価値も決まります」。デザイナーとしての矜持が伝わってくる文章ではないだろうか。直木賞作家の向田邦子さんとは、15年という長いお付き合いだったという。向田さんの「物を視る場合には、その物の品性を、また人を見る時は、その志の高さを尊重する姿」に惹かれていた。志村喬・政子夫妻に「三人姉妹」と呼ばれ、親しく遊んだものだという。実際の年齢とは違うけれど、頭のよい長女が澤地久枝さん、敏捷でお茶目で、優しい思いやりを持つ次女が向田邦子さん、そして三女が植田いつ子さんという位置づけであったらしい。今頃は、天上で向田邦子さんと植田いつ子さん、姉妹仲良く遊び、語り合っているような気がする。