2005.04.01写真と日記2005年4月

05041.jpg

森本哲郎さんの『吾輩も猫である』の出版記念会から。前列左より著者の森本哲郎さん、淑徳大学客員教授の藤島秀記さん、僕。後列左より担当編集者の高橋与実、イラストレーターの大島理惠さん、森本哲郎事務所の田村朋子さん、藤木健太郎企画部長。撮影者は臼井雅観出版部長。森本さんとは前に勤めていたダイヤモンド社時代からのお付き合いだ。35年前、月刊『レアリテ』誌の連載コラム欄を依頼したのが始まり。同席した藤島さんも同じ出版社で出版局長、常務取締役等を歴任された方だ。藤島さんは森本さんの著書を刊行することで会社の業績に大いに貢献した。毎週、1万部をはるかに超える連続増刷のお知らせをしたこともある、夢の時代だった。夏目漱石の『吾輩は猫である』は森本さんにとって「枕頭の書」である。今回弊社から刊行した『吾輩も猫である』は、愛読書をあえてパロディー化、現代の世をバッサリ斬る意気込みで、3年間月刊『清流』に連載されたものだ。幸い各紙誌に書評が出て売れ行きもよく、在庫も僅少となっているので、近々増刷する予定。それにしても主賓の森本さんに元気がないのが気になる。体調が冴えないとこぼすことしきり。80歳を目前にして、元気回復するには旅しかないと、「ベトナム、カンボジャ、タイ……どこでもよいですからご一緒しましょう」と、藤島さんが提案。秘書の田村さんも「いつでもスケジュールを空けますから」と心強い発言。これまでも森本さんは過酷なサハラ砂漠行に十数度挑戦したのをはじめ、世界各国の辺境地を訪ねている。森本さんと藤島さんは、手掛けた本の思い出や共通の知人の近況報告で盛り上がっていた。僕も、前の社で手掛けた森本さんの著書『そして、自分への旅』を思い浮かべながら、森本さんが元気を回復するには、やはり旅が一番ではと思った。

 

 

 

05042.jpg

文化人類学者の西江雅之さん(左)。今夏弊社より刊行予定の『(仮題)文化とは?』の打ち合せで来社された。前著の『異郷をゆく』は、世界14の土地を旅してのフォトエッセイ集だったが、今回は文化人類学の領域でもまだ書かれていないことをご執筆いただく予定だ。西江さんといえば、ポリグロット(多言語を操る人)で知られる語学の天才。スワヒリ語からサンスクリット語まで何十ヶ国語の言語を話せる方である。西江さんの天才ぶりを語るうえで、格好のエピソードがある。西江さんが早稲田高等学院時代の話である。当時、『シートン動物記』を翻訳されていた内山賢次さんが「あとがき」で、原書で意味がわからない部分があり、識者に問いたいと書かれたのである。西江さんはそれを見て、アメリカ・インディアン語の、それもツィムシアン族の言語と読み解き、その文意を訳者に知らせたというのだ。お二人が初めて出会う場面が傑作である。高校生の西江さんを見て、内山さんは当の本人とは露ほども思わず、てっきり父親の代理で来たものと思ったそうだ。僕は大学に入学した時、高等学院の3年先輩で、数々の伝説の持ち主であった西江さんと是非お近づきになりたいと思った。だから大学時代、西江さんが所属していた仏文研に入ろうと思ったほどである。それはさておき、西江さんは、関係する大学(東京外国語大、早稲田大、東京芸術大各教授)を退職され、昨年からつい最近まで数ヶ月費やして、中国、台湾のフィールドワークに携わってきた。その研究テーマが「媽祖(マーヅォ)」。媽祖のことは日本の新聞・雑誌・テレビ等でも、まだほとんど報じられていない。西江さんの話を聞くととても面白いテーマで、興味をひかれた。宗教、政治、社会生活等の取材結果が公表されれば、クローズアップされそうな予感がした。みなさんに詳しく語りたいのは山々だが、単行本の上梓までおあずけとしよう。

 

 

 

05043.jpg

アナウンサーの小川宏さん。弊社から刊行予定の単行本『うつとガンからの生還(仮題)』の打ち合わせで来社された。小川さんといえば、NHKのアナウンサー時代に人気番組「ジェスチャー」の司会を15年間、フリーに転じてフジテレビ系の「小川宏ショー」は17年間続いた名物司会者。温厚篤実な人柄がにじみ出た司会ぶりで、視聴者の人気を博した人だ。その小川さんが平成3年秋に「うつ病」を発症された。翌年3月には、自殺未遂まで引き起こし、即、3ヶ月間の入院生活。自身、ストレスを溜めないと思っていたというから、まさかの「うつ病」診断結果だったわけだ。脱力感、食欲がない、人に会いたくない、何をするにも億劫になる。そんな「うつ病」の症状から抜け出せたのは、医師の的確な処方であった。抗うつ剤、睡眠薬の処方で快方に向かう。現在は抗うつ剤の服用は必要なく、軽い睡眠薬を処方してもらっているだけだという。その闘病体験記は講談社から刊行されたが、その後の闘病体験や講演・執筆活動で見えてきたものなどを大幅に加筆修正して一冊にまとめていただくことになった。まだまだこの病気を理解していない人がいたり、世間からの偏見で悩む人も少なくないと聞く。支え続けた夫人の富佐子さんのがん闘病と合わせ、『うつとガンからの生還』と仮題をつけたが、本書の刊行が、世間一般の人々の認識を変えるきっかけになればと思っている。

 

 

 

05044.jpg

明星大学教授の正慶孝さん。文字通り博覧強記の方だ。正慶さんと雑談をしていると、それをまざまざと実感できる。談たまたま昭和を彩った文学者に話が及んだとする。ここからが正慶さんの真骨頂である。その人物の出身地、生年はもとより、専門分野、趣味嗜好、出身中学・高校・大学名、職歴、業績、さらには先輩・後輩、友人および敵対する人まで、ありとあらゆる情報が立て板に水のごとく溢れ出てくる。正慶さんの凄さはその範囲が日本に止まらず世界に及ぶことだ。ジャンルも専門の経済学はもとより、思想・哲学全般、歴史学、社会学、政治学、文学、芸術全般……。まさに百科事典並みの知識で正確そのもの。僕は、学友・正慶さんのことを思うと、つい百科全書派(アンシクロペディスト)と名付けたくなる。また、正慶さんを評して「意味論の達人として数少ない日本人」「生きたセマンティックスを駆使する論客」などと言う方もいる。僕の見る限り正慶さんは、師事した社会学者・清水幾太郎さんを彷彿させる幅広い一流の教養と学識に溢れた人物だ。今回、わが社から出される『ユビキタス時代のコミュニケーション術』(可児鈴一郎・羽倉弘之共著)に「推薦文」をお願いしたが、その校正ゲラを持参してくれた。かつてダニエル・ベルの『二十世紀文化の散歩道』(ダイヤモンド社刊)は、正慶孝さんが苦労して訳出された。僕が編集で手掛けた最も思い出深い本だ。そのすばらしい成果を是非みなさんにも味わってほしいものだ。

 

 

 

05045.jpg

弥生会の細矢静子さん。細矢さんは、月刊『清流』を毎月5部、有料定期購読され、全国各地のお友達に配ってくれている。大変、奇特な方である。弥生会というのは故・宝生弥一師匠が創設した謡曲の下掛宝生流を学ぶ流友の集まり。現在は、ご子息の宝生閑先生(いずれも人間国宝)の指導を受けている。この会に、僕も学生時代からお世話になっている(目下、身体の都合で休眠中だが)。細矢さんは長年、日本女子大学関係のお仕事に携わってきたので、評伝『桜楓の百人――日本女子大物語』(舵社)に登場する平岩弓枝さん、高野悦子さんをはじめ、月刊『清流』によく取り上げられる日本女子大学出身の方々と直接お付合いがある。今回もよくご存じの武藤静子さん(95歳)が4月号の特集に登場していただいていることから、話が弾んだ。また、デザイナーの鳥居ユキさんもご紹介いただけるという有難い話も出た。こうした方々に支えられて、わが『清流』も創刊12年目の航海に入る。

 

 

05046.jpg

弥生会の連吟風景。昭和33年前後の貴重な写真。前列中央は安倍能成さん(一校校長、文部大臣を経て、当時、学習院の院長。弥生会会長)、その左2列目は作家の野上弥生子さん、左端の白い和服姿は細矢静子さん。漱石門下の錚々たるメンバーもみな下掛宝生流の流友である。

 

 

 

05047.jpg

章友社代表の永原秀信さん(左)とフリーライター兼編集コーディネイターの中村炳哲さん。章友社は、わが社とは目と鼻の先の千代田区九段北にあり、企画、編集、印刷の業務を手がけている会社。お二人は、酒井大岳さん(曹洞宗長徳寺住職、南無の会会友)の単行本企画を提案するため来社された。『(仮題)今を生きる 禅のことば』という企画だが、企画構成案を見ると、四十ぐらいの言葉で禅の心が分かる構成だ。大岳さんの文章をよく知る藤木健太郎君に編集担当してもらうことを決めた。わが社が手掛けたらいったいどういう本になるか、検討してもらう。談たまたま、永原さんが仕掛けた『はじめての雅楽――笙・篳篥・龍笛を吹いてみよう』(東京堂出版)の話になったら、藤木君が俄然興味をかきたてられたようで、雅楽の話題で盛り上がった。そのうち、わが社からCD付の雅楽の本を刊行することも検討してみたい。

 

 

05048.jpg

医療法人・立川メディカルセンター顧問の医学博士・田村康二さん。新潟県長岡市からわざわざお越し願った。未来工房大宮分室の代表取締役・谷島悦雄さんが紹介してくれた人である。田村さんは「時間医学」の第一人者として、テレビ番組などの医療解説で定評がある。今回は、すでに入稿済みで進行中の『(仮題)「症状のない難病」との上手なつき合い方――最新の医療を最大限に活かす知恵』の打ち合わせと、『(仮題)これで、人を見抜けるのか!――20のポイントはこれだ』等の企画ご提案が主たる目的だった。田村さんは最近、新書判で『「震度7」を生き抜く――被災地医師が得た教訓』(祥伝社)という本を上梓して、たちまち1万5000部増刷になったという。話を聞くと、具体的に大震災が起こったときの対処法など役立つ情報が満載で、売れている理由が理解できた。企画の立て方という意味では、いいお手本になる本だ。わが清流出版では、こうした本から学んだことを元に、どんな本を産み出してくれるのか?

 

 

05049.jpg

翻訳家の宮家あゆみさん。ニューヨーク在住。わが社から近々刊行予定の『(仮題)アイザック・スターン 音楽に賭けた79年』の打ち合わせで訳稿を携えて来社された。宮家さんは3歳のお子さんを育てながら、仕事に精を出されている。妊娠・出産前後に、『ブックストア――ニューヨークで最も愛された書店』『マイ・ハートビート』『ガール・クック』『チャスとリサ、台所でパンダに会う』と4冊の本を翻訳、出版されているのは驚異だ。その上、ご自分の出産体験をアメリカの雑誌に寄稿したのも天晴れというしかない。異国での日本女性の八面六臂の活躍ぶりには頭が下がる。

 

 

050410.jpg

雑誌『アメリカン・ブックジャム』編集長、小説家、翻訳家の秦隆司さん。前出の宮家あゆみさんのご主人である。今回、お二人の帰国は、一つには確定申告のためだとか。納税は国民の義務とはいえ、厳しいものだ。子連れ旅であり、旅費も時間も取られる。秦さんがかつて翻訳した『世界貿易センタービル――失われた都市の物語』(KKベストセラーズ)は注目を集めたが、その前に書き下ろし刊行された『スロー・トレインに乗っていこう――回り道した僕が夢を見つけたニューヨーク』は、ご自分の半生記。青春ノンフィクションとして心に深く残る作品だ。秦・宮家ご夫妻は、翻訳家として信頼が置ける方。わが社としても版権を取った中から、適宜発注していきたいと思っている。ご夫妻からは、アメリカのホットなニュースのご提供をお願いしたい。

 

 

 

050411.jpg

フリー編集者の高崎俊夫さん。映画に滅法強い人である。これまで中条省平さん、上島晴彦さんなどの本を仕掛けてくれた。今回は、吉田秀和さんが天才オペラ演出家と絶賛したという故・三谷礼二さんの本を提案してきた。聞くと、『CDジャーナル』に連載された幻のコラムを中心に編みたいようだ。仮題も『オペラとシネマの誘惑』とかなり具体的である。蓮實重彦さんも、熱烈な三谷ファンだったと聞く。クリアすべき条件があるが、刊行にこぎつけられれば楽しみな本になりそうだ。三谷さんは学習院大学中退の顛末がある。皇太子(現、天皇)を扱った日活映画『孤独の人』に出演したため、学習院院長安倍能成氏により退学処分を受けたのである。このホームページの細矢静子さんの欄を読み比べてほしい。安倍能成さんの覚えめでたい人がいる一方、三谷さんは退学処分である。さらには、『孤独の人』の原作者であった故・藤島泰輔さん(天皇のご学友)と僕は親しく付き合ってきた。と同時に、僕は大学生の頃、安倍能成さんに弥生会の席で何度かご一緒している。なんとも不思議な因縁である。

 

 

 

050412.jpg

番外編。3月某日、神田神保町の咸亨酒店で、歓送迎会を開いた。編集部の舘野竜一君の退社と石田裕子さんが出産休暇を取る間、総務経理を手伝ってもらう派遣の生澤美和子さんの歓迎を兼ねたものだ。舘野君は、北海道大学文学部哲学科卒の真面目な男で、トライアスロンを愛するスポーツマン。35歳の誕生日を迎え、新天地を求めて会社を去る決意したようだ。優秀な編集者であったので引き止めたのだが、決心は変わらなかった。僕から言わせると、あまりにも軽率な決断だと思うのだが……。「好漢、また清流出版で仕事をしたくなったら、いや酒を呑みたくなったら、将棋をしたくなったら、いつでも九段下を目指してくれ!」と言いたい。石田さんは2番目のお子さんで、世の少子化対策に貢献するところ大だ。よいお子さんが産まれるよう祈っている。生澤さん、約6ヶ月間、ご苦労様だが、総務経理のお手伝いをお願いする。

 

2005.03.01写真と日記2005年3月

 

edit03.1.jpg

写真家の織作峰子さん。織作さんの写真集を作る単行本企画が、飯嶋清さん(遊人工房)から出された。顔合わせを兼ねた打ち合わせに、飯嶋さんの自家用車で織作さんの港区白金台のマンションを訪ねた。同行したのは編集を担当する予定の秋篠貴子、臼井雅観出版部長の二人。かつて織作さんは月刊『清流』1998(平成10)年2月号の「いま、この人」に登場した経緯がある。よい写真集ができそうな予感がする。飯嶋清さんは、40年ほど前、光村印刷に勤務していた頃、印刷学会の関係で僕がかつて勤めていたダイヤモンド社をしばしば訪れたとか……。そんな関係からか、石山四郎さん(当時ダイヤモンド社副社長)や入谷光治さん(後に子会社ダイヤモンド・グラフィック社社長)を始め、かつての会社の古い方々の名前を出しても通じる貴重な方だ。

 

 

 

edit03.2.jpg

書誌学の谷沢永一さん。外部スタッフとして編集に携わっていただいた松崎之貞さん(元徳間書店編集者)とともにホテルオークラでお会いした。1ヵ月後にわが社から上梓する本『無私と我欲のはざまで――浮世を生き抜く』へのお礼と次の出版企画のお願いが主眼である。希代の読書家にして且つ優れた書き手でもある谷沢さん。ご自宅に伺って15万冊に及ぶという蔵書をぜひ拝見したいものだ。それにしても、谷沢さんは若々しく75歳というお歳には到底見えない。文壇の事情にも通じており、話はとても興味深かった。昼間からワインや煙草を嗜みながらの談論風発、そのゆとりが若さの秘訣であろう。見習いたいものである。

 

 

 

edit03.3.jpg

 名刺には装幀家・随筆家・流木造形家、ほかに「とちぎ特使」とある荒川じんぺいさん。わが社から『荒川じんぺい流 パソコンお絵描き指南』に続いて、『森に棲むヒント』を3月末に刊行する予定である。当日、木工雑誌『ドゥーパ』(学研)のコンテスト審査を終えて清里に帰る途中、清流出版に立ち寄った。荒川さんほどパソコンという便利なものを使いこなしている人は少ない。原稿執筆から始まって、装幀・デザインの送稿、インターネットで情報収集、メールマガジンでの情報発信……。森の生活記録は、都会人には魅力的かつ刺激的だ。

 

 

edit03.4.jpg

ジャーナリストの河野 實さん。昭和38年に発行された『愛と死をみつめて』は、不治の病に陥った大島みち子さんと河野さんとの往復書簡集。150万部を超える大ベストセラーとなった。吉永小百合、浜田光夫という当時のゴールデンコンビで映画化もされ、青山和子が歌ったレコードも百数十万枚を売った。その後、河野さんはアジア、欧米諸国を歴訪、情報ビジネスで成功し、現在は農業で自給自足生活ができるほどとか。そうした人生体験から講演活動も幅広く展開している。今年、韓流の純愛ブームもあって『愛と死をみつめて』が復刊され、映画化も進行中とのこと。わが社も単行本を仕掛けて上げ潮に乗りたいところだ。

 

 

edit03.5.jpg

ジャーナリストの早川和宏さん。社会派ジャーナリストとして、心の変革、社会の変革を目標に掲げ、幅広いテーマに取り組んでいる方だ。イラストレーターの田村セツコさんのご紹介でお会いした。同席した松原淑子副編集長と興味深く伺ったのは、『ふろしきのこころ――私と教育』(塩谷治子著)の復刻版の話である。同書は昭和62年に発行されたもの。塩谷さんは子育てに励むとともに、教師、塾の経営者、またNHK学園リーダー養成塾の添削講師として、社会教育の実践に取り組んだ体験の持ち主。今後、企画を検討したいと言って別れた。

 

 

edit03.6.jpg

編集者の佐藤徹郎さん。通称「てっちゃん」。古巣ダイヤモンド社時代からの仲の良い旧友だ。いま、佐藤さんはハイブローな雑誌『知遊』の編集人として活躍している。その雑誌の編集委員でもある犬丸直さん(前日本芸術院長)の単行本を佐藤さんの編集担当でわが社から刊行してもらう予定だ。犬丸さんは月刊『清流』の1995(平成7)年1月号に登場されて以来、久しくご無沙汰だったが、佐藤さんが縁を繋いでくれた。仮題は『志を持って生きよう』だが、わが社にはすでに『志に生きる!――昭和傑物伝』(監修・保阪正康 江口 敏著)という本がある。「志」を重んじる清流出版としては、紛らわしいが捨てがたいタイトル案であり迷っている。

 

 

edit03.7.jpg 

評論家・作家の宮崎正弘さん。わが社から4冊目の本を出させていただく予定だが、今回のテーマは『中国の反日政策に感謝したい』といささか皮肉を込めたものを考えているようだ。「日本の健全なナショナリズムを蘇生させてくれた中国の反日キャンペーン――これで日本は普通の国になれる!」というのが執筆の論旨である。中国全33省をくまなく歩いた宮崎さんだからこそ書けるテーマだけに楽しみ。談たまたま宮崎さんと僕の共通の知人であった作家・評論家の藤島泰輔さん(ペンネーム:ポール・ボネ)に及んだ。僕もあれほどしばしば往来していたにも拘わらず、細部について記憶が曖昧になっている。脳障害が原因なのか、老人力がついたのか、どちらとも判断しかねている。

 

 

 

edit03.8.jpg

写真家の中里和人さん。わが社から刊行された写真集『路地』は、朝日、読売、日経新聞の全国各紙、『東京人』『サライ』『室内』などの雑誌にも書評が掲載され話題沸騰中だ。さらにはテレビ番組「王様のブランチ」でも紹介される人気ぶり。担当編集者の古満温(すなお)君と喜びの声を上げる日々だ。中里さんにはこの日、月刊『清流』5月号の第1特集の取材のためにご来社いただいた。『路地』絡みの企画を立案する予定だ。清流出版は雑誌と単行本を持っている。両者の連携を密にし、上手に企画に結びつけていけば相乗効果が見込めるはず。その強みが発揮された好例としたい。それにしても中里さんの『小屋の肖像』『逢魔が時』『キリコの町』『長屋迷路』……など、一連の写真集は独特のテイストがある。絶対にお薦め。

 

 

 

edit03.10.jpg

アートディレクター(アド・ムーン代表取締役)の清水浩さんとアシスタント・デザイナーの宮下知子さん。清水さんとは、月刊『清流』の創刊時、表紙デザインの件でお会いして以来、実に12年ぶりの顔合わせ。もともとの紹介者、芝洋二さん(芝オフィス社長)は、「あの頃からすれば、デザイナーとしても作家としても格段に腕をあげているから、きっとお役に立つはず」という触れ込み。持参してくれた作品を見ると、確かに洗練されてキラリと光るものがある。たちまちに気にいった。その日、ちょうど臼井君が著者から託された原稿が手許にあった。寺林峻さんの『秘色の海――空海入唐と理趣経』という単行本企画である。作品見本の中に荘厳な宗教的イメージの画があり、その作品を装画として使えばピッタリだと確信できた。この画をメインに装丁も清水さんに手掛けてもらえば斬新な本に仕上がりそうだ。清水さんの作品は、雑誌の挿し絵としても使えそうなものがあり、これからお付き合いも深まりそうな予感がしている。

 

 

rio.jpg

番外編。今年のリオのカーニバル風景。デジカメ写真を井上俊子さん(編集者・翻訳家)が、2月某日、電子メールで送ってくれた。その数日後、小野田町枝さんからのエアメールが届いた。文面だと、小野田さんと井上さんは一緒にリオデジャネイロのロイヤルホテルに泊まり、明日はカーニバルに行くとの由。電子メールがエアメールより早く届く。当然といえば当然だが、アナログで育ってきた我が世代には隔世の感がある。小野田町枝さんは、わが社から2年半ほど前に刊行した『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』の著者だが、アグレッシブな方でお会いする度、いつも元気をもらっている。

2005.02.01有限会社無限代表取締役

   わが清流出版の力強い外部編集協力者・野本博君が、ぜひ紹介したいと連れてきてくれた方がいる。編集工房を経営している奥田敏夫さんだ。名刺の肩書きに有限会社無限 代表取締役とある。有限会社なのに社名は「無限」、これを見ただけで、この人はいいセンスの持ち主だと思った。現在、月刊誌の『趣味の水墨画』を約8名のスタッフで手がけているとの由。野本君とは、以前、同じ会社(株式会社エス・プロジェクト)の同僚で、野本君が編集責任者、奥田さんが電子出版の「エンカルタ」編集長だったという。話をしてみると、お互いの関心事がぶつかった。奥田さんは僕より8歳位若い五十代半ばの方(小生は当年とって64歳)だが、生死を問わず偶々同じ人を知っているのには驚いた。例えば、僕の敬愛する編集の達人・野田穂積さん(株式会社グループ8代表)も奥田さんとは古くからのお付き合いであることが分かり、不思議な縁を感じ、心から親しみが湧いてきた。僕は野田さんとはかれこれ35年のお付き合いになるが、いつもアイデアに溢れた言動には感心させられている。つい最近、野田さんの仲間一行が昔懐かしい(江戸)神田川巡検の船旅を催した。その際、わが社の藤木健太郎君も企画立案から参加して、その経緯を聞いていたので、この奥田さんとの会話(というより酒宴)に参加してもらった。「船の中に確か、あの時は……お名前も存じ上げないで失礼をしました」――二人のやり取りを聞いていて、川遊びという「清遊」は、淡々として君士の交わりとはこうあるべきだと感じた。
   談たまたま、椎名其二さん、森有正さんの話題に及ぶと、奥田さんも身を乗り出した。ともに尊敬している人物だったからである。関係する野見山暁治さん、近藤信行さんの名前まで飛び出し、話が弾んだ。森有正さんの『バビロンの流れのほとりにて』をはじめ、野見山暁治さんの『四百字のデッサン』以下、懐かしい書名も次々出てくる。現在、僕の依頼で野本君が野見山さんの本を企画進行中だが、今後、奥田さんにも手伝ってもらえると密かにほくそえんだ。それにしても、椎名其二さんは滞仏四十年、モラリストの自由人として知る人ぞ知る人物。知っていたとしても記憶のかなたに消え去りつつある名前であろう。初めて知り合った同士がこの椎名其二さんを話題にして盛り上がるなんて予想だにしていなかった。それだけに、その日の酒に心地よく酔った。話をしているうち、椎名さんの秋田なまりのズーズー弁が脳裏に甦り、懐かしさに鼻の奥がツーンとしてきた。
   応接室には、若い頃、編集した月刊『レアリテ』の0号が置いてある。その雑誌には辻邦生さんの書いた「森有正の書斎」が掲載されている。その原稿依頼の経緯に触れると、実は椎名其二さんが自分の持っていたアランの全著作を森有正さんに寄贈したことを僕が知っていたことにある。そんなわけで、森さんの若い弟子で、当時、立教大学の助教授だった辻邦生さんに原稿を依頼することができたわけだ。あの当時、僕も29歳の若造で、生意気にも辻さんと文学の可能性を論じたものだ。辻さんも『廻廊にて』『夏の砦』が好評で、次はどんなテーマで書くのか注目を集めていた。新進気鋭の作家として地歩を築きつつあった頃だ。辻さんは、会社を辞めるかどうか迷っていた僕に、別れ際、こう言った「加登屋さん、”男子三日会わざれば刮目してみるべし”の心境でしょう。会社に残って、新雑誌を成功させるよう、がんばってください」と……。この言葉が今も心に残る言葉となっている。
   話が飛んでしまったが、奥田さんと最後に盛り上がった話題は、新雑誌の創刊話だった。このプランは世間的にも有意義なアイデアだと思う。これもマル秘情報のうちに入るだろうが、いよいよとなったら公開してみようと思っている。今後のお付き合いに期待してお開きになった。

 

nomiyama.jpg

野見山暁治さんの近影。東京・中野区方南町の「長島葡萄房」にて。撮影者は長島秀吉氏。僕が野見山さんのお名前を知ったのは、今から45年前、大学生の頃だった。七十歳を過ぎた椎名先生がまたフランスへ帰る渡航費用の一部を捻出するために無償提供された野見山さんの絵画を、僕も購入した。学友の長島秀吉君は僕より金持ちだったので、彩色されたもっと大きな絵画を買った。二人にとって思い出深い絵画となっている。

2004.07.01小宮山量平さんにお会いした

   某日午後、小宮山量平さんに初めてお目にかかる機会を得た。小宮山さんは、私がかねてより尊敬している出版人のお一人だ。今から45年程前、あることでお名前を知って、尊敬かつ親近感を抱いた。出版業界ではよく「岩波書店の岩波茂雄、筑摩書房の古田晁、理論社の小宮山量平」と三人並列して呼ばれる。いずれも信州出身の出版界の巨人だ。
   理論社設立以来、灰谷健次郎、今江祥智をはじめ多くの児童文学作家が同社から世に出た。小宮山さんは数々の名著や名作の作り手であり、自身、80歳を過ぎてから小説『千曲川』を書き「山本有三記念 路傍の石文学賞・特別賞」を受賞されている。いわば出版界の至宝であり、人間国宝のような方である。お話を伺っていても、先月、88歳(米寿)の誕生日を迎えた方とも思えず、情熱と見識はいささかも錆びついてはいなかった。
   今回、わが清流出版として、出版部長の臼井君ともども、ある件で小宮山さんにお願いしたいことがあっての訪問だった。その件について相談に乗っていただく前に、私が名刺代わりに持参した『清流』1998(平成10)年2月号に掲載された記事をめぐって話が弾んだ。特集『お金にとらわれない人々』では、松下竜一さんにご登場いただいている。松下さんの「”草の根”で見つけた”ビンボー”の楽しみ方」が、まず興味を引いたようだ。そして松下さんのことについて、書けば一篇の掌編小説になるような挿話を話してくれた。
   小宮山さんが大分県中津市に松下さんを訪ねた時のこと、四月というのに時ならぬ大雪に見舞われた。長靴を借りて小祝島へ向かう道すがら、行き逢う地元の人々がみな松下さんと小宮山さんのために脇に寄って踏み固めた道を譲り、深々とお辞儀をしたのだそうだ。いかに土地の人々が松下さんを敬愛しているかがわかり感服したという。ここから話は思わぬ方向に弾み、先頃、お亡くなりなった松下竜一さんの傑作、理論社刊行の絵本『5000匹のホタル』(絵・今井弓子)を清流出版で復刊してもよいとの内諾を戴くことができた。
   この後も『清流』2月号の、とくに近藤信行さんの「清貧に生きる 自由人として、生きる喜びを大切にした椎名其二さんのこと」や原田奈翁雄さんの「”自分自身を生きること”を希求し続けた男」といった記事を興味深げに目を通された。その間、小宮山さんお薦めのコニャック入りのケーキをいただいたので、ますます舌の回転も滑らかになった。
   その日、見本刷りとして上がってきた高尾五郎さんの新刊『ゼームス坂物語 第1巻「木立は緑なり」』、『ゼームス坂物語 第2巻「あの朝の光はどうだ」』を臼井君が取り出す頃には、小宮山さんと私たちとの間には、「同志」のような雰囲気すら漂った。小宮山さんは、「私もこの『ゼームス坂物語』の出版を考えたが、できなかった。大変でしょうが、清流出版の成功を祈るとともに、旗振り役をやりましょう」とエールを送ってくれた。そして「高尾五郎のペンネームではなく、本名の積好信を名乗って刊行させたかったな」と続けた。このご発言から、お二人が並々ならぬ関係であることがすぐにわかった。
   ちょうど前日、その積(高尾)さんから小宮山さんに「挑戦状」が届いたという。「小宮山さんの『千曲川』は第四部まで、主人公が18歳になるところで終わっている。今後、青年、壮年、熟年時代と昭和十年代以降を書きついで残してもらわなければいけない。執筆を促す意味で、自分でも”最後の授業”というタイトルで百枚の小説を書いた」という趣旨だそうだ。この話を聞いて、私も積さんの言い分に全面的に賛成だ。小宮山さんには後に続く日本人のために、時代を超えて生きるこの長大な作品を完結させて欲しいと思っている。
   閑話休題。小宮山さんが住んでおられる長野県上田市といえば、窪島誠一郎さんの無言館を思い出す。小宮山さんと窪島さんとは旧知の間柄だが、無言館、信濃デッサン館で絵を鑑賞して、上田駅近くの小宮山さん経営の鰻のお店『若菜館』で食事をして、上田駅から帰るのが、東京からの観光客の定番コースだと聞いて、私も行きたい気持ちが募った。無言館には思い入れがあり、すでに何回か『清流』でも紹介していることもあり、もう一度、窪島さんにも会ってみたくなった。
   その日一番私が面白いと思ったのは、小宮山さんが大相撲の幕内力士である黒海(本名トゥサグリア・メラフ・レヴァン)のファンとして燃えていることだった。グルジア・トビリシ出身の黒海は着々と実力をつけ幕内上位に番付を上げたので、夏場所では今をときめく横綱朝青龍との取り組みも実現する。それを楽しみにしているということだった。のめり込んだ理由を聞くと、小宮山さんがかつて手掛けた本が機縁となったようだ。
   グルジアの12世紀の叙事詩『虎皮の騎士 ショタ・ルスタヴェリの叙事詩』(ショタ・ルスタヴェリ著 袋一平訳 理論社)がその本で、西欧のルネサンスより2世紀以上先行して花開いた東方の文芸復興の代表的古典だそうだ。小宮山さんは、黒海が優勝したら、貴重な『虎皮の騎士 ショタ・ルスタヴェリの叙事詩』のグルジア語版の原書をプレゼントしたいとおっしゃっている。
   グルジアの人々は長い歴史の中で、アミチエ(友愛)を重んじる人々として知られる。現代社会では見失われつつある人類愛を原点として留める民族である。友愛をテーマにしたこの虎皮の騎士の物語を、今の日本の若者に、叙事詩の韻文体ではなく新たに散文体で訳し直して読ませたい、というのが小宮山さんのかねてからの願いである。われわれ清流出版もお手伝いできることがあればして、ぜひ実現させて欲しいと思っている。そして、私も黒海を応援していきたい。最後に、小宮山さんが今後とも長生きをされ、われわれ出版界の後輩に、いな日本人に喝を入れてくれることを切にお願いしたい。

 

0407.jpg

1998年9月、長野県上田市の「無言館」「信濃デッサン館」を訪ねた際、窪島誠一郎さんとのツーショット。そのときは、小宮山量平さんと窪島さんが親しい交友関係にあるとは、全然知らなかった。「無言館」の柱には寄付のネームプレートに「清流出版株式会社」の名もあるはず。

2004.06.01元同僚 三ちゃん逝く

   いま、わが社で一番売れている単行本は、なんと言っても竹村公太郎さんの『日本文明の謎を解く』である。新宿の紀伊国屋書店で連続4ヶ月間、わが社の単行本の第1位に輝いている。その本を企画提案し、編集してくれた三枝篤文さんがなんと5月23日に急逝された。享年63歳。合掌。三ちゃん(通称でこう言い慣れているから、そう呼ばせてもらう)は、3年ほど前にくも膜下出血で倒れたが、幸いそのときは奇跡的な快復を見せた。今回、三ちゃんの命を奪った病魔は胃がんから転移した肝臓がんであった。5月の連休前に入院し、わずか3週間で急逝。私は旧友を失い、呆然自失の状態が続いている。
   三ちゃんは、わが社のためにとびっきりのよい企画、しかも売れる本をもたらしてくれた。今後も私としては三ちゃんに竹村公太郎さんの第2弾をはじめ、宇宙・科学ものの企画、翻訳書など、編集担当してもらいたい本が目白押しに控えていた。心強い外部編集者だっただけに喪失感は深い。
   三ちゃんは、私がダイヤモンド社に勤務していたころの同僚で、手っ取り早く言うと遊び仲間だった。囲碁が強く、アマチュアとしては最高位の七段格で打っていた。同じくわが社のライターとしてお馴染みの佐藤徹郎さん(通称「てっちゃん」)もダイヤモンド時代の同僚で、やはり囲碁が強くて六段格で打っていた。二人は長年、番碁を打つ間柄であった。当初、囲碁がわからなかった私は、二人の対局を見ながら覚えたものだ。だが私は筋が悪いのか、さっぱり上達しなかった。二人とは将棋、麻雀、競馬、競輪……など、よくしたものだ。夏には新潟競馬に遠征、冬場は各地の競輪場めぐりと、一緒にギャンブル旅行もした。しかし、私は独立してからは仕事一本槍の毎日で、遊びを忘れ、つまらない男になった。
   三ちゃんは、数学、物理、天文……など、いわゆる自然科学や応用科学系統の企画において日本でも有数の名編集者だった。彼の担当した本が賞を受けるたびに、私は「名編集者・三ちゃん」をいよいよ憧憬の眼差しで見ていた。三ちゃんが手掛けた『宇宙をかき乱すべきか――ダイソン自伝』(鎮目恭夫訳)をはじめ、『宇宙創生はじめの三分間』(S.ワインバーグ著 小尾信彌訳)、『物理法則はいかにして発見されたか』(R.P.ファインマン著 江沢洋訳)などは時代を越えた名著だと思っている。わけてもヨハン・ベックマン『西洋事物起源』の3巻本は、ことあるごとに紐解いて読む私の座右の書である。
   三ちゃんは、生来、思慮深くて寡黙、いわばお父さんゆずりの哲学者の趣きすらあった。自分のことは一切語らず、訊いても語りたがらなかった。だから私の知っている三ちゃんの世俗的な属人要素は、他人からの又聞きに過ぎない。父上の三枝博音(さいぐさ・ひろと)氏は科学思想家、哲学者、技術史の先駆者で、鎌倉アカデミアの校長、横浜市大等の学長をされた学者だった。その横浜市大学長在任中の1962年、死者百数十人を出した鶴見駅近くでの国鉄列車事故で不慮の死を遂げられた。中央公論社から『三枝博音著作集 全12巻』を出されている。
   三ちゃんは、中学は竹村公太郎さんと同窓の栄光学園だったが、高校は湘南高校に進んでバドミントン部の部活に入れ込んだようだ(お葬式に、そのバドミントン部から花輪が届いていたことから類推する)。その後、京都大学の理学部で理論物理学を学んだ(これも本人は言いたがらないので知人から聞いて知った)。私の印象としては、終始一貫、理路整然として、かつ柔軟な発想ができる男だった。その一方で、譲れないとなると断固として拒否を貫く信念を持っていた。今どき珍しい「男の中の男」であったと言えよう。このような無二の親友を失くして、長年、ダイヤモンド社で「ひげのコンビ」として有名だったてっちゃんは、私より数倍ショックだったろう。しかし、私とて三ちゃんの死を未だに信じられないし、ショックを引きずったままだ。三ちゃん亡き後、声を大にして言いたい。てっちゃんだけは、私のためにも元気で長生きしてくれよ、と……。

 

saigusa1.jpg

三ちゃんこと三枝篤文さんは、ダイヤモンド社時代からの親友だったが急逝した。長生きして数々の名著をわが社から刊行してもらいたかった。囲碁はアマチュアでも指折りの強豪で、15年程前、ダイヤモンド社で6子置いても、全然、歯が立たなかった。もう一度、教えを請いたかった。

 

saigusa.jpg

写真は、三枝さんが編集した名著『西洋事物起源』(ヨハン・ベックマン)全3巻。私の座右の書である。

 

2004.04.01大作『ゼームス坂物語』

   刊行は少し先の予定だが、いま精力的に編集制作を進めている単行本シリーズがある。『ゼームス坂物語』で全4巻の大作だ。それを今回は紹介したい。この企画の刊行スケジュールは、今のところ、第1、第2巻を5月中旬、第3、第4巻を6月下旬の予定となっている。清流出版の持っている力をすべてそぞぎ込み、フルパワーで当たりたい企画であり、私自身、不退転の決意で挑みたい。過日、3月24日、清流出版?満十周年記念パーティーをささやかに挙行した際も、この『ゼームス坂物語』シリーズ企画の成功を祈って、社員全員で誓いを新たにした。清流出版11年目にして初めて世に問う超問題作であり、従来の小説という枠組みを超えた大きな文芸のうねりを引き起こす作品だと言いたい。
   幸い、弁護士の金住典子さんと名編集長原田奈翁雄さんの事務所『編集室 ふたりから』が発行している季刊『ひとりから』第21号(2004年3月刊)誌に、なぜ私がこのシリーズの刊行を決めたか、について原稿を書いた。その文章(高尾五郎さんの『ゼームス坂物語』)を原田さんのご好意で許可を得たので、ここに転載する。読者の参考に供すれば幸いと思う。(加登屋陽一)

**********************

高尾五郎さんの『ゼームス坂物語』、
人間教育の原点を問いなおす秀作
読めば読むほど「本物」だ!

   原田奈翁雄さんから「なぜ私が、高尾五郎さんの『ゼームス坂物語 四部作』を清流出版から刊行することを決めたのか、その経緯をぜひ書いてほしい」というご依頼を受けた。
   どちらかといえば、わが社の出版物は文芸エッセイが中心で、教育ものや小説等に、特別強いわけではない。それに出版はもともと水物のところがある。刊行して果たして採算ベースに乗るのかどうかという不安もあったが、刊行を決断した。損得抜き、赤字覚悟でも出そうと決めたのである。その決定に至る経緯を書いていくと、いくつかの目に見えない縁の不思議さに思い至らざるを得ない。
   実は十年前、私が清流出版という小さな出版社を興したのは、原田さんの来し方に触発された部分が大いにある。原田さんは筑摩書房の名編集長として『展望』『人間として』『終末から』などクオリティの高い雑誌を編集した人である。幾多の前途有為な才能を開花させているほか、大物作家、評論家たちにそれまでの路線と違う新しい分野に挑戦させてもいる。原田さんの編集した雑誌を拝読するたび、本来、詩人としての原田奈翁雄の感性が誌面から生き生きと立ち上がっている気がしたものである。
   また、ご自身で径書房という出版社を設立されてからも、時代を撃つ真摯な出版活動をされた。かつて原田さんは『死ぬことしか知らなかったボクたち』という本を、径書房からお出しになった。サブタイトルに「龍野忠久・原田奈翁雄 往復書簡集」とある。実は龍野忠久さんも私にとって思い出深い人。多感な十八歳の時に知遇を得たのだが、文学、絵画、音楽等の楽しみ方を教えていただいた方だからである。その龍野さんとの交友を往復書簡等から細部にわたり編み、龍野さんがお亡くなりになった四年後の一九九七年に刊行されている。死後一年、龍野さんを偲ぶ集いで初めて見た手書きノート十四冊に触発されたものだという。
  「(龍野は)なんて奴だ! しょうがねえ、あれほどまでに言いつづけてきたんだから、何とか本にしてやろう」と刊行に漕ぎつけた経緯が綴られている。「他人にとって意味のあるものなんだろうか。その疑いはもちろんいまも変わらない。ましてこの自分の幼い日々の中身を人目にさらす恥ずかしさはかぎりない」と原田さんは躊躇の末、刊行に踏み切っている。この本が刊行されたおかげで、龍野さんと原田さんとの濃密な交友関係が明らかになった。私自身、伝説と化した交友の一部始終が分かり、この本の刊行を喜んだひとりだ。出版記念パーティーも企画され、原田さんはなんと友情に厚い男気のある方だろうと、それまで以上にますます原田奈翁雄ファンになった。
   かつて龍野さんからいただいた原田さんの詩集『落陽神』(一九五七年)。扉に「白菊」という素晴らしい詩があって、ページをめくると「好きなやつらに 愛するひとに」の献辞の後、「人間」と題する次のような詩が掲載されている。 
      何時だって
      不幸です
      でも
      何時だって
      幸福です
      ――「人間」
      その名のゆえにです
   と続く珠玉の詩集である。「あとがき」に、《こんどこそ「男たちに 女たちに 人間に」と心からの献辞を書きたいものだ》というメッセージがあり、それが強く印象に残っている。
   その原田さんが推薦する高尾五郎さんである。しかし、『ひとりから』の年来の読者なら、高尾五郎さんのお名前も作品もとっくにご存知であろうが、私は原田さんに紹介されるまで、この人の名は全然知らなかった。不明を恥じるしかない。
   その高尾さんもまた同じ詩心を持つ人である。それは『ゼームス坂物語 四部作』を読み始めてすぐにわかった。読めば読むほど「本物」だと確信できた。素晴らしい作品を眼前に、久しぶりに感激し、涙で顔を濡らした。一言で言うと、愛と涙と笑いの感動物語といってよい。一話ずつエピソードは完結している。しかしながら、それでいて全体が感動的なフィナーレへと集約していく。大河小説のように成長していく構成で、物語が紡がれている。登場人物が、生き生きと躍動している。物語の形をとっているが、偏差値偏重、いじめ、不登校などを含めた今日の教育問題をズバリと抉り出している。学校と教師、地域社会の中のこども、塾の役割と学校教育等、人間教育の原点を問い直す今日的な視点が息づいているのである。人間の永遠の課題に取り組んだ骨太で壮大な問題作といえよう。
   原田さんから送られた『ひとりから』第十五号の高尾五郎さんのページに不思議な六社連合広告を見つけたときは、思わずウーンと唸ってしまった。「草の葉クラブ」の放つ第一弾! として、W・ホイットマン『草の葉』(岩波書店)と小宮山量平『昭和時代の落穂拾い』(上田新聞社)など、高尾さんの発案になる六社の連合広告が載っていた。また、同時に送られてきた『草の葉』誌の第十二号は、『ゼームス坂物語 パート4』の「天山山脈を征く者たち」と小宮山量平さんの『千曲川――または明日の海へ』の最終回を同時掲載した記念すべき号であった。小宮山量平さんこそ、私が生涯忘れることのない敬愛する椎名其二さんの思い出の本を出された方である。
   椎名さんは老いて日本へ帰ってきたものの、祖国の惨状に絶望する。仕方なく四十年間住み慣れたフランスへ、死ぬために帰っていくのだが、その旅費を工面できずに困っていた。その窮状を救ったのが画家の野見山曉治さんと小宮山量平さんだった。椎名さんの翻訳した『出世をしない秘訣――すばらしきエゴイズム』(ジャン・ポール・ラクロワ著 理論社)を刊行したのが小宮山さんである。その印税にプラスして、野見山さんの絵を有志が買って得たお金で、椎名さんは貨物船でフランスへ帰ることができたのだ。
   椎名其二さんは、よくエマーソン、ソーロー、ホイットマンの話をしてくれた。私が好奇心旺盛な十八歳の頃、すでに椎名さんは七十二、三歳というご高齢だったが、一九五九、六〇年のわが国は心が貧しく、物情騒然たる状況で、老アナーキストに耐え難い世の中と映ったのであろう。エマーソン、ソーロー、ホイットマン等の名前は、およそ誰も口に出さない時代だった。それが、いま二十一世紀を迎えて小宮山量平さんとホイットマンを、高尾五郎さんの「草の葉クラブ」の広告で見ることになろうとは! 
   しかも小宮山さん(上田市)、原田さん(飯田市)、草の葉クラブ(明科町)……いずれも長野県ゆかりの人と情報で、偶然にしてはよくできすぎている。この奇遇は、五歳の時、上田に近い塩尻に疎開をして以来、信州が大好きになっていた私にとって、人生の予定された調和だと直感したのである。
   だから高尾五郎さんの『ゼームス坂物語』シリーズ本を出すのは、原田さんと小宮山さんへの年来の出版オマージュであると同時に、私が若かりし頃、影響を受け続け、感銘も受けた椎名さん、龍野さんに出版報告をするつもりで出した答えであった。簡単に言うと、原田さんが出版の困難を超えて「龍野のために何とか本にしてやりたい」と決意して、『死ぬことしか知らなかったボクたち』を出されたのを、私もちょっぴり真似たいと思ったというのが本音である。
   この感動的な大作をどうやって伝えていけばいいのか。私は悩んだが、今では心ある方たちがそれこそ口コミで世に広めていくのが一番だと確信している。燎原の火のように、うわさがうわさを呼ぶほうが、絶対に好ましい。物量作戦で大新聞のスペース取りをして広告効果を期待しなくても、いいものは絶対に世の中の人に受け入れられるはず。そう私は確信している。情報の受け手である読者を信用しなければいけない。よい情報は、たずね、たずね、さらにたずねて、初めて掴むことができるものだ、と私は思っている。感動した本があれば、友人・知人に薦めたくなるのが人間というもの。そんな夢と希望を胸に、このシリーズを世に問いたい気持ちである。ご紹介いただいた原田さん、本当に有難うございました。

■加登屋陽一さん、私こそありがとうございます。高尾五郎さんの素晴らしい大作、しかも子どもにも大人にも胸のときめきを呼んでやまない問題作を、ぜひ大勢の方々に読んでほしいと願っていたのですが、本の売れない昨今、四冊にもなる本を出してくれる出版社があるだろうかと、とても危ぶんでいたのです。四月中旬に刊行開始とのこと、重ねてありがとうと、心からのおめでとうを申し上げます。(原田)

**********************

○上記の原田さんの「四月中旬に刊行開始とのこと、……」という期待を裏切ることになって、申し訳ない思いでいっぱいです。2004.3.31現在

 

harada.jpg

高尾五郎さんの『ゼームス坂物語』全4巻の刊行を強く薦めてくれたのが原田奈翁雄さん。その原田さんと親友・龍野忠久さんは、生涯に亙って切磋琢磨する間柄であった。『ゼームス坂物語』は、このお二人の交友関係から生まれたといっていい。写真のページは、月刊『清流』1998(平成10)年2月号に、原田奈翁雄さんが執筆された「友(龍野忠久)を語るーー”自分自身を生きること”を希求し続けた男」からのもの。龍野さん(写真:向かって左)は、1993年秋に肺癌でお亡くなりになった。

2003.11.01今月の単行本ラインナップ

   本格的な読書シーズンを迎え、今月のわが社の単行本ラインナップは、写真集からはじまって、翻訳もの、評論、エッセイ集などバラエティに富んだもの。
   まず、日本初の女性報道写真家・笹本恒子さんの『昭和を彩る人びと――私の宝石箱から100人』で、昭和を代表する歌手、俳優、作家、スポーツ選手、政治家など100人の貴重な写真が満載された本を刊行した。次に翻訳もので『犬のいる生活「なんでも百科」』(ジーナ・スパーダフォリ著 藤崎リエ子訳)、『猫のいる生活「なんでも百科」』(ジーナ・スパーダフォリ、ポール・D・パイオン著 小田嶋由美子訳)の2冊を同時刊行した。犬及び猫の飼い方についての、あらゆる疑問に答える企画である。
   ペットを飼いたいと思ってはいても、初めてだとどのようにペットと付き合っていったらいいのかがよくわからない。これは洋の東西を問わず共通だ。少なくともイヌ、ネコに関しての疑問点は、この本があればほとんど氷解するはず。イヌ、ネコを飼いたいと思っている人は是非、活用してもらいたい。
   次は、保阪正康さん監修、江口敏さんの『志に生きる! 昭和傑物伝』である。民俗学の父・柳田國男、ダルマ蔵相・高橋是清、悲劇の洋画家・藤田嗣治をはじめ28人の傑物たちが登場する。研究家や身内など傑物を知悉した人たちが語っているだけに、知られざる人物論の趣があり興味を惹かれる。
   最後が、中平邦彦さんの『西からきた凄い男たち――と金に懸けた夢』。タイトルからして想像がつくと思うが、わが社では初の将棋の本である。すでに何ヶ月か前の本欄で「清流出版は、内容がよく売れるものだったら何でも手がけたい」と宣言したように、今後は、人気の囲碁・将棋のジャンルにも手を広げてゆくつもりだ。
   わが社の社員には将棋好きが多い。決して強いとはいえない、下手の横好きである。金曜日の夜ともなると、女性社員の秋篠貴子も含め、仕事が一段落した社員同士、「一手、お手合わせ願いたい」と盤面の前に並ぶ。その意味では、『西からきた凄い男たち――と金に懸けた夢』は、まず職場内で仕事と趣味が一致した企画として大好評。著者の中平邦彦さんは元神戸新聞社論説副委員長だった。観戦記者としても長く、「原田史郎」のペンネームで活躍し、著書『棋士その世界』『現代ライバル物語』などをはじめ、数々の名著を出している。営業の田辺正喜も、「この本を是非とも売ってみたい」と意欲満々である。さいわいにも、この本は市場(取次・書店)からの印象は好意的。まだ店頭に出て間もないが、売れ行きに大いに期待している。
 
   私が以前在籍した出版社は、伝統的に将棋好きが多かった。それもそのはず、創業者・石山賢吉(明治15年生れ?昭和39年没)翁が将棋に思い入れが深く、かつて自社のメイン雑誌に毎号、将棋のコラムを執筆していたほどだ。その他に、他社の時事新報と大阪新聞の将棋観戦記を請われて、執筆していたほどの将棋愛好家であり、名文誉れ高い書き手でもあった。
   その出版社(ダイヤモンド社)は、今年で創立90周年(わが清流出版は創立10周年)を迎えるが、私が大学を卒業して入社した年は、創立50周年に当たる記念すべき年だった。その頃は、社屋に大名人の木村義雄さん(14世名人)の個室が設けられていたほか、当時、将棋連盟の渡辺東一会長(名誉九段)が時々来社し、その門下生である二上達也九段(後に将棋連盟会長)をはじめ佐藤大五郎九段(当時六段)、勝浦修九段(当時奨励会で初段)等、錚々たるメンバーが、社員の将棋指導に訪れた。役員や社員にはアマチュアの高段者もいて、新入社員の私が下手な手を指すと、露骨に罵声・叱正を浴びた。詰襟姿の高校生、勝浦修さんには二枚落ちで指導された。勝浦少年は寡黙で、アマチュア相手でも絶対に手抜きせずというスタンスを崩さなかった。何度挑戦しても、勝たせてくれなかった。さすがプロという根性を、まざまざと見せ付けられた思いがした。
   先頃、わが社から『日本復活の救世主 大野耐一と「トヨタ生産方式」』を出版された三戸節雄さんは、私の入社時、大阪支社に赴任していた。佐藤大五郎さんに指導を受けた三戸さんによると、当時、まず大阪・北畠の将棋連盟に行き、次に通天閣下の将棋道場を訪れて真剣勝負をしたという。第一線の雑誌記者として立派な記事も書いたが、将棋の世界でも本格的に腕を磨き、精進したと想像する。それに引き換え、私など強い先輩社員には歯が立たず、入社後数年で諦め、東京本社の将棋ルームからは遠ざかった。
   だが、石山賢吉が書いた将棋に関する文章は好きで、古い雑誌を引っ張り出して読んだものだ。今も記憶の底に鮮やかなのは、坂田三吉八段と大崎七段の観戦記である。香落番の坂田八段が一手目に角道を開けないで角の脇へ銀を、三手目に角頭の歩を突いたとある。上手が初手に角道を開けるのが香落ち将棋では、古来、幾百番、幾千番指されているのに、坂田八段は新手で指した。この奇想天外な妙手を、創業者は実際に見ている。こういう歴史的な一局を見て、新入社員である私の記憶に残る名文を表わしていたのである。
 
   脱線するが、私の入社は昭和38年で、当時、石山賢吉会長は81歳の病身を厭わず、我々取材記者連中(いま思い出しても、恐るべき猛者ばかりだった)を月に一度集めて「会長文章教室」を開くのを唯一の楽しみにしている様子が見えた。海千山千の古手の猛者連中もこの時ばかりは、借りてきた猫みたいになって、会長の言う今月の本誌(メインの週刊経済雑誌)を見て「誰々の文章が良く書けていた」「誰々みたいに取材をし、話を聞き出さなくてはダメだ」「何々の文献や古典を読め」……などの苦言に素直に頷くばかり。私は特に、頼山陽の『日本外史』を創業者が情熱的に語ったのが印象に残っている。
   その後、ご病気が進み「会長文章教室」も2ヶ月に1度から、3ヶ月に1度位になり、翌昭和39年7月にはお亡くなりになった。会長の最後の薫陶を受けた新米記者として、伝統を守ることの難しさが、今になって少しは理解できるような気がする。後進を育てようとする熱意に真剣になって応えたかどうか、内心、忸怩たる思いがする。会長は最晩年まで後進を育て、自分を乗り越えていってほしいと思っていたに違いない。現在の社員や経営陣が、創業者の遺志を継いでいるかどうかは分からない。が、少なくとも創立90周年の記念すべき年に、われわれOBの一員としても何かお役に立ちたいとの気持ちはある。
   私は、創業者・石山賢吉の全貌を理解しているとは思わないが、お書きになった将棋観戦記、特に坂田八段の新手のくだりを読んで、我々の仕事にも相通じるものがあると思う。「新手一生」という。清流出版のあらゆる仕事も、かくありたいと願う。前例に囚われず、次の一手を新しく捻り出す気構えで挑戦したい。

2003.10.01野見山暁治さんのこと

   野見山暁治さんという画家がいる。現在ちょうど、東京国立近代美術館で回顧展(8月12日?10月5日)が開催されている。新聞紙上で展覧会が告知され、個展の大きな記事が出たこともあり、私が訪れたときも多くのファンが野見山さんの絵を楽しんでいた。作品の前でじっと佇む来館者を多く見かけた。野見山さんには個人的な思い入れがある。一方的に惚れこんでいるといっていい。だから月刊『清流』を創刊して10年になるが、都合4回、誌面に登場していただいている。
   1回目は、平成7年4月号の「著者に聞く」コーナーで、野見山さん自身の著書『空のかたち』を紹介させていただいた。その後は、ご本人の直接取材ではなく、他人の筆を通して触れさせてもらった。
   2回目は、平成10年2月号『清貧に生きる』という特集だった。まさに特集テーマを地でいくような清貧の自由人、椎名其二さんを作家・文芸評論家の近藤信行さんに語ってもらっている。その際、椎名さんと親交が深かった野見山さんにも触れることになった。
   3回目は、同年8月号で「無言館――還らぬ戦没画学生たちの言葉」を作家の窪島誠一郎さんに書いていただいた。無言館建設には野見山さんも尽力している。その経緯を写真付きで紹介したのである。4回目は、平成12年3月号『ありがとうを伝えたい』のコーナーだった。「間に合わなかった仕事」というテーマで再び窪島誠一郎さんにご登場いただき、野見山さんとの無言館建設秘話を書いていただいた。そんなわけで、わが『清流』誌面に都合4回、野見山暁治さんが登場したことになる。
   私と野見山さんの関係にちょっと触れておきたい。大学2年生の時、つまり44年前、ある人を通じてお名前を知った。その人が前述した椎名其二さんという老人だった。フランスの思想、文化、社会、政治にわたって実践的に研鑚、批評をしてきた方で、ロマン・ロランの日記にも出てくる人だ。その時、椎名さんが書いた野見山暁治さんを紹介する文が手元に残っているので紹介する。

  「野見山暁治氏は今三十八歳だが、八年間パリで絵が売れようと売れまいとその道に精進している、既に大家の域に入った画家である。
   昨秋、ブリヂストン美術館で五十点内外の個展を開いた時は、批評家及び一般の観賞者に驚きの眼を見張らせ、その作品によって1958年度安井記念賞を得たのであった。
   僕はその絵画に対する態度及び人間などに関する点で彼を思うとき、佐伯祐三を連想せずにはいられない。後者は若くして死んだ。野見山は今後益々我々の嘱望を裏切ることはないであろう。      椎名其二」

   この紹介文のあとに、私の人生にとって思い出深い文章が続いている。

   「今度、椎名先生がフランスに帰られるための旅費として野見山画伯よりデッサンの寄贈を受けましたので、左記の次第で配布することに致しました。宜しく御協力の程御願い申上げます。      椎名先生の会」

   日付は1959年10月6日である。もちろん、大学2年生だった私も野見山さんのデッサンを早速買い求めた。つまり、野見山さんは、私が出会った尊敬する椎名老人がパリに帰るためのその費用を、デッサンの提供によって捻出したことになる。
   類い稀な知性とユーモアに溢れた老人が、たまたま翻訳した『出世をしない秘訣』(ジャン=ポール・ラクロワ作、理論社刊)がベストセラーになったとはいえ、このころは赤貧洗うがごとしの状態で旅費を工面することなどできるはずもない。それを見かねた野見山さんが助け舟を出したのである。
   ずーとそれまでパリに住んでいて、四十数年ぶりに帰国した椎名其二さん。その椎名さんが、わずか数年で日本の現状に幻滅する。再びパリに戻るのは、死にゆくためであった。その頃72歳くらいだった椎名老人は、どんな気持ちで日本を後にしたのだろうか。当時19歳だった私には、想像もつかない。
   どれだけ時が過ぎ去っていこうと、椎名老人と親しく触れ合った記憶は、多感な青春時代だけに、より一層鮮やかな思い出として私の胸で今も生き続けている。おそらく死ぬまでこれは変わらない。今回は、月刊『清流』がなぜ何回も野見山暁治さんのことを記事にしてきたのか、という答えにもなろう。

 

kondou.jpg

野見山暁治さんといえば、椎名其二さんのお名前がすぐに連想される。月刊『清流』1998(平成10)年2月号に、近藤信行さんが、【清貧に生きる】例として、「自由人として、生きる喜びを大切にした椎名其二さんのこと」を執筆してくれた。その文章の冒頭に「モリトー良子(装丁作家)がドイツから帰ってくると、必ず声がかかってきて集まる会がある」と書かれている。そのメンバーとは、野見山暁治さん、岡本半三さん、安齋和雄さん、そして執筆者・近藤信行とある。ある時、私は帰国中のモリトー良子さんにお会いした。椎名其二さんと親しく交流したほどの人である。人間的な深みが濃密に滲み出ている素晴らしい女性だった。その時の縁で、いまだに海外から月刊『清流』を定期有料購読してくれている。頭が下がる思いだ。

 

2003.03.01安原顯を追悼する

   FM東京のミュージックバードPCM放送番組「安原顯を追悼する」が、去る2月末、行なわれた。私も出演依頼を受けたが、言語障害のため辞退した。その代わりアナウンサーに代読してもらった原稿を、ここでもう一度、紹介する。題して「わが学友・安原顯を追悼する」。

                                                     ◇
  《安さん、早稲田高等学院時代を回想すると、涙が出るほど懐かしい。僕は文学にかぶれ、ジャズやクラシックに酔い、映画のはしごをしていた。君とはクラスが違ったが、君はその頃から際立った存在だった。当時から独自の批評眼を持っていたね。芥川賞受賞作をいち早く読んで酷評したことがあったが、僕はどうしてそこまで断言できるのか知りたくて、書店に走ったこともある。わき道に逸れていたので成績には響いたけれど、好き放題、勝手放題のあの頃の体験が、後の天才ヤスケンの感性を育んだものと思っている。
   大学に進んでからキャンパスで君を見かけると、いつも隣にマリー・ラフォレ似の美女がいた。あれが奥さんのまゆみさんだったんだね。意気揚揚と闊歩していた君が目に浮かぶ。「美女と野獣」なのにどうして? と世の不条理を嘆いて自らをなぐさめたものだよ。
   10年前、勤めていた出版社を辞め清流出版を立ち上げた時、君の中央公論時代の『マリ・クレール』が大いにヒントになった。僕が立ち上げた主婦向けの月刊誌『清流』は、君からすればさぞ鼻持ちならぬ体裁・内容だったはずだ。その頃君は、『リテレール』を出していて、若い知的好奇心に溢れた熱狂的なファンに囲まれていたからね。
   君と16歳の時、会っていなかったら今の僕はない。それほど君の活躍ぶりを長年、注目していた。『清流』で、いち早く小林桂や綾戸智絵を紹介できたのも、実は君の書いた音楽評を読んでいたからだ。小林桂のソフィスティケートされた声、綾戸智絵の迫力ある歌いっぷりを、ぜひわが読者である主婦層にも紹介したくて、柄にもなく入れ込んだこともある。
   君がディレッタンティズムのスノッブなら、僕はアマチュアリズムのスノッブだ。僕は天才ヤスケンを勝手にライバルとみなし、新雑誌を軌道に乗せるべく躍起になって働いた。比較対照して、「劇薬の安原か、漢方薬の加登屋か」という言葉をマスコミ向けに発言したこともある。そのことを聞いた君は笑っていたね。
   君は日本を五流国と評した。傍観できない君は、ジャズ&オーディオ、文学、政治・経済、すべてに不満だった。だから罵詈雑言を撒き散らしたが、それでも変わらないことに更に憤っていた。しかし君の蒔いた種はいつかきっと芽をふくだろう。そのころ僕は、もうこの世を去り、君と旧交を温めているかもしれないが……。
   僕は会社経営の利益なき繁忙とストレスから、脳出血で2度倒れ、右半身不随・言語障害となった。君より先に逝く可能性もあった。だからガン告白を聞いた時は、他人事とは思えなかった。学友として、僕は今でも君を誇りに思っている。今は安らかに眠ってくれ。》

2003.02.01さようなら ヤスケン

   わが学友・天才ヤスケンこと安原顯が、闘病の甲斐なく亡くなった。若かったこともあるのだろう、肺癌という酷薄な病魔は、情け容赦なくヤスケンの命を蝕んだのである。「おい、癌め! 私の大事な友人を、なぜあと数ヶ月だけでも生かしてくれなかったのだ?」。周りのお荷物と自認している右半身不随・言語障害の私より、周囲のみんなに超元気を与える才能のあるヤスケンをなんでもう少し生かしてくれなかったか!という思いが、私の偽りない気持ちである。
   せめてもの慰めは、ヤスケンの死が苦痛も呼吸困難に陥ることもなく、おだやかだったということ。眠るような静かな黄泉の国への旅立ちだったのである。退院して後のヤスケンは、痛みのためゆっくり横になることもできず、何かに寄りかかり首を垂れてウトウトするしかなかった。ところがその日の午後は、横になることができて午睡をはじめたのだという。それを見たまゆみ夫人とお嬢さんの眞琴さんも、看病疲れもあってか、すぐ傍らで仮眠していた。夕方になってハッと夫人が気づいてみると、ヤスケンひとりが眠るように絶命していたのだった。
   ヤスケンの著書三冊の編集を手伝ってくれた井上俊子さんによれば、日頃から彼は、溺れるように苦しみながら死ぬことを恐れていたということだから、苦痛もなく穏やかな死際だったというというのはなによりの朗報だった。
   私には幻冬舎の見城徹氏のように、「ヤスさん、元気に死んでくれっ!」という腹の据わった表現はできないが、「ヤッさんよ、安らかに、安心して死んでくれ。いずれ追いかけていくから!」と言いたい。
   1月21日の夕刊各紙には、安原顯の死亡記事が写真入りで大きく出た。ちょうどその日、わが社では朝日新聞の夕刊に、「三冊とも週刊誌・月刊誌、ウェブサイト等で話題の人、天才ヤスケンの新刊!」というタイトルで「安原顯の本」を告知する全五段の広告を出した。私としては、まだまだ大丈夫、ぜひ頑張ってもらいたいとの気持ちがあってのことだった。
   久世光彦、村松友視、田口ランディ、井狩春男、寺島靖国、ねじめ正一の各氏の推薦文を付けて、「●闘病中の天才ヤスケンに、親しい作家・評論家たちが熱いメッセージを寄せてくれました―――」という応援メッセージ入りの広告だった。それが社会面の死亡記事と重なり、夕刊第3版から「闘病中の」の文字を削って、急遽、つじつまを合わせた。そういう死亡記事と出版広告が併載された夕刊となったのも、bk1のタカザワさんの表現を借りると、いまとなっては天才ヤスケンらしい演出であった。
   その三冊の本の後、『ヤスケンの死ぬまでパワーアップ』という四冊目を、フリー・エディターの浅間雪枝さんに編集してもらう話が着々と進んでいた。原稿枚数はヤスケンの談をテープから起こした七十枚弱に、月刊『清流』連載の原稿を合わせて百五十枚ほどで、ほぼ一冊の半分ほどの原稿はすでにあったのだが……。まったくもって、残念でならない!

   お別れの日、上野の寛永寺・輪王殿には、故人を偲んで多数の関係者が集まった。そこで新潮社の伊藤貴和子さんが、紹介してくれた辻邦生氏の未亡人・辻佐保子さんに初めてお会いできたことは、私にとって望外の喜びだった。私が二十代の頃、辻佐保子さん訳著になる『ロマネスク美術』『ゴシック美術』(美術出版社)を読んで目を見開かれる思いをしたのが、当時、売り出し中だった新進作家・辻邦生さんに結びつくこととなる。
   三十数年前、立教大学文学部助教授時代の辻邦生さんに、私は原稿依頼をした。あるフランス系創刊誌のゼロ号へ、「森有正氏の書斎」というエッセイを書いてもらったのである。その後、しばしばお話する機会も得、お葉書も数多くいただいている。
   辻文学のファンの一人として、辻邦生さんを前に、『廻廊にて』『夏の砦』の一連の作品を読んでいた私が、「『夏の砦』のモデルは奥さんでしょう」と尋いてみると、本人は照れながら、「いやー、ほんの少々です。女房は比べてあれほど魅力的ではないですから」とおっしゃって、否定しながらも、まんざらでもない風だった。信州育ちらしい控えめなお応えに違いないと思った記憶がある。
   会葬の合間に、年来の憧れの人、佐保子さんに会うことができ、辻邦生さんを思い出すことになったのも、ヤスケンが引き合わせたものだと思う。
   「ヤスケンさんは、その場の空気を前向きに盛り上げる人。サービス精神旺盛で、他人を鼓舞する。重たい気持ちでお見舞いに行ったら帰るときには勇気づけられていた」とは、辻邦生さんの一番弟子の中条省平さんの発言。昨年12月27日号『週刊朝日』に掲載されている。
   その中条省平さんの本『中条省平の密かな楽しみ(仮題)』も、近々、わが社から刊行される。ヤスケンの本と同様、「読書の醍醐味と快楽」を楽しんでもらえれば嬉しい。

2003.01.01徳岡孝夫さん来社

   暮れも押し迫った某日の夕刻、月刊『清流』のレギュラー執筆者のお一人、徳岡孝夫さんを会社へお招きし、語り合う機会を設けた。徳岡さんには清流出版創業以来、雑誌・単行本の各種企画で一方ならぬお世話になっている。
   実は、新春早々、文藝春秋刊行の『諸君!』編集部主催の「徳岡孝夫氏執筆五〇周年を祝う会」が東京外人記者クラブで開催される。私もその会に出席の返事を出しているが、その前に清流出版でささやかな前祝いをしたかった、というのが本音である。
   ご自身お目が不自由であり、年末のせわしない雑踏の中を、杖をつきながら横浜からお出でいただくのは大変失礼かとは思ったのだが、「一度、清流出版の新しいオフィスを見てほしい」との勝手な理由付けをし、無理を言ってお越しいただいた。オフィスから間近い「寿司政」で一献差し上げることになった。
   この日も、徳岡さんの卓抜とした話術は冴え渡った。関西弁交じりの独特なしゃべり方で、歌舞伎・能の話から始まって、映画・文学・政治まで、何を語っても興味深く、薀蓄があって、あたかも高級な漫談、いや上質の講義を聞くような雰囲気だった。特に教え子の女子大卒業生たちとの旅のエピソードは、一編の掌編傑作小説を読むような気分にさせられ、まさに至芸、「徳岡節」に酔ったものだ。
   最後に、「人生は邯鄲の夢なり。盧生がアッという間に経験した一生の如し」という故事を例に引きながら人生についても語ってくれた。私は徳岡さんの来し方をよく知るだけに、話し振りの中に達観した人生観と、先年、最愛の奥様を亡くされた寂しさを感じた。
   徳岡さんは、月刊『清流』の創刊号から「明治の女性」をテーマにした連載を4年間、その後、現在の「ニュースを聞いて立ち止まり……」を毎号、ご執筆いただいている。また、単行本でも、『三島由紀夫 世と死』、『翻訳してみたいあなたに』の2冊を小社から刊行させていただいた。
   徳岡さんとのお付き合いは、私が以前勤務していた出版社で『アイアコッカ』の翻訳を依頼して以来、著者=編集者の関係が続き、ざっと20年ほどのお付き合いになろうか。私の編集者人生の中でも多くの交友関係が生まれた。その中でも徳岡さんは特に光り輝く存在である。数冊のベストセラーを含む名翻訳をもたらしてくれ、私にとって生涯の恩人というべき人である。
   いつもながら、徳岡さんの名文、博識ぶりには驚かされるが、つい最近も、『諸君!』誌上で山本夏彦翁の追悼文を拝読し、思わず唸ったばかりだ。あの久世光彦さんも、「徳岡孝夫氏が書いている雑誌に書きたい」と月刊『清流』を評価しているという噂を聞いたが、編集者としてこれに勝る喜びはない。
   先月、この欄に書いた安原顯も、『読んでもたかだか五万冊! 本まみれの人生』で、徳岡さんの『五衰の人 三島由紀夫私記』を書評として取り上げている。
   安原によると、《彼(徳岡さん)は当時、ドナルド・キーン『日本文学史』の翻訳者として毎月、大日本印刷の出張校正室に現れ、素早く校正を済ませると、われわれに気を遣って無駄話一つせず、さっさと帰って行った。帰り際にわれわれがタクシーを呼ぼうとすると、毎回必ず「よろし、よろし」と関西弁で断り、「じゃあ」と言って、さっと消えた後ろ姿をいまなお鮮明に思い出す……》と、徳岡さんについて活写している。
   (ヤスケンこと安原顯の病状は小康状態を保っており、入院先の慶應病院から年末年始、一時、自宅に戻ってもよいとの許可を得たと聞いて、私も一安心しているところだ)
   著者・訳者として徳岡さんは、私がこれまで付き合った「最高の人」である。締切りは必ず守る。校正ゲラも手抜きはせずにしっかりと見る。そんな人だから、細部についてもおろそかにはしない。疑問があれば、文献等を木目細かに調べて検証する。その結果を踏まえて、大胆に文章にするところも凄い。
   編集者のだらしなさ、いたらなさを責めないのも徳岡さんらしい。お付き合いをしていると、ありとあらゆるジャンルに向学心が湧く。いうならば徳岡さん自身、類まれな嗅覚の持ち主なのだ。普通の人であれば見過ごしてしまう、なんの変哲もない事象に興味を抱き、面白さを感じている。その視点の斬新さは、月刊『清流』の「ニュースを聞いて立ち止まり……」にも遺憾なく発揮されている。だからこそ、一級のジャーナリスト足りえたともいえるのだが。
   徳岡さんについては、まだまだ書き足りないが、特筆すべきは、清々しいまでのその仁者ぶりである。ヤスケンが書いていたように、出版社側が用意したタクシーを断ることにも象徴されるが、常に身銭を切る人なのだ。私は徳岡さんが毎日新聞の記者時代から、何度、奢ってもらったか、わからない。その度に「よろし、よろし」の人。こんな爽やかな著者と出会えて、私は果報者だとつくづく実感している。

 

tokuoka.jpg

徳岡孝夫さんは、いつも左の写真のように機嫌のよい表情を見せている。僕がたまたま同席したドナルド・キーンさんとも、別の時、ヘンリー・スコット=ストークスさんとも、ユーモア溢れる語学力を駆使して、笑いの渦に巻き込んだ。徳岡さんのように、外国人とも丁々発止と渡り合い、上質なジョークを交えながらしゃべれる人は少ない。英会話が堪能であることは、世界的視野を広げ、一流人とのお付き合いも深めることができる。そんな徳岡さんも、影では人知れず悩みがあるはず。でも、徳岡さんはそんな気配を周りの人には微塵も見せない。人の気をそらさず、常に気遣いを忘れない。やはり人生の達人だと思う。

2002.12.01ヤスケンの死ぬまでパワーアップ

   月刊『清流』の人気コラム「ヤスケンの死ぬまでパワーアップ」の執筆者というより、私の高校の同級生・安原顯氏が医者から「肺癌で余命1ヶ月」を宣告された。私は、いま何と友に語りかけたらいいのか分からない状態である。命ある限り最後の最後まで、奇跡を信じて「天才ヤスケンよ、がんばれ!」と言うしかない。
   ヤスケンは中央公論社時代から鬼才編集者として鳴らした。新人発掘、大御所起用など数々の伝説を残している。また安原顯の著作群は、現代の読書ファンには羅針盤として意義深いものだと、私は断固言い切って憚らない。こんな才人が私より早く死ぬなんて、神も仏もない!
   でも、いくら賛辞を重ねても、死を目前にしたヤスケンにとって、これっぽっちの役にも立たない。
   ヤスケンとは、早大高等学院時代、「芥川賞の○○読んだか?」「あの作品はダメだな」「英語の××、辞書なしで読破したんだよ」といった類いの話を、私はいつも聞かされていた。アナイス・ニンの名前も高校1年生の時、早熟の彼に教えてもらった。ことほど左様な次第で、ヤスケンは日本文学や海外文学の新しい知識、否、ジャンルを問わず、刺激的な切り口で仲間を煙に巻いていた。日本人の無気力・だらしなさを叱る評論家精神がすでに高校生の頃から発揮されていた。
   お互い、同じ出版界にいながら、これまで仕事上全然交わらなかったのは不思議に思う。考えてみれば、一方は文芸誌の花形編集者、私は経済雑誌系の出版社育ちで、畑違いの世界に住んでいたこともあるのだろう。その二人が、卒業以来、四十数年ぶりに、再会した。天才ヤスケンは、見事に高校時代と同じスタンスであった。否、啓蒙精神の面では熟成していた。
   政治・経済・法律・学問・文藝……、要するに政・官・財・法・学……の日本人の軟弱と頽廃ぶりを斬り捨てる舌鋒は鋭く、激しさを増していた。「五流国・日本」「ゴキブリ以下の人類」を憂え、罵倒した!
   天才ヤスケンが呟いた罵詈雑言は、世に中を憂えて発する「今生の叫び」と納得できる。クソ人類、忌々しい戦争、邪宗団体等々……。ヤスケンの気持ちが痛いほど分かる。
   いまや友の書いた本を出版することが、私の精一杯協力できること。今年12月から明年1月にかけて、わが社から出す「安原顯の本」3冊、できるなら4冊(目下企画中)を仕上げて死を迎えてくれ。同じ出版社から同作者の本を3?4冊同時期刊行という出版界始まって以来の刊行スケジュールには、さすがに鬼神ともいえども避けて通るはず、ついでに肺癌も怖れをなして飛んでゆくのではないか。
   書名を刊行順に書いておきたい。
●『ふざけんな人生』 本体価格1800円 12月17日頃書店店頭に並ぶ予定
●『読んでもたかだか五万冊! 本まみれの人生』 本体価格2600円 15年1月16日頃書店店頭に並ぶ予定
●『ヤスケンの死ぬまでパワーアップ』 本体予定価格1600円 原稿半分出来上り

   くどいようだが、もう一度だけヤスケンの人となりに触れておきたい。ヤスケンは活字を偏愛してきた、いわば「活字中毒者」である。質量ともに、これだけの読書人は、世界広しといえどもそうはいないはず。本に淫する中で培ったものであろうか、独特の感性で真贋を嗅ぎ分けるのである。この嗅覚にはつくづく感心する。ヤスケンが推薦する本を、だまされたと思って一度読んでみて欲しい! あなたの人生に激震が走るかもしれない。

 

yasuhara.JPG

「評判は自分でつくるものだ」――ヤスケンはこう語っていた。だから、”天才ヤスケン”の称号も安原顯自身がつくったと思う。それにしても、原稿執筆、トーク番組出演、膨大な読書、精力的にレコード&CDを聴き、美術展・映画館巡りもする……。どれをとっても彼一流の視座が光る。一体、いつ寝るかわからないほどのエネルギッシュな活動ぶりだった。これでは身体がいくつあっても足りぬ。充実した日々を全力で駆け抜けていった。「元気に死ぬ」ことを祈っていた男は、仕事を死の直前まで続け、精一杯生き抜いて逝った。

 

 

 

2002.11.01山本夏彦翁の訃報

   一旦、「編集部から」の原稿を書いたあと、山本夏彦翁の訃報が新聞で伝えられたので、急遽、書き直すことにする。
   小社と夏彦さんとの付き合いは、月刊『清流』創刊時に、「あのころ、こんな生活があった」欄の連載執筆を依頼したことに始まる。超多忙の夏彦さんから、同欄は久世光彦さんにバトンタッチされ、いまも好評裡に続いている。
   1998年、この連載をメインに「昭和恋々  記憶の中の風景」と題するお二人の対談を加えて一冊に纏め、『昭和恋々――あのころ、こんな暮らしがあった』という本を出した。久世さんが前書きで「山本夏彦の一味となれば、世のテロリストたちの標的になりかねない」などと揶揄しているが、丁々発止、当意即妙のやりとりが面白く、装丁もうまく仕上がり、わが社としては久々のベストセラーになった。いまは、文藝春秋の文庫本に納まっている。
   また、月刊『清流』の連載を元に『昭和恋々』の後編を出そうかと思っていた矢先、夏彦さんの訃報に接したわけで、私としては残念至極。久世さんお一人で頑張っていただくしかない!
   思い起こせば、私が夏彦さんと初めてお会いしたのは、32歳の時である。当時担当していた月刊誌への原稿執筆の依頼がきっかけだった。早いものでちょうど30年の歳月が経っている。
   その時のことはいまでも鮮やかに思い出す。執筆依頼が終わったあと私は、「椎名其二さんのことをご存知でしたら、詳しく聞かせてくださいませんか」といった。夏彦さんは「君は若いのに、随分、古い人、幽霊のような人を知っているね」と答えたものだ。後年、夏彦さんは半自叙伝『無想庵物語』等に椎名其二さんのことをチラッと書いてくれたが、その時の会話は弾みに弾み4時間を超えた。
   私は、敬愛する故・椎名其二さんの話を聞けて一生の思い出となったばかりか、夏彦さんの怪紳士ぶりに触れることができ、その日は人生の至福の時だった。
   当時、月刊『室内』編集兼発行人で虎ノ門に事務所を持っていたが、その工作社は、狭くて、汚くて、乱雑だった。名前との乖離がはなはだしくて、工作ないしレイアウトの要ありと思った。しかし、一向に気にしている様子もなかった。
   その後も、しばしば訪れた私とよく長っ噺(ぱなし)をしたが、その度、夏彦さんには教えられることが多かった。ラ・ブリュイエールの『カラクテール』やラ・ロシュフーコーの『箴言集』などは名著だが、その本を現実に実践してきた人との印象があり、説得力があった。軽妙辛辣、しばしば毒舌、東西古今の智慧を超えて発想できるのは、ご本人は意識するとしないに拘らず、フランスのエスプリ精神が底流にあることは間違いないと、私は思った。
   当時、夏彦さんはまだ週刊誌、月刊誌の連載もなく、本業の雑誌発行の仕事がメインだったので気安く立ち寄れる雰囲気があったが、瞬く間に名コラムニストとして評価が高まり、引っ張りだこのようにお忙しくなった。
   しばらく途切れていたが、月刊『清流』の目玉として白羽の矢を立てたことにより、10年前、また私たちの交流が始まった。今日、残念なことは、大学生時代、神田の古本屋で買い求めて、後年、夏彦さんにサインを貰った名翻訳『年を歴た鰐の話』(レオポール・ショヴォ作 櫻井書店 昭和16年)をわが家の書庫で探しているが、何回も引越ししているので、なかなか見つからない。確か、『小林五郎第壱詩集』と同じ書棚にあったのに!
   櫻井書店の親戚筋に当たる櫻井友紀さんの『ルンルン海外透析旅行』が近々、わが社から刊行の見込み。このことに不思議な縁を感ずる。夏彦さんの処女出版(夏彦さんが処女とは、面白いでしょう!)『年を歴た鰐の話』(櫻井書店)の縁で、櫻井さんの本も売れるよう、夏彦さん、草葉の陰から祈ってください。

 

 

 

natuhiko.jpg

 山本夏彦さんは、工作社の編集兼発行人を長く務めた方。お会いした時、一世を風靡した月刊『室内』成功の秘密は? と尋ねると、呵呵大笑しながらこうおっしゃった。「人の逆をやればいいのですよ」と。銀行がきても、郵便局がきても、お引取りを願う。儲け話には一切耳を傾けなかった。新聞も肝心の記事は読まず、広告を専ら読む。できたら記事も、お仕着せの特大の記事でなく、1面から全部等量のスペースで見たい。ラジオは特別ニュースでも、声を大きく出さないではないか……等々。夏彦翁の言は、ことごとく納得でき、反論の余地はない。ひょっとすると、若かり時、翁が翻訳した『年を歴た鰐の話』は、自分の話として予定調和的に用意した話だったという気さえしてくるのだ。

2002.08.01草柳大蔵氏死去

   このホームページの原稿を書こうと思った矢先、草柳大蔵氏死去のニュースが飛び込んできた。昨秋、草柳さんの『ふだん着の幸福論』をわが社から上梓していただいたばかりだったので、正直言って驚いた。刊行直後、八重洲ブックセンターで著者サイン会をお願いしたのだが、その時も終始お元気な振る舞いだった。サイン会後、ワインを飲みながら会食し歓談したのだが、次回作の抱負などを話されたこともあり、私は草柳さんの長命を確信していた。
   私が草柳さんと初めてお会いしたのは、今をさかのぼること35年も前のことで、当時、27歳の駆け出し編集者だった。やや陳腐な「紳士の条件」というタイトルの長い雑誌原稿依頼だったが、快く引き受けてくれた。すべてを見透かすような眼光の鋭さが印象に残っている。当時最高の売れっ子ルポライターの時代だった。
   いろいろの意味で、惜しい先達、ジャーナリストを亡くしたという想いがする。草柳さんの座右の銘は「偏界カツテ蔵サズ」。草柳大蔵さんらしい、心に残る箴言である。あらためて心から合掌、ご冥福をお祈りしたい。
   話は変わるが、最近、わが社にとって二度目となるオフィスの引越しをした。今度のオフィスは、神田神保町。大学時代からよく古本屋通いで来た町で、まるで学生時代に戻ったような感じがしている。
   仕事でお付き合いのある敬愛する野田穂積氏の実家が、その昔、わが社の引越し先付近にあったようだ。石屋さんを営んでおり、石置場があって、子供のころはよくそこで遊んだという話を聞いた。半世紀を超えて、このあたりの空間の変遷を想う。
   振り返ってみれば、わが社が一番初めにオフィスを構えたのが、九段北のマンションの一室。滝沢馬琴がかつて硯を洗ったことで知られる「硯の井戸」が今でも残っている建物。出版社の出発点としては、幸さきのよい場所。平成6年、『清流』を創刊した年、偶然にも私の中学生時代の恩師(吉永仁郎氏)が、自作の戯曲『滝沢家の内乱』を紀伊國屋ホールで演出したことも奇遇。早速、同ホールへ観に行き、大滝秀治と三田和代の演技を見て、この場所がわが社の出発点であることを再認識したのも懐かしく思い出す。
   いずれにしても、「新しい皮袋に新しい酒を!」のつもりで、立派な出版社となるように精進することを心に誓った。

 

 

kusayanagi.jpg

草柳大蔵さんはダンディでお洒落な方であった。趣味のいいネクタイに胸元にはポケットチーフ。生地のよい背広でビシッと決め、さながらイギリスのジェントルマンを彷彿とさせた。無頼漢の多いトップ屋の頃から、身だしなみには注意していた。草柳さんの文章には気品があった。レトリックが効いており、時局ものでも格調すら感じた。これほどの論客は、しばらくは出ないであろう。時代の寵児として売れっ子の頃、久しぶりにお会いしたことがあった。その時、私を覚えてくれていた上に、「また、いいテーマを見つけたら書きますよ」とおっしゃった。その時の感動はいまも胸に熱い。その時から25年が経って、わが社から『ふだん着の幸福論』を書き下ろしていただいた。次作の教育論の執筆もお願いしていただけに、その早すぎる逝去に心が痛んだ。

 

 

 

02082.jpg

 八重洲ブックセンターで著者サイン会を催した際の一駒。左から、草柳さん、私、臼井出版部長。当日は、読者の列が延々と並び大盛会でした。

2001.12.01久世さんの演出はさすが

   今月も、忙中閑、観劇の印象を書く。月刊『清流』の連載でお馴染みの久世光彦さんが演出した向田邦子原作『冬の運動会』を新橋演舞場で、清流出版の社員ほぼ全員で観た。久世さんの演出はさすが見事な冴え。舞台工夫を駆使し、時間にして約3時間半、まったく飽きさせない三幕に芝居の醍醐味を味わった。
  ちょうどこの頃、久世さんは「週刊新潮」のコラム”死のある風景”に『冬の運動会』の関連で「くも膜下出血」と題し3号続けて、興味深いことをお書きになっている。脳血管障害を患った私は、この文章を他人事と覚えず、毎週、読んでいた。「向田邦子さんが書いたドラマや小説に、人が死ぬシーンが現れるのはめずらしい」と久世さんは書く。
  死後二十年経ったいま、向田さんの遺品の中から出てきた5通の恋文……向田さんとカメラマンとの秘められた愛を重ねた年月、久世さんはその人がくも膜下出血で倒れる際、向田さんがその場に居合わせ、発作の瞬間を目撃したのではなかったか、と推測されている。舞台の上でくも膜下出血する若い35歳の女性・加代の役と、向田さんの経験した現実・愛するカメラマンの運命を重ね合わせたというのが、久世さんの見解。
  また、この芝居は、東京オリンピック(昭和39、1964)の年に舞台設定されていることにも意味ありとの久世さんの推理は肯ける。当時、向田さんは三十半ば、相手のカメラマンは一回り以上年上で、多分、この昭和39年の春先に亡くなっている……と聞けば、『冬の運動会』の作品発表は昭和52年だが、なぜ昭和39年の舞台設定に拘ったかという疑問にも答えが出てこよう。若い加代に惚れた高橋幸治扮する老人の心中は、そのまま向田さんの気持ちだったのだろうという久世さんの言葉は、芝居を観た後、ますます腑に落ちた。
  それにしても久世さんは、いま最も油が乗り切っていて、書くものも演出するものも全て最高! その才能は、あらゆる文学賞の選考を超えて、私に言わせるなら”悪魔的に素晴らしい冴え技”とさえ言える。
  かつて清流出版で出版した『向田邦子・家族のいる風景』(平原日出夫編著)は、実践女子大学・実践女子短期大学の公開市民講座を一冊に纏めたものだが、手がけておいてよかったと正直思う。その平原日出夫さんも、新橋演舞場のパンフレットに一文を載せておられた。
  向田邦子さんの才能をいち早く認めたのは、山本夏彦翁、徳岡孝夫さん、久世光彦さんの諸氏だが、この御三方とわが清流出版がそれぞれにお付合いをしてもらっているのは不思議の縁で、けだし僥倖の限りだ。

 

kuze.jpg

久世光彦さんは、ある年、直木賞の有力候補になった。いつも文学賞の有力候補になっているので、私は今度こそ直木賞を取れるものだと思っていた。だが、結果は……。文学賞などは水もので、一種、時の選考委員と出版社同士のいわば談合、いわれなき都合で決まるものだとつくづく思った。久世さんは直木賞などもらわずとも、真の文章の王者になればよいと心から願った。賞に勝るとも劣らない読者からの冠(文章賞?)をもらえばよい。久世さんは、すでにその資格は十分であることは万人の認めるところだ。100年経っても読み継がれる作品を書けばよい。 

2001.10.01草柳大蔵さんに会った

あのアメリカを直撃した同時多発テロ事件勃発の翌日、わが社の新刊『ふだん着の幸福論』 の著者、草柳大蔵さんに会った。当然ながら、このニュースを巡り、いろいろ話が出て、草柳さんの事件を読み説くシャープな分析を拝聴した。
  複雑なイスラムの世界、タリバンとビンラディンの動向および中東情勢、石油の問題、ユダヤ資本の集中しているニューヨーク国際貿易センタービルの立地条件、日本の政治姿勢、今後多発するであろうサイバー・テロへの脅威……。何を論じても、長く第一線のジャーナリズムの世界に身をおいていただけあって、的確な分析と発言。歴史的な一日に、草柳さんに会えて本当に良かったと思う。
  この会話を通じて、私はいよいよ世界は「自滅のシナリオ」に突入したと覚らざるを得なかった。そして、私の胸をよぎったのは、かつてニューヨーク国際貿易センタービルを含めて16回の爆弾テロ事件を引き起こしたユナボマー、古くはイギリス産業革命のラダイット運動(機械打壊し)etc……の事件だ。反科学・反技術・反産業革命・反物質文明の暴力を良しとする人は、まだこの世にゴロゴロいると思う。
  世界観、宗教観の違いの根は深い。怒りにかられて、人を抹殺したい欲望にとらわれるのが、残念ながら愚かなホモ・サピエンスという生き物だ。中世のイタリアの哲学者ピコ・デラ・ミランドラは、いみじくも「人間は限りなく神にも、限りなく悪魔にもなれる存在だ」と言っている!
  私がかつて手がけた本で、この際、思い出すのはダニエル・ベルの『21世紀の予感』と、ルッホラー・アヤトラ・ホメイニの『ホメイニ わが闘争宣言』の二冊。前者は、ユダヤ系の偉大なる社会哲学者で、今後、人類は国家間の戦争よりも、民族・宗教・文明・文化……などの相違・対立から紛争が発生すると明確に喝破した本。後者は、イラン革命の時に指導者として、イスラム原理主義の声を高らかに上げた本。
  こうしたユダヤ人とイスラム世界の大いなる傑物二人の本を手がけながら、出版活動の限界を感じてしまう。現実の世界は、冷酷であり冷厳極まりない。もっと言えば、今回の事件に拘らず、「暴力と性と狂気」は、人間が人間を止めない限り続くと確信する。
  草柳さんとしばしの会話で、私はつくづく人間の限界を感じて、虚しさで胸が一杯の気持ちで別れた。嗚呼、でも、日々の雑誌・単行本編集の仕事は一刻も待ってくれない!

2001.05.01こころの出版社=清流出版

「清流出版の単行本や雑誌を読むと、なぜかこころがあたたかくなる!」と読者のみなさんに評価されるように、日々、編集に努めている(成功しない企画もままあるが……)。
   出版社には、各社まちまちの路線、編集ポリシーがある。例えば、(1)売れ筋の本とあれば、どんな著者、タレント、テーマでもすかさず出版する会社(比較的に大部数、低価格志向)、(2)あるジャンル、専門分野にこだわった編集に徹する会社(比較的に少部数、必然的に高価格)、(3)総合出版社を標榜している会社(部数、定価はピンからキリまで)等、各社まちまちだが、清流出版の場合、どちらとも言えない。月刊『清流』の創刊号以来のバックナンバーと、既存単行本のリストをつぶさに見てもらえば、多分、(1)の出版社でないことをわかってもらえると思う(うーん、実はこのほうが経営的にはいいのはわかっているのだが、体力的に無理がある。この方法だと、ベストセラーも出やすい)。そうすると、(2)と(3)のどちらかとなる。わが社のように社歴の短い、小さな出版社は、短期的には(2)の道をとって特徴ある路線を築き、そののち長期的には(3)を目指す、という戦略的な路線を築いていくほうが無難だとの結論にならざるを得ない。
   清流出版は現状、どっちつかずの道を歩んでいるのが実態だ。累計単行本の数で90弱規模では、取次、書店対策、販促宣伝の問題など小出版社ゆえのハンデもある。だが、いつまでも、このままでは済まされない。今年度は勝負の年として、企画にも、宣伝広告にも、販売戦略にも一段と力を入れたい。「こころの出版社=清流出版」という旗竿を高々と挙げて、「一寸の虫にも」の意気でやり通さねばならないと、心に決した。清流の清冽な水、きらきらするオアシスのような流れを現代日本の読書界に投じようと、一同、熱き思いを胸に秘めている。

 

0105.jpg

左は、このホームページ担当編集長の金井雅行君。堂々体重○○キロの偉丈夫だ。東京外語大学東南アジア語学科卒。現在、TOEIC挑戦中。右は、この欄(「編集長から」)執筆の加登屋陽一。四点杖に助けてもらう右半身不随の身で、言語障害が残る。だが、心はいつも前向き、上機嫌を目指している。