2007.01.01小野田寛郎さん 藤森武さん 藤森武さんほか
(注1)
小野田町枝さんの本から。ブラジルの牧場
(注2)
田島隆夫Home Page から
(注3)
「職人を訪ねて」17回「彫る」の冒頭ページ
- カメラマンの中谷吉隆さん(左)が、来社された。昨年10月に、わが社から『神楽坂Story』を刊行したばかり。夏目漱石はじめ文人の愛した町、明治・大正浪漫と現代が溶け合う町を様々な角度から撮って、素晴らしい神楽坂案内&ストーリーになった。
- 編集担当の古満君(中央)は、中谷さんと広島県人の同郷の誼で、作業がことのほか順調に推移したというのも頷ける。
- 今回、中谷さんは仕事仲間と一緒に中国・貴州省を訪れた。その時のお土産としてレアものというべき紹興酒「三十年陳醸花雕」を持参され、話が弾んだ。
- 貴州省の人々は、写真が大好きで人情にも厚く、日本から来たカメラマンというだけで厚遇される土地柄であったという。苗(ミャオ)族、ブイ族、トン族、水族など約50位の少数民族からなり、民族衣装や村の歓迎式、村道の散策を楽しんだという。また、おいしくて辛い中華料理を堪能したそうだ。
(注4)
梅田佳声さんと唐沢俊一さんの入ったページ
2006.12.01秦万里子さん 小西正捷さん 小野田町枝さんほか
(注1)
小池徹君56歳の頃の絵手紙(右上は死の前年の写真)
2006.11.01加藤日出男さん 山本容子さん 假屋崎省吾さん
翻訳家の田島葉子さん(右)が、ご子息の達夫さん(左)と来社された。田島葉子さんが用意した略歴を見て、上智大学フランス語学科卒、同大学修士課程で仏文学専攻、詩人ポール・クローデルを研究したという記述に注目した。
くわしく語る前に、僕の学生時代の思い出噺をするのを許してほしい。僕は第二外国語はドイツ語を専攻したのだが、ふとした縁でフランス語を、『チボー家の人々』『狭き門』などの名翻訳で有名な山内義雄先生(注1)の授業に出席させていただいた。おかげで政治経済学部フランス語学科(冗談!)のつもりで文学に入れ込んだ時期もある。ある時は山内先生がわれわれ三人の生徒(他の二人は高校から第一外国語でフランス語を取っていた正規の生徒)を連れ、校舎を離れレストラン「高田牧舎」の喫茶室で授業をされたこともしばしば。
田島葉子さんが詩人ポール・クローデルを研究された方と伺うと、真っ先に山内義雄先生のことが思い浮かんだ。その先生は、駐日フランス大使もおやりになった詩人ポール・クローデルと親交が深かった。いま思うと山内先生が果たした日仏文化交流の功績は計り知れなかったと思う。この話をすると、田島さんも上智大学の恩師から聞いて、ポール・クローデルと山内義雄の親交ぶりのことをよくご存じだった。こう話された途端、田島さんは僕には旧知の間柄のように親しみが湧いてきた。
実は、まだある。わが清流出版の位置する九段・俎橋の近辺は、かつて山内先生が東京外国語学校時代によく足を運んだ洋書専門の古本屋「堅木屋」のあった場所だと、ふと思い出した。かれこれ明治44年頃の話で、今から95年前になるが、いまはもうない古本屋のあった俎橋近辺に、田島さんと僕の接点が山内先生により用意されていたと思わざるを得ない。山内先生のポール・クローデルの訳本を紐解いてみると、先生が話してくれた大学時代の挿話を、僕が本の欄外にメモ書きしてあった。まことに不思議な因縁ではないか。
今回の田島さんの来社は、ポール・クローデルとは別件である。ベルギーの高名な詩人モリス・カレームを、日本に紹介しようとの想いで、彼の代表作である『お母さん』と『沈黙の声』の訳詩を持って訪れたものだ。原語では「MERE」、「LA VOIX DU SILENCE」の二篇の詩集で、全52の詩からなるが、二十余編の詩を精選して届けたいとおっしゃる。モリス・カレームは、日本人にはおよそ知られていないが、生涯にわたり八十余冊の詩集、散文集、小説、エッセイを残し、ベルギーやフランスなどで数々の文学賞を受賞した人だ。1971年にはパリで「PRINCE EN POESIE」(詩聖)の称号を受けている。
モリス・カレーム財団の現・理事長であるジャニーヌ・ビュルニさんは、日本人にモリス・カレームを知ってもらいたい一心で、詩集の版権を譲渡し、加えて翻訳料を100%負担、場合によっては出版の費用を持つとの案を訳者に提案されたという。こういう素晴らしい申し出に出版人として応えないでどうする? 弊社との縁を一言で言うならば、訳者である田島さんが数ある日本の出版社の中から清流出版を選んでくれたのである。
田島さんの翻訳はほぼ終わっていて、今回は詩をイメージ化した写真をバックに用いた本にしたいとおっしゃる。写真撮影とアート・ディレクションは、写真家「たじまたつお」。つまり、ご子息達夫さんを起用したいとのことである。文とアート・ディレクションが母子合作の詩集はむしろ大歓迎。素晴らしい本の仕上がりに期待している。
田島さんのレポートによると、モリス・カレームの2500篇以上の詩は、ダリウス・ミヨー、プーランクをはじめ多くの音楽家によって作曲されているという。また、この30年間にフランスの学校で最も学ばれた詩人の中にラ・フォンテーヌ、ユーゴー、ヴェルレーヌ、アポリネール…等と共に、モリス・カレームが入っているとの由。
翻訳者の田島葉子さんは、かつて『急いでいるときにかぎって信号が赤になるのはなぜ?――”あるある体験”の心理学』(セルジュ・シコッティ著 東京書籍刊)、『利瑪竇――天主の僕として生きたマテオ・リッチ』(ジャック・ベジノ著 サンパウロ刊)を共訳されている。特に後者は、17世紀に中国再宣教の道を拓き、フランシスコ・ザビエルの夢見た宣教に苦労のすえ成功し、明朝宮廷に活躍したイタリア人イエズス会員・カトリック教会の司祭マテオ・リッチのことを書いた貴重な訳出である。かつてアメリカの雑誌『ライフ』は1000?1999年の最も偉大な百人の1人としてマテオ・リッチを選んでいることも注目点だ。
今回、日本人に全く無名な大詩人モリス・カレームの詩を日本人に紹介できるのも、マテオ・リッチ並に田島葉子さんのような先見の明のある人のお蔭だ。
(注1)
ここからは、今までの形式とちょっと変える。写真添付はそのまま。本文は原則的に箇条書きで、簡潔にしたい。
2006.10.01小池邦夫さん 堤江実さん 小川宏さんほか
絵手紙の創始者で、日本絵手紙協会会長の小池邦夫さん(右)が、奥様の恭子さん(左)と来社された。お二人とも、絵手紙の魅力を少しでも多くの人々に広めたいとの一念から、日々、講演会や展覧会、テレビ出演などを通じてその普及に努めておられる。近年、「ETEGAMI」は世界に雄飛しつつあり、フランス、中国、ルクセンブルク、オーストラリア、アメリカなどでも絵手紙交流が行なわれている。中国は別にして、欧米の方々は、和紙、墨、筆を遣って絵手紙を完成させると、東洋の神秘にいたく感動を覚えるようだ。
わが社でも約10年前、小池邦夫さん監修で『人並みでたまるか――小池邦夫と五人の絵手紙の達人たち』を刊行し、絵手紙ファンに好評だった。
この時、編集担当した臼井雅観君は、まだわが社へ入社して間もない頃だった。それ以前、臼井君は、小池邦夫さんの来し方を『絵手紙を創った男』(あすか書房刊)という一冊に纏め上梓したことがある。いわば絵手紙について小池さんとは師弟の関係であって、この関係が今でも続いている。こうした強力なラインで、清流出版の単行本として絵手紙の新企画が浮上した。
今回のテーマは、小池さんの夭折された愛息・徹クンの絵手紙集を一冊にする企画だ。それも徹クンが5、6歳の頃に描いた作品1000枚の中から厳選して一冊にするもの。実際に子どもの絵には神様が宿っている。ページをめくる度、カブト虫、かえる、にわとり、ヒョウ、牛……等、見事なデフォルメと迫力あるタッチ、鮮やかな色遣いで素晴らしい作品ばかり。大袈裟でなく天才の作品という感じがする。かつて産経新聞「産経抄」の名コラムニスト・石井英夫さんが徹クンの才能を絶賛したのも頷ける。
書名も『神様が宿る絵手紙!――徹クン、君の画に惚れたよ』に決まった。著者は小池徹、編者は小池邦夫。親子合作の単行本がここに誕生する。11月6日から東京・銀座の鳩居堂で、小池邦夫、小池徹の親子展も開催する予定である。絵手紙に興味がある方、ぜひ本を買って、展覧会にもお運び下さい。
久しぶりにわが社から絵本二冊が同時に刊行された。いずれも堤江実さん(左から2人目)が本文を執筆している。その文章は、やさしくてわかりやすく、うつくしい詩文で、お子さんと親が一緒になって音読できるようになっている。二冊とも、英文付きで、英語の分かる外国人と一緒に読んでも楽しい。二冊の絵本の装丁は西山孝司さん(右から2人目)が行ない、この日、お集りいただいた画家の出射茂さん(左)と杉田明維子さん(右)も、おのおの担当の本で最終下版を念入りに行なった。
『水のミーシャ――地球・いのちの星』は出射茂さん、『うまれるってうれしいな』は杉田明維子さんがそれぞれ絵を担当で、版ズレや色むら、ゴミの有無まで注意深く校正された。
『水のミーシャ――地球・いのちの星』は、「地球交響曲第五番」に登場したブダペスト・クラブ会長のアーヴィン・ラズロ博士が、「日本中のすべての子どもたち、また世界中のすべての子どもたちに読まれるべきもの。そして、その子どもたちのすべての親たちにも」と、格好の推薦文を寄せてくれた。
また、『うまれるってうれしいな』の本は、聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんが、「今まで、いのちとか、愛とか、そして多くの若い息子達のいのちを奪った戦争の憎しみを写真と詩とで世間に訴えてきた。この詩人の心の中の叫びを、子供をもつ親に、またこれから子供を持ちたいと願う若き女性にもこの詩の本を読んでもらいたい」と、熱烈なメッセージで推薦された。
苦手な絵本のジャンルで苦戦が予想されるが、はからずも二冊とも、わが社の刊行物に強力な援軍を得たようなもの。立派な推薦者たちの後押しを受けて、がんばって世に訴えていきたい。
堤江実さんの娘さんの堤未果さん(写真)が、単身、企画打ち合わせに来社された。つい先ごろ上梓された『報道が教えてくれない アメリカ弱者革命――なぜあの国にまだ希望があるのか』(海鳴社刊)を持参。この本は、基本的に季刊誌「ひとりから」(金住典子&原田奈翁雄編)の連載「世界中のグラウンド・ゼロ」(2004年12月・第24号?2005年12月・第28号)を大幅に加筆・修正して刊行されたものだ。未果さんはこの本で、見事に日本ジャーナリスト会議黒田清新人賞を受賞した。
全体として、日米の架け橋で大先輩の國弘正雄さんに影響を受けたであろうことは間違いない。だが、未果さんの若い感性が迸る本書は、あとがきに「国籍や肌の色、ひざまずく神様の違いを超えて、市民の手はつながれ、同じ未来を創る仲間、ひとつの大きな祈りになる」、「私は人間の中にある[善きもの]を信じている」とお書きになっているように、若いにもかかわらず精神的にタフで、土性骨がしっかりしている。
ここで、堤さんの経歴を簡単に紹介する。高校を出て、渡米。ニューヨーク州立大学国際関係論学科を経て、ニューヨーク州立大学院国際関係論研究科修士課程修了。国連、アムネスティインターナショナルニューヨーク支局員を経て、米国野村證券に勤務中、9.11に遭遇。帰国後は、アメリカ―東京間を行き来しながら、執筆・講演活動をしている。国際政治環境研究所の理事でもある。
著書には、『空飛ぶチキン―私のポジティブ留学宣言』(創現社刊)、『グラウンド・ゼロがくれた希望』(ポプラ社刊)と最初に紹介した『報道が教えてくれない アメリカ弱者革命――なぜあの国にまだ希望があるのか』(海鳴社刊)がある。
CS朝日で、月水金の週3日間、「ニュースの深層」というニュース番組のニュースキャスターを務めることも決まったそうで、活躍の分野をますます広げている。まさに伸び盛りのジャーナリストである。20代の若者たちと団塊世代のはざ間にあって、なんとか橋渡し役をしたいとの夢をお持ちのようで、僕としてもできる限り応援していきたいと思っている。わが社から刊行したいテーマは、数々あるが、もう少し具体的に決まるまで明かさないほうがよいと思う。いずれにせよ、若いバイリンガルの著作家、ジャーナリストとして、今後が楽しみである。
9月23日、小川宏さん(中央)の『夫はうつ、妻はガン――夫婦で苦境を踏み越えて』のサイン会が紀伊國屋書店新宿本店の二階催事場で行なわれた。ちょうどお彼岸の中日である秋分の日と重なったため、はたして人が集まるかどうか心配していたが、その心配はまったくの杞憂に終わった。
会場は老若男女合わせて、サインをもらいたい人の列が階段の上の方まで並んだ。一人で何冊も購入した方もあり、時間内に終わらないかと心配になり、小川さんにお願いして少しサインの速度を早めてもらったほどだ。小川さんは一人ひとりに声を掛けながら、なごやかな雰囲気の中でサインをし、所定の時間内にぴたりと終えた。さすがに分単位で仕事をしてきた人は違うと一人感心したものだ。
前著の『宏です。小川です――昭和わたし史交友録』を上梓した時にも、同じ紀伊國屋書店新宿本店でサイン会を行なったが、いずれも小川さんとNHKアナウンサー時代の同僚で親しかった田邊禮一さん(紀伊國屋書店取締役相談役)の肝入りで実現したものである。
小川さんの8歳年下という田邊さんだが、かねてより病気療養中だったと聞く。その田邊さんが、今回のサイン会直前に逝去されるところとなり、その暗合には僕も驚いた。小川さんの落胆ぶりはいかばかりだったろうとお察しする。サイン会の後、小川さんは午後6時から芝・増上寺光摂殿で行なわれたお通夜に出席された。こころからお悔やみいたします。
忙中閑、秋晴れの午後、野見山暁治さんの新作絵画展を観に出かけた。京橋の「ギャラリー山口」を会場として開催されたものだが、今回の展示作品は大ものばかり。ギャラリー山口の白川真由美さん(左)と僕が立っている絵が標準サイズ。油絵の百五十号のキャンバスが会場一杯に飾られている。あいにく野見山暁治さんはいらっしゃらなかったが、白川さんにお聞きすると、今日も夕方になるとお見えだという。お昼休みに出かけるのがわれわれビジネスマンの宿命で、くれぐれも野見山さんによろしくと言づけた。
同行した野本博くんは、目下、鋭意、野見山さんの本を作っている最中。『美術の窓』に連載中の「アトリエ日記」をわが社から単行本として上梓するものだが、刊行のあかつきには、ギャラリー山口さんでも本の販売をしていただくようお願いした。白川さんが快諾してくれたので、気分よく会場を後にした。その後、近くの「美々卯」でうどんすきを食べながら、いい絵を観て、うまい食事をとり、よい昼だったなと気分爽快の日だった。
2006.09.01金子人見さん 藤森武さん 林立人さんほか
イラストレーターのくすはら順子さん(左)が、鹿島建設?の建築設計部建築設計グループ副部長の金子人見さん(右)を伴って来社された。くすはらさんが事務所を置くビルの所有者と金子さんが友人ということで知り合ったのだという。
くすはらさんは、わが社で単行本の装画(岸本葉子+渡辺葉の共著『葉と葉子のふたりごと』、石丸晶子著『百花繚乱 江戸を生きた女たち』)や、本文中の挿し絵(エリザベス・コーツワース著『極楽にいった猫』)をはじめ、月刊『清流』のイラスト等で活躍していらっしゃる。日本児童出版美術家連盟会員であるくすはらさんのイラストは、独特なユーモア溢れる作風で、僕も大変気に入っている。
目下、『清流』に連載中の作品などは金田一秀穂さんの本文も素晴らしいが、くすはらさんのイラストも秀逸で、毎回笑いを誘われる。デフォルメされた人物を墨の濃淡を使ってダイナミックに表現している。こういう作品を生み出すのも才能だと思う。近年は、イラストに本の装丁、CDジャケット、紙粘土造形、壁画……と何かとお忙しい。
金子人見さんは団塊世代。肩書きでお分かりになるように建築設計の専門家だが、実に多趣味である。お持ちいただいた原稿を見せてもらったが、人文、科学、哲学まで幅広い学究型の人である。「ターニング・ポイント」というエッセイがあった。その中に金子さんが車を手放すくだりがある。その理由に共感を覚えた。生活のゆとりを見出そうとしたこともあるが、何より事故を起こすことで相手の方や自分の周りの人の人生を台無しにしたくなかったからと金子さんは書いている。手放したとき、安堵感が体の隅々まで染み渡ったそうだ。その他のメリットとして、電車で考え事をする時間が生まれ、歩くことの快感を知り、煩わしい維持管理も不要になった由。排気ガスや資源の浪費などまで入れたら、一石四鳥、五鳥にもなると結論づけている。これを読んだだけでも、金子さんの地球の未来を憂える温かい心情が漂ってくる。清流出版にふさわしいエッセイ集となるはずだ。くすはらさんの装画、イラスト入りで、刊行に向け前向きに検討することにした。
写真家の藤森武さん(写真)が、来社された。藤森さんは、日本を代表する写真家土門拳に早くから師事、全国各地の仏像や寺院のほか、勅使河原蒼風、熊谷守一といった芸術家、芹沢銈介のコレクションや白洲正子の蒐集品等を撮り続けてきた方でも知られる。東京写真短期大学(現東京工芸大学)を卒業、凸版印刷写真部を経て、フリーランサーとなる。現在、日本写真家協会会員、土門拳記念館理事・学芸員を務めている。
藤森さんの作品だが、単独写真集としては『ござる――狂言師野村万作の芸』(講談社刊)、『日本の観音像』(小学館刊)、『独楽――熊谷守一の世界』(世界文化社刊)などがある。また本文は他人、写真撮影が藤森さんの組み合わせで数々のコラボレーション企画がある。そのなかでも、田中恵さんとの『隠れた仏たち』シリーズ(東京美術刊)が有名だ。『里の仏』『華の仏』『神と仏』『山の仏』『海の仏』の全5巻だが、どの刊をとっても素晴らしい出来栄え。田中恵さんの文章と藤森さんの写真は、日本各地の知られざる仏像の傑作を通して日本人の忘れていた世界、各地に安置された美しい仏たちが勢揃いするような気持ちにさせる。
白洲正子さんとの『花日記』『器つれづれ』、宇野千代さんとの『きもの日和』(いずれも世界文化社刊)、藤井健三さんとの『銘仙――大正昭和のおしゃれ着物』(平凡社刊)なども心に響いた。その他、「藤森ワールド」には魅せられた作品が多い。師である土門拳を記録した『土門拳骨董の美学』(平凡社刊)は、僕の気に入った一冊だ。この土門拳については、話が弾んだ。
土門拳が脳出血になったことは、同病の僕にとっては大いに関心があるところ。藤森さんの話を聞くと、とても真似できないなという気持ちになった。土門拳は51歳の時、脳出血で倒れるが、その後も大型カメラによる古寺撮影を続け数々の名作品を残している。再び脳出血で右半身不随となるが、左手で画を描くなどリハビリに励み、車椅子で弟子に指示しながら精力的に撮影を行った。70歳から晩年の11年間は、寝たきり状態となり覚醒することなく81歳で亡くなった。凄まじいプロ魂で生涯を終えた師を間近にして、弟子としてはいやが上にも写真道への精進を誓ったに違いない。
この日、藤森武さんから興味あるテーマをいくつか提案された。ここでは明かすことはできないが、ことごとく賛成したい企画であった。
中川典子さんは、京都生まれの京都育ち。大阪藝術大学を卒業されて、編集者として裏千家の機関紙『淡交』『なごみ』などを刊行している淡交社に勤めていた。京菓子を担当した後、季刊誌『淡交別冊』の編集部に7年間勤務している。出版部の臼井君とはその編集者時代に知り合ったという。弊社刊行の太田治子さんの著になる『空の上のお星さま』に『淡交別冊』に掲載された文章を所収させていただいたことが縁である。
中川さんは編集者として数々の単行本ヒット作を仕掛け、会社側からは慰留されたようだが、木のやさしさ、木のぬくもり、木の美しさに魅せられ、退社することになる。ヒノキ、スギ、マツ、ブナ、トチ、ケヤキ、カリン……、木の種類は多い。その名前と材質を覚えるだけでも大変だ。その上、同じ木でも育った場所や気候風土によって固さや性質などが違ってくる。木の性質を100%生かすための「木取り」など一生勉強だという。
そこで中川さんは、編集者時代の伝手を頼って、岐阜県、奈良県吉野で修業をしている。現在、家業の銘木業・酢屋(屋号・千年銘木商会)に戻って見習い中である。この酢屋だが創業以来280年になるという老舗である。森鴎外の小説にもある高瀬川の運搬許可を持つ銘木商で、六代目酢屋嘉兵衛の折、坂本龍馬を匿った店として知られる。司馬遼太郎著『竜馬がゆく』の第8巻に登場し、海援隊京都本部が置かれていた場所だという。
さて、木の話に戻すが、さすがに床の間や床柱くらいは知っている人もいるだろうが、鴨居、長押、欄間などといわれて、分からない人のほうが多いだろう。中川さんはこの時代の風潮に逆行し、なんとか木の魅力を知って欲しいとのコンセプトから、さまざまな試みをしてきている。「京都新聞」に1年以上にわたって連載された「木林学ことはじめ」、現在『家庭画報』に連載中の「木のことば」などその一環である。
また、中川さんは淡交社勤務の頃、京菓子を担当した下地もあって和菓子の普及にも一役買っている。各地でイベントを催して、和菓子の魅力を知ってもらおうとの目論みだ。茶道と茶室、和菓子と木との関わりも考えてみれば関係が深い。日本の伝統に息づく精神は、和菓子も銘木も同じである。
中川さんから「男の暮らしに銘木を」と題した単行本の企画提案をされた。木のやさしさ、木のぬくもり、木の美しさを知ってもらうための企画である。酢屋の天然銘木で作ったブックエンドや小皿、衝立、椅子などを文章で説明するとともに写真掲載するものだ。床の間製作、古家具や古建具、古家具の修理、町家改修なども手掛けている酢屋のことである。微調整は必要だが、面白い本ができそうな気がする。
詩人の林立人(はやし・たつんど)さん(右)が来社された。日本現代詩人会前・理事、日本文芸家協会会員、第52回H氏賞選考委員長(2002年度)等を務める文学界の隠れた至宝である。僕とは実に36年ぶりの再会であった。話は古くなるが、僕が29歳の時、社命からフランスで刊行されている『Realites』という月刊誌の日本語版『レアリテ』を出すことになった。林さんには、その日本語版の表紙から本文、奥付に至るまで、デザイン&レイアウトを担当していただいた。
当時、林さんはデザイナーとして有名な方で、かつ新進気鋭の詩人でもあった。僕は詩人に「狂気のエレガンス」を編集ポリシーとしているから、それを念頭にデザインしてほしいと伝えた。詩人は無理な注文にもかかわらず、その言葉を信じ、割の合わぬデザインの仕事を快く引き受けてくれた。それから間もなく、林立人詩集『ツエツペリン』(詩学社刊)を上梓された。若かりし僕は、詩人の感性の閃きに魅せられたことを昨日のことのように覚えている。
『レアリテ』は僕をはじめ、藤平(後に工藤)庸子さん、嶋中行雄君、川鍋宏之君等の編集陣に混じり、アルバイトで日大藝術学部4年生・野本博君が参加していた。今回、林さんと再会なったのは、野本君が林さんの実妹(田代美代子さん)から辿って、やっと現住所を突き止めてくれたことによる。
その田代美代子さんは、なんと月刊『清流』の昨年5月号「この人に会いたくて」欄にすでにご登場いただいていた。シャンソン歌手としてデビュー後、和田弘とマヒナスターズと組んで「愛して愛して愛しちゃったのよ」を大ヒットさせた田代さんだが、いまは子どもたちのために「寺子屋」を広めたいとの願いで、ユネスコ世界寺子屋運動を支援する実に奇特な方である。
林さんは、6年前から大都会の喧騒を逃れ、山梨県の北杜市北巨摩郡明野村で暮らしている。甲府生まれの日本画家・野田修一郎さんが明野村に仕事場を構えたのがそもそものきっかけ。野田さんは1993年にお亡くなりになったが、林さんの生活は、今も野田さんとの交友の面影が色濃く残っているようだ。
今回いただいた林さんの詩集『モリ』(花神社刊)は、序詩の部分で「背に<詩>と記された薄い本を書棚から抜いた intrare Mori<モリへ>とあるからモリへ向かう……mement Mori〈死を想え〉羅甸まがいの念仏が聞こえたような」という文章から始まっている。後記にも、「……老人の薀蓄が、耳のなかを、繰り返し素通りするうちに、突然、読み終えたばかりの、ホイジンガの『中世の秋』で語られた、中世ヨーロッパ人たちの、思想のひとつの背景となるラテン語〈mement Mori〉が脈絡もなく頭の中で鳴りだし、ぼくを混乱させた。……」とある。格調高い詩である。
林さんも触れておられるが、歴史家として名をなす以前、サンスクリットに通暁、インド学者だったホイジンガが基調にあることが分かる。林さんは、その詩集に『林立人 詩《モリ》を読む』のCDを作製して付けている。朗読は自ら行ない、作曲とチェロが山本護さん(本職は牧師さん)、ピアノ演奏が竹内亜紀さん(故・元キネマ旬報社社長の令嬢)の伴奏の素晴らしい演奏付きだ。いまも、毎日のように聞いているが、僕のお気に入りCDである。
林さんは、2006年1月26日付け「山梨日日新聞」に、中国の詩人・陶淵明、『方丈記』の作者・鴨長明、アメリカの随筆家で『ウォールデン――森の生活』の著者、ヘンリー・D・ソローの3人の名前をあげ、24歳で山梨の四尾連湖畔に素朴な小屋を建て、独居の隠棲生活を続けた詩人・求道家である「野沢一(はじめ)」について語っている。このことが、取りも直さず「森の詩人」である林立人のスタンスを物語っているようで頷ける。
やっと再会叶った尊敬する詩人に、僕は大いに期待している。まずは月刊『清流』で、風雪の鑿で彫り上げた風貌をご覧いただく。そして読書の楽しみと森の思想について語ってもらいたい。この世俗に染まらない哲学者のような詩人の書く言葉を、単行本に纏めて読者に提供できれば本望だと思っている。
2006.08.01ねじめ正一さん 織作峰子さん 富良野ほか
作家、詩人のねじめ正一さん(右)が、来社された。ねじめさんはかつて2年間にわたって月刊『清流』で連載されたエッセイを単行本にまとめる話が進んでいた。「家庭往来(all right)」というタイトルで連載されていたが、そのエッセイに朝日新聞、日本経済新聞等に寄稿した文などをプラスし、加筆修正して一冊にしようという狙いである。
担当の古満君(左)がねじめさんと綿密に話を進めてくれたおかげで、売れそうな本ができつつある。題して『老後は夫婦の壁のぼり』。団塊の世代に大受けしそうな内容で、東京・阿佐ヶ谷で「ねじめ民芸店」を営むねじめさんの日々の生活から夫婦関係、仕事、近所づき合い、野球談義等を書いている。男の本音でユーモアたっぷりに「夫婦のすれ違い」や「老い」など悩みのタネに迫るのが狙いだが、その裏にねじめ夫人の存在が厳然としてある。その証拠には各章毎に鋭い突っ込みの「オクサンの言い分」が付け加えられている。この部分の文章は、ねじめ夫人が自ら執筆されている。ねじめさん+夫人の共同執筆となるとこの本が処女作となるのではないか。団塊の世代向けの売り線がこうした仕掛けであると言ってもよいだろう。
この日、ねじめさんとタイトル、本文、組、装丁の問題を確認できたので、あとはゲラの責了を待つばかり。9月下旬には上梓できるはず。連載中に、イラストを伊波二郎さんにお願いしていたが、えも言われぬおかしさ一杯のイラストが好評だった。単行本も伊波二郎さんの絵がカバーから本文に12ヶ所も登場することになる。
ねじめさんの作品と言えば、第101回直木賞を受賞した『高円寺純情商店街』をすぐ思い出す。その時、吉祥寺の弘栄堂書店でサイン会などをやってベストセラーへ結びついた。これにあやかって、わが社も発売と同時に、この弘栄堂書店でサイン会をしたいと思っている。それ以外に、全国の書店網をはじめ、広告宣伝にも力を入れ拡販に注力したい一冊だ。
今回、ねじめさんから聞いた話で面白かったことは、人から同じ直木賞作家の出久根達郎さんと間違えられることがちょくちょくあるとのこと。出久根さんといえば、わが社からも藤木君の編集担当で『養生のお手本――あの人このかた72例』『下々のご意見――二つの日常がある』の2冊を刊行させていただいた。ねじめさんが阿佐ヶ谷、出久根さんが高円寺。ねじめさんが民芸店、出久根さんが古書店「芳雅堂」を経営していた。お二人は名文家でもあり、いわば同じ中央線沿線に居住する作家な上、多種多彩な才能ある方。どちらにしてもわが社の執筆者である。読者のみなさん、お二人の区別は間違うことなく、今後ともよろしく。
もう一つ、注目すべき話があった。かつて月刊『清流』の冒頭のページで5年にわたって名詩を飾られた詩人の谷川俊太郎さんの本を作ったらどうかと提案があった。谷川さんが他人の本に推薦する帯の文章が実に秀逸で興味あるというのだ。各社思い思いに帯の文を頼むので、それをまとめたら、谷川さんがどのような本を評価しているか、どのようなアングルで推薦しているか分かるわけで、読者人には興味深い本ができそうだ。さすがにねじめさんの発想は面白い。僕はこのアイデアを清流出版が独占すべきではないと思った。これを見た他社の編集者が競争相手になっても構わない。ねじめさんのアイデアを先に谷川さんに説得できる方が優先権を持つことを保証したい。
本間千枝子さん(左)と筑波大学大学院教授・谷川彰英さん(右)。僕は二人とも初対面だが、本間さんは臼井君の知り合いで朝の読書運動を推進するタブロイド新聞『MORGEN モルゲン』(有限会社遊行社発行)の取締役・編集長である。本間さんには、荒川じんぺいさんを紹介していただいた。荒川さんには、わが社から『じんぺい流 パソコンお絵描き指南』『森に棲むヒント』を刊行させていただいた。本間さんのおかげで、『MORGEN モルゲン』紙面で森本哲郎さんの『吾輩も猫である』や高尾五郎さんの『ゼームス坂物語 全4巻』を紹介してくれたこともある。
この日は(有)遊行社主宰の教育問題のセミナーや講演会等の講師としてご協力いただいているという谷川さんを伴って来社された。聞くと谷川さんは塾の経営者として荒れる中学生をどう立ち直らせるか苦労したというご体験がある。子育てに困り果てた母親たちと共に、日々真剣勝負で子どもたちと向き合ってきた。こうした体験を通して谷川さんは、母親が「ダメなママ」であることを自覚することによって、子どもたちへの対応も変わっていき、子どもたちも自立の道を歩み始めることを学んだ。
「ダメママ会」という会も組織され、すでにこの会との付き合いも20年になるという。この塾の経営体験を書いてもらえば、子育てに苦悩する若い母親たちにいい参考になるのではないか、との直感が湧き、緊急出版させてもらうことにした。8月中に脱稿という強行日程だが、本間さんが外部編集者としてお手伝いいただけるので安心している。
企画提案されたもう一冊の単行本、『学校の限界 なぜ子どもは学校で苦しむか』も、40年間にわたる学校教育の研究者として、谷川さんの集大成ともいうべき企画でありこの企画にもゴーサインを出した。格差社会が進む中で、教育の機会均等も失われつつある。所得水準の多寡によって夢が描けない生徒が出てくるようでは困る。ますます教育現場は荒れることになる。これをなんとかしなければ、日本の未来は展望できない。なんとか谷川さんの著書で、流れを変えたいものである。
武山健さん(写真)とは臼井君が織作峰子さんの写真展初日のパーティに参加した折に、たまたま会場で織作さんに紹介されてお会いしたのだという。このパーティには僕自身出席できなかったが、わが社から刊行された織作さんの写真集『MY SWITZERLAND』の出版を記念して開かれたもので、東京・銀座のキヤノンギャラリーには織作さんの交友の広さを反映して大勢の関係者が詰め掛け大盛況だったようだ。
武山さんの会社は、わが社と同じ神田神保町。徒歩数分という至近距離にあり、気軽に訪ねてこられたのだ。武山さんは以前、小学館の編集責任者として各種女性誌の創刊に力を尽くされた方。その頃、織作さんと知り合われたという。小学館を退職されたあと、編集プロダクション「ケンブリッジ」を設立、代表を務めている。実は僕の知り合いにも「ケンブリッジ」という社名の会社を経営している者がおり、この偶然にしばらく花が咲いた。
武山さんの仕事としては、同朋舎メディアプランから編集委託された『国宝倶楽部 えん』が眼を引いた。創刊号の特集は「空海」、二号目が「良寛の恋」、三号目が「聖徳太子の改革」とバラエティに富んだもの。レギュラー執筆陣も瀬戸内寂聴、櫻井よしこ、鈴木秀子の各氏のほか、人間国宝との対談・撮影を織作さんがやっておられる。充実した人選の上、ビジュアル的にも洗練されており、よく出来た雑誌だと思ったが、残念ながら三号で休刊になってしまったのだという。スポンサーの都合とはいえもったいない話である。
とりあえずこの日は、武山さんの編集プロダクションで手掛けた単行本等も見せていただいて、お強い分野・傾向もよくわかった。編集者、カメラマンなど力のある外部スタッフを抱えておられることもあり、いずれなんらかの形で接点が出来てくるものと思う。
前の武山健さんの項でも述べたが、今月、わが社から刊行された写真集『MY SWITZERLAND』の著者・織作峰子(右)さんが、今回の仕掛け人である飯嶋清さん(遊人工房)を伴って来社された。本来はこちらからご挨拶に伺なければいけないところ、会社に来られてお土産まで頂戴して恐縮の至りだった。この写真集は、スイスの小さな可愛い村々、素朴な人々の表情、そして、スイスならではの雄大な自然の美しさを堪能できる素晴らしい作品となっていて、編集担当の秋篠も大満足。スイス・ファンのみならず、人々と大自然の素朴さと美しさの極致を味わいたい方々にぜひともお勧めしたい。
織作さんはこの写真集ができたと同時に、全国の個展を展開し、宣伝キャンペーンを企画してくれた。出版社にとって、著者としては最高の方である。すでに発売日に合わせて、東京・築地のADK松竹スクエアと東京・銀座のキヤノンギャラリーの2ヶ所で『織作峰子写真展――スイスの小さな村を訪ねて』を開催して成功裡に終わった。その後、8月3日(木)?9日(水)まで大阪・梅田のキヤノンギャラリーで個展を開催し、以下、札幌、名古屋、福岡、仙台…の各キヤノンギャラリーと今年一杯のスケジュールが決まりつつある。
会場では、デジタルカメラ&デジタル出力で大きな写真が拝見できる。本とはまた違った世界を味わうことができる。この日、一連の打ち合わせを兼ねて、いろいろの話が出たが、ここでは省く。いずれにしてもこれから各会場と近隣の書店網を結びつける仕掛けの工夫が、特に田辺販売部長、臼井出版部長以下、全員でやらなければいけないことは事実。著者が積極的に動いてくれるのを会社として支援できないなんて恥ずかしい!
ところで織作さんは、よく知られているように1981年ミスユニバース日本代表に選ばれ、その任期終了後ただちに写真家を志した方だ。人物写真から自然をテーマとした写真など独自の感性で撮影した作品が多く、いまや名実ともに実力派の写真家である。
今日、織作さんから初めて聞く話で、興味深い話がある。月刊『清流』の連載を約10年続けたのをはじめ、絵入りエッセイ『風の旅 心の旅』『自分への旅』の二冊を刊行させていただいた俳優・榎木孝明さんとは、以前からお付き合いがあったという。
榎木さんは昨年10月、北海道・美瑛町に榎木孝明水彩画館を建設し水彩画を展示している。館内には織作さんが撮った榎木さんの大きな写真が飾られている。10年ほど前に撮影されたものだが、ご本人がいたく気に入って折りに触れ、使用許可を求めてくるのだという。このことをもう少し早く知っていたら、詳細は後述するが、僕が最近実現させた北海道旅行のスケジュールを変えたと思う。まことに残念だった。榎木さんの近年の映画『HAZAN』(五十嵐 匠監督)で板谷波山を好演したのも話題になって、一気に盛り上がった。織作さんの故郷は石川県金沢。榎木さんの故郷は鹿児島県。織作さんと榎木さんの「美男美女」二人が、親交厚かったとは知らなかった。被写体と撮影者との息のあった作品がまさか北海道・富良野にあったとは!
織作峰子さんと会った日の約10日前、飯嶋清さんが北海道・富良野のラベンダー祭りに出かける話を聞いた。また飯嶋さんよりさらに1週前、僕たち夫婦が障害者のバリアフリーツアーで富良野の満開寸前のラベンダー畑を見物している。梅雨真っ盛りの東京を離れ、富良野は天気もよく、摂氏29度の暑さも爽やかに感じられる日だった。その時は、織作峰子さんと榎木孝明さんのことは知らなかった。榎木孝明水彩画館も見ていない。
その代わりに有名な「ファーム富田」の花畠(上の写真)の素晴らしさを楽しんで、運よくラベンダー伝説の人・富田忠雄さん(下の写真中央)に出会えることができた。わが社から笹本恒子さんの『夢紡ぐ人びと――一隅を照らす18人』の冒頭に富田忠雄さんが取り上げられている。その時、東京・銀座でやった出版記念パーティのことを富田さんもよく覚えていて「その節はどうも…」と言う発言の後、「笹本さんはお元気ですか?」とのご質問。飯嶋清さんから聞いた近況の受け売りで、「お元気ですよ。つい最近もフランスへ行って、講演したそうです」とお話した。富田さんの『わたしのラベンダー物語』や笹本さんの本から、かつてラベンダー畑と格闘し、並大抵の苦労ではない苦境を乗り越え、今や全国から集まる観光客で一杯の畑を見ると、僕も目頭が熱くなった。
ちょうど月刊『清流』の最新8月号の第2特集で、『日本で最も美しい村』を取り上げた。この特集の冒頭は、北海道・美瑛町だった。ラベンダー畑、ドラマ「北の国から」、”パッチワークの路”……。まさに僕らの行くところ美しい村の風景が連なり、雑誌片手に気分は最高! わが読者に紹介してよかったと思った。
2006.07.01桃井和馬さん 鈴木民子さん 岳真也さんほか
わが社から今年2月に刊行した『死と生をめぐる思索――石となった死』(香原志勢著)は、各誌紙、NHK BS2の「週刊ブックレビュー」などで続々書評に取り上げられたが、その一つに月刊『望星』(東海教育研究所)7月号がある。書評を書いてくれたのは、フォト・ジャーナリストの桃井和馬さん(写真)。著者の香原志勢さんの亡くなったご子息・知志さんと桃井さんは、かつて野本博君の勤めていた会社「エス・プロジェクト」で、仕事を通じて付き合った仲間である。お礼を述べたくて、月刊『望星』の書評が出てすぐに、野本君を煩わせて、桃井さんにわが社に来ていただいた。
桃井さんは自著『辺境からのEメール』(1999年 求龍堂刊)という本を持参して見せてくれた。この本は、同じく早世したKさんという友に語るべく、刊行の時点で15年間も延々と書き続けてきた原稿をまとめたもので、地球の憂うべき現状をあの世の友に伝えたい気持ちで書いたものだという。今回の わが社から今年2月に刊行した『死と生をめぐる思索――石となった死』(香原志勢著)は、各誌紙、NHK BS2の「週刊ブックレビュー」などで続々書評に取り上げられたが、その一つに月刊『望星』(東海教育研究所)7月号がある。書評を書いてくれたのは、フォト・ジャーナリストの桃井和馬さん(写真)。著者の香原志勢さんの亡くなったご子息・知志さんと桃井さんは、かつて野本博君の勤めていた会社「エス・プロジェクト」で、仕事を通じて付き合った仲間である。お礼を述べたくて、月刊『望星』の書評が出てすぐに、野本君を煩わせて、桃井さんにわが社に来ていただいた。
桃井さんは自著『辺境からのEメール』(1999年 求龍堂刊)という本を持参して見せてくれた。この本は、同じく早世したKさんという友に語るべく、刊行の時点で15年間も延々と書き続けてきた原稿をまとめたもので、地球の憂うべき現状をあの世の友に伝えたい気持ちで書いたものだという。今回の『死と生をめぐる思索――石となった死』を書評に取り上げてくれたのも、同様に香原知志さんとの熱き友情の賜物だと思うが、いつまでも亡友を覚えているのは素晴らしいことである。
桃井和馬さんは、これまでに世界130ヵ国を股にかけ、紛争地帯、地球環境などの切り口で取材し、第32回の「太陽賞」を受賞されている。最近でも『National Geographic(ナショナル・ジオグラフィック)』(米国誌)の写真コンテストで、人物部門の最優秀賞になったようだ(発表は同誌8月号)。日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)会員で、2004年10月より地球環境を映像として残すプロジェクト「G?Odyssey」に取り組んでいるという。「地球叙事詩G?Odyssey」をはじめ、「時代を見る! 時代を撃つ!」、「取材地リポート」、「戦争の時代を歩く」等など……メディア発信を続けている方である。
桃井さんのブログにこんな言葉がある。「世界を衛星のように回り続けてすでに20年以上が経つ。紛争を追い、戦争に涙し、地球的規模で進行する環境破壊を前に、強い焦燥感と徒労感さえ覚えてしまう」。なんともつらい言葉である。桃井さんの取材地域は、チェルノブイリからルワンダ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、アフガニスタン、イラク、ペルー、ケニア、タンザニア、インドネシア……と、ことごとく難問を抱えた国と地域である。その問題地域に挑戦する桃井さんの姿に、僕は情熱と行動力の点で目を奪われる思いがした。
持参してくれた写真集『もう、死なせない!』(フレーベル館刊)も衝撃的な写真集で、その切り取られた惨状に見入っていると、「このような写真と文章がもっともっとある。作品をぜひ清流出版からも出していただきたい」と桃井さんから願ってもない言葉が出た。僕はすぐに、「大いに期待する」と言って応じた。この写真を中心にした企画に、僕自ら意欲が湧いた。
桃井さんが帰った後、かれのホームページを見て、「地球叙事詩G?Odyssey」の項を見ただけで、志の高さがまざまざと感じ取れた。「1日を愛し、1年を憂い、千年に想いを馳せる」視点で、地球の資源・環境、人類の戦争・紛争を見続けている活動を応援したい気持ちが湧いてきた。僕は桃井さんの活動を勝手に「一人国連運動」と名付けたい。当の国連は迷走している。東西、南北の紛争が渦巻き、大国の勢力争いに終始している。それに引き換え、桃井さんのは掛け値なし一個人の志ある運動だ。こういった硬派のまっとうなプランが人々に受け入れられなければ、日本の将来はお先真っ暗だと思う。仮に出版企画として大成功しなくとも、現在の平和呆けした日本人と出版界に一石を投じる意味があると思いたい。
を書評に取り上げてくれたのも、同様に香原知志さんとの熱き友情の賜物だと思うが、いつまでも亡友を覚えているのは素晴らしいことである。
桃井和馬さんは、これまでに世界130ヵ国を股にかけ、紛争地帯、地球環境などの切り口で取材し、第32回の「太陽賞」を受賞されている。最近でも『National Geographic(ナショナル・ジオグラフィック)』(米国誌)の写真コンテストで、人物部門の最優秀賞になったようだ(発表は同誌8月号)。日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)会員で、2004年10月より地球環境を映像として残すプロジェクト「G?Odyssey」に取り組んでいるという。「地球叙事詩G?Odyssey」をはじめ、「時代を見る! 時代を撃つ!」、「取材地リポート」、「戦争の時代を歩く」等など……メディア発信を続けている方である。
桃井さんのブログにこんな言葉がある。「世界を衛星のように回り続けてすでに20年以上が経つ。紛争を追い、戦争に涙し、地球的規模で進行する環境破壊を前に、強い焦燥感と徒労感さえ覚えてしまう」。なんともつらい言葉である。桃井さんの取材地域は、チェルノブイリからルワンダ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、アフガニスタン、イラク、ペルー、ケニア、タンザニア、インドネシア……と、ことごとく難問を抱えた国と地域である。その問題地域に挑戦する桃井さんの姿に、僕は情熱と行動力の点で目を奪われる思いがした。
持参してくれた写真集『もう、死なせない!』(フレーベル館刊)も衝撃的な写真集で、その切り取られた惨状に見入っていると、「このような写真と文章がもっともっとある。作品をぜひ清流出版からも出していただきたい」と桃井さんから願ってもない言葉が出た。僕はすぐに、「大いに期待する」と言って応じた。この写真を中心にした企画に、僕自ら意欲が湧いた。
桃井さんが帰った後、かれのホームページを見て、「地球叙事詩G?Odyssey」の項を見ただけで、志の高さがまざまざと感じ取れた。「1日を愛し、1年を憂い、千年に想いを馳せる」視点で、地球の資源・環境、人類の戦争・紛争を見続けている活動を応援したい気持ちが湧いてきた。僕は桃井さんの活動を勝手に「一人国連運動」と名付けたい。当の国連は迷走している。東西、南北の紛争が渦巻き、大国の勢力争いに終始している。それに引き換え、桃井さんのは掛け値なし一個人の志ある運動だ。こういった硬派のまっとうなプランが人々に受け入れられなければ、日本の将来はお先真っ暗だと思う。仮に出版企画として大成功しなくとも、現在の平和呆けした日本人と出版界に一石を投じる意味があると思いたい。
桃井和馬さんが来て10日後、(株)フレーベル館編集局で活躍され、いまはフリーの編集者になった鈴木民子さん(写真)が来社された。会社を辞めた後、フレーベル館の編集局長が、桃井さんの写真集『もう、死なせない!――子どもの生きる権利』シリーズの続編をやれる人は鈴木さんしかいないと、また声を掛けられたという方である。そういう時期にわが社も桃井さんの企画を進めている。そこで、両社がバッティングしないようにするためにはどうしたらよいのか、率直に鈴木民子さんにフレーベル館の編集路線を聞いてみることにした。鈴木さんは気さくな人で、いろいろ話してくれた。同席した野本君が鈴木さんと親しいので、共通の知人の情報で盛り上がったことも大いにある。
桃井さんの「地球叙事詩G?Odyssey」は、彼をよく知る鈴木さんでも概念の全貌は掴めないという。桃井さんご本人の言葉を借りると、「プロジェクトG?Odyssey」は、ギリシャ神話に出てくる大地の女神「Gaia」と、球体を指す「Globe」という、地球を意味する二つの「G」から命名した、地球環境を見すえるプロジェクトということだ。翻って、ギリシャの詩人ホメロスによって書かれた『オデッセイ』は、「存在の起源と目的」を見届ける長い放浪の旅を描いた叙事詩である。スタンリー・キューブリック監督の『2001年:宇宙の旅』の原題も『2001:A Space Odyssey』である。桃井さんの「地球叙事詩G?Odyssey」は、なにかしら壮大な試みを感じさせるではないか。
桃井さんの企画もさることながら、僕にはもっと鈴木さんと話したい理由があった。鈴木さんの岳父のことだ。その人は、出版界にその名を知られた鈴木敏夫さんである。鈴木さんは、朝日新聞東京本社図書編集部員、主婦と生活・丹頂書房・トッパン各編集長を経て、読売新聞社に入社、業務局宣伝課長、出版局週刊読売編集部長、図書編集部長等を歴任。僕が出版界に足を入れて間もなく、鈴木敏夫さんの名著『基本・本づくり――編集制作の技術と出版の数字』(昭和42年 印刷学会出版部刊)が世に出た。前書き部分を入れると560ページにもなる分厚い本だが、本づくりの基本的なことを分かりやすく書いていて、まだ20代半ばの僕は夢中になって読んだものだ。「企画について」から始まり、編集という仕事の実際、原稿の整理と指定、レイアウト、書籍の本文以外の部分、校正の仕事、出版と法律、原価計算と採算、紙の常識、印刷の常識、製本の常識……、微に入り細にわたって論じられている。
鈴木敏夫さんは、その後、平凡社・ほるぷ顧問、日本出版学会理事などを務められ、昭和55年に64歳でお亡くなりになった。鈴木民子さんの話によると、晩年は脳出血の後遺症に悩み、人前に出ることを極端に嫌がったという。僕と同病だが、わが出版界は本当に惜しい人を失ったと思う。
先月の本欄・清水正さんの項で、浦和ロイヤルパインズホテルにおいて『ウラ読みドストエフスキー』の出版記念パーティが行なわれたと報じた。その時、清水さんの知人で出席していた作家の岳真也さん(右)と、翻訳家の佐藤美保さん(左)が来社された。パーティを欠席した僕に、野本君が両人にぜひ会ってくれと熱心に勧めてくれた。多分、清流出版と新しい仕事が展開するに違いないと睨んだ気味がある。お会いしてみると、お二人とも清流出版から刊行するに相応しい方だと感じられた。
ここで、岳真也さんのプロフィールを簡単にご紹介する。昭和22年、東京生まれ。私立駒場東邦高校を出て、慶應義塾大学経済学部を卒業、同大学院社会学科研究科修士課程を修了している。19歳の時、「三田文学」に中篇小説『飛び魚』を発表。卒業後はサラリーマンにならず、ラジオ・テレビの構成台本、CMコピーのライティング、ラジオの深夜番組のパーソナリティ、テレビのトーク番組の司会などに従事、その傍ら作家としての修業に励んだ。執筆された著書は、累計で約100冊。多作な方である。近年は、歴史時代小説に力を入れている。
岳さんの新作『福沢諭吉』(全三巻 作品社刊)がこのほど完結して、第一巻の「青春篇」(2005年)が、この日、増刷が決まったという。岳さんの先輩である故・江藤淳さんは、執筆意図を聞いて、「君は書いてはいけない。おやめなさい」と諭したという話だ。いまとなってはその発言の真意を知ることはできないが、理由を聞いてみたい気がする。福沢諭吉翁を慶應系の評論家・作家は徹底して論じてはいない。その一方で、丸山眞男(『「文明論之概略」を読む』、『福沢諭吉の哲学』等)や坂本多加雄(『新しい福沢諭吉』、『瘠我慢の説』等)のような東大系の学者、評論家は福沢諭吉を素材にして素晴らしい仕事をしている。一種、不思議な気持ちがする。岳さんの作品はまだ読んでいないので、これまでの僕のイメージが覆されることを期待している。
岳さんは、二十一世紀文学会、日本史寺子屋主宰、日本文芸家協会、三田文学会各会員で、目下、西武文理大学客員教授のほか、法政大学と早稲田情報ビジネス専門学校の講師を務めている。精力的に活動しつつ、仕事の合い間に趣味の競馬、旅と温泉、音楽(ギター)、朗読(詩と小説)……等を楽しんでおられる。昨年末の有馬記念で三連単の万馬券をゲットした強運の持ち主でもある。筆の方では、二十一世紀文学会を立ち上げ主宰し、芥川賞作家の三田誠広、直木賞作家の笹倉明、文芸評論家の山崎行太郎などの錚々たる同人メンバーを擁している。そのうち岳さんも負けずに何かよい賞を取るのではないかと期待している。
翻訳家の佐藤美保さん(左)は、ご自分の名刺を出したが、岳舎・翻訳ラボラトリーに所属という名刺だった。岳舎という名から多分、岳さんがからんでいると思ったら、やはりそうで、翻訳学院バベルで岳さんが教えた教え子の一人が佐藤美保さんだったことが分かった。かつてバベルプレスから岳真也さんは『英日翻訳文章表現法』を出している。英語とは、深く関わりがある。当日、佐藤さんは自分の訳書『オーラ・パワー獲得法――未知の能力を開花させる七日間』(心交社刊)を持参された。清泉女子大学文学部英米文学科卒とのことだが、先に述べた二十一世紀文学会にも属し、エッセイ等を執筆されている。『過去世への旅 自分発見トラベルガイド』、『体外離脱実践法 時空を超える旅への誘い』、『エジソンに学ぶ「ビジネス思考」』、『ささいなことでカッ!となる男たち』等の訳書がある。今後、お二人には尚一層のご活躍を期待したい。
2006.06.01藤田慶喜さん 清水正さん 野見山暁治さんほか
わが社から先月、刊行された『サフィア――新生イラクを担う族長の娘』(ヨハンナ・アワド=ガイスラー著 福田和代・伊東明美共訳)をご覧になって、桜美林大学教授の藤田慶喜(けいき)さん(左)が来社された。担当編集者の高橋与実と二人でお話を聞いたのだが、著者のガイスラーさん(オーストリア人)とは旧知の間柄だという。かつて藤田さんは、ウイーンの国際連合工業開発機関に務めておられたことがある。その時の秘書がガイスラーさんだったというのだ。最近、日本人も世界を股に駆け活躍する人が多くなった。藤田さんも、国際連合という公の組織でお仕事をされたわけで、そのお一人といえる。
ここで、後日送られてきた藤田さんの経歴を書いたメモを見て、僕なりに類推しながらご紹介すると、藤田さんは現在70歳。学生時代は麻布中・高校に学んで、東京大学理学部地学科に進む。卒業後、東北大学工学部大学院に進み、金属工学を学ぶ。就職先は富士製鉄(現・新日本製鉄)。研究所、製造部門(工場長、課長)をはじめ数々の役職を経て、新日鉄エンジニアリング本部長を務めた。ここまでの会社員生活がいわば第1段階。
その後、ウイーンの国際連合工業開発機関へと転出される。前述したように、その時の秘書がガイスラーさんだった。当時、ガイスラーさんも35歳前後、バリバリのキャリアウーマンであった。この国連職員として海外生活。この期間が第2段階。
その後、藤田さんは帰国し、NGO、団体講師等を経て、桜美林大学大学院国際学研究科・経営政策学部教授の職に就く。つい最近まで、同大学副学長を歴任されたほか、現在も同大学の総合研究機構長・国際学研究所長を務めておられる。この期間がいわば第3段階である。
歩まれた足跡を見てみると、道は変わっても、その都度役割を精一杯務めてきたことが分かる。現在は、日本マクロエンジニアリング学会会長、循環型社会研究委員会委員長、社団法人産業環境管理協会参与、人間環境活性化研究科会理事のほか、国際環境NGO、FoEJ(元地球の友)の代表理事に就任予定など、公務も増えて、多事ご多端な日々を過ごしておられる。
藤田さんの令弟は、NHKの解説委員であった藤田太寅(たかのぶ)さんである。太寅さんは数々の番組のキャスター、コーディネーターを務め、「NHKスペシャル」「クローズ・アップ現代」「ETV特集」など、躍動する時代の最前線を凝視した番組制作で活躍された。1999年に関西学院大学総合政策学部教授に転身され、同大学で日本経済論、メディア社会論を論じておられる。兄弟揃って華麗なる転職を遂げ、活躍の場を広げていかれたのはうらやましい限り。が、誰でも簡単に真似のできるものではない。恐らく二人とも、中高一貫の麻布学園で学ばれたが、その頃からの友人関係がプラスに働いたのではと推測する。
ところでこうして藤田慶喜さんの知遇を得たのもご縁である。藤田さんには、専門のマクロエンジニアリングの世界を、一般読者向けに分りやすく書いていただきたいと思っているのだが……。
本欄に何回も登場している明星大学教授の正慶孝さん(右)が、写真家の沖守弘さん(左)を伴って来社された。沖さんは、世界で初めてマザー・テレサの写真集を出された方。正慶さん曰く、日本よりも世界に名を轟かせたカメラマンであるとのこと。
沖さんはマザー・テレサの写真を撮るため、23年間に80回もインドを訪問しているとか……。写真集『マザー・テレサ 愛はかぎりなく』は、1997年、小学館より刊行された。何度も通い詰めてマザー・テレサの信任を得た沖さんだからこそ成った企画である。マザー・テレサは、1997年9月に亡くなったが、その三ヶ月前、沖守弘さんも第三期の食道がんにかかり全摘手術を受けている。その際、マザー・テレサから温かいお見舞いの手紙をもらったという。
マザー・テレサは天に召されたが、幸い沖さんは食道がんを克服し、いまもって元気に活躍されている。マザー・テレサに関しては、前述の写真集の他、『マザー・テレサ あふれる愛』(講談社刊)、『マザー・テレサ 愛に生きる――めぐまれない人びとにささげる一生』(くもん出版刊)等の著書もある。
今回、わが社に提案された企画は、もう一つのライフワークであるインドの文化風俗秘境を撮った写真集である。こうしたジャンルでも過去に、『沖守弘写真集 インド・祭り――神々とともに生きて5000年』(社団法人世界友情協会刊)、『インド・大地の民俗画』(未来社刊)といった大作を出している。
後者の本は沖さんが写真撮影し、本文・解説を小西正捷さんが担当、定価が7140円の大著である。このくらいの定価で驚くのはまだ早い。沖さんが写真撮影して、伊東照司さんが解説文を書いた『原始仏教美術図典』(雄山閣出版刊)は、定価が12,743円という豪華本である。これを見ると、値段に関係なく本を所有したくなるほど素晴らしい。しかし、時代が時代である。もう少し廉価にとのご所望も分かる。できればそうしたいと思っている。
「インドの仮面劇」「民俗画」「祭り」「仏教美術」など30年余間に撮影してきたテーマは多岐にわたり、約10万枚の映像に達した。インドでもあまりよく知られていない地方の貴重な写真で、文化遺産的に優れた作品も多い。刊行に向けて、前向きに検討してみようかと思っている。
わが社からつい最近刊行された『ウラ読みドストエフスキー』の著者、日本大学藝術学部教授・清水正さん(右)が、出来上がったばかりの本を受け取りに来社された。カバーイラストはいまや超がつく売れっ子漫画家のしりあがり寿さん。カバーデザインは、しりあがりさんの本の装丁を多く手掛けているあきやまみみこさんにお願いした。編集協力は、野本博君(中央)である。
かたや当代稀に見る書き手の清水さん、受けて立つ名編集者の野本君、ともに日本大学藝術学部卒業の名コンビで、つまらない本を作るわけがない! 本書の刊行については僕も入れ込んだが、かつて2006年2月分の本欄でも紹介したように、清水さんのウラ読み、ウルトラ読みを満載したユニークな本ができた。「ドストエフスキー研究の第一人者が大胆に読み解く衝撃の書!!」という帯文句に相応しい内容の本になったと思う。
詳しい内容は読んでのお楽しみということで差し控えるが、一つヒントをいうと、「はじめに」を読むだけでも、この本が現代の根源的な問題、疑問に答える本であると断言しても差し支えない。著者は次のように書く。
――わたしは昭和24年に生まれた。いわゆる団塊の世代に属する。戦後に生まれた者として、戦争を直接知ることもなく、当たり前のこととして民主教育を受けてきた。が、教育の現場が教える正義や善は、ほんの少し現実社会に目を向ければ脆くも崩れ去る。ましてや国際社会で起こっている様々な紛争や戦争の前では、善も悪もその境界をたちまち失う。戦争では人殺しが平然と行われる。公平や平等や愛を大声で叫ぶ人間が、同時に利権や信仰の違いで骨肉の争いを続けている――
こうした文章にぶつかると、先へと読みたくなる。で、その先もほんの少しだけ引用しよう。
――人間の神秘を解き明かそうとしたドストエフスキーを生涯にわたって苦しめた問題は、神の存在である。神は存在するのかしないのか。神は存在するとして、どうしてこの地上の世界を不条理なものとして創造したのか。ドストエフスキーの人神論者たちは、神がこの世に正義・真実・公平を実現していないと見て反逆の狼煙を上げる――
と続く。
具体的な事件、戦争、殺人の例は引用を省くが、最後に「ドストエフスキーの文学は、時代や民族を超えた普遍性を備えている」とある。このように冒頭の一部を読むだけでも、清水さんの志の高さの一端がご理解いただけよう。
清水正さんの『ウラ読みドストエフスキー』の本文には、各章にわたって人間と神の問題を徹底的に見つめ、描き出したドストエフスキーの文学に秘められた謎が分析されている。数字、言葉、時間、場所等から導き出される隠された真意。まさに目から鱗の文章が続出する。ぜひ、お読みいただきたい。
本書の出版記念パーティが5月27日、埼玉県さいたま市浦和区の浦和ロイヤルパインズホテルで行なわれた。僕はあいにくリハビリの予約があって欠席したが、臼井出版部長、野本君をはじめ、学生時代、清水さんの大学院の教え子である編集部の長沼里香が出席した。出席したメンバーによれば、午後5時から1時間の講演を聴いた後、場所を変えてフルコースの食事付きの祝宴となった。作家・文化人、日大藝術学部の講師や教授、新聞・出版関係等マスコミ関係者、後援者など50人ほどが集い、大盛況だったという。
本欄2005年8月分で紹介した蒲田耕二さん(左)が、「オフィス・サンビーニャ」代表で、音楽プロデューサーである田中勝則さん(右)を伴って来社された。蒲田耕二さんにご執筆いただいているシャンソンの本の原稿がやっと完成して、この日はその本に付けるCDの打ち合わせもあって、田中さんに専門家の立場からご参加いただいた。このCDには、約25曲のシャンソンを収めることになっている。収録作品はいずれ劣らぬシャンソンの名曲ばかり。今から完成が楽しみである。
CDの候補曲をアットランダムに挙げると、「さくらんぼの実るころ」「枯葉」「モンマルトルの丘」(以上、コラ・ヴォケール)、「愛の讃歌」「私の兵隊さん」「アコーディオン弾き」(以上、エディット・ピアフ)、「セーヌの花」「ガレリアン」(以上、イヴ・モンタン)、「小雨降る径」「マリネラ」(以上、ティノ・ロッシ)、「失われた恋」「ロマンス」(以上、ジュリエット・グレコ)、「人の気も知らないで」「かもめ」(以上、ダミア)。
あとは「パリの橋の下」(リュシエンヌ・ドリール)、「愛の言葉を」(リュシエンヌ・ボワイエ)、「詩人の魂」(イヴェット・ジロー)、「ブン」(シャルル・トレネ)、「バラ色のさくらんぼと白いリンゴの花」(アンドレ・クラヴォー)、「パリ祭」(リス・ゴーティ)、「マドモワゼル・ド・パリ」(ジャクリーヌ・フランソワ)、「小さなひなげしのように」(ムルージ)、「ゴリラ」(ジョルジュ・ブラッサンス)等の曲である。あの時代の本物のシャンソン。本場の雰囲気を味わってもらおうという趣向である。
田中勝則さんによると、CDはシンガポールで作ったほうが廉価で便利だという話になり、専門家の意見に従うことに決めた。蒲田さんが、田中勝則さんは音楽雑誌にCD評論などを寄稿した優れた書き手でもあるというので、藤木君と僕はぜひ一度、記事を見せてほしいと希望を述べた。
お二人が帰った後、パソコンで調べてみると、自主レーベル「ライス」から注目盤を精力的にリリースし続ける音楽評論家・田中勝則さんの活動ぶりが分かった。『インドネシア音楽の本』(1996年 北沢図書出版刊)をはじめ、15年程前には季刊「ノイズ」のミュージック・マガジン別冊で毎回執筆されているほか、名ライナーノーツ田中さんは「オフィス・サンビーニャ」で奄美音楽のRIKKI「ミス・ユー・アマミ」を売り出して、自ら解説も書いていることが分かった。田中さんは、つい先月、亡くなったブラジルのサンバ音楽家ギリェルミ・ジ・ブリートの「新しい生命」の対訳をされたほか、各国の民族音楽にも詳しい方で、この方面に疎い僕らが学ぶべきことは多々ある。今後、田中さんの企画がどんどん出てくることを期待してやまない。ちなみに蒲田さんの本のタイトルは『聴かせてよ愛の歌を――日本が愛したシャンソン100』(仮題)。400ページから500ページに及ぶ、シャンソンの決定版ともいうべき本になるはずだ。期待してお待ちいただきたい。
わが社から『こんな音楽があったんだ!――目からウロコのCDガイド』(みつとみ俊郎著)でいろいろと手伝ってくれた編集工房「ラグタイム」の青柳亮さん(左)の紹介で、クラシックを分かりやすく説いてくれる著者・室田尚子さん(中央)とお会いした。
室田さんは、東京芸術大学大学院修士課程(音楽学)を修了し、現在は音楽評論家で、武蔵野音楽大学講師、早稲田大学非常勤講師等も兼務している。「クラシック音楽を楽しむ」ことを常に活動の中心に置き執筆以外に企画や講演なども行なっている。わが社にとって得がたい人と、担当の藤木君が惚れ込んで著者に決定した。僕も室田さんならやさしく、わかりやすいクラシックの本ができる確信が湧いてくる。
昨年、室田さんはPHP研究所から『チャット恋愛学 ネットは人格を変える?』というユニークな本を出版したが、それ以前は、全部クラシックがらみの本を執筆されている。すべて共著だが、『200CD&DVD 映画で覚えるクラシック名曲』(学習研究社刊)、『ぴあ クラシック・ワンダーランド』(ぴあ株式会社刊)、『200CD クラシック音楽の聴き方上手』『200クラシック用語事典』(以上、立風書房刊)、『ヴィジュアル系の時代 ロック・化粧・ジェンダー』(青弓社刊)、『鳴り響く”性”──日本のポピュラー音楽とジェンダー』(勁草書房刊)、『ショパンを読む本?ショパンをめぐる29のアプローチ』(ヤマハミュージックメディア刊)等……。音楽之友社からも二冊出しており、このジャンルについては、専門的過ぎず、気軽に読める本作りを心得ておられる方だ。
室田さんのホームページを見た僕が、クラシックの本の案内役乃至は質問者として、室田さんお気に入りの猫ちゃんを起用したらどうかという案を出したところ、満更でもないような返事が返ってきた。『ネコも知りたいクラシックの本』とか『クラシックだったらお答えします。ゴロニャン!』という本ができたら、面白いと思う。
井上昭正さん(左)は国際経営協力センターの社長で、経営コンサルタントとして著名な方。今回、外部編集者の谷島悦雄さん(右)のプロデュースでわが社から本を出させていただくことになった。『国際ライセンスをもつ経営コンサルタントへの道』『人材力強化の研修戦略』『人材開発の組織戦略』など、コンサルティングの専門書は何冊も出されている方だが、一般読者向きの本というわが社の依頼に応えていただいたものだ。
この日の来社は、井上さんの脱稿した原稿を、谷島さんが編集者として眼を通した入稿用原稿と写真類を持参していただいた。担当者の臼井君も谷島さんの手際よいやり取りで好都合というわけだ。
この本は100年以上売れ続けているヒット商品を持つ会社7社にスポットを当て、なぜそれほど大衆に支持されてきたのか、その秘密を探り出そうとするもの。この7社の業種は食品会社、事務機メーカー、筆記具など多岐にわたる。具体的に名前を挙げれば、木村屋の桜あんぱん、金鳥の蚊取り線香、キューピーマヨネーズ、田崎の真珠、事務機のイトーキ、ゼブラのボールペン、カゴメ・ブランドなど、いずれ劣らぬ日本を代表するお馴染みブランド。
コンサルタントとして第一線で活躍中の著者が、精力的に当該会社に取材を繰り返して脱稿にこぎつけたものであり、かなりの労作であることは一目見て分かった。その歴史的商品のマーケティング戦略の秘密が、わかりやすい筆致で解明されている。あとは臼井君がデザイナーとどう形にしていくか、にかかっている。
仮題は『アンパンはなぜ売れ続けるのか?』だったが、いいタイトル案だが、一社の例しか表現できていないので、他の六社に対して失礼ではないかという疑問も出た。本を出すまで、なんとか知恵を絞りたい。
本欄に何回かご登場している画家・野見山暁治さん(左)が、5月22日から6月3日まで銀座のみゆき画廊で個展をされているので、僕は野本博君とこの個展を見に行った。オリジナル版画豆本「どこかに居る」も出版、展示されていて、よい個展だった。画廊店主の牛尾京美さん(右)にもお話を聞くことができた。現在、野本君が担当で野見山さんの単行本の編集が進んでいる。本の刊行時には、野見山さんの画との相乗効果も見込めることから、画廊に置かせてもらいたい要望を述べたところ、牛尾さんは快く承諾してくださった。年内にも発刊予定だが、牛尾さんよろしくお願いします。
野見山さんは、原稿執筆のほか、ご本業のデッサン、絵画の実作、旅……といつもお忙しい。それでも本人はいつも悠揚迫らぬ態度で、生活を送っておられるように見える。そういう風に見られるのも、野見山さんの生き方のコツであろう。この銀座個展の前、5月11日から14日までMMGのパリのジャルダン・デ・チュイルリーで行なわれる「国際版画展」Salon International de l’Estampe2006 に出品するため、フランス行きのスケジュールを組んだ。人から見るとかなり強行軍に感じるが、本人は一向に介しない。85歳とも思えぬ強健ぶりである。
その出発前の5月3日、野見山暁治さんを中心に10名余りが、会席料理の「銀座大増」に集まった。「在仏40年でモラリストであり自由人だった」椎名其二さんの縁にまつわる人々の集まりだ。この日は、たまたまドイツからモリトー良子さんが日本に戻っていたため、僕たちにまでお声をかけてくださった。有難いことに、モリトー良子さんは10年来、月刊『清流』の有料購読者である。お蔭で野本君と僕は光栄にも先生方と親しく接することができた。有難いことである。
以下、当日の模様を2枚の写真で紹介する。
右から野本博君(野見山さんの本の編集担当者)、曽禰知子さん(モリトー良子さんの妹、ご主人は前東急ハンズ社長)、野見山暁治さん(昨年12月菊池寛賞受賞。今年2月わが社から出た『小熊秀雄童話集』に「池袋モンパルナスと小熊秀雄」と題し、窪島誠一郎さんとの対談を収録)、加登屋、モリトー良子さん(在ドイツ。椎名さん直伝の製本家。令弟は住田良能産経新聞社社長)、安齋和雄未亡人の美恵子さん(この会の常連で早稲田大学教授の安齋和雄さんは、先年お亡くなりになった)。近藤信行夫人、近藤信行さん(作家・評論家、山梨県立文学館長、元中央公論社の名編集長)、山口千里さん(野見山暁治さんの秘書)、岡本半三さん(画家。10歳で奥村土牛、23歳で安井曾太郎と日本画と洋画の両巨匠に師事。1951年一水会展入選後、フランスへ留学。その際、野見山暁治さんと椎名其二さんと知り合った)、高松千栄子さん(岡本半三さんのパートナー)。
当日、僕が椎名其二さんにいただいたHan Rynerの装丁本を持って行ったところ、著者の名前はどう読めばよいのでしょうかと安齋美恵子さんから質問を受けた。説明すると、後日、故安齋教授の持っていたHan Ryner の原書が6冊会社に届き、いっぺんに僕はアン・リネルの研究家になった気分を味わった。
野見山暁治さんは、僕にとって約半世紀、気になっていた方、いや正確にいうと憧れていた方。もちろん専門の絵画について言うことはないが、窪島誠一郎さんと『無言館』の建設を筆頭に、行動する姿が素晴らしい。それに加えて、書くものが心の襞に染み入るようで印象に残る。『四百字のデッサン』を初めて読んだ時の衝撃は忘れられない。昨年、発行の『いつも今日――私の履歴書』に至るまで、約15冊の本をお書きになっている。どの本をとっても、奥行きが深く、何度でも読み返したい文章だ。文化功労賞を受賞されたが、画家、作家ともに高評価できる方はそう多くはない。
2006.05.01小熊秀雄・童話の朗読と鼎談の夕べ ほか
一昨年の夏、昭和30年代の子どもたちの暮らしをテーマに、人形制作を続けている人形作家・石井美千子さん(右)の作品集『昭和のこどもたち』(A4判 並製 88頁 定価2100円)を刊行した。その石井さんが来社された。お花見の季節で、九段下界隈は花見客で溢れていた。すぐに藤木健太郎君を伴って近くの寿司政で昼食をと思ったが、大入り満員で席をとるのがやっとだった。
『昭和のこどもたち』は、桐塑(桐の木の粉と生麩糊を混ぜ合わせた粘土で原型を作る)の人形だが、作り物ではない自然の背景に溶け込ませて撮影した。河原や神社、時には駅のホームなどが撮影現場となった。
カメラマンの山本邦彦さんと石井さん、それにほとんど全ての撮影に同行したわが社の担当編集者・長沼里香と藤木健太郎の両君。ロケハン、撮影、写真選びからレイアウトまで、この本が出来上がるまでの苦労話は、枚挙に暇がない。季節感を大切にしたから、撮影も春夏秋冬に及んだ。雪の積もった厳しい寒さや夏の炎熱地獄での撮影など、忘れられない思い出となっているに違いない。二人のこの本に寄せる思いが詰まっている本だ。
この本は、書店の店頭での販売のほか、全国各地の放送局やデパート、地方自治体などが主催する展覧会でも販売できるのが強み。来訪者が1冊、時には2冊購入してくれ、結果として売れ行きは順調に推移している。そういうわけで今後の作品集の売れ行きは、ひとえに人形展の開催動向にかかっている。完成度の高い本なので、もっと多くの方々に会場で手にとってもらいたい。石井さんが来社された日、お蔭様で残部数が減ってきたので5000部の増刷を決めた。わが社としては、かなり思い切った部数である。
ごく最近では、この4月26日から5月7日まで、東京の立川市にある「国営 昭和記念公園 花みどり文化センター」で、『昭和のこどもたち』人形展が催される。写真集には未収録の農家のこどもたちをテーマにした新作も展示され、会期中、石井美千子さんのサイン会も予定されている。ご興味がある方は、ぜひ入場してお声を掛けていただきたい。
その後、今夏にも『昭和のこどもたち』人形展が催されることが決定した。会場は北海道だが、まだ詳細は公表できないのが残念だ。その先、9月中旬、さらには10月にも人形展が予定されている。もう少し多めに増刷しておけばよかったかなと、今は反省しきりである。
本欄で何回か登場してお馴染みの高崎俊夫さん(右)が、今はNYと東京を拠点に活躍されている平野共余子さん(左)を伴って来社された。平野さんは、文字通り国際派の日本人である。経歴をザッとご紹介する。早稲田大学法学部を卒業され、東京大学人文科学研究科比較文学比較文化専攻の修士課程から、東京大学新聞研究所に進んだ。その後、1976年にベオグラード大学大学院・演劇映画テレビ・アカデミーに留学、さらにフルブライト奨学生としてニューヨーク大学大学院・映画研究科博士課程を経て、1988年に同大学院博士号を取得した。この間、ひたすら学究の道を歩んだ方である。
そして、ニューヨーク・ジャパン・ソサイティー映画部門のディレクターとなり、1986年から2004年まで、同所でアメリカにおける日本映画紹介に尽力されている。以前に、母校のニューヨーク大学大学院とニュー・スクール大学で日本映画の講座を担当。映画プログラム・キューレータ、映画史研究家として内外の有識者に認められており、日本映画ペンクラブ賞や第17回川喜多賞(1999年)を受賞されている。僕は勝手に女性版「蓮實重彦+淀川長治」の線が平野共余子さんを形容するのにピッタリではと思っている。
平野さんの著書『天皇と接吻――アメリカ占領下の日本映画検閲』(草思社刊 1998年)は、日本人に「戦後」の再検討を迫る内容になっている。他社の本ながら、題名がユニークでインパクトがある。今回、わが社から刊行するのは、「ジャパン・ソサエティ・メモワール」である。平野さんが辿ってきた映画との関わりとともに、日本映画の魅力を異国に紹介し続けた熱意が、ほとばしっている貴重な記録でもある。平野さんからその後、メールが入り、『日本映画ならNYで』『日本よりもNYでの日本映画』という題名を思いついた、と連絡をいただいた。ただ僕は、以前、平野さんにご提案いただいた『字幕版はありますか』が気に入っている。よほどいいタイトルが頭に閃かない限り、メインタイトルはこれに決めている。
この本の中には、先年亡くなった「アメリカの良心」と言われている作家、思想家スーザン・ソンタグが登場する。平野さんと親交があった彼女は、ジャパン・ソサエティーをよく訪れ、日本映画を楽しんでいたことが、平野さんの文章で明らかにされている。このことを特筆しておきたい。
2003年には、特集シリーズ「スーザン・ソンタグの選ぶ日本映画」を開催して大成功を収めた。それを受けて2004年、第2弾として10本の厳選された「スーザン・ソンタグの選ぶ日本映画」が上映された。そのイベントを成功裏に終えた、同じ月の12月28日、スーザン・ソンタグは急性骨髄性白血病で亡くなった。享年71歳であった。
僕もスーザン・ソンタグ女史の書くものには関心があり、かつてダニエル・ベルの翻訳本を編集したとき、彼女について触れられているくだりがあった。その翻訳で苦労したことを思い出した。平野さんが書いているスーザン・ソンタグに関する文章をぜひ、皆さんにもお読みいただきたい。
以前、本欄で紹介したフリー編集者の久保匡史さん(右)が、翻訳者の高月園子さん(左)を伴って来社された。高月さんは、東京女子大学文理学部史学科を卒業された方で、英国在住もすでに約20年にも及ぶとか。普段はロンドンでご家族と暮らしていらっしゃるが、所用がある時は日本へ戻ってくる。今回の帰国は、わが社の翻訳本の打ち合わせを兼ねたものとなった。久保さんの推薦で今回、お願いすることになったのだが、単行本の翻訳のみならず、音楽関係の記事やイギリス生活を題材にしたエッセイなども執筆されている。
高月さんに翻訳していただいた本は、トーマス・ギフォードの『アサシーニ』(邦題については、まだ未定)である。バチカンのコンクラーベを舞台に暗殺者が暗躍するミステリー小説で、原書のカバーの惹句にあった《『ダ・ヴィンチ・コード』のようにショッキングな内容で面白い》との謳い文句にそそられて、版権を取得した経緯がある。ぜひ読んでいただきたいので、スリラーものの常道で、詳細な内容紹介は避けたい。
高月さんの数多い翻訳書の一つにデュ・プレ『風のジャクリーヌ』(ショパン社刊)がある。42歳の若さで亡くなった天才女性チェリストのことを、姉ヒラリーと弟ビアスが共著で出した作品だ。僕が訳書を読んだと言うと、高月さんは嬉しそうに頷いた。この本は映画『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』(アナンド・タッカー監督、1998年)の原作本にもなった。
僕はそのことを高月さんには話さなかったのだが、この原作の内容と映画の設定や解釈があまりに違うので戸惑った記憶がある。だが、ジャクリーヌ・デュ・プレのチェロ演奏に関してはノー・プロブレムだ。特にその響きの美しさは素晴らしいと思う。
編集担当の高橋与実君は、ネットサーフィンで高月さんのエッセイ「西日の当たる……」を偶然読んでいて、「あの記事を書いた高月さんですか?」と本人を目の前にして驚いた様子だった。僕も、高月さんが帰った後に、その記事を読んでみてなるほどと感心した。視点がとてもユニークだったからだ。翻訳を終えたら、ぜひ英国と日本の文化比較を独自な視点から書いて欲しいと思う。高橋君が依頼するが、ひょっとすると「第2のマークス寿子登場か?」という予感がしている。
?遊人工房の飯嶋清さん(左)が、今度はカメラマンの中谷吉隆さん(右)を紹介してくれた。中谷さんは、東京写真短期大学(現・東京工芸大学)写真技術科を卒業し、東京新聞社出版写真部を経てフリーランスとなった方。
月刊誌、週刊誌、グラフ誌、カメラ誌等の出版物、印刷物等に発表されているベテランである。写真集も数多くあり、ルポルタージュ、人物、風景、スポーツ、歴史写真など、幅広い分野で活躍され、カメラ芸術新人賞を受賞(1964年度)している。現在、日本写真家協会会員、日本スポーツプレス協会名誉会員、日本写真芸術学会会員、全日本写真連盟関東本部委員、NHK文化センター写真講座講師等を務めている。
スポーツ写真、特にラグビー、サッカーの写真は素晴らしい。写真集『ノーサイドの笛が鳴る――燃えるラガーたちの30年』(ノースランド出版刊)は、男と男が命を懸けてぶつかり合うその迫力が伝わってくる。骨のきしみや汗の匂いさえ感じられるような一瞬を定着している。ラグビーファンならずとも興奮する見事な写真集である。
中谷さんは、広島市のご出身だが、『広島・戦後10年』(1997年)という作品展のカタログを見せてもらった。それを見ると、昭和31?32(1956?57)年にかけて広島の貴重な記録が刻まれている。40年以上も未発表のままに残された写真だが、被爆後、広島の復興に人々が捧げる努力が人の心を打つ。
JCIIフォトサロン館長の森山真弓さんが序文で、「自らの故郷である広島市の呻きを超えた視点から、現実を鋭く捉える作者の感性は、自己主張を抑えているがゆえに、私たちの心の底に、平和への強い意志と戦争の愚かさを喚起して」くると熱く語っている。この写真集を見ただけでも、中谷さんの広島に対する思いの深さが伝わってくる。
中谷さんは、「東京・神楽坂」の写真集を出したいとおっしゃる。それも「夏目漱石が愛した神楽坂」というテーマの写真集にしたい、という希望だった。写真集の構成もきちんとできている。僕も学生時代から神楽坂に親しく愛着があるし、夏目漱石がらみと聞けば、出版したいという気持ちが動いた。だが、刊行の可能性となると、いかに写真集の狙いがよく、写真自体、中身がよくてもおいそれとはいかない。
それにプラスして、地元有力者ないし商店街の後援とか、広く有識者の応援を仰がないと、刊行したはいいが赤字のプロジェクトを抱え込むことになる。こうした難問にぶつかる度に、無い知恵を搾り出してこれまでも切り抜けてきた。こういう作業は、僕にとってむしろ刺激的で好きである。
自分で言うのもなんだが、簡単に売れる企画だけを出すばかりでは出版の意義は無かろうと、小出版社経営の心意気だけは持っている。幸い中谷さんにも僕の経営上の趣旨が通じ、いろいろとご理解していただいた。上手くいけば、初秋には上梓できるはずだ。
刊行はまだ先だが、絵本の企画が突如、舞い込んできたのでお知らせしたい。この話は、僕の親しい友人の佐藤徹郎さんと奥さんの宏子さんが持ってきてくれたものだ。月刊『清流』の2004年11月号にヒューマン・ドキュメントとして、末期ガンで余命宣告を受けたスポーツマン飯島夏樹さんを取材している。 「限りある日を今日も生きる――飯島夏樹さん」がその記事だが、執筆してくれたのが佐藤宏子さんだった。
その後、飯島夏樹さんは、ハワイを療養先と決め、家族6人全員で移り住んだ。懸命な闘病生活のかいもなく、2005年2月28日、38歳の若さで天に召された。その飯島さんの1周忌のとき、素晴らしい会が催されたことを宏子さんからつぶさに聞いて、僕も感動した。
それは、飯島夏樹さんの叔母(母の妹)である吉田ふようさん(右)と友人の千金美穂さん(左)が、手作りの絵本を作り、集まりに参加した方に配り、故人を偲んだのだという。吉田さんが本文を、千金さんが絵を担当して、60冊ほど手作りした絵本だった。
夏樹さんの4人の遺児もさることながら、集まった人々は一様にその素晴らしい絵本を見て、感動したという話である。早速、吉田さんと千金さんにご来社していただき、その経緯と出版の可能性を確かめた。
飯島夏樹さんは、生前、?サニーサイドアップというPRを中心にしたコミュニケーション戦略のコンサルティング、プロモーション戦略、イベント企画等を得意とする会社と契約していた。僕も一度、同社社長の次原悦子さんにある件でお会いしたことがあって、そのときの印象はなかなかシャープで頭の良い方と記憶していた。サッカーの中田英寿、水泳の北島康介、スポーツライターの乙武洋匡、テニスの杉山愛……等の錚々たるメンバーを擁し、権利関係がしっかりしている。僕が気にしたことといえば、飯島夏樹さんを連想させる絵本で、?サニーサイドアップという会社と揉め事があってはならないという判断だ。それさえクリアすれば、堂々と本作りができる。
さいわい吉田ふようさんも次原悦子さんと仲が良いうえ、了解を取ってくれるという話だ。
わが社の主催で、4月2日(日)、『小熊秀雄童話集』の刊行を記念しての「小熊秀雄・童話の朗読と鼎談の夕べ」を行なった。場所は東京都世田谷区の明大前駅前にある「キッド・アイラック・アート・ホール」。青木裕子さん(NHKアナウンサー)、アーサー・ビナードさん(詩人)、窪島誠一郎さん(「信濃デッサン館」「無言館」館主・作家)をゲストにお呼びしての素晴らしい夕べになった。以下に、その時撮ったデジカメ写真をご覧に入れる。
会場玄関前の風景。社員が総動員で手伝ってくれた。
開場直前の風景。定員50名だがオーバーするほどの大入り満員。
2列目左端の女性は、2時間前から並んで待っていた。
会場には幹事役・野本博君の知合いである日大芸術学部・清水正先生の姿(中央)も。
いまや遅しと待つ開演前の一駒。
青木裕子さん、アーサー・ビナードさんと初顔合わせをした加登屋。
アーサー・ビナードさんのお話。巧みな日本語には一同、驚いた様子。
青木裕子さんの朗読風景。『小熊秀雄の童話集』から4篇を取り上げて朗読された。
「”小熊秀雄”その静かなる饒舌」と題された3人の鼎談風景。
司会する臼井雅観出版部長。
打上げで挨拶する藤木健太郎企画部長(右から2人目)。その左は野本博君(愛和出版研究所代表取締役)
終了後の懇親会風景。料理もワインも食べきれないほど。
2006.04.01井尻千男さん クリティーナ平山さん 大西二郎さんほか
拓殖大学日本文化研究所所長の井尻千男さん(写真)。単行本の企画提案をするために来社された。井尻さんとは、約11年前、港区六本木の国際文化会館で行なわれた「岩倉使節の世界一周旅行――米欧亜回覧」の会でお会いしたのが最初である。その時、司会者にスピーチを指名された井尻さんと僕は、明治の先人たちの偉業を讃える言葉を述べた。当時、井尻さんは、日本経済新聞の編集委員をされていて、「とじ糸」という評判のコラムの書き手として知られていた。だが、その年に日経をお辞めになって、現在の拓殖大学日本文化研究所所長になられたのである。
才能ある人をマスコミ業界も放っておかない。辞められると同時に、月刊誌『選択』の名編集長だった今は亡き飯塚昭男さんが声を掛けた。『選択』のレギュラー執筆者としてどうかと打診したのである。こうして井尻さんの連載「美のエピキュリアン――人生を深く味わう人」が始まった。毎号、僕も楽しみにして愛読していた。現在はテーマが変わり、「美のコンキスタドール――覇者の渇き」として健筆を振るっておられる。
脱線ついでに、僕の飯塚昭男さんへの忘れ得ぬ思い出を書き留めておきたい。僕がアメリカまで行って版権を取った本がある。それが翻訳刊行された『アイアコッカ――わが闘魂の経営』(徳岡孝夫訳 ダイヤモンド社刊 1985年)だが、この本を素晴らしいと真っ先に書評に取り上げてくれた方が、ほかならぬ飯塚昭男さんだった。『選択』以外にも各種新聞、雑誌にレギュラー執筆されていたが、そこにも好意的な書評を書いてくれた。それが起爆剤となって大ベストセラーになった。その後もこの本は多くの媒体に書評として取り上げられた。ダイヤモンド社出版局の広い壁一杯に書評のコピーが溢れたが、飯塚昭男さんがその先陣を切ってくれたのは事実。僕にとっては忘れられない恩人である。
その飯塚さんが買っていた井尻さんである。よくぞ僕を覚えていて企画提案してくださったという気持ちである。企画内容は、『選択』連載の「美のエピキュリアン――人生を深く味わう人」を基に、雑誌『MY WAY FOREVER』(2004年冬号)収録の「我流でつくる数奇の空間」などの文章と写真、設計図も掲載して、『男たちの数奇の魂』という本にしたいとのこと。井尻さんのこの構成案を快く引き受けた。
山梨に広い敷地の実家がある井尻さん。「我流でつくる数奇の空間」の記事は、実際に井尻さんが四千坪の敷地内に茶室建設を思い立ち、完成させるまでを明らかにしたものだ。設計はすべてご自分でされ、腕のよい大工さんと二人三脚で、3年がかりで完成させたという。そんな井尻さんの数寄者ぶりもじっくりこの本で味わえるはずだ。
本書に登場する茶人も、第一部の近現代編は、松永安左衛門(耳庵)、益田孝(鈍翁)、畠山一清(即翁)、原富太郎(三渓)、根津嘉一郎(青山)、五島慶太(古経楼)、小林一三(逸翁)、高橋義雄(箒庵)、石黒忠悳(況翁)、井上馨(世外)など、第二部の古い茶人編では、織田信長、豊臣秀吉、千利休、山上宗二、古田織部、小堀遠州、片桐石州、松平不昧、井伊直弼(宗観)、井上馨(世外)などが登場する。井上馨が両方に出てくるが、それが井尻さんならではの慧眼。なぜなのかは、読んでのお楽しみである。
クリティーナ平山さん(写真)は、人を介してわが社に翻訳本の童話を提案された方である。その童話の話をする前に、持参された自己紹介状を基に、クリティーナ平山さんの経歴を簡単にご紹介しておく。
ポーランドの首都ワルシャワに生まれ、ワルシャワ大学日本語学科を卒業している。来日して日本人の平山さんと結婚、1981年より日本に定住する。1989年から千葉県浦安市役所の文化国際化アドヴァイザーとして、決まった曜日に勤務している。それ以外の日も、ボランティア活動、翻訳、ポーランド語教師、浦安在住外国人会副会長などを務め、多忙な毎日を送っている。
さて、クリティーナさんは、グダンスク出身の詩人エマ・ポピックさんの童話『おとぎの国への入り口』を日本語版で是非刊行したいと、人を介してアプローチしてきたのだが、すでに翻訳は終えていた。あまりの面白さに、自分で翻訳してしまったというわけだ。
内容は、自分の部屋からおとぎの世界へ迷い込んだ10歳のトメック少年が、不思議な冒険旅行を繰り広げるというもの。魔法使い、ぬいぐるみの王様、意地悪なおばあさんや奇妙な動物たちと出合い、襲いくる危機を切り抜けながら精神的に強く大きく成長していく。押し付けがましいところが一切なく、ストーリー展開が見事である。文章の詩情性も豊かで、時間と空間の相対性なども盛り込んだ楽しい冒険物語となっている。
2004年5月、EU(欧州連合)へ加入したポーランドは、EUの学校教育でのさまざまなプログラムへ参加できることになった。その中にソクラテス・コムニウスというプログラムがある。その授業で「今日と明日のおもちゃ」というテーマで、エマ・ポピックさんの『おとぎの国への入り口』が採用されることが決まっている。EUと日本の子どもたちが、同じ本を読んで感動するシーンを今から想像すると、胸がわくわくする。読者に早く届けたいと気が急くほどである。
学校法人産業能率大学経営開発研究本部主幹研究員の大西二郎さん(写真)。是非刊行して欲しい企画があると来社された。お話を伺ってみると、「父親のためのコミュニケーション・スキル」というテーマだという。大西さんが、日ごろ、講義をなさっている研究テーマとはいささか異なるので、「なぜ、そのようなテーマでわが社から出版したいのか?」と訊いてみた。お答えになった詳細は省くが、大西さんの企画意図と情熱溢れる態度に好感を抱き、僕は出版刊行にゴーサインを出した。
仮題は今のところ、『聴いてくれるお父さんは好きですか?』または『お父さん、聴いてくれる?』にしたいと思っているが、いずれにしてもサブタイトルで「家族愛和のために」という謳い文句を付けてみたい。編集担当者は野本君だが、このサブタイトルにはちょっとしたわけがある。野本君はつい最近、自分で会社を作って船出したばかり。その社名を?愛和出版研究所と名付けた。会社が順風満帆に船出することを祈って、大西さんの企画内容がちょうどピッタリなので、「愛和」のサブタイトルを贈ることにしたいと思ったのである。
大西さんは、これまで『新入社員ハンドブック』『マネジメントとマネジャー』『女性リーダーのためのリーダーシップ講座』(共に産能大学刊)、『秘書入門』(日本実業出版刊)等の著書、共著がある。
組織学会、社会心理学会等に所属され、マネジメント、教育システム、コミュニケーション能力向上の支援、組織内インストラクターの養成支援等で今後もますます研究成果を上げることを期待したい。一方、わが社とのお付き合いは、ビジネス書とは違った、やわらかな視点からの単行本をお願いしたいと思っている。
わが社から刊行したばかりの『サフィア――新生イラクを担う族長の娘』(ヨハンナ・アワド=ガイスラー著)の共訳者であるウィーン在住の伊東明美さん(左)が来社された。伊東さんは横浜の生まれ。横浜市立大学社会学科および独文科卒業後、出版社編集部勤務を経てウィーン大学に入学、翻訳通訳科に学んでいる。持病を抱えているため、自宅でできる仕事がしたいと思っていたという。考えた結果が翻訳者への道だった。このウィーン大学の同じ翻訳通訳科で学んでいたのが、この本の共訳者となる福田和代さんである。福田さんも伊東さんと同じウィーンに在住し、日本人観光客向けの月刊誌『ウィーン』の編集発行している。
伊東さんはドイツ、オーストリア、スイスなど同じドイツ語圏でも、国や地域によって、少しずつ言葉の使い方やニュアンスが違うという話をしてくれた。ドイツ人は自己主張が強く、ドイツの南部と北部では日本の方言のような違いがあるらしい。逆に、オーストリア人は控えめな国民で、強烈な自己主張はなく融和を好むところが日本人に近いところがあり、ウィーンに住でいるのも心安らぐ部分があるからだとか。
翻訳者としてルートヴィヒ・べヒシュタインの『「悪い子」のための怖くて不思議な童話集』、ヘルガ・フェルビンガーの『だいじょうぶ! ひとりでも生きられる』などを翻訳されている。持参した『だいじょうぶ! ひとりでも生きられる』(講談社)の本にサインをしていただいた。著者はドイツ人でジャーナリスト、作家、翻訳家として活躍している方。離婚した後、どう自分と向き合っていけばいいのか、を考える本である。伊東さん自身、同様な離婚体験をされたということで、特別思い入れの深い本のようだ。
2006.03.01写真と日記2006年3月
人類学者で立教大学名誉教授の香原志勢さん(中央)。わが社から刊行した著書『死と生をめぐる思索――石となった死』を知人たちへ署名入りで贈呈する作業のためご来社された。この本を企画提案したのは、野本君(左)である。野本君は、かつて香原さんのご子息と同じ職場で机を並べた仲。6年前、その友・香原知志さんが交通事故で亡くなったのを惜しみ、思い出の一環に父親・香原志勢さんの名著『石となった死』(弘文堂刊)を再刊したいと提案してくれた。この本を知らなかった僕は、一読後、内容がよいので装いを新たに世へ問いたい気持ちが湧いてきた。旧版に増補分を含め、タイトルを代えてここに刊行することができたのは、ひとえに野本君の亡友に対する熱い想いがあったからである。
わが社が本書を献本した新聞・雑誌関係のマスコミ人に、産経新聞社の名コラムニスト石井英夫さんがいる。早速、石井さんからご返事が来た。そのお葉書の内容が素晴らしいので、一部をご披露したい。「……プロローグから、すさまじい衝撃を頂きました。まだ途中ですが、興奮を抑えきれません。ナニよりカニより名文です。この流れるような文章のリズム、抑揚、格調は、息をのむほどです。すばらしいご本を復刻されました。命を粗末にしている現代にこそ迎えられるべき名著と存じます。……」と絶賛された。僕は石井英夫さんからのこのお葉書を読んで、刊行してよかったと改めて実感した。
香原志勢さんは、長年、人類学・人類行動学の研究をされ、人類適応論や人体と文化の関係を一貫して究明されてこられた学者である。その一方で、表情や身振りについても造詣が深く、1995年の「日本顔学会」の発足にあたり、同会会長を務められた。その周辺の著書は、『人体に秘められた動物』『顔と表情の人間学』『木のぼりの人類学』など枚挙にいとまがない。また、中央公論新社から刊行された『顔の本』は類書のない面白い本で、僕が復刻をお願いすると、先生は加筆増補版としてなら、と前向きに取り組んでいただけることになった。
余談だが、香原先生のお宅とわが家は同じ町内の一丁目違い。この町に住んで半世紀以上も経つ先生は、昔の町の話にお詳しい。かつて小田急電鉄はこの町の駅が終点であったと言われ、僕は隔世の感に感じ入った。香原先生のお隣りは、わが月刊『清流』でも何回かご登場いただいた中村桂子さん(生命誌研究館館長)というから、お二人にはいつか野川沿いの散歩の途中でばったり会うかもしれない。
写真家の織作峰子さん(右から二人目)とご紹介者である?遊人工房の飯嶋清さん(右)。織作さんは過去数回にわたって、撮影旅行をされたスイスの風景をまとめて一冊にする企画を提案してくれた。僕はこの提案に賛成し、織作さんお勧めのスイスの風景写真集を刊行することになった。
わが社の担当編集者は秋篠貴子。アイガー、メンヒ、マッターホルン、ユングフラウなどアルプスの名峰や、世界遺産アレッチ氷河、レマン湖地方など日本人にもよく知られた観光名所とは別の視点からの写真ばかり。レストランや農場で働く人々、野辺に咲き乱れる野草、乗り物や古い民家などのショットなど、新たなスイスの魅力を発見できる。どんな写真集なのか、刊行をぜひ楽しみにしてほしい。
先の話になるが、織作さんの郷里である能登をテーマにした写真集も、ぜひわが社から刊行を、とお願いしている。織作さんが金沢から輪島、奥能登までの日本情緒溢れる風景を、いったいどのように捉えるかにもとても興味がある。普通の人が気付かないアングルや、ファインダーを通して表現される芸術性を期待して待ちたい。また、織作さんは『後ろ姿』をテーマにした作品も撮り溜めておられる。人は、後ろ姿にこそ本来の自分が現れてしまうもの。これもまとまれば、面白い写真集になりそうだ。織作さんとは、末長いお付き合いをお願いし、これからもユニークで傑作な写真集を刊行していきたいと思っている。
?遊人工房の飯嶋清さんが、新人の写真家を紹介してくれた。森合音(あいね)さん(左)で、昨年「エプソン カラーイメージング・コンテスト2005」と「富士フォトサロン 新人賞2005」をダブル受賞された方。森さんは徳島県のご出身で、大阪芸術大学写真学科を卒業されたが、当初はフローリストの仕事をされていた。その後、1999年にグラフィックデザインの仕事に従事していたご主人と結婚してデザイン事務所を設立、二人の娘さんにも恵まれた。だが、思いがけず2003年にご主人が心筋梗塞で急逝される。
森さんは夫の死後、最愛の夫が遺したカメラに目を向けるようになる。元々写真学科を専攻していたのだから、旧知の世界に戻ったようなもの。4歳と2歳の愛娘の成長とともに、周囲の風景を収め、これらが期せずしてすばらしい写真集になった。これが今回の受賞作である。
エプソンの受賞式に出席するため、はるばる徳島から上京された折、時間を繰り合わせてわが社にも寄ってくれた。今回、わが社から刊行の『太陽とかべとかげ』がその写真集だが、森さんが意識するしないに関わらず、映像に溶け込んだ心象風景が見る人に強いメッセージ力となって迫ってくる。被写体になっている樺音(かのん)、楓喜(ふき)というお二人のお嬢ちゃんもかわいい。
編集担当者の秋篠貴子(右)は、森さんのご希望もあって、亡くなったご主人の大好きだった神田神保町の古本屋街を案内してさしあげた。これまで一度も行ったことがなかった森さんは、亡夫の愛した日本一の古本屋街を見て、さぞ感慨深かったことだろうと思う。
藤本ひかりさん(左)と高崎俊夫さん(右)。藤本さんは、最近の月刊『清流』1月号で「夫・三谷礼二を語る」の欄にご登場された。そのとき、藤本さんを取材してまとめてくれたのが高崎俊夫さんである。掲載された月刊『清流』が出て二か月後、三谷礼二さんの遺稿集をまとめた『オペラとシネマの誘惑』がようやく刊行となった。
三谷さんが生前『CDジャーナル』(音楽出版社)に連載していた映画や音楽をめぐるエッセイや、鈴木清順、吉村公三郎両監督との対談などを収録したのをはじめ、冒頭には高崎さんが蓮實重彦さんをロングインタビューしている。「アナーキーな先輩 三谷礼二について」がそれで、当時公開された映画や演劇の状況、三谷さんの知られざるエピソードが紹介されている。
1991年、56歳の若さで亡くなった不世出のオペラ演出家・三谷礼二を「日本のオペラ界にも《自分の魂の底》から生まれてきたイデーによって仕事をする才能がついに出現した」と書き、「日本一の演出家」と絶賛したのが音楽評論家の吉田秀和さんである。
本書の企画は、もともと月刊『CDジャーナル』で三谷さんが「歌の翼に」という連載コラムを書いていた。生前、この無類に面白いと評判の名物コラムを高崎さんが愛読していて、僕に単行本化を提案してくれた。いま『CDジャーナル』誌の編集長は、藤本さんのご実弟・藤本国彦さんが務められていて、早速、最近号に『オペラとシネマの誘惑』の書評を載せてもらったが、こういうよい関係で企画成立したのも故人の陰徳がしからしめる業に違いない。
藤本ひかりさんが来社されたのは、亡夫の本を刊行してくれたことへのお礼ともう一つ理由があった。実は先月、藤本さんのご母堂がお亡くなりになった。僕はお葬式に伺えず御香典と献花をお送りしたが、この日、藤本さんは、僕のみならず臼井出版部長と松原副編集長にもお香典返しのお菓子を持ってこられた。本当にご丁寧な対応ぶりで一同恐縮してしまった。
ご母堂は享年82歳だったが、お父上はもっと早く58歳で亡くなられている。野上彰(本名・藤本登)さんがその人だが、野上彰の名は戦後の前衛芸術運動のファンにとっては忘れられない人物である。戯曲、詩、放送劇、シャンソンの作詞やオペレッタの訳詩、オリンピック讃歌の訳詩などでも知られ、演出でもその才能を発揮された方だった。こうした出自からして、藤本ひかりさんが三谷礼二さんと結ばれたのも、必然だったのかもしれない。
野本君(右)が前に勤めていた会社?エス・プロジェクトで部下だった編集者・寺岡恂さん(中央)を紹介してくれた。寺岡さんはマイクロソフトのエンカルタ電子百科事典の編集部を経て、?エス・プロジェクトの編集責任者だった野本君の下で働いた経緯がある。ご自身、翻訳にも挑戦し、これまでにも『ながぐつをはいたねこ』(ペロー作、ポール・ガルトン絵)、『靴屋のカーリーのおはなし』(マーガレット・テンペスト作、各ほるぷ出版刊)などを訳されている。
寺岡さんの実兄の寺岡襄さんも『木を植えた男』(ジャン・ジオノ作 あすなろ書房刊)という大ベストセラーの翻訳者。この日、持ってこられた『木を植えた男』は、昨年11月現在で実に62刷になっていた。今はもう少し増刷を重ねているかも知れない。
その寺岡恂さんが、誰の助けも借りずたった一人で、CD?ROM『新・東京方眼図』を出された。これまでに100セット以上販売してきたという話を聞いて、同席した藤木、臼井両君ともどもビックリした。売れたというのもむべなるかな、そのコンセプトは斬新である。明治や大正の文学作品を読む際に役立つ昔の東京の地名やその地図、文学作品の背景としての謂れ、その他、作家の旧居をたどる文学散歩に必要な情報が網羅されているソフトなのである。
そのために「編集工房テクネ」という組織を作ったが、この先、販路のより一層の拡大に向けて、野本君に助言を求めてきたのだった。われわれ清流出版メンバーも根がおっちょこちょいで、「新しいもの大好き人間」の集りだ。寺岡さんの持ってきたパソコンが不調でソフトがスムースに動かないのをいいことに、ああでもないこうでもないと、ブレーンストーミングで一夕語り合った。それにしても、野本君の紹介者は一芸に秀でた方が多いので、話をしても一献傾けても実に楽しい。
今年初めての観劇をした。招待者は、瀬川昌久さん(左から二人目)。昨年10月に、わが社から『ジャズで踊って――舶来音楽芸能史』が刊行されたほか、月刊『清流』2005年9月号の「この人に会いたくて」欄にもご登場いただいた。 瀬川さんは、元々富士銀行の銀行マンだった。ニューヨーク駐在員時代、チャーリー・パーカーやビリー・ホリデイを聴き、帰国後、銀行勤めをするかたわら、ジャズ、ポピュラー音楽の評論とコンサート企画をするようになる。
銀行を辞めてからは、音楽・演劇・ミュージカル全般の評論をするとともに、自ら月刊『ミュージカル』を主宰し編集長を務めておられる。加えて現在、くらしき作陽大学、作陽短期大学で講師を務める忙しさである。この『ジャズで踊って――舶来音楽芸能史』が刊行される前、『週刊文春』で小林信彦さんが絶賛していたのが、頭の片隅に残っていた。そんな時に、フリー編集者の高崎俊夫さんの推薦があったので、急遽、増補版として復刻刊行することになった。
その日、東京・池袋の芸術劇場で上演されたミュージカル『スウィングボーイズ』は、瀬川さんの『ジャズで踊って――舶来音楽芸能史』と『ジャズに情熱をかけた男たち』の二冊を原作に監修したもの。大浦みずき、宝田明、ペギー葉山などの好演もあって、僕は最後まで舞台にのめり込んだ。冒頭の昭和6年頃の時代背景をはじめ、太平洋戦争時、ジャズを愛してしまった若者が、どのような弾圧を受け無理解の悲喜劇を味わったのか、がよく描かれていた。
こうした劇の筋立てと音楽がよくマッチしていて思わず唸らされた。時代がどう変わろうと、惚れた音楽に情熱を燃やす若者たちの熱い思いが伝わってきた。軽い興奮状態でこのミュージカルを楽しんだが、一緒に行った松原副編集長(右から二人目))とアルバイトの八木優子も感動した様子だった。松原は瀬川さんのお孫さん(右)にすっかり気に入られた。この公演はたった五日間で終了したが、僕はもっともっと多くの方に観てもらいたいと思った。大きな劇場でロングラン公演すれば、必ず成功すると確信している。
それにしても瀬川昌久さんは、元気で若々しい。かくしゃくとしていらして、とても大正13年の生まれの82歳になるとは思えない。年を取っても、情熱を傾ける対象を持って、社会にメッセージを発信し続ける。このような幅広い教養人が、どんどん日本に増えてほしいと思う。東京大学法学部卒という経歴にもビックリした。こんな人生を送ってこられた背景には、瀬川さんの育ちも関係している気がする。幼少の頃、お父上はロンドンに駐在していた。洋楽への関心と国際感覚は、この頃培われたに違いない。
貼り絵の第一人者である内田正泰さん(左)。内田さんに会うのは久しぶりだった。最初に出会ったのは、1996年1月のこと。わが社刊行の大高明さんの写真集『空中夢散歩――The Fantasy of Ballooning』の出版記念パーティでお会いした。大高さんの亡くなったお父上を尊敬していた内田さんが、ご子息・大高明さんの出版記念パーティに訪れたのが縁で、僕との関係が繋がった。そのことがあってから数か月後、内田さんにある企画の連載を頼んではや10年が経った。その仕事はいまも順調に進んでいる。この間、内田さんは貼り絵の世界で人気がますます高まり、確固たる地位を築いている。
新しい作品のスケッチブックを見せてもらったが、まことに素晴らしい日本情緒と風景が活写されている。『日本の心』『日本の詩』『四季の詩』などの名作で、日本のみならず海外での評判も高い内田さんらしい絵は、いささかの衰えも見せていない。発表されている新作版画も新しい感性に満ち満ちている。
前述した瀬川昌久さんもそうだが、内田正泰さんも84歳という年齢には見えない。楽しく生きがいのある仕事を持つと、年齢に関係なく元気に過ごせることを僕は学んだ。内田さんは一時、軽井沢に住んでいた。しかし、注文した画材の入手など、地方だと何かと不便。現在、住み慣れた横浜で制作を続けておられる。
先月に続き、堤江実さん(中央)の企画で、新しい動きがあったのでお伝えしたい。今度は、絵本の企画が誕生した。本文が堤江実さん、絵が出射茂さん(左)、解説が功刀正行さん(右)という三人の力を結集して一冊の絵本を作ろうというもの。この三人はたまたま豪華客船「飛鳥」の世界一周クルーズに乗り合わせたのが縁で知り合った。堤さんは詩の朗読教室の、出射さんは絵画教室のそれぞれ講師として、功刀さんは海洋汚染の実態調査のために乗り合わせていたのである。以来、なんとなく気が合うことからお付き合いが続き、今回企画提案されたような絵本を作りたい、と意見が一致したのだという。
仮題は『水のミーシャ』である。大人も子供も楽しめる環境絵本は、日本ではまだ少ない。その意味で期待の作品である。一滴の水の大切さとともに、地球環境、海洋、命の誕生までが自然に理解できる構成。本文、絵、解説の三者の息が、ぴたりと合って素晴らしい内容になっている。環境問題の世界的権威、アービン・ラズロ博士の推薦文もすでにいただいているという。
最初この企画提案を聞いた時、僕は遠い二十代の頃、有名な環境経済学者レスター・ブラウン氏の書いた論文で水資源のことを翻訳したことを思い出した。まだ少壮の学者で、もちろんいまのワールドウォッチ研究所を設立する以前の話だ。『地球白書』のシリーズで有名になったレスター・ブラウン氏が、いち早く水資源の意義を強調している論文で、若い僕が拙い訳出をした。こういう僕自身の経験を知らない堤さんからの提案が運命のように思われて、企画にOKを出した。
?梟雄舎の代表取締役・升本喜年さん(左)と同プロデューサー升本由喜子さん(右)の親子。梟雄舎は「きょうゆうしゃ」と読む。升本喜年さんは、いま、わが社で一番力を入れて宣伝している『僕は、何のために生きてきたんだ!』の著者・太田哲生さんと松竹時代に親しかったいわば友人である。升本さんは、松竹で映画プロデューサー、テレビ部プロデューサー、シナリオ研究所所長、最後には松竹映像取締役を歴任されて、1989年に松竹を退社されている。
その後、この?梟雄舎を設立し現在に至っている。ご自身、何冊ものご著書があり、そのうち『女優 岡田嘉子』(文藝春秋社刊)は、僕もかつて読んで感銘を受けた本だ。これまでのプロデューサー経験にプラスして、独立後はドラマの企画提案や制作の仕事を続けてきた升本さん。そんな豊富な体験から、太田哲生さんの本をベストセラーにしたいと、自らのプランを持って来社された。
升本さんのアイデアを伺ってみると、得意の映画、テレビの力を借りて単行本のパワーを全開したいとおっしゃる。僕も、もっともな路線だと異存はない。メディア・ミックスの相乗効果は断然強い。ぜひ映画化、テレビドラマ化をお願いしたいと要望した。升本さんの構想には、松竹時代に交流のあった某大物俳優も含まれており、これが実現したらと思うとわくわくする。
僕は自他ともに認めるせっかち人間である。単行本が書店から返本されない内に何か仕掛けたいと思うのだが、なかなかいいアイデアが浮かばない。升本さんの案に及ばないが、「歌謡曲」を梃子にする企画を思い付いた。大泉逸郎のヒット曲『孫』の例もあるが、素人の作詞、作曲で一発当たればという魂胆だ。
『僕は、何のために生きてきたんだ!』がらみの歌がヒットすれば、数か月で本の宣伝効果も期待できる。歓談の席上、わが社が誇る歌い手の古満温君を升本さんに紹介した。社員のカラオケ競演でプロ並みの歌い手が古満君だ。彼を起用する僕の話を聞いていたお嬢さんの升本由喜子さん(右)の様子を見ると、まんざらでもない感じである。この作戦が首尾よくいったら、わが社も定款変更して、興行と歌手養成の条項も追加しなければ……(笑)。
2006.02.01写真と日記2006年2月
昨年末わが社から、『"ことば美人"になりたいあなたへ――明日を輝かせる31のヒント』『タイム・オブ・イノセンス』と二冊の著訳書を刊行されたほか、月刊『清流』の最新3月号の「この人に会いたくて」欄にもご登場いただいた堤江実さん(右)。次回刊行予定の絵本『うまれるってうれしいな』(仮題)の打ち合わせで画家の杉田明維子さん(左)を伴って来社された。一歳児から本に親しんでほしいとの願いを込めて、親子で本を楽しめるようにお二人が協力し、文と絵で心温まるメッセージの一冊にしてくれた。
堤さんは4月から約100日間、講師として豪華客船に乗船して詩の朗読をされる予定なので、その前に校正を済ませる段取りを臼井君に頼んだ。多分、4月上旬には刊行できると思う。杉田明維子さんとは初対面であったが、僕と共通の画家を何人も知っていて、旧知の間柄のように話が弾んだ。
また、少し遅れてきた堤未果さん(中央)は、堤江実さんのお嬢さんで、アメリカ生活が長かった方。わが社から刊行した『セームズ坂物語 全四巻』でお世話になった原田奈翁雄さんと金住典子さん編集の季刊雑誌『ひとりから』(編集室 ふたりから刊)で、「世界中のグラウンド・ゼロ」のタイトルでエッセイを連載している新進気鋭のライターだ。今年は、名編集者・原田奈翁雄さんの肝いりで書き下ろしの単行本に挑戦することになっているとか。その話を聞いて、ぜひわが社からその単行本を刊行させて欲しいと僕は申し出た。今年、わが社は堤親子でベストセラーに挑戦できたら面白いと思っている。
アナウンサーの小川宏さんご夫妻(写真)と。先にわが社から刊行した『宏です。小川です』が好評で、もう少しで増刷に王手がかかるくらいまできている。この本をご執筆いただきながら御礼の挨拶が遅れてしまったが、編集部一同、やっと奥様の富佐子さんもご一緒にお食事をともにすることができた。小川さんご夫妻は見るからに仲のよいご夫婦である。夫婦の間でも駄洒落やジョークが飛び交っているとか。確かに小一時間ほどの間にも、そんな片鱗が垣間見えた。
その軽妙洒脱な小川さんだが、信じられないことに実はうつ病の体験者である。65歳の時に重いうつ病にかかり、自殺を考えて富佐子さん宛てに遺書をしたため、電車に飛び込もうとする寸前まで追い込まれたことがある。NHKの「こころの相談室」や「徹子の部屋」などテレビ番組でもこのうつ病体験を話されているのでご覧になられた方もいるだろう。現在も薬は服用しておられるが、精神的には安定しており、全国各地でうつ病に関するテーマを中心として講演活動をされている。
最近、うつ病患者は急増しており、予備軍も含めると大変な数にのぼるそうだ。しかし、精神科というとマイナス・イメージが先行し、「俺は精神病ではない」などと及び腰になり、医者に行きたがらない人が多いのだそうだ。だから医者の処方で快方に向かうはずが、益々追い込まれて症状を悪化させることになる。小川さんは自らの体験から、そんな心配は杞憂であることを講演先でも強調してきている。
今回、原稿をご持参いただいたが、これは奥様の富佐子さんががんを患い生還されたこともあり、夫婦での壮絶な病と闘いの日々を単行本にできたらとの思いがあってご執筆いただいたものだ。その第一稿をお持ちいただいた。『うつ病とがんからの生還』か『うつもがんも踏みこえて』というのが、小川さんご提案のタイトル案だが、原稿をじっくり読ませていただいて、いいタイトルを決めたいと思っている。
野本博君(中央)が紹介してくれた清水正さん(左)。清水さんは野本君の大学で一年後輩だが、浅からぬ因縁がある。野本君が部活で自動車部の主将で活躍したが、部長はナポレオンの研究で有名な長塚隆二教授が務めた。その長塚先生が部長を辞めるとき、若い清水正講師が後を継いだ。それが縁で、放送学部卒の野本君が文芸学部卒の清水さんと知り合いになった。いまは、清水さんも立派に日本大学芸術学部の教授である。奇遇にもわが社の長沼里香は、日本大学芸術学部大学院で清水教授の教えを受けた教え子に当たる。
野本君は無類の本好きであるが、友人の清水さんはそれに輪をかけた読書家。読書の達人のほか、無類の大作の書き手として驚愕させられた。古くは『ドストエフスキー「罪と罰」の世界』(創林社刊 465ページ 1986年)を筆頭に、つい最近の『志賀直哉 自然と日常を描いた小説家』(D文学研究会 403ページ 2005年)、一番厚い本の『つげ義春を読め』(鳥影社刊 676ページ、2003年)などを含め、分厚い大書をこれまで約30冊お書きになっている。近年は、鳥影社という長野県諏訪市の地方出版社で出された本が多い。
清水さんとお話してみると、文学と漫画で僕と合い通じる世界がある。それもユニークな視点をお持ちの方なので、単行本を刊行させてもらうことにした。題して『うらよみ ドストエフスキー』。たまたま『カラマーゾフの兄弟』の話題になったが、驚いたことに清水さんの説によると、ゾシマ長老とスメルヂャコフの関係が親子であるという解釈が成り立つのだという。僕の記憶だと、下男で乞食の子であるスメルヂャコフが、あの『カラマーゾフの兄弟』で父フョードルが白痴の女に生ませた男ではなく、三男・博愛家のアリョーシャの師ゾシマ長老の息子だという驚愕の新説となる。これ一つだけでも、この『うらよみ ドストエフスキー』がユニークであること間違いない。ドストエフスキーはまだまだ謎の部分が多くて、深遠の闇に溶け込んでいる。そんな闇に清水さんが独自の視点から切り込んで、読み解いていくのを読むのは心地良い。応援したい気持ちになった。このほか、清水さんの説を聞くと、わくわくすることが多い。例えば宮沢賢治の世界、とくに賢治童話における数字には秘密がいっぱい、という話には興奮させられた。野本君は、大変な友人を紹介してくれたものだ。
作詞家の来生えつこさん(中央)が企画打ち合わせのために来社された。前回のホームページでも書いたが、来生さんは作家・エッセイストのキャリアもなかなかのもの。言葉の感性と、視点に独特なアングルを持っていらっしゃる。その特性を活かして本作りをやれば、ユニークなエッセイができるに違いない。その日の雑談から得た直感で僕は『なんかへんかな』という仮タイトルでいきたいと提案した。来生さんもこのタイトルに異論がなかった。日本の現状を見て、来生さんの眼で「変かな」、「不思議だ」と思うことをエッセイでまとめてもらう企画だ。
来生さんは団塊の世代。普段は、東京と千葉の館山で生活しておられるという。二都物語である。その辺りから、団塊の世代にヒントとなる視点も期待できよう。また、来生さんがいま夢中になっているダイビングや着物の話題は、女性の生きる指針としても参考になる。
雑談になった時、将棋の話で盛り上がった。実は来生さんは、奨励会に所属するプロの卵について、将棋を習ったことがあるのだという。そこで藤木君は来生さんに、わが社の将棋好きの女性である秋篠を紹介した。本当は時間があったら、一番お手合わせしたいところだったが、この日は先約があるということで諦めた。だが、来生さんが帰った後、金曜日の夜ということもあって、藤木君は秋篠(わが清流出版女流王将&名人)と対戦したようだ。
月刊『清流』の連載「鎌倉つれづれ」でお馴染みの歌人、作家の尾崎左永子さんと。この日、尾崎さんが主筆を務めておられる『星座――歌とことば』(かまくら春秋社)の創刊5周年記念を祝う会が行なわれて、松原淑子副編集長、野口徳洋さん(『清流』のフリー編集者)と出席した。僕はおよそパーティーなどと名のつくものは、すべて避けて通りたいところだが、憧れの尾崎さんに会えるからと横浜のホテルまでいそいそと出かけた。この写真の通り、尾崎左永子さんは美しい着物姿。凛とした中にも色気さえ感じさせる佇まい。同行した野口さんによると、尾崎さんの年齢であれば、「色気を感じる」というのは褒め言葉なのだという。
尾崎さんは、つい先だって、『神と歌の物語 新訳 古事記』(草思社刊)を上梓され、各紙誌の書評で高評価されている。その尾崎さんが『星座』という雑誌に力を入れておられる。隔月刊誌だが、毎年7月1日発行の号は《清流号》と名づけられている。偶然のこととはいえ、わが月刊『清流』も尾崎さんの「歌とこころを賛歌する雑誌」にあやかって、美しい日本語を次代へ伝えるための努力をしたい。
創刊5周年記念会は、冒頭に鎌倉文士を代表して作家の早乙女貢さんが挨拶されたのをはじめ、各来賓祝辞のあと小山明子さんが尾崎さんに花束を贈呈された。僕と同病を患った大島渚さんを看病して、自らもうつ病を乗り越える感動的なテレビ番組をつい先日見た僕は、一言、小山明子さんに声をかけたいと思っていたが、会場が混雑していて見失いチャンスを失った。
会場は盛況で、著名人で目移りするほどであった。松原淑子は受付で月刊『清流』に連載執筆していただいている久世光彦さんの名札を見つけ、会えると期待していたが、結局、この日は現われなかった。僕は会場で何人かの方とお話した。その時、印象に残った方のお写真を次に載せる。
作家、評論家の紀田順一郎さん(中央)。僕は、紀田さんの名著『第三閲覧室』(新潮社刊)のような独特な推理ものをわが社でご執筆いただけないか、と声をかけた。近年、『紀田順一郎著作集』(三一書房)を出し、その後、『近代世相風俗誌集』『事物起源選集』などの大作を手掛け、少々、疲れたと言う。僕は、『デジタル書斎活用術』『インターネット書斎術』『オンラインの黄昏』などの線は、と矛先を変えた。だが、紀田さんは今まで書いた未発表の作品があるので、それを素材にしてどんな本ができるか、少し考えてみたいとおっしゃる。考えがまとまったら来社し、わが社から必ず刊行すると約束してくれた。
写真家・田沼武能さんの夫人で歯科医として活躍され、また最近は料理研究家の肩書きを持っている田沼敦子さんと。ご夫婦で月刊『清流』にご登場いただいたこともあり、わが社のことはよく知っておられる。会場では田沼さんの近著『取り寄せても食べたいもの』(法研刊)が、真っ先に話題となった。後日、送っていただいたこの本のおかげで松原と秋篠の女性陣二人が、田沼さんのNHK文化センター主催セミナーに出かけることになった。そして、田沼さんにはわが社からも新しい企画を仕掛けたいと松原が積極的に働きかけた。
鎌倉のライターとして僕には懐かしい本多順子さんと。月刊『清流』にレポーターとして活躍されたのは確か6年前だった。その後、ご自分で冬花社という出版社を設立して活躍されている。つい最近も『こころのデッサン』(小尾圭之介著 写真:小尾淳介)を送っていただき、わが社では付けられない価格(定価840円)と編集部一同ビックリした。オールカラーの美しい本が何でこんなに安くできるのか、見習いたい。そのほか、冬花社刊行の『回想の芸術家たち――「芸術新潮」と歩んだ四十年から』(山崎省三著)は、僕には懐かしい山崎さんを思い出させる本である。会場では、本多さんゆかりの『本多秋五全集』(菁柿堂刊)を出す快挙をやった高橋正嗣さんのことをちょっとお話した。
堀口すみれ子さんは、詩人、エッセイスト、料理研究家として活躍されている方だ。この日、『星座――歌とことば』のパーティーにふさわしい詩の朗読をされた。その一つは、お父上の堀口大學さんの詩だった。会場はシーンとなって、詩の朗読に聞き入った。つくづくいい会だなあと思う。堀口さんには月刊『清流』の4月号で、「【桜】――わたしのおすすめこの10名木」という企画で、近々、野口徳洋さんが取材をする予定。
あと、『星座――歌とことば』の表紙の絵を毎回描いている石原延啓さん(石原慎太郎東京都知事の四男。下の写真左)をはじめ、作家の安西篤子さん、詩人の白石かずこさん、かまくら春秋社の社長・伊藤玄二郎さん(下の写真右)などがいらしたが、半分くらいの方しかお話することができなかった。
2006.01.01写真と日記2006年1月
今でも売れ続けているわが社のベストセラー『フジ子・ヘミングの「魂のことば」』を企画提案された宜田陽一郎さんが、今度はCD付きの朗読の本を提案してきた。著者は、飯島晶子さん(写真)。彼女の経歴をザッとご紹介する。日大芸術学部放送学科を卒業後、TVのドキュメンタリー番組や各種ビデオ、DVD、CDなどのナレーターとしてフリーで活躍された。現在も、日本朗読文化協会理事、日本ナレーション演技研究所・自由学園明日館公開講座講師、デンマーク協会会員、お茶の水音声言語教育交流セミナー会員……として多忙な日々を送られている。教会、博物館、大学、美術館、展示会場などを中心に朗読をされているが、最近のビッグ・イベントとしては、「愛・地球博」のデンマーク館でアンデルセン童話を朗読し、好評を博した。
今回提案の企画内容は、早口ことば、古典文学などのほか、全国各地の方言、地名、河川、口上……など、楽しく学びながら発声練習できる構成だ。読んで楽しく、読者も実際に声を出して効果が確認できる本にしたい。いわば読者参加型の本である。この手のツーウェイ型の本が、今後は出版界に多分ブームになろう。
実際、この企画原稿をもとに、自ら言語障害の治療によいと思って試してみた。飯島さんの教えのように深く呼吸し、まっすぐ背中を伸ばすことを意識しながら発声すると、「すっきりとした爽快感」が味わえる感じがした。
「あいうえお あえいうえおあお おえういあ」から始まる「五十音の基礎練習(レッスン1)」をはじめ、朗読の功能効果は僕が実証済みだ。発刊された暁には、是非、皆さんにも、この本を使っての朗読をお勧めしたい。
野本博君が紹介してくれた編集工房「寒灯舎」代表の中西昭雄さん(写真)。中西さんの旧著『名取洋之助の時代』(朝日新聞社刊)を底本に「名取洋之助を通して見たフォトジャーナリズム」というテーマで一冊本にできないか、との野本君の提案で、暮れのある午後、初めてお目にかかった。
中西さんの経歴は、京都大学文学部を出て朝日新聞社に入社。「アサヒグラフ」、「週刊朝日」、「アサヒカメラ」等の雑誌と図書編集室に在籍。その後、朝日を辞されてから「現代企画室」を立ち上げ、さらに今から20年ほど前に編集工房「寒灯舎」を設立した。ジャーナリズムの世界で幅広く活躍され、僕との共通の知人、関係者も多くいることが分かり楽しく歓談した。
故・安原顯(ヤスケン)がかつて親しく付き合った「週刊朝日」の書評担当・中村智志さんの話も出た。中村さんの聞き書き『新宿ホームレスの歌』(朝日新聞社刊)などは、中西さんの所属する寄せ場学会の企画にも直に触れる。また、中西さんは先月の本欄に登場した廣瀬郁さん(ヒロ工房)とともに、日本図書設計家協会を立ち上げた一人でもある。当然ながら装幀にも造詣が深く、『出版年鑑』(出版ニュース社)に時評「装丁」を10年間執筆しているとのことであった。
先の野本君の企画提案は、中西さんが自書を「本としての生命を失っている」と判断していることもあり、現時点では刊行を見合わせることになったが、その代わり、農業問題をテーマにした企画を逆提案された。僕は、「今こそ日本人は農を語るべき」ではないかと思っている。積極的に取り組みたいテーマだと賛成した。今度会う際は、同じ会社で農業の取材を重ねてきた番場友子さんとともに伺う、と中西さんは約束された。この企画がどんな展開を見せるのか、今から楽しみである。
フリーライターで?モノアートの照木公子さん(写真)。10年ぶりにわが社を訪ねてこられた。照木さんには、かつて月刊『清流』1996年3月号の「いま、この人」欄で、北大路魯山人と親交があった女流陶芸家たちの草分け的存在であった辻輝子さんを取材していただいたことがある。その時、辻輝子さんがもう一つ夢中になっていると語ったのが、万華鏡だった。
そうした出会いが、多分、照木公子さんを動かしたに違いない。照木さんも万華鏡の魅力を知り、その紹介・普及に努められている。日本初の万華鏡展のコーディネイト、日本万華鏡倶楽部の創設にも関わっている。国際万華鏡協会の一員で、『万華鏡 華麗な夢の世界』『作って楽しむ万華鏡の秘密』(いずれも文化出版局刊)の編者でもある。
その照木さんの企画でも、わが社で万華鏡の本が出せるほどのゆとりはない。彼女もその辺りは充分心得ている。代わりに提案されたのが、(仮題)『負け犬返上――幸せな熟年結婚への道』である。
最近、結婚しないシングル女性が増えている。だが、好き好んでシングルを選んだのではなく、本音は結婚したいと思っている女性たちが結構多いのである。実際、身近でも何例か挙げられるが、熟年離婚ならぬ熟年結婚がいまや増加傾向にある。照木さんによれば、50歳を過ぎての結婚例を何人かのシングル女性に伝えると、彼女たちは一様に目を輝かせ、どうしたらそういう縁を得られるのか尋かれたという。さまざまな熟年結婚の実例とその手引きを示したら、かなり読者を得られるのではないか、というのが提案の趣旨である。大変結構な企画で、僕は一も二もなく賛成した。
翻訳者の中村定さん(左)が、友人の伊藤礼さん(右)と来社された。中村定さんとは、ダイヤモンド社時代以来のお付合い。わが社では『誰が飢えているか――飢餓はなぜ、どうして起こるのか?』、年末に発売された『インフルエンザ・ウイルス スペインの貴婦人――スペイン風邪が荒れ狂った120日』の二冊を訳出していただいた。友人の伊藤礼さんは、小説家・評論家・伊藤整氏の次男である。お二人は、年来の囲碁仲間で、浜松在住の中村さんは、上京すると伊藤さんのお宅で囲碁の徹夜打ちをされる間柄と伺った。
伊藤さんとは、1950年、父君の翻訳した『チャタレイ夫人の恋人』(D・H・ローレンス)が猥褻文書に当たるとして警視庁の摘発を受け、最高裁まで争われる経緯や、関連する人間模様の版元・小山書店、小山久二郎・敦司父子、わが謡の師匠の人間国宝・故宝生弥一がらみの因縁など、若輩ながら僕はよく知っていたので話が弾んだ。
礼さんは父君と同じ一橋大学に入り、その後、身体を壊されてから一転アメリカに渡り、ロードアイランド大学で政治学を学ばれた。帰国後、広告会社に勤務したのち、日本大学芸術学部の教授になられている。そのあたりの経歴の詳細は、今回お会いして初めて知ったことも多かった。それにしても、1996年、新潮社から『チャタレイ夫人の恋人』を伊藤礼訳で完訳版を出版したが、今日まで猥褻文書として摘発されてはいない。時代の変化と同時に価値観も変わるもの。これは、よき変化だと思う。礼さんは、最近、自転車に凝っていて、『こぐこぐ自転車』(平凡社刊)という本を上梓したとか。僕にもその本を贈呈すると約束してくれた。
その日、伊藤礼さんと置碁で対戦したわが社の藤木君は、4子局の効果があってか、中押しで勝たせてもらった。藤木君は大喜びしていたが、文壇囲碁で常勝の伊藤礼さんが若い人に花を持たせてくれたに違いない。乗せるのがお上手だと思った。
ライターの山本祐輔さん(写真)。経済、経営、社会問題……等に強みを発揮する執筆者として、わが社では通っている。それもそのはず、雑誌「経済界」の編集記者として健筆を振るっておられた方だ。臼井君とは同じ職場出身ということになる。「経済界」を辞めた後は、30年近くにわたって一匹狼のライター稼業を続けてきた。厳しい情況が続くマスコミの世界に身をおき、活躍できたのは実力の裏付けあったればこそである。そんなわけで、わが社で雑誌や単行本企画で、難しいテーマの取材だと、真っ先に名前が上がる。滅多なことで期待を裏切らないから、難しい問題だと「山本さん頼み」になる。今回も、ガデリウスという外資系商社の100年史の編纂をわが社で受注したが、原稿執筆は当然ながら山本さんで決まりである。
この企画は、わが社から刊行の『ノルディック・サプライズ――北欧企業に学ぶ生き残り術』、『ユビキタス時代のコミュニケーション術』などの著者である?インテック・ジャパン代表取締役社長・可兒鈴一郎さんの人脈とご尽力、ならびにわが社の版権担当の社外スタッフとして協力してもらっている斉藤勝義さんの助力なくては実現できなかった。幸いガデリウスの担当者が初顔合わせで山本さんを大変気に入ってくれ、業務契約書に執筆は山本さんと付記してくれとの注文が出るほどであった。
山本さんと言えば、世の親としてうらやましいことがある。優秀なお子さんに恵まれたことである。ご長男は東京大学を出て某新聞社に就職し、いまやバリバリの保険担当記者と聞く。一方、長女も慶應義塾大学を出られたが、画家になりたいとの夢を実現すべく、東京芸大の油絵科に入り直し研鑽中とのこと。お二人とも難しい国立大学にすんなり合格している。いったいお子さんたちにどんな躾けをし、どんな育て方をしたのか、一度、じっくり聞いてみたいと思っている。
昨年暮れに刊行した『寺山修司の声が聞こえる』の著者・岸本宏さん(右)と、その仕掛け人である「さとう出版」代表の佐藤和助さん(左)が、揃って来社された。お二人がこの本を手に取っているが、喜んでいる表情がお分かりいただけるだろう。このとき、柏市在住の岸本さんがお土産に持ってきてくれたのが和菓子。これが実に美味しかった。聞けば、伊勢やさんというその店は、柏市の地元ではよく名の知られた和菓子屋だとのこと。臼井君も同じ柏在住なので、この店のことはよく知っていた。大福やどら焼きなどといった人気商品は、午前中に売切れてしまうこともあるらしい。
岸本さんの「寺山修司のひとり芝居」は、ライフワークだという。ご自宅を改装したとき、50人収容できるキウイホールを作ってしまったのもその決意の表れだ。作・演出・出演を一人でこなすのは大変だと思うが、キウイホールでの公演も、すでに五十数回を数えるという。今年9月には、本家本元、青森県三沢市の寺山修司記念館での公演が決まっているのをはじめ、福島の大内宿「玉や」、福岡の野瀬邸「山の家」など、地方公演の依頼も増えつつあるという。
今回はアルバム持参で来社された。見せていただくと、ここ3年間余りの公演風景がよく分かった。キウイホールでの熱演ぶりと、公演後のお客さんとの交流がよく分かって興味深かった。キウイホールでは、公演後、パーティ会場に模様替えして歓談が始まる。奥様のよ志美さんが中心になって作った手料理とお酒が振る舞われる。おいしそうなご馳走が並び、見ていて思わず生唾が出た。僕も手足が不自由でなかったら参加したいなと思った。
前述の寺山修司記念館には、寺山修司の句が飾ってある。その内、僕の大好きな句を上げる。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」
「人はだれでも遊びという名の劇場をもつことができる」
「わかれは必然だが 出会いは偶然である」
岸本宏さんとの出会いは、僕に懐かしい寺山修司の名前を思い出させてくれた。この出会いに感謝している。
昨暮、わが社の仕事納めの日、ウイーンからはるばるご来社いただいたのが翻訳者であり、オーストリアで『月刊ウイーン』の編集長としても活躍されている福田和代さん(左)。担当編集者の高橋君(右)と、翻訳原稿のゲラ校正でこの日遅くまで頑張ってくれた。今春、わが社から刊行予定の『サフィア』という、イラク族長の娘の数奇な半生記の校正ゲラの打ち合わせである。この翻訳をオーストリア在住の福田和代さんと伊東明美さんの共訳でお願いしている。サフィアは現在、イラクの総選挙で国会議員に立候補している。元エジプト大使を務め、英ブレア首相と親交があるなど知名度もあり、実績も残している。国会議員に当選することは、まず固いと思う。夫君も人権大臣を務めた方だが、サフィアも大臣になれば、と期待している。
そもそもこの企画は、型絵染版画家として有名な「さかもと ふさ」さんが持ち込んできたもの。さかもとさんは、日本各地の百貨店で個展を開催するのをはじめ、ウイーンでも展覧会を二度開催された。そこで、福田さんと知り合いとなったと推察する。月刊『清流』の昨年5月号には、「型絵染版画の世界にようこそ」として、さかもとさんに出てもらったが、読者からも大いに反響があった。
お二人の翻訳者が、この単行本企画を成功裡に仕上げようと熱心なのには驚いた。サフィア本人と原著者のガイスラーさんを日本に呼んでみたいというプランを出してくれた。その際、わが社に一肌脱いでくれないかという提案には、小出版社の経営者として正直なところ参った。イラクの総選挙の結果次第では、「ベールを脱いだサフィア」が、かの地の大臣になれるかもしれないが、今のところ不明確なことが多い。まず、来日の宣伝効果と対費用効果も検討しなければならない。お二人に「すぐ実行しましょう!」とは言えなかった。ご寛恕のほど。
2005.12.01サナエ・カワグチさん 笹本恒子さん 三戸節雄さん
わが社から11月初旬に刊行した『タイム・オブ・イノセンス――ある日系二世少女の物語』の著者、ニューヨーク在住のサナエ・カワグチさん(中央)がこの本を翻訳された堤江実さん(右)と一緒に来社された。カワグチさんはここ20年で覚えた日本語を流暢に話されるが、込み入った話になると、お二人は英語で意思疎通を図っていた。
この日、担当した編集者の野本博君が、自宅の蔵書の中からタイムライフ社の英会話の教則本を探し出して持ってきた。その本には、カワグチさんがかつて親しく付き合ったジェリー伊藤さんがスピーカーとして出演している。その本の一節を音読されたカワグチさんの英会話の発音、イントネーションの素晴らしさには驚かされた。さすがロサンジェルス生まれである。
この『タイム・オブ・イノセンス――ある日系二世少女の物語』は、戦後六十年のアニバーサリーな年に格好の企画である。第二次世界大戦中に日系人として差別や迫害、暴力の恐怖のなかを生き延びた日系二世少女を、実話に基づいて、迫力ある筆致で描き出している。収容所に収容されたのではなく、逃げ回って生き延びた日本人は1000人ほどいたらしい。その一人だったカワグチさん。この稀有な体験を、平和ボケの日本人にご一読をお勧めしたい。
カワグチさんは、この後、日本各地の友人たちを訪ね、次々と本を宣伝してくれたが、そのハイライトとして11月23日(水)に東京文京区根津の居酒屋を借り切って出版パーティーが行なわれた。僕は先約があって出られなかったが、野本君が出席してくれた。彼の伝えるところによると、司会はカワグチさんとは旧知の画家・桐谷逸夫さん。集まった人々はみな、若き日のカワグチさんの友人・知人や、アメリカ旅行中マンハッタンのカワグチさんのアパートにお世話になったという方ばかりで、総勢三十数名の和気藹々とした宴だったという。
冒頭の挨拶でカワグチさんは、「この本の出版を機に、昔からの仲間が集まってくれて大変うれしい。ジェリー伊藤さんは今、ロスに住んでいるが、彼とのラブ・ロマンスなど、まだ書いてないことがある。ぜひ続編を書きたいもの」と宣言し、幸せそうな顔をしていたという。
この本を翻訳した堤江実さんは、11月中旬、わが社から上梓した『”ことば美人”になりたいあなたへ――明日を輝かせる31のヒント』の著者でもある。この日、カバーの装丁案が出来てお見せしたところ、とても気に入ってくれた。日本語の美しさと響きを堪能できる内容で、こちらのほうも男女問わずに読んでもらいたい一冊だ。
女性報道写真家の草分け的存在で第一人者の笹本恒子さん(右)が、来社された。笹本さんには、清流出版ではこれまでに『きらめいて生きる 明治の女性たち』をはじめ、『夢紡ぐ人びと』『ライカでショット!――お嬢さんカメラマンの昭和奮闘記』『昭和を彩る人びと――私の宝石箱の中から100人』の四冊を刊行していただいた。『ライカでショット!』のみがエッセイ集で、残りの3冊はすべて写真集。有名無名を問わず優れた方々を取材し、被写体に収めたいずれ劣らぬ力作である。今回の来社の目的は単行本ではなく、月刊『清流』の企画に相応しいテーマと人選を2件持ってこられたとの由。まだ企画段階であるので、僕は一定の条件さえクリアできればやりたいと思いながら耳を傾けた。
その一つが、ある60代の夫婦の物語だ。夫は大学を卒業後、一流会社に入社する。縁あって結婚し、二人の子どもを設けるが、31歳のときにベーチェット病と診断される。やむを得ず会社を辞め、按摩鍼灸の資格を取るとともに、日本カウンセラー協会のカウンセリングアカデミーの勉強をする。その後、数々の試練をものともせず、積極的な人生を歩み、いまや市役所から生涯学習、保健所から難病関係、障害者センターからオンブズマンなどの審議会や協議会などへの委員を委嘱されるまでになったという。
その奥さんの奮闘振りも素晴らしい。ガリ版印刷、和文タイプなどを勉強し、タイプ印刷会社に就職する。子育て期間を終えて、新しい印刷会社に就職し、定年まで勤務したという。笹本さんからお二人の経歴をかいつまんで聞くうち、このような魅力的なご夫妻を早く読者に伝えたいという気持ちが高まった。早速、同席した松原副編集長(左)に早い時期に取材をと要望を出した。
かつて笹本恒子さんに憧れ、アメリカでフォトジャーナリズムを専攻し、報道写真家になろうとした人がいる。その方とは、いまの三洋電機の代表取締役会長兼CEOの野中ともよさんである。笹本さんの来し方は、同姓に励みと勇気を与えてきたのである。お年を感じさせないこの若さの秘密は、日々楽しむワインにあるようだが、いまだに仕事中心の生活を送っておられる。
経済・経営ジャーナリストの三戸節雄さん(左)が、デザイナーの廣瀬郁さん(右)を伴ってやって来た。清流出版から先に出版した『日本復活の救世主――大野耐一と「トヨタ生産方式」』は、海外に版権が売れたうえ、日本の一定の読者に読んでもらった。今度の新企画は、もう少し若い人々にまでトヨタ神話の神髄を理解してほしいとの三戸さんの願いが込められている。
そのきっかけは、三戸さんが朝日新聞の「トヨタウェイ」というシリーズ連載企画の取材を受けたことにある。連載担当の朝日新聞記者・街風隆雄さんの言葉が三戸さんの情熱の火に油を注ぐことになった。新聞読者からもっと知りたいの声があり、反応もよかったのだ。三戸さんのハートは熱い。炎のジャーナリストと呼ばれる所以だ。三戸さんは「大野耐一の世界」をもう一度徹底解剖し、21世紀の「トヨタ生産方式」の基本教科書を作ろうと考えたのである。
この企画に三戸さんは、デザイナーの大御所である廣瀬郁さんを巻き込んだ。これは深謀遠慮があってのことだ。まず、廣瀬さんが撮った大野耐一さんの写真が出てきた。この写真は朝日新聞からの希望もあり、廣瀬さんがストックの山の中から探し出した。約20年前、まる一日がかりで大野さんを追った貴重な写真である。どんな理由かは知らないが、この写真は連載中には使われなかった。しかし、三戸さんは欣喜雀躍した。大野耐一さんの勇姿とともに、トヨタ生産方式が見事に写し撮られていたからだ。
もう一つは、廣瀬さんのデザイナーとしての熱い思いを、この本にぶつけてもらおうとの魂胆である。廣瀬さんは、1960年日宣美特選以来、数々の賞を受賞してきている。日本図書設計家協会設立発起人で、同協会初代事務局長なども歴任してきた。早速、廣瀬さんの構想を聞くと、A5判で本文横組みにし、写真レイアウトは大きく自由にとり、両方の欄外には小さな活字で解説、メモ、参考文献などを入れる、という腹案を出してくれた。
廣瀬さんはお元気である。僕より2歳年上である。今年春先、喉頭がんと肺がんの手術を受けた方とは思えない。予後がよいので運動を始めているという。それにしてもプールで毎日600メートルほど泳いでいるとは……。この日も、われわれに付き合って、焼酎、日本酒、ウイスキーをちゃんぽんで飲みながら、本作りのアイデアは止まることがなかった。
2005.11.01写真と日記2005年11月
月刊『清流』に「貞明皇后―大正天皇とともに」を連載執筆していただいている工藤美代子さん(右から二人目)が来社された。この連載はすでに18回を数えるが、明治・大正・昭和の3代にわたる皇室をめぐっての興味尽きぬ話題が次々に展開されている。担当編集者の松原淑子副編集長(右)も著者の筆運びの鮮やかさもあり、読者からの反響もよいので、編集者冥利に尽きると感じているようだ。いまから単行本になったときが楽しみである。
今回は、雑誌連載とは別の単行本の話で来社された。先月の本欄で述べた『石原慎太郎の連隊旗―都知事記者会見記を読み切る』(仮題)という単行本企画である。これまで都庁記者クラブの記者会見から石原都知事像を浮かび上がらせた本はまだない。そこで、幸い公開されている記者クラブの石原都知事の会見録を中心に、石原都知事の全人格と個性あふれる生き様を公式「知事会見記」を縦軸に、他の多くの資料渉猟を横軸としながら論評していく本を企画した。だが、いろいろ調べると、会見録をベースにした本は難しいことがわかり、わが清流出版では残念ながら刊行しないことに決定した。
工藤美代子さんは、来年早々から春先にかけ、立て続けに本が出版されるという。筑摩書房、中央公論新社、講談社から刊行スケジュールが決まっているとのこと。筑摩のPR誌「ちくま」で工藤さんが連載中の「それにつけても今朝の骨肉」を毎号楽しみにしている僕としては、他社本ながら気になる。一世を風靡したベースボールマガジン社を創業する偉業を成し遂げた出版人をお父上に持った工藤さん。骨肉の結果は? 読んでいない方に結末を教えるのは仁義に反するので避けたい。新年は、いずれにしても本の世界に「工藤フィーバー」が巻き起こると予想される。
最近、テレビ出演に執筆にとご活躍の唐沢俊一さん(左から二人目)。ご本人の希望でもあり、紙芝居師・梅田佳声さん(左から三人目)の一代記を書いていただくことになった。ここに至る経緯は、不思議な縁というほかない。臼井君が単行本執筆のお願いをしたところ、唐沢さんは丁度、この梅田さんの本を出したいと思っていたところだった。唐沢さんが弊社のホームページを検索したところ、『日本の喜劇王――斎藤寅次郎自伝』などというマニアックな本も出している。このような本を出している出版社ならピッタリではないかと思ったらしい。「子宝騒動」など斎藤寅次郎の大ファンだった唐沢さんにとって、理想的な出版社からの依頼だったというのだ。この斎藤寅次郎の企画については、社内的には否定的な見方が多かった。が、僕が強引にゴーを出した企画だった。思わぬところでこの企画が役に立ったわけだ。
書かれる側の梅田佳声さん(左から三人目)についても補足しておかねばなるまい。梅田さんは長谷川一夫主宰の新演技座実技研究所に入所して演技を学び、漫才師としてデン助劇団などの舞台に立った。しかし、肋膜炎を患って芸能界を引退、印刷会社に勤務して定年まで勤める。定年後、下町風俗資料館で紙芝居の実演を始めたのが紙芝居師へのスタートとなった。今年、77歳の喜寿を迎えられた梅田さんだがお見かけ通り意気軒昂。すでに紙芝居師として二十余年が過ぎようとしている。これから年末にかけ、仙台や上野鈴本など各地で公演が予定されているほか、3時間に及ぶ長編紙芝居、梅田さん十八番の化け猫騒動「猫三味線」がDVD化され、来年早々に発売予定という。
単行本の刊行は、来年春先を予定しているので、出版プロデューサーの大内明日香さん(右から二人目)を含め、いよいよ取材をスタートさせる。DVD販売との相乗効果も期待できるとあって、今から楽しみだ。なお、梅田佳江さん(右から三人目)は佳声さんの娘さんでありマネージャー。
放送・新聞ほか多方面で評論家として活躍されている東京工業大学名誉教授の芳賀綏さん(右から二人目)とわが社の担当編集者がある晩、一献酌み交わした。先生とは前の出版社時代からのお付き合いで30年を超える。ここ約10年間に清流出版は、雑誌のほか単行本でもお世話になっている。単行本の『昭和人物スケッチ――心に残る あの人あの時』は各紙誌で絶賛され、わが社の利益に貢献してくれた。その編集担当者だったのが臼井出版部長(右)と野本博君(先生の真後ろ)、また雑誌連載は古満温君(左)が担当した。この場で僕は芳賀さんの多年の労をねぎらうともに、かねてより懸案の単行本ご執筆をお願いしたのである。
その新刊本は『威風堂々――戦後を築いた政治家(ステイツマン)たち』(仮題)という企画で、いわば昭和人物史の政治家版をねらったもの。執筆に当たっては「人物像を正しく理解し、虚像を訂正すべき必要あり。また筆致は文芸的に」と先にメモ書きをいただいている。このジャンルが大好きな僕は一日も早く読みたいと心待ちにしている。
この日は、芳賀さんの博学ぶりと無類の記憶力にあらためて脱帽させられた。相撲でも野球でも、音楽等の話題でも、関係者も忘れるような細部にわたって覚えておられる。僕が双葉山を破ったら、それを花道に引退しようという理論派の笠置山の話をした。地味な関取だったにも関わらず、たちどころに笠置山という相撲取りについて詳細を語ってくれた。相撲取りになって早稲田大学を卒業したインテリだったこと、大学相撲には一切関わらなかったことなど、とにかくお詳しい。プロ野球草創期の話でも、セパ両リーグ立ち上げの時の阪神タイガーズと毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の因縁話などをお聞きできた。野本君が梅が丘図書館から借りてきた芳賀先生監修の大型本『定本 高野辰之』(郷土出版社)を取り出すと、一段と盛り上がった。「春の小川」「故郷(ふるさと)」「朧月夜」「春が来た」などの歌を作詞した国文学者・高野辰之さんは、芳賀綏さんの奥様の祖父に当たる。芳賀先生十八番の歌も出て、酒席が一段と楽しくなった一夕だった。
名コラムニストとして高名な石井英夫さん(前列中央)を囲んで、談論風発する楽しいひと時であった。その間、雑誌・単行本の新企画が何本か浮かんだのは余禄である。あの『産経抄』を35年間にわたって執筆され、「日本記者クラブ賞」(昭和63年)、「菊池寛賞」(平成4年)などに輝いた名文家である。あの司馬遼太郎さんが「現代のもっともすぐれた観察者」と評したほどだ。
現代の三名筆の一人とも言われる石井英夫さん。毎号の原稿をいただくのが、編集者としてどれだけ勉強になったかは、清流出版の編集担当者の面々、藤木企画部長(石井さんの後ろ)、松原副編集長(右)、金井雅行君(左)はよく知っている。その雑誌の連載コラムも約10年が過ぎた。そのコラムは大好評だったが、さらに雑誌の内容充実を図り、飛躍させたいので、ページ数を増やして新企画の連載をお願いした。その相談を兼ねて、歴代の担当編集者が一堂に会したというわけだ。石井さんの連載の労をねぎらい、新連載の開始を祝し、一席、設けたのである。
石井さんは酒席を楽しみながらの座談も巧みである。まず、僕が「今日、明治時代のある作家の『黒髪』と題する作品を読んだ」と口火を切った。石井さんがこの発言にこだわった。「黒髪とは粋な言葉だが……で、作者は?」と尋ねてこられた。僕はうっかり作者名を失念したので、そのことを隠して、「さあ、誰でしょう。当ててください」と逃げをうった。石井さんだったら知っておられると踏んだのだ。すると石井さんは酒席を盛り立てるためか、名前を知らない振りをされた。藤木君は「あの作家でもない、この作家でもない」と、いろいろ当て推量する。その度に、僕は「惜しい!」と「黒髪」の一つで話が弾んだ。二時間ほど経って酒席の進んだ頃、僕が作家の名前を披露すると、「この作家ならよく知っている」と石井さんが手の内を明かされた。集った人々を楽しくする、会話を弾ませるコツをよく心得ている方である。
ところで、石井英夫さんは現代の三名筆の一人だが、あとの二人は誰でしょう? お答えください。月刊『清流』の目次を見ていただければ、自ずからその答えが分かるでしょう。
映像作家、評論家、日本大学芸術学部大学院芸術学研究科客員教授の松本俊夫さん(左)が、来社された。この松本俊夫さんは、一言でいうと映像の世界で”伝説の人”である。僕が二十代前半の頃、松本俊夫さんの『映像の発見』『表現の世界』などを読んで、どれだけ勉強になったことか。言葉では言い尽くすことができないほどだ。当時、映像の世界に魅力を感じていた僕は、映画会社に就職しようかと迷ったことがある。出版社と映画会社から合格内定をもらったが、結局、出版の道を歩むことになった。
今回、高崎俊夫さん(右)の協力のもと、『映像の発見――アヴァンギャルドとドキュメンタリー』というわが青春の思い出深き本を再び世に問うたのは、正直言って欣快!の一語だ。「古きをたずね 新しきを知る」の言葉もある。何年、何十年も前に刊行され、絶版になっている本の中にも、良書がたくさんある。普遍的なテーマをもち、現代に問題提起する本を復刻することが、意義あることを訴えることになりそうだ。フランス文学者で学習院大学教授である中条省平さんにも、「映像表現の可能性、映像芸術の課題を見事に解き明かした幻の名著、四十年ぶりに完全復刻なる」と、この本を推薦していただいた。
お二人の関係は、弊社刊行の『中条省平は二度死ぬ』(中条省平著)の同タイトルの前文に詳しく述べておられるが、麻布中学3年生の時、中条さんが松本さんのメガホンを取った『薔薇の葬列』を見て、熱烈なファンレターを書く。松本俊夫さんは驚愕した。「15歳の……、批評力、論理の展開と追求に仕方、その背後に感じられる勉強ぶり……、稀有の才能にめぐり会えた」と……。その喜びを手紙にしたためて中条少年に返事を出している。松本さんも『映像の発見』を出版した時は、まだういういしさの残る31歳。中条さんへ返事の封書を出した時は37歳だった。なんと若き二人の出会いであったことか。ともに現代人の早熟とは異質の天賦の才、鋭い感性に驚くばかりである。
月刊『清流』の表紙でお馴染みのイラストレーター・新井苑子さん(後列右)。新井さんの住んでいる街に加登屋が引っ越したのだが、挨拶はまだだった。ご親切にもわが夫婦を、近くのレストラン『オーベルジュ・ド・スズキ』にお招きくださった。われわれ夫婦が、引っ越しそばを持っていくのが常識なのに、お忙しい新井さんに気を遣わせて大変恐縮だった。と同時に、この日、来年1月号の表紙デザイン画ができたとの知らせで、担当の松原淑子副編集長(後列左)も急遽駆けつけることになった。
新井さんには、数々の受賞歴がある。電通賞、朝日広告賞、雑誌広告賞、日本広告主協会優秀賞……など。また、切手のデザインでも有名な方だ。九州・沖縄サミット記念切手、日本ユネスコ50周年記念切手、2001年度年賀葉書(郵政省)などを手掛けている。今回のお招きでは、新井さんがデザインされた今年の日本郵政公社の「特殊切手 冬のグリーンティング切手」をいただいた。雪の名前がついた50円切手、花の名前がついた80円切手の組み合わせで、新井さんはシクラメンとポインセチアをお描きになっている。印刷は日本ではなく、フランスで印刷されたという。
この街に長く住んでおられる新井さん夫妻。すぐ近くには苑子さんのご母堂(93歳)もお住まいという。有難いことに月刊『清流』を有料購読されている。つねに辞書を携える読書家という。新井さん夫妻は、グラフィックデザイナーとイラストレーターだが、ご子息は日本医科大学の形成外科医である。つい最近も新聞の切り抜きを見せられたが、脂肪組織由来幹細胞を用いた骨髄再生の論文で注目されている臨床医である。親戚に医者が多くて、たちどころに総合病院もできる家系だという。なんともうらやましい話である。
2005.10.01千葉仁志さん 加藤康男さん 来生えつこさん
これまで本欄でも何回かご紹介した明星大学教授の正慶孝さん(右)が、畏友・千葉仁志さん(中央)を伴って来社された。千葉さんは『週刊現代』のアンカーマン(取材した記事や資料を最終的にまとめる人)として長く活躍された方である。政治、経済、皇室、宗教、社会事件などを担当され、自らも『大地震』(プレジデント社)、『秘蔵写真で見る日中戦争』(フットワーク出版)、『特殊法人は国を潰す気か』(小学館)他の著書がある方だ。
あの草柳大蔵さんをはじめ、後の著名ジャーナリストとアンカーマンとして鎬を削った時代もある。普段は寡黙な方だというが、談たまたま懐かしい岩波映画制作所や東京12チャンネル時代の田原総一朗のこと、立花隆がかつて菊入龍介のペンネームを名乗って活躍していた頃のことなどに及ぶと、口もとが滑らかになられたのが印象的だった。
千葉さんが貴重な書物や資料類を膨大に所蔵していることは、正慶さんから聞いて知っていた。単行本だけでも優に5万冊以上はあるというから半端じゃない。その本をいったいどう管理・維持しているのかを聞いてみると、千葉さんは「実は、前に住んでいた調布の家をそっくり書庫にしてしまった。本格的な調べものはそこでするが、普段は、いま住んでいる神奈川県大磯の自宅にある蔵書類で済ませている」とのお答え。僕は自分の蔵書からその膨大な蔵書量を類推し、一瞬絶句してしまった。
その千葉さんがわが社向けに一冊単行本を編んでくれることになった。それが『隠れた名著で読む昭和史』(仮題)である。昭和に刊行された隠れた60冊の名著から昭和という時代を浮かび上がらせるものだ。いわば「隠れた名著でしか解明できなかった真実がある」という狙いからの発想である。以下に、取り上げた名著のごく一部をご紹介する。
『旋風二十年』(森正蔵著)、『迎えに来たジープ 赤い広場―霞ヶ関』(三田和夫著)、『総監落第記』(鈴木栄二著)、『アナタハン』(丸山通郎著)、『ニッポン日記』(マーク・ゲイン著)、『皇太子の窓』(ヴァイニング夫人著)、『日本の赤い旗』(P・ランガー、R・スウエアリンゲン著)、『東京旋風』(H・E・ワイルズ著)、『実録・旋風十年』(中島幸三郎著)、『裁かれた日本』(野村正男著)、『女の防波堤』(田中貴美子著)、『トラック部隊』(小林一郎著)、『創価学会』(佐々木秋夫、小口偉一著)、『日本しんぶん』(今立鉄雄著)、『派閥』(渡辺恒雄著)、『政界金づる物語』(三鬼陽之助著)、『麻薬天国ニッポン』(菅原通済著)、『犬猿の仲』(藤原弘達著)……等等。いずれ劣らぬ名著であり、歴史の証言ともなる貴重な本である。そのエッセンスを紹介するとともに、解説で今日的な評価を与え、価値ある情報で提供したいと千葉さんが言う。もちろん正慶孝さんも畏友の著書には一肌脱ぐ。「はじめに」か「あとがき」を書いてくれる約束となっている。
加藤康男さんが、硬軟取り混ぜて複数の企画をわが社に持ち込んできてくれた。このうち弊社の単行本戦略にマッチし、お互いに益するものを随時アレンジして単行本にしてもらうつもりだ。加藤さんはニューブリッジ・プランニングという企画・DTPの会社の代表者。長く集英社で文芸誌『すばる』編集長、出版部長等を歴任された。その後、「恒文社21」の専務取締役を経て、扶桑社の編集委員として最近まで活躍されていた。その経歴からわかるように幅広い企画、人脈をお持ちの方だ。
まず注目した企画は、石原慎太郎の文学論であった。これにももちろん魅力を感じたが、石原慎太郎ならその前に出したい本がある。「東京から日本を変える!」を謳い文句に辣腕を振るってきた石原都知事。いまの時点では、多少早すぎるきらいもあるかとは思うが、これまでの石原都政を総括するとともに、行く末を論じられないかと逆提案したわけだ。
幸いなことに、石原都知事のマスコミ関係インタビューは、公式記録として公開されている。その素材をもとに石原都政を総括したいという気持ちが強かった。著者は加藤さんの奥様であるノンフィクション作家の工藤美代子さんに気持ちよく引き受けていただいた。
その打ち合わせからわずか1週間。『石原慎太郎の連隊旗――都知事会見記を読み切る』(仮題)の「はじめに」と「序章」の草稿を携えた加藤さんが、残暑厳しい中を来社された。持参された原稿を一通り読み終わった僕は、狙い通りにいけば世に問う価値のある作品になるとの自信を深めた。三島由紀夫は生前、石原慎太郎こそ、日本国の後事を託せる男と買っていた。石原との対談で三島は「僕が万年旗手で、いつまで経っても連隊旗手をやっていたのだが、今度、連隊旗を渡すのに適当な人が見つかった。石原さんにぼろぼろの旗を渡したい」と語っているほどだ。それを加藤康男・工藤美代子夫妻が思い出して、表題に選んだとの話だった。
加藤さんには名編集者として、今後も中西輝政さんの『日本の国難』(仮題)等をはじめ、次々と新企画に挑戦していただくつもりだ。
9月21日の午後3時過ぎ、『夢の途中/セーラー服と機関銃』や『シルエットロマンス』などのヒットソングで知られる作詞家の来生えつこさん(中央)一行が来社された。今や来生さんは活躍の場を広げられ、作家・エッセイストとしての顔もお持ちである。藤木君が以前勤めていた会社の上司だった田中治郎さん(前列左端)は、独立して?みち書房の代表者となっているが、その田中さんのご紹介で、この日の単行本企画の打ち合わせが実現した。この席には?インタービジネスの代表取締役・利(かが)繁さん(右から2人目)も同席した。利さんはかつて東販(現・トーハン)に勤めていたが、文部省の要請でITによる教育振興を図る外部団体で活躍したと聞く(間違っていたらゴメンナサイ)。利さんが昭和40年代、東販に勤めていた頃の話をしてくれた。私にとっても懐旧の念にかられるお話だった。というのも、東販時代には、私の古巣ダイヤモンド社の社員とよく接点があったというのだ。それもそのはず、利繁さんは、仕入れ部門にいたと明かしてくれた。当時ダイヤモンド社の販売部を率いた石山四郎さん(後にダイヤモンド社社長、プレジデント社社長)、岩井希六さん、松木善信さんなどは、僕の青春時代そのもの、まだ雲の上の存在だった。
来生えつこさんと言えば、お父上のことをお書きになった『突然失明して半身マヒになった父を看取って』(大和書房刊)の印象が深い。人間の心の気高さを追究する清流出版には、かねてから相応しい著者だと思っていた。実弟の作曲家・来生たかおさんとのコラボレーションによって、数々のヒット曲を生んだ作詞家の実力ももちろん知っている。
その来生えつこさんの執筆リストを見てその実力を再認識した。ほぼ毎月、いろいろな雑誌にエッセイや短編小説の連載などをお持ちだからだ。藤木君に、ぜひ素晴らしい書き下ろし作品をと注文を出した。まだ詳しいことは明かせないが、今、来生さんが夢中になっている、ダイビングや着物などを通して心と身体の美しさとは何か?を、若い女性から中高年の女性までに考えてもらえる部分もあって、女性ファン必見の本になるはずと思う。来生さんの持ち味を損なうことのない、しっかりした本づくりを期待したい。
2005.09.01宮本高晴さん 中島力さん 堤江実さん
翻訳者で東京医科大学講師の宮本高晴さん(左)とフリー編集者の高崎俊夫さん(右)。
翻訳者の宮本高晴さんが、昨年依頼した600ページを超える『ジョン・ヒューストン自伝』をほぼ訳し終えたというので来社された。高崎俊夫さんを通して翻訳依頼をしたもので、高崎さんにはこの本の編集協力もお願いしている。高崎さんと宮本さんは、以前からの知り合いで、映画関係の仕事を一緒にしたこともあるらしい。宮本さんのご経歴だが、早稲田大学大学院文学研究科芸術学科(映画学専攻)修士課程を修了された方である。
翻訳決断に至ったきっかけは、高崎さんが『ジョン・ヒューストン自伝』を偶然イエナ書店で見つけたことに始まる。同じ頃、宮本さんもイエナ書店でこの原書を買っているというから不思議な暗合に驚く。二人の映画通が揃って認めるこの本が面白くないはずはない。即座に僕はこの翻訳刊行を決断した。
ジョン・ヒューストンという監督は、大変な教養人である。ヘミングウェイ、サルトル、ロバート・キャパ、トルーマン・カポーティなどとも親交が深かったことでもわかるはずだ。この本を読んでみると、アメリカ映画史というより、むしろ20世紀文化史ともいうべき内容で、大変な力作である。ご両人が惚れ込んだというのも無理はない。
宮本さんはこれまでにも、映画関連本をかなり翻訳してきている。僕の知っているだけでも、『オーソン・ウェルズ偽自伝』、『チャップリンの愛した女たち』、『スコセッシ オン スコセッシ――私はキャメラの横で死ぬだろう』、『ワイルダーならどうする?――ビリー・ワイルダーとキャメロン・クロウの対話』、『マイ・ファースト・ムービー 私はデビュー作をこうして撮った』など、映画ファンならよく知る話題の翻訳本が多い。早速、宮本さんの訳文を読み始めているが、『ジョン・ヒューストン自伝』への強い思い入れもあり、翻訳にも熱が入っているのが感じ取れる。刊行の暁には、大ブレークが期待できそうな予感がしている。
中島力さん(左から3人目)、永原秀信さん(左から4人目)。
中島力さんは長くテレビ朝日で名プロデューサーとして活躍された。無名時代の松平健に会って注目し、上層部の大反対を押し切って「暴れん坊将軍」の主演に抜擢したのがこの方だ。黒柳徹子さんをホステス役に、今に続く人気番組「徹子の部屋」を立ち上げたのもこの方である。さらには「西部警察」をプロデュースしたのも中島さんだったと聞けば、確かな人物鑑定眼と抜群の企画力をお持ちの方であることがわかる。
この日は、仲介者の永原秀信さんと、何本か単行本の企画提案をするために来社された。その一つが対談集の企画だった。実は中島さんは、テレ朝を退職する前、テレビ朝日福祉文化事業団の事務局長を務めていた。その際、多くのお年寄りと接するうち、何か自分でもお手伝いできないだろうかとの思いで雑誌を創刊されるに至ったという。それが介護福祉の専門誌、月刊『高齢社会ジャーナル』である。
愛妻の女優・白石奈緒美さんと二人三脚でこの雑誌を立ち上げ、十七年間にわたり続けてこられたのには頭が下がる(現在、志を同じくする方が引き継いでいる)。雑誌を続けるのがどんなに大変か、自分も体験しているだけによくわかる。その『高齢社会ジャーナル』の目玉企画として、介護福祉の問題をテーマにゲストを招んで毎号、対談が組まれている。それをまとめて対談集として刊行できないか、というのが提案の趣旨であった。国連の定義によれば、65歳以上の人口が国全体の7%に達すると高齢化社会、14%に達すると《化》がとれて高齢社会と呼ばれるとか。日本は65歳以上の方がすでに19%にも達し、世界に冠たる超高齢社会となっている。緊急性の高い企画として検討してみたいと思っている。
堤江実さんは、立教大学文学部英米文学科を卒業後、文化放送に入り、アナウンサーとして活躍された方である。文化放送では、弊社でも本を出させていただいた落合恵子さんの少し先輩に当たるそうだ。
お会いしてお話してみると、なるほど落ち着いていて澄んだいい声である。現在、著作、講演のほか、自作の詩の朗読コンサートもしておられる。これは「ヒーリングポエム」と呼ばれ、癒しの詩として全国に多くのファンがいるのだという。
弊社では堤さんに、『ことだまノート』という本を出させていただく予定だ。現在、日本語は乱れに乱れている。尊敬語と謙譲語、丁寧語等の区別もつかない。これらの正しい使い方を知る人など骨董品的な存在になっている。また、妙な言い回しや略語が跋扈し、意味がわからないことがある。ある作家から聞いた話がある。女性編集者から原稿依頼の電話がかかってきた。「チョッパヤで申し訳ありませんが、クケツで原稿をお願いできませんか」と言われたそうだ。この言葉を一体何人の方が、お分かりになるだろうか。要約すると、急ぎの原稿で9月末までにご執筆をお願いできないか、ということになるらしい。女性編集者からの電話だったので、余計驚いたと言っていた。
堤さんは、そんな日本の言葉づかいの乱れを憂えているお一人だ。日本語の美しさを再認識して欲しいの思いを込めて執筆していただいた。脱稿した原稿は、1日分が言葉と詩でセットになっている。できれば、一日一つずつ、言葉についてのエッセイと詩を楽しんで欲しい。31あるので、1ヶ月で一巡したら、また最初から読み始める。言葉の美しさ、余韻の美しさ、そんな日本語の美しさを再認識していただく本になればと思っている。
2005.08.01写真と日記2005年8月
血液・循環器系の権威で医者と作家と二足の草鞋を履く石川恭三さん。
わが社では石川さんの著作をこれまでに三冊刊行してきている。医科大学教授選の暗闘を描いた小説『白い虚像』、赤ひげ先生のような理想の町医者を描いた小説『陽だまりの診察室』、そして医科大学の教授時代を中心に、患者との交流を書いたエッセイ集『患者さんがくれた宝物――医者が幸せを噛みしめるとき』の三冊である。いずれも、医科大学教授として、医者としての臨床体験に裏打ちされたもので、鋭い人間洞察力が光る好著である。
実は石川さんのご高名は十五年ほど前、当時八十歳を超えていた岳父から聞いていた。「杏林大学の先生で、とても評判のいい先生がいる。著書も何冊か出している。機会があったら本を書いてもらったらどうか」と、言っていたのだ。まだ僕が清流出版を立ち上げる前の話である。それがこうしてご縁ができて、三冊刊行させていただくことができた。今は亡き岳父への恩返しもできたようで、感無量の心地がしている。
石川さんは今年で杏林大学病院の定年を迎え、今は週二回だけ勤務医としてある病院に出勤する週休五日制の生活になっている。これからは夫婦で海外旅行を楽しみ、健康のためのエアロビックスを続けながら、執筆活動に専念したいという。書きたいテーマは目白押しということもあり、次々世に問うことになるだろう。
この日、石川さんから二つの企画提案があった。一つは、「にせ医者」という刺激的なテーマの小説である。この場で詳細を述べるわけにはいかないが、シベリア抑留で衛生兵として応召した男が、シベリアの地で死んだ医師と入れ替わって帰国する、というミステリー的要素も含んだ興味深いテーマ。もう一つは、「からだの歳時記」といったテーマである。季節が移ろいゆくとともに、からだにも変化が起こる。そんなからだの不思議な仕組みを、医者の観点から書いてもらえば面白いものになりそうだ。「定年、万歳!」の境地にある石川さんの今後の筆に期待しよう!
筑波大学教授の中川八洋さん(右)とフリーの編集者・松崎之貞さん(左)と。
僕は長年、稀代の論客として名高い中川八洋さんには注目していた。そんな折、かつて徳間書店の編集局長を務めていた松崎さんから、中川さんの単行本の企画提案があったのだ。渡りに船とはこのこととばかりにすぐにオーケーを出した。
松崎さんは中川さんの名著『正統の哲学 異端の思想――「人権」「平等」「民主」の禍毒』(徳間書店 1996年)を編集した方だ。今回、わが社から出す本のタイトルは、『福田和也と《魔の思想》――日本呪詛(ポスト・モダン)のテロル文藝』となる予定。当代随一の人気評論家・福田和也氏を、放蕩、虐殺(テロル)、祖国廃滅(ポスト・モダン)の「幻像の文藝」の「危険な思想家」として断じることで、いまわが国を覆っている文芸、思想の潮流を分析し、バッサリと斬る狙いだ。福田氏のほかにも、氏の友人や「師」の、建築家の磯崎新、作家の保田與重郎、哲学者の浅田彰などを俎上に乗せ、「文人・福田和也」の真像をより深く解剖している。
ここで中川さんの経歴を少し述べておこう。東京大学工学部航空学科宇宙工学コースを卒業し、大学院を修了され、そのあと一転してジャンルを変える。スタンフォード大学大学院で比較政治学を専攻、修士課程を修了し、科学技術庁を経て、1980年より筑波大学助教授、1987年より同大教授になられた。いわば理系から文系に移られたユニークな学者である。
そんな中川さんが満を持して世に問うのが今回の『福田和也と《魔の思想》――日本呪詛(ポスト・モダン)のテロル文藝』である。いつの間にか、日本のアカデミックな世界をはじめ、ジャーナリズムの第一線に立つ人々が多く依拠するポスト・モダン思想を日本で初めて総括、批判する書として長く記憶に留められ読みつがれる本だと思う。是非、お読みいただきたい。
すでにこのホームページの「お知らせ WHAT’S NEW」欄でも取り上げているが、『宏です。小川です』のサイン会が7月15日と16日の両日、日本橋三越百貨店新館と紀伊國屋書店新宿本店で行なわれた。サイン会場の雰囲気は、小川さんのお人柄からであろうか、ほのぼのと温かいものだった。二日間にわたって、小川宏さん、ご苦労様でした。
どちらの会場でも一人ひとりと軽妙なやり取りをしながら、丁寧に為書をし、ご自身の名前をサインされていた。小川さんは一時期、自殺を考えるほどのうつ病に悩まされたことがある。その長い闘病生活を乗り越えたお元気な姿を、皆さんに見てもらえて本当によかったと思う。
僕は15日の日本橋三越百貨店新館のサイン会には伺った。次の16日の紀伊國屋書店新宿本店にはリハビリを予約していた都合上行けなかった。紀伊國屋書店でのサイン会は田辺営業部長、臼井出版部長をはじめ、松原淑子副編集長、長沼里香、秋篠貴子の三人の女性が助っ人に駆けつけ、万事滞りなく済ませたようで安心した。
これで、わが清流出版のサイン会は都合7回目になる。各書店様のご協力なくして、サイン会は成立できない。今後もしばしばやろうとは思っているが、皆さん、いかが? 小川宏さんの単行本企画と言えば、当初、この本に先立って刊行する予定だった『うつとガンからの生還(仮題)』も、目下、鋭意進行中だ。4月のこの欄でお伝えしたとおり、闘病体験記として一段と内容が濃くなるはず。いい本を刊行して皆さんのお役に立ちたいと思っている。
5月の本欄にも登場された百瀬創造教育研究所所長の百瀬昭次さん。
このときは「水の英知に学ぶ」をテーマに執筆される話をした。その本のタイトルが『なぜ人は毎朝、顔を洗うのか(仮題)』になる(可能性が強い)。「なぜ人は毎朝、歯を磨くのか」ではあんまり面白くないが、このタイトルだと不思議に興味が湧く。いずれにせよあと2ヶ月ほどで刊行となる。乞う、ご期待のほど!
さて、本日、百瀬さんが来社されたのは、新企画『龍馬スピリットが日本を救う』を執筆中とのことで、サンプル原稿を持参して藤木君、臼井君、僕に説明された。話を聞くうち、この原稿には「水」のテーマと同じトーンが流れていることに気づいた。教育問題から始まり、変革期にはどのような人物が必要なのか、「水」のこころと行動哲学、人との「出会い」がもたらすもの、「夢」「希望」を大切にする人が拓く未来……。
百瀬さんが「龍馬スピリット」という根本原理で若い人に向けて使命感を持って「日本の洗濯」をしてもらいたいという気持ちが伝わってくる説明であった。趣旨に賛成した僕としては、世界の海援隊を目指すのを現代人に分かりやすい例――たとえば、大リーグで活躍するイチローの例を出して説明していただきたい、との希望を出すに留めた。坂本龍馬の考え方が現代に甦る。こうした内容の本になろうとは思っていなかった僕としては、期待の一冊である。
蒲田耕二さん。約15年前、僕の敬愛する編集の達人・野田穂積さん(株式会社グループ8代表)からご紹介をうけた。その時はフランス語の原書を翻訳していただいた。邦題が『絵画ビジネスのからくり』(シモノ・フィリップ著)で、バブルの絶頂期の絵画ブームに合わせて刊行したもの。その後、間もなく僕は勤務していた出版社を辞めたので、蒲田さんと会う機会もなくなった。
しかしながら、出版界とは元々狭い世界である。蒲田さんのような腕のいい翻訳者なら引く手あまたである。僕も翻訳者を紹介してほしいという依頼がきて、すぐに蒲田さんのことを思い出した。蒲田さんは英語とフランス語をまるで母国語のように流麗に訳せる方だからだ。今回もわが社からまもなく刊行する『スーパーマンから バットマンまで科学すると――アメリカンコミックス・ヒーロ ーズ』(ロイス・グレッシュ、ロバート・ワインバーグ)を翻訳 していただいた。
何度かお会いする内に、蒲田さんの方から「シャンソンに興味がありませんか。これまで書き溜めたシャンソンに関する原稿があるので、読んでいただいて、よければ出版してくだされば」との話。藤木君と僕が原稿を拝見したところ、うまくアレンジすれば、いけそうだとの感触があった。僕は、学生の頃から工藤勉、丸山明宏、小海智子、戸川昌子、平野レミ……など、銀巴里に通ってシャンソンに入れ込んだ時期がある。ヌーベル・シャンソンなど、今でも時々聴く。企画がうまく進むことを祈っている。
今年の東京国際ブックフェア2005は例年と違う時期(いつもは4月下旬だが、今年は7月7?10日)に開催された。ちょうどわが社では、月刊誌の下版スケジュールの真っ只中に当たり、ほとんどの社員は動けない。編集陣を代表して臼井出版部長と僕とで3時間あまりの駆け足で覗いてきた。
その印象だが、日本の大手出版社が何社か撤退してしまったようだ。主催者側の発言を鵜呑みにすると、第12回を迎え、出展規模は約2.5倍に、来場者数も約2倍に達したとか。世界25ヶ国から650社の参加を得て、ますます成長過程にある、というのだが……、実態はどうであったのかクエスチョンが残った。
隣接会場では「国際文具・紙製品展ISOT2005」が開催されていた。こちらの方が僕にとっては刺激的だった。筆記具、紙製品、手帳、各種事務用品、デザイン用品、OAサプライなど、実に展示内容も盛り沢山であった。とくにノベルティ製品が豊富で、興味をそそられた商品もある。
わが社でも月刊誌『清流』の定期購読者宛てに、契約更新していただいた際には、感謝の気持ちをこめて社名入りのノベルティグッズをお送りしている。これまでにも筆記具やファイル、付箋紙などをプレゼントとしてお送りしてきた。この展示会で驚いたのはその種類の多さ。同じ筆記具でも、ペン軸が消毒効果のある素材になっているものや、紙の腕時計なんてのもある。ロットにもよるが、社名を入れてもそれほどの金額にならず、もらった方も驚くこと請け合いのグッズが目立った。
話をブックフェアに移すと、写真に映っている国連大学出版部(UNITED NATIONS UNIVERSITY PRESS)のローリ・ミシェル・ニューソムさん(中央)などとお話をした。わが社は、同大学出版部の『誰が飢えているか』(Who’s hungry ?)、『平和のつくり方』 (Volunteers Against Conflict)の2冊を翻訳出版しているので親しみがある。ここには映っていないが、マーク・ベンジャーさん(出版販売コーディネーター)とわが社の版権コーディネーターである斎藤勝義さんが同じ日に会って、よい本を紹介していただけるようにお願いした。また、この日、わが社から刊行したばかりの本を韓国に版権を売った南尚鎮(ITコンサルタント、ビジネスコーディネータ代表)にも会場内でお会いした。その本は小林薫さんの『世界の経営思想家たち――ピーター・F・ドラッカーほか三十余人』だが、韓国の出版社がなんと3社も競い合う売れっ子ぶり。結局、南尚鎮さんがコーディネートした出版社に決定した。この本で韓国にも小林フィーバーが起こることを期待する。
2005.06.01写真と日記2005年6月
経営評論家の小林薫さん。小林さんは近くわが社から刊行予定の『世界の経営思想家たち――ピーター・F・ドラッカーほか三十余人』の最終ゲラをチェックするため来社された。昨年、産業能率大学を定年退職。いまは同大学名誉教授である。わが社は小林さんの名訳でこれまで二冊刊行している。『企業倫理の力――逆境の時こそ生きてくるモラル』(K.ブランチャード+N.V.ピール)と『一度の人生だから――自分でデザインする生き方』(ロバート・オーブレー+小林薫)がそれ。今度の本は、いわば小林教授の退官記念となる書き下ろしだ。世界の経営思想を訳してきた小林さんなればこその内容で、世界の経営学を俯瞰するとともに、日本がどのようにそうした経営理論を取り入れながら経済発展を遂げてきたかが一望できる構成。わけてもピーター・F・ドラッカーとの交流歴をベースにしたまとめが素晴らしい。用意周到な小林さんらしく、脱稿直前にクレアモント(ロスの郊外)の自宅に伺って、95歳の恩師ドラッカーと打ち合わせを済ませてきたという。話が変わるが、約36年前、僕は以前勤めていたダイヤモンド社で、子会社を含めた全幹部を集めたコンベンションで演壇に立ったことがある。フェアモントホテルで行なわれたが、小林薫さんの話の後で、テーマは「フランスの出版事情と高価格雑誌の可能性」だった。いま思えば子会社10社を含め幹部クラス約80名の前で、まだ二十代ヒラの若造だった僕に発表の場が与えられたのは異例のこと。子会社プレジデント社の精鋭だった小林薫さんは堂々としていた。僕もくそ度胸で話をしたが、いい思い出だ。その後、小林さんはNHKテレビでビジネス英会話の人気者になり、さらに大学の教壇に立つようになった。押しも押されもせぬジャーナリスト&国際コミュニケーター&経営評論家として活躍の道を開いた。僕の尊敬している先輩の一人である。
関根里絵さんとお母さん。このホームページの冒頭で「最新情報」(お知らせ WHAT’S NEWS)に出ているとおり、月刊『清流』の連載「里絵のこころ絵日記」を書いているせきね里絵さんが、NHKのテレビ番組で紹介された。詳しい内容は、同欄でご覧になっていただきたいが、ここではこの連載企画が生まれた経緯について触れておきたい。考えてみると、新企画が生まれるのは、つくづく人のつながりだと思う。僕の高校・大学の同級生で、謡の仲間でもある栗原忠躬さんが、ある日、スケッチブックのファイルを掲げて、わが社を訪ねてきた。聞くと、同じく謡の仲間である榎本美恵子さんと知り合いの身障者の方が単行本を出したいという。栗原さんは小さな出版社を経営している加登屋を思い出して、せきね里絵さんの作品を持ち込んだというわけだ。早速、僕はその場で臼井出版部長、松原副編集長を呼び、会議をした。作品は気に入ったが、いきなり単行本で勝負するにはリスクがある。とりあえず、月刊『清流』の「ヒューマン・ドキュメント」で取り上げ、連載企画をスタートさせることにした。その日の話をベースにして、後日、榎本さんと里絵さんが揃って来社され、「ヒューマン・ドキュメント」欄への登場が決まった。同時に担当編集者も長沼里香と決め、毎月の連載がスタートした。そのページが、運よくNHKの若くて優秀な高木康博アナウンサーの目に止まった。高木さんは転勤で東京勤務が決まって錚々のこと、それも図書館で月刊『清流』を初めて知ったというから、清流出版にとってラッキーな話だ。毎月、里絵さんは松葉杖をついて原稿を会社まで持参してくる。母堂も付き添ってくださる。交通機関の乗り換えも、不自由な歩行もリハビリの一環だとの認識で、一日1万歩の歩行が目標だという。僕はその半分の5千歩がせいぜいなので苦笑するしかない。来社されると、長沼や松原と打ち合わせは、明るい笑い声に満ちている。思わず僕も、時々、話に割って入る。紹介者の榎本美恵子さんの息子さんも13年前、交通事故に遭い、後遺症が出て高次脳機能障害に悩んでいると言う。榎本さんと関根さんは、同じ悩みを抱えた家族会で知り合ったのだそうだ。このように重い障害に悩む方たちに、「里絵のこころ絵日記」が励みになればと思う。僕も右半身不随で言語障害の身。多くの周りの人たちに助けられ、生かされて生きている。皆さんに感謝しつつ、心して雑誌、単行本の編集をしていくつもりだ。
小野田町枝さんが来社されると、職場の雰囲気が変わる。とびきりの笑顔で、大きな声で挨拶しながら入ってくるからだ。僕も町枝さんが来ると、経営数字を眺めていても、しかめっ面はしていられない。この明るい陽気な性格は、きっと生来のものであろう。得な性分である。しかも、仕事熱心ときている。この日も、買い取った自著『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』150冊に、弊社でサインをしたのである。サインが済んだら、再び10冊ずつ梱包するのだが、その手際は見ていて気持ちいいほど。写真に写っているアルバイトの八木優子、営業部長の田辺正喜も、ごく一部しか手伝っていない。ほとんど町枝さんが一人でおやりになった。出版社にとっては、この上なく有難い著者である。このとき、町枝さんはテレビ放映の案内を持参していた。「小野田寛郎のテレビ放映のお知らせ」であった。僕は早速、5月24日(火)にNHKのハイビジョン(103チャンネル)で放映されたドキュメント『生き抜く小野田寛郎』を見た。小野田さんの来し方を戸井十月が実に丹念に取材していた。つくづく人に歴史ありだと感慨を新たにした。録画したビデオを会社に持って行き、BS放送を見そこねた社員にも、その感動を味わってもらった。また、8月13日(土)にはフジTVで「終戦六十周年記念スペシャルドラマ」として、小野田さんを扱った2時間番組が予定されている。「遅すぎた帰還 実録・小野田少尉(仮題)」で、いま売れっ子の中村獅童が「最後の軍人」小野田寛郎さんに扮すると聞いている。人気スターが、小野田さんを演じるので話題になるだろう。多くの人に毅然と生きた小野田さんの数奇な人生を知って欲しい。
常盤新平さん(右端)には、このたびジョン・リー・アンダースン著になる『獅子と呼ばれた男――アフガニスタンからの至急報』を翻訳していただいた。「訳者あとがき」でお書きのように、常盤さんが雑誌『ダカーポ』に原書を読んでいい本なので翻訳したい、と書いたのが発端だった。それを野本博君(左端)が読んで企画提案したわけだ。僕もこの本には興味を引かれた。なにせ同時多発テロの首謀者オサマ・ビンラディンがらみの話である。早速、常盤さんと旧知の版権コーディネーター・斎藤勝義さん(左から2人目)が橋渡しをしてくれて、翻訳をお願いしたのである。約半年間で刊行にこぎつけた。翻訳書としては異例の早業だった。常盤さんといえば、翻訳家・随筆家・小説家としてつとに人気が高い。自伝的小説『遠いアメリカ』で昭和62年(第96回)直木賞受賞に輝いた。翻訳書は『汝の父を敬え』(ゲイ・タリーズ)、『大統領の陰謀』(B.ウッドワード、カール・バーンスタイン)、『夏服を着た女たち』(アーウィン・ショー)等、小説は『罪人なる我等のために』、『頬をつたう涙』等、随筆には『雨あがりの街』、『山の上ホテル物語』等、数々の名作がある。最近では『ニューヨークの古本屋』が注目された。常盤さんの奥様にも、わが社はお世話になったことがある。3年ほど前、『アルヤ こころの詩――サウナと神話に癒やされて』を刊行した際、著者アルヤ・サイヨンマーがフィンランドから来日し、東京オペラシティでリサイタルをした。この時、常盤新平さんの奥様、陽子さん(会議通訳)に司会をしていただき、成功裏に終えたことがある。常盤さんがらみで思い出したことがある。昔、僕が手がけた月刊『レアリテ』の創刊号(昭和46年1月号)に、常盤さんが「モロッコ――マラケシュの陶酔」の記事を翻訳寄稿されたことだ。あの時、常盤さんがまだ早川書房に勤務されていた頃だったのか記憶も定かではない。あれから34年という長い年月が流れている。だが、こうしてまた常盤さんとの接点が生まれた。縁は異なもの不思議なものとはよくいうが、確かにご縁があったというしかない。
2005.05.01写真と日記2005年5月
?嶋中出版社長の嶋中行雄さんが、僕の車椅子を押してくれている。嶋中さんとはかなり古い付き合いだ。33年程前、僕の結婚披露宴の司会も嶋中さんだった。この日、嶋中書店の新刊書『里山の言い伝え お天気小母さんの十二ヶ月』(鈴木二三子著)を持参し、月刊『清流』での書評依頼をされたのだった。早速、担当の野本博君と図り、取り上げることに決定した。嶋中さんといえば、お父上の故・嶋中鵬二さん(中央公論社社長)から、わが家に二度お電話をいただいたことがある。最初は、『敗戦国の復讐――日本人とドイツ人の執念』(マックス・クロ、イブ・キュオー著 日本生産性本部)を行雄さんと共訳で刊行した時であった。「一冊の翻訳書を刊行したのは息子の人生にとって今後の励みになる」とお礼を言われ恐縮したのを覚えている。当時、行雄さんは23、24歳、ともに若かった。二度目は、僕がダイヤモンド社の編集者だった時、幕末維新史の隠れた資料『尾崎三良自叙略傳』(上・中・下 全三巻)の刊行先を相談されたので、中央公論社を推薦したことがある。刊行されて後、思いがけず司馬遼太郎さんが「第一級の史実資料である。過去の日本文化に重要なものが加わったという昂奮を禁じえない」と激賞した。その晩、鵬二さんは司馬さんの言葉を繰り返され、興奮冷めやらぬ口調で電話をしてこられた。その興奮ぶりが、つい昨日のように脳裏に浮かぶ。出版不況でお互い大変な時期だが、行雄さんとは今後も出版社の経営者同士として切磋琢磨していきたいと思っている。
アメリカ在住の日系二世サナエ・カワグチさんの本を弊社から刊行することになった。勿論、原文は英語。原題は『A TIME OF INNOCENCE』。原稿がわが社に持ち込まれたのは、たまたま紹介者がいたからだ。その面々が、ある日、わが社に勢ぞろいした。左から、フリー編集者の久保匡史さん、カワグチさんを取材した際、原稿を直接託された画家の桐谷逸夫さん、NHKテレビの英語ニュースでお馴染みの桐谷夫人のエリザベスさん、翻訳者の堤江実さんの四人である。久保さんと桐谷逸夫さんは、かつて「リーダーズ ダイジェスト」時代の同僚。サナエ・カワグチさんの自叙伝だが、あらすじに触れると、第二次世界大戦下のアメリカで、日系人としての誇りを胸に行きぬき、夢を叶えるまでを描いている。日系人というだけで、差別や迫害を受けるが、家族や日系人同士で支え合いながら生き抜く。涙なくして語れない力作だ。戦後、ダンスへの情熱を貫いて、「マーサ・グラハム・ダンス・カンパニー」のメンバーに抜擢、ブロードウェイで活躍するまでの感動物語である。訳者の堤江実さんは元文化放送アナウンサー。翻訳の傍ら、詩と朗読のCDを出すなど多方面で活躍している。桐谷エリザベスさんは、目下、ダンスに夢中。ダンス競技会の裏事情もよくご存知で、本場ボール・ルームも近々見学に行かれるとか。競技会の内幕も含め、本を書いていただいたら面白いことになりそうだ。ご主人の桐谷逸夫さんは、麻生和子さん(吉田茂のご令嬢)の古い英文日記を預かっているとのこと。歴史的な秘話が多いと言う。僕はこの話に一番興味を引かれ、麻生和子さんのご承諾を得てぜひ上梓したいと思っている。
獨協大学経済学部教授の千代浦昌道・淳子ご夫妻と杉並区方南町・長島葡萄房の音楽会での一こま。僕は千代浦先輩とは大学生時代からのお付き合い。うん十年前、千代浦さんが社団法人日本経済調査協議会に勤務されていた頃、不肖私がお二人の結婚披露宴の司会を務めた。以前勤めていたダイヤモンド社で、千代浦さんに翻訳していただいた本がある。『海洋資源戦争』(ジル・シュラキ著 1981年)という本だが、いかんせん時代を先取りしすぎた。中国、韓国、ロシアとの関係で、わが国は深刻な海洋問題が噴出している。今、出していれば、間違いなく話題を呼び、ベストセラーになったことだろう。この日、千代浦さんから『清流』誌に、いま話題の作家・市川拓司さんを取り上げる提案がなされた。市川さんは、『いま、会いにゆきます』『弘海 息子が海に還る朝』『そのときは彼によろしく』など、数十万部?百万部を超えるベストセラーを連発している。圧倒的に若い人の支持を得ている作家。時代の流れにぴったりのご提案だった。聞けば市川さんは千代浦教授の教え子。それを聞いて先輩には、雑誌に登場していただくだけでなく、わが社からの市川さんの単行本刊行にも協力してほしいとお願いした。
その日、長島葡萄房で開かれた音楽会で、特別出演したピアニストの高橋アキさんと。アキさんの右の壁には、当日の主役、作曲家の故・早坂文雄さんのポートレートが飾ってある。アキさんは、早坂さんのピアノ曲『戀歌』No.3、4、 『ノクターン』『ポートレート』などを演奏された。黒澤明の『酔いどれ天使』『羅生門』『七人の侍』などの音楽作品で知られる早坂さんのピアノ曲は、いま聞いてもいささかも古びていない。現代的でしっとりと風合いのある曲である。アキさんは、兄上の高橋悠治さんと並びエリック・サティの演奏家として有名な方。僕もエリック・サティの大ファンだが、この日聴いた早坂文雄のピアノ曲も、掛け値なし素晴らしいものだった。
米在住で国際政治経済ジャーナリストの藤原肇さんが、わが社のパソコンで検索中。世界を股に駆けて活躍されている藤原さんだが、長男の義務として今回、郷里津和野で行なわれたご母堂の法事のために来日。新企画の打ち合わせを兼ねて、その足でわが社へ立ち寄られた。藤原さんの話を伺って面白かったのは、森鴎外が成人してからなぜ生地・津和野に一度も戻らなかったのかという謎。この件は、単行本になったらぜひ読んでほしい。前著『ジャパン・レボリューション』は、正慶孝さんとの共著であったが、今度は十人の方との対談集。文豪・森鴎外の隠された真実をめぐって西原克成さん、水を燃やしてエネルギー源とする非線形磁場の理論という興味深い話を倉田大嗣さん、サイバネティックスと会計工学を結びつけた思想をめぐって日本経済の再構築の話を寺川正雄さん、ガイア(地球)の恵みと生命力の根源をめぐって佐藤法偀さん……など、ユニークなゲストを迎えて、藤原節が縦横無尽に展開される予定だ。
今回、「水の英知」をテーマに単行本をご執筆いただいた百瀬昭次さん。この方は北海道大学理学部物理学科を卒業されて、日本製鋼所にサラリーマンとして勤務していた方。ところが荒れる教育現場の話を聞くにつけ、やむにやまれず衝動的に会社を辞め、百瀬創造教育研究所を設立されたという熱血漢だ。話を伺うと世の中は狭い。僕も旧知の仲の中嶋嶺雄さん(国際教養大学学長、前東京外国語大学学長)とは、松本深志高校で同級生だったとか。現在、百瀬さんは、全国津々浦々で青少年や親を対象にした講演会をしている。人間教育こそ、日本再生の切り札との信念があるからだ。百瀬さんの著書『君たちは偉大だ』は、実に20年の時を超えて売れ続けるロングセラーだという。わが社の水の英知をテーマにした単行本も、企画テーマ、内容ともに時代にマッチしたもの、ロングセラーになることを確信している。
写真集『昭和のこどもたち』打上げパーティーにて。左から、担当編集者の長沼里香、山本真由美さん(影の撮影隊リーダー)、山本望愛(もあ)ちゃん(撮影隊マスコットガール)、山本邦彦さん(撮影隊リーダー)、石井透恵(ゆきえ)さん(石井さんの有能な秘書)、石井美千子さん(最後までこだわりを捨てなかった著者)、藤木健太郎企画部長、僕。銀座7丁目のレストラン「ダリエ」で開催した。このお店は、『清流』に「貞明皇后 大正天皇とともに」を連載中の工藤美代子さんのご母堂が経営しているレストラン。数少ないルーマニア料理を専門とするお店で、おいしいコース料理を十分に楽しんだ。この写真集『昭和のこどもたち』は、『清流』誌上で2003(平成15)年5月号から、2005(平成17)年4月まで丸々2年間、連載された。この間、人形制作・文の石井さんは、身体の不調に悩まされることもしばしば。カメラマンの山本邦彦さんも撮影中、何度も倒れた。毎回、撮影助手を努めた小学校4年生の望愛ちゃんも、いまや6年生になった。本当にご苦労様といいたい。単行本は連載終了を待たずに2004(平成16)年8月26日に刊行された。この日、イーピー放送株式会社から『昭和のこどもたち』をCSテレビに使いたいという話があった。高画質なデジタル・ハイビジョン画像を送れば『昭和のこどもたち』のファンも喜ぶのではないかという。1冊の写真集が波紋を呼んで、浸透して行くのはうれしい。
番外編 世田谷美術館の「瀧口修造 夢の漂流物」展にて。4月某日、野本博君と一緒に観て感動したので、本欄でも記しておきたい。一言で言うとシュルレアリズム(超現実主義)の本質を伝える展覧会である。老若男女、多数の来館者も熱心にメモをとりながら鑑賞していた。詩人、美術評論家でありシュルレアリズムの紹介者・実作者として知られる瀧口修造さんだが、僕も若い時に親しくお付き合いをさせていただき、影響を受けたお一人だ。絵画・写真の個展、暗黒舞踏・アングラ演劇等をご一緒したこともあり、至福の時を過ごした。その思い出を胸に、会場を何度も巡回した。終の棲家となった新宿区西落合の瀧口家の書斎には、同時代の前衛美術家たちの贈り物があたかも「夢の漂流物」のように漂っていた。そうした美術品が、今回、世田谷美術館に展示されていた。昨年、東京国立近代美術館で見た「草間彌生 永遠の現在」展も僕が感激した展覧会の一つだが、草間彌生の作品が会場の冒頭にあった。わが社から近々、故・桂ゆきさんの著になる『余白に生きる』が刊行予定だが、この桂ゆきさんの偉才ぶりを絶賛していたのが瀧口さんだった。マルセル・デュシャン、マン・レイ、マックス・エルンスト、ジョアン・ミロ……は言うに及ばず、僕が大好きな武満徹の作品(CD演奏)と楽譜、かつて興奮した赤瀬川原平の「千円札裁判」の押収品もあった。瀧口さんがついそこにいるようで、僕は胸が一杯になった。東京地裁の法廷で特別弁護人として立ったこともある瀧口修造さんを囲み、新宿の喫茶店で芸術作品は法で裁けないという議論をしたことがついこの間のように甦る。これまで封印されていた迷宮の全貌を初めて知った気持ちがした。