2017.09.21坂村真民さん

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小池邦夫さんの個展会場控室にて

    絵手紙の創始者である小池邦夫さんとは、臼井雅観君が親しかったことが縁で、長いお付き合いになる。住まいも近く、僕が成城で小池さんはお隣の狛江市に住んでいる。何度か話すうち、同じスーパーマーケットで買い物をしていることもわかり、顔を見合わせて笑ったものだ。ご承知のように、狛江市は小池さんが絵手紙講座を初めて開催した地であることから、「絵手紙発祥の地」としてよく知られる。小田急線の狛江駅前には小池さんの描いた絵手紙をモチーフにしたモニュメントが建っている。著者としても都合、10冊以上出させてもらった。その中には小池さんが好きな作家ということで、監修者として刊行させて頂いた本も何冊かある。とりわけ僕が好きなのは、2010年3月に刊行された武者小路実篤の『龍となれ雲自ずと来る―武者小路実篤の画讃に学ぶ』と、2012年3月に刊行された坂村真民の『一寸先は光 坂村真民の詩が聴こえる』の2冊である。共に僕自身が好きな作家、詩人だったこともあり、弊社から単行本として刊行できたことは嬉しかった。
 

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小池邦夫さん監修の武者小路実篤本
 
    武者小路実篤(1885-1976)の遺愛品や原稿、書画、資料等を展示している「武者小路実篤記念館」は調布市にあり、自宅から近いこともあって何度か足を運んだことがある。小池さんも十代のころから武者小路実篤の大ファンだったらしい。図書館通いをして、ほぼすべての実篤本を読破したというから入れ込みぶりも半端ではない。実篤は、雑誌「白樺」の中心人物として、また新しき村運動の創始者、実践者として知られているが、90年の生涯を通じ、小説家、戯曲家、詩人、エッセイスト、画家、書家など、いずれの面でも強烈な個性を発揮してきた。 
    単行本化にあたり、掲載する作品選びをすることになったが、多くの実篤作品の中から、小池さんが一体、どんな基準でどんな作品を選ぶのか、興味津々で同席させて頂いた。その際、実篤が絵、それもたくさんの油絵を描いていたことを初めて知った。洋画家の中川一政や岸田劉生など画家とも親交のあった実篤だが、本格的な油絵を描いていたとは驚きだった。実篤が描いたと知らせず、これらの作品群を見せたら、おそらく多くの人が名のある洋画家が描いた作品だと思うに違いない。実篤といえば色紙に描かれた俳画のようなイメージがあるが、油絵はまったく違った。実にダイナミックで迫力に満ちたもので驚愕した覚えがある。
    さて、坂村真民さんの『一寸先は光 坂村真民の詩が聴こえる』だが、さすがに真民さんについては、住まいが愛媛県の砥部町だったこともあり、身体が不自由な僕は飛行機に乗ることができず、同行すること叶わなかった。真民さんは愛媛県砥部町に「タンポポ堂」を構え、40年以上にわたって「詩国」という月刊詩誌を発信していた。単行本化にあたり、小池さんと担当編集者の臼井君が砥部町に坂村真民さんの三女・西澤真美子さんを訪ね、厖大な作品群から掲載作品を選ばせて頂くことになった。
 

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西澤真美子さん(夫君の西澤孝一氏は「坂村真民記念館館長」)
 
    そして資料を探すうちに、思わぬ宝物を見つけたという。それは真民さんが毎日のように欠かさず書いていた800冊にも及ぶ詩作ノートであった。「詩記」と書かれた大判の大学ノートにはNo.1からNo.796までのナンバリング、40年以上にわたっての厖大な詩作の下書きメモであった。例えば541号には、真民さんの最愛の母、種子さんについて書いた一篇がある。真民さんの心を明るく照らし続ける光であったことがよくわかる。「光の種子」を引いてみよう。
 
≪母の名を種子といった だからわたしは
花の種 果物の種 どんな種でも てのひらにのせ
母をおもい その苦闘の生涯をしのぶ
そして近頃特に ああ母は 
光の種子のような人であったと
しきりに思うようになった
「念ずれば花ひらく」八文字の真言を授けてくださった母よ
それは生命の光のように わたしを育ててゆく≫ 
    そして同じノートには愛妻への賛歌の詩も書かれていた。
≪妻は根っからの明るい人だ 天真な人だ
そのことをしみじみと思った この人には信仰などはいらない
生まれながら天の美質を受けている人だ
この人と共にあったことの幸せを感謝しよう≫ 
 
    母堂、そして細君に感謝する日々、そこからあの素晴らしい詩の数々が生まれてきたのであろう。

 
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小池邦夫監修の坂村真民本
 
    この本にはこの詩作ノートからの抜粋を15頁にわたって紹介している。日々、真民さんがどのように詩作に励んでいたかの片鱗を窺い知ることができる。直しては書き、直しては書き、さらには後ほど朱を入れて校正したりしている。その詩作の過程をありありと彷彿とさせるのだ。貴重な資料ともなり得るものだ。もう一つ、この本の特長は真民さんの生原稿を載せていることだ。実は僕も真民さんの詩は好きだし、出版各社から詩集も発刊されているが、生原稿というのは見たことがなかった。それが今回、真民さんが連載していた『曹洞宗報』という曹洞宗の機関紙に寄せた生原稿が見つかり、それを原寸大で掲載することができた。ブルーブラックのインクで一文字一文字、まるで彫るように刻まれた字を見たとき、僕は感動を覚えた。まさに魂のこもった字であった。都合5枚の生原稿の中でも僕がとりわけ感動したのが、「あとから来る者のために」という詩である。ここに引いてみよう。
 
≪あとから来る者のために 
田畑を耕し 種を用意しておくのだ
山を 川を 海を
きれいにしておくのだ
ああ あとから来る者のために
苦労をし 我慢をし みなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
みなそれぞれ自分にできる
なにかをしてゆくのだ≫
 
 
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「あとから来る者のために」の生原稿
 
    ちなみに坂村真民さんは明治42年、熊本県荒尾市の生まれ。熊本県立玉名中学校を経て、1931年、神宮皇學館(現・神宮皇學館大學)を卒業した。愛媛県砥部町に「たんぽぽ堂」と称する居を構え、毎朝1時に起床し、近くの重信川で未明の中で祈りをささげるのが日課であった。詩は解りやすいものが多く、小学生から財界人にまで広く愛された。特に「念ずれば花ひらく」は多くの人の共感を呼び、その詩碑は全国、さらに外国にまで建てられている。愛知県出身の教育者、大学教授、哲学者であった森信三氏が、早くから坂村真民の才覚を見抜き後世まで残る逸材とまで評した。
    真民さんは1934年に朝鮮に渡り、短歌に傾倒する。1946年に愛媛県に引き上げ、国語教師として教鞭をとりつつ詩作に従事した。1953年、尼僧・杉村春苔に出会い大きな影響を受ける。1960年、個人雑誌「ペルソナ」を創刊する。1962年、自らの詩をつづった月刊詩誌「詩国」を創刊。1200部を無料配布した。1967年、新田高等学校に国語教師として赴任、砥部町に居を構える。1970年、「念ずれば花ひらく」の第1号碑が、京都市鷹峯常照寺に建つ。1974年、新田高等学校を退職し、詩作に専念する。1980年 文部省中学校教育課『道徳指導要領三』に、詩「二度とない人生だから」が採録され、多くの教科書に掲載されるようになる。2006年12月11日、97歳で永眠している。

 
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真夜中の1時に起床して近くの重信川で祈りを捧げるのを日課とした
 
    真民さんほど平和を希求し続けた方はいない。詩に命をかけ、世界平和を叫び続けてきた方だ。そんな日々の尊い活動に対して、昭和55年、第4回正力松太郎賞、平成3年、第25回仏教伝道文化賞、同11年、愛媛県功労賞、同15年、熊本県近代文化功労者賞などを受賞している。実は古巣ダイヤモンド社出版部で僕の先輩に当たる地主浩侍さんが、頭脳集団ぱるす出版を創業しており、坂村真民さんの本を刊行していた。『坂村真民詩集 地球に額をつけて』『鳥は飛ばねばならぬ』『自選詩集 千年のまなざし』などで、真民さんのコアの読者が全国におり、順調に販売実績を重ねていた。
    その地主さんが弊社を訪ねて来たことがある。その際、真民さんの本を出してみないかとのお誘いを受けた。その頃の僕はといえば、創業した清流出版が超がつくほどの繁忙期にあり、人的にも受ける余裕がなかった。そうこうするうち、2010年6月30日、地主さんが77歳で亡くなってしまった。亡くなる前日まで出社し、本人の口癖「生涯現役」を貫いた生涯だったという。僕はなんとなく地主さんに借りを作ったままのような気がして、気になっていた。小池さんの監修で、こうして真民さんの本を刊行できたことで、少し肩の荷が下りた気がしている。

 
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「念ずれば花ひらく」の碑は世界中に737基建っている
 
    平和の大切さを伝える一手段として「詩国」を発行した真民さん。詩を愛好する人たちによって真民さんの「念ずれば花ひらく」が刻まれた詩碑が、国内のみならず世界各地に建立され、いまでは世界6大州に737基の詩碑が建っている。301号の詩記ノートに「続けることだ」という詩が書かれている。この詩からは、「詩国」を刊行し続ける熱意が伝わってくる。真民さんの詩は各社からたくさん刊行されている。是非、この平和を希求し続けた詩人の詩を一篇でも読んでみてほしい。世界が平和であること、紛争・戦争のない世の中が、どんなに幸せなことであるか、心に響いてくるはずだ。
    そして最後に僕が感銘を受けた三つの短い詩を引いて終わりにしたい。
 
「ほろびないもの」
≪わたしのなかに 生き続けている 一本の木
わたしのなかに 咲き続けている 一輪の花
わたしのなかに 燃え続けている 一筋の火≫
「サラリ」
≪サラリと 生きてゆかん 雲のごとく
サラリと 忘れてゆかん 風のごとく
サラリと 流してゆかん 川のごとく≫
「独自」
≪小さい花でいい 独自の花であれ
小さい光でいい 独自の光であれ≫

2017.08.25青木外司さん

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青木外司さん(中)、千代浦昌道さん(右)、僕が手にしている本が、『一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961―2016』

・東京・銀座にある青木画廊の創業者、青木外司(とし)さんが、ある日の午後、千代浦昌道(獨協大学名誉教授)さんと一緒に、わが家を訪ねてくれた。実は昨年4月、青木さんが自転車で転倒し骨折したというので、お会いする約束を取りやめにした経緯がある。青木さんの家は世田谷区上祖師谷でわが家に近いのを知りながら、なんとなく会えないままになっていた。千代浦さんは同じ世田谷区の下馬在住で、成城のわが家を2度ほど訪ねてくれたこともあり道をよくご存じである。青木さんと会うのは、僕の親友・故長島秀吉君の葬儀(2009年11月)以来で、ほぼ8年ぶり。92歳になるというが若々しい。普段、呼吸のために酸素ボンベを持ち歩かなくてはならない身にはとても見えない。

    会って話してみると、青木さんは僕と同じディサービスに通っておられることが分かった。ディサービスは、上祖師谷と成城の2か所にあり、青木さんは上祖師谷、僕は成城でお世話になっている。代表者は坪井信子さんといい、介護福祉分野で有名な方だ。その両方のディサービスを担当している杉本三奈さんが、青木さんと僕のメモをやりとりしてくれた。聞くと、上祖師谷の理事をされていた伊藤社長が先日急逝され、青木さんにはショックだったようだ。伊藤さんとは月1回会って、食事会を始め、飲み会や落語会の開催から、仕事上でも、表具、額装等、何やかやと、お世話になった方だと言う。さらには、青木さんの奥様が2011年の東日本大震災があった年、ご自宅で心臓の「動脈解離」で、急死されたと聞き、びっくりした。

    青木さんの知遇を得たのは、1960年だから優に半世紀になる。きっかけは故龍野忠久(1927年―1993年、享年66)さんが作ってくれた。当時、龍野さん32歳、千代浦さん21歳、長島君と僕が19歳で、山内義雄教授のフランス語を通じ親しくお付き合いし、いわば“龍野グループ”を形成していた。そして、しばしば銀座の青木画廊に集まった。わが青春の思い出は、青木画廊によって作られたと言っても過言ではない。その僕は30年以上経て52歳でダイヤモンド社を辞め、その後、清流出版を立ち上げるのに忙しく、挙句の果て脳出血で右半身不随となった。人と会うのが億劫になり、青木さんとも会えずにいた。われわれを指導された龍野さんも清流出版は知らないで永眠された。もう一つ、青木画廊から遠のいた理由がある。会うには、青木画廊に行かなくてはならないが、入り口が急勾配なのだ。半身不随の身には大きなネックとなる。2、3階の会場に行くことができず、もう青木さんとは会えないと思っていた。その間、千代浦さんはといえば、青木さんとはカメラと猫趣味で結ばれ、ずっと付き合ってきたと言う。


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懐かしい写真。千葉県御宿の辺りまで旅行した。多分、1968年頃。前列左から次男・径(青木画廊後継者)さん、後列左より青木外司(とし)さん、幸子(ゆきこ)さん、長男・純さん。われわれは龍野忠久さん(前列右から二人目)を中心に、千代浦昌道さん、長島秀吉君、加登屋と同行した。この旅行の途中、画家の高松純一郎さんの家に立ち寄ったが、近くの料亭の席を取ってくれ、ご馳走になった。高松さんは、青木さんを「先生!」と呼んでいたことが耳に残っている。

・今回、青木さんはごく最近、刊行されたご著書、『一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961―2016』(青木画廊編、風濤社刊、 2017年5月)を持参してくれた。これは有難いプレゼントだった。青木画廊の来し方を俯瞰する意味で、過去に開催された数々の個展、美術評論家や作家との交流などが網羅され、素晴らしい「年代記」と認識した。青木さんは富山県生まれ。戦後、上京し、最初の数年間は小学校教師として図工を教え、その後、知り合った東京画廊の社長・故山本孝さんの勧めで画商の道に。東京画廊で、画廊経営のノウハウを学び、青木画廊をオープンする。僕はオープン前に一度、青木さんと龍野さんの打ち合わせに同行したことがある。飯田橋駅にほど近く、青木さんは碁会場を営んでおられた。その頃、息子さんはまだ7、8歳ぐらいで、奥様が美人だったことを覚えている。1961年、青木画廊をオープン。画廊については、「素晴らしい!」の一語に尽きる。日本初、本格的なウィーン幻想派、シュルレアリズムを紹介された。同じ富山県出身の美術評論家だった瀧口修造さん、フランス文学者・翻訳者・エッセイストの澁澤龍彦さんの企画内容が見事だった。他にも、著名な方々が数々の名文を寄せ、美術ファンのみならず文学ファンの間に衝撃を呼んだ。僕にとっても衝撃的だったウィーン幻想派、シュルレアリズムをもっと知りたいと思った。

・青木画廊のような画廊は他にない。それは以下の文章でも頷けよう。
『一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961―2016』によると、
≪ようこそ幻想絵画の巣窟へ――ウィーン幻想派の紹介、金子國義、四谷シモンの展覧会デビューで、1960年代―70年代はアヴァンギャルドの牙城となり、瀧口修造、澁澤龍彦もオブザーバー的に関わった孤高の画廊。その画廊精神は現在にも引き継がれ、澁澤龍彦曰く「密室の画家たち」が発表の場を求めている。青木画廊で個展を開いた70数人の作家、寄稿文7本、座談会5本、展覧会パンフレットのテクスト90本で辿る55年の軌跡、青木画廊大全!≫――この魅力的な惹句がすべてを物語っている。目次を見ると、より詳しい内容が分かる。目次の一部をご紹介する。

≪ウィーン幻想派を中心に海外作家≫ エルンスト・フックス、ヘルマン・セリエント、エーリヒ・ブラウアー、カール・コーラップ、F.ゾンネンシュターン、ペーター・プロクシ、ペーター・クリーチ、ホルスト・ヤンセン、ケーテ・コルヴィッツ、バット・ヨセフ、ヨルク・シュマイヤー、マリレ・オノデラ、ボナ・ド・マンディアルク ◎原稿 川口起美雄「フッター先生のこと」、市川伸彦「3人の“B“」、マリレ・オノデラ「エルンスト・フックス」、多賀新「シュマイサーとベルメール」
≪青木画廊 黎明期≫ 池田龍雄、中村宏、山下菊二、横尾龍彦、前田常作、齋藤真一、小牧源太郎、野地正記、松澤宥、北脇昇、石井茂雄、藤野一友、秋吉巒、桂川寛、堀田操、森弘之 ◎座談「黎明期の青木画廊」 池田龍雄×中村宏×青木外司×青木径

≪青木画廊 アヴァンギャルド≫ 金子國義 四谷シモン、川井昭一、高松潤一郎、小沢純、大山弘明、藤野級井、宮下勝行、直江眞砂、松井喜三男、杉原玲子、樹下龍児(龍青)、渡辺高士、上村次敏、スズキシン一、池田一憲、渡辺隆次、高橋一榮、砂澤ビッキ、三輪休雪(龍作) ◎鼎談「青木画廊 アヴァンギャルド」 四谷シモン×青木外司×青木径 ◎原稿 三輪休雪「青木画廊の事」

    このあと、≪青木画廊 第三世代≫、≪青木画廊 新世代≫と続くが省略する。目次の最後に≪展覧会に寄せられた文章群≫がある。それには、◎瀧口修造「一角獣の変身」、「エルンスト・フックス展」(1965―66年)◎澁澤龍彦「未来と過去のイヴ」、四谷シモン人形展「未来と過去のイヴ」(1973年)◎種村季弘「文明の皮剥ぎ職人」、「ホルスト・ヤンセン展」(1971年)◎針生一郎「怪鳥年代記」、「山下菊二展」(1964年)など、展覧会に寄せられテクスト90本を収録している。

    僕にとって、忘れかけていた「青木画廊の宝庫」が、もう一度蘇ったようだ。青木画廊の企画展の歴史、軌跡、数多くのアーティストたちと作品群は、画廊のホームページや今回の本『一角獣の変身――青木画廊クロニクル1961―2016』をご覧いただければ幸いである。

・僕が今もって忘れえぬ画家、推薦された評論家について、少し述べてみたい。

    まず、エルンスト・フックスである。1930年生まれで、オーストリア、ウィーンの画家。ウィーン幻想派の代表的作家の一人。1944年聖アンナ美術学校で、さらに46年ウィーン国立美術学校で学び、48年アート・クラブに参加。51年「フンズグルッペ」を創立し、58年ギャラリー「エルンスト・フックス」を設立する。69年サンパウロ・ビエンナーレ展で受賞し、74年「一角獣の凱旋」(エッチング)で注目される。ゴシック絵画やマニエリスム絵画の影響を受け、旧約聖書や神話を題材に預言的な幻想絵画を作り出した。

    瀧口修造さんが青木画廊の「エルンスト・フックス展」に名文を寄せている。その一節に、「私(瀧口)はあまりに聖書の叙事的な画家になろうとするときのフックスよりも、ヘブライ神話の新しい変貌譚をみずから創りださずにはいられないフックス自身の心情に惹かれる」、「その迷路のように晦渋なフォルムがいよいよ明澄性に迫ろうとするのを見ると、これひとつだけで画家にあたえられた誘惑にみちた完全な命題のように思われる。いずれにしろ、知天使ケルビムの究極の象徴は一瞬にして視透す遍在的な瞳であるにちがいない」云々。エルンスト・フックスと瀧口修造さんのコラボが、わが青春に衝撃を与えた。エルンスト・フックスに入れ込み、机の片隅に彼の絵葉書を飾っていたほどだ。

・次に、エーリヒ・ブラウアーとフリードリヒ・ゾンネンシュターンについて。エーリヒ・ブラウアーもウィーン幻想派であるが、異端の画家だ。1928年生まれ、オーストリア、ウィーンの画家、版画製作者、詩人、ダンサー、歌手で舞台演出家でもある。恋多き人生を送ったボヘミアンだ。もう一人は、フリードリヒ・ゾンネンシュターン。1892年―1982年の生涯、ドイツ、東プロイセンのティルジット生まれの画家だ。本名フリードリヒ・シュレーダー。 色鉛筆でシュルレアリスムの絵を描いたアウトサイダー・アートの作家。「ゾンネンシュターン」とは、ドイツ語の「太陽(Sonne)」と「星(Stern)」からなり、自らを「月の精の画家」と称した。この2人を、瀧口修造さん、澁澤龍彦さん、種村季弘さんが、クローズアップした。幻想的でエロティクな画風に魅了された紹介文には、澁澤、種村両氏の情熱が感じられた。僕は、この2人が推薦するものは、原文のドイツ語で読みたいと思った。瀧口、澁澤、種村の各氏を、僕が編集に携わった月刊『レアリテ』(ダイヤモンド社)に、翻訳、企画記事として採用させて頂いた。

・もう1人がフンデルト・ヴァッサーである。僕が青木画廊から買った絵はこれだけだがとても気に入っている。本名フリードリヒ・シュトーヴァッサーは1928年12月、ウィーンの生まれ。20歳のときウィーン美術アカデミーで本格的に絵を学んだ。21歳のとき、フンデルト(“百”の意味)・ヴァッサー(“水”の意味)と名乗る。1959年、画家アルヌルフ·ライナーとエルンスト·フックスと一緒に、“ピントラリウム”と呼ばれる芸術家のための新しいプログラムを提唱。彼の絵にはカラフルな赤や黄色、緑、青が多用され、やがてどこまでも続く線や螺旋渦巻きが登場し、その曲線で家が描かれる。彼の作品には、家と人と自然の共存という意が込められている。


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フンデルト・ヴァッサーの絵。僕の自宅の玄関に飾っている。

    フンデルト・ヴァッサーは環境芸術にも貢献した。例えば、青い煙突の建物「舞洲スラッジセンター」は、下水汚泥をブロックなど建築資材に転用する機能を持つ施設である。建築を画家としての大きなテーマと位置づけ、機能性を重視した建築の合理主義を否定し、自然と共に生きることを生涯にわたって訴え続けてきたフンデルト・ヴァッサーの思い描く建築の合理性が、舞洲工場の奇抜な外観に集約されている。

・また、国内作家では、池田龍雄、中村宏、山下菊二、齋藤真一、野地正記の各氏を紹介された。その中でも、金子國義さん、四谷シモンさんの展覧会デビューは美術界に衝撃を与え、一躍アヴァンギャルドの画廊として広く認知されるところとなった。瀧口修造さん、澁澤龍彦さんがオブザーバー的に企画にも絡み、瀬木慎一、針生一郎、種村季弘、高橋睦郎、吉岡実など各氏は美術評論家・作家・詩人として数多くの文章を寄せ、美術ファンのみならず文学ファンにも知られる存在になった。その画廊精神は現在も引き継がれ、澁澤龍彦さん曰く「密室の画家」たちがこぞって発表の場を求めていると言う。とくに、金子國義さんは、埼玉県蕨市出身で、日本大学藝術学部卒業後、1966年、『O嬢の物語』の翻訳を行っていた澁澤龍彦さんの依頼で同作の挿絵を手がけている。翌1967年、澁澤さんの紹介により青木画廊で個展「花咲く乙女たち」を開き画壇デビューした。世紀末的・デカダンスな雰囲気を漂わせる妖艶な女性の絵、独特な描写の人物像など退廃的な画風が人々の関心を惹く。活動・表現領域は幅広いが、『ユリイカ』『婦人公論』の表紙や新潮文庫の『不思議の国のアリス』の挿絵を担当。コシノジュンコとは、古くから親交があった。2015年、虚血性心不全のため東京都品川区の自宅で死去、78歳没。澁澤龍彦さんが発見したが、金子國義さんは「時代のアジテーターの寵愛する画廊」として、青木画廊のファン拡大に一役買ったのである。

    青木画廊は1960―70年代にセンセーショナルでアヴァンギャルドな画廊として、認知されていく。面白い話がある。同じ名前で、同年生まれの横尾龍彦さんと澁澤龍彦さんが知り合いで、横尾さんを通じて、青木外司さんは澁澤さんの知遇を得る。澁澤さんは個展パンフレットに1966年の横尾龍彦展を嚆矢として、金子國義、高松潤一郎、四谷シモン、川井昭一、ボナ、秋吉各氏と、1982年までに8本の原稿を寄せている。ちなみに横尾龍彦さんは東京自由大学初代学長、画家。1928年、福岡県生まれ。東京藝術大学日本画科卒。1965年ルドルフ・シュタイナー研究会、高橋巌教授のセミナーに参加。1978年より鎌倉三雲禅堂、山田耕雲老師に師事、以後毎年、接心、独参を続ける。1985年ケルン郊外に居住。現在ベルリンと秩父にアトリエを設け東西を往来する。B・B・K・ドイツ美術家連盟会員。1989年、東京サレジオ学園の聖像彫刻、吉田五十八賞受賞。これまでに、国内はもとより、海外での個展、グループ展多数開催。青木画廊の先駆的な役割が目立つ。

    澁澤龍彦さんと同じく、もう一人の翻訳家が種村季弘さん。こちらは独文学者。種村季弘さんが書いた『迷宮の魔術師たち――幻想画人伝』(求龍堂刊)やフリードリヒ・ゾンネンシュターン著『シュルレアリスムと画家叢書「骰子の7の目」』(河出書房新社刊、1976年)、『一角獣物語』(大和書房刊、1985年)などが青木画廊の個展に結び付く。また、ドイツ語と言えば、坂崎乙郎さんも青木画廊の個展へ解説者となっている。僕は早稲田大学高等学院の時、坂崎先生にドイツ語を習っている。その5年後、坂崎さんの『夜の画家たち―表現主義から抽象へ 』(雪華社刊、1960年) が話題となった。著名な父親・坂崎坦さんが長生きしたのに、彼の自害は、残念だ!

・忘れられない方が前田常作さんだ。1926年―2007年、享年81。富山県生まれで、武蔵野美術学校を卒業。1957年、第1回国際青年美術家展で大賞受賞。翌年、奨学金を得てフランスに留学。パリ滞在中、美術批評家K.A.ジェレンスキーの批評により、≪夜のシリーズ≫などの作品を「マンダラ」と評される。そこでマンダラに関心をもち、帰国後、東寺の両界曼荼羅に触発され、マンダラを描き始める。前田さんは、以来「人間風景」「人間誕生」「人間星座」「人間空間」「空間の秘儀」「人間波動粒子」などのシリーズを発表。さらには、「須弥山マンダラ」「観想マンダラ」とマンダラ・シリーズを展開した。それにより、1979年には、第11回日本芸術大賞受賞。1983年、武蔵野美術大学教授。1992年、紫綬褒章受章、翌年、安田火災東郷青児美術館大賞受賞。1994年、武蔵野美術大学の学長就任。素晴らしい人生だが、ご本人は肩書や賞に関係なく、「生きること=毎日マンダラを描く」と、徹底的に追究する日々を送った。曼荼羅以前の作風から大きく変ったのも凄いが、僕とは大好きな映画の話で盛り上がる。「あれは観たか、これは観たか?」という調子。60年代から80年代まで、青木画廊はじめ、銀座や新宿の喫茶店、飲み屋で気軽に談笑したが、1990年になるとお互い忙しくなり、会うことができなくなった。

・僕の記憶では、瀧口修造さん、吉岡実さん、大島辰雄さんのトリオで集まることが多かった。3人で青木画廊の展覧会を観た後、銀座の店に繰り出した。また他の画廊や展覧会、さらに各種イベントに集う時、例えば、後楽園の「ボリショイ・サーカス」や赤瀬川原平さんの「千円札裁判」まで付き合って、ご一緒した。そして、その度に、僕はご馳走になった。ほとんどが『藝術新潮』編集長だった山崎省三さんがお支払い、新潮社に奢ってもらったことになる。コーヒー、食事はもとより、特にお酒が入ると大いに談論風発し、楽しい集まりであった。集まりの中では、僕だけが若輩者だった。なんという幸せな一時を過ごしたことだろう。

    瀧口さんは1903(明治36)年―1979(昭和54)年。享年76。近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。戦前・戦後の日本における正統シュルレアリスムの理論的支柱であり、近代詩の詩人とは一線を画す存在。
 
    吉岡実さんは、1919(大正8)年―1990(平成2)年。享年71。筑摩書房に勤務、取締役も務め、詩人。H氏賞、高見順賞、藤村記念歴程賞、を受賞。シュルレアリズム的な幻視の詩風で、戦後のモダニズム詩の代表的詩人である。

    大島辰雄さんも1909(明治42)年―1982(昭和57)年。享年73。美術評論家でフランス文学の紹介と翻訳、フランス文学の紹介のほか、昭和30年代前後から主に西洋近・現代美術に関する執筆、翻訳活動を展開し、また映画にも深い関心を示した。『藝術新潮』への執筆に「囚われの画家・シケイロス」などがある。

    こうした集まりは、まず青木画廊や展覧会、イベントが出発点であり、3人の偉大な方々と、スポンサーシップの『藝術新潮』編集長、山崎さんが必要不可欠の存在だった。僕の勤務先が経済誌中心の出版社であり、芸術や文学のジャンルに野心がないことを山崎省三編集長もよく知っていて気軽に呼んでくれた。山川みどり(『藝術新潮』編集長・作家・山川方夫氏夫人)さんの前任者、山崎省三さんには心からお礼を言いたい。山川みどりさんは、のちに、弊社から『還暦過ぎたら遊ぼうよ』の著作を刊行された。不思議な縁である。長じて僕は、自分の出版社を持つ身分になりながら、山崎さんのようにはついぞなれなかった。

・池田龍雄さん。日本経済新聞(夕刊)に8月14日から5日間、「こころの玉手箱」と題して、『予科練時代の写真』『花田清輝の著作』『岡本太郎にもらったカフスボタン』『瀧口修造の瓶詰オリーブ』『1950年代から愛用するペン』というエッセイをお書きになった。いずれも魅力的な記事だ。1928(昭和3)年生まれで、現在89歳。1948(昭和23)に上京、多摩造形芸術専門学校(多摩美術大学)へ入学する。同年秋には学友に誘われ岡本太郎や花田清輝らの「アヴァンギャルド芸術研究会」に参加し、アバンギャルド(前衛芸術)の道を歩む。60年代以降には政治的主題を離れ宇宙や時間など物理学的なテーマへ移り、「百仮面」「楕円空間」「玩具世界」「BRAHMAN」「万有引力」「場の位相」シリーズなど風刺や諧謔を交えたペン画シリーズを制作している。

・まだまだ書いておきたい方々がいる。例えば、中村宏さん、森弘之さん、渡辺隆次さん、建石修志さん……等など、僕の青木画廊への思い出につながる人たちについても、機会があったら、書きたいと思っている。


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世田谷区美術館で「瀧口修造 夢の漂流物 ――同時代・前衛美術家たちの贈物1950?1970――」(2005年)。

2017.07.28可兒鈴一郎さん

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可兒鈴一郎さん


・今回ご紹介するのは、経営評論家・可兒(かに)鈴一郎(81歳)さんである。弊社の外国版権担当顧問である斎藤勝義さんが、以前から懇意にしていた方である。その縁で、僕にも紹介してくれた。付き合っていた過程で可児さんからは何冊も、企画を出していただいた。可兒さんは東京都のご出身。慶応義塾大学経済学部を卒業後、堪能だった語学力を生かし、スウェーデン系のガデリウス株式会社(現ABB)に入社した。同社では、輸入業務・営業、企画調査、財務、経理、人事・人材開発など様々な職務を経験された。その後、1989年1月、自身、インテック・ジャパン株式会社を設立、日本から海外への進出企業を対象に、異文化コミュニケーション・ビジネススキル研修、海外事業所赴任前研修などをスタートさせた。
 同社の研修プログラムは、顧客企業それぞれのニーズに応じたカリキュラムをデザインすることで知られ、専門スタッフによるオーダーメイド型で対応しており、そのクオリティの高い研修内容は顧客企業に高く評価されていた。現在、可兒さんはインテック・ジャパンの社長を退いているが、僕がお会いしたころは、会社を軌道に乗せるとともに、注目され始めていた北欧流の経営を日本に紹介する本の執筆などにも力を入れていた。ちなみにインテック・ジャパンは、2012年1月より株式会社リンクアンドモチベーションのグループ会社となり、株式会社リンクグローバルソリューションに社名変更している。
 
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『ノルディック・サプライズ――北欧企業に学ぶ生き残り術』

・弊社で刊行された可兒さんの最初の著書は『ノルディック・サプライズ―― 北欧企業に学ぶ生き残り術』(清流出版刊、2004年5月)だ。オッレ・ヘドクヴィスト氏と可兒鈴一郎さんとの共著である。ヘドクヴィスト氏はスウェーデンのハルムスタッド市出身でゴーテンバーグ経済大学卒業後、ガデリウス株式会社に勤務していた。可兒さんとは気の合う同僚だった。なかなかの経営手腕の持ち主でもあり、その後、ガデリウスの代表取締役財務本部長にまで昇りつめている。ガデリウスを離れてからも、北欧および欧州企業の経営指導に従事した。再来日して後、スウェーデン・センター社長を経て、在日非営利団体スウェーデン・ブックセンターを主宰している。
 さて、この本の内容だが、北欧企業は携帯電話のノキアをはじめ、家具のイケア、自動車のボルボ、重電メーカーABBなど、世界に雄飛した堅実な有名企業が多い。一体なぜ、これほどまでに北欧企業は、活気があり競争力をもち得るのか。その全貌を明らかにしようと意図したもの。アメリカ型の経営には、ときに反省すべき点が多い。どういう特徴を持っているかといえば、まず、ガバナンスのあり方に特徴がある。会社は株主のものである。株主は経営者に経営を委ねるが、配当が出来ないなどの不手際があると、遠慮なく経営者のクビをすげ替える。徹底した株主資本主義である。株主は、投資家であるから、投資効率のみを追求する。四半期決算の動向を注視し、株式価格の動向を予想しながら、売買を繰り返す。従って、経営者も短期的経営指標に敏感にならざるを得ない。経営が短期業績重視である。そして資金効率至上主義になる傾向を持つ。経済全体では金融業が肥大化する傾向を持つのだ。アメリカの金融業のGDPに占める割合は、8%を超えているというから、異常な膨張ぶりである。
 これに対して、北欧型企業がもっている強みとは、米国や欧州の大国と違って長期の視点を重視し、徹底した議論の末に出した結論には下手な駆け引きをしないし、長期の信頼関係が築けるとされる。人間関係、現場主義、透明性、異文化力など、その背景には、あの脈々と流れるヴァイキング精神が息づいている。

・一般的なイメージでは、ヴァイキングは海賊であり、略奪者という印象が強い。しかし、実際は造船と航海技術を駆使した海の冒険者たちであり、8世紀の終わりから11世紀の始め頃まで、250年にも亘って、世界的に交易を誘導し大きな成功を収めたことで知られる。その行動規範は、現代の複雑で難解なビジネス環境にも通用するものであり、その実践例が、今世界で成果をあげつつあるということ。未来が見通せず混沌とした時代を迎え、未曾有の危機に立たされたとき、それを乗り越えるにはどうすればいいか。学ぶべきは、アメリカ型のグローバルスタンダード企業ではなく、独自の技術と知恵を武器に戦う北欧型企業から学ぶべきなのでは。その源流にあるのは、ヴァイキングの知恵である。ヴァイキングの人生哲学には、未来のサバイバルへのヒントが詰まっている。
「各個人が自分自身の生き方に責任を負う」。これが、ヴァイキングの人生哲学といえる。一艘の小舟で荒波を乗り越えて行くためには、それぞれが任されたポジショニングを守り、責任を全うすることが必要不可欠である。それは時に大海原を旅する際においては、生死に関わる重大な要素でもあった。こうした厳しい生活環境の中で生まれた知恵と行動規範は、今日の日本人、特にビジネスマンには、逆境を生き抜くために役立つ指針となったのである。

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『ユビキタス時代のコミュニケーション術』

・2冊目は『ユビキタス時代のコミュニケーション術』(清流出版刊、2005年4月)である。この本は羽倉弘之さんとの共著であった。羽倉さんは、可兒さん同様に東京都のご出身で米国コロンビア大学大学院卒業(MBA)。元通産省外郭流通関係研究所研究員、日本ポラロイド(株)経営企画室課長、マーケティング・マネジャー、アートウェア(株)代表取締役社長・会長などを歴任し、海外企業との接触を行ってきた経験を持つ。東京国際大学・文教大学大学院講師、三次元映像のフォーラム企画・編集幹事のほか、季刊『3D映像』を主宰しており、まさに最先端の未来技術を研究されている方だった。
 簡単にいえば、近い将来、モバイルIT機器を仕事に活用する時代がくるが、近未来コミュニケーション術とはいったいどのようなものなのか。それを知らなければ、あなたはこれからの時代に生き残れない、とする刺激的な内容だった。オフィスレス時代のプレゼンテーション力、ボーダーレス時代のビジネス・コミュニケーション術、ユビキタス時代に立ちはだかる文化の壁、オフィス環境の変容によってミーティング形態はどうなるかなど、近未来予測に必要な情報が盛り込まれていた。僕は近未来のオフィス形態が頭の中に思い描けず、疎かった分野だっただけに、本書で明かされた近未来のコミュニケーション術には目を見開かされた思いがした。

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『WIN‐WIN交渉術!――ユーモア英会話でピンチをチャンスに』

・この本は兒さんの著ではないが、インテック・ジャパンの社員、ガレス・モンティース氏 、佐藤志緒理さんの共著で出版されたもの。『WIN‐WIN交渉術!――ユーモア英会話でピンチをチャンスに』(清流出版刊、2003年6月)である。インテックには、海外への進出企業を対象にした異文化コミュニケーション・ビジネススキル等の研修を実施しているわけだから、英会話力に自信のある社員が多くいる。雑誌に定期的に寄稿する社員もいるほどだ。ちなみにガレス・モンティース氏は当時、ケンブリッジ大学大学院MBAコースに在学中の俊英だった。また、佐藤志緒理さんは津田塾大学学芸学部国際関係学科卒業後、(財)国際文化会館企画部を経て、1992年タイ国チュラロンコン大学文学部に留学している。1996年タイ・スタディーズ専攻修士号取得後に、インテック・ジャパンに入社している才媛だった。
 英語でビジネスを進めるだけでも大変なのに、ジョークを口にすることなど思いも及ばないい。余裕をもてないのだ。そんな時、強力な助っ人になってくれそうなのがこの本である。国際舞台で交渉事をスムーズに進めるためには、ユーモアのセンスが必要不可欠だということはよく分かる。欧米人のエグゼクティヴたちが、ビジネス交渉の緊迫した雰囲気をほぐすのに使う、軽妙なジョークは見事である。また、そんなスキルをもち合わせなければビジネスは円滑に進まないのも事実だ。

・ことほど左様に、英語をマスターする近道は、手当たり次第に手を出しても効率は悪い。いくつかのテーマを決めて、集中的に学習するのが効果的である。特にビジネス英会話の上達には、ジョークを活用するのもひとつの方法であるという意味で面白い本だった。スピーチをするときに、日本では「お詫び」から入ることが多く、欧米では小粋な「ジョーク」から入るというのが一般的なケースだ。確かにユーモア溢れるジョークは、人の心をなごませる意味で必要不可欠とされる。
 この『WIN-WIN交渉術!――』は、ジョークの手引書として、基本ルール、活用例、押さえどころなどの情報が盛り込まれている。誰でも知っている身近な話題をどう取り上げたらいいのか、また、自分の名前をジョークにして自己紹介する方法なども書かれていて興味深い。そして日本の文化に疎い外国人が、日本を理解するためにも役立つ。逆もまた真なりで、外国人に日本を説明するヒントにもなるのがミソだ。特に情況に合わせた生きた会話やジョークの実例が、豊富に盛り込まれているのが役に立つ。映画のジョークやワンポイントなどのコラムも、読み物として楽しめる。

・特筆しておきたいのが、兒さんの人脈が契機となって、弊社にいい出版話が舞い込んだことだ。これはある程度、部数の買い取りを含んだ出版契約となり、弊社にとっていくら感謝してもしきれないほど。それがスウェーデン系商社、ガデリウスが日本に100年以上に亘り根を下ろし、成功してきた軌跡を追った『成功企業のDNA――在日スウェーデン企業100年の軌跡』(清流出版刊、2005年7月)である。

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『成功企業のDNA――在日スウェーデン企業100年の軌跡』

・本書を読むと100年もの長きに亘っての同社の奮闘が、日本の経済発展の歴史と見事に重なる。外資系企業といえば、たいてい、四半期毎に結果を出さなければならない。株主が力をもっており、容易に利潤を生まなければ、社長の首をすげ替えてでも結果を求められる。ところが同社には、そんな利潤追求はしていない。創業者がじっくりと腰を据えて、経営基盤を作ったことにもその理由がありそうだ。
 何故、創業者クヌート・ガデリウスはそれほどまで日本にこだわったのか。その秘密が明かされる。米国系企業が多い中で、異色ともいえるスウェーデン企業の事業展開は僕にとって感動的ですらあった。この企業が日本の横浜へ進出したのが、1907(明治40)年。以来、日本の産業発展、工業発展の担い手として貢献してきた。こんな企業があること、こんな歴史があることすら、知らない日本人が多い。一見、社史のようなスタイルをとりながらも、生々しい人物像をフォーカスしている。数少ない欧州系対日進出外資企業の、貴重な対日事業展開のケーススタディではないだろうか。

 創業者のクヌート・ガデリウス氏は一体、どんな対日事業観や経営観をもっていたのだろうか。他の外資には見られぬ、日本への真摯な思いが滲み出ていたように思う。自分の子どもたちに、太郎、次郎、花子といった日本的な名前を付けたことからも、日本への並々ならぬ傾倒ぶりが伝わってくる。だからこそ、「日本のために、日本人とともに」を会社のビジョンとして掲げ、有言実行してきたクヌートの生き様(ライフスタイル)が、日本人読者の魂を揺さぶるのだ。こうして日本でのビジネスを成功に導いた企業DNAとは何なのか、本書は格好な教材となったはずだ。合わせて、弊社はこの本を出版することによってリスクなく利益を上げることができた。つないで下さった兒さんには、お礼の申し上げようもない。多少、体調を崩されたとも聞いたが、早く完治されて講演会にご執筆にと頑張って欲しいものだ。
 

2017.06.27佐藤初女さん

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佐藤初女(はつめ)さん

・前回、僕は鈴木秀子(シスター鈴木)さんについて書いたが、実は関連して、どうしても書いておきたい人がいる。それが青森県で「イスキアの家」を主宰していた佐藤初女(さとう・はつめ)さんである。初女さんは、残念ながら2016年2月に鬼籍に入られ、今は亡い。そもそも初女さんは、龍村仁監督作品「地球交響楽(ガイヤシンフォニー)第2番」に登場して、一躍人口に膾炙するようになった。龍村仁さんに初女さんを紹介したのが、外ならぬシスター鈴木だった。映画の中での初女さんは、ごく自然体であった。東北の豊かな四季を背景に、雪の下から蕗の薹を優しく掘り出したり、梅干し用の梅を干したり、ご飯を炊いておにぎりを握ったり。当時、73歳だった初女さんの穏やかな日々の営みが、淡々と映像で綴られていただけだった。どのシーンでも印象的だったのが、初女さんの物に触れるときの手の優しい動きである。生まれたての赤ちゃんに触れるとき、人は傷つけまいとして無意識にとる手の動き。そんな優しさが表れていた。

    シスター鈴木は、数回、青森県弘前市の初女さん宅を訪れている。月刊『致知』で対談もしている。初女さんは最初、弘前の自宅を開放して活動していた。素朴な素材の味をそのままに頂く食の見直しによって、心の問題も改善することができる、との考え方を実践していたのだ。同じカトリック信者でもあり、シスター鈴木は初女さんのこの活動に共感を覚えた。食に対する思いに感じ入ったシスター鈴木は、初女さんの夢であった、森の中に憩いの場を作りたいとの実現のため募金活動を開始する。初女さんを母のように慕う全国のファンからの後押しもあって、1992年10月、岩木山麓に「森のイスキア」が完成する。初女さんの念願の夢がここに叶ったのである。ちなみに「イスキア」とは、イタリア西南部のナポリ湾の西に浮かぶイスキア島の名前から採られたもの。実はイスキア島には、こんな逸話があった。ナポリの富豪の息子で、何不自由ない暮らしをしていた青年が、この島を訪れて司祭館に滞在し、贅沢三昧だった生活から、自分を静かに振り返ることを学んだ、というエピソードである。シスター鈴木は、この逸話に感動し、この家を「イスキアの家」と名付けたのだ。

・初女さんの性格は、シスター鈴木が日本に普及させたエニアグラムによれば、タイプ9に分類されるという。タイプ9の解説文にはこうある。
 
【何事にも心を乱されたくない、平穏を愛する者です。人の望みを優先し、相手に共感する能力が高いので、聞き上手です。対立する複数の意見があれば白黒付けずに公平な視点で整理し、天性の調停者として振る舞います。穏やかで、うんうんと頷きながら話を聞く姿勢は皆が好感を持ち、周囲に落ち着きと安らぎをもたらす事でしょう。癒し系と評価される事も多いかもしれません。動物、温泉、運動が好きな事が多いようです。また繋がっているという感覚を大切にするため、道路や線路が繋がっているのが一目で分かる地図や路線図などを好む場合もあります。興味がある物を収集するのも好きです。また、人の内面を感じ取る才能を持ち、その色に染まる傾向があります。周囲が明るく活発であれば活発になり、落ち着いた知的な雰囲気であれば物静かで知的になります。相手の悩みや喜びまで感じ取れるので、他者をまるで自分自身のように支える事ができ、周囲に癒しと安らぎを与え、対立を鎮める潤滑油として機能します。】
 タイプ9のプロフィールはまさに初女さんそのものである。

 
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すり鉢で胡麻を擂る佐藤初女さん
 
・初女さんは1921年、青森市に生まれ、青森技芸学院(現在の明の星高等学校)を卒業後、3年間小学校教員をし、1944年に勤務校の校長だった佐藤又一氏と結婚している。又一氏にはすでに3人の子があり、再婚だった。その後、初女さんは教職を退き、弘前市内に在住して、ろうけつ染めの指導などをし、1964年より15年間、弘前学院短期大学で非常勤講師として家庭科の教鞭をとっている。1979年には、弘前染色工房をオープンさせている。
 
    女学校時代、胸を患ったことが初女さんの人生の方向性を決めた。喀血を繰り返しながら17年間の闘病。その体験が「食べる」ことと深く関わって、生きるきっかけとなった。 「その頃、注射や薬の効き目は些細なもので、これでは治らないということを感じていた。反対に、美味しい食べ物を頂いたときには体内の細胞が躍動するように感じ、注射や薬に頼るのでなく、食べることで元気になろうと思うようになっていった」。17歳での発病以来、自然と少しずつ体を動かせるようになっていく。「もう闘病は終わったとはっきり実感できたのは35歳ぐらいのころ。健康であること、そして働けることへの喜びと感謝の気持ちでいっぱいだった。これ以上の幸せはない、これからは何をすることも厭わないと心に決めた」。
 
・初女さんの心には、幼い頃の思いが刻まれている。それは、近所の教会の鐘の音に惹かれ、何度も教会の前に佇んだ記憶である。“誰がどこで鳴らしているのか”と不思議に思ったという。その後、初女さんは老人ホームを訪問したり、様々な生と死の出会いを重ねるうち、「心だけは人に与えることができる」との結論に思い至った。そこで自宅を開放し、ろうけつ染めを教えるかたわら、心を病んだ人々を受け入れることにした。これが「イスキアの家」のスタートであった。

    多くの出会いから深いものを受けとってきた。≪『私、苦しいんです』と訴える人に対し、頭であれこれ考えても、本当の解決にはなりません。『そう、苦しいね。でも、もっと苦しまなくちゃ』って伝えるときもある。もちろん、私も活動を続ける中で、心の葛藤が生まれることがしばしば。そんなときは苦しみを否定せず、自分の心を真っすぐ見つめ、苦しみを感じきることを大切にしてきた。苦しんで苦しみ抜いて、もうどうにもならない、というところで『神様におまかせ』すればいい≫。

・「一期一会という言葉通り、私たちはそのときの限られた時間しか触れ合えません。疲れたと思いながら会えば、その気持ちが相手にも伝わるので、心を素早く切り替え、いつも新鮮な気持ちで会うこと。それを大切にしている」という。「また、どんなときも自分の都合を優先せず、その人が求める形で出会いたい。何かに取り組むとき、ある限界までは、誰でもできる。けれども、その一線を越えるか越えないかが、大きな違いになる。そして1つ乗り越えると、また限界が出てくる。そのように限界を1つずつ乗り越えることによって、人は成長するし、その過程は生涯続くもの。確かに、このような生き方は大きな犠牲を伴うし、時々自分でも厳しいなあと感じるときがある」。

    以来、「食はいのち」を標榜し、心のこもった食事を提供し、悩める人の話に耳を傾けた。評判は評判を呼んで、国内はもとより 海外からも、迷い、疲れ、 救いを求めて訪れる人が後を絶たなかった。 初女さんのおむすびを食べて自殺を思いとどまった青年がいる。 食べることは、「命」をいただくことだと気づく高校生がいる。悩める若人に伝説のおにぎりで知られるように、食事を通して生きる勇気を鼓舞してきたのだ。
 
 
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岩木山麓に佇ずむように建つ「イスキアの家」

・初女さんの語録は、雑誌や本でも披露されているので、ご存じの方も多いだろう。弊社の月刊『清流』にも「ひと欄」でご登場いただいている。特に僕の印象に残った言葉を取り上げてみよう。

「長い冬に耐えて、雪解けとともに芽ばえた“ふきのとう”の生命をいただいて、おひたしや天ぷらを作る。ただ『美味しく食べさせて上げたい』という心を込めて料理した時、その蕗の薹の生命が、“美味しさ”になって食べる人の生命を活かし、心を癒してくれる」
「お漬物が呼ぶ。もうこの石は重いって。だから夜中でも起きて、小さい石に取り替える」
「放っておけば腐ってゆく自然の生命に、手を加えることによって、別の生命となって生きて頂く。お料理とは生命の移し替えなのかも知れません」
「私の祈りは“動”の祈り。毎日毎日の生活の中にこそ祈りがある」
「自分が喜びに満たされると、人は必ずその喜びを分かち合いたいと思うようになる。霊的な喜びこそ、人間の最大の喜び」
「食事することが『生きる』そのもの。茹でるとか、切るとか、味付けするって、どれ1つ、おろそかにできない。『調理すること』が『生きる姿』そのものだと思う。ごはん炊くのだって、米の研ぎ方とか、スイッチを入れる時間とか、もちろん水加減、できたときのほぐし方、よそい方、ご飯1粒ひとつぶが呼吸できるようにって。食べてみて初めて見えない何かを感じてくれる」
  「食材は特別なものでなく、身近で手に入るもので作る。やはりそれを美味しく作るというところ、それしかない。食べると心の扉が開いて、順々に話し出してくれる。話していると、自分自身で答えを見つけていくもの」
    このように、初女さんの生きとし生けるものへの慈愛に満ちた言葉は、見えない世界を見ているようで実に奥が深い。


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ある日の「イスキアの家」の食事。伝説の真っ黒なおにぎり

・初女さんの台所での動作はゆっくりに見えて無駄がない。必要な速さで動いていることに気付く。お手伝いの数人のスタッフとの間に柔らかな緊張感が流れている。ふわりとして「凜」。例えば食材を茹でている場合、切り上げ時の一瞬を決して逃さない。慌てるふうもなく、しかも速い。この瞬間を初女さんは「いのちの移し替えの瞬間」と呼ぶ。私たち人間は地球上の色々な「いのち」を食べて生きている。食べるもの、すべてが生き物である。「いのち」が「いのち」を食べている。
 
「食材を、ただ『もの』だと思うのと『いのち』として捉えるのでは、調理の仕方が変わってくる。ものだと思えば、ただ煮ればいい、焼けばいいのですが、いのちだと思えば、これはどうすれば生かせるだろうか、になる」。
  「調理の間は意識を集中しないと、食材のいのちと心を通わせることができない。野菜を茹でていると、大地に生きていたときより鮮やかに輝く瞬間がある。そのとき、茎は透き通っている。その状態を留めるため、すぐに水で冷す。透明になったとき火を止めると美味しく、血が通うお料理ができる。素材の味が残るだけでなく、味が染み込みやすいときでもある。野菜がなぜ透き通るかといえば、野菜が私たちのいのちと1つになるため、生まれ変わる瞬間だから。それを≪いのちの移し替えの瞬間」と呼ぶ。」
「蚕がさなぎに変わるときも、最後の段階で一瞬、透明になる。焼き物も同じ。焼き物に生まれ変わる瞬間、窯の中で透き通る。透き通ることは、人生においても大切。心を透き通らせて脱皮、また透き通らせて脱皮というふうに成長し続けることが、生きている間の課題ではないか」

    僕は初女さんと直接、お会いしたことはない。しかし、ご縁を感じている。そもそも、詩人・エッセイスト堤江実さんが企画提案して佐藤初女さんの語り下ろしの本を作ろうと思っていた。だから出版部の臼井雅観君を編集担当に、堤さんと「イスキアの家」に取材に行ってもらった。2泊3日の出張から帰った2人から、初女さんのことを色々と聞いたので、僕もお会いしたような気分になった。臼井君は食事の準備を手伝ったらしい。笊をもって庭に出て、生えているシソの葉を摘み、クルミ和えを作るためのクルミを金槌で割って中身を取り出す作業をした。あの真っ黒なおにぎりの作り方にはビックリしたらしい。まず、釜を覗き込みながら、水加減の調整をする。お米の顔を見ながら、微妙に水を足したり引いたり。炊き上がりのご飯はといえば見事に立っている。そのご飯に初女さんが漬けた梅干しを入れ、心を込めて一つひとつ握る。そして、ご飯の白い色が見えなくなるように、海苔で優しく包む。こんな心のこもったおにぎりだからこそ、食べた人の心に染み入る。自殺を思い留まったり、生きる気力がわいてきたり、来たときと帰るときの顔付きが、まるで違っているというのだから。本当に惜しい方を亡くしたものである。
    最後に、初女さんを知るきっかけを作ってくれたシスター鈴木に感謝を、また、天国の佐藤初女さんには、長い間、お疲れ様でした、と言ってあげたい。

2017.05.26鈴木秀子さん

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・僕が敬愛する鈴木秀子(シスター鈴木)さんには、まだ一度しかお会いしたことはない。弊社から『「こころの目」で見る』(2004年刊)を発刊させていただいた際、ご挨拶を交わしただけだ。しかし、そのときのインパクトは、僕の心に強く焼き付いている。明るく軽やかで、少女のような愛らしさがあった。ニコニコと笑顔を絶やさず、人の心を和ませるオーラが出ていた。そんなシスター鈴木の書いた本である。この本の要諦は、モノやお金にこだわっている限り、本当の幸せは手にできない、ということ。「こころの目」で見ることとは、見えない世界に目を向けることである。そしてその見えない世界にこそ大切なものが隠されている。つまり「肝心なことは、目に見えない」ということなのだ。

「肝心なことは、目に見えないんだよ」の言葉は、フランスの作家で飛行士でもあったサン=テグジュペリの書いた『星の王子さま』の一節にある。『星の王子さま』は児童文学であるが、大人向けのメッセージに満ち溢れている。目に見えるものが必ずしも真実とはいえず、心の目で見ること、子供のように曇りのない目で見ることの大切さなど、教えが随所に散りばめられている。人は、正しくものを見ているようでいて、自分にとって損か得かという自己中心的で自分勝手な見方でしか物事を見ていないことが多い。だから、往々にして何が本当で何が偽りなのかを見極めることができないのだ。

 
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・現代社会に生きる私達は、目に見えるものばかりに心を奪われ、数値ばかりを追い求めてきた。その典型が経済至上主義の考え方である。その結果、大切なものを見失い、目に見えない多くのものに支えられていることに気付かない。今こそ、物質的な豊かさではなく、心の豊かさ、心の糧を大切にすべき時期にきている。そして、一人ひとりが、物事の本質、真実の姿、本当に大切なものを見つけていかなければならない。そのためには、純真な心と真実を見定める智慧の眼が必要となるのだ。

『「こころの目」で見る』に挿入された例話が素晴らしい。例えば、森鷗外の傑作に数えられる『じいさんばあさん』という短編小説がある。老夫婦の「互いへの敬意と自立」がよく描かれている。人を殺めて流刑の身となった72歳の夫・伊織が、37年ぶりに「永の御預御免」となって江戸に帰ることになり、71歳の妻「るん」に再会する。流れた37年という歳月は、「あの二人は隔てのない礼儀があって、夫婦にしては少し遠慮をしすぎているようだ」という言葉に表れている。シスター鈴木は、この1行には、読み返すたびに強く心を打たれると書いている。武士として、武士の妻として、一生礼儀をわきまえて生きてきた人の、磨きあげられた輝きが感じ取れるというのだ。高齢社会を迎えた日本では、夫婦の自立が求められる。多くの日本人夫婦の場合は、男性の自立が問題なのだという。その意味でこの小説の夫婦は見事なまでに自立していて、感動を覚える。顧みて、僕も、妻に依存し過ぎのきらいがあり、反省をさせらた小説であった。
 
 また、「幸田露伴が中国の古書『陰隲録』(いんしつろく)から学んだ大切なこと」の挿話を挙げている。『陰隲録』とは、明代、呉江の人で、嘉靖年間から万暦年間を生きて、74歳で亡くなった袁了凡(えん・りょうぼん)が自己の宿命観を乗り越えて、自ら運命を創造してゆくことを悟った、その顛末を書いた本である。人生には、宿命、運命、立命があり、いかにして宿命から脱し、自らの運命に立ち向かい、さらに自ら立命となすのか、シスター鈴木は平易な文章で解説している。僕がまったく知らなかった話であり、とても興味深く読んだ。人生は宿命論だとするならば、どうあがこうと、あらかじめ路線は決まっている。しかし、自らの意志で人生を創造でき、立命に至ることができる、となれば話は違ってくる。例話の袁了凡は、自らの人生を創造し、立命に至っている。そういった元気が出るような例話が、この本には散りばめられている。是非、手に取って欲しい本である。

・ここで、簡単にシスター鈴木のプロフィールに触れておく。1932年、静岡県の生まれ。聖心女子大学文学部を経て、東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。文学博士。聖心女子大学文学部教授(日本近代文学専攻)を経て、国際コミュニオン学会名誉会長。聖心会会員。日本に初めてエニアグラムを紹介した、その道の第一人者である。

 シスター鈴木の最新刊『わたしの心が晴れる』(七つの森書館刊、2017年3月)では、見えない世界について触れている。それによれば、命というものは平等に与えられ、しかもすべての命が深いところでつながっている。その命というのは、人間だけに留まらず、生物、動植物から、生きとし生けるもの、そして地球(ガイア)、宇宙まで、すべてを含めてだという。これこそが、「目に見えない世界」の根本原理である。シスター鈴木によれば、大切なことは、見えない世界と見える世界との関係をきちんと理解し、しっかり根を張った上で、見える世界で各人が個性を発揮し、活躍することが望まれている。仮に、見える世界だけに気を取られ、地位や財力を最優先した行動を取れば、人を蹴落とすような醜い争いばかりになりかねないというのだ。

 シスター鈴木の“幸せ観”とは、他の人や、生き物と、深い絆で結ばれていることを実感できるときという。すべての人たち、動物、草花、命あるすべてのものとの共通点は何か、それは、みんな一つの願いで生きていること。すべて命あるものが「幸せになりたい」との願いをもって生きているのである。では、幸せになるにはどうすればいいのか。まず、自分を愛することが第一番だと説く。自分を受け入れ、愛している人からは、気持ちの良い波動が出ているもの。良い波動の人のそばにいれば気持ちがいいし、悪い波動の人のそばにいれば居心地が悪い。だから自分を許せない人は、まず自分を許すことから始めればよい。それができれば、放射される波動も良くなり、黙っていても周りの人と調和できるようになる。自らが幸せになることが、周りの人々を幸せにする第一歩なのだ。シスター鈴木のいう意味は、僕もこれまで多くの著名人に会ってきた経験から、実感としてこれは理解できる。良い波動の出ている人のそばにいれば触発されるし、確かに気持ちがいいものなのだ。

・人間という宝石箱には必ず宝石が入っている、とシスター鈴木はいう。外側ばかり見ていると、自分の魅力に気づかない。宝石箱とは誰にも等しく与えられた魂であり、この魂によって、存分に自分の命を輝かせていく。それがこの世に生まれてきた人間すべての使命だという。現在、悩みや苦しみにある人には、理解しにくいかもしれない。しかし、現状は現状として受け入れ、目の前にあるものから楽しみを見出そうとすれば、必ず見つかるはずだという。

 目が覚めてみてありがたい。ご飯が食べられてありがたい。命があってありがたい。このような当たり前のことを、奇跡のように有難いことだと気づくことができれば、自分が今、悩んだり苦しんだりしていることが幻想であったとわかる。僕は人生とは苦しみや悲しみを乗り越えるため、自分を厳しく鍛錬するため、と思っていた時期があるが、シスター鈴木は、それは違うという。まさに人生は楽しむために与えられているのであり、その時その時、より楽しんだ人生こそ、よい人生となり得るという。実にポジティブになれる言葉で僕は感動を覚えた。


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・ちょっと寄り道するが、僕は妻が海外旅行で不在だったとき、「ショートステイ」で10日あまり、ある介護施設にご厄介になったことがある。そこの図書室で、鈴木秀子さんと玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)さんの対談本を見つけた。『仏教・キリスト教 死に方・生き方』(講談社+α新書刊、後にPHP研究所刊)というタイトルだった。当時、ちょうど玄侑宗久さんが月刊『清流』で連載中だったこともあり、この対談を僕は大いに楽しんで読んだ。カトリックの聖心会シスター鈴木秀子さんと、仏教の臨済宗僧侶玄侑宗久さんが、お二人の宗教的基盤を超えて、素晴らしい対談をされていた。シスター鈴木はこの対談を「祝福に満ちた節理」であった、と述べている。読者である僕も、この本を読んで限りなく幸せ感を味わった。玄侑さんも「やはり宗教は人なのだ」「我々は充足した『今』を過ごし続けた。驚きも喜びも共感も、『今』にあった」と、お二人の対談を総括されている。「どんな宗教も、深く掘り進むと同じ水脈に通じるという昔からの思いが、今回確信になった」と述べているが、僕もこの感想に同意する。

・シスター鈴木が就職したころは、“自分らしく働く”という価値観は、女性にとっても男性にとってもまだ一般的なものではなかった。現代のように性別に関係なく仕事を選べる時代ではなかったし、女性が社会で働きに出ること自体珍しいことだった。男女ともに“こうあるべき”と進むべき道が決まって、選択肢が少なかったともいえる。

 しかし、人生を豊かに生きようと思ったとき、自分が幸せを感じることとより多く接点をもっていた方がいいことは明白である。そしてそれは、シスター鈴木にとってそれは学びであり、教えることだった。好きなことをとことん突き詰めていったら、60年も続けられる仕事に出会えたということであろう。ただ、シスター鈴木のように好きなものが明確になった人ばかりではない。やりたいことがコロコロ変わってしまう人、自分が最も興味のもてることが何かが分からなくなっている人、“世間体”のように、さして重要ではないものに執着している人もいる。それではダメで、自身のことを深く理解していなければ、組織の中で意にそまない仕事をしながら心身を病んでしまうことになる。シスター鈴木はこれまで多くの人の悩み相談に乗ってきた経験から、自分の本心を欺いて世間の評価を尊重している人が幸せであったためしがないという。

・自分のことをよく理解している人は、単調な仕事やつまらなく思える仕事も、どうしたら楽しくなるかを考えて行動する。そうすると、仕事の成果にも違いが出てくるのは理の当然である。では、自己理解を深めるためにはどうすればいいか。大事なのは、頭でただ考えるのではなく、自分の好きなものや幸せを感じる瞬間のことをひたすら書き出してみることだ。騙されたと思って、自分が好きだと感じることやものについて100個書いてみると、自分自身の傾向が見えてくるはずという。

 また、自分が普段、どんなものにお金と時間をかけているのか。書き出してみることも、自己理解を深める手助けになる。自分にとって価値のあることは何なのか。思いつくままに書き出してみると、その中にきっと軸になるようなものが見つかるはずだという。それが、自らの心を満たし、人生を豊かにしてくれるものなのだ。当たり前のことのように思うかもしれないが、書き出してみないと、その当たり前のことにさえ意外と気付かない。だから、20代、30代の女性たちには、意識的にでも自分自身としっかり向き合う時間をつくってみてほしいとシスター鈴木は提案するのだ。

・もう一つ、自分にとって価値あることを見つけるコツ。それは「聖なるあきらめ」という考え方だという。執着を手放す「諦め」と、物事をはっきりとさせる「明きらめ」の両方を行う、よい意味でのあきらめのことである。すると、目先のことや、見栄、お金、褒められることなど、部分的なことに捕らわれないようになる。ここで改めて、“自分らしく働く”とは何か。その答えは、自分の心が何によって満たされるか知り、それを仕事として周囲に役立てることだといえる。どんな仕事をしていようと、どんなワークスタイルであろうと関係ない。世間からの評価に左右される必要も一切ないのだ。

 これからの時代、女性たちのキャリアは結婚しようが出産しようが長く続いていく。専業主婦になる選択ができる人なんてそうそういない。ライフステージが変わって、自分を取り巻く環境が変化する度に、「これからどうすればいいのだろう」と不安に襲われる女性も多いはず。けれども、自分の心が何によって満たされるのか、自分自身が分かっていれば大丈夫とシスター鈴木は説いている。どんな状況に置かれても、自分で自分を安心させ、楽しませることができるという。

・僕が特に興味をもっているのは、シスター鈴木の傾聴を土台にしたコミュニケーション能力についてである。自らの著書の中で、自動車王ヘンリー・フォードの言葉を例に挙げて説明している。フォードは「成功の秘訣というものがあるとすれば、常に他人の立場を理解し、自分の立場と同時に、相手の立場でものを見る能力である。効果的に聴くことができれば、相手の立場に立って物事を見ることができる」と語っている。このようにヘンリー・フォードは「聴く」ことを非常に重要視し、「聴く」ことによって成功の秘訣としていたのである。

 コミュニケーション能力の重要性が、今ほど真剣に叫ばれている時代はない。企業は、社員のやる気や創造性、個性や自信を引き出して、生産性を高めようとしている。また、国境を越えたグローバル化の中で、有能な人材が活躍できる企業風土の改革にも取り組みつつある。「コミュニケーションの達人」というと、かつては話し上手で、面白い話ができたり、的を射たアドバイスができる人のことをいっていた。コミュニケーションの能力の比重は、「話す」ことに置かれていたのだ。

 ところが近年、「話す」ことより「聴く」ことにその比重は移りつつある。いかに「聴き上手」になるかが、コミュニケーションの最重要テーマとされるようになってきている。また、上司や先輩など指導する立場にある人が、自分のアドバイスや意見を部下や後輩に受け入れてもらうのは、想像以上に難しいことになりつつある。人は情報を一方的に伝えられていると感じると、往々にして拒絶感をもつようになるからだ。その反対に、自分の話をよく聴いてくれる上司の意見は、驚くほど部下も素直に受け入れるものなのだ。人の話を「聴く」ことができれば、相手に届く言葉で、アドバイスや意見を述べることが可能になる。
 

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・シスター鈴木は、ターミナルケア・グリーフケアにも永年たずさわり、「聴く」ことの重要性を説いてきた。この考え方は多くの著名人からも支持されている。「聴く」ことの価値は、広く認識されつつあるが、どのように「聴く」かについては、十分な知識をもっている人は、ビジネス世界でも決して多いとは言えない。そして、いまだに「聴く」ことの価値に気づいていないビジネスパーソンも、実は沢山いるのである。『愛と癒しのコミュニオン』 (文春新書刊)には、アクティブ・リスニング(傾聴)という言葉が出てくる。つまり、だれかが意見を言い、ほかの人がそれを聞くとき、ふつうは聞く人の心の中に賛成か反対か、どちらかの反応が動くもの。また、多くの人たちは、ただちにその賛成や、特に反対の意見を外に表したい気持ちにかられるものだ。しかし、真の傾聴とは、こうした賛成や反対の気分をすべて沈黙させねばならない。他人の話を聞き、それに自分なりの明確な意思表示や評価を行うことを、私たちは、知的な態度だと教わってきた。人から何かの意見を聞いた時に、賛成や反対を示せるだけの知識や知恵を持たねばならないと指導されてきた。それができるかできないかが、知恵のある者か、ない者かの指標とされることが多かったのである。

・しかし、オーストリアのルドルフ・シュタイナーも語っているが、他人の言葉に耳を傾ける際の望ましいあり方は、「自分自身の内なるものが完全に沈黙するようになる習慣」を身に付けることだという。それも「批判しない」「同情しない」「教えようとしない」「評価しない」「ほめようとしない」。これがアクティブ・リスニングの要諦ということらしい。これは言葉では簡単そうだが、実際にやってみるとかなり難しいと思う。完全に沈黙するなど、とてもできそうにないからだ。僕もサラリーマンとして、また、小さい会社ながらも経営者として仕事をしてきたが、人間関係の難しさは痛感してきた。風通しがよく、気持ちよく仕事に打ち込める環境を築き上げるには、上に立つものが聴くことの重要性を知ることが必要不可欠だと思う。「聴く」技能を高めていけば、人間関係は良好になり、新しい出会いと、チャンスが生まれてくるはずというシスター鈴木の言葉が腑に落ちるのだ。「聴く」技術を身に付けて、コミュニケーションにおける摩擦やギャップ、混乱を解消できれば、ビジネスにおいても飛躍的な成果をあげることができるのだ。

『心の対話者』 (文春新書刊)でも、聴く能力の大切さが語られている。家庭生活や学校、職場での人間関係に悩む人がいる。病気や高齢のため不安のうちに日々を過ごしている人がいる。私たちの周りには、心を閉ざしたまま孤立感を深めている人が大勢いる。こうした苦しみの中にいる人たちの心の叫びを、共感をもって受け入れ、その人たちが再び生きる意欲を取り戻せるよう側面からサポートするのが「心の対話者」である。この「心の対話者」に必須の能力とされるのが、「聴く」能力というのだ。これにより、人間関係は良好になり、新たな気づきと出会いが生まれてくる。

・激動の時代を迎え、ビジネスマンたちは、生き残りをかけた闘いを繰り広げているが、何か満たされない感じや空回りばかりしている感じにさいなまれている。会社に守ってもらいたいという願望や過去にしがみつきたいという衝動に囚われているビジネスマンも少なくない。自分の生き方、自分の生かし方がわからない日々は、あまりに心もとないのだ。確かに現在、生き方の手本を見つけるのは難しい。こんな状況下で自分を生かすための知恵としてスポットを浴びたのがエニアグラムである。エニアグラムは、二千年以上の歴史をもつ非常に神秘的な人間学だ。そしてその高度な知恵は、現在まで生き続け、現代人に譲り渡された。エニアグラムの概念を日本に初めて持ち込んだのが、シスター鈴木である。その目指すところは、人々がよりよく生き、自らの能力や個性を最大限に生かすための知恵を提供することにある。

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 ・エニアグラムについて書いた『9つの性格 すべての人は、9つのタイプに分けることができる』(PHP研究所刊、2004年)は、発売されるやすぐに大きな話題を集め、44万部を超えるベストセラーとなった。このエニアグラムは、世界各国で科学的に検証され、日米の一流企業でも神秘の人間学“エニアグラム”として人事研修にも採用されている。タイプを分ける20の質問に答えれば、あなたが、(1)完全でありたい人、(2)人の助けになりたい人、(3)成功を追い求める人、(4)特別な存在であろうとする人、(5)知識を得て観察する人、(6)安全を求め慎重に行動する人、(7)楽しさを求め行動する人、(8)強さを求め自己主張する人、(9)調和と平和を願う人、の中でどのタイプかがわかる。自分のタイプを知り、こだわりや恐れから解放されれば、自らの能力と個性を最大限に生かすことができる。さらに、相手のタイプを知り、長所と短所を見極めれば、その人に合った対応の仕方がわかり、良好な人間関係も築くことができる。まさに、新しい生き方を実現するための“人生の地図”といえるのだ。

 シスター鈴木は、まだ「マインドフルネス」という言葉が日本で知られる前から、こうしたエニアグラムの効果的な利用の仕方など、幸せを手にするためのセミナーを各地で開催し、多くの悩める人たちを救ってきた。いつに変わらぬその献身ぶりには、頭が下がるばかりだ。また、何かの機会にお会いできればと思うが、シスター鈴木はお忙しいし、僕も体が不自由なので行動範囲が制約される。だから僕の叶わぬ夢かもしれない。ただ、これだけはお伝えしておきたい。今後ますますお元気で、ご活躍をされ、多くの悩める人たちを救ってくださることを、衷心よりお願いするものである。

2017.04.26渡部昇一さん

・保守派の論客として知られた英語学者・評論家・上智大名誉教授の渡部昇一(わたなべ・しょういち)さんが、心不全のため、この4月17日に亡くなった。享年86だった。お年を召してはいたが、天皇陛下の生前退位を巡る有識者会議のメンバーとして発言されたり、お元気そうだったので僕はこの訃報にショックを受けた。僕の古巣ダイヤモンド社で、月刊誌のため数回会った。清流出版では直接、姿を拝見したのは、ビジネス茶を提唱した荒井宗羅さんの著による『和ごころで磨く』(1997年6月刊)を弊社から出させていただいたとき、出版記念パーティにゲストとしていらっしゃっていた。以来、また渡部さんと僕の付き合いが始まった。実際は金井雅行君が担当で、毎回の連載は順調であった。僕の知っている渡部さんの家は練馬区関町南だったが、金井君の話だと、2007年からは杉並区善福寺の所へ引っ越しされたそうだ。その庭に素晴らしい鯉を何匹も買っていた。渡部さんは、専門は英語学者であったが、保守本流としての歴史論、政治・社会評論活動には目を見張るものがあった。こうした評論については、保守系オピニオン系雑誌である『正論』や『諸君!』『WiLL』『voice』『致知』などのメディアへの寄稿が多かった。

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大ベストセラーとなった『知的生活の方法』(講談社刊)

・僕は渡部さんの日本の近現代史の見直し論や、歴史認識問題への発言に注目していた。物議をかもしだした発言が多い中でも、特に記憶に残るのは、盧溝橋事件は中国共産党の陰謀であるとし、戦前の学校で習った歴史の見方の方が正しかったと主張していた。また、南京大虐殺に関し、「ゲリラの捕虜などを残虐に殺してしまったことがあったのではないか、こういうゲリラに対する報復は世界史的に見て非常に残虐になりがちだ」と殺害事実は認めたものの、「ゲリラは一般市民を装った便衣兵であり、捕虜は正式なリーダーのもとに降伏しなければ捕虜とは認められない。虐殺といえるのは被害者が一般市民となった場合であり、その被害者は約40から50名。ゆえに組織的な虐殺とはいえない」とし、虐殺行為は無かったと結論づけていた。

    慰安婦問題にも言及している。朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治の偽証を朝日新聞が何度も取り上げたこと、中大・吉見義明教授の慰安婦問題捏造報道、日本の弁護士の日本政府への訴訟、日本政府の安易な謝罪などが重なったことが原因で騒動になったものであり、国家による強制や強制連行はなく、捏造であることが証明されていると主張した。これには後日談があり、2007年、アメリカ合衆国下院による慰安婦に対する 日本政府の謝罪を求める対日非難決議案(アメリカ合衆国下121号決議)に対して、日本文化チャンネル桜社長(当時)の水島総が代表を務める「慰安婦問題の歴史的真実を求める会」が作成した抗議書に賛同者の一人として署名している。

・渡部さんは、1930年、山形県鶴岡市の生まれ。上智大学大学院西洋文化研究科修士課程を経て、ドイツのミュンスター大学(ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学)大学院博士課程を修了している。専攻は英語文法史であった。1975年に刊行のウォルポール時代のイギリスを例に取りつつ、政治的腐敗が必ずしも国民の不利益につながらないことを明らかにした『腐敗の時代』(PHP研究所刊)で日本エッセイストクラブ賞を受賞。また、1976年に出版された、読書を中心にした内面の充実を求める生活を実践してきたことを背景に、さまざまなヒントとアイデアを示した『知的生活の方法』(講談社刊)が大ベストセラーとなった。

    この本の発行部数はなんと累計118万部ということで、講談社現代新書シリーズの最大ヒット作だったという。また、大島淳一というペンネームで、ジョセフ・マーフィーの成功哲学を日本に紹介したことでも知られる。主なるジョセフ・マーフィーの訳書には、『マーフィー100の成功法則 』『マーフィー 眠りながら巨富を得る―あなたをどんどん豊かにする「お金と心の法則」』『眠りながら成功する―自己暗示と潜在意識の活用』(いずれも知的生きかた文庫刊)などがある。

 交友関係では、堺屋太一・竹村健一の両氏とは交流が深く、3人で講演会を催したり共著を出版したり、『三ピン鼎談 平成日本の行方を読む』(1990年2月、太陽企画出版刊)を刊行したこともある。また、谷沢永一氏とは共に蔵書家であり、思想的に共感できることが多かったこともあり、多くの共著を出している。渡部さんはテレビでもよくお顔を拝見した。竹村健一氏との掛け合いは面白かった。「竹村健一の世相を斬る」(フジテレビ)にゲスト出演していたのが懐かしく思い出される。また、自身の番組、石原慎太郎、加藤寛、田久保忠衛、岡崎久彦といった著名人を招いての対談番組「渡部昇一の新世紀歓談」(テレビ東京)、渡部昇一の「大道無門」(日本文化チャンネル桜)もやはり対談番組で、各界の著名人を招き、歴史、政治、時事問題などを語り合うホスト役を務めておられた。

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『ワタナベ家のちょっと過剰な人びと』(海竜社)

・渡部さんは、若い頃から音楽に深い関心はなかったようだが、夫人が桐朋学園音楽科の1期生でピアニストだったこともあり、3人のお子さんが全員音楽家となっている。クラシック音楽ファンの僕には、羨ましい限りの家庭環境だ。『ワタナベ家のちょっと過剰な人びと』(2013年2月、海竜社刊)という本がある。著者の渡部玄一さんはチェリストで、渡部昇一さんのご長男だ。母親がピアニストで姉もピアニスト。弟はヴァイオリニストという家族の来し方が描かれている。玄一さんは、桐朋学園大学を卒業し、同校研究科を卒業後、1993年、米国ニューヨークのジュリアード音楽院を卒業したエリートである。

 その本によれば、渡部さんは、子どもたちに幼い頃より独特な教育を課していたらしい。一日一つの『論語』を学ぶ、百人一首の暗記、縄跳びと、始めたら一日も欠かさず続けさせられたという。そのお陰で、毎日、必ずやり切る! というパワーを叩き込まれ、どんな厳しいレッスンにもめげることなく果敢に挑戦することができたと玄一さんは述懐している。家族五人でのエディンバラでの生活は愛に満ち、家族の絆を強くしたようだ。そんな家族愛を証明するかのように、渡部昇一、渡部玄一両氏の共著で交互にエッセイを綴った『音楽のある知的生活』(PHPエル新書刊、2002年)も出している。

・該博な知識の持ち主であり、個人の蔵書では群を抜く充実ぶりでも知られた。その蔵書数は実に14万冊を超えるというから半端ではない。渡部さんは、古書の蒐集家でもあり、専門の英語学関係の洋書だけでも約1万点を所有していた。その蔵書目録だけでもA4判600ページにも及んだという。1963年、愛書家で、本のコレクターであることを原則に発足した“国際ビブリオフィル協会”があるが、1999年に日本でこの大会が開催されたのを機に、渡部さんが会長となり“日本ビブリオフィル協会”を発足させている。

 本の買い方も豪快そのものだったようだ。『知的生活の方法』の印税で懐が温かだった渡部さんは、エディンバラに滞在していた時、オークションでトラック1台分の希少本を落札したという。自宅に書庫を増設したが、居住空間を侵され始めた夫人が、「ウチには『本権』はあるのに、『人権』はないのですか!」と反対したという逸話も残されている。ちなみに蔵書数でいえば、井上ひさしさんや阪神大震災前の谷沢永一さんの蔵書は20万冊、立花隆さんは10万冊、丸山眞男さんは3万冊ともいわれている。

 日本ビブリオフィル協会会長は稀覯本コレクターで知られる渡部さんにピッタリのジャンルだが、その他に務めていた主な役職としては、インド親善協会理事長、日本財団理事、グレイトブリテン・ササカワ財団(日本財団のイギリスにおける機関)理事、野間教育財団理事、イオングループ環境財団評議員、エンゼル財団理事、「日本教育再生機構」顧問等があり、実に多岐にわたって活躍されていたことがわかる。2015年には、瑞宝中綬章を受章している。

・最後に渡部昇一さんの盟友宮崎正弘さんの弔辞から抜粋してご紹介したい。渡部さんの情の深い人間的な温もりが伝わってくる見事な弔辞である。

【振り返れば、初対面は四半世紀以上前、竹村健一氏のラジオ番組の控室だった。文化放送で「竹村健一『世相を切る』ハロー」という30分番組で、竹村さんは1ヶ月分をまとめて収録するので、スタジオには30分ごとに4人のゲストが待機するシステム、いかにも超多忙「電波怪獣」といわれた竹村さんらしいやり方だった。ある日、呼ばれて行くと、控え室で渡部氏と会った。何を喋ったか記憶はないが、英語の原書を読んでいた。僅か十分とかの待機時間を、原書と向き合って過ごす人は、この人の他に村松剛氏しか知らない。学問への取り組みが違うのである。そういえば、氏のメインは英語学で、『諸君!』誌上で英語教育論争を展開されていた頃だったか。

 その後、いろいろな場所でお目にかかり、世間話をしたが、つねに鋭角的な問題意識を携え、話題の広がりは世界的であり、歴史的であり現代から中世に、あるいは古代に遡及する、その話術はしかも山形弁訛りなので愛嬌を感じたものだった。近年は桜チャンネルの渡部昇一コーナー「大道無門」という番組があって、数回ゲスト出演したが、これも一日で二回分を収録する。休憩時に、氏はネクタイを交換した。意外に、そういうことにも気を遣う人だった。そして石平氏との結婚披露宴では、主賓挨拶、ゲストの祝辞の後、歌合戦に移るや、渡部さんは自ら登壇すると言い、ドイツ語の歌を(きっとお祝いの歌だったのだろう)を朗々と歌われた。芸達者という側面を知った。情の深い人だった。

 最後にお目にかかったのは、ことしの山本七平授賞式のパーティだったが、氏は審査委員長で、無理をおして車椅子での出席だった。「おや、具体でも悪いのですか」と、愚かな質問を発してしまった。

 訃報に接して、じつは最も印象的に思い出した氏との会話は、三島由紀夫に関してなのである。三島事件のとき、渡部さんはドイツ滞在中だった。驚天動地の驚きとともに、三島さんがじつに偉大な日本人であったことを自覚した瞬間でもあった、と語り出したのだ。渡部さんが三島に関しての文章を書かれたのを見たことがなかったので、意外な感想にちょっと驚いた記憶がふっと蘇った。三島論に夢中となって、「憂国忌」への登壇を依頼することを忘れていた。合掌。】

2017.03.28小林薫さん


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小林薫さん

・今回ご紹介する人は、あのNHKの大河ドラマ『おんな城主 直虎』に出演中のベテラン俳優・小林薫さんではなく、同姓同名の国際経営評論家・産能大学名誉教授の小林薫さんだ。1931年、東京生まれ。東京大学法学部を卒業し、フルブライト・プログラムでマンハッタン大学に留学、経営学を学んだ。興亜石油、日本能率協会から月刊誌『プレジデント』(1963年創刊、ダイヤモンド・タイム社=当時、現在プレジデント社)の編集部に所属、日米会話学院(同時通訳科、秘書科主任)を経て、産能大学経営情報学部教授になった。専門は国際経営評論であり、ピーター・F・ドラッカー博士に関しては特にお詳しい。僕はダイヤモンド社に勤めていたが、その子会社であるダイヤモンド・タイム社に勤めていた小林さんとは、仕事上の接点があった。後で触れるが、二十代後半の頃、年齢で9歳上だった小林さんと、さる会場で講師を務めたことがある。

・今、小林さんに注目したのには訳がある。先日(3月16日)、日本経済新聞(日経BP社)に、小林薫訳の『ハイアウトプット マネジメント HIGHOUTPUT MANAGEMENT――人を育て、成果を最大にするマネジメント』(アンドリュー・S・グローブ著)という本が半五段広告で大きく告知されていたのだ。調べてみると、amazon第1位(ビジネス・経済 実践経営・リーダーシップ 経営学 2017年3月14日)にランキングされていた。インテルの元CEOのアンドリュー・S・グローブが書いた本である。あのドラッガーも絶賛していたが、シリコンバレーのトップ経営者層に読み継がれている伝説の名著だ。ベン・ホロウィッツ(あらゆる困難《ハード・シングス》へ立ち向かう人に知恵と勇を与える本『HARD THINGS』の著者)が、「世界最高の教師による 世界最高の経営書だ」と序文を寄せている。そんな広告のキャッチ・コピーが僕の目に飛び込んできて、僕はとても嬉しかった。小林さんは僕が兄事すべき存在だったからだ。

・小林さんは英語にすこぶる堪能であり、当時、英語でビジネスを語る際には、必ずといっていいほど名前が挙げられる方であった。現に『プレジデント』を辞めた後、NHK教育テレビで「英語ビジネスワールド」の講師として、また同じNHK教育テレビで「英語で勝負」にも出演されている。その「英語で勝負」の内容は、英語交渉術のABC(日本の「常識」は「非常識」)に始まり、交渉の前提としての自己主張のあり方、クレームという名の交渉法、子供はなぜ交渉上手か? Win/Win交渉への道、前向き交渉成功のカギ、人も歩けば客に当たる、雄弁こそ金なり――「会して議する」ビジネス会議等々、ビジネスマンのニーズに応える内容満載の番組だった。

    アメリカのASTD(American Society for Training & Development=米国人材開発機構)は非営利団体で、訓練・人材開発・パフォーマンスに関する世界最大級の会員制組織だったが、日本人として小林さんは早くも1981年に入会されている。その他にも、ドラッカー学会、国際ビジネス研究会、組織学会、米国教育訓練学会、欧州経営開発学会などに所属し、米国経営近代化学会(SAM)国際理事兼日本支部長、人材育成学会副会長などを務めていた。また、P・F・ドラッカーとは約50年に及ぶ親交を結び、ダイヤモンド社から刊行されたドラッカーの『21世紀の企業経営』(ビデオ8巻+解説書)の総監修や、『経営の新次元』『新しい経営行動の探求』などの訳出も行なっている。

・弊社でも、外国版権担当顧問の斎藤勝義(元ダイヤモンド社)さんを通じて小林さんとコンタクトを取ることにした。小林さんとP・F・ドラッカーの自宅を訪問し、アメリカのブックフェアでも行動を共にし、親交があった斎藤さんを介して、単行本の執筆をお願いしたのだ。結果的に、弊社から小林さんの翻訳で経営書を二冊と、産能大学教授の退官を記念して一冊本を書き下ろしていただいた。若い頃から僕が憧れた小林薫さん。その小林さんの本を、弊社から刊行できたことは、嬉しかった。

    そもそも弊社の単行本部門は、ビジネス分野をメインとはしていなかった。しかし、企業(ビジネス)倫理を追究する本は時代の要請でもあり、刊行することにしたのだ。最初の翻訳本は、『企業倫理の力――逆境の時こそ生きてくるモラル』(K.ブランチャード+N.V.ピール、2000年)だった。この本は、企業は利潤追求を優先すべきなのか、ビジネス倫理を重視すべきなのか。また、利潤追求とビジネス倫理は両立できるのかなど、企業倫理について考える実践書として秀逸だった。もう一冊は、『一度の人生だから――自分でデザインする生き方』(ロバート・オーブレー、2001年)。後悔しない人生を送るために、世界の知性が語った人生の奥義を披露したものである。この訳書には、小林さんが訳者補論として「空恐ろしくなるこれからのキャリア革命」(変化していく社会で、学ぶため、生きるために、学習することを学習する)について特別に論じている。

    退官記念に出した本は、『世界の経営思想家たち――ピーター・F・ドラッカーほか三十余人』(小林薫著、2005年)である。世界の経営思想を訳出してきた小林さんなればこその内容で、世界の経営学を俯瞰するとともに、そうした経営理論を日本がどう取り入れながら経済発展してきたかが一望できる構成となっていた。わけてもドラッカーとの交流歴をベースにしたまとめが素晴らしい。用意周到な小林さんらしく、脱稿直前にクレアモント(ロスの郊外)のご自宅に伺って、95歳の恩師ドラッカーと打ち合わせを済ませてきたという。

・詳しく説明すると、基本的には、日本的経営が世界から何を学び、どこへ向かおうとしているのかを追究したもの。世界の経営思想を見てきて、数多くの先進的な世界の経営思想を日本に紹介したが、その中から厳選した三十余名の欧米の学者、思想家、経営者たちの理論、概念などのエッセンスを浮き彫りにした。小林さんによると「読める小エンサイクロペディア・グロサリー」を狙った企画だ。特に「恩師」と仰ぐP・F・ドラッカー、グローバル経営コンサルタントである畏友スティーブン・H・ラインスミス(全米人材開発機構会長)、フランスを中心に活躍する国際的経営教育コンサルタントのボブ(ロバート)・オーブレーなどの理論、概念、ビジネスモデルなど、詳しく述べている。

    章立ては全9章から構成。著者は本書を通し、日本経済や経営システムの見直しや、革新が迫られている今日、これまでの理論や技法を振り返り、評価し、取捨選択し、次に進むべき方向を模索するための「新たなきっかけ」になることを願っていた。その意味で、期待に十分応える一冊であったといえよう。 


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『世界の経営思想家たち――ピーター・F・ドラッカーほか三十余人』


・小林薫さんの翻訳書は、目ぼしいものでは、『1分間マネジャー』(ダイヤモンド社)、『タバコ・ウォーズ』(早川書房)、『苦手な英語に自信がつく本』(ジャパン・タイムズ)、『問題解決と意思決定』(ダイヤモンド社)、『英語通訳の勘所』(丸善)、『ドラッカーが語るリーダーの心得』(青春出版社)、『会社の数字―英語表現完全マスター』(アスク)、『ビジネス英語の落とし穴』(丸善)、『知力創造社会』(産能大学出版部)などがある。

    冒頭の『1分間マネジャー ―‐何を示し、どう褒め、どう叱るか!』(K.ブランチャード著、ダイヤモンド社、1983年)は、発売と同時に、ベストセラーになって、多くのビジネスマンに読まれた。普通、「有能なマネジャー」は大抵、業績に関心を持つ「タフな独裁者」か、部下に関心を持つ「ナイスな民主主義者」のいずれかだが、どちらも失格である。「有能なマネジャー」とは、自分自身を管理し、一緒に働く人も管理し、組織や同僚にとって存在そのものが利益になるような存在でなければならないと言う。

    そして、「有能なマネジャー」に代わるものとして新しい概念を提案した。すなわち新概念の「1分間マネジャー」とは、部下から大きな成果を引き出すのに、ごくわずかな時間しかかけない。週1回のミーティングで、前週の実績、翌週の計画を確認する以外に時間を割かない。部下の仕事をよく分析して「1分間の目標設定」「1分間の称賛」「1分間の叱責」の3つを行なう。

    著者と訳者の小林さんとの相乗効果で、この1分間シリーズは、続編が誕生した。『1分間マネジャー 実践法――人を活かし成果を上げる現場学』(1984年)、『1分間リーダーシップ――能力とヤル気に即した4つの実践指導法』(1985年)、『1分間顧客サービス――熱狂的ファンをつくる3つの秘訣』(1994年)。最後の本だけは、僕のよく知っている門田美鈴(『チーズはどこへ消えた?』の訳者)さんの翻訳だったが、他はすべて小林薫さんの訳出で刊行されたものだった。


・話は変わるが、約50年前(僕がまだ二十代の後半)、僕はダイヤモンド社で、全子会社10社を含めた幹部社員を集めたコンベンションの演壇に立ったことがある。会場は千鳥ヶ淵の「フェアモントホテル」であった。たまたま僕の前に小林薫さんが講師として話をされた。小林さんは得意の英語を織り交ぜ、経営学の最前線の現状を披露された。僕が話したテーマは、「フランスの出版事情と高価格雑誌の可能性」だった。フランスの『レアリテ』誌や英米の高価格雑誌を研究する僕にとって得意なテーマだった。それにしても今にして思えば、子会社10社を含めた幹部クラス約80名の前で、まだ二十代のヒラ社員だった僕に発表の場が与えられたのは異例であった。子会社の『プレジデント』誌を出すダイヤモンド・タイム社の精鋭だった小林薫さんは、実に堂々と話をされたのを覚えている。僕もクソ度胸で話をしたが、いい思い出である。それから30年ほど経った56歳の時、僕は週5日、清流出版社長としてこの「フェアモントホテル」を定宿にしていたが、脳出血に倒れてしまった。あまりも一国一城を預かる身として、情けない! 「フェアモントホテル」は千鳥ヶ淵にあり、桜のシーズンには格好のお花見スポットとして知られたものだ。そのホテルも2002年、創業から約半世紀を経てホテルとしての使命を終えた。今は豪華マンションになっている。

 

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清流出版を訪れた小林薫さんと

・弊社の海外版権担当顧問(元ダイヤモンド社)の斎藤勝義さんは、小林薫さんとはドラッカーのつながりで長い付き合いだ。お二人の年齢は、現在、斎藤さんが83歳、小林さんが86歳。ダイヤモンド社の傍系で株式会社ポートエムPort EM [Port of Effective Management ] (代表取締役・国永秀男)という会社がある。この会社は、東京と大阪でドラッカー塾を開講している。P・F・ドラッカー教授の卓抜したマネジメント理論を企業経営にどう活かせばよいか、最終決定権のあるトップリーダーが身につけるべきマネジメントの真髄を徹底的に学ぶというのがコンセプト。それぞれのコースにおいて、膨大なP.F.ドラッカーの経営論の中でも、 核となる理論を捉え、分かり易く解説すると共に、実践の場では、どのような視点で考え、適用していくことができるのかを、具体的な事例をまじえて学ぶことになる。この会社のアドバイザーとして名を連ねていたのが、小林薫さん、斎藤勝義さん、上田惇生(ものつくり大学名誉教授、立命館大学客員教授、ドラッカー学会代表)さんの3人であった。

    ここからは、斎藤勝義さんから聞いた話をかいつまんでお伝えする――実は小林さんから斎藤さんに、ドラッカー研究をしている優秀なゼミ生3人をドラッカー博士に引き合わせたいのでアレンジしてくれませんか、との依頼があったのだという。それに加えて、前述したドラッカー塾の主宰者ポートエム社長の国永秀男さんからも、ドラッカー塾で討議された理論上の疑問点を直接尋ねたいとのことで、斎藤さんが日程のアレンジを託された。斎藤さんは、ファクスと電話でやりとりして日程を調整、最終的に2004年5月28日にアメリカ、クレアモントにあるP・F・ドラッカー博士のご自宅を訪問することが決まった。一行は小林さんグループが生徒を含めて4人、国永さんがご夫妻でということで、斎藤さんを含め7人での訪問となった。その日は気持ちよく晴れわたり、ドラッカー夫妻も温かく一行を出迎えてくれた。10時半から12時近くまで、和気あいあいとした雰囲気の中で疑問点を解決し、歓談してドラッカー宅を辞した。

    その後、一行はワイナリーなどを見学したりして、小林さん、斎藤さん、国永夫妻は夕方にはロサンゼルスの「ホテルニューオータニ」に戻った。ビールやワインを飲みながらの反省会は、大いに盛り上がったという。斎藤さんと国永さん夫妻は、翌日、朝9時半にはハリウッド見学に出かける予定であった。小林さんはというと、翌日、東京でのアポイントが入っているというので、朝8時半に迎えの車を手配して、その日のうちに日本に発つ予定だった。そして次の日の朝7時頃、斎藤さんと小林さんは一緒に日本食での朝食を済ませ、小林さんは8時10分にはロビーに降りると斎藤さんに伝えて部屋に戻った。斎藤さんと国永さんは、見送りだけでもしようと8時にはロビーに降りて待っていた。ところが約束の8時10分を過ぎ、30分になって、迎えの車も来ているのに、小林さんが一向に降りてこない。小林さんは時間に厳格な人で知られ、余程のことでもない限り遅れることなどない。

    そこでホテルのマネジャーを呼んで、小林さんの部屋をあけて調べてもらったところ、ドアの近くに身支度を済ませ、荷物も準備したままの格好で、小林さんが倒れていたというのだ。一目見て、脳梗塞か脳出血かが疑われた。手だけを動かして小林さんは、何かを伝えようとしていたが、その何かは分からなかった。これからが大変だった。時間との勝負になるからだ。至急、ホテルマンに救急車の手配を頼むとともに、日本の小林さんの家族にも連絡しなければならない。10分ほどで救急車が到着した。斎藤さんと国永さん夫妻は、その後の日程を変更し、ロスの病院まで同乗して行くことになった。アメリカの場合は、救急車といえども誰が支払いをするのかをはっきりさせ、サインしてからでないと動かない。「LAC+USC メディカルセンター」に到着してすぐに、専門医が診察をした。斎藤さんは付き添い、国永さんは旅行保険関係の問い合わせをする――。

    ご子息の小林豊さんが日本から駆け付けたのが翌日のこと。小林さんは病状が安定してくると、日本で治療して欲しいと切望するようになった。しかし、医師からは看護師が付き添いでなければだめだという。家族が手を尽くすも、同乗してくれる看護師の手配はつかず、アメリカでの入院は3週間にも及んだ。看護師をなんとか手配でき、受け入れ病院も聖路加に決まると、飛行機への搭乗が許され、ようやく日本の地を踏んだのである。小林さんは、リハビリ施設として一級の病院を選んだ。長嶋監督が入院したことで知られる「初台リハビリテーション病院」等でリハビリに精を出した。
 
    小林薫さんが一度、杖を突きながら弊社を訪ねてきたことがある。その時、僕が乗っていた電動車椅子を、興味津々の表情で見ておられたのを覚えている。

 そして今年、2017年、2月に入ってすぐのこと、斎藤さんはご子息の小林豊さんから衝撃の連絡をうけた。小林薫さんがお正月の1月1日に亡くなっていたことを知らされたのだ。小林さんは、1歳の孫娘に「明けましておめでとう」を言ったあと、上機嫌で食事をしている最中、かまぼこを喉に詰まらせて亡くなったのだという。僕と小林さんは同じように半身不随になり、同じようにリハビリをしてきたが、まさか喉に物を詰まらせて亡くなられるとは……。なんともやりきれない気持ちだけが残った。もう少し、お互い若かりし頃の話もしたかったし、ドラッカー博士から学んだことについて話もしたかった。残念としかいいようがない。衷心より、ご冥福をお祈りしたい。

2017.02.24藤島泰輔さん

 

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ポール・ボネ、この外国人は誰? と当時は騒がれた! 実は作家・評論家、藤島泰輔(ジャニーズ事務所副社長メリー喜多川の夫)さんのペン・ネームだ。今は、ようやく堂々と言える。僕の大好きなポール・ボネ、いや藤島泰輔さん!

 

 

・僕は自分の人生を振り返って、つくづく「僕は凡人だったが、周りの人には恵まれていた」との意を強くする。大学時代は、フランス文学者の山内義雄先生の薫陶を受けた。また、今でも僕が一番尊敬する椎名其二先生の謦咳に接することもできた。在仏40年の椎名其二先生が日本へ一時帰国された時、直にフランス語や何が人生にとって大事かを教えてくださったのだ。このお二人とお近づきになれたのは、僕が大学生になったばかりの18歳のころだ。お二人はもう70歳に近かったはず。いまにして思えば、奇跡のような出会いだったというしかない。また、大学の部活では、下懸宝生流(ワキ宝生)能楽師の宝生弥一師、宝生閑師の両人間国宝から謡を習った。夏目漱石さんが幸運にも同流を学んでいたお蔭で漱石の門下生である安倍能成、野上豊一郎、野上弥生子、服部嘉香の各氏とも交流することができた。卒業後は、経済雑誌の老舗の一つ、ダイヤモンド社に入り、取材記者を皮切りに雑誌部門や出版局も経験し、出版業界一筋に歩いてきた。その間、石山賢吉、荒畑寒村、星野直樹各氏と幸運にもお近づきになれた。左翼、右翼と関係なく、幅広い人脈が僕の前に現れた。また、雑誌の取材や原稿依頼、単行本企画などで、多くの著名な方々にお会いする機会を得た。今でも思い浮かぶ。まだ立教大学助教授で新進気鋭の文学者だった辻邦生さん、大宅マスコミ塾のメンバーだった草柳大蔵さんに初めてお目にかかったのも記憶に新しい。草柳さんは、週刊誌のアンカーマンとして八面六臂のご活躍をされていた。その後、僕は51歳でダイヤモンド社を定年前に退社し、紆余曲折があった末に、清流出版を創業した。その小さな出版社も、すでに創業以来、20数年という時を経ている。実に半世紀以上にわたり出版界でお世話になった。お会いした方の中にはすでに鬼籍に入られた方も多い。現代の日本は羅針盤がない漂流船のようなもの。さまざまな案件が山積していて、先が見通せない状況だ。そこで泉下にある人に、今もし、生きておられたらどんなお考えをお持ちか、ご意見を拝聴できないかと夢想したものだ。

そのお一人が藤島泰輔(1997年没。享年64)さんだ。藤島さんは僕にとって、よきアドバイザーであり、著者でもあった。大変な慧眼の持ち主で、特に時代を見通す透徹した目は感嘆したもの。今、国会で審議され話題になっている天皇の生前退位問題、これについても藤島さんならどんなご意見をお持ちなのか、是非訊いてみたい気がする。藤島さんは、今上天皇(第125代天皇)のご学友の一人。学習院の高等科時代に、皇太子(当時)と「ご学友」を題材にした小説『孤獨の人』三笠書房、1956年)を書いて、作家デビューを果たした。三島由紀夫氏は藤島さんの8歳ほど年長で、学習院の先輩後輩で親しかったこともあり、『孤獨の人』について序文を寄せている。その序文で三島由紀夫氏は、『孤獨の人』を評して「うますぎて心配なほど」と書いてその文才ぶりを激賞している。同作品は、映画化(日活、監督:西河克己、1957年)もされ、当時大きな話題となった。


 

 

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岩波書店刊――(『孤獨の人』は三笠書房刊、文春ネスコ刊、読売新聞社刊、岩波現代文庫刊と数々の出版社から何回にかけて刊行された)

 

・「お言葉」で今上天皇は、生前退位(譲位)の意向を強くにじませた。即位後、日々、天皇として望ましい在り方を模索して今日に至ったが、高齢になったため、全身全霊で象徴としての務めを果たしていくことが難しくなってきた。その理解を国民に求めたものだった。昭和天皇が1989年崩御(宝算87年)され、平成天皇が昭和天皇より年齢上、上回ることが時間の問題となっている。「孤獨な人」を皇太子時代から最近までを見てきた藤島さんが、天上から腹蔵なく語ってくれたら、どんなにスッキリするだろう。かつて、三島由紀夫氏から藤島さんは、「君は皇太子の友だちなんだから直接、意見してきたらどうか」と度々からかわれていたという。今、生きていたら、正直、どのような発言をしただろうか。藤島さんなら歯に衣着せぬ筆致で論じると思う。学友意識を超え、直言する姿を見たい気がする。

・藤島さんにお訊きしたいことが他にもある。再婚についてである。メリー喜多川さんが再婚相手だが、このメリー喜多川さんが芸能界を揺るがす事件の関係者となる。藤島さんは1963(昭和38)年、高浜虚子の孫娘・朋子さんと結婚し、結婚当初は朋子さんと円満に暮らしていた。ところがその後、藤島さんはメリー喜多川(本名・藤島メリー泰子、現在89歳、当時52歳)さんと内縁関係となり、再婚する。そして、メリー喜多川さんは藤島泰輔さんとの間に藤島ジュリー景子さんをもうけた。このジュリー景子さんが次期社長候補らしい。今や売上高700億円を超える巨大な“ジャニーズ帝国”。この帝国をどのような手法で運営していったらいいのか、藤島さんなら妙案が浮かびそうだ。その裏付けもある。「ジャニーズ事務所は、藤島泰輔というビッグな人物を取り込んだのが最大の成果だ」と言う噂があったほどだからだ。資産家でもあった藤島さんは、長年、長者番付の常連であった。だから草創期にあったジャニーズ事務所を経済的にバックアップし、マスコミ・政財界関係者など知己も紹介、ジャニー喜多川社長(現在85歳)の人脈拡大に貢献したと言われる。

・現在、長女・藤島ジュリー景子(現在50歳)さんはジャニーズ事務所副社長兼ジェイ・ストーム社長の肩書を持っている。メリー喜多川・ジャニー喜多川の姉弟は、ゆくゆくは藤島ジュリー景子さんに会社経営をバトンタッチしたい意向。しかし思惑通りに進むかどうかは不明だ。景子さんは、2004(平成16)年に芸能界とは無関係の一般男性と結婚し、藤島夫妻の孫となる女児を出産している。そして、僕が思い出すのは、港区六本木鳥居坂のマンション(正確には芋洗坂のふもと通り沿い。同マンション内に部屋を3つ保有していた)へ原稿を貰いに行くと、当時中学か高校生くらいだった藤島ジュリー景子さんが、英語でペラペラと父親の藤島さんに頼みごとをしているのを見かけたものだ。天皇陛下生前退位(譲位)の件でも、ジャニーズ事務所の件でも、長いお付き合いの結果から断言できる。藤島さんなら、きっと妙案を考えつくはずだ、と……。藤島さんは、1996年に食道癌の告知を受け、翌1997628日に都内病院で逝去した。 最後まで娘・ジュリーのことを気にしており、最期の言葉は「早く結婚するよう言ってくれ」だったという。 尚、藤島泰輔氏の著作の権利は、娘のジュリーさんが継承した。

・ここで、藤島泰輔さんのプロフィールについて触れておく。1933年の生まれで、97年に逝去。享年64である。職業は小説家、評論家だった。所属するテリトリーは日本文藝家協会、日本ペンクラブ、日本放送作家協会、アメリカ学会の各会員。日本銀行監事藤島敏男・孝子夫妻の長男として東京市に生まれ、祖父(藤島範平氏)は日本郵船の専務取締役だった。一族から福澤諭吉や岩崎弥太郎以降、有名な政治家、財界人、学者を輩出した、名門中の名門である。父君の敏男さんは、一高旅行部から登山に親しみ、日銀パリ駐在員だった昭和10年から3年間はアルプスの山々に登った。登山は趣味の域をはるかに超え、日本山岳会名誉会員となった。また終戦直後、藤島さんは父君と日本銀行に数ヵ月寝泊まりしたというが、普通の人がしようにもできないユニークな体験である。父君は東京帝大法学部卒だったが、藤島さんは初等科から大学まで学習院に学んだ。今上天皇のご学友で、共にエリザベス・ヴァイニング夫人の教育を受けている。1955(昭和30)年、学習院大学政経学部卒業後、東京新聞に入社、社会部記者となる。その後東京新聞を退社し、作家専業となっている。

・作家として、海外生活を題材にしたエッセイ・旅行記など多数の著作を発表。また社会評論家としても活動した。評論家としては大宅壮一の門下生である。右派・保守系の論陣を張り、『文藝春秋』や『諸君!』などに論考を寄稿。左派・リベラル系が多かった大宅壮一門下の評論家グループの中では異色の存在であった。1970(昭和45)年、エベレスト・スキー隊総本部長としてヒマラヤ山脈遠征。1971(昭和46)年、内妻・長女とともにアメリカ・フロリダ州に移住し、アメリカ生活を体験。1972(昭和47)年、高浜虚子の孫娘・朋子さんと正式に離婚後、メリー喜多川さんと再婚したのは前述した通り。実に華麗な出自と経歴であり、稀有な存在だと思う。

・唯一、参議院選挙に立候補落選したのが、藤島さんの汚点と言えば言える。1977年、第11回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補。 新日本宗教団体連合会関連諸団体の推薦を取り付けるなどして188387票を獲得した。 法定得票数に達したものの66位で落選したのだ。その選挙には、僕の畏友である井口順雄(元日本旅行作家協会事務局長)さん、宮崎正弘(評論家、作家)さんもスタッフとして加わっていたが、いかんせん得票数が今一つ伸びなかった。

・僕は、1980年、ダイヤモンド社の雑誌部門から出版局へ転属し、藤島泰輔さんの編集担当となった。フランス・パリでの生活体験を元に「在日フランス人、ポール・ボネ」名義で著した『不思議の国ニッポン』シリーズの単行本を編集出版する仕事だった。多分、僕が20代の頃、パリに住んでいたことが勘案されたのではないだろうか。藤島さんとは馬が合うはずという出版局幹部の読みは当たった。僕は藤島さんと毎回相談して、この単行本シリーズを「外国人が書くニッポン論」にさせた。イラストはクロイワ・カズさんに頼んだ。「ポール・ボネとは何者ぞ」という噂が流れたが、箝口令を敷いていたので関係者以外誰も知らなかった。このシリーズは、刊行するたび、増刷に次ぐ増刷である。文字通り、笑いが止まらなかった。そして、新刊が刊行されて4年後に、すべて角川書店で文庫化する契約がなされた。僕が担当している間、多分、角川書店から文庫シリーズとしてトータル500万部以上は売れたはずだ。これだけの部数の3(=印税)だから、出版社=ダイヤモンド社の取り分も大きかったはず。まさに濡れ手に粟の状態だった。


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爆発的に売れた『不思議の国ニッポン』シリーズ

・僕は、ダイヤモンド社を1992年初頭に辞めたが、その間、16冊の『不思議の国ニッポン』シリーズを刊行した。思い出すのは、当初、六本木鳥居坂のマンションで原稿の遣り取りをしていたのが、数年経つと、藤島さんはホテルを定宿に替えた。最初はホテルオークラ、後にホテルニューオータニのスイートルームとなる。豪勢な生活だった。当時、最新のCNN海外ニュースや映画『ルートヴィヒ』(ルキノ・ヴィスコンティ監督)など、藤島さんはいつも最新の話題を提供してくれた。仕事に関係のない話題でいつも盛り上がった。毎月の原稿受け渡しを済ますと、僕もホテル・ライフを楽しませてもらった。若かった僕は、高級洋酒やシガー(非キューバ葉巻の中での最高級ブランドで知られるダビドフが多かった)の洗礼を受けた。もちろん、高級洋酒のおつまみとして、珍味のチーズや雲丹、牡蠣などをよくいただいた。

・藤島さんはその後、有り余る金でパリ16区(高級住宅地)に豪邸を手に入れた。「部屋はいくつもあるから、パリに来てもホテルに泊まる必要はないからね……」とよく言っていた。その豪邸を訪ねたことはなかったが、生意気なことに僕も、シャイヨ国立劇場やトロカデロ庭園のすぐ近く、パリ16区のマンションに住んだことがある。そのマンションには、かつてカトリーヌ・ドヌーブが賃貸で借りていたと噂さがあった。つくづく20代の僕も贅沢生活を楽しんだものだ。その後、藤島さんの住まいは、元NHKの花形ニュースキャスター磯村尚徳さんが日本文化会館初代館長になった際、リースされることになった。その話は直木賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞作家・深田祐介さんも知っていて、お会いした時にこの話で盛り上がったことが懐かしい。深田さんとは人脈も重なるし、同じ身体障害者の一級同士ということで話が弾んだものだ。その深田さんも今や泉下の客となってしまった。

・ある時、藤島さんが、「加登屋さん、僕は一応、作家・評論家ということになっているが、周囲の皆は、藤島は本を出していない、唄を忘れたカナリヤだといっている。本当は、毎日せっせと、それもベストセラーを書いている。『ポール・ボネは、実は僕なんだ』と何度も告白したい気持ちになる。だからポール・ボネ以外の作品を書くのはいいストレス発散になる。作家として嬉しいし、ぜひ何か仕事を考えて欲しい」とおっしゃった。

その結果、生まれたのが、『中流からの脱出――新しいステータスを求めて』(藤島泰輔著、ダイヤモンド社刊、1986年)である。「1億総中流意識」の時代に贈る、現代日本社会の新クラース〈階級〉論と謳って刊行された。巻末で、「幻想の中流意識」をめぐって、山本夏彦さんと藤島さんの対談を掲載した。大衆社会とスポーツ、ゴルフ人口とゴルフ場の急増、戦前の高級住宅地、現代の1等地と昔の別荘地、自宅に客を招かない事情、郊外の1戸建てか都心の高級マンションか、総中流社会の苛酷な現実、社交クラブ、ロータリークラブ、ヘルスクラブ、皇室と王室、食通と教養、“違いのわかる中流”を阻むものなど、現代日本を俯瞰してみても、違和感がないほど斬新な内容だった。


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・また、次々と分厚い翻訳ものも刊行した。まず『ウルトラ・リッチ―超富豪たちの素顔・価値観・役割』(V.パッカード著、藤島泰輔訳、ダイヤモンド社刊、1990)という本で、アメリカ社会を変える超大金持ちたちの実像に迫ったもの。彼らは資産をどう形成したのか? その生活と哲学は? そして驚くべき彼らの節税法等々……。日本人にも興味深い話題が満載されていた。あのV.パッカードがウルトラ・リッチの実態に鋭く迫った力作だった。この本は458ページの分厚いハードカバーで発売された。

 

 

 


 

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・次は、『名画の経済学――美術市場を支配する経済原理』(ウィリアム・D・グランプ著、藤島泰輔訳、ダイヤモンド社刊、1991年)を刊行した。原題は、『PRICING THE PRICELESS――ArtArtistsEconomics(高価なものの値付け――芸術、芸術家、経済)』。新古典派経済学のリテラシーを用い、芸術作品を財として考え、買われる人、買う人、そして価値付けに参加する人のあらましを説明しながら、財としての美術品が置かれる美術館、その財を生み出す芸術家の経済的な自立をテーマにした。この本も581ページという大著。いまでも頷ける内容だった。いずれの本も藤島さんは大いに楽しんで訳出したものだ。

 


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・最後に、藤島さんが入れ込んだ競馬趣味についてお話しておきたい。ある時、藤島さんが中央競馬会の勧めで馬主になった。その馬が、なんと単行本のベストセラーの印税なみに稼ぐことになる。馬の名前は「ランニングフリー」。19859月、中山競馬場でデビューを果たすと、順調に勝ち抜いて、オープン馬となり、春の“天皇賞”では13番人気ながらタマモクロスに次ぐ2着となった。そのお蔭で皇太子ご夫妻(当時、今上天皇)も府中の競馬場へ足を運ばれた。皇室と競馬を引き合いにした藤島さんの得意の作戦だ。また、ランニングフリーは7歳時には“アメリカジョッキークラブカップ”“日経賞”とG2を2連勝するなど大活躍した。僕も3回ぐらい、ホテルオークラで行なわれた祝勝会に呼ばれ祝杯を挙げたことがある。僕が電話投票で今も競馬を楽しめるのも、その席で藤島さんが農林省の次官殿に頼んで入れてもらったからだ。祝宴会場で競馬の神様・大川慶次郎さんにもお会いし、得難い会話を楽しんだこともいい思い出だ。

・藤島さんは、4億円稼いだランニングフリーだけではない。所有馬の中には、ジャニーズ事務所のアイドルグループ「光 GENJI」からの命名で「ヒカルゲンジ」という馬もいた。持ち馬の話を単行本化するに当たり、ダイヤモンド社で出すのは、さすがに差し控えた。その本の刊行に加瀬昌男社長が手を挙げ、草思社からの出版となった。『馬主の愉しみ ランニングフリーと私』(草思社刊、1991年)がそれ。加瀬さんがアパレル会社の利益で草思社の赤字を補填され、苦労されたが、僕は無謀にもダイヤモンド社を辞めようか、どうしようか悩んでいた。結局、1993年、紆余曲折があり、加登屋事務所から清流出版を立ち上げていた。まあ、僕の懐古話はそれほど皆さんの興味を引かないだろうから、この辺で筆をおく。それにしても、藤島泰輔さんは、僕にとって余人をもって代えがたい傑物であったことは認めておきたい。

 

2017.01.24徳岡孝夫さん

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埼玉大学名誉教授、国語学者の山口仲美さん


後白河天皇の皇女。賀茂神社の斎院になった。斎院は神に捧ぐるため、身は清浄でなければならず、恋は許されない立場である。「忍ぶ恋」の激しさと不安感を詠んだ歌として、山口さんは紹介された。


・第三回は、サブタイトル「キャリア系・清少納言の恋愛事情」。冒頭に、紫式部、清少納言、和泉式部、道綱母の四人の女子力タイプを掲げ、チャート図を描き、明るい、暗い、男っぽい、女っぽいに分けて説明された。山口さんらしいアイデアと機知に富んだ分析だ。

  チャート図でいえば、男っぽいと陰性の紫式部(オクテで地味な妄想女子)は、さしずめ、出演者でいうと大久保佳代子さん。男っぽいと陽性の清少納言(ウィットに富んだキャリアウーマン)が山口仲美さん。女っぽいと陰性が道綱母(美人でプライドが高いセレブ妻)で壇蜜さん。女っぽいと陽性は和泉式部(恋多き魔性の女)と分析し、それぞれ女子力タイプを解説した。それにしても、男性ホルモンのテストステロンや神経伝達物質のドーパミンの多寡を、平安女性に当てはめるという発想がユニーク。ドーパミンが多いと「アウトドア派」、少ないと「インドア派」である。


「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも

  よに逢坂の 関はゆるさじ」――清少納言

(夜が明けないうちに、鶏の鳴き声でだまそうとしても、函谷関の関ならともかく、逢坂の関はそうはゆきますまい。わたし、あなたとは決して逢わないわよ)


  清少納言の才気煥発ぶりが如実に現れた歌だ。漢詩文の素養を武器に男友達の誘いを、魅力的に断った歌である。一条天皇の中宮定子に仕え、その博学さで定子の恩寵を受けた清少納言の、清少納言らしさが出た歌。「逢坂の関」は「逢う」という言葉から男女関係を持つという意味を含むと、山口さんは解説された。


・第三回までの、「恋する百人一首」の展開と内容、歌を簡単にかいつまんで書いてみた。僕の下手なまとめ方では、登場された百人一首を詠んだ歌仙もご不満であろう。山口さんも、同じような感想を持っているにちがいない。だから、今後は「テーマ」と「サブタイトル」と代表的な歌だけで、各回をおさらいしてみようと思う。


・第四回は、サブタイトル「モテ女・和泉式部に学ぶ魔性テク大研究」。和泉式部は男性を惹き寄せる力の強い歌を詠んだ女性。一条天皇の中宮彰子に女房として出仕されたが、とくに身分の高い男性との恋愛に命をかけたことが分かる。


「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に

  今ひとたびの 逢ふこともがな」――和泉式部

(わたしはもうすぐ死んであの世に行くかもしれません。思い出にせめてもう一度だけあなたにお逢いしたい!)


  真に迫る切実さをもっている歌で、平易なレトリックも使わずに心情を吐露し、相手の心をぐっと摑むところにこの歌の特色があると山口さんは言う。


・第五回は、サブタイトル「女の分かれ道 セレブ美人妻・道綱母」。女性にとって、もっともつらく許せないのが恋人や夫の浮気である。それは平安時代も同じだった。右大将道綱母は類まれな美貌を誇り、歌才もあったが、人一倍強い自尊心の持ち主だった。夫がほかの女性のところに通っているのを知ると、猛然と夫に対抗する。和歌に託し、


「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は

  いかに久しき ものとかは知る」――右大将道綱母

(あなたが来ないのを嘆き嘆きしながら、一人で寝る夜が明けるまで、どれほど長いかご存じでしょうか。いや、おわかりにはなりますまい)


  本朝三美人に数えられるほどの美貌で、歌才もある方で、「一夫一妻多妾制」の平安時代に、現代のような「一夫一妻制」の時代にのみ可能なかたちを求め続けた道綱母の歌に嫉妬心の凝縮を見た思いがする。


・第六回は、サブタイトル「オクテな地味女・紫式部」。紫式部は、恋の歌は少なく、恋愛の実体験があまり豊かではなかったと察せられた。紫式部は年の離れた男性と結婚し、夫と死別するまで幸せな家庭を築いている。いわば良妻賢母型の女性であった。


「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に

  雲隠れにし 夜半の月かな」――紫式部

(幼友達と偶然会って、その人かどうか見分けがつかないうちに、雲間に隠れてしまった夜半の月のように、あの人はあわただしく姿を隠してしまったことですよ)


  紫式部は藤原道長の娘・彰子のもとに出仕する。女の友情を詠んだ歌を紹介した。幼友達に偶然再会し、その状況を、その夜の月の情景に重ね合わせている。また、紫式部は内面に強い自負心があり、後宮で活躍している清少納言や和泉式部の悪口を日記に記している。


・第七回は、サブタイトル「はじめよう! 恋する心の伝え方」。和歌はそもそも思いを伝える手紙との役割を持っていた。まず、恋をスタートさせるには、恋する思いを相手に伝えることが大切である。


「みかの原 わきて流るる 泉川

  いつ見きとてか 恋しかるらむ」――中納言兼輔

(みかの原を分けて流れる泉川。湧き出て流れる泉のように、あの人をいつ見たからといって、こんなに恋しいのだろうか)


  この歌の言いたいことは下の句で、「泉川」は「いつ見」を引き出すための「序詞」(じょことば)。まだ見ぬ人への泉のようにこんこんと湧き、清らかな恋心が心を打つ。


  今回は、登場する百人一首の歌がことごとく、いずれも平安時代の貴族が恋を和歌にして、いわば「手紙」として、相手の思いを伝えるのがよいか悩んだことが分かる仕掛けになっている。この講座で、山口仲美さんが、百人一首の実用学に力を入れているのがよく分かる。


  また今回は、ゲストに森川友義さん(早稲田大学国際教養学部教授)が登場された。「恋愛学」の第一人者(著書に『一目惚れの科学』、『結婚しないの? できないの?』)の立場から、発言をされた。「平安時代の和歌は、現代で言うメールだ。当時は和歌の上手な男性がモテていたと言われる。現代に恋心を上手に伝えるための、恋愛学的「正しいモテメールの出し方」を伝授したいと言う。31文字に思いを込める和歌と同じく、現代のメールは「短い文章で、想像させる余地を残すことが効果的」をおっしゃる。


・最終回は、サブタイトル「恋の終わりの処方箋」と分かっているが、まだEテレの再放送がまだないので書けない。どのようなエンディングを迎えるのか、今から楽しみである。


・冒頭にご紹介した通り、山口仲美さんには、毎号、月刊『清流』に「ちょっと意外な言葉の話」と題したコラムを連載して頂いている。毎回、楽しみに読ませて頂いているが、これもおさらいしてみよう。

  初回の2014年8月号から以降、取り上げられた言葉を拾ってみると、「ざっくばらん」、「おべんちゃら」、「総すかん」、「じゃじゃうま」、「てんてこ舞い」、「とんとん拍子」、「ぐる」、「とことん」、「いちゃもん」、「へなちょこ」、「たんぽぽ」、「ぺんぺん草」、「パチンコ」、「ばった屋」、「ひいらぎ」、「はたはた」、「とろろ汁」、「しゃぶしゃぶ」、「おじや」、「どんぶり」……等々。

  それぞれの言葉の、発生から成り立ち、どのような変遷を経て現代まで生き伸びてきたかをやさしく説いている。まさに日本語の蘊蓄が詰まった文章で、日本語の持つ奥深さ、豊かさ、その魅力を再認識させられること必定である。


・また、山口仲美さんには不思議な縁を感じている。実は同じ出身中学であることを知った。豊島区立第十中学校の同窓生なのだ。僕の尊敬する担任の小寺(旧姓・小高)禮子先生(月刊『清流』の創刊号からの定期購読者)が、二人の接点を見出してくれた。山口さんは、その後、お茶の水女子大学を卒業し、東京大学大学院修士課程を修了、文学博士、埼玉大学名誉教授となったわけだ。

  擬音語・擬態語の研究者として第一人者であり、著書『日本語の歴史』(岩波新書、2006年5月刊)で日本エッセイスト・クラブ賞、平成20年、日本語学の研究で紫綬褒章受章者となった。今を時めくお方なのだ。山口さんとの出会いは、僕にとってまぶしいほど輝かしいものと思っている。


・また、山口さんは、不屈の闘志をお持ちだ。というのも、2009年夏、大腸ガン(S状結腸ガン)を患い闘病、また2013年夏には膵臓ガンと続けて病魔に侵された。それを克服し、『大学教授がガンになってわかったこと』(幻冬舎新書、2014年3月刊)を執筆されている。この250ページの本を何回も読んで、僕は心底納得したものだ。山口さんはこう書いている。《ガンは、わたしに「謙虚」と「受諾」という、自分に最も欠けていた精神的な贈り物をくれました》と……。

  僕も二回の脳出血を経て、右半身不随、言語障害の身になって、全く同じ思いをしている。山口さんには、今後も大いに活躍して欲しいと思っている。山口さんの才媛ぶり、才能の発露には、誇らしい気持ちが湧いてくる。応援団の一人にすぎないが、僕にとっても人生における希望の光となっていることをお伝えしておきたい。

2016.12.20鎌田實さん

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鎌田實さんの新著。「遊行」の言葉が、人生を変える!


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鎌田實さん(右)と中華料理店「源来酒家」で。左は藤木健太郎社長。

・鎌田實(かまた・みのる)さん(医師、作家、諏訪中央病院名誉院長)が弊社に来社された。僕は前々から尊敬しており、鎌田さんの本を弊社から出させてほしい、と切望していた。嬉しいことにそれが実現することになった。タイトル名は、『遊行(ゆぎょう)を生きる――悩み、迷う自分を劇的に変える124の言葉』だ。四六判ソフトカバーで、232ページ、予価(本体1000円+税)、2017年1月20日の発売予定となっている。
 この本を編集担当した古満温君は、暮れも押し迫った今も、本の宣伝、拡販、パブリシティ戦略に向け忙しい日々を送っている。この日、鎌田さんは、金曜日にも関わらず、わざわざ弊社に足を運んでくださった。というのも、鎌田さんは、木曜日の午後7時まで、日本テレビの「ニュース・エブリィ」のレギュラーコメンテーターを務め、その後は中央本線の新宿から諏訪の家に帰られるのが通常パターン。この日は、自著の拡販に向け、販促にご協力いただいたのである。
 鎌田さんは午前10時、「オフィス ブラインド スポット」の石井さんと一緒に来社された。石井さんとは旧知の仲らしく、「彼女はなかなかいい本読み」だと評していた。僕も「オフィス ブラインド スポット」については、代表者の平塚一惠さんと一緒に仕事をしたことがある。女の細腕ながら、剛腕という言葉がピッタリの仕事ぶりで、山本夏彦・久世光彦共著で刊行された『昭和恋々』というフォトエッセイ集を、新聞、雑誌、テレビ局等に売り込み、センセーションを巻き起こした。その後、この本は文春文庫から文庫版としても発行されたので、大いに稼いでくれた。そのことが僕の印象に強く残っている。この日鎌田さんの予定は、午前中11時までJBプレスの取材、正午から弊社応接室で、プレジデントオンライン、さらに、かの花田紀凱(かずよし)編集長の『月刊Hanada』の取材が控えていた。
 鎌田さんと挨拶もそこそこに、昼食を摂るため11時過ぎに外に出た。弊社からは徒歩数分の距離にある、馴染みの中華料理店「源来酒家」に向かう。鎌田さんは、「源来酒家」をご紹介して以来、この店がいたく気に入ったらしく、しばしば他社の編集者を誘うほど、その味に惚れ込んでいる。欠かせないのが、まず、「豆腐の細切りサラダ」と「餃子」(当日、参加したみんなで一個ずつ分けた)。そして、「麻婆麺」も鎌田さんの好きな料理だという。コラーゲンがたっぷり入った逸品である。「源来酒家」のご主人・傳さんも、自然に鎌田さんの大ファンとなり、「先生の本が出たら、すぐに買いに行きたい!」と言っているほどだ。

・僕が、「鎌田實先生と行くドリームフェスティバルinハワイ6日間」というイベントに参加してから、早くも3年半という月日が経った。その折、「ぜひ、わが社から鎌田先生のご著書を出させていただけないか」と、お願いしたことがある。が、どう考えても実現は難しいだろうと思っていた。なぜなら、弊社のような弱小出版社では、大手の出版社のような販売スタッフ、宣伝費や販促費を賭けられないからだ。初版の刷り部数も当然少な目にならざるを得ない。鎌田さんには、月刊『清流』に連載していただいていたが、単行本の刊行については大手出版社からという感触であった。だが、連載を続けコミュニケーションを取るうち、意気に感じてくれたのか、弊社からの刊行を了解してくれた。僕はこの鎌田さんの気持ちが嬉しかった。精一杯、全社員一丸となって販促にこれ努め、このご厚意に応えたいと思っている。

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ハワイ旅行で鎌田先生とのツーショット

・さて、この『遊行(ゆぎょう)を生きる――悩み、迷う自分を劇的に変える124の言葉』だが、ざっと内容について触れてみたい。鎌田さんは、この「遊行」の鎌田流解釈と自らの人生体験を絡めて、わかりやすく解説してくれている。古代インドの聖人は、人生を「四住期」と名付けた。「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」の四つである。中でも遊行期は人生の晩節に当たり、死の準備の時期であり、人生の締めくくりの時期ともいわれる。そうした古代インドの聖人が唱えた遊行期の解釈とは違って、鎌田さんは文字通り、「遊び、行く」と考えたのがユニークなところ。晩年にフラフラしても構わないとおっしゃる。この時期こそ、本当に自分の好きな仕事や、やりたいことをする時期でもあるというから嬉しくなる。
 鎌田さんは、遊行期を、人生の諸問題から解放され、自分に正直に、肩の力を抜いて、しがらみから離れて生きていく大切な時期と考えた。つまり鎌田流の「遊行」とは、一人の人間が子どもの頃のような、自由な心で生きること、先入観などに囚われず、こだわりを捨てて“遊び”を意識すること。さまざまな殻を打ち破って、生命のもっとも根っこの部分で世界を生きることだと鎌田さんはおっしゃる。そして、いい言葉はいい人生を生み、いい人生はいい言葉を生み出す。「遊行」が、人生を変えてくれ、生きるのが楽になったという。確かに遊びを意識すると、何気ない毎日が特別になり、生きるのが楽になり楽しくなってくる。

・こうなると「遊行期」にある人も、人生を達観しなくてもいい。人間臭く、ドロドロとした「遊び、行く」をしたらとおっしゃる。そもそも鎌田さんは、若者からお年寄り、女も男も「遊行」を意識したらどうかと考えてきた。人は毎日忙しい。経済的な問題もある。病気や障害を抱えている……。だから「遊行」なんて思ってもできない、と思われる方もいるかもしれない。だが、安心してください。苦しみの中にいる人が、「遊行」を意識し、生きることで、苦しみから解放され、人生を大逆転することだってできる。鎌田さんも「七〇歳を前に苦しんでいます」と正直にその心境を語る。自分は本当に自分自身を生きてきただろうか。子どもの頃は、親や周囲の大人の、そして大人になってからも同僚や患者さんの期待に応えるために、“いい子”や“いいカマタ”を演じ、無意識のうちに無理してきたのではないか……。このまま老い、死んでいったら後悔してしまうのではないか……。ここ数年、そんな悩みがしこりのように心の奥に巣食っていたのだ。そこに、一筋の光のように、「遊行」という言葉、考え方が頭に射し込んできて、「生きるのがグッと楽になりました」と鎌田さんは述懐する。

・この後、鎌田さんは古今東西の「遊行」した方々に焦点を当てる。一人ひとり取り上げて、共感したこと、感銘した点などを読者に提示してくれる。取り上げた方々を見て、僕は鎌田さんのその博学ぶりには脱帽するしかなかった。思いつくままに上げてみるが、有名無名を問わず、斯界に名を馳せた人たちが綺羅星のように並ぶ。
 ヨハン・ホイジンガ(歴史学者、『ホモ・ルーデンス』)、きだみのる(仏英に精通し、稀代の教養人、ファーブルの『昆虫記』訳者)、種田山頭火(自由律の俳人)、ポール・ゴーギャン(画家、タヒチ)、孔子(『論語』)、ニーチェ(哲学者、『曙光』、『ツァラトゥストラかく語りき』、『悦ばしき知識』)、山本常朝(『葉隠』)、ディラン・トマス(イギリス・ウェールズの詩人)、東小雪(元タカラジェンヌ)、ヘミングウェイ(『老人と海』、『キリマンジャロの雪』、『誰がために鐘は鳴る』)、イングリッド・バーグマン(女優、アカデミー賞三度受賞)。
 大塚範一(テレビの司会者)、アルバート・アインシュタイン(相対性理論)、畠山昌樹(医者、高機能広汎性発達障害者)、ジャン・ジョレス(仏・政治家)、荘子、モンテーニュ、池田晶子(哲学者)、ジョン・スタインベック(『エデンの東』、『怒りの葡萄』、『チャーリーとの旅』)、チェ・ゲバラ(革命家)、アルベール・カミュ(仏・作家、ノーベル賞、『シジフォスの神話』)、オルハン・パムク(作家、2006年のノーベル文学賞、『新しい人生』)、空海、なかにし礼。
 フランツ・カフカ(作家、『変身』)、鴨長明(『方丈記』)、親鸞(『歎異抄』)、ランボー(作家、『地獄の季節』)、ヴェルレーヌ(詩人)、佐野洋子(『100万回生きたねこ』)、ヘルマン・ヘッセ(独・作家)、ジャン・リュック・ゴダール(映画監督、『気狂いピエロ』)、アウンサンスーチー(ミャンマー民主化運動の指導者、ノーベル平和賞)、カール・ヒルティ(スイスの哲学者)、ゲーテ(独・文豪)、スティーブン・サットン(英・15歳の大腸がん、約3年間で七回の外科手術)。
 高橋礼華・松友美佐紀(リオデジャネイロ五輪、バトミントン・ダブルス優勝)、ウィスタン・ヒュー・オーデン(英・詩人、『見るまえに跳べ』)、マザー・テレサ、キング牧師、スティーブ・ジョブズ(アップル社創立者の一人)、ジッドゥ・クリシュナムルティ(インドの思想家・瞑想家、『最初で最後の自由』)、ジョン・レノン(ミュージシャン)……。
 これらの人々は、間違いなく鎌田流「遊行」の行動や思考をされたことが本文を見ると頷ける。

・「遊行」の先達と認める方々のうち、鎌田さんが一番相応しいと考えている人は誰だろうか? 担当編集者の古満君に尋ねてみると、「ランボー」ではないか、という。「ちょっと極端過ぎる人生ですが、ランボーの人生に、自分にない、自由さを見て、あこがれていらっしゃるようですから」と。確かに、鎌田さんは、高校時代にランボーに出会っている。難解な反面、若さがほとばしるその詩に魅了される。とくに代表作『地獄の季節』の詩が好きという。「ある夜、俺は『美』を膝の上に坐らせた。――苦々しい奴だと思った。――俺は思いっきり毒づいてやった。俺は正義に対して武装した」 この詩には、「もう詩なんか書かないぞ」という、ランボーの決意が見てとれる。自らを過酷な状況に追い込みながら、それでもランボーが望んだのは、『自由なる自由』。「何者にも束縛されない『絶対自由』を求めようとしたのだと思います」、と鎌田さんはいう。
 
 ランボーは若くして、「遊行」の意思をもって生きていたに違いありません。「遊行」とは「人生の放蕩」に励むことなのです。ランボーは、筆を折った後、オランダ軍の傭兵、サーカスの通訳、キプロス島の石切り場の現場監督、アラビア半島のアデンで貿易商となり、その後エチオピアで商人など、次々に職を変えています。三七年間の短い生涯だったが、毎日がハラハラドキドキ、お祭りのような日々。これほど面白い人生はありません。「遊行」とは一見、みすぼらしいのに、内実は幸福感に満ちた生き方なのです。鎌田さんは「自分がいま、本当に自由に生きてるんだろうかと、ランボーの詩を読むたびに、人生を見直します――」というわけで、古満君の「遊行人=ランボー」ではないか、と答えたのは、この本をよく読んでいるなと僕も賛成だ。また、古満君は、「ほかには、スティーブ・ジョブズでしょうか。ああいう生き方にも憧れがあるようです。鎌田先生は借金を抱えていた病院を立て直した自負もありますので……」と続けた。さもありなんである。この指摘にも、僕は素直に頷いたものだ。

・冒頭に触れた花田紀凱さんのことに戻ろう。この日花田さんは、『月刊Hanada』の取材で弊社に来られた。いつもは、ライターに任せのようだが、特別に自分が興味のある人、内容の取材には同行するようだ。どうやら鎌田さんの新刊本に興味を惹かれたようだ。宣伝に一役買ってくれるとうれしい。花田さんも、文藝春秋の『週刊文春』編集長を辞めて後、朝日新聞社の女性誌『uno!』編集長、角川書店の『月刊フィーチャー』発行人、『MEN'S WALKER』編集長、宣伝会議の月刊誌『宣伝会議』編集長、『編集会議』編集長、ワック・マガジンズの『WiLL』編集長を経て、現在の飛鳥新社『月刊Hanada』に至っている。
 花田さんとは今から14年前、宣伝会議の『編集会議』編集長だった時に、お世話になっている。それは、僕の高校の同級生・安原顯(天才ヤスケン)に絡んだものだ。ヤスケンが「肺ガンで余命1ヶ月」の宣告を受けた後、僕は彼の本を3冊、弊社から刊行に踏み切った。出版界始まって以来の刊行スケジュールには、さすがに鬼神ともいえども避けて通るはず、ついでに肺ガンも怖れをなして飛んでゆくのではないか、と考えたのだ。花田さんは、それを「ニュースの価値あり」と乗ってくれた。その時は、花田さんが僕の原稿に筆を入れて、『編集会議』の最新号に間に合わせてくれた。お礼を言うのは場違いだが、「花田さん、その節はありがとう!」といっておきたい。

・鎌田さんは、新年号から月刊『清流』で、「なんでもない毎日を、特別に生きる!――常識破りの逆境脱出法」という連載を始めています。第1回は、「無常を生きる」がタイトルである。「無常」と「オートファジー」のにまつわる心のあり方をめぐっての話である。人間の細胞がつねに入れ替わっているのは「流転」ということ。つまり、「オートファジー」は「万物流転」の思想です。われわれの生命の源である細胞だって流転しているのだから、われわれの生き方も考え方も、もっと流転してもいいのだなと鎌田さんは考えたと言う。この連載は大いに楽しみにしている。
 その『清流』2017年2月号では、鎌田さんが主宰する「JIM-NET」では、毎年、北海道の六花亭が原価で特別に製造してくれたチョコレートで、冬季限定の募金キャンペーンを行っていると言います。イラク・シリアの情勢は悪化の一途、難民は増えるばかり。多くの難民がヨーロッパを目指しますが、イラクに残った難民の中には、劣悪な環境で治療を受けている子どもたちがいます。鎌田さんたちは、こうした子どもや家族の負担を少しでも減らすために「子どもサポートハウス」の開設を目指し、そのための募金を集めているとおっしゃる。今回は、少女たちが描いた絵を缶のパッケージにして、バレンタインのチョコレートをつくったと言う。鎌田さんは、イラク支援、福島支援、難民支援……などの活動に、チョコ募金を含めて、世界的視野でご覧になられていらっしゃる。

2016.11.28辻 一郎さん、高田宏さん

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『忘れえぬ人々――放送記者の40年のノートから』(1998年刊)
 
・僕も喜寿に近くなり、親しい友人たちが、一人、また一人と鬼籍に入ってしまい、秋の夜長は酒でも飲まなければ間がもたない。そんな漂泊の思いの中で、ふと辻  一郎さん父子と高田宏さんの友情について書いてみたくなった。辻さんは弊社から3冊単行本を刊行されたが、きっかけは既に弊社からエッセイ集『出会い』(1998年刊)を刊行していた高田宏さんの橋渡しによるもの。その高田さんも2015年11月24日に亡くなってしまった。享年83。死因は肺がんであった。本欄の2016年5月号に書いたが、実は高田さんについては、まだまだ書き足りない思いがしていた。高田さんは編集者として刮目すべき存在であった。僕は編集の先輩として高田さんのファンであり尊敬もしていた。
 
    高田さんは、当代きっての読書人であり、博覧強記の人でもあった。無類の酒好きだったことでも知られ、酒が入ると底なしだったとも聞く。辻  一郎さんによれば学生時代、高田さんの好きな酒場は、庶民的な店ばかり。実際、縄のれんの常連さんだった。10軒はしごしても平気だったというから、酒豪ぶりも半端ではない。高田さんが、卒業後、京都を離れることになるからと、馴染みの店を1軒ずつ訪ねて回った卒業間際のことである。このとき同行した辻さんは、高田さんの人望に目を見開かされる。「驚いたことに、どの店も餞別のネクタイを用意していて、その夜、高田がもらったネクタイは、10本近くにはなったはず」というのだから凄い。酒の場の盛り上げ方に秀でており、最高の話し上手であり、聞き上手でもあったらしいから無理もない。
 
    こんな逸話も残されている。高田さんの京大時代の親友が長野県飯田市の実家で結婚式を挙げることになった。その結婚披露宴に呼ばれて、高田さんが飯田に出かけたときのことである。披露宴では勧められるままに杯を空け続け、しこたま酒を飲んだはずなのだが、少しも酔っているようには見えなかった。辞して旅館に戻ろうとする高田さんを呼び止めて、新郎のお父さんがこう言ったそうだ。「少しは千鳥足で歩いてくださいよ。お酒をケチったと、ご近所の方に思われてしまいますので……」と。
 
・辻さんと高田さんは、京大時代からの無二の親友であったが、その出会いというのが、実に不思議な計らいとしか思えない。京大入学後の身体検査の会場で、お隣同士並んで待つことになった二人。ウマが合ったか、話が弾んで友達となり、生涯のお付き合いとなったというから、まさに“人生は出会いである”を地でいったことになる。だから卒業した学部も辻さんが法学部、高田さんは、文学部の卒業で違っている。 
 
    辻さんは大学を卒業後、新日本放送(現・毎日放送)に入社し、主として報道畑を歩いて、取材活動にあたる一方、報道番組の制作にも携わっている。自らプロデュースしたテレビ番組「若い広場」、「70年への対話」で民間放送連盟賞、「対話1972」、「20世紀の映像」でギャラクシー賞を受賞、その異才振りを発揮している。その後、毎日放送の取締役報道局長、取締役編成局主幹を歴任された後、大学教授に転身されて今日に至っている。
 
・辻さんの父君は辻  平一と言い、伝説的な編集者として知られた人物だ。大阪外語大学露語科を出て、大阪毎日新聞に入社、敏腕記者として健筆をふるった。署名入りで「大阪が生んだ文壇人」と題し、直木三十五、宇野浩二、川端康成、藤澤恒夫、武田麟太郎らをエピソード豊かに描いた連載執筆をしたこともある。戦後間もなく、『サンデー毎日』に異動した平一は、週刊誌と言えば『週刊朝日』と2誌しかない往時の『サンデー毎日』の名編集長として名を馳せている。
 
   その頃、ライバルだった『週刊朝日』は扇谷正造が率いており、昭和25年4月から吉川英治の『新平家物語』を連載、飛躍的に部数を伸ばしていた。平一はそれに対抗するように、懸賞小説で発掘した源氏鶏太を売りにし、『三等重役』を連載して、『週刊朝日』を急追したのである。当時、『サンデー毎日』では懸賞小説を募集しており、この入選をきっかけに文壇に登場した作家は数多かった。
 
    名前を挙げれば、海音寺潮五郎をはじめ、山手樹一郎、村上元三、源氏鶏太、山岡荘八、城山三郎、永井路子などビッグネームがきら星のように並ぶ。特に海音寺潮五郎とのお付き合いは、海音寺が上京して鎌倉に居を定めてから最晩年に至るまで、43年間の長きに及び、終生厚い友情の灯は途絶えなかったという。その間の、海音寺からの70通あまりの手紙が残されたが、すべて巻紙に能筆で認められていた。今は遺族に戻されて、海音寺潮五郎記念館に収められている。平一自身、『文藝記者三十年』(昭和32年、毎日新聞社刊)、『人間 野間清治』(昭和35年、講談社刊)などの著書もある。
 
 
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『父の酒』(2001年刊)
 
・さて、この伝説の編集者辻  平一が、日本の企業PR誌のイメージを一変させたと言わしめた高田宏さんと関わってくるから人生は面白い。昭和29年の秋から冬にかけて、京大卒業を前にした高田さんは次々と入社試験に落ちていた。NHK、新日本放送、朝日放送、松竹、東映、そして平一のいた毎日新聞も、である。このうち、受験のための紹介者が必要だった新日本放送、松竹、東映は平一の紹介で受験したものだ。毎日新聞は自由応募だったから、紹介はいらなかったらしいが、動向を気にしていた平一が調べてみると、高田さんは作文が良かったという理由で面接には残っていたが、試験の成績は何百何十番目だったとか。採用予定者数名に対して百人が面接に残り、その百番目ではどうもならなかった。平一は「高田君、むつかしいぜ、これは」と言ったという。
 
    こうして就職も決まらず、お先真っ暗な日々を送っていた高田さんを救ったのも平一だった。「少女雑誌の会社なら、受けるだけは受けられるがどうかね」と、高田さんに話をもってきたのだ。その出版社は東京の光文社で、この年初めて入社試験をして社員を採用するということだった。光文社は東京の大学数校に募集案内を出しているが、辻さんの知人が役員をしている会社なので受験を頼むことができたらしい。もちろん、藁にも縋る思いだった高田さんは、二つ返事で上京して受験する。当時、光文社は文京区音羽の講談社5階に間借りしていた。
 
    入社試験はユニークそのものだった。二百字詰五十枚綴じの原稿用紙が1冊ずつ配られて、5、6時間以内に6本の原稿を書かされたという。課題は次の通り。「戦後の大衆娯楽の種々相を論じ、それについて所見を述べよ」、「我が父(母)を語る」、 「旧師へ卒業を知らせる手紙」、「最近感銘を受けた本について感想を述べよ」、 「現代の尊敬する人物とその理由を述べよ」、「愛読する新聞とその特長、及びどういう欄、或いは記事を好んで読むかを記せ」。高田さんは、課題に対して「酒」で書けるものはみんな酒で料理しようと決めた。それがダメなものは「笑い」でいこうと考えた。酒は高田さんの一部でもあったし、笑いは卒論のテーマ(「フローベールの笑いについて」)でもあったので、自信があったのだ。こうして課題の35枚の原稿を書き終えた高田さんは、帰りに、そのころスタートしたばかりのカッパブックス第1号目の伊藤整著『文学入門』をおみやげに京都に帰った。
 
・採用通知がきて、翌春4月、めでたく『少女』編集部に配属となり、高田さんの編集者人生が始まったのである。光文社では、入社してしばらくして春の社員旅行があった。修善寺温泉1泊旅行である。飲み放題の酒に大喜びの高田さんは大酒をくらい、新入社員の分際で、いきなり光文社の「のんべえ四天王」の一人となる。僕は高田さんほどのんべえでもないが、大の酒好きの身として、こういう話は大好きだ。出版部のKさんというのが、のんべえ四天王の一人で、たまたま京大の先輩だった。そのKさんが、「君か、酒の話ばかり書いて入ってきたのは」と笑って、どんどん酒をついでくれたそうだ。古き良き時代の話である。
 
    辻さんと高田さんは、卒業直後は、ともに東京で仕事をしていたので、有楽町のガード下あたりで飲むことがあった。「今日は社で仕事をしながら、一人でウィスキーのボトル1本空けてしまったよ」という高田さんの話を聞いて、辻さんは驚いたらしい。出版社と放送会社では職場の雰囲気がこんなにも違うものだとの印象を深くしたことと、それだけ飲んでも、まったく顔に出ていない高田さんの酒豪ぶりに改めて呆れたのだった。
 
    辻さんは、父・平一と高田さんの関係についてこんなことを書いている。「高田は私の父とも仲良しでした。二人をつなぐ接点はもちろんお酒でした」と。実際、平一は友人の中でも、酒飲みを特に優遇したらしい。だから、平一は高田夫妻の結婚に際し仲人を務め、その後も深いお付き合いが続いたのである。
 
・高田さんに麻雀を教えたのは辻  一郎さんである。平一が麻雀好きで、家庭麻雀を楽しんでいたので自然に覚えたのだ。ところが辻さんが京大に入ってみると、麻雀を知っている学友は少なかった。そこで何人かを下宿に誘い込み、ルールを教えることにした。弟子は5、6人いたらしいが、その中の出色の弟子が高田さんだった。麻雀を教えたその日に、国士無双をあがって、先生の辻さんをびっくりさせたらしい。
 
    平一と高田さんも当然ながら雀友となった。高田さんが訪ねていくと、平一は喜んで麻雀に誘ったらしい。何度も雀卓を囲んで談笑している。平一の麻雀は人間同様に大らかそのものだった。小さな手では絶対、上がろうとしない。「常に1翻安くせよ」は、作家・五味康祐の教えだが、平一の場合は、少しでも大きくすることしか考えなかった。だから大抵は負けていた。一方、息子である辻さんは、負けない麻雀を身上とする。これでウマが合うわけがない。辻さんが上がる度に、「なんたる心事陋劣(しんじろうれつ)!」と怒られたという。せっかくこんな大きな手を楽しんでいるのに、さっさと上がるとは何事だというわけだ。僕も今でも麻雀をやるが、どちらかといえば、遊びより精神にこだわる男だ。
 
    辻さんは『話の特集』の編集長だった矢崎泰久などとも卓を囲んだことがあり、相当な力量の持ち主だったようだ。それが証拠に、矢崎を取り巻くレギュラーメンバーだった毒舌のばばこういちや、テレビマンユニオンで活躍していた宝官正章などを相手に負け知らずだったらしいが、「その矢崎と一緒に遊んでも、負けた記憶がほとんどない」、というほどの腕前だった。矢崎泰久にこう言われたこともあったそうだ。「辻さん、『近代麻雀』の対談に出てくれませんか。八段をあげますよ」と。
 
    それにしても羨ましい。辻さんの雀友の一人として、美人女優の加賀まりこさんがいるというではないか。立木義浩が六本木族と呼ばれていたころの加賀まりこさんを「とげとげしいけど愛くるしい」と評したそうだが、僕もそのころから加賀まりこさんの大ファンだった。その加賀さんはなかなかの打ち手だったようだ。ぼやきを入れながら自摸牌を次々切ってくるので、まだ聴牌はないと辻さんが安心していたら、思いがけず国士無双を聴牌していたこともあったそうだ。辻さんが「すっかり騙されました」と言うと、加賀まりこさんはニヤリと笑って、「だって私、女優ですもの。騙すのが商売なのよ」と言ったそうだ。いい話である。
 
 
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『私だけの放送史――民放の黎明期を駆ける』(2008年刊)
 
・話を高田さんに戻そう。本欄5月号に書いたが、プロフィールを簡単にご紹介しておく。1932年に京都市に生まれ、4歳の時に石川県加賀市大聖寺町に移り住み、大聖寺高等学校をへて京大文学部仏文科へ進む。大学に入り、マックス・スティルネルの著になる『唯一者とその所有』(辻潤訳、日本評論社出版部、1920年刊)に出会う。これが高田さんのバックボーンとなった。すなわち、この本の「自分を何物にも従属させないで生きる」という考えに共感し、何物にも縛られない自分こそが真に自由な自分であると確信し、「とらわれない、縛られない」を自らの生き方のモットーとしたのである。何ものにも従属しないと決めても、食べていかなければならない。生活のためには職に就かなければならない。だが、雑誌編集の要諦は企画力であり、何ものにとらわれない斬新さが重要なので、「とらわれない、縛られない」という基本姿勢は、雑誌編集の仕事を続ける上で、有利に働いたといえよう。
 
    1975年、46歳の時、編集の総括として『言葉の海へ』を出版し、退職の意志を固め文筆専業となった。代表作には『島焼け』などの歴史小説をはじめ、自然、猫などをテーマに随筆・評論・紀行など著書は都合百冊ほどになる。公職としても日本ペンクラブ理事、石川県九谷焼美術館館長、深田久弥山の文化館館長をそれぞれ務め、また将棋ペンクラブ会長でもあった。受賞歴としては、1978年に『言葉の海へ』(言語学者・大槻文彦の評伝)で大佛次郎賞と亀井勝一郎賞、1990年に『木に会う』で読売文学賞、1995年に雪国文化賞、1996年に旅の文化賞をそれぞれ受賞している。
 
・光文社からアジア経済研究所に転じた高田さんは、『アジア経済』の編集に従事する。しかし、時間の余裕はたっぷりあったが、仕事があまり面白くないことと、給料にも多少の不満があった。そこで数年で見限ってエッソ・スタンダード石油に入社する。そこで伝説が生まれるのである。PR誌『エナジー』の編集をし、続いて『エナジー対話』を編集する。このころから、辻さんは取材先で、高田さんの噂を聞くことが多くなったと書いている。このPR誌のクォリティがあまりに高く評判となり、一躍世に知られるところとなったのである。『エナジー』は1964年の創刊以来、ユニークで格調高い内容で評判を取り、「PR誌らしからぬPR誌」との評価を得ている。日本の企業広報誌のイメージを一変させる役割を果たしたといっていい。1冊1特集という形式を取ったのも、斬新で画期的な企画構成であった。1号目の特集は「海」。2号は「探検」。3号は「海外における日本研究」。それぞれの特集には、そのテーマについて当代一流の監修者を立てた。例えば13号の「未来学の提唱」の監修者には、梅棹忠夫、加藤秀俊、川添登、小松左京、林雄二郎が選ばれ、監修に当たっている。これだけのメンバーを揃えては、「下手な総合雑誌以上と評判がある」と小松左京に言わしめているのもよく分かる。京大人文研のメンバーにしばしば原稿執筆を依頼し、PR誌を超えた雑誌として評価されたのである。
 
・僕は清流出版という小さな出版社を始めたときから、高田宏さんの本を出したいと強く思っていた。そして、弊社でその高田さんの本を2冊刊行できたのは、すこぶる嬉しかった。前述した『出会う』(1998年刊)と『還暦後』(2000年刊)である。ともにエッセイを編んだものだが、高田さんらしさがよく表れた本だと思っている。『出会う』は、樹木・森・島・雪などの大自然の佇まいを愛でる、また、旅先での何気ない人間の触れ合いを描いたエッセイの中から、担当編集者の臼井雅観君が精選したものだった。
 
    また、『還暦後』はその題名の通り、高田さんが還暦を過ぎてから書いたエッセイから精選して編んだものだ。60代半ばを過ぎると、当然のことながら生と死について思うところが多くなる。高田さんはこう言っている。「人間も、草木鳥獣虫魚や山河も、すべてが懐かしく思えてくる。旅をする日々には、胸の奥にこれが最後という気持ちがある」。そんな気分を背景にして還暦後に書かれたエッセイを集成したものだけに、しみじみと心に沁みてくるエッセイだ。この本は女優の浜美枝さんが書評で絶賛してくれたことを思い出す。しかし、無二の親友を失った辻  一郎さんの胸中はいかばかりか。僕も体験しているから分かるのだが察するに余りある。時間が解決するなどと、軽はずみに言う方もいるがそんなものではない。寂量感でポッカリと胸に風穴を開けられたような心地がしたものだ。僕は晩秋の夜長、高田宏さんを偲んで、この2冊の本を、もう一度、読み返そうと思っている。

 

2016.10.26鹿島茂さんご夫妻

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鹿島茂さん、奥様の岸リューリさん
 

・今回は、フランス文学者・評論家で明治大学国際日本学部教授でもある鹿島茂さんについて書いてみたい。というのも、今年、11月18日の発売予定で鹿島茂さんの新刊が弊社から刊行されるからだ。書名は『「悪知恵」の逆襲――毒か? 薬か? ラ・フォンテーヌの寓話』である。実はラ・フォンテーヌとは17世紀フランスの詩人で、「すべての道はローマへ通ず」「火中の栗を拾う」など、多くの名言・格言を残した人である。イソップ寓話を基にした寓話詩(Fables、1668年)でよく知られている。 

 ラ・フォンテーヌの童話集・寓話集は日本でも岩波書店、河出書房、社会思想社など大手出版社から十数冊翻訳出版され、今もって根強い人気を博している。「北風と太陽」や「金のタマゴを産むめんどり」「かえるの王様」などは、皆さんもよくご存じの寓話であろう。イソップ寓話というのは、子供向けに書かれたようで子供向けではない。実は混迷する現代日本を生き抜いていくに必要な、大人向けの人生訓がきら星のように散りばめられているのだ。

 弊社では、このイソップ寓話を鹿島流解釈により、現代の処世訓として蘇らせるとして、連載を月刊『清流』にお願いした。これがとても好評だったので、その連載を元に2013年、『「悪知恵」のすすめ ラ・フォンテーヌの寓話に学ぶ処世訓』として刊行させていただいた。これが大手新聞社、共同通信社の書評掲載、NHKのラジオ番組「土曜あさいちばん」で取り上げられるなど、評判となり増刷出来となったのだ。これに味をしめたというのではないが、再びラ・フォンテーヌの寓話を現代に読み解くという連載をお願いして、その2冊目が今回の『「悪知恵」の逆襲――毒か? 薬か? ラ・フォンテーヌの寓話』となったわけだ。
 

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『「悪知恵」のすすめ――ラ・フォンテーヌの寓話に学ぶ処世訓』(2013年刊)
 
 

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『「悪知恵」の逆襲――毒か? 薬か? ラ・フォンテーヌの寓話』(2016年刊)
 

・鹿島さんとのお付き合いは、かれこれ十数年といったところだろうか。これだけの売れっ子になると、書き下ろしは絶対に無理だという。確かに20本以上の連載を抱えていると聞けば、無理ならんと思えてくる。そこで考えて、雑誌に連載していただき、それを単行本にするというのが一番お願いしやすいこともあり、最初、「神田村通信」として神田神保町の古書街や古書事情などをテーマにして月刊『清流』にエッセイを連載していただいた。文章を鹿島さん、挿絵を奥様の岸リューリさんにお願いした。なかなかにユニークな誌面で、僕も印象深い。
 

 この月刊『清流』に連載された神田村暮らしのエッセイをメインに、プラスして他の雑誌、新聞からのエッセイを精選して一冊に編んで刊行したものだった。単行本として刊行した『神田村通信』(2007年)は、神田神保町の東京堂で発売と同時に、その週のベストワンに選ばれた。以降、順位は多少上下しつつも、数か月にわたってベスト10に入り続けた。このころ鹿島さんは、東京堂のすぐ傍に仕事場と居宅があり、当時の勤め先だった共立女子大学も神田村周辺にあった。だから帯のキャッチにこう書いたのを覚えている。「本の町・神田神保町に暮らす“フラヌール鹿島"の全生活を公開!!」と。僕も若い頃、神田神保町の遊歩者(フラヌール)に憧れたこともあったが、所詮、一介のサラリーマンの夢だった。
 

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『神田村通信』(2007年刊)
 

・鹿島さんといえば、1949年生まれで神奈川県のご出身。神奈川県立湘南高等学校から東京大学文学部仏文学科卒業し、同大学院人文科学研究科博士課程中退。32歳の時、翻訳した『映画と精神分析』(クリスチャン・メッツ著 白水社刊 1981年)を皮切りに、数々の著訳書があり、ざっと数えただけでも160冊を優に超えるのではないか。わが国有数の書き手でいらっしゃるのは事実だ。1991年には『馬車が買いたい!』(白水社刊)でサントリー学芸賞、1996年に『子供より古書が大事と思いたい』(青土社刊)で講談社エッセイ賞、1998年に『愛書狂』(角川春樹事務所刊)でゲスナー賞、1999年に『職業別パリ風俗』(白水社刊)で読売文学賞、2002年に『成功する読書日記』(文藝春秋刊)で毎日書評賞を受賞している。出版する本が軒並み高く評価されるという稀有な作家である。
 

 鹿島さんは、なんといっても19世紀フランスを専門領域とし、わけてもオノレ・ド・バルザック、エミール・ゾラ、ヴィクトル・ユゴー等を題材にしたエッセイで知られている。その上、古書マニアとして有名だ。毎回、フランスへ行くと、どっさり古書を買ってしまう。カード決済で購入されるらしいのだが、財布の中はカードだらけでどう収めようとしても入りきらないと嘆いてらした。ただ一つの朗報はこのところのユーロ安であろうか。一時、160円近くまでいったユーロで古書を買うにも負担増で頭を抱えておられたが、現在は110円台で推移している。円高になっての50円近い差は、随分お金の使い勝手が違うことだろう。僕が1969年から1970年まで、パリ生活をしてせっせと古書店巡りした時は1ドル360円、そして、外国に持ち出せるドルは制限があり、たった500ドルだった。僕は少々、早すぎたらしい。1990年代になってから古書店巡りに目覚めれば良かった。
 

・鹿島さんは、流石に超売れっ子である。今年に入って、すでに3冊の新刊を刊行された。弊社が4冊目である。『フランス文学は役に立つ!「赤と黒」から「異邦人」まで』(NHK出版刊)と、2冊は「ドーダ理論」をテーマにした偉人伝だ。「ドーダ」とは「自己愛に源を発するすべての表現行為」である。著書『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』(朝日新聞出版刊)の概要にはこうある。≪作家はそれぞれ「ドーダ」を表現欲として書き続けてきた。小林秀雄の文章は難解である。「なぜ、小林秀雄は分かりづらいのか」。そこから本書はスタートし、小林のコンプレックスを突き止め、偉大な文学者の本質を軽やかに衝く。難解な小林秀雄の文章が身近に感じられる、読みはじめたら止まらない文学論、かつ、コンプレックスにがんじがらめになった小林を身近に感じ、苦手意識が薄らぐ、読み応えのある小林秀雄論≫であると。続いて刊行されたのが、『ドーダの人、森鴎外――踊る明治文学史』(朝日新聞出版刊)である。同じく概要ではこうある。≪東大で独逸語を学び、ドイツに留学したのちには軍医の傍ら、小説家としても名をはせた森鴎外。彼には西欧人コンプレックスから生まれた「ドーダ」がある、と著者は説く。偉大な文学者の過剰な自意識に迫る画期的な文学評論≫と。いずれにしても鹿島さん独特の視点から書かれたドーダ理論に裏打ちされた異色の偉人伝である。大いに興味深いところだ。
 

・鹿島さんの所蔵するコレクションが、また、素晴らしい。2012年の5月、雨がそぼ降る日だったが、僕は、月刊『清流』の長沼里香編集長と練馬区立美術館で開催された『鹿島茂コレクション』を観に行った。そして、『バルビエ×ラブルール展』を観て、興奮を抑えきれなかった。ともにフランスのアール・デコ期を代表する挿し絵画家、ジョルジュ・バルビエ(1882-1932)とジャン=エミール・ラブルール(1877-1943)の見事なコレクションの数々。鹿島さんのコレクターとしての慧眼ぶりに目を見開かれた思いがした。バルビエは鮮やかな色彩の妙に、そしてラブルールは緻密な線描写が素晴らしかった。バルビエがニジンスキーのダンスを描いた名高いデッサンには思わず唸らされた。また、ラブルールは文学作品の挿し絵を多く手がけ、オスカー・ワイルドの代表作『ドリアン・グレイの肖像』の他、アンドレ・ジッドの『法王庁の抜け穴』の挿し絵などが特に印象に残っている。それにしても、見事なコレクションであった。鹿島さんは、ここ数年、練馬区立美術館と組んで、『グランヴィル展』(19世紀フランス幻想版画)や『モダン・パリの装い展』(19世紀から20世紀初期のファッション・プレート)等のコレクションを行っているが、このような試みは、本来の類なき“文才”の名はもちろんだが、その上“名コレクター鹿島茂”の評価を高めることになったのではないだろうか。

2016.09.23熊井明子さん、桐原春子さん姉妹

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英国旅行にて熊井明子さん(左)と桐原春子さん (写真提供:桐原春子)


・熊井明子さん、桐原春子さん姉妹には、大変お世話になった。弊社から単行本も二冊ずつ出させていただいた。また、現在、熊井明子さんには、月刊『清流』に「五感で楽しむポプリテラピー」という連載をお願いしている。毎月、季節感を感じさせるハーブ、果物、草花、精油などを使った簡単に家庭でも出来るポプリを提案していただいており、読者からも好評だと聞いている。熊井さんと桐原さんは信州松本市のご出身だが、実は愚妻も松本市の出身であるし、僕が子供のころ疎開した先も信州の塩尻(上田市)という所だったこともあり、特別信州には思い入れ深いものがある。 

   信州にはいい美術館がたくさんあり、美術館巡りも随分してきた。安曇野には草柳大蔵氏が絶賛していた碌山美術館やいわさきちひろの絵本原画を展示した安曇野ちひろ美術館など。諏訪市には北沢美術館、原田泰治美術館などがある。余談だが、原田泰治美術館で僕が「ふるさと風景」の絵を見て回っていたところ、「失礼ですが、原田泰治さんでいらっしゃいますか?」と声を掛けられたことがある。風貌が似ているとも思えないが、小児麻痺で両足が不自由な原田さんは車椅子生活、僕も車椅子で見て回っていたので、間違われたのであろう。長野市にも信濃美術館東山魁夷館、池田満寿夫美術館などが思い浮かぶ。小布施には日本中の桜の古木を描いた中島千波の「おぶせミュージアム・中島千波館」があり、上田市にはこの欄でも度々取り上げさせていただいた戦没画学生の展示館「無言館」がある。館長の窪島誠一郎さんについては、過去の当ブログを参照していただければと思う。

   僕の大好きな音楽でも松本は思い出深い。「セイジオザワ松本フェスティバル」は1992年、指揮者の小澤征爾が創立したもので、毎夏、松本市で行われている音楽祭である。サイトウ・キネン・オーケストラを指揮した小澤征爾の演奏会のチケットが思いがけず手に入り、勇躍、駆け付けて至福の夕べを過ごしたこともある。信州は盆地で標高が元々高い。真夏でも湿度が低いので過ごしやすい。年を取るにしたがって、暑さが身に応えるようになった僕には信州の涼しさはとても魅力的だ。温泉も僕は障害者になってからは、なかなか思い通りには行けなくなってしまったが、扉温泉のように、知る人ぞ知る隠れたいい温泉があったりする。

・さて、安曇野市豊科町は、熊井明子さんの夫君・故熊井啓監督の生誕の地である。実は豊科町には熊井啓記念館があり、僕も訪れたことがある。これまで熊井啓さんが監督・助監督をした作品の資料がすべて収められている。「帝銀事件・死刑囚」でデビューした熊井監督は、骨太な社会派監督として活躍した。「海と毒薬」でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏?冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞など受賞多数、紫綬褒章も受けている。主な監督作品に「黒部の太陽」「忍ぶ川」「地の群れ」「お吟さま」「サンダカン八番娼館・望郷」「天平の甍」「千利休 本覺坊遺文」「深い河」などがある。

   特に僕の印象に残っているのは、あの「黒部の太陽」であった。石原裕次郎は、52年の生涯で100本近い映画に出演したが、最も印象深い作品にやはり「黒部の太陽」を挙げている。「五社協定」のぶ厚い壁に阻まれて苦戦を強いられ、それを乗り越えて完成させることができたという経緯に加え、破砕シーンのロケ現場で右手親指骨折、全身打撲の大けがを負ったからである。そんな「黒部の太陽」の脚本が展示されていた。各所に書き込みがなされており、制作過程での懊悩も窺える。

   その他、ポスター類、絵コンテ、撮影現場写真など、貴重な資料が所狭しと並んでいた。また、熊井啓、明子夫妻の著になる本もすべて納められ陳列されている。もちろん、弊社の本も収められていた。実は前にも本欄で触れたことがあるが、熊井啓監督が写真撮影をし、明子さんが解説文を書いた『シェイクスピアの故郷 ハーブに彩られた町の文学紀行』という本を弊社から出させていただいた。熊井夫妻唯一の共著書である。編集作業を急ぎ、熊井監督の一周忌に間に合わせて刊行させていただいた。明子さんに大変喜んでいただけたのは記憶に新しい。
 

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熊井啓監督と明子さんの共著

・お二人の本の編集担当者として長くお付き合いをしてきた臼井雅観君は同じ信州人であり、熊井さん、桐原さん姉妹については僕よりも詳しい。臼井君によれば、お二人は毎年のイギリス旅行を定例化しているとか。二人旅のきっかけとなったのは、1988年の7月から8月にかけての英国への取材撮影旅行だったという。姉妹の共著『ハーブ&ポプリ英国風の楽しみ方』(主婦の友社)の刊行の最終詰めに当たり、裏付け取材と写真撮影のための18日間にわたる旅であった。熊井明子さんの生涯かけての研究テーマがシェイクスピアであり、『今に生きるシェイクスピア』(千早書房)、『シェイクスピアのハーブ』(誠文堂新光社)などの著書もあるし、1999年には『シェイクスピアの香り』(東京書籍)等の著作活動により第7回山本安英賞を受賞している。受賞理由は、「シェイクスピアの魅力を新たな角度から探求した業績を評価して」となっており、その果たしてきた功績はとても大きい。

   一方、実践派のハーブ研究家として多くの本を出し、朝日カルチャーセンター、読売文化センター、玉川高島屋コミュニティークラブたまがわのハーブ教室ほか各カルチャーセンターで、家庭でのハーブの楽しみ方などを提案するなど講師を長らく努めてきている桐原春子さん。何年にもわたって読売新聞に月1回のペースで長らく世界の庭園をルポしてきた(現在、連載は終了した)が、イギリスの庭園はその中でも白眉ともいうべき存在であった。

   ヒドコートやシシングハーストなどの有名どころから個人庭まで、英国の庭が34箇所も紹介され、それぞれの解説も簡潔でわかりやすいと評判をとった『とっておきの英国庭園』(千早書房)や読売新聞の連載から精選した庭園を紹介した弊社刊の『桐原春子の花紀行 世界の庭園めぐり』など、英国の庭園関連本を多数刊行しておられる。
必然的にお二方ともに単独での英国旅行も多くしてきており、イギリスへの並々ならぬ関心の高さがうかがえる。だからお二方ともに、イギリスは何度行っても興味が尽きない国となるらしい。
 

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弊社刊行、桐原春子さんの著書

   面白いのは、それぞれ旅ごとにテーマ色を決めているというのだ。テーマ色に合わせて着るものやスカーフ、靴、小物などまで色を揃えるのだ。ちなみにこのテーマを決めて初めてイギリス旅行をしたのは2012年という。ちなみに2012年のテーマ色は緑色だった。2013年はオレンジ色、2014年は青色、2015年はピンク色、そして今年もイギリス旅行に行ってきたのだが、テーマ色は紫色であったという。桐原さんはブログで日々の活動や旅行の詳細を発信しており、この旅行の様子も実に分かりやすく解説されている。桐原さんのブログは写真も多数アップされており、好評とのことで、今年8月13日のブログには、90万アクセスが達成されたことへの感謝の言葉が載っていた。90万アクセスとは僕も驚いた。凄い数の人々が桐原さんのブログに関心を持っているということ、その影響力はかなりなものだ。

・今年のイギリス旅行は7月20日から27日まで、8日間だったそうだ。行先は昨年と同様、ワイト島と西南端のコーンウォールの旅。ワイト島では、上陸してすぐにオズボーンハウスを訪ねている。オズボーンハウスはヴィクトリア女王が生涯愛し続けた離宮で海を臨む場所にある。そのすべての設計を最愛の夫アルバート公が手がけたという見事な庭園つきの離宮である。ヴィクトリア女王の治世にあった1837年から1901年は英国の黄金期、爛熟期であった。そんな栄華を偲ぶ旅になったという。また、ワイト島はジョン・キーツやアルフレッド・テニソンゆかりの島でも知られる。キーツが2回も訪ねて詩作したという滝や、キーツの泊まっていたホテルを実際に眺めたりと、詩人ゆかりの場所を楽しみながら辿る思い出深い旅となったようだ。
 

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ワイト島の白い崖を背に紫色基調の服で (写真提供桐原春子)
 

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今年のテーマカラー、紫色が映える (写真提供桐原春子)

・お二人は大の猫好きでも知られる。熊井さんの愛猫は長毛系の「ニャン」。年は8歳になる。ニャンは毎朝、足の裏の長い毛を、まぶたや頬にそっと当てて熊井さんを起こしてくれるそうだ。こんな起こし方をする猫は初めてだという。熊井監督のご存命中飼っていたマロンは、目覚まし時計の音をまねて、「ニャニャニャニャ……」と耳元で鳴いたらしい。マロンから十数年ぶりに飼ったニャンは、忘れていた“猫による幸せな朝の目覚め”をもたらした、と感謝しているとか。一方、桐原さんの猫はやはり長毛系シルバーチンチラの「モヤ」。御年17歳という長寿猫。桐原さんのブログにもたびたび登場している。今年の夏は特に暑かったので、ペットサロンで夏バージョンカット、つまり頭を残して丸刈りにしてもらった。だから見るからに涼しそうである。

   猫好きが旅をすると、行く先々で猫に出会うから不思議。まあ、岩合光昭氏の世界猫歩きを見ていても、猫がいそうな場所が分かるということもあるのだろう。行きつけのホテルの猫、路地裏の猫、いろんな場所で猫に会ってしまう。猫は本能的に猫好きな人が分かる。そんな旅先で出会った猫たちがが桐原さんの日々のブログでも紹介されている。

 
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英国旅行先で猫と戯れる (写真提供桐原春子)

・熊井さんと桐原さんは、好対照のお二人である。少女時代から文学少女だった熊井さん。少女時代から活発に飛び回るアウトドア派だった桐原さん。とてもよいコンビだとお見受けする。「香りのある楽しい暮らし」と題しての姉妹セミナーや姉妹講演会をされたり、『味覚春秋』という雑誌では、林望さんと姉妹での鼎談を行ったりと、なかなか仲のいいお二人である。現在、熊井さんは、猫に関するエッセイをまとめているとか。いずれ単行本化したいと考えておられるようだ。桐原さんも、読売新聞に連載してきた世界の庭園巡りを形にしたいと思っておられる。ともあれ、姉妹でご活躍なのは、傍から見ている僕も嬉しい。また、雑誌や単行本でコラボする機会ができればと思っている。

2016.08.24飯島晶子さんと『被爆ピアノコンサート「未来への伝言」2016』

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「被爆ピアノコンサート」のチラシ

・僕が毎年、楽しみにしているコンサートイベントがある。飯島晶子さんが企画した『被爆ピアノコンサート「未来への伝言」』である。このコンサートの企画趣旨について、飯島晶子さんは「音楽や朗読を通じて、平和の大切さを伝えていきたい」と語っている。その伝達手段として、広島の被爆ピアノが重要な役割を果たしてきた。被爆ピアノは爆心地から1.8キロの地点で被爆したにも関わらず、一人の調律師によって蘇り、力強い音色を響かせる。飯島さんは、この被爆ピアノを平和への祈りの象徴と位置づけ、アーティスト仲間と一緒に、被爆コンサートを続けてきた。被爆ピアノと飯島さんとの出逢いは、2005年にまで遡る。関東で最初の被爆ピアノコンサートが開催されたとき、飯島さんはこのピアノの半生についての朗読を担当した。被爆時に受けたガラスの傷が今も残る痛々しい姿にも関わらず、ピアノの力強い音色に驚かされ、このピアノを通して平和への祈りを捧げていこうと決意したのだ。今年の公演会場は、営団地下鉄半蔵門駅からほど近いTOKYO FMホール。期日は8月11日(木曜日)「山の日」の旗日であった。皇居のお濠に面したこのビル。皇居周回のランニングコースが目の前であり、この日も様々なウェアに身を包み、軽快に駆け抜ける市民ランナーの走る姿が見られた。
 
・この被爆ピアノを使ってのコンサートだが、これまで全国各地で20回近く公演されてきた。飯島さんの企画によるこの被爆ピアノコンサートも、今年で8年目を迎えるという。そもそも僕と飯島晶子さんとのお付き合いは、2006年、飯島さんの著になる『声を出せば脳はルンルン』というCD付きの本を刊行させていただいたことに始まる。飯島さんは刊行から10年にもなる現在も、この本の販売に尽力してくれている。弊社にとって大変有り難い著者である。これをご縁として、飯島さんは毎年のようにこの被爆ピアノコンサートに招待してくれるのが嬉しい。この日僕は、飯島さんの本を編集担当した臼井雅観君と待ち合わせて出かけることにした。会場に入ってみると、席はすべて埋まり満席状態であった。聞けば入場券は2週間も前に売り切れて、キャンセル待ちの状態だったらしい。人気のほどが伺い知れるというものだ。簡単に飯島晶子さんのプロフィールにも触れておく。日本大学藝術学部を卒業後、朗読に目覚め、NPO日本朗読文化協会理事を務める。河崎早春と朗読の窓「驢馬の耳」主宰。「生活の中で生きる朗読空間」をテーマに、舞台をはじめ、展示会、教会等において朗読活動を展開し、「愛・地球博」ではアンデルセン童話の朗読をした。中学校教科書CD朗読や、番組・企業ナレーションでも活躍中。各種専門学校・大学・カルチャースクールの講師を務めるほか、日本デンマーク協会、お茶の水音声言語学習会会員でもある。

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司会進行役を担当した飯島晶子さん (撮影:谷川淳)
 
・さてコンサートの幕開け。黒基調のレースをあしらったシックな装いで登場した飯島晶子さん。間がいい耳に心地よい司会でスタートした。全体は15分ほどの休憩を含む二部構成で、実にバラエティに富んだものだった。印象に深く残ったものを挙げてみたい。毎年、演じられて印象深いのが、エピグラム「原爆を裁く」である。ピアノ、ヴァイオリン、とクラーク記念高等学校パフォーマンスコースの生徒たちの朗読によるものだ。40数年前に人間国宝・杵屋淨貢(巳太郎改め)氏によって作曲され、放送用に録音されたものの、過激だからとの意見で放送できなかったというこの曲。作詞者=谷川俊太郎氏のご子息である谷川賢作さんのピアノと、佐久間大和さんのヴァイオリンが、耳障りな不協和音で原爆の理不尽さを表現し、生徒たちの朗読がそこにかぶさる。これは何度聴いても衝撃的で心を抉ってくる。

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「原爆を裁く」 (撮影:谷川淳)
 

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MJC(南相馬ジュニアコーラス) (撮影:谷川淳)

・今回が初めてという出し物も印象に残る。東日本大震災の被災地、福島県南相馬からMJC(南相馬ジュニアコーラス)アンサンブルが登場した。2009年6月に結成された女子高校生だけのコーラスグループ。見るからに純粋で素朴な高校生が、透明感のある歌声で見事な歌声を響かせた。南相馬の古い酒蔵を復元した銘醸館を拠点に活動中とか。東日本大震災後、あかりの消えた街に原発という新たな恐怖が襲い、7万人いた街の多くの人々が避難を余儀なくされた。懐かしい故郷は悲しみの中にあり、コーラスメンバーもバラバラになりながら、残った学生たちで自主練習を続け、2011年8月7日に『2011こどもコーラスフェスティバル』に出場する。以来、今も被災地からの感謝と元気を届ける活動を続けている。東日本大震災、津波被害、原発事故、風評。ともすれば挫けそうになる大人たちの心を励ましたのが、こうした生徒たちの笑顔と明るい歌声だったというのは感動的である。震災以降、5年目で公演も100回を超えるとか。被災地に未来の夢を与えて続けてくれている。素晴らしい活動である。
 
    もう一つ、巣鴨に生まれ育ち地元巣鴨に「すがも児童合唱団」を結成し今年で24年目を迎えたという大澤よしこさん。彼女の指導する童謡メドレーも良かった。皆さんは「あめふり」という童謡をご存じだろうか? “♪あめあめふれふれかあさんが”で始まる童謡だ。“♪しょうしょうしょうじょうじ”で始まる「証城寺の狸囃子」など懐かしい歌ばかり。しばし童心に返ることができた。東京音楽大学の声楽演奏家コース三年生の娘・和音さんとのコラボも良かった。それにちびっ子たちは、伸び伸びと歌う楽しさを発現していた。それが何より心地良かった。そしてお馴染みのメンバー、ピアニストの谷川賢作さん、人間国宝で三味線の杵屋浄貢さん、新たに参加したヴァイオリニストの佐久間大和さん、皆さんの演奏も詳しくは触れないが心に染み入った。歌の力、音楽の力というのは、素晴らしい底力を秘めている。人間を勇気づけてくれる。

 
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「すがも児童合唱団」 (撮影:谷川淳)


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おおたか静流さん (撮影:谷川淳)

・7色の声を自在に操るというおおたか静流さん。月刊『清流』にもご登場頂いたこともあり、僕が大好きな歌い手さんだが、静流さんが歌った「あの夏のまま……」という歌は、信州上田市の窪島誠一郎さんの無言館の一枚の画に材を取ったものだとか。戦後54年を経た1999年の夏のこと、戦没画学生慰霊美術館「無言館」の一枚の絵の前に一人の老婦人が立った。彼女はその絵のモデルになった女性だった。この画のモデルとなったこの女学生の、戦地で散った画学生に向けての鎮魂歌は、涙なしに聴くことができない。二十歳の彼女を描き、青春の真っ只中に戦地に駆り立てられ生きて帰らなかった画学生。残された老婦人のノートに書かれた「安典さんへ」と自身の詩「あなたを知らない」を、無言館館主・窪島誠一郎さんが朗読する。そのミニアルバムが8月15日の終戦記念日に発売されたようだ。是非、手に入れたいと思っている。窪島誠一郎さんには、弊社から3冊本を刊行させていただいた。長いお付き合いになるが、終戦記念日のころ、上田市の無言館では鎮魂のコンサートが行われてきた。そこには僕の大好きなヴァイオリニスト天満敦子さんも出演されている。懐かしい名前が出てきてつい脱線してしまった。
 
・実は2時半の開演の前に臼井君と会場近くで食事をしたのだが、その店で思わぬ出会いがあった。大きなテーブルで僕らの前に二人のご婦人が座った。漏れ聞こえてくる話を聞いていると、どうも同じ被爆コンサートにいらした方のようだったので、話しかけてみた。するとなんと毎年、素晴らしいパフォーマンスを見せてくれるクラーク記念国際高校パフォーマンスコースの生徒さんの母堂と祖母だという。ちなみにこのクラーク記念国際高校の校長は、あの冒険家としてその名を知られる三浦雄一郎氏である。僕はいつもクラークの高校生たちのパフォーマンスの迫力には圧倒される思いでいたのだが、その秘密の一端をうかがい知ることができた。聞けば今年入学したばかりの娘さんがいて、その娘さんが選抜されて今回のコンサートに出演しているのだという。その練習量たるやすさまじく、毎日4、5時間の睡眠時間で練習を重ねてきたらしい。道理で一糸乱れぬ動きといい、声の出し方といい、実に堂々としたものだった。その秘密がこの練習の成果だったわけだ。さらに驚いたことに、今回の公演を終えた後、そのまま夜行バスに乗り9時間かけて甲子園球場に駆け付け、北北海道代表を勝ち取ったクラーク記念国際高校の本校と姉妹校に当たる創志学園の野球2試合を全力で応援に行くという。翌朝、帰京すると、そのまま国立劇場ダンス稽古を再開するというから、いくら若いとはいっても過酷な日程ではないか。
 また、約2000校が参加する文化系の甲子園、全国高校演劇大会を勝ち抜いた演劇部優秀校3校が集う国立劇場公演(他に日本音楽・郷土芸能部門あり)に、パフォーマンスコースの生徒は約15分間のダンスを披露する。しかもオープニングパフォーマンスだというから実力は証明済みだ。圧倒的なダンスを舞うべく、稽古に打ち込む日々が続くのだという。この過酷な鍛錬の日々あればこそ、あれだけのパフォーマンスが可能なのであろうと納得したものだ。
 
・ちょっと話が逸れてしまったが、これからも飯島さんには、被爆ピアノコンサートを続けていくことによって、次代を担う若者たちに、自由の尊さ、平和の大切さを伝えていって欲しい。幸いなことに、飯島晶子さんの回りには、たくさんのボランティア、協賛者、協力者が集まってきている。とりわけ、飯島さんが名前を挙げて感謝したいと言った方がいる。それが演出・構成を担当した飯田輝雄さんである。これまで8回すべての演出・構成を手掛け、コンサートを成功に導いてきた。地方公演では、現場のスタッフのモラールアップを図り、また今回の東京公演では150名以上にもなる個性溢れる出演者たちをまとめあげたとか。飯島さんは飯田さんのその手腕がなければ、これまで続けてこられなかったとしみじみ述懐したものだ。しかし、僕はその前提として、本気で協力したいと思わせる飯島さんの人間的魅力があったればこそだと思う。いずれにしても、いいものを見せていただいた。今年もまた、素晴らしいコンサートにお招きいただき、感動をありがとうと伝えたい。

2016.07.21瀬川昌治さん

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瀬川昌治さん(右)と映画通の編集者・高崎俊夫さん。我が社の応接間で。

 

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『素晴らしき哉 映画人生』(定価=本体2200+税、四六判、並製、2012年刊)

 

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『乾杯!ごきげん映画人生』(定価=本体2000+税、四六判、並製、2007年刊)

 

2016620日、日本の映画監督、脚本家、舞台演出家であり、喜劇映画の名手とされ、1960年代に数多くの喜劇シリーズ を監督した瀬川昌治さんの訃報が伝えられた。1925(大正14)年生まれで享年91であった。「ぽんこつ」「図々しい奴」「喜劇 急行列車」等50本以上の映画を撮り、脚本を40作以上書いておられる。僕が大好きな映画監督だっただけに、惜しい人を亡くしたととても残念である。実は瀬川さんは、我が清流出版のある神田神保町のお生まれなのだ。

現在も、弊社から、徒歩3分足らずのマンションにスタジオと自宅を構えておられる。だから弊社から、『乾杯!ごきげん映画人生』(定価2100円、20071月刊)、『素晴らしき哉 映画人生!』(定価2310円、20123月刊)の2冊単行本を刊行させていただいたが、散歩のついでにという感じで直接本を買いに来られたこともあった。とにかく熱心に本を売って下さる方で、同窓会でも映画祭でも、折に触れイベントの際にはサイン会を催し、販促にご協力いただいたものだ。だから著書は増刷出来にもなった。弊社にとって大変有り難い著者であった。

 

・瀬川さんは、幼少時から映画少年であったという。当時、一世を風靡した時代劇映画のスターたち。片岡千恵蔵がいた、「アラカン」の愛称で親しまれた嵐寛寿郎がいた、「バンツマ」と呼ばれた坂東妻三郎がいた、そして大河内傳次郎、市川右太衛門など綺羅星のように並ぶ。そんな時代劇映画に夢中になり、学習院高等科在学中には、先輩である三島由紀夫と映画について語り合ったこともあるという。その後、瀬川さんは東京帝国大学文学部英文科に入学した。が、ただの青白きインテリではなかった。もって生まれた卓抜した運動能力も存分に発揮された。なんと東大野球部に入部し、レギュラー選手となったのだ。俊足・好打の外野手として鳴らし、東京六大学野球のリーグ戦でも大活躍されたというのが凄い。

・東京帝大を卒業すると瀬川さんは最初、映画プロデューサーを目指す。当時ハリウッドのプロデューサー・システムを採り入れていた新東宝の製作部に入社するが、次第に演出に興味を持つようになる。1950年には同社の助監督部に異動して、阿部豊、松林宗、中川信夫などに師事している。1957年、新東宝が大蔵貢のワンマン体制に移行して従来のような自由な映画作りが困難になると、退社を決意する。フリーのシナリオライターになったのだ。そして、1959年、東映の契約助監督となる。

1960年には、『ポンコツ』で監督デビューを果たし、以後、デビュー間もない三田佳子をヒロインに迎えたミュージカル・コメディ『乾杯! ごきげん野郎』や、不器用に生きる男の生きざまを描いた『馬喰一代』など、独自の作風で注目を集めてゆく。アクション映画や文芸映画を手掛ける一方、エノケンと愛称された榎本健一などの浅草出身コメディアンを起用して喜劇に才能を発揮する。そして1967年、東宝や松竹に対抗して東映が立ち上げた喜劇「列車シリーズ」の監督を任される。これが瀬川さんの名をいやが上にも高めることになる。旧国鉄の協力を得て、全国各地の鉄道や観光地が登場する渥美清主演のこのシリーズは、計3本作られ好評を得たが、列車シリーズを高く評価した松竹社長・城戸四郎から「松竹の正月映画で列車シリーズをやってほしい」との誘いを受け、翌1968年には松竹に移籍。山田洋次監督の『男はつらいよ』第一作の同時上映作品として「旅行シリーズ」の一作目『喜劇・大安旅行』をフランキー堺主演で監督したのだ。

・列車シリーズの主人公が鉄道の車掌で固定されていたのに対し、旅行シリーズでは主人公は観光地の鉄道駅に勤務する駅員か駅長なども演じるようになり、作品に登場するロケ地もよりスケールアップして(『喜劇・誘惑旅行』ではフィリピン・ロケを敢行したことも)、喜劇であると同時に観光地映画という独自のジャンルを確立することになる。緻密に練られた構成の妙と、伴淳三郎やミヤコ蝶々などベテラン喜劇俳優を巧みに使いこなしてヒット作を量産する瀬川さんの演出手法は、城戸四郎から絶大な信頼を得ることとなり、1969年の年頭挨拶において城戸は「瀬川を見習え」と全社員に訓示するというエピソードを残している。

・なお、松竹に移籍した背景には、東映で保留されていた学習院の先輩・三島由紀夫の小説『愛の疾走』映画化の企画を進めるという瀬川さんの意図があったが、旅行ものがシリーズ化されたために、『愛の疾走』の企画は立ち消えとなったらしい。瀬川さんとしては痛恨の極みだったに違いない。旅行シリーズは計11本制作され、1972年の『快感旅行』で終了(のちに番外編としてTVドラマ『喜劇団体旅行 開運祈願』がフランキー堺主演で作られた)。松竹では他に、渡辺祐介がメインディレクターを務めた「全員集合!!シリーズ」の『ザ・ドリフターズのカモだ!!御用だ!!』と『正義だ!味方だ!全員集合!!』、前田陽一が立ち上げた「喜劇・男シリーズ」の『喜劇・男の泣きどころ』と『喜劇・男の腕だめし』を手掛けている。

1978年に瀬川さんは松竹を離れ、1984年ににっかつ(日活)ロマンポルノ『トルコ行進曲・夢の城』で映画界カムバックを果たす。この頃から、社会の最底辺にいる水商売の女たちや芸人たちのプロフェッショナリズム賛歌を喜劇タッチの中に盛り込むようになり、ビートたけしやタモリなどテレビタレントの意外な一面を引き出すことに成功した。瀬川さんの人間観察の透徹した目が引き出したものである。1990年の『Mr.レディー 夜明けのシンデレラ』でも、プロ根性のあるニューハーフを芸人と見なし、そのプロフェッショナリズム礼賛を喜劇タッチで描いたこともある。

晩年近くなっても、映画への情熱は衰えない。映画界への恩返しの意味もあったのだろうか、瀬川さんは2009年、俳優育成のため瀬川塾を立ち上げている。瀬川塾を立ち上げて3周年の記念特別公演として現在のラッパ屋の原点とも言われる鈴木聡作『凄い金魚』を築地本願寺のブディストホールで上演したことがある。出演は瀬川塾の塾生たち。そのほか協力出演として山口ひろかず(コント山口君と竹田君)、村山竜平というベテラン俳優2人が力強く支えていた。ご案内をいただいたので、清流出版のメンバー総勢10人でこの『凄い金魚』の観劇に出かけたのを思い出す。160席のホールは超満員で、熱気に満ち溢れていた。笑いとペーソスに満ちたノンストップの2時間で好感の持てる舞台だった。この時瀬川さんは87歳だったはずで、まだ演出家として現役バリバリで活躍されていることが我がことのように嬉しかったことを覚えている。

・瀬川さんの1歳年上の兄・瀬川昌久さんも東京帝国大学法学部の卒業。富士銀行に入行し、ニューヨーク支店駐在中からジャズ評論を開始され、退職後は、音楽関連レクチャーやコンサート企画などを精力的に行ったことで知られる。弊社からも『ジャズで踊って――舶来音楽芸能史』(定価2100円、200510月刊)を刊行させていただいた。さらには三男・瀬川昌昭さんも東京帝国大学政経科を卒業し、NHKに入局。社会番組部長などを歴任され、現在は()瀬川事務所の社長である。まさに秀才三兄弟だが、皆さん趣味が高じて実業として成り立たせている。これが僕にはうらやましい。最後に瀬川事務所を統括する三男・瀬川昌昭さんが、瀬川三兄弟について語った言葉がある。引用させていただいて、瀬川昌治さんを偲ぶこの文を終えたいと思う。

・≪瀬川昌昭さんの文≫――

少し長くなりますが私たち兄弟のことをお話したいと思います。振り返ってみると私は二人の兄の背を見て生い立ち、そして人生を過ごしてきたような気がします。少年時代まで私たち兄弟は両親の愛情に育まれ、環境と情報を殆ど共有して育ちました。その3人が別の道を歩み始めたのは第二次世界大戦が契機でした。私たちに戦前派にとって戦争は大東亜戦争とよばれていました。長兄の昌久は幹部候補生を志願して海軍経理学校に入学、次兄の昌治はやはり幹部候補生として徴兵され、陸軍の、今で言えば特殊部隊人間魚雷の搭乗要員の訓練部隊に身を投じました。

年齢が1才徴兵に届かなかった末弟は旧制高校1年生で、勤労動員という名のもとに兵器工場に派遣されました。海軍、陸軍、学徒勤労隊とそれぞれ違う世界を見ることになります。当時の若者にとって出征することは再び生きて会えないと覚悟することでした。出征する兄たちとの別れ際に「もし空襲で家が燃えたら何を持ち出すか?」遺言を訊くつもりで尋ねたことを思い出します。昌久は「レコード」と答え、昌治は「本」と言いました。レコードは兄が戦時中に東京神田の古レコード屋を廻って集めていた内外のジャズのSP盤、昌治の「本」は太宰治や田中英光が多かったと記憶しています。

私たちの家は昭和207月、最後の東京大空襲で延焼しました。家を守っていた私は庭に掘った防空壕に「レコード」と「本」を運びましたが、お宝の大部分は灰と化してしまいました。命ながらえて終戦後間もなく再会の日を迎えた3兄弟はその後三人三様の道を歩き始めます。昌久は法学部で庭球部、昌治は文学部で野球部、私は経済学部で陸上競技部でした。仕事も銀行員、映画監督、テレビディレクターとサイクルが全く違いました。時は夢のように過ぎ、そろって21世紀を迎えることになった次第です。

少年時代から夢だったジャズ専門家を達成した昌久は、今でも夜11時に帰宅、ジャズをきき、原稿を書いて午前23時就寝、10時前後起床すると慌しく朝食をとって外出します。「3人でめし食おうよ」というと手帳を開いて、「今月は空いてないな、来月の20日ごろどうだ」と言うような始末です。監督の兄も留守がちです。問い合わせると「今週はシナリオでカンヅメなのよ」と兄嫁が教えてくれるという具合です。

70の声を聞いた頃から、私は自身「老い」を感じるようになりました。体に色々な不具合が生じます。こころにも老いを感じます。「昔ならこんな仕事は半日で片付けられたことなのに」頭が廻らない、動作が遅いもどかしさをたびたび自覚しては年を思うようになりました。でも3才、4才年上の兄たちは殆ど老いを感じていないように見えます。それなら俺もあと3年、4年は大丈夫かなと気を取り直します。そんなときふと思いつきました。高齢化社会、60才以上の人口が4人に1人になった日本で、同じシニア又は高齢者の同世代の仲間たちは加齢をどう捉えているのだろう。もし残る人生をその人たちと共有できたらそれは素晴らしい人生のフィナーレとなるのではないか? 兄たちも賛同してくれました。

私たちは大したことはできません。できることは我々が一生で蓄積してきた事々を語り伝えることぐらいでしょう。高齢者には限りません。人生を語り伝えたいと言う思いを持つ方に1人でも多くここに来て語っていただければ幸いです。私はこの「イーライフストリート」のデジタル広場で言いたい、話したいと思うことを記録して行きたいと考えています。また自分の経験やアドバイスで皆さんの悩みやストレスが解決できたらなお素晴らしいと思います。老いてもなお、志を持ち続けたいと願う方々はぜひストリートを散歩して下さるよう願っております。

・瀬川3兄弟、よく分かったと思います。各々、ご自分の才能と、得意なジャンルを、お持ちになっている。このような棲み分けがあると、喧嘩にならず、理想的な兄弟関係が成立する。本当にうらやましい兄弟愛だ。

2016.06.17藍染作家・陶芸家の菅原匠さん

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菅原匠さんの個展案内状

 

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会場の前で菅原匠さんと奥様の麗子さん

 

・菅原匠さんの「藍染とやきもの展」が例年通り開催された。会期は525()から30()までの6日間。会場は松屋銀座8階のイベントスクエアである。僕はこの時期、菅原さんの個展を見に行くのをいつも楽しみにしている。白洲正子さんが絶賛していたように、藍染作品が剽軽でとても魅力的なのだ。実は、弊社の応接室入口にも菅原さんの藍染暖簾がかかっている。会場で気に入って会社用に購入したものだ。モチーフは山道をゆく西行の後ろ姿である。飄々とした絵柄は温もりがあり、生き馬の目を抜くようなビジネス世界に一服の清涼剤となっている。菅原さんの藍染の制作過程はユニークなものだ。一般的には型紙や下絵を用いて図柄を描くものだが、菅原さんは「指描き」や「筒描き」で麻布に直に図柄を描いていく。自信と技術的な裏付けあればこその技法である。そのデザインが前述したように愛嬌があるというか、遊び心に満ちたもので、思わず笑みがこぼれるのはいつものことだ。今回の案内状にも藍染と設楽焼が一点ずつ印刷されていた。藍染は泳ぐ亀が描かれた麻布・筒引の暖簾である。表情がユーモラスでこれぞ菅原さんの本領発揮といった作品である。焼き物は設楽焼の飛雲文壺で、これも現物を見たくなると思わせるものだった。


・そしてこれは極めて個人的な興味だが、僕が菅原さんの個展を楽しみにする理由がもう一つある。菅原さんのファンは、やはり大半が女性で美人が多いのも特徴である。何回か会場でお会いした菅原匠ファンのお嬢さんがいる。この方は気に入った作品があると購入するというが、会期中、何回も訪れるらしい。だからお会いできる確率も高くなる。僕好みの美人なので無理を言って、菅原さん夫妻と一緒に写真を撮らせていただいたこともある。今年もお会いできたらな、と心密かに思っていたのだ。

 

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生けられたイボタノキが芳香を放っていた

 

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藍染作品 暖簾と染織

 

・会場は藍染作品と焼き物類で埋め尽くされていた。展示の仕方も藍染と焼き物をコラボさせている。藍染の敷物の上に花を生けた焼き物壺が飾られている。生けられた草花や草木は、すべて大島のご自宅から切ってきたものだ。この日も会場に入ってすぐにいい香りに包まれた。生けられたイボタノキの芳香が、会場内に漂っていたのだ。心憎いばかりの演出である。藍染の暖簾もいいが、現代風にアレンジした藍染のリュックも出品されている。このあたり、実に菅原さんの考え方は柔軟なのだ。伝統の技である藍染で、リュックを作るなど、なかなか発想できることではない。そんな発想の柔軟性は焼き物にも発揮されている。それが焼き物の仏像である。すでに京都のお寺に収めた仏像もあるらしい。通常、仏像は型で抜いて作る。ところが、菅原さんは藍染同様、手作りにこだわる。手間暇かけて、オリジナル作品を生み出していく。大したプロ根性である。

 

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この遊び心こそ菅原さんの真骨頂だ

 

・菅原さんの交友関係は広い。お師匠さんが、あの水原徳言翁だとはうなづける。水原徳言とは、あの世界的なドイツの建築家、ブルーノ・タウトと深く親交のあった知の巨人である。タウトはご承知の通り、桂離宮の名を世界に知らしめた世界的な建築家。水原徳言は、日本における、ブルーノ・タウトの唯一の弟子と言われている。類まれな才を発揮し、都市計画、建築、デザイン、美術、商業に多くの影響を与えた人物だ。1911年に生まれ、1930年、井上房一郎が高崎で始めた工芸製品活動に参加した。タウトが高崎に滞在し、工芸製品制作の指導に関わるようになった際、共同制作者、協力者として活動したことで知られる。実は菅原さんと織司・田島隆夫さんとはごく親しい間柄なのだが、この二人を結び付けたのが水原徳言翁だったという。菅原さんは十代の頃から水原徳言に私淑していたらしい。三十数年前のある日、徳言翁にこう言われたのだという。「行田の田島隆夫さんは、江戸時代の紬のような良い布を織っている。訪ねて行って勉強させてもらったらどうか」と。

 

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陶器と藍染のコラボレーション

 

1972年、初めて田島さんの織った織物を見た菅原さんは衝撃を受ける。「田島さんの織物は、配色といい、縞模様といい、風合いといい、すべてが過不足ないバランス。素朴でいて、高雅な詩情すら醸し出していました」。染織工芸に関して造詣が深かった白洲正子さんは、乞われて銀座で「こうげい」という店を任されていたことがある。白洲さんが四十代も半ばの頃のことだ。古澤万千子、志村ふくみといったすぐれた工芸作家も白洲さんとの交流で技を磨いていく。この店に織物を納めていた職人の一人が田島隆夫さんである。田島さんが初めて白洲さんに会ったのは、昭和三十五年頃のこと。柳悦博の紹介だったという。田島さんの織物は地機織りという。晴れ着よりも普段着を目指したものだった。一般の手織りの機より、風合いのいい織物ができた。だからこそ、普段着にはピッタリだったのだ。厳しい審美眼の持ち主であった白洲さんのお眼鏡に叶ったのだから品質は一級品だった。実際、白洲さんが亡くなって後、白洲家の箪笥からは畳紙に包まれた十数点の田島さんの織物が出てきた。よほど気に入っていたのだろう、大切にしまい込まれていたという。

 

・菅原さんは書画も趣味で描いている。趣味というには失礼なほど、レベルは高い。田島さんは大島に菅原さんを訪ねて、一緒にスケッチをしたという。菅原さんの運転で、尾瀬にドライブがてら、スケッチ旅行に行ったこともある。二人で妙義山を描いた時のエピソードが面白い。描いているうちに日が陰ってきた。そこで車のライトをつけて描いた。ついには妙義山も見えなくなってきた。星がまたたき始めても書き続けた。家に帰って二人の絵を見比べてみると、菅原さんの山の絵はいかにも妙義山らしかったらしいが、田島さんの絵は真っ黒に塗られていたという。田島さんは真っ暗になったら、黒く塗るより仕方なかったと言ったらしい。絵の中の嘘を嫌う、田島さんらしさがよく表れている。

 

・大島のご自宅には、田島さんの書画がたくさん残されている。それもいいものばかりが。なぜなのか。実は田島さんは藍染に菅原宅を訪れると、何日かは泊まっていくことになる。前述のように、スケッチに出かけたり、近隣から草花、草木などを取ってきて、自宅で描くこともあった。そして帰る時に、描いた作品群の中から、泊まり賃代わりに、特に気に入ったものを何点か菅原さんに選ばせたという。だから遊び心が横溢した素晴らしい書画が、ご自宅に所蔵されているわけだ。機会があったら是非、この作品群を見せてもらいたいものだ。ついでといってはなんだが、蔵には李朝の壺だけでも、相当数お持ちらしい。菅原さんは贋作も相当混じっていると思うとおっしゃるが、それはそれで興味深い。是非、見せてもらいたい気がする。

 

・焼き物を焼く時期は、寒い時期である。菅原さんも窯の火入れは11月から12月が多い。通常使用する薪は、備前から取り寄せた赤松を使うという。焼き物を焼く登り窯も敷地内に持っている。今回展示されていた焼き物も、厳冬期にご夫妻が寝ずの番をして窯を焚き、焼き上げたものだ。火を絶やさず、不眠不休で薪をくべ続けるのは大変な重労働であるが、ご夫妻は自分たちだけでこれまでも焼き上げてきた。信楽焼きの「波文壷」「高坯形花生」、お手軽なところでは、お猪口にご飯茶碗などまで、実に多彩で色も上品な色合いである。

 

・伊豆大島の古い民家で、李朝の壺などの骨薫に囲まれ、自然とつかず離れず暮らしている。奥様の麗子さんとお話できたので聞いてみると、窯焚きはやはり年々相当な重労働になっているらしい。でも、二人力を合わせて、やれるところまでやってみたいとの決意を述べられた。それに菅原さんの体調に関していえば、小麦粉のグルテンアレルギーがあるのだという。菅原さんの鼻が赤く見えるのは、そのアレルギー反応の現れで、酒焼けに見られることもあるらしい。つまり酒好きの?兵衛と思われることが多いらしいが、実際には下戸の口だという。だからパンが大好きな菅原さんだが、原料を小麦粉でなく米粉にするなど厳選しないとアレルギー反応が出てしまうらしい。会場で菅原さんに、パンを差し入れておられたご婦人がいたが、こんな暮らしぶりと温かな人脈に恵まれた菅原さんが僕は羨ましくなった。

ところで前述した菅原ファンのお嬢さんであるが、残念ながら今回お会いできなかった。まあ、ご縁があればきっとまたお会いできるだろう。来年の個展を待とうと思う。

2016.05.16高田宏さん

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弊社から2冊の本を刊行された。『出会う』『還暦後』、いずれも快著であった


・高田宏さんが亡くなられた。昨年の11月のことである。83歳、死因は肺がんであった。すでに半年ほど経ったことになる。実はもっと早く書きたかったのだが、つい書きそびれてしまった。僕は編集者としての高田宏さんのファンであり尊敬もしていた。高田さんは、当代きっての読書人であり、博覧強記の人であった。若い頃から無類の酒好きで知られ、酒が入ると底なしだったと聞く。しかし、場の盛り上げ方に秀でていて、最高の話し上手で、聞き上手でもあったらしい。弊社の編集担当者だった臼井雅観君は、神田の路地裏のショットバーに誘われたことがあるという。杯を重ねるうち、常連客も交えての談論風発する楽しい酒になったようだ。

    自然が好きだから津々浦々の島巡りをするなど旅を愛した。旅のエッセイは自然派高田さんの面目躍如である。「読売文学賞」を受賞した『木に会う』など、その最たるもので、我々が忘れかけていた木と人間との関わりを、見て、歩いて、感じて、考えた、優しさに満ちた自然論である。樹齢七千年の縄文杉の下で一夜を過ごし、白山のブナ林を歩く。真冬の山里を訪ね、銀座の並木に思いを馳せ、能面師、木工師と対話する。そして、木とともにある文化、木とともにある生活、木とともにある生命とは、どういうことなのか、静かに語りかけてくるのである。また、大の猫好きでも知られ、自宅には常に数匹の猫が同居し、今度生まれる時には猫か樹木になると明言していたとか。八ケ岳山中に山小屋を持ち、よく独りっきりでこもって執筆に励んだ。だから社交好きのようでいて、孤独癖があり、見識が広く融通性のある人物のように見えて、ご自分に関しては結構頑固なほどの思い込みが強かったようだ。

・高田さんを世に知らしめたのは、あの伝説ともなった『エナジー』誌の編集長時代である。京都大学文学部仏文学科を卒業後、光文社に入社、その後、アジア経済研究所の雑誌編集を経て、1964年から11年間エッソ石油(現・エクソンモービル)広報部でPR誌『エナジー』の編集長をされた。このPR誌のクォリティがあまりに高く評判となり、一躍世に知られるところとなった。高田さんは京大時代からの友人、SF作家の小松左京や、梅棹忠夫など京大人文研のメンバーにしばしば原稿執筆を依頼し、斬新な特集記事を組み、PR誌を超えた雑誌として評価されたのである。

    小松左京といえば、このところ日本列島で大地震が続いているが、映画化もされた著書『日本沈没』では、地震列島日本の今日と行く末を予知したような符合に驚く。日本列島沈没はあくまでも舞台設定で、地球物理学への関心はその後から涌いたものだという。しかし、そのために駆使されたのが当時やっと認知され始めた「プレート・テクトニクス」であり、この作品はその分野を広く紹介する大きな役割も果たした。この分野に関する作品中の解説やアイデアは修士論文に相当するとの声もあったほどだ。難民となって世界中に散った日本人を描く第2部の構想(仮題は『日本漂流』)もあり、下巻の最後に「第1部・完」と記されていた。下巻発刊後、長い間執筆されることはなかったが、2006年のリメイク版映画の公開に合わせ谷甲州との共著という形で出版されている。

    また、吹田市千里万博公園にある国立民族学博物館初代館長を務めた梅棹忠夫も印象深い。日本における文化人類学のパイオニアであり、梅棹文明学とも称されるユニークな文明論を展開し、多方面に多くの影響を与えたことで知られる。京大では今西錦司門下の一人。生態学が出発点であったが、動物社会学を経て民族学(文化人類学)、比較文明論に研究の中心を移した。僕の記憶に残っているのは、梅棹忠夫が世界各地で撮影した写真の中から自ら46点を選び、写真展「民族学者 梅棹忠夫の眼」を1982 年から2010年にかけて国内各地で開催したことだ。日本写真家協会会員でもあった民族学者・梅棹忠夫が、カメラ・レンズを通して「眼」をこらした世界は見る者の目を釘付けにした。

    例えばチベット系農耕民で、金沙江上流の大屈曲点ちかく、玉龍山(5950メール)の山麓、麗江にすむナシ族を梅棹忠夫は撮影している。古くから漢文化に接し、その影響をうけ独特の風俗、文化を保ち、奇妙な絵文字で書かれた「トンバ経」を伝えているという。また、イタリア共和国アブルッツォ・モリーゼ県チェルクエート村の写真である。年に一度の村祭の場面だ。お寺での儀式ののち、聖者の像、マリア様の像などが担ぎ出され、村の中を練り歩く。村びとは、老人も子どもも、その行列に加わる。となり村から、楽隊が雇われてきている。そんな知られざる世界を垣間見せてくれたのだ。

・話を戻すが、僕は高田宏さんの本を出したいと強く思った。そして、弊社でその高田さんの本を2冊刊行できたのは、すこぶる嬉しかった。その本とは、『出会う』(1998年刊)と『還暦後』(2000年刊)である。ともにエッセイを編んだものだが、高田さんらしさがよく表れた本だと思っている。『出会う』は、樹木・森・島・雪などの自然の佇まい、旅先での何気ない人間同士の触れ合いを描いた数々のエッセイの中から、担当編集者の臼井君がページ数を決め選んで編んだもの。

    また、『還暦後』はその題名通り、高田さんが還暦過ぎて書いたエッセイから精選して編んだものだ。60代半ばを過ぎると、当然のことながら生と死について思うところが多くなる。高田さんは言う。「人間も、草木鳥獣虫魚や山河も、すべてが懐かしく思えてくる。旅をする日々には、胸の奥にこれが最後という気持ちがある」。そんな気分を背景にして還暦後に書かれたエッセイを集成したものだけに、しみじみと心に沁みてくるエッセイだ。

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『出会う』(1998年刊)


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『還暦後』(2000年刊)

・高田さんにこんな話を聞いたことがある。「60代半ばを過ぎれば、健康診断で数値が悪い個所が出て当然だ。だから再検査と称して、身体中を小突き回されるより、健康診断そのものを受けないことにしました」と。もし、病気が発症したとしても、淡々とそれを受け入れるというのである。だから「もし、半身不随とか車椅子生活を余儀なくされたとしたら、真っ赤な車椅子を買って動き回りたいもの」と楽しそうに語った。いかにも高田さんらしい発言だと感じ入った覚えがある。僕はリースの車椅子で、高田さんのように思い切った発想ができない。

    何度か高田さんの奥沢の自宅を訪れた臼井君によれば、書斎には木工の人間国宝、黒田辰秋氏のがっしりした大机が置いてあり、高田さんはそこで原稿執筆していたようだ。高田さんの家の猫たちは、大事にされているからだろう、20歳近い老いた猫が数匹いた。後で触れたいと思うが、高田さんの二男、高田雄太さんは猫を得意とするイラストレーターとして活躍中である。

・高田宏さんのプロフィールを簡単にご紹介しておく。1932年に京都市に生まれ、4歳の時に石川県加賀市大聖寺町に移り住み、大聖寺高等学校をへて京都大文学部仏文科へ進む。大学に入って、マックス・スティルネルの著になる『唯一者とその所有』(辻潤訳)に出会う。これが高田さんのバックボーンとなった。すなわち、この本の「自分を何物にも従属させないで生きる」という考えに共感し、何物にも縛られない自分こそが真に自由な自分であると確信し、「とらわれない、縛られない」を自らの生き方のモットーとしたのである。僕も、若い頃、スティルネルに入れ込んだことがある。辻潤はじめ、松尾邦之助、大杉栄、石川三四郎、幸徳秋水、堺利彦、荒畑寒村など無政府主義や自由思想の本を片っ端から読んだものだ。わが師、椎名其二さんの影響が大きかった。

    高田さんは大学卒業後、編集者として光文社で少女雑誌、アジア経済研究所で『アジア経済』の編集に携わり、その後、エッソ石油でPR誌『エナジー』『エナジー対話』『エナジー叢書』『エナジー小事典』等の創刊、また、石油情報誌や社内報等の編集に携わり、28年9ヶ月を雑誌編集一筋に勤め上げた。若い頃に何ものにも従属しないと決めたとしても、食べていかなければならない。生活のためには職に就かなければならないのだ。だが、雑誌編集の要諦は企画力であり、何ものにとらわれない斬新さが重要なので、「とらわれない、縛られない」という基本姿勢は、雑誌編集の仕事を続けていく上で、有利に働いたといえよう。
    雑誌の企画を練るのには、知識が必要である。多種多様な本を読まなければならない。取材では多くの人と会い、日本各地を巡り歩くことになった。それによって広範囲の知識を得るとともに、個性的な人物や地方の自然・民俗・歴史に直接触れることができた。結果的に広い視野に立った大局観と独自の自然観や歴史観を培うことになった。

    1975年、46歳の時、編集の総括として『言葉の海へ』を出版し、退職の意志を固め文筆専業となった。代表作には『島焼け』などの歴史小説をはじめ、自然、猫などをテーマに随筆・評論・紀行など著書は都合百冊ほどになる。公職としても日本ペンクラブ理事、石川県九谷焼美術館館長、深田久弥山の文化館館長をそれぞれ務め、また将棋ペンクラブ会長でもあった。受賞歴としては、1978年に『言葉の海へ』(言語学者・大槻文彦の評伝)で大佛次郎賞と亀井勝一郎賞、1990年に『木に会う』で読売文学賞、1995年に雪国文化賞、1996年に旅の文化賞をそれぞれ受賞している。

・高田さんのご紹介で弊社から本を出した方がいる。それが高田さんの京大時代からの親友、辻一郎さんである。辻さんは、『忘れえぬ人々―放送記者40年のノートから』(1998年刊) 、『父の酒』(2001年刊)、『私だけの放送史―民放の黎明期を駆ける』(2008年刊)と都合3冊出させていただいた。辻さんは1933年、奈良県の生まれ。京都大学法学部卒業。新日本放送(現・毎日放送)に入社。主として報道畑を歩き、取材活動にあたる一方、報道番組の制作に携わった方だ。テレビ番組「若い広場」「70年への対話」で民間放送連盟賞、「対話1972」「20世紀の映像」でギャラクシー賞を受賞している。毎日放送取締役報道局長、取締役編成局主幹を務めた後、大学教授となった。高田さんとの出会いが面白い。京大入学後の健康診断で相前後して並ぶことになった二人、話が弾んで親友となり、生涯の付き合いとなったというのだから、まさに“人生は出会いである”を地でいったことになる。

・ご子息についても簡単に触れておきたい。長男の高田尚平さんは、将棋棋士で七段。1962年の生まれだから54歳になられる。麻布の中高出の秀才。将棋はかなり特徴的であり、トップアマの中にも愛用する高田流と呼ばれる指し方が幾つかあるという。それが2冊の著書になっている。書名もズバリ『高田流新感覚振り飛車破り』(2000年刊)と『高田流新戦略3手目7八金』(2002年刊)である。いずれも毎日コミュニケーションズから刊行されている。アマチュア高段者のバイブルになっているそうだ。天才が群雄割拠するプロ棋士の世界。元将棋ペンクラブ会長の高田宏さんも泉下から、暖かく見守っているに違いない。

    二男の高田雄太さんは、前述したようにイラストレーターとして活躍中だ。猫を描くのを得意としており、個展もされている。『猫のしっぽ』という本では、文が高田宏、イラストが高田雄太で親子の共作を果たしている。雄太さんは、今年も「猫だくさん」展を開催された。猫の肖像画展といったところ。高田家で暮らしを共にした代々の猫たち。そしてご近所や友人の猫たち30数匹がモデルだそう。ハイパーリアリズムに近い細密な筆遣いで描かれた猫たち。柔らかい毛並みやヒゲ、硝子玉のように光る目はそれぞれの「猫生」のドラマを想像させ、楽しい。そしてなにより猫たちを深く慈しむ画家のこころが伝わってくる。そしてこれからは絵本に力を入れていきたいようだ。

    高田さんとは異なる道を歩むご子息だが、何ごとにもとらわれない、縛られないという生き方は父君のモットーを引き継いでいるように思われる。自分の信じた道を歩き、新たな新境地を開拓して欲しいと願っている。

2016.04.26堤未果さん

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堤未果さん。お一人で来社された。今から10年前の2006年

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堤未果さん(右)とマネジャーの佐藤より子さん。2009年11月

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宇宙物理学者(鈴鹿短期大学名誉学長)・佐治晴夫さんとの対談集

・新進ジャーナリストの堤未果さんが何回か弊社を訪ねて来られた。上の写真はその時撮影した写真である。最初はお1人で、2度目の来社時は、マネジャーの佐藤より子さんと一緒だった。お会いしたきっかけは、筑摩書房の看板雑誌『展望』『人間として』『終末から』などの名編集長として知られた原田奈翁雄さんのご紹介であった。親しくしていただいていた堤江実さんのお嬢様と分かり、より一層、親近感も増し、しばしばお会いすることになった。
 
 堤江実さんには、弊社からは都合6冊の単行本、絵本などを刊行させていただいた。お嬢さんの未果さんにも、是非単行本の出版をと思っていた。そこで未果さんが尊敬する人物で旧知の宇宙物理学者であった佐治晴夫さんとの対談という形で1冊出させていただいた。それが『堤未果と考える  人はなぜ、同じ過ちを繰り返すのか?』である。
 
 それにしても、未果さんの活躍ぶりは目覚ましかった。2008年1月に刊行された『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波書店刊)では、知られざるアメリカの暗部を抉り出してみせた。学校給食にファストフード企業が食い込み、そのため貧困層の多い公立学校では約半分の子供が肥満児になっているという現実。また、高額医療費に耐え切れず無保険者が5000万人近くに増大し、一方病院もコスト削減で医療過誤が続出している事実。そして未果さんがもっとも力を入れたとみられるのが、イラク戦争についての記述だった。大学に通えない貧困層の学生たちが戦地に行った後、奨学金が出るといって食い込んだ米軍のリクルーター。富裕層と貧困層という二極分化が進行していく中で、市場原理主義が行き着くところまで行ってしまったアメリカを透徹した目で見事に分析してみせた。
 
 同書は、日本エッセイストクラブ賞、2009年の新書大賞を受賞し、トータル30万部を超えるベストセラーとなったのは皆さんもご承知の通り。岩波書店からは続編として『ルポ 貧困大国アメリカII』、そして『(株)貧困大国アメリカ』と執筆刊行し、シリーズを完結させている。第3弾にあたる『(株)貧困大国アメリカ』は、「岩波書店100周年 私の選ぶ岩波本ランキング」でベスト3に選ばれたと聞く。この本の内容も実に衝撃的だった。
 
 国際連合の「人間開発報告書」によれば、世界中の85人の大富豪が、地球上35億人分に相当する財産をもっていると言われる。アメリカだけに限ってみても、上位1%の人間が、国全体の富の80%を独占しているというのだ。想像を絶する資金力を持った経済界が、政治と癒着する「コーポラテイズム」が、大幅な規制緩和とあらゆる分野の市場化を推し進めている。こうした1%の富裕層が99%を支配する「1% vs 99%」の構図が世界的に広がり、本家本元アメリカではあらゆるものが巨大企業に飲み込まれ、株式会社化が加速し続けていると解説する。果たしてこんな状況下で国民は主権を取り戻せるのかと問いかけてくるのだ。そしてTPPが批准されれば、アメリカの市場原理主義が日本にも当然飛び火することになる。だから未果さんは、こうして警鐘を鳴らし続けているのである。
 
 
・ここで、堤未果さんの経歴を簡単に紹介しておきたい。和光中学・和光高校を卒業後、大学入学のため渡米する。これは未果さんの弟で世界的なアニメーターとなった堤大介さんとまったく同じである。前号で触れたように、大介さんはデザイン系に進んだが、未果さんはニューヨーク州立大学国際関係論学科を経て、ニューヨーク州立大学院国際関係論研究科修士課程を修了。国連、アムネスティインターナショナルのニューヨーク支局員を経て、米国野村證券に勤務中、あの9.11に遭遇する。衝撃を受けて、日本に帰国後は、アメリカ―東京間を行き来しながら、執筆・講演活動を続けている。国際政治環境研究所の理事でもある。


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4月1日、最新刊の『政府は必ず嘘をつく 増補版』(角川マガジンズ刊)を僕の家に送ってくれた。「袋とじ」で、未公開情報を書き下ろし!と帯にある。
 

・未果さんの『沈みゆく大国 アメリカ』『沈みゆく大国アメリカ 逃げ切れ!日本の医療』(ともに集英社新書)は、TPPでも特に医療分野にメスを入れたものだ。最新刊の『政府は必ず嘘をつく 増補版』(角川マガジンズ)でも、医療分野における日本の国民皆保険制度の危機を強調している。なぜ新書には珍しい袋とじの増補版にしたのか。マイ・ナンバー制度の導入やTPPの批准の裏に隠された部分を知らしめたかったのではないか。多分、このまま日本国民が政治に無知・無関心のままであるなら、確実に今のアメリカのようになる。そんな状況下で、一人一人が自分で考えるための材料としてこの本を読んでもらいたい、という切なる思いからではないか。僕はそう思う。
 
 ところで、関西系のテレビに出演した未果さんは、安倍政権が取り組む国家戦略特区で、医療分野の規制緩和に向けて動き出していることを指摘、その脅威を語っていた。特区内に本社を置けば、特区外でも同様の医療サービスを展開できる。事実上の自由診療解禁を危惧しているのだ。マスコミはTPPを自由化というスタンスで報じているが、TPPの実態はいわば独占である。国内産業保護のために規制していた参加国のルールは自由化されても、製薬会社などが持つ特許や知財権は彼らの独占状態になるというのだ。1%の人々にとってTPPは夢のまた夢。ロビイストが米議会にバラまいた献金は100億円超といわれている。しかし、その何百倍もの恩恵を未来永劫得られるのだから安い投資だと分析している。現在、大統領選挙の真っ只中にあるアメリカ。民主党、共和党の候補者はすべからくTPPの批准には否定的なようだが、予断は許さない。実現に向けて彼らはさらに札束をばら撒いて批准に向けて圧力を強めるはずだという。
 
 
・その他にも、未果さんは注目すべき事実を増補版で公開している。2016年2月4日、ニュージーランドのオークランド市、スカイシティ・コンベンションセンターで日本やアメリカを含む12か国の代表が、TPPに調印した。2015年10月にアトランタで大筋合意がなされ、30章からなる約600頁の全文は、付属書など関連文書を含めると1500頁を超える。日本では全訳でなく大幅に割愛され、わずか97頁に縮小された「概要」だった。特に参加国内から批判の声が大きいISDS条項の章はスカスカだった。全文が訳された英語圏、仏語圏、スペイン語圏の参加国は、内容を検討した人々から声が上がり始める。アメリカからは、「製薬企業に医薬品の独占権が与えられる」「安価な労働者に職が奪われる」「食の安全が脅かされる」などと懸念する声が。また、オーストラリアからは「企業利益拡大のために、消費者・市民が犠牲になる」のでは。ニュージーランドからは「ISDS条項の乱用防止策がザル法だ」などと指摘された。
 
 実は、調印式の直前、国際人権理事会理事でジュネーブ外交大学院国際法教授のデ・サヤス氏は、全参加国に対し、「TPP条約に署名も批准もするな」と要請していたというのだ。その理由は不当な企業活動を規制できなくなることをはじめ、その内容に民主主義をおびやかす重大な欠陥があるからだという。国連機関がこうした要請を各国政府に行うことは極めて異例だが、これについて日本政府、国内マスコミは揃って沈黙しており、大半の国会議員もこうした要請文の存在すら知らないでいる。こんなシャープな切り口で問題点を抉り出し、それを白日の元に晒してみせる。だからこそ、若い人たちを中心に支持を集めているのであろう。
 
 
・未果さんは今年前半、単行本を3冊刊行する予定。1冊目は今月刊行されたばかりの『政府は必ず嘘をつく 増補版』(4月10日)である。そして、『18歳の民主主義』(岩波新書)が4月20日に、3冊目が7月10日刊行予定で『政府は必ず嘘をつく PART2(仮題)』(角川新書)だという。今年の後半は、まだ未定のようなので、是非、弊社も時流に合った単行本企画をぶつけて、名乗りをあげて欲しいと思っている。
 
 今年3月27日は、未果さんの夫君・川田龍平さんが関係する「川田龍平といのちを守る会」の年次総会が行われた。この総会には、ご多忙の中を鎌田實先生が駆けつけて講演をされたと聞く。弊社の月刊『清流』でも鎌田先生には連載執筆をお願いしたりしてお世話になった。僕はハワイ旅行をご一緒したこともある。お2人にとっても、第二の父親ともいうべき鎌田先生の存在は、きっと精神的支柱であり続けていると思う。僕も聴いたことがあるが、鎌田先生の「いのちの講演」はいつ聞いても本当に素晴らしい。きっと会場を感動の渦に巻き込んだに違いない。
 
 
・最近僕は、血ということについて考える。思うに、未果さんは意識するしないに関わらず、父親のばばこういちさんからは「ジャーナリスト魂」を、母親の堤江実さんからは「詩人の魂」を受け継いできたように思える。ばばこういちさんを若い方はご存じないかもしれないが、フリーの放送ジャーナリストとしてテレビ番組に数多く出演、番組の企画制作、執筆・講演活動も精力的にこなした。特にテレビ朝日の『アフタヌーンショー』では水曜日の企画「なっとくいかないコーナー」のレポーター役を務め、“納得いかない”政治・社会問題(主に公共事業や官僚・閣僚の気質、迷惑行為など)を徹底追求したことで知られる。
 
 ここで面白い対談をご紹介したい。新潮社の『波』2009年5月号だが、田勢康弘さんと五木寛之さんの対談の一部分である。
 
≪田勢――昔とくらべたら、ずいぶん変わりましたね。岩波といえば、『ルポ 貧困大国アメリカ』を書いた堤未果さんのお父さん、意外な方なんですね。五木さんはご存知でしたか?
 五木――知っているも何も、彼にはどれだけやられたか。かつての雀友、ばばこういちさん。無頼派ジャーナリストの彼に、あんな優秀なお嬢さんがいたとは……時代は変わったなあ(笑)≫
 
 ばばこういちというジャーナリストの知られざる一面を知るに恰好の記述である。未果さんは、今後もお二人から受け継いだ DNAに磨きをかけ、さらに書き手として成長していくに違いない。これは母堂の江実さんのDNAなのだろうか、精神的にもタフで、土性骨もしっかりしている。まさに伸び盛りのジャーナリストである。20代の若者たちと団塊世代のはざ間にあって、なんとか橋渡し役をしたいとの夢をお持ちのようだ。僕としてもできる限り応援していきたいと思っている。

2016.03.29堤江実さん、堤大介さん

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堤大介さんの「トンコハウス展」会場入り口にて

 

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キャラクターデザインや背景などメイキングが展示されている

 

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弊社応接室にて(右より堤江実さん、堤未果さん、杉田明維子さん)

 

・堤江実(つつみ・えみ)さんとは長いお付き合いになる。何回かこのコラムにもご登場頂いた。江実さんは、東京都のご出身。立教大学文学部英米文学科を卒業され、文化放送のアナウンサーとなった。その後、グリーティングカード、ラッピングペーパーの会社(株)カミカを創業して経営者となり、現在は詩人、翻訳家、エッセイスト、絵本作家など多彩な顔をもつ。

 ここで、ちょっと旧聞になるが、報道写真家の笹本恒子さん(当時82歳、現在102歳)の写真集『きらめいて生きる 明治の女性たち』19965月、弊社から刊行された。そして、この本を取り上げた写真展が催された。紫式部から続いてきた煌めく女性の歴史を俯瞰する「千年のバトンタッチ」と題する写真展を開催したが、資生堂の福原義春社長(現・名誉会長)がいたく気に入って、資生堂別館を展示に使用するように取り計らってくれた。その準備に奔走されたのが堤江実さんである。福原さんはこのイベントを仕切れる女性として江実さんに白羽の矢を立てて、江実さんは、その起用に見事に応えてみせた。こうして「千年のバトンタッチ」は、福原義春さん、堤江実さん、笹本恒子さんのトライアングルで、写真展は成功裏に幕を閉じたのだ。この間、僕は堤江実さんとは名刺を遣り取りしたが、後年、さまざまな企画でお世話になろうとは、その時、思ってもいなかった。

 堤江実さんは、近年の意欲的な取り組みとして、ミュージシャンと競演する自作の詩の朗読コンサート、詩の朗読のワークショップ、日本語についての講演など意欲的にこなされている。また、豪華客船「飛鳥II」での世界一周クルーズで、詩の朗読教室講師を務めている。2011年には、詩と絵本の活動実績に対して、「東久邇宮文化褒賞」を受賞した。女性の歳について語るのは失礼だとは思うが、僕とはほぼ同年代の方なので、特に親近感が強いのかもしれない。

 

・だが、堤江実さんの縁はますます深まってきた。清流出版から、書下ろしエッセイ『ことば美人になりたいあなたへ』、ニューヨーク在住のサナエ・カワグチさん著を翻訳した『タイム・オブ・イノセンス――ある日系二世少女の物語』を刊行させて頂いた。絵本は弊社から都合4されており、『うまれるってうれしいな』(絵・杉田明維子)、『水のミーシャ』(絵・出射茂 解説・功刀正行)、『風のリーラ』(絵・出射茂 解説・功刀正行)、『森のフォーレ』(絵・出射茂 解説・功刀正行)等の原作者である。また、お嬢さんの堤(現・川田)未果さんも新進気鋭のジャーナリストとして注目されている。岩波書店から新書版『ルポ貧困大陸アメリカ』、『ルポ貧困大陸アメリカII』、『()貧困大陸アメリカ』のシリーズなどベストセラーを連発した。弊社からも、『人は何故、過ちを繰り返すのか?』(鈴鹿短期大学名誉学長・佐治晴夫さんとの対談本、2012年)を刊行させて頂いた。親子ともども、お世話になっているわけだ。

 

・さて今回は、江実さんのご子息である堤大介(通称:ダイス)さんについて触れてみたい。僕はこの有為の青年には、前々から注目していた。というのも、彼は『スケッチトラベル』という企画をフランス人のジェラルド・ゲルレというイラストレーター兼デザイナーと組んで成功させたからだ。このことについては、後ほど詳しく触れたいと思う。大介さんと江実さんは、『あ、きこえたよ』(PHP研究所)という絵本を出版している。目に見えない生命の息づかいに思いをはせる優しい江実さんの詩と、大介さんの素敵な絵がコラボした魅力的な絵本だ。

 

 堤大介さんの経歴を簡単に紹介しておこう。1974年に東京に生まれ、1993年、和光高校卒業後の18歳でニューヨークへ渡った。油絵を「スクール・オブ・ビジュアル・アーツ」に学んでいる。1998年の卒業後、ルーカス・フィルム傘下のルーカス・ラーニングで、スタッフ・イラストレーターとして働き始める。2000年には、ブルースカイ・スタジオに、視覚効果/色指定担当のアーティストとして採用され、『ロボッツ』『アイスエイジ』 そして『ホートン/ふしぎな世界のダレダーレ』の制作に関わりアニメーションの世界に進出する。 2010年まで同社で働いた後、ピクサー・アニメーション・スタジオに招聘されて入社。アカデミー賞を受賞したアニメーション作品『トイストーリー3』 のアートディレクターとして活躍された。

 

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『スケッチトラベル (SKETCHTRAVEL) 』の表紙

 

・大介さんは、社会奉仕活動にも熱心に取り組んでおり、2008年には非営利団体である「トトロのふるさと基金」を支援する資金集めの展示会やオークションを行なう「トトロ・フォレスト・プロジェクト」を立ち上げた。また、2006年から、前述したようにフランス人のイラストレーター兼デザイナー、ジェラルド・ゲルレとともに、『スケッチトラベル (SKETCHTRAVEL) 』プロジェクトを立案実行した。このスケッチトラベルとは、ユニークな国際的チャリティアート・プロジェクト。企画趣旨は、「60人の様々な国のアーティストたちの間でスケッチブックを回し、他所にどこにもないユニークな本を作る」ことを目的としたもの。4年半をかけて12か国を回ったスケッチブックは、ビル・プリンプトン、ジェームス・ジーン、レベッカ・ダートルメール、グレン・キーンといった世界的に著名なイラストレーター、アニメーターが参加、日本からもあの宮崎駿監督や松本大洋らが参加している。とりわけ特筆ものは、『クラック!『木を植えた男』で2度のアカデミー賞短編アニメ賞に輝いたカナダ在住のアニメーション作家、フレデリック・バックが参加したことだ。宮崎駿や高畑勲などからも尊敬を集める、アニメーション界の「神様」のような人物である。

 

 最終的に世界で唯一無二のこの作品集は、ベルギーでオークションにかけられ、その結果、参加アーティストのサインの入ったスケッチトラベルの書籍など他の出品物も含め、合計で「76,000ユーロ」という金額で落札された。これは日本円にして800万円を超える高額の落札価格であった。

 

 その収益金は開発途上国への教育支援に取り組んでいるNGOグループ 「Room To Read」に寄付された。Room To Readは発展途上国における 子供の識字と性差なき教育に焦点を当てた非営利団体。東南アジア中心に図書館を建てたり、絵本の出版などでローカル言語の発展を奨励し、ローカル文化関連の児童書、及びその他の方法で識字能力育成の為、地域社会や政府と協力している。大介さんにとって、仕事を続けながらのボランティア活動であり、営利目的ではない有意義なプロジェクトだった。彼の凄いところは、お金にならないことにも全力投球するところ。それが仕事にもプラスになると認識していることだ。

 

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宮崎駿監督が『スケッチトラベル』に描いた画

 

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『スケッチトラベル』の受け渡しをする大介さんと宮崎駿監督

 

・大介さんはアメリカを拠点にして活躍中だが、現在、東京にいる。実は銀座のクリエイションギャラリーG8で「トンコハウス展」と題した展覧会が、325日から約1ヶ月間にわたって開催されている。トンコハウスとは、堤大介とロバート・コンドウが設立したアニメーション・スタジオの名前で、本展は初の展覧会となる。展覧会は「『ダム・キーパー』の旅」がテーマ。『ダム・キーパー』は、大介さんとロバート・コンドウが監督を務めた短編アニメーションだ。ベルリン国際映画祭などで上映され、世界各地の映画祭で20以上の賞を受賞している。2月にはNHKでも放送され、大きな話題を集めた。

 

 そして2015 年度の米国アカデミー賞短編アニメーション部門に『ダム・キーパーの旅』がノミネートされたのだ。大資本のディズニー映画などに伍して、インディー系の、それも大介さん初監督作品がノミネート。これを快挙と言わずなんと呼ぼう。惜しくもオスカーの獲得はならなかったが、この映画が日本語版のブルーレイ、DVDで発売されるのを期して今回の展覧会は開催されたのだ。『ダム・キーパー』のキャラクターデザインや背景、ストーリー設定など貴重なアートワークが展示されている。是非、お時間を繰り合わせて、皆さんに見て頂きたい展覧会である。

 

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バックさんと『スケッチトラベル』の受け渡しする堤大介さん

 

・大介さんは、7年間勤めたピクサー・アニメーション・スタジオを退社、ピクサーで働いていた信頼する同僚ロバート・コンドウさんと二人で独立した。ピクサーで、しかもアートディレクターという大役を任され、自らドリームジョブと評した会社をアッサリ辞めるとは……。その居心地のよい環境から抜け、ゼロから何かをもがき、苦しみながら、作っていきたいと思い独立の道を選んだという。未来が見えない中での新たなスタート。その苦しみなくして自分達の次なる成長はないという。仮に思ったとしても、実行に移すには相当な勇気がいる。数年後にまた、スタジオの環境に戻る事があるにしても、今この経験をしておかなければ、自分の成長は止まってしまうという。素晴らしい若者ではないか。今後は映画を初めとするコンテンツを作っていくにあたり、日本人である特性を活かせるよう、日本人とも積極的にコラボしていきたいと語っている。

 

 大介さんは『スケッチトラベル (SKETCHTRAVEL) 』プロジェクトで会ったフレデリック・バックさんから一枚の絵を託された。この絵は、君に持っていてほしい」と言って手渡されたものである。アカデミー賞短編アニメ受賞作『木を植えた男』の原画であった。その絵は、森の中で年老いた木を植えた男を、主人公の若者が追いかけていくシーンだった。象徴的である。片目を失いながら86歳のバックさんは、自然環境や動物愛護を一貫して訴えてきた。その熱い思いを大介さんのような有為な若者に託したかったのではないか。未来を切り開くのは、いつも大きな夢を抱く若者たちである。大介さんはその一人としてバトンを手渡されたのだと思う。

 僕もバックさんに共感を覚える。世界を俯瞰する目をもち、平和な理想社会を夢見る心をもった若者。そんな大介さんのような若者の開拓者魂に将来を大いに期待するものである。

2016.02.26宝生 閑さん

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宝生閑先生のご自宅には立派な能舞台がある。お正月の稽古始めとして、われわれはシテ、シテヅレ、ワキ、ワキツレ、アイ(狂言)、地謡と役割を決めて、朝10時から午後5時位までモーレツに謡った。先生が一番後ろから大きい声で指導をされた。稽古の後、全員で池袋界隈のお酒と料理の美味しい店に行くのが通例だった。



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宝生閑先生の主催で行われた「屋形船で隅田川の夜桜見物」。下掛宝生会は、人間国宝の師匠と弟子たちが分け隔てなく、「遊ぶ」のを好んだ。その時も、先生が冒頭に挨拶され、「能の芸は、遊びも必要と思う」とおっしゃった。平成22年4月4日。


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下掛宝生会は毎年夏になると、恒例ゆたか(浴衣)会を行なった。前列右から三人目、宝生閑師匠、その隣は奥様の一江様。大乘寺で平成21年8月9日。


・2月2日(火)の早朝のことである。朝刊を見て僕はびっくりした。尊敬する方の訃報が載っていたからだ。

≪能楽ワキ方宝生流宗家で文化功労者、芸術院会員、人間国宝の宝生閑(ほうしょう・かん)さんが亡くなったことが1日わかった。81歳。通夜は9日午後6時、葬儀は10日午前10時、東京都渋谷区西原2の42の1の代々幡斎場。喪主は長男の能楽師ワキ方の欣哉(きんや)さん≫と書いてあった。
 また、新聞各紙では、
≪重厚な芸風で能舞台を荘厳な雰囲気に包み込んだ。同流の宝生彌一の長男に生まれ、父と同流十世宗家で名人として名高かった祖父宝生新(しん)に師事。1941年、「葵上」の大臣で初舞台。ワキ方として優れた技芸を身に着ける一方で、シテ方の観世寿夫(ひさお)や新劇俳優らとともに「冥(めい)の会」に参加し、「オイディプース」などのギリシャ悲劇にも挑んだ。新作能にも積極的に挑戦し、古風な芸の中にも合理的な作品解釈を取り入れ、能楽界で引く手あまたの実力派ワキ方として活躍。「隅田川」などの名演で知られた。1994年に人間国宝に認定。1996年に紫綬褒章受章、2001年にワキ方宝生流を十二世宗家として継承。2002年に芸術院会員、2014年に文化功労者に選ばれた。長男で同流の宝生欣哉さんをはじめ、後進の育成にも尽力した≫
と、閑さんについての来し方を的確に報じていた。
 あと付け加えるなら、公益社団法人能楽協会、日本能楽会常務理事。国立劇場能楽堂三役養成主任講師。立正大学仏教学部客員教授などを歴任、第12回観世寿夫記念法政大学能楽賞、第48回日本芸術院賞、を受賞されている。

・それにしても、宝生閑師匠が身罷られたとは、まことに惜しい方を亡くしたものだ。もっともっと長く生きて、われわれに謡や能芸論について語っていただきたかった。残念、無念!
 告別式に行ったが、宝生閑先生のご人徳、また公人としての活動などから、大勢の方々がお別れに馳せ参じて盛大な告別式だった。その模様は、後日、栗原忠躬君が管理する「下掛宝生流ホームページ」のページに載る予定だったが、閑先生の奥様、宝生欣哉さん、栗原忠躬君のご力添えがあり、さらには一般社団法人日本能楽会会長の野村四郎氏、能楽師大蔵流狂言方の山本東次郎氏の弔辞を、わが清流出版のホームページ「加登屋のメモと写真」に転載してもよいと特段の許しを得た。「下宝のホームページ」より一足早く、貴重な弔辞をここにご披露させていただきます。

・まず、日本能楽会会長の野村四郎氏の弔辞をご紹介いたします。
弔辞
あヽもう直ぐ立春と思う矢先、閑さんの訃報を新聞で知りました。嘘、本当、何回も頭を駆け廻り茫然自失、言葉を失いました。
昨年十二月によみうりホールの能で「葵上」を久々に共演させて頂き、又今月には「仲光」でご一緒させて頂く予定でしたのに、閑さんのご急逝は夢の又夢としか申せません。まさか、あの「葵上」が閑さんの最後のお舞台になろうとは……感無量でございます。
思へば子供の頃からニ歳年上の兄貴として公私ともに大変お世話になりました。観世寿夫師の元に我々若者が集い、稽古に芸談に、そして酒席と楽しく又厳しい刺激的な時代を共有させて頂き、限りない思い出が山積でございます。
又、一般社団法人日本能楽会理事として二十年という永きに渡り多大なるご尽力を賜りましたこと、会員を代表し感謝、御礼申し上げます。
今は只安らかに、とお祈り申し上げるばかりでございます。
名残は尽きません。
宝生閑師のご功績を称へ弔辞とさせていただきます。
色は匂へど散りぬるを 合掌
 平成二十八年二月十日  
 一般社団法人日本能楽会 会長野村四郎

・次は、能楽師大蔵流狂言方 山本東次郎氏の弔辞をご紹介いたします。
弔辞
謹んで故宝生閑さんの御霊前に申し上げます。
「江古田の駅を降りると閑さんの笑い声が開こえる」、そんな底抜けに明るい大らかな笑い声はもう聞けないということがまだ現実のようには思えません。
「お前が舞台でしっかり笑えないのは、いつもちっちゃい声で笑っているからだ、普段もっとでっけい声で笑っていれば、舞台で堂々と笑えるんだ、それが狂言の大事なことだろう」、そんなべらんめい調で言われたのは十七、八の頃でした。舞台では絶対に笑うことのないワキ方の閑さん、夢幻能の旅僧が誰よりも似合う閑さん、でもその素顔はそれとは正反対で自由闊達そのもの、人間の清さも濁りも知り尽くした懐の深さ、それが宝生閑さんという方です。
閑さんが初めて私に声を掛けて下さったのは、今から七十数年前戦前の銕之亟家のお舞台、西町の楽屋でした。引っ込み思案の私にはそれは嬉しくもあり、またぶっきらぼうな様子か少々怖くもありました。
その後、戦争の激化で疎遠になり、再会したのは、戦後の染井や多摩川の舞台、兄のいない私に閑さんは良い兄貴になって下さいました。銕之亟家の戦後の本拠地、東横線の多摩川園の山の上にあったお舞台は、隣が遊園地、 子どもだった私たちにとってわくわくするような場所でした。演能の間の僅かな時間を見つけると、親たちの許しを得て、遊園地に遊びに行きます。閑さんの 「付いて来い!」の声を切っ掛けに飛び出すと、一分一秒を惜しんで九十九折の山道を真一文字に駆け下りて行きます。
その頃、閑さんは中学一年生、私は小学四年生、体力でも運動能力でもこの差は大きく、しかし閑さんは手加減などしてくれません。このお兄さんに付いて行かないと何か大きなものを失うような気がして、私は遅れまいと懸命に後を追い掛けました。その時の過酷な訓練が後になって私の足腰に良い影響を与えてくれたことは間違いありません。
成人しても何かと一緒で、山もたくさん登りました。ある秋の日、上高地の紅葉を眺め、新雪の涸沢から穂高に登った時、雪は止み、青空になりましたが、一面の銀世界、厚手のシャツにセーターで着ぶくれしている私に対し、閑さんは上半身裸、そして、「おめーは寒がりだなあ」 と笑われたのを昨日のことのように憶えています。
子どもの時から気心が知れている楽屋友だち、誰からも愛され、人気者の閑さん、その後に付いて行けば必ず楽しいことが待っている遊びの天才、皆で行ったスキーやゴルフ、祇園や新橋、中洲の夜、それは高齢者となった最近までもずっと続いていました。
海外公演でのエピソードも様々あります。一九六八年六月、先代梅若万三郎先生を団長とする。パリ公演の時のこと。ある能楽ファンの女性から言われた言葉、「あなた方能楽師は紋付き袴姿だと何処に出しても格好いいけれども、スーツ姿やプレザー姿は頂けないわね。洗練された着こなしを誇っているヨーロッパの人々の目にはかなり恥ずかしい姿に見えるかもしれない」。これが頭にこびりついて仕方なかった私は閑さんに相談しました。「パリの街を和服で過ごさない?」。閑さんはすぐに賛成して下さり、 二人で申し合わせた通り、トリアノンという小さなホテルから二百メートル程のところにあるオデオン座の楽屋入り口まで、さわやかな初夏の風に吹かれなから、二人揃っての薄物の和服姿での楽屋入りを二週間にも渉って楽しんだのも若き日の忘れられない思い出です。
楽屋で閑さんはいつも、長い時間を懸けて白足袋を丁寧に履いておいでになりました。指に唾をつけなから、キッチキッチの小さめの足袋に己の足をねじ込むのです。「そんなにきつい足袋履いてたら痺れるでしよう」 、この私の問いに「皺が寄るような足袋が履けるかよ」。その足袋で幕から出られる「ハコビ」は三ノ松を過ぎる頃には旅僧が背負う遠く遙けき旅が見え、一番の能の仕上がりに期待がふくらんでいきます。 あの「ハコビ」は凄い、若い頃、 二人で盃を傾けながら一夜、「ハコビ」について熱く語ったこともありました。
そうした芸事上のアドバイスはお互い色々あり、閑さんから能「道成寺」 のアイにとって肝心な 「フレ」 の部分で実に的確なご教示を頂き、科白や謡、つまり言語に対し決められた様式の中でいかに観客の耳にその内容を伝えるかを教えて頂きました。また、私が還暦を迎えた頃、「やっと東次郎君の世界が出来上がったなあ」と静かにおっしゃって下さいました。いつも見守っていて下さったことに改めて驚き、認めて頂いたことがどれほど嬉しかったことか……。
また、閑さんが思う存分舞台を勤められたのは、奥様、一江さんの支えがあったればこそです。そのお二人のエピソード、お付き合いが始まって間もない頃、ある喫茶店でのデートの折、一時間以上待たされている一江さんに、「あんな誠意のない人、ほって置いて、帰りましょ」。うながす友だちに一江さんは一言、「でも私、待ってる」。 一時、この科白が我々仲間の間で流行りました。閑さんが現われたのは更に二時間後のことだったそうです。当時の私たちはグループ交際とでもいうのでしようか 仲間たちがわいわいがやがや、その中でいつも閑さんは中心にいて、仲の良さのあまり、多数の友人たちがお二人の新婚旅行にまでくっついて行ってしまったというエピソードまであります。半世紀以上にわたり、まさに命懸けでやんちゃ坊主のような閑さんに尽くされた一江さんにいつも頭の下がる思いがしたものでした。
心優しい二人のお嬢さん、立派な後継者の欣哉さん。欣哉さんのワキで私がアイをお付き合いしていた時、閑さんにもしもの事があったとしてももう大丈夫、そんなことを思ったのももう十数年も前のことです。そのお子さん、朝哉君、尚哉君、お育てになった大勢のお弟子さん方、下掛宝生流に後顧の憂いはないでしよう。
三年前の手術、そこから見事に復帰されたものの、一年前に再び病魔が見つかり、それから後の一年の間の、覚悟を決めた人の壮絶な舞台は、我々舞台仲間は勿論、舞台をご覧になったお客様の心にも深く刻まれているでしょう。小康状態の中での予期しない突然のご逝去でしたが、ご自分の出演しているテレビ放送をご覧になって気持ちよく寝入られ、それから間もなくのご逝去だったと伺いました。 能の曲は 「砧」、亡くなった妻の菩提を弔う夫の役、閑さんらしい、本当に見事な往生ではないでしようか。 
私もこれからどれだけ生きられるかわかりませんが、その間何度貴方を思い出し、その度に哭して慟するでしよう。しかしその何百倍もの楽しい思い出を貴方から頂きました。もしも貴方と出会っていなかったら、こんな楽しい人生でなかったことは確かです。
あちらには貴方も私もあこがれ、尊敬してやまなかった観世寿夫さん、そして栄夫さん、静夫さん、粟谷菊生さん、近藤乾之助さん、北村冶さん、片山幽雪さん、茂山千作さんもいらっしゃいます。また皆でお酒を酌み交わし、愉快な芸談やゴルフを賑やかになさってください。
心よりのご冥福をお祈り申し上げます。そして最後に万感の思いを込めて申し上げます。
ありがとう、宝生閑さん。さようなら、宝生閑さん。
 平成二十八年二月十日      
 能楽師大蔵流狂言方 山本東次郎

・宝生閑先生に関する放送で一番早く反応したのがNHKのEテレであった。2月10日の告別式に合わせて、≪見よ81歳の生き様!人間国宝 宝生閑が魅せる「能」の世界≫と題して「耐えて なぐさめて 生きる――能楽師ワキ方 宝生閑――」を放送した。この番組は、2015年7月1日(水)に初めて放送され、再放送が同年7月8日(水)、一ヵ月後にアンコールとして、2015年8月4日(火)と8月11日(火)にも放送された。今回は告別式の当日、2016年2月10日(水)、再放送も2月17日(水)と繰り返し放送され、その生き様と能の深淵がいかに多くの人々の心に響いたかが伺い知れる。何回も観るチャンスを与えてくれたことに感謝したい。
 番組のナレーションでも、宝生閑さんの人となりを分かりやすく解説していて、初めて見る人にも理解しやすかったはずだ。具体的には、――
 ……能楽師ワキ方の人間国宝、宝生閑さん。昨年、文化功労者にも選ばれた、現代の能楽界における最高峰の一人です。81歳を迎えた現在も舞台に立ち続けています。能において「ワキ方」とは、主役である「シテ方」の相手役。シテの演技を引き出し、受け止めるのがワキの役割です。ワキなくして能の物語は成り立ちません。また、能の世界では家ごとに舞台の上で担う役割が決まっています。シテ方は生涯シテ方を勤め、ワキ方もまた生涯ワキ方を勤めるのがしきたりです……

 ……宝生閑さんは自らの宿命を受け入れて、厳しい修行に「耐え」、シテを、そして観客たちを「なぐさめる」のが、ワキ方という仕事の本質だと言います。番組では、宝生閑さんが語る言葉の真意を見つめ、ワキ方を極めた人生80年に迫ります。語りは俳優の佐野史郎さんです……と、Eテレは、懇切丁寧に報じていた。

・この番組は、NHKの総力を挙げて閑先生を追ったもので、出色の出来栄えと思う。出てくる能も「石橋」「道成寺」「邯鄲」「融」「鷺」、そして「隅田川」である。僕の好きな「隅田川」だが、我が子を失った母親(シテ)とその子を偶然渡し船に乗せた渡守(ワキ)の話である。「年令は十二歳」、「名は梅若丸」、「吉田の何某」と渡守の明かす言葉に驚く母親を、墓前にまで伴う内容である。閑先生は、この能を実に100回以上演じている。親子の、いな人間の道として、「隅田川」を演じ切った。閑先生は、「ワキとして観客の心を癒す、そして観客の心を受けて演じるワキも癒される。それが本物のなぐさめる能だ」とおっしゃった。

「隅田川」のシテを演じた喜多流・友枝昭世さんは、「ここ50年ほど、宝生閑さんは孤軍奮闘して能を守ってくれた。能を衰退させず、品格を守ってくれた方だ」と絶賛したものである。

・閑先生が、2年前、がん手術で食道と胃を失い、それでもワキ方(現在ワキ方の他流を含めて五十五名)を代表して、渾身の能舞台を務めていたことがよく分かる。幸い息子さんの欣哉さん(四十八歳)、孫の朝哉さん(十七歳)、尚哉さん(十一歳)と後継者に恵まれているのは、われわれにとっても嬉しい。その息子さんやお孫さんにもNHKはカメラを向けている。伝承者が存在するのは朗報だが、それは同時に重責ともなり得る。閑先生は「こうした家に生まれたのは仕方ないこと。選択の余地はない」、「いつ死ぬか分からないが、演じてくれとの依頼があれば、毎回、これが最後の舞台と務める」と言い切った。その言葉が今も耳朶に残る。閑先生の「死への覚悟のほど」は壮絶そのもの。NHKの報道は、このような閑先生の見事な死生観を引き出して、素晴らしかった。

・僕の人生に大きな影響を与えてくれた、宝生閑先生との出会いから、お付き合いなどについて、ざっとではあるが振り返ってみたい。大学一年の時、畏友の栗原忠躬君から「謡」、それも下掛宝生流の部活に入らないかと誘われた。栗原君の祖父は早稲田大学文学部名誉教授の服部嘉香先生で、歌人・文学博士、早稲田大学下掛宝生流の会長だった。結果、早稲田大学高等学院の三年生Fクラスのクラスメート五人が仲良く大学に入って謡を続けることになった。
 宝生閑氏の父君である宝生彌一師匠がまだご存命の頃で、幸運にも、二人の人間国宝に教えを乞うことができたのである。僕は、大学卒業後も謡に親しみ、脳出血で倒れる五十七歳まで続けた。周りの仲間たちは、着実に上手くなって、職分(プロの身分)やアマチュアなのにプロ並みの謡い手に成長していた。僕は残念ながら、そのレベルには遠く及ばず、ただ長く続けたというだけである。

・宝生閑先生には1994年、創刊して間もない月刊『清流』の「いま、この人」欄に登場して頂いた。59歳の閑先生が、脂の乗った勢いで能芸論を語ったことが印象に残るページを覚えている。
 また、閑先生とは、われわれ下宝(しもほう=下掛宝生流)の連中は、謡の稽古に留まらず、プライベートでも親しく付き合わせていただいた。ゴルフに始まって、麻雀、酒席、花火大会のクルーズまで。美味しいもの大好き人間も多く、食べ歩きも大いに楽しんだものだ。毎年、夏になると、閑先生の軽井沢の別荘(世田谷区成城住まいの野上弥生子さんが、軽井沢に引っ越したが、その野上邸の近くにあった)によくお邪魔した。この間何日間かは無礼講になり、謡はもちろんのこと、ゴルフ、麻雀等で親しく交わるのが、われわれの恒例行事だった。(その後、僕は二度の脳出血で右半身不随、言語障害もある身になってからは、稽古も難しくなり、残念ながら参加できなくなった)


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二十五歳位の宝生閑師匠。左は栗原忠躬氏、右は僕。栗原氏の勧めた部活動(謡の下掛宝生流)に入部して良かったと思う。写真は学習院の常盤会館で撮った。


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弥生会の連吟風景。昭和三十三年前後の貴重な写真。前列中央は安倍能成さん(一校校長、文部大臣を経て、当時、学習院の院長。弥生会会長)、その左2列目は作家の野上弥生子さん。


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下宝(しもほう)の弟子たちは、夏目漱石をはじめ、正岡子規、河東碧梧桐、高浜虚子、安倍能成、小宮豊隆、野上豊一郎、野上弥生子、服部嘉香……錚々たるメンバーである。この作図は、栗原忠躬氏。
 
・宝生閑先生は、人脈図で明らかなように、漱石門下の数々の文人や能の先達と付き合いながら、藝の道を究めていた。もう一度おさらいするが、閑先生は昭和九年、東京の上野桜木町にて宝生彌一氏の長男として生まれた。おばの嫁ぎ先であった日蓮宗本山身延山法主が命名者。「閑」は有り難い経文の中から選んで名づけられたものとか。祖父のワキ方宝生新さんの家で育つ。近くに徳川家菩堤寺の寛永寺があり、寛永寺幼稚園、根岸小学校へと進む。小学校三年生から青山の父君のもとで暮らすことになり青山小学校へ転校する。
 ワキ方は形より先に、言葉の意味がある程度理解できる年齢から謡を習い始める。閑さんは五歳から正座して謡を憶えた。「祖父は、舞台は素敵だ、ということを教えてくれた」と語る。祖父の宝生新氏は、夏目漱石の門下生を教え、文化人と親しく付き合ったが、孫にあたる閑先生も、そのような人脈と環境を求めていたと思う。
 
・若い頃の閑先生のエピソードが興味深い。能舞台を務める傍ら、ジャズバンドを組んでアメリカ駐留軍へ慰問演奏に行ったと言うのだ。閑先生は、ビブラフォンやベースを弾いていたらしい。ジャズ演奏をしながら、音楽リズムの中のメリハリ、静けさを体得されたのではと思う。そして、能の言葉のリズムとのつながりを感じたに違いない。メロディックでリズム感に満ちたワキ方の言葉は、ジャズにも通底しているのは大いに頷ける。人間の心のゆれや内的なひろがりは、洋の東西を問わず共通であるからだ。
 また、能の先輩として観世寿夫さん(天才と称された)の世阿弥『風姿花伝』を読む会に参加した。そこで、祖父・宝生新氏の藝を思い出し、父・宝生彌一氏からの学びを反芻し、ワキ方に徹していく藝を築いたと思う。閑先生は、なんでもプラス思考で積極的に学ぶ姿勢を貫き、実践していくタイプの芸術家だった。
 
・閑先生で特筆すべきことは、観世寿夫や新劇俳優らとともに「冥の会」に参加したことだ。1971年、冥の会第一回公演として「オイディプース王」(観世栄夫演出)に出演。翌年、「アガメムノーン」(渡邊守章訳・演出)、また次の年には、サミュエル・ベケット作「ゴドーを待ちながら」と不条理演劇にも挑戦された。また翌年、ギリシャ悲劇に戻って「トロイアの女」(鈴木忠志演出・岩波ホール)に出演。能とギリシャ悲劇は歴史の古さと伝統、合唱隊(コロス)の存在、舞台の単純、抽象さ、それと時空を超える世界など、共通する点が多い。観世寿夫さんは夭折されたが、天賦の才を持ったお二人が、ぴったり息を合わせ、新たな世界=ギリシャ悲劇を表現し、演じたことは素晴らしい!
 
・日本における本格的なギリシャ悲劇は、1958年、東京大学美学科の学生を中心とする「ギリシャ悲劇研究会」メンバーによる日比谷野外音楽堂での上演「オイディプース」に端を発する。通称「ギリ研」のメンバーは、あの脚本家・倉本聰が飲み友達だった後の映画監督・中島貞夫を誘い、さらにはテレビマンユニオンを創る村木良彦、リクルートに行った森村稔らが参加して発足したもの。この初のギリ研上演は成功裏に終わった。発起人でありながら、敵前逃亡よろしく逃げ出して芝居には出なかった倉本聰は、彼の著書(『愚者の旅』理論社刊 2002年)でこう書いている。
 ……「オイディプース」が日比谷野外音楽堂で上演された日、会場には思いもかけない人の行列が出来ていた。その列に並んで会場に入った。コロスの合唱から始まるその舞台に、正直僕は感動した。打ちのめされたような感じがした。素人の集まりと甘く見たものが、中島の演出のもと見事に美しいアンサンブルを醸し出し、生まれて初めて見るギリシャ悲劇の世界を、想像を越えて具現していた……
 ことほど左様にこの舞台はインパクトがあった。僕もこの「オイディプース」を観て以来、ギリシャ悲劇に大いなる関心をもった。特に、コロス(合唱隊)を演じた合唱団は、能の地謡と同じ意味で共通性があり、また能のワキ方は演者プラス観客の代表として舞台に立つのがコロスと共通性であると解釈した。その東大のギリ研公演に感動した10年後、なんと閑先生が「冥の会」で、出演するチャンスを得ることになろうとは……。運命の神に感謝し、僕は大いに興奮したことを覚えている。特に「ゴドーを待ちながら」は渋谷のジャンジャンに駆けつけて観た。閑先生のじっと座ったままの不条理演劇を、楽しんだことを懐かしく思い出した。
 
・閑先生とのお稽古のエピソードにも触れておきたい。火謡会(早稲田大学OBで下掛宝生流を謡っている会)でのことである。その火謡会の会場が、僕が創業した清流出版のすぐ傍で行なわれた。現在、清流出版は、靖国通りに面したビルに入っているが、かつては目白通りの、それも日本債券信用銀行(元・日本不動産銀行、現在のあおぞら銀行を経て北の丸スクエアになっている)の真ん前のビルに入っていた。毎週火曜日の午後七時から、日債銀の和室を借りて閑先生に習っていた時期があった。火謡会メンバーで日債銀に勤めていた後輩、仲村君と土方君が会場の世話役になっていた。僕は、その頃はまだ身障者ではなく、雑誌、単行本と精力的に出版に携わっていた。終業後に閑先生のお稽古に出て、大いに謡を堪能した。毎回、稽古が終わると、九段下や飯田橋界隈の近隣の飲み屋で閑先生と盛り上がったものだ。そして時には、飲み屋へ清流出版の美人編集者を連れて行くと、皆さん大喜びで歓待してくれた。できるものなら、あの輝いていた時代に、もう一度戻りたいものだ。

・宝生閑先生に関する著作を紹介する。『幻視の座――能楽師・宝生閑 聞き書き』(土屋恵一郎、岩波書店)。2008年の刊行となっている。この頃、閑先生は忙しい日々を送られており、原稿の執筆などできない状態で、宝生閑(述)、土屋恵一郎(著)と、聞き書きでの刊行となった。≪現代能楽界最高峰のワキ方・宝生閑の芸は、どのような精神によって支えられているのか。ワキ方から見た能楽論≫と、帯にある。
 ――宝生閑が能舞台に現れるとき、舞台は一挙にドラマの空間、作品の世界へと転換する。能のワキ方は、舞台の上に幻視者として座り、最後まで物語全体を受けとめ続ける存在なのである。現代能楽界最高峰のワキ方の芸は、どのような精神によって支えられているのか。一年間にわたる聞き取りの成果をもとに書き下ろされた本書は、ワキ方から見た斬新な能の世界を叙述する――。

 
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『幻視の座―能楽師・宝生閑 聞き書き』(土屋恵一郎、岩波書店、2008年刊)

 能の主役はもちろんシテ方であるが、ワキ方が舞台空間を見所とは異なるものにするために果たす役割の大きさを認識することができる。本の題名の「幻視の座」は言い得て妙であり、ワキ方能楽師の神髄を言い表したものだ。演能中の演技者の心理をうかがい知ることが出来て、僕も興味深く読んだことを覚えている。
 泉下の客となった宝生閑先生、大変お世話になりました。衷心より御礼申し上げるとともに、つつしんでご冥福をお祈りいたします。