2016.01.25山口仲美さん

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埼玉大学名誉教授、国語学者の山口仲美さん


後白河天皇の皇女。賀茂神社の斎院になった。斎院は神に捧ぐるため、身は清浄でなければならず、恋は許されない立場である。「忍ぶ恋」の激しさと不安感を詠んだ歌として、山口さんは紹介された。


・第三回は、サブタイトル「キャリア系・清少納言の恋愛事情」。冒頭に、紫式部、清少納言、和泉式部、道綱母の四人の女子力タイプを掲げ、チャート図を描き、明るい、暗い、男っぽい、女っぽいに分けて説明された。山口さんらしいアイデアと機知に富んだ分析だ。

  チャート図でいえば、男っぽいと陰性の紫式部(オクテで地味な妄想女子)は、さしずめ、出演者でいうと大久保佳代子さん。男っぽいと陽性の清少納言(ウィットに富んだキャリアウーマン)が山口仲美さん。女っぽいと陰性が道綱母(美人でプライドが高いセレブ妻)で壇蜜さん。女っぽいと陽性は和泉式部(恋多き魔性の女)と分析し、それぞれ女子力タイプを解説した。それにしても、男性ホルモンのテストステロンや神経伝達物質のドーパミンの多寡を、平安女性に当てはめるという発想がユニーク。ドーパミンが多いと「アウトドア派」、少ないと「インドア派」である。


「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも

  よに逢坂の 関はゆるさじ」――清少納言

(夜が明けないうちに、鶏の鳴き声でだまそうとしても、函谷関の関ならともかく、逢坂の関はそうはゆきますまい。わたし、あなたとは決して逢わないわよ)


  清少納言の才気煥発ぶりが如実に現れた歌だ。漢詩文の素養を武器に男友達の誘いを、魅力的に断った歌である。一条天皇の中宮定子に仕え、その博学さで定子の恩寵を受けた清少納言の、清少納言らしさが出た歌。「逢坂の関」は「逢う」という言葉から男女関係を持つという意味を含むと、山口さんは解説された。


・第三回までの、「恋する百人一首」の展開と内容、歌を簡単にかいつまんで書いてみた。僕の下手なまとめ方では、登場された百人一首を詠んだ歌仙もご不満であろう。山口さんも、同じような感想を持っているにちがいない。だから、今後は「テーマ」と「サブタイトル」と代表的な歌だけで、各回をおさらいしてみようと思う。


・第四回は、サブタイトル「モテ女・和泉式部に学ぶ魔性テク大研究」。和泉式部は男性を惹き寄せる力の強い歌を詠んだ女性。一条天皇の中宮彰子に女房として出仕されたが、とくに身分の高い男性との恋愛に命をかけたことが分かる。


「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に

  今ひとたびの 逢ふこともがな」――和泉式部

(わたしはもうすぐ死んであの世に行くかもしれません。思い出にせめてもう一度だけあなたにお逢いしたい!)


  真に迫る切実さをもっている歌で、平易なレトリックも使わずに心情を吐露し、相手の心をぐっと摑むところにこの歌の特色があると山口さんは言う。


・第五回は、サブタイトル「女の分かれ道 セレブ美人妻・道綱母」。女性にとって、もっともつらく許せないのが恋人や夫の浮気である。それは平安時代も同じだった。右大将道綱母は類まれな美貌を誇り、歌才もあったが、人一倍強い自尊心の持ち主だった。夫がほかの女性のところに通っているのを知ると、猛然と夫に対抗する。和歌に託し、


「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は

  いかに久しき ものとかは知る」――右大将道綱母

(あなたが来ないのを嘆き嘆きしながら、一人で寝る夜が明けるまで、どれほど長いかご存じでしょうか。いや、おわかりにはなりますまい)


  本朝三美人に数えられるほどの美貌で、歌才もある方で、「一夫一妻多妾制」の平安時代に、現代のような「一夫一妻制」の時代にのみ可能なかたちを求め続けた道綱母の歌に嫉妬心の凝縮を見た思いがする。


・第六回は、サブタイトル「オクテな地味女・紫式部」。紫式部は、恋の歌は少なく、恋愛の実体験があまり豊かではなかったと察せられた。紫式部は年の離れた男性と結婚し、夫と死別するまで幸せな家庭を築いている。いわば良妻賢母型の女性であった。


「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に

  雲隠れにし 夜半の月かな」――紫式部

(幼友達と偶然会って、その人かどうか見分けがつかないうちに、雲間に隠れてしまった夜半の月のように、あの人はあわただしく姿を隠してしまったことですよ)


  紫式部は藤原道長の娘・彰子のもとに出仕する。女の友情を詠んだ歌を紹介した。幼友達に偶然再会し、その状況を、その夜の月の情景に重ね合わせている。また、紫式部は内面に強い自負心があり、後宮で活躍している清少納言や和泉式部の悪口を日記に記している。


・第七回は、サブタイトル「はじめよう! 恋する心の伝え方」。和歌はそもそも思いを伝える手紙との役割を持っていた。まず、恋をスタートさせるには、恋する思いを相手に伝えることが大切である。


「みかの原 わきて流るる 泉川

  いつ見きとてか 恋しかるらむ」――中納言兼輔

(みかの原を分けて流れる泉川。湧き出て流れる泉のように、あの人をいつ見たからといって、こんなに恋しいのだろうか)


  この歌の言いたいことは下の句で、「泉川」は「いつ見」を引き出すための「序詞」(じょことば)。まだ見ぬ人への泉のようにこんこんと湧き、清らかな恋心が心を打つ。


  今回は、登場する百人一首の歌がことごとく、いずれも平安時代の貴族が恋を和歌にして、いわば「手紙」として、相手の思いを伝えるのがよいか悩んだことが分かる仕掛けになっている。この講座で、山口仲美さんが、百人一首の実用学に力を入れているのがよく分かる。


  また今回は、ゲストに森川友義さん(早稲田大学国際教養学部教授)が登場された。「恋愛学」の第一人者(著書に『一目惚れの科学』、『結婚しないの? できないの?』)の立場から、発言をされた。「平安時代の和歌は、現代で言うメールだ。当時は和歌の上手な男性がモテていたと言われる。現代に恋心を上手に伝えるための、恋愛学的「正しいモテメールの出し方」を伝授したいと言う。31文字に思いを込める和歌と同じく、現代のメールは「短い文章で、想像させる余地を残すことが効果的」をおっしゃる。


・最終回は、サブタイトル「恋の終わりの処方箋」と分かっているが、まだEテレの再放送がまだないので書けない。どのようなエンディングを迎えるのか、今から楽しみである。


・冒頭にご紹介した通り、山口仲美さんには、毎号、月刊『清流』に「ちょっと意外な言葉の話」と題したコラムを連載して頂いている。毎回、楽しみに読ませて頂いているが、これもおさらいしてみよう。

  初回の2014年8月号から以降、取り上げられた言葉を拾ってみると、「ざっくばらん」、「おべんちゃら」、「総すかん」、「じゃじゃうま」、「てんてこ舞い」、「とんとん拍子」、「ぐる」、「とことん」、「いちゃもん」、「へなちょこ」、「たんぽぽ」、「ぺんぺん草」、「パチンコ」、「ばった屋」、「ひいらぎ」、「はたはた」、「とろろ汁」、「しゃぶしゃぶ」、「おじや」、「どんぶり」……等々。

  それぞれの言葉の、発生から成り立ち、どのような変遷を経て現代まで生き伸びてきたかをやさしく説いている。まさに日本語の蘊蓄が詰まった文章で、日本語の持つ奥深さ、豊かさ、その魅力を再認識させられること必定である。


・また、山口仲美さんには不思議な縁を感じている。実は同じ出身中学であることを知った。豊島区立第十中学校の同窓生なのだ。僕の尊敬する担任の小寺(旧姓・小高)禮子先生(月刊『清流』の創刊号からの定期購読者)が、二人の接点を見出してくれた。山口さんは、その後、お茶の水女子大学を卒業し、東京大学大学院修士課程を修了、文学博士、埼玉大学名誉教授となったわけだ。

  擬音語・擬態語の研究者として第一人者であり、著書『日本語の歴史』(岩波新書、2006年5月刊)で日本エッセイスト・クラブ賞、平成20年、日本語学の研究で紫綬褒章受章者となった。今を時めくお方なのだ。山口さんとの出会いは、僕にとってまぶしいほど輝かしいものと思っている。


・また、山口さんは、不屈の闘志をお持ちだ。というのも、2009年夏、大腸ガン(S状結腸ガン)を患い闘病、また2013年夏には膵臓ガンと続けて病魔に侵された。それを克服し、『大学教授がガンになってわかったこと』(幻冬舎新書、2014年3月刊)を執筆されている。この250ページの本を何回も読んで、僕は心底納得したものだ。山口さんはこう書いている。《ガンは、わたしに「謙虚」と「受諾」という、自分に最も欠けていた精神的な贈り物をくれました》と……。

  僕も二回の脳出血を経て、右半身不随、言語障害の身になって、全く同じ思いをしている。山口さんには、今後も大いに活躍して欲しいと思っている。山口さんの才媛ぶり、才能の発露には、誇らしい気持ちが湧いてくる。応援団の一人にすぎないが、僕にとっても人生における希望の光となっていることをお伝えしておきたい。

2015.12.18鈴木皓詞さん

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鈴木皓詞さん(左)が原稿をわが社に持参して下さった。その後、「新世界菜館」で食事をしながら雑談をした。

 

 

・鈴木皓詞さんは、茶の湯の専門家であり、茶の湯について雑誌の連載や単行本等でもその博識ぶりを披露している。茶の湯の根本はご存じの通り、亭主が客を迎えることにある。客を迎えるに当たっては、主人が心を尽くすのは、世界中どの地域どの人種においても変わることがない。またその際には、少しでも見栄えよく飾り贅を尽くすのが人情というものではないだろうか。鈴木さんは、長らく茶の湯の歴史を俯瞰してきて、その深淵を熟知されている方である。

「我が国でも、平安時代以来の饗応は、世界中の習慣と、何等変わりありません。通常の感覚とは著しく異なります。どのように違うのかといえば、簡素の中にも季節感を盛り込むことに主眼を置いたものだからです。これが茶の湯のもてなしの根本です」と鈴木さんはおっしゃる。

 

・僕は、鈴木皓詞さんがお書きになられた『世外井上馨――近代数寄者の魁』(宮帯出版社、平成25年刊)が印象深く心に残っている。意外と知られていない井上馨の近代数寄者「世外」としての側面に注目し、その茶の真髄に迫っているからだ。1909年(明治42年)、茶会好きだった井上馨は、奈良の東大寺から「八窓庵」という茶室を移設し、翌年の春に連続で茶会を開いていく。八窓庵の席披きでは明治天皇に献茶し、天覧歌舞伎においても演劇の近代化を図っている。

 

長州藩士であった井上聞多(後の馨)は、奇兵隊を率いた高杉晋作と親しく、幕府や守旧派と戦い、西洋列強や薩摩と対峙しながら激動の幕末を生き延びた。維新政府において、外務卿・外務大臣・農商務大臣・内務大臣・大蔵大臣と政府の要職を歴任した。外務卿時代には鹿鳴館を建設し、不平等条約改正交渉にあたったことはあまりにも有名である。元老となった井上馨は、廃仏毀釈を背景に茶席に密教美術を持ち込んで、新たな数奇の世界を創出したのである。六本木ヒルズの裏手、現在の六本木高校があるあたりは、かつて内田山という高台だった。この場所に井上馨の邸宅があった。そんな井上馨を鈴木さんは、茶の湯の面からアプローチして希代の数寄者を見事に活写してみせている。

 

・また、鈴木さんの著書『近代茶人たちの茶会』(淡交社、平成13年刊)では、新しい時代に適応した茶会を模索し続けた数寄者の達人たちの熱い思いに迫っている。小間・広間・田舎間を併用して仏教美術や古筆を導入した益田鈍翁(本名:孝、三井物産を設立、日本経済新聞前身の中外物価新報を創刊)をはじめとして、根津青山(嘉一郎、東武鉄道の創設者)・村山玄庵(龍平、朝日新聞社の創設者)・小林逸翁(一三、阪急電鉄・阪急百貨店・宝塚歌劇団の創設者)・松永耳庵(安左ヱ門、電力王)など、近代数寄者の見識と創意のプロセスを茶会によって再見してみせている。

余談になるが、僕は松永耳庵翁には頭が上がらない。もちろん、僕がこの長崎県壱岐生まれの電力王と直接、どうこうしたというわけではない。実は鈴木さんが年に何回か送ってくれる酒の名前が、「松永安左ヱ門翁」(長崎県壱岐市、玄海酒造)なのだ。高価で貴重な本格焼酎で、呑み始めたら止められない美味しさである。他にも鈴木さんは、レア物で手に入りにくい「森伊蔵」(鹿児島県垂水市)、「百年の孤独」(宮崎県児湯郡高鍋町)等の銘柄も送ってくれたことがあり、至福の刻を楽しんだものだ。

 

・また、鈴木さんは著書『茶の湯のことば』(淡交社、平成19年刊)では、「一客一亭」「関守石」「手なり」等、茶の湯の世界で親しまれた言葉を、《もてなし/しつらい/よそおい/ふるまい/うつろい》の五章に分け、 簡潔な解説と多彩なイメージ写真で紹介する。茶道愛好家はもちろん、「和のもてなしの心」に興味を持っている人には、恰好の参考書ではないだろうか。時あたかも2020年の東京オリンピックを目前に控えている。「おもてなし」の精神を発揮するにはどうすればいいのか、その答えがこの本に凝縮されている。ありきたりではない、一味違った和風のイメージを求めている方にも参考になる本である。

 

・私たちはまさに動乱の時代を生きている。人心は羅針盤を失って難破寸前である。だから動乱の世こそ、茶の湯を用いるべきである、と鈴木さんは訴える。

――「何物も信じられない世にあって、信じた人間に瞬間でも誠を見ることが出来たらよし、とするのが茶の湯である。茶の湯は、おのれの心を糺しながら驕ることなく、今を精一杯に生きることを教えています」――

茶の湯は人間の心のためのもの。茶の湯を語りながら、結局は人の心を語ることになる。世の中の仕組みが変わることで、人間の在り方が大きく変化する。当然、茶の湯も変わっていかなければならない。今や人間の心は温暖化によって崩壊する氷山のように、跡形もなく溶け出している。人間が人間である限り、心が全ての原点。あらゆることは自分の心から出発して、結果は自分の心へと還る。

――「茶の湯もまた、お茶に関わる一人一人が、心を改め、心を組み換えていかなければならない時期を迎えています。その心を整えるために、茶の湯には最高の方法が具備されているのです」――(『茶の湯からの発信』清流出版、平成14年刊)

 また、『物に執して』(里文出版、平成20年刊)では、物に守られ、救われている鈴木さんはじめ我々が物と人との68の邂逅、そして交歓を追究する。瀬戸黒茶碗に金海茶碗、掛軸、懸仏、両界曼荼羅から、すりこぎ、孫の手、陶器の壷に至るまで、物に執した著者が綴った物と人との交歓は素晴らしい。

・これまで鈴木さんの著になる単行本を取り上げ、その薀蓄を紹介してきたが、執筆している雑誌もご紹介する。まず真っ先に、わが月刊『清流』誌を挙げたい。あとは、『陶説』『茶会の取合せ』『東美』『淡交』『酒、器スタイル』『和なごみ』『茶人と茶道具』『目の眼』などの雑誌が挙げられる。僕は、『酒、器スタイル』という雑誌は未見だが、大いに興味がある。『陶説』『淡交』や『和なごみ』は何回かもらって、鈴木さんの含蓄のある文章を読んだ。

・わが清流出版の月刊『清流』は創刊以来22年目に入っているが、創刊号からご執筆されている方が二人だけいる。安芸倫雄さんと鈴木皓詞さんである。僕の友人からも「鈴木皓詞さんの連載を楽しみにしている」とよく言われる。僕の数少ない女友達も、圧倒的に鈴木さんファンが多い。『清流』の最新号が届くと、真っ先に鈴木さんのページを開くという方がいるのだ。趣味が茶の湯という方は、すべからく鈴木さんの誌上弟子と思っているに違いない。そして、鈴木さんが取り上げる話題は実に多岐にわたる。日本の伝統行事から、戦国武将や高貴なお方、僧門の偉い方、文化人等の茶にまつわる逸話など、心に沁みてくるお話ばかり。だからこそ、もっと読みたいという方が多いのも、当然といえば当然である。

 

・ここまで書いてきて、偶然にパソコンで検索し「鈴木皓詞」と打ったら、なんとなんと鈴木さんがホームページを設けていることが分かり、びっくり仰天! それも立派なホームページで、感心してしまった。鈴木さんとは長いお付き合いだが、ITやパソコン関係の話題には一切触れることなく付き合ってきた。鈴木さんはパソコンの世界とは関係がないと思ってきた。その意味で、晴天の霹靂、君子豹変、のような驚きである。みなさんも≪茶人 鈴木皓詞のホームページへようこそ!≫をクリックすれば、見事なホームページを見ることができる。冒頭画面に須田剋太(こくた)の揮毫になる「愚」の書、その後「愚茶へのいざない」の文章が目に飛び込んでくる。あとは、茶の蘊蓄が次々と現れて、鈴木さんのことが分かる仕掛け、ぜひ一読をお勧めしたい。

 

鈴木皓詞さんは、北海道のお生まれ。得度して僧籍に入るが還俗。日本大学藝術学部卒業、在学中より裏千家の茶の湯を学ぶ。自ずと数寄者の蘊蓄が備わった。お茶の世界は、茶室、庭、茶道具、焼物、掛けもの、書画……など、広範囲にわたって関係してくる。美術品の鑑定はよほどの目利きでなければ務まらない。あの小林秀雄も何度か苦渋を飲まされている。真贋を見分ける目を養う近道というものはない。骨董屋さんも一流になるには、小僧の頃から本物を見続けて、目を肥やしていくしかない。鈴木さんは、その確かな目利きのお一人。「ご覧になって、この壺、茶碗……はこの値で決めましょう」という値決めをすることも許されている。かつて中尊寺の夥しい宝物の値段が、何年もかけ、鈴木さんのアドヴァイスによって確定したという話もある。

 

・鈴木さんとのお付き合いも、かれこれ35年になろうか。きっかけは僕のかつての職場ダイヤモンド社の同僚、否、麻雀、競馬、将棋等の遊び仲間であった田村紀男さん(元ダイヤモンド社社長)に紹介されたことによる。田村さんは秋田県出身で直木賞作家の和田芳恵氏の甥筋と聞いた。その同郷の和田芳恵さんを師として学んだ鈴木皓詞さんは、最初、小説家志望だった。その後、曾野綾子さん、三浦朱門さんご夫妻と運命的な出会いをする。三浦朱門さんが文化庁長官になった際、鈴木さんは秘書役として尽力された。その三浦さんも、日本文藝家協会理事長、日本芸術院院長などを歴任された。その間も、お付き合いを続け、鈴木さん曰く「私はこのお二人の食客で、週に4回もごちそうになったこともあるんですよ」。長いお付き合いである。曾野綾子さん、三浦朱門さんとの交流では、数々の面白い逸話もあったようだ。抱腹絶倒の話もお聞きしたが、残念ながら差し障りがあるのでここで披露することはできない。

 

鈴木皓詞さんは、茶の湯の世界では異色の存在であるらしい。なぜかといえば“裏千家”のみならず、“表千家”、“武者小路千家”など、流派を超えて親しいお付き合いをされていることにある。そんな付き合いができる人というのは、この世界でも稀有な存在らしい。鈴木さんの存在が、茶の湯の世界に果たしている役割は大きいといわざるを得ない。これからのより一層のご活躍をお祈りしたい。

2015.11.24天満敦子さん、岡田博美さん

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10月23日(金)、紀尾井ホールで開催された天満敦子さんと岡田博美さんのデュオ・リサイタルのポスター。


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紀尾井ホールの玄関口で、窪島誠一郎さんと会う。藤木健太郎君と僕。

・去る10月23日(金)、東京千代田区の紀尾井ホールで毎年開催している天満敦子、岡田博美のデュオ・リサイタルが行われた。午後7時の開会を待つ観客たちは期待を胸に紀尾井ホール玄関前に集まった。僕もその一人である。今年も天満さんのヴァイオリンが聴ける、つまり生きている幸せ感で一杯である。その中に、清流出版の出版部門で何冊かの本を出させて頂いた窪島誠一郎さん(上の写真右)もいらっしゃった。早速、藤木健太郎君と僕は挨拶した。会場内の雰囲気は、アットホームな雰囲気がある。観客は応援団のようなものだからである。パンフレットにはこんな文章が綴られていた。――ふるさとを想い、涙する。人生はさすらう旅人のようなもの――。人生の旅路を一つのコンセプトにして、企画されたコンサートの内容構成、隠しテーマを暗示させていた。
 
 プログラムには、「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調よりアルマンド」(バッハ)、「3つの演奏会用の練習曲より “ため息”」(リスト)、「ヴァイオリン・ソナタ第6番ホ長調」(ヘンデル)、「ヴァイオリンとピアノのためのソナタニ長調」(間宮芳生)、「アヴェ・マリア」(バッハ・グノー版)、「シチリアーナ」(フォーレ)、「白鳥」(サン=サーンス)、「旅人の詩」(小林亜星)、「ヴァイオリンとハープとオーケストラのための雅俗二譚 ピアノ・リダクション版」(和田薫)。そして天満さんの代名詞である定番「望郷のバラード」(ポルムベスク)とバラエティに富んだもの。これまで毎年聴いてきたが、このデュオ・リサイタルは今まで期待を裏切られたことがない。     

・見た目からも、音からもすぐにわかるが、お二人の音楽性の違いの大きさに改めて驚かされる。天満さんのヴァイオリン演奏は天衣無縫とでも言おうか、自在に音色が飛翔する。ヴァイオリンは名器アントニオ・ストラディヴァリウス「サンライズ」であり、弓は伝説の巨匠ウージェーヌ・イザイ遺愛の名弓である。豪放な音楽ともいうべき天満敦子さんと、完璧なテクニックでクールに、そして繊細な音楽を作り出す岡田博美さんの絶妙のコンビである。このお二人の演奏家の資質がうまく合っているのだ。岡田さんの弾くピアノの切れ味、リズム感のよさは抜群である。それに天満さんの弾くストラディヴァリウスは、まるで複数の奏者が弾いているような超絶技巧に裏打ちされた個性あふれる音色である。 
 
 また演奏の第1部を終えて天満さんが語る語りのうまさ。場内を笑いの渦に巻き込んでしまう。こうしたステージへの強烈な自己投入が、彼女の魅力ではないだろうか。ただ、その裏に秘められた深い譜読みと、絶えざる研鑽の日々を知る人は少ない。今年は、去る9月5日に、「松本市四賀音楽村」が発足し、村長の天満敦子が誕生した画期的な年となった。小沢征爾に次いで松本に音楽の名所が一つ増えたことになる。また、天満さんのご母堂の故・時子さん(旧姓・佐藤)は福島県相馬の出身ということもあり、天満さんは被災地に関心が深く、東北などの地方公演にも積極的だ。一方、富山県出身の岡田博美さんは、1984年からロンドンに居住していたが、今年の4月から桐朋学園大学院大学(富山県富山市)の教授に就任した。お二人それぞれに環境が変化し、心境も新たに演奏もリフレッシュすることができた。ファンとしては誠に喜ばしい限りである。

・天満さんの才能は幼少の頃から抜きん出ていた。東京都のご出身で、6歳よりヴァイオリンを習いはじめ、小学校時代、NHKTV「ヴァイオリンのおけいこ」に出演。講師の故江藤俊哉氏に資質を認められて音楽家への道を志した。東京藝大在学中に日本音楽コンクール第1位、ロン・ティボー国際コンクール特別銀賞等を受賞して注目を浴びる。海野義雄、故レオニード・コーガン、ヘルマン・クレッバースらに師事している。
 
 1992年「文化使節」として訪れたルーマニアでは、「ダヴィッド・オイストラフ以来の感激」(同国文化大臣)との高い評価を受け、公演は空前の成功を収めた。翌年この訪問が縁で巡り会った同国の「薄幸の天才作曲家」ポルムベスク(1853年から1883年)の「望郷のバラード」を日本に紹介、以後この作品は天満敦子の代名詞とさえ言えるほどのクラシック界異例の大ヒット曲となり、彼女の名声を不動のものにした。憂いをおびた美しい旋律とともに、曲に秘められたエピソードも話題をよんだ。ポルムベスクは、大学生に進み、ルーマニア学生協会「アルボロアサ」の議長を務め、それがオーストリア当局に反体制分子とみなされて、逮捕投獄の憂き目に遭う。その投獄中に肺病にかかり、三十歳足らずで命を落とす。わずか十年ばかりの間、二百曲以上の作品を残した。「バラーダ」は、故郷への募る思いが哀切なメロディーを生み、切なげにむせび泣くメロディーをより一層ドラマチックに彩り、聴く者の琴線を震わせる効果がある。朝日新聞朝刊に1998年7月から1年余り連載された小説『百年の預言』(著者は芥川賞作家・高樹のぶ子)に登場する情熱の女主人公走馬充子(そうまみつこ)は天満敦子さんがモデル。作品を貫いて流れる憂愁の旋律<バラーダ>は、言うまでもなく「望郷のバラード」である。
 
・冒頭写真でご紹介したように、僕は無言館館主兼作家・窪島誠一郎さんと会うのを楽しみにしている。窪島さんと天満さんは、お互いを「あっちゃん」、「せいちゃま」と愛称で呼び合うほどの間柄である。その窪島さんから天満さんの知られざる過去についてお聴きしたことがある。その話を基に、僕なりの解釈をしてみる。ここからは、以前書いたものとあまり変わりがないが、「事実は小説より奇なり」という証拠をお見せしたいがゆえに、繰り返しになるがご披露したい。

 天満さんのご母堂は、東京女子大学で瀬戸内晴美(現・寂聴)と同級生だった。その瀬戸内さんと作家の井上光晴さんが恋愛関係になった。きっかけは、ある書店主催の講演会。講師は瀬戸内晴美、井上光晴、大江健三郎の売れっ子3人である。この講演会で、瀬戸内晴美の恋心が弾ける。井上光晴の飴をつまむ白い指の繊細な優雅さ。大学講師や助教授といわれても違和感のない着こなし。全身から石鹸の匂いが漂うような清潔感。たちまち瀬戸内晴美は井上光晴と恋に落ちる。井上には妻と二人の子供がいたが、二人の恋愛関係は8年間にわたって続く。この関係を断ち切るには、生半可なことでは済まない。瀬戸内晴美選んだのが出家だった。戒師を引き受けた今東光和尚の「下半身は?」の問いに、キッパリ「断ちます」と答えたのが、まだ女盛りだった51歳の時である。晴美から寂聴となり、京都・寂庵を拠点に、旺盛な執筆意欲は今に至るも、まったく衰えていない。

・だが、もっと面白い話があった。井上光晴と瀬戸内晴美が恋愛関係になる前、天満敦子さんが高校生16歳の時のこと、御茶の水で作家の井上光晴に見初められたのだという。井上光晴、45歳の時だった。書店・勁草書房の窓ガラス一面にでかでかと井上光晴の顔入り書籍宣伝ポスターが貼ってあり、天満さんがそれをしげしげ眺めていると、当の井上光晴に声を掛けられたというのだ。天満さんが、問われるままに「この先の芸大附属高校に通ってるんです」と応えると、「この近くの『ジロー』でケーキでもご一緒しませんか」と誘われたのである。以来、年齢差30歳余りという稀有な交際が始まったのだという。

・井上光晴の仲間たちには、埴谷雄高、島尾敏雄、野間宏、橋川文三、秋山駿など錚々たる文士たちがいた。この一流文士たちが丁々発止と文学論を闘わす中に、天満さんはひょうひょうとして溶け込んでいたのだ。「この子は天才だ」という井上さんの言を柳に風と受け流し、いわば天満さんは才能あるかわい子ちゃん的存在で、オジサマ殺しの青春時代を送ったのだと思う。だが、一流文士たちとの交流は、天満さんを人間的に成長させた。素晴らしい感性と胆力は、知らず知らずのうちに鍛えられたのであろう。井上光晴の長女・井上荒野さん(直木賞作家)より6歳年上の天満さん。人間の出会いの不思議さを思う。人間の営みって、時に複雑でドラマチック。だから人生は面白いとつくづく感じ入った。

・のちに政治学者・丸山眞男も熱烈な天満ファンになり、わけても天満さんの弾くバッハの「シャコンヌ」を熱愛した。後年、丸山さんが亡くなって偲ぶ会が行なわれたときもその曲を弾いている。丸山さんの魂が乗り移って「人生の軌道を変える出来事」のように思われる経験だったと天満さんは述懐する。なお、天満さんはヴィターリの「シャコンヌ」も演奏会でしばしば弾き、どちらの曲も僕は大好きだ。1992年、天満さんの後見人ともいうべき井上光晴さんががんで亡くなった。天満さんにとっても、これは大きな人生の曲がり角だった。井上光晴さんの「ヴァイオリン一筋でいけ。わき目を振るな」「本物を見つめろ」「あんたは本物になれ」の言葉を守り通したことになる。 

・ここでピアニストの岡田博美さんのプロフィールもご紹介しておきたい。富山県のご出身。安藤仁一郎、森安芳樹、マリア・クルチオに師事する。桐朋学園大学に在学中、第48回、「日本音楽コンクール」で第1位優勝。 桐朋学園大学を首席で卒業後、1982年、「第28回マリア・カナルス国際コンクール」で第1位(スペイン音楽解釈特別賞を併せて受賞)、 1983年、「第2回日本国際音楽コンクール」ピアノ部門で第1位、1984年、「第2回プレトリア国際コンクール」にて第1位(リサイタル賞を併せて受賞)と 次々に優勝を果たし、内外の注目を一身に集めることになる。以後、1984年より在住するロンドンを中心に、東西ヨーロッパ各地で演奏活動を続け、日本においても毎年意欲的なプログラムによるリサイタルが好評を博している。先にふれたことだが、今年の4月から桐朋学園大学院大学(富山県富山市)の教授に就任した。今回の天満敦子、岡田博美のデュオ・リサイタルが行われた翌日は、岡田さんの富山におけるコンサートが開催される予定で、間に合うかどうか心配で、朝一番の北陸新幹線を利用して行くとおっしゃった。普段は無口な人なのに、珍しく演奏終了後にそんなお話をされた。

・また、天満さんのコンサート会場でよくお会いするのが小林亜星さんだ。亜星さんは熱烈な天満ファンであり、天満さんも亜星さんの作った「ねむの木の子守唄」「旅人の詩」「落葉松」等をコンサート会場で演奏されている。もともと大の演歌好きでもあった天満さんは亜星さんと意気投合し、ヴァイオリン編曲版の「北の宿から」を含め、これまでに多数のコラボレーションが実現している。2009年5月27日にはデビュー30周年記念盤として、亜星さんとのコラボレーションを集大成したアルバム『ロマンティックをもう一度』が発売されている。亜星さんは天満さんのヴァイオリン演奏を次のように評している。「私は天満さんの演奏を聞く度に、メロディーに生命を与えることのできる、真の天才を見る気がします。天満さんこそ私の思う“ロマンティック”な音楽を表現してくれる人なのです」と……。
 
 今日のプログラムでは、「旅人の詩」を演奏された。「江戸時代の東北地方、奥の細道を独り辿る俳人・松尾芭蕉の旅姿が曲の背景にある。主旋律は“音楽とはメロディー”と語る小林亜星さんが、漆黒の夜の海上を北に向かって飛ぶ渡り鳥の群れを描いたTV映像につけた哀切な音楽である。通り過ぎていく村から聴こえる、かすかな祭りの歌声、そして菅笠に降りかかる雪片。孤船の情景描写が聴く者の胸を打つ……」(中野雄氏による解説文からの抜粋)演奏が終わった後、僕の客席のすぐ傍に座っていた小林亜星さんが立ち上げって演奏された天満さんと岡田さんに感謝のお辞儀をし、周りの観客に挨拶をされた。

・もう一つ、今度のコンサートで少し述べておきたいことがある。コンサートの最後の番組で、和田薫さんの「雅俗二譚」〈ピアノ・リダクション版〉についてである。本年3月、天満さんとサンアゼリア・フィルハーモニカによって初演された。作曲家自身による曲目解説文より一部抜粋すると、第1譚は、自由な形式による吟遊的な構成でヴァイオリンの抒情的な側面が表現されている。第2譚は、動―静―動の形式で律動と旋律の相対、叙情と熱情の相対が表現されている。タイトルの「雅俗」とは、一般には上品なものと俗っぽいものと理解されるが、和田薫ご本人は、相対する概念とし、人の普遍性を表出する意味を包括したと話している。この曲は、圧倒的に素晴らしく感動的だった。藤木君などは同じ列に座った誼で、和田薫さんにプログラムの当該ページにサインしてもらったほどだ。

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和田薫さんがプログラムへサインしてくれた。咄嗟の早業で、この貴重なサインは、藤木健太郎君の宝物になった。

・ポルムベスクの「望郷のバラード」の演奏が始まった。120年の歳月の彼方から掘り起こし、世に広めたルーマニアの秘曲だ。1977年、ドイツ旅行中だった外交官岡田眞樹は、郊外の小さな町で毎夜同じ曲を演奏する、ルーマニア人の音楽家イオン・ベレシュに注目した。 彼はチャウシェスク政権を逃れて亡命中であり、故郷を想ってその曲を弾いているのだと岡田さんに語る。ベェレシュは楽譜を岡田さんに手渡し、「この曲は、貴方が感動して私の楽屋にたずねて下さった、あの秘曲のバラードです」「昔に書かれた音楽ですが、私は亡命以来、この譜面を手放したことがありません。この曲に注目されたあなたに、この楽譜を上げます」「出来れば、この曲を弾けるバイオリニストを見つけて、私が知らない日本で演奏していただけるといいのですが」と、頼んだのである。その後、岡田氏は仕事で多忙を極め、約束を果たしたのはそれから15年後のことになる。 1992年、天満敦子さんのルーマニア公演で彼女のヴァイオリン演奏を聴いた岡田さんは「望郷のバラード」を託すべきバイオリニストは天満敦子さんしかないと思い、この楽譜を天満さんに渡す。天満さんの「望郷のバラード」の初演は1993年春非公式なサロン・コンサートで行われた。以来、この曲は天満さんにより日本各地で演奏される。この秘話とともに多くの日本人ファンに支持されたのである。たった一台のヴァイオリンから圧倒的な音量が紡ぎ出される。何度聴いても素晴らしい。憂いを帯びた美しい旋律と、曲に秘められたエピソードを知るたびにますます好きになった。

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コンサート終了後、ホテル・ニューオータニのレストラン「SATSUKI」で、天満さんにばったり。天満敦子さんをはじめ、常連を引き連れていたのは、窪島誠一郎さんだった。

2015.10.27假屋崎省吾さん

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目黒雅叙園で開催された「假屋崎省吾の世界」展。

假屋崎さんへ贈られたお祝いの花々。

 

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正面玄関入ってすぐに展示された假屋崎省吾さんの作品。

 

 

・目黒雅叙園で101日から25日まで長期開催されている「假屋崎省吾の世界」展を臼井雅観君と見に行ってきた。假屋崎さんには、弊社刊行の月刊『清流』に「日常生活で生け花を楽しむ」をコンセプトにして連載をしていただいた。それをまとめた『假屋崎省吾の暮らしの花空間』という本を1冊出させてもらっている。それを恩義に感じてくれたものか、その後も何かイベントがある度に、律儀に招待状を送ってくれる。この7月にも日本橋三越本店7階で、「假屋崎省吾の世界」が開催されたが、この時もわれわれは招待状をいただいた。昼食を兼ねて4人で出かけた。帰り際に猛烈な熱帯性スコールに襲われたが、その異常気象の乱調も印象が薄くなるほど、ただただ假屋崎さんの個展の素晴らしさに感動した。今回も目黒雅叙園の個展に招待を受けた。思い起こせば、雅叙園の假屋崎さんの個展を何回観たことだろうか。最初は、假屋崎省吾さんのプロデュースした「ブライダル・ブーケのファッションショー」に直接の単行本編集担当者だった秋篠貴子嬢、出版部長だった臼井君と何度か招待されて、お土産もどっさり貰い、楽しませてもらった。特別な訪問着や振袖、打掛、ウエディング・ドレス姿のモデルさんたちが、次々に假屋崎さんのプロデュースしたブーケをもって登場し、目を楽しませてくれたものである。ゲスト陣も豪華で、ある時はピアニストのフジ子・ヘミングさん、またある時は書家の紫舟(ししゅう)さんなどが登場し、実際にピアノ演奏や書のパフォーマンスで楽しませてくれた。

今回の展覧会は新趣向もこらされていた。それはトワイライト見学というもので、昼間の時間帯に来られない方のために、夕方5時から7時までという時間で見られるようにしたものである。それもこの時間帯の入場者に限り、会場内の写真撮影がOKという特典つきだ。僕らは午後に出掛けたのだが、ゆっくりと見学して帰ろうとする頃は、すでに夕方に近かった。臼井君は最近カメラに凝っていて当日も肩から下げていたのだが、会場係の方がご親切にも、「しばらくするとトワイライトタイムになるから、写真を撮りたかったらどうぞ」と言ってくれた。こんな心遣いは流石に目黒雅叙園ならではのものであり、僕も嬉しかった。そんなわけで会場内の作品も少しだけだが、お伝えすることができる。

 

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「百段階段」の花、その1。

 

・目黒雅叙園には、20093月に東京都の指定有形文化財に指定された木造建築があり、欅の板材でつくられた99段の階段廊下をもつことから「百段階段」と呼ばれている。この展覧会もこの「百段階段」を会場にして、2000年から始まり、毎年開催してきており今年16回目となるという。総来場者数が約60万人というから大変なイベント企画である。国内だけではなく国際的にも幅広く活躍する假屋崎さんは、昨年もブルガリア、トルコ、ルーマニアなどで個展を行い、大いに日本の華道の素晴らしさを世界に知らしめた。新たにインスパイアされた世界観を、目黒雅叙園でお披露目となったわけだ。
「百花繚乱」という言葉通り、昭和10年に作られたという木造建築「百段階段」には、假屋崎さんの新たな視点で活けられた様々な花が会場内に咲き乱れていた。かつては食事を楽しんだ7部屋を欅の99段の階段廊下が繋いでいる。7つの部屋は、当代一流の芸術家による日本画、黒漆に蝶貝をはめ込んだ螺鈿、組子の建具、銘木など破格の装飾に埋め尽くされ、日本文化の伝統の煌めきを今日に伝えている。具体的には、天井に23面の鏡板で荒木十畝の四季の花鳥風月が描かれた十畝の間、床柱が北山杉の天然絞丸太で格天井および欄間いっぱいに板倉星光の四季草花が描かれた星光の間、室内は純金箔、純金泥、純金砂子で漁樵問答の一場面が描かれた漁樵の間、美人画の大家、鏑木清方が愛着をもって造った茶室風の室で、欄間に清方の四季風美人画が描かれた清方の間など、それぞれの部屋そのものが個性に溢れている。この目黒雅叙園の歴史的文化財と、假屋崎さんが織り成すの世界が今回の個展ということになる。
本展では、花と歴史的建造物とのコラボレートを展開している假屋崎さんの原点である「百段階段」と、假屋崎さんの紡ぎだす生命のパワーが溢れる花の世界とのコラボレーションが楽しめる趣向だ。

 

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「百段階段」の花、その2。

 

・假屋崎省吾さんのプロフィールを簡単に触れておこう。華道家。「假屋崎省吾花・ブーケ教室」を主宰。美輪明宏さんより、「美をつむぎ出す手を持つ人」と評される。着物やガラスの器のデザイン及びプロデュースをはじめ、花と建築物のコラボレートとなる個展“歴史的建築物に挑む”シリーズを毎年開催している。海外ではフランス・パリ「プティ・パレ宮殿」やヴァンセンヌの森「パリ花公園」、タイ王国・バンコク「サイアムパラゴン」、ブルガリア・ソフィア「日勃国交55周年記念」などで個展やデモンストレーションをするなど、国内はもとより海外でも目覚ましい活動を展開している。その他、地域活性化支援のボランティア活動の一環として、少子化問題や地域活性を促す社会活動などにも積極的に取り組んでいる。

 現在、TBS系の「中居正広の金曜日のスマたちへ」にレギュラー出演中、NHK「あさイチ」にゲストコメンテーターとしても出演、MBS「プレバト!!」での大人気企画、いけばなの才能査定ランキングの専門家ゲストとして出演するなど、テレビ・雑誌・新聞など幅広い分野で活躍中。

 

・さて、感想を述べておきたい。まず目黒雅叙園の正面玄関を入ると、假屋崎さんの多彩な交友関係を窺わせるお祝いの花々が並んでいる。そのすぐ右横には、黄色と赤い木を縦横斜めに巡らせた前面に、惜しげ無く使われた白と紫色の胡蝶蘭が配された假屋崎さんの作品が出迎えてくれる。今回のテーマは琳派400年にちなんで『和美共感』だという。豊かな装飾性とデザイン性を特徴とする琳派の様式は、日本が世界に誇る至高の美として知られる。400年を経た現代においても、その輝きは色褪せることはない。本展では室町時代から江戸時代まで、それぞれの時代をイメージした琳派様式の作品約80点を創作。百段階段に連なる絢爛豪華な7部屋に展示されている。

エレベーター経由で、本日のメインである百段階段に向かう。日本伝統の美の空間で、現代日本の花卉生産者が生み出した花々を駆使して假屋崎省吾が織りなす、美の世界をご堪能できるというのが売り文句だがその言葉に偽りはなかった。階段の昇り降りが僕には苦痛なので、全部は見られなかったものの、実に各部屋の個性に合わせて、花々が活けられていることが分かった。それに前々から思っていたのだが、假屋崎さんの作品の空間処理のうまさに驚かされた。何事にも「間」が大事だと言われる。落語における語りの間であり、白地を生かした書道の書もそうだが、彼の作品にはそれが感じられる。この間があることで、作品に余裕が生まれ、美の世界は限りなく広がりを見せている気がするのだ。

 

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「百段階段」の花、その3。

 

・それにしても、日本各地から提供された花々の、素晴らしいことといったらない。各地のJAなどが生産者だが、ダリア一つ取ってみても、この種類の多彩さ、その豪華さは他に類を見ない。直径20センチもの大きさのダリアなど、これまで僕は見たこともなかった。またこの時期なのに、牡丹の花が活けられていた。普通、牡丹の花は、4月から5月にかけて咲くはず。その牡丹の花が今の時期に見られるとは驚きだ。こうした花卉生産者と假屋崎さんとのコラボあってこそ、この展覧会が続いた理由と思われる。例年、その大胆な使い方には感心させられていた、柿の実がついたままの大振りの柿枝が今回も使われていた。大胆にかつ細心な作品に仕上がっていた。

  また、新しい現代感覚のスプレイ菊、鶏頭、花梨、和洋のバラ、トルコギキョウ、シンビジウム、グロリオーサ、南瓜、蘭など、使用した花卉は実に多彩で豪華そのもの。花器関係もご本人のプロデュースで、鉄器、ガラス器、陶器などと作品に合わせて使い分けている。僕は生け花には門外漢だが、いいものはいいとだけは言える。今回、この假屋崎省吾の世界展を見て勇気づけられた気がする。美の世界は世界共通である。假屋崎さんの作品は世界でも高評価されている。そして陰で支える日本各地で花卉の生産に従事している人たちがいる。この素晴らしい花々もまた、世界に通用するものだと僕は信じている。日本のアニメ技術が世界を席巻しているが、この生け花も世界に誇れる日本の伝統文化だと思う。どんどん発信していって、日本に活力をもたらして欲しい。そんな夢を見させてもらった、今回の個展であった。

 

過去の会場写真を少しご披露しておこう。

 

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假屋崎省吾さん、編集担当の秋篠貴子、僕。撮影:臼井雅観(200911月)

 

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假屋崎省吾さん、出版部長の臼井雅観、僕。撮影:秋篠貴子(200611月)

 

2015.09.24西江雅之さん

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西江雅之さんは清流出版にしばしば来社され、刺激的な文化論を語ってくれた。


・年を取るということは、多くの別れを経験するということでもある。僕も75年の人生の中で、近親者はもとより、たくさんの親しい友人・知人を失った。親友の死によって、生木を裂かれるような、つらい思いも何度かしてきた。つい最近も、僕にとってショッキングな訃報が伝わってきた。
  各紙に《6月18日、西江雅之氏、死去する。文化人類学者、言語学者。膵臓ガンのため東京都内の病院で死去。77歳。葬儀は近親者のみで営まれた。後日、偲ぶ会を開く予定。喪主は長男アレンさん》と、報じられたのを見て絶句したものだ。
  たまたま、本欄の2015年4月27日に、先輩の千代浦昌道さんのことを書き、その文章中に「……部活動で伝説の泰斗に出会うことになる。語学の天才として有名だった早稲田大学高等学院の三年先輩で、早大政治経済学部卒の西江雅之さんである。西江さんは、早くからインドネシア語、フランス語、中国語、ロシア語、アラビア語、ハンガリー語等を独習していた。その後、ポリグロット(多言語を操る人)で知られることになる語学の天才は、スワヒリ語からサンスクリット語まで数十ヵ国語の言語を話し、終生、僕の尊敬する方となった」と書いた。この時からわずか2ヶ月と経たず、西江雅之さんの訃報に接することになろうとは。真に惜しい方を喪って、残念無念でならない。

・西江雅之さんは、早稲田大学政治経済学部卒、同大学文学部英文科3年次に学士入学、同英文科卒業(卒論はリチャード・ライト)。同大学大学院芸術学専攻修士課程修了。大学院時代は2年間にわたりエドウィン・O・ライシャワー駐日アメリカ大使の娘ジョーンの家庭教師を務めた。その後フルブライト奨学生として渡米し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校大学院アフリカ研究科で言語学を学んでいる。
  早稲田大学、東京大学、東京外国語大学、東京藝術大学などで教鞭をとるほか、アジア・アフリカ図書館館長などを歴任している。1984年にアジア・アフリカ賞を受賞。エッセーも数多く執筆し、著書に『花のある遠景』、『異郷日記』、自伝『ヒトかサルかと問われても』など数十冊がある。稀有な文化人類学者、言語学者だった。現地生活に溶け込んだ文化や言語研究を進めたことから「はだしの学者」、「歩く文化人類学者」とも呼ばれた。
  アフリカ諸語やピジン・クレオール語の研究の先駆者でもある。23歳の時、日本で初めてスワヒリ語文法を発表された。西江さんは数十ヵ語、一説には50以上の言語を方言も含めて流暢に話すことができたという。例えばナイロビの夜に会った女性がキクユ族だと知ると、スワヒリ語からキクユ語に切り替えて会話を続けたというエピソードが残っている。このような多言語を操る方は世界広しといえ西江さんが断然優れていたと思う。

・7月に入って、「西江雅之追悼“おと”と“ことば”の集い」実行委員会が立ち上がって、西江さんの懐かしい思い出やエピソードを語り合いながら、故人を「偲ぶ会」を計画された。8月29日(土)13:00から15:00まで、目黒区立駒場公園内、旧前田家本邸洋館と、日時・場所が決まり、実行委員会は西江雅之さんとご縁のあった方々に知らせたという。千代浦昌道さんの自宅にも電話があって、追悼会に出席できるか訊ねてきたという。その際、千代浦先輩が気を利かせて「案内状リストに加登屋君は含まれていますか?」と確かめてくれた。よき先輩に僕は恵まれた。そして、僕が出席できるよう手配してくれたのは、問い合わせ先の事務局・佐藤久美子さん(文鳥舎)と、千代浦さんが親しい幾代昌子さんだった。幾代さんは、西江さんや千代浦さんたち、僕も1年生の時しばらく在籍していたクラブ活動の早稲田大学フランス文学研究会(仏文研)の世話役だった方。彼女は現在、株式会社アウラ代表取締役として映像、映画の字幕制作、広告業界、音楽業界などの名プロデューサーとして鳴らしている。そういえば、先年亡くなった僕の親友・正慶孝さんが部活には関係ないが、幾代昌子さんのことをよく話題にしていた。僕の印象では、姉御肌で気風のよい先輩とのイメージが強く残っている。

・「偲ぶ会」の当日は、小雨がそぼ降る生憎の天候だった。道は込んでいて、わが家から千代浦さんの家まで大渋滞だった。やっとのことで千代浦先輩を拾い、会場を目指した。大幅に遅れて駒場公園の旧前田家本邸洋館にたどり着いた。会場用の車いすを借りて、長い列の後ろに着き、受付を済ました。その間、車いすを押してくださった千代浦さんが近くの方と話したのが、市川慎一さん(フランス文学者、早稲田大学名誉教授)だった。市川さんも西江さんと東長崎駅近くに在住し、僕と同じように18世紀の啓蒙思想が好きで、特にヴォルテール、ディドロ、ルソーなど百科全書の研究者だった方だ。その時、「加登屋さん、今日はありがとうございます」の声を聞いた。加原奈穂子さんだった。彼女は、文化人類学・民俗学専攻で、現在、早稲田大学、東京芸術大学、明治大学などで教壇に立つ方である。早稲田大学エクステンションセンターでも講義し、西江さんの一番親しい方と言ってよい方だ。弊社で『異郷をゆく』(西江雅之著、清流出版、2001年)を刊行した際に、何度かお会いしている。
偲ぶ会――「西江雅之追悼“おと”と“ことば”の集い」の模様

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ジャズピアニスト山下洋輔さんの“音”(おと)


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司会者の柳瀬丈子さんの“言葉”(ことば)

・「偲ぶ会」の模様をお伝えしよう。会場にはジャズピアニスト山下洋輔さんの弾く、素晴らしいジャズが流れていた。しばらく聴いていると、本日の司会者が登場した。この方、柳瀬丈子(たけこ)と名乗った。年の頃は、60代ぐらいの年恰好に見えた。しかし、西江さんのことを「まさゆきちゃん」と呼び、西江さんのお兄様と豊島区立椎名町小学校で同級生という。そして、西江さんの母上からピアノを教わったという話を聴いて、もっとお年を召していることが分かった。柳瀬さんの母堂と西江さんの母上とは、仲がよいお茶飲み友だちだったという。女性の年齢を失礼だが類推してみた。どう考えても80歳にはなるはずで、女性の年齢は本当に分らないものだと感じ入った。
  帰宅後、調べてみると、やはり柳瀬丈子さんは、1935年生まれで80歳であった。東京神田生まれの江戸っ子で早稲田大学文学部国文科を卒業されている。NHKの人気番組「こんにちは奥さん」の司会者に起用され、鈴木健二アナウンサーとのコンビで評判をとる。以後、各局の生活情報番組、教育番組の司会者、キャスターとして出演した大変な才媛であり、詩人、本郷歌会代表、「五行歌」同人。『風の伝言―柳瀬丈子五行歌集』の著書もある。確かに見るからに教養を感じさせる“雰囲気”を持っている女性であった。
  西江さんの親しい友人たちが次々に弔辞を述べた。まず、岩城晴貞さん(民族学、国立民族学博物館)が、全員に黙祷を呼びかけ、数分間いっせいに西江雅之さんのご冥福を祈った。西江さんの親しい友人たちが次々に弔辞を述べた。明かされる西江さんのエピソードは弔辞を超えた破天荒なものだった。親しかった友人たちがスピーチで披露するエピソードは、奇才・天才・変人として知られた西江さんらしい型破りで、突拍子もない話ばかりであった。あの西江先輩の生きざまである。さもありなんと僕は聞いていた。鈴木志郎康さん(詩人、映像作家)をはじめ、傑作なのは、囲碁の大竹英雄碁聖が、西江さんとの交流を語った。遠いアフリカの国から絵葉書をもらい、汚い字で表裏にびっしりと書くのが西江さん流の葉書。毎回、大竹さんは苦労して読んだという。ついでに、本日のジャズピアノの山下洋輔さんの話をピアノ演奏より“語り”が上手い(笑い)と評価された。僕は、大竹さんも話上手だと思った。
  山下洋輔さんは西江さんについて、こう語っていた。「ジャズミュージシャンにとってパーカーやモンクは生き続けているんです。死ぬことはない。パーカーやモンクとはいつでも対話できるし、いつだって学ぶことができる。ただ会うには、ちょっと遠いところにいる。西江雅之さんもそうです」と。この言葉はそのまま僕の気持ちでもある、そう思った。

・西江さんの来し方を少し振り返ってみよう。やはり幼少時から枠に収まるような人物でなかったことがよく分かる。父君は西江定といい、後に早稲田大学英文学科教授となった方だ。その三男として東京市本郷区駒込林町(現在の東京都文京区千駄木)に生まれている。4歳の時、武蔵野線(現在の西武池袋線)沿線の東長崎駅近くに移り住んだ。当時、僕の住まいとは、目と鼻の先である。その1年半後、父君の郷里、兵庫県宍粟郡城下村(現在の宍粟市)で疎開生活を送る。当時は一日のほとんどを野外で自然児として過ごし、自分で獲った野生植物や昆虫を主食にしていたというから凄い。
  敗戦後、小学校2年生のとき東京・長崎へ戻ってきた(駅の名前と違って、番地は西江さんが南長崎6丁目、僕が長崎6丁目)。小学校時代にはNHK素人のど自慢に出場し入賞、それがきっかけで東京放送児童合唱団に参加すると共に日劇で『鐘の鳴る丘』に出演したというから、後の語学の才もさることながら、芸術的な才能もお持ちだったのだ。芸能活動と併行して野外での冒険活動をも続行し、この時期には様々な野生動物を捕獲して食べたこともある。世界各地へ旅しても、その土地の食べ物で、何不自由無く暮らせたというその萌芽がここにある。

・西江さんはいうなればゲテモノ食いであった。『風に運ばれた道』(1999年、以文社刊)にこんな記述がある。――食べるということは、短期滞在者にとっては日常生活ではもっとも重要なことである。(中略)今後の数週間をどう過ごしていこうかと悩んでいる時に、「タトゥ(アルマジロの意)」という妙な名のレストランを裏町で見出した。期待もなしにガランとした店内に入り、席に付くと、無愛想な黒人のおばさんが真っ黒い手でメニューをわたしに突きつけるようにして差し出した。
  メニューを見ると、変わった料理ばかりである。サルの肉のソース煮、アルマジロ、バク(貘)、大トカゲ、アナコンダ(大蛇)、カイマン(鰐)、大ネズミ、トゥーカン(鳳冠鳥)、野豚、その他にもカピアイ、パキラなど普通はあまりお目にかからない名の野生動物の肉料理の名がズラリと並ぶ。こうなると、わたしの血が騒ぐ。早速、この店の看板であるアルマジロとサルの料理を、ビールと一緒に注文した。運ばれてきた皿の上のサルは、小型の種類のものらしい。それは身体のほんの一部でしかないとはいえ、そのブツ切り料理は生きている時の姿を想像させずにはおかない。
  二の腕の部分の黒ずんだ肉に齧りつくと、硬い骨とともに小さな鉱物片が不思議な歯ごたえを感じさせた。肉に小石が入っているはずはないと思って、ペッと吐き出してみると、それは散弾なのだった。他方、アルマジロはといえば、甲羅のように堅くて厚い皮付きの、長四角のブツ切りなのである。要するに、アルマジロを皮ごと切って、それをひっくり返して皮を皿の代わりにして料理したものなのである。出来上がりは板付きカマボコのようなものとなるわけだ。食べてみれば柔らかい良質の肉である。ビールは生温かくても、食欲は大いに進む。
  そうなると、バクにも手を出したくなる。夢を食うといわれるあのバクである。この肉もまた、癖がなく柔らかく美味である。だが、そんな動物を食べてしまえば自分には夢も希望もなくなってしまうのではと、少しは気になる。しかし、食欲は不安に優る。これからは、毎日、メニューに出ている全動物に計画的に挑戦してみよう。(以下略)――かくのごとくで、何でも食べられる人だったのだから恐れ入るしかない。

・早熟で頭がよく、昆虫や鳥類に親しみ、なんと48歳年上の『シートン動物記』訳者の内山賢次と交際している。その話は傑作で、ちょっと紹介しよう。当時、『シートン動物記』を翻訳されていた内山賢次さんが「あとがき」で、原書で意味がわからない部分があり、識者に問いたいと書かれたのである。西江さんはそれを見て、アメリカ・インディアン語の、それもツィムシアン族の言語と読み解き、その文意を訳者に知らせたというのだ。お二人が初めて出会う場面が傑作である。高校生の西江さんを見て、内山さんは当の本人とは露ほども思わず、てっきり父親の代理で来たものと思ったそうだ。
  また、早稲田大学高等学院では体操部に所属し、2年のとき器械体操の東京地区高校大会にて鉄棒で1位、全種目総合でチャンピオンとなる。運動神経まで、飛びぬけていたわけだ。このくだりは、鈴木志郎康さんの追悼の言葉でも述べられている。
  早稲田大学政治経済学部在学中は、独自に編み出した「二重時間割方式」(大学の授業科目をなるべく多く取り、授業に休まず出席し、その授業時間中はその科目とは別の自分の計画に従って外国語を学ぶというやり方)によって、インドネシア語・フランス語・中国語・ロシア語・アラビア語・ハンガリー語などを独習したという。傍ら、フランス文学研究会(仏文研)で鈴木康之(現在の鈴木志郎康)や阿刀田高、上田雄洸、高野民雄、佐々木孝次、もちろん千代浦昌道の各氏とも交際する。1959年秋、政経学部3年の時、早大生たちによるアフリカ大陸縦断隊に招かれて一員となり、東部アフリカ大陸における意思疎通の必要からスワヒリ語を研究。日本初のスワヒリ語の専門家となる。

・僕は大学に入学した時、早大高等学院の3年先輩で、数々の伝説の持ち主であった西江さんと是非お近づきになりたいと思った。だから大学時代、西江さんが所属していた仏文研に入ろうと思ったほどである。それはさておき、西江さんには、清流出版から2冊目の単行本刊行を依頼しており、ご執筆を快諾いただいていた。実は、西江さんは関係する大学(東京外国語大学、早稲田大学、東京大学、東京藝術大学)を退職されてから数ヶ月を費やして、中国、台湾のフィールドワークに携わってこられた。その研究テーマが「媽祖(マーヅォ)」だという。媽祖のことは、日本の新聞・雑誌・テレビ等でも、まだほとんど報じられていない。西江さんの話を聞いているうち、面白いテーマであったので、とても興味をひかれた。媽祖に関する詳細な、宗教、政治、社会生活等の取材結果が公表されれば、大きくクローズアップされそうな予感がした。
  編集を手伝っていただく井上俊子さんから、西江さんが原稿執筆にとりかかるということは聞いていた。だからその出来上がりを、首を長くして待っていた。西江さんは、超がつくお忙しい方である。そうこうするうちに時間が経って、ついに刊行にこぎつけることは叶わなかった。僕としては実に残念である。泉下の先輩に文句の一つも言いたいところだが、長い人生を振り返ってみれば、どれだけ多くのことを西江さんから学んだことか。そう思うと、もう謦咳に接することができない寂しさが込み上げてきた。僕には、「西江さん、長い間お世話になりました、有難うございました」という感謝の言葉しかないのだった。


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山下洋輔さんの“ことば”、ジャズピアノもさることながら、心に沁みた。


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鈴木志郎康さん(右)は部活の早大フランス文学研究会以来の付き合いを語る。


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囲碁の大竹英雄さんは、雄弁で西江さんと小指の長い共通点で笑いをとった。


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加原奈緒子さんは、文化人類学、民俗学専攻で、西江さんの一番弟子のような存在。


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息子のリチャード・アレン西江さん。普段はチェコのサッカーチームで、日本にはいない。西江夫人が、アメリカで長く闘病されていて、本日の喪主を務めた。

2015.08.27西山孝司さん、高崎俊夫さん、山崎方夫・みどりご夫妻、田島隆夫さん

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デザイナー西山孝司さんの個展会場。
 

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西山孝司さんの個展「西山孝司 映画本のデザイン」案内板
 

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ずらり並んだ映画本

・実は先日、渋谷駅からほど近い「ウィリアム・モリス」という喫茶店で、デザイナー西山孝司さんが装丁した映画本を集めた個展が開催された。この映画本というのが、すべてわが清流出版から刊行されたものである。30数点がずらりと並んだのは壮観であった。この映画の単行本企画すべてをプロデュースしたのが、映画評論などで活躍中の高崎俊夫さんである。だからこの30数点の映画本はすべて、高崎俊夫、西山孝司、この2人のコラボレーションによって生まれたものである。
  もう一つ気づいたことがあった。西山さんのパートナー・柳川貴代さんの集めたアンティークの欠片箱が会場の片隅で展示・販売されていたのだ。これがなかなかお洒落で、手にしてみたが面白かった。カマーラインハルト/シモンハルビッグのビスクヘッド、幻燈機スライド、ブリキのブローチがとても廉価で売られていた。
  高崎さんはなかなかの目利きであり、映画本企画以外にも、徳川夢声、桂ユキ、虫明亜呂無、花田清輝、松本俊夫等々、埋もれかけた名品を掘り起こすといった趣のある単行本企画を弊社に持ち込み、清流出版の出版部門に新風を吹き込んでくれた。評論家の坪内祐三さんが、このラインアップを見て、「今、一番気になる出版社だ」と言ってくれるほどだった。

・その高崎俊夫さんがプロデュースで、この9月30日の刊行予定で、創元推理文庫から『親しい友人たち 山川方夫ミステリ傑作選』が刊行されるという。「夏の葬列」をはじめとする〈親しい友人たち〉、EQMMに掲載されたエッセイ風連作〈トコという男〉を収録しているという。山川方夫とは懐かしい名前である。僕もファンの1人で、山川方夫の死後、江藤淳と坂上弘が編纂し、冬樹社から刊行された「山川方夫全集」全五巻(1968年)を40数年前、買って読んでいた。わが家は手狭で、蔵書の数も限られていることから、引っ越しのたびに、かなりの本を売るか捨てるかして処分してきた。幸いにも山川方夫全集は処分せず手許に残っている。その後、筑摩書房から全七巻(2000年)が出ているが、冬樹社版は刊行部数が少なかったため、嬉しいことに古書市場ではかなりの高値がついているという。

・山川方夫は二宮駅前の国道1号線でトラックに轢かれる交通事故に遭い、翌日亡くなってしまった。享年34。早いもので、歿後50年になるのだという。1930(昭和5)年の生まれで、慶應義塾(幼稚舎、普通部、予科文学部、大学文学部仏文科、大学院文学研究科仏文専攻)で一貫して学んだ。彼の功績は数々あるが、1954(昭和29)年、第3次『三田文学』を創刊し、新人発掘に力を注いだことがまず挙げられる。曾野綾子、江藤淳、坂上弘など数々の才能を開花させたことでも知られている。その後、ご本人の文学作品も何回か芥川賞、直木賞の候補作となるが、惜しくも受賞には至らなかった。弊社でも高崎さんの企画で、『目的を持たない意志―-山川方夫エッセイ集』(2011年刊)と題した単行本を刊行している。石原慎太郎、江藤淳ほか同世代の作家論から、清冽な恋愛論、哀惜に満ちた東京論、増村保造を論じた独創的な映画評論まで網羅した珠玉のエッセイ集であった。

・妻の山川みどり(旧姓生田)さんも高崎さんのプロデュースで、弊社から本を出させて頂いた。みどりさんは長く『芸術新潮』の編集長だった人物である。41歳の時、編集長になった。年齢は僕より1歳下だった。
  ちょっと余談になるが、僕は山川みどりさんの前に『藝術新潮』(誌名が旧字だった)編集長だった山崎省三さんに、何回もご馳走になった。瀧口修造、大島辰雄、吉岡実各氏と画廊や展覧会や各種イベントに集う時、例えば、後楽園の「ボリショイ・サーカス」や赤瀬川原平さんの「千円札裁判」まで出かけたものだ。その後、席を代え、山崎省三さん(正確には新潮社)に奢ってもらった。お酒が入ると大いに談論風発する、楽しい集まりであった。集まりの中では、僕一人だけが年若だった。なんという幸せな一時を過ごしたことだろう。
  本題に戻ると、山川さんが退職後、新潮社の季刊雑誌『考える人』に「六十歳になったから」を連載し、好評を博した。この連載第1回目の原稿“これからいっぱい遊ぶんだ!”を見せてもらって、ものすごく面白かった。だから23回にわたる連載を全部通しで見て、文章の巧みさに惹きこまれ、同世代に受けること間違いなしと刊行を決意した経緯がある。それが単行本『還暦過ぎたら遊ぼうよ』である。本の内容は、みどりさんが田舎暮らしをしたいと、定年後、信州の西軽井沢に一軒家を建てられた。隣接の小さな畑を耕して、トマト、キュウリ、ナス、カボチャなど、好きな野菜を育てて楽しんでおられた。こうした日々の農作業、野菜を収穫する楽しさ、季節の移ろい等を楽しんでいる様子が描かれており、興味深く読んだ。そんなみどりさんだったが、高崎さんの情報によれば、数年前、病に倒れ、現在は湘南に戻って病気療養中だという。折角、信州に馴染み、土地の人々とも人間関係ができ、田舎暮らしを満喫しておられたのに、残念でならない。早く回復されんことを祈るのみだ。
 

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地機織りする田島隆夫

・6月号で菅原匠さんのことを書いたが、菅原さんを書いて田島隆夫さんを書かないわけにはいかない。菅原さんと田島さんは、仕事の上でも藍染で深いつながりがあったが、個人的にも親しい間柄で、田島さんは伊豆大島の菅原宅を訪ねるのを楽しみにしていた。織物や糸を藍染で染めたあとは、2人で三原山周辺や野山に出掛け、風景や草花などスケッチして楽しんだ仲だ。田島さんは敬愛する白洲正子さんから、織司と呼ばれていた。本業は地機織りで織物を織っていたからである。白洲さんはその昔、銀座で「こうげい」という店を経営していた。白洲さんは田島さんの織物にぞっこんであった。配色、縞模様、風合いのすべてが過不足ないバランスで織られていた。だから田島さんの織物を「こうげい」で仕入れては売った。織物の品質だが、前提として素材の良さを挙げなければならない。田島さんは納得のいく繭を手に入れるために、労を惜しまなかった。近隣の農家を1軒1軒回り、土蔵の奥に仕舞い込まれていた貴重な繭玉を手に入れ、その糸を紡いで織ったのである。

・その田島隆夫さんには飛び抜けた余技があった。それが書画である。実は清流出版から、田島隆夫さんの『田島隆夫の日々帖』前期(1982-1986年)、中期(1987-1991)、後期(1992-1996)と題した三部作が刊行されている。画があって言葉が添えられていることから絵手紙といってもいい。田島さんの書画の余技をいち早く認めたのは、ちょっと肩書が長いが、美術エッセイスト・小説家・画廊主・画商の洲之内徹さんと、白洲正子さんのご両人である。洲之内さんが経営していた「現代画廊」で1982年から87年まで田島隆夫さんの個展が開催されているが、案内状には欠かすこととなく、洲之内徹と白洲正子ご両人の推薦文が添えられている。それだけ作品に対する評価が高かったのである。その2人が行田市の田島さんの家を訪ね、個展用の作品選びをしたときのこと、田島さんから「日々帖」という和綴じの冊子を見せてもらった。この「日々帖」は田島さんの画日記のようなもので、毎日欠かさず1枚ずつ描いていた。1ヶ月分の和紙をこよりで綴じたものを用意し、毎日、仕事が一段落したあと1枚ずつ描いていく。1ヶ月に1冊ずつ、作品集が出来上がるようなものだ。田島さんはこの「日々帖」を売り物とは考えず、自分の楽しみだけに描き続けていた。だからこそ肩肘張った売り物の書画とは違って、自由に筆が遊んでおり、魅力に溢れていた。


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『日々帖』の前期・中期・後期の全三冊

・1982年から描き始めて晩年まで、15年近くにわたって描き続けられた「日々帖」は都合180冊近くになっていた。枚数にして5000枚に近い。洲之内さんも白洲さんも、絵手紙創始者・小池邦夫さんもこの「日々帖」を田島さんから見せてもらったが、いずれもほんの一部だけ。全貌を見た人は一人もいなかったのである。展覧会に出すものでもない、売り物でもない、ひたすら自分のためだけで人に見せるものではなかったからだ。多くは下絵のようなものだが、彩色されているものもある。集中して瞬間的に描いた早描きだった。田島さんは数分で描いていたようだ。臼井雅観君が小池邦夫さんと親しい関係から、僕もこの「日々帖」の存在を前から知っていた。日本の絵手紙人口が150万人と言われている昨今。この絵手紙愛好家たちに、田島さんの「日々帖」はいいお手本になるに違いない。僕は是非、未亡人の道子さんを説得して欲しいと臼井君に指示したものだ。臼井君は、何度か手紙で「日々帖」の出版をお願いした。ところが未亡人の田島道子さんはなかなかうんと言わない。それに強力なライバルが出現していた。世界文化社もアプローチしているという声が聞こえてきたのだ。世界文化社は『家庭画報』を刊行し、芸術系の出版物も多く出している。白洲正子さんの本も10冊以上出しており、ことごとく刷りを重ねている。世界文化社が相手では、僕は正直いって難しいかなと思っていた。
  またまた脱線するが、小池邦夫さんは僕が住んでいるマンションを分譲する時、乗り気になり購入を検討したことがあったと言う。小池さんは結局もう一軒一戸建てを仕事場として購入されたが、僕のマンションとは徒歩約10分の近距離。野川を挟んで小池さんは狛江市東野川、僕は世田谷区成城となる。もし小池さんが同じマンション住まいだったら、僕も絵手紙をもっと真剣にやっていただろう。小池さんの一番弟子・臼井雅観君とも交際の程は、変わったはずである。この間の事情を察して、素早く狛江市が積極的に「絵手紙の発祥地狛江――小池邦夫」の横断幕を張った市民バス(コミュニティバス=こまバス)を運行した。結局、残念ながら「世田谷区民・絵手紙の小池邦夫」は実現しなかった。

・先に、わが社では、田島隆夫さんを刊行は無理だと思っていた。ところが思わぬ助っ人が現われた。写真家の藤森武さんである。藤森さんは土門拳の弟子として巨匠を支えた人物として知られる。その藤森さんと臼井君が親しかったことから、視界が一挙に開けることになった。藤森さんは田島道子さんと作品の写真撮影で接点があがり、2人で行田市まで説得に出かけることになった。臼井君が小池邦夫さんと親しかったことも、かたくなな道子さんの心を和らげた。小池さんが田島宅を訪ねた際、お互い意気投合して肝胆相照らす仲となったからだ。事実、田島隆夫さんが亡くなるまで、深いお付き合いを続けた。この日、道子さんを2人で説得した結果、「日々帖」すべてを借り出すことに成功した。大きな風呂敷に包まれた作品群を勇躍して、車に乗せたものだった。後日、臼井君と藤森さんで5000枚近い書画から荒選びをし、750枚まで絞り込んだ。その絞り込んだ書画を、藤森さんが自宅のスタジオで撮影した。そのポジの中から、年代順に3期に分け、各期100枚ずつ厳選して3冊の本として結実させることができた。A5版横タイプというハンディな造本にしたことも奏功し、絵手紙愛好家に熱狂的に受け入れられた。3冊すべて増刷となって経営に寄与してくれた。清流出版にとって、とても有難い本であった。元はと言えば、人と人との人間関係である。つくづく人のつながりというものを考えさせられた。これからも、第二、第三の田島隆夫の発掘を期待したいものである。

2015.08.03東京国際ブックフェア

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7月1日(水)から7月4日(土)までの4日間、「第22回 東京国際ブックフェア 2015(TIBF)」と「第19回 電子出版EXPO」が東京・有明の東京ビッグサイトで開催された。ブックフェアに関心の高い斉藤勝義さんと藤木健太郎君は、初日の養老孟司さんによる基調講演を聴き、ざっと各社の出展ブースを覗いてみたという。僕の行った3日(金)も、1度見ているにもかかわらず、2人はお付き合いしてくれた。そして、ブックフェアは今回が初めてという村上愛さんが、僕の付き添いと写真撮影を担当してくれた。僕は電動車椅子を駆使し、広い会場内の人波を掻き分けて走り回った。残念だったのは、毎年、一緒に行っていた臼井雅観君がいないことだ。彼は、Facebookで好評を博している野良猫や草花の写真撮影等で歩き過ぎ足を痛めたため、大事を取っての不参加だった。

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これは、開催初日の模様である。大勢の人たちが開場を待っていた。

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会場内は人で溢れて、喧噪状態だった。

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広い会場である。はぐれなくて済んだのは、村上愛さんのお蔭である。

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くもん出版、ベネッセコーポレーション、西村書店……のブース。

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Horizonのブース。最新の製本機を見ることができた。

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スマホ活用のマンガで、講談社ブースは時代を感じさせた。

・毎年、東京国際ブックフェアでは、ブッキッシュ(本好き)な僕は、とにかく心が高揚してくる。各社がどんなブース展示をしているのか、大いに期待する。また、毎年、段ボール箱で2、3箱になり、金額にして5万円位は買ってしまうのだが、日本洋書協会提供の洋書とCDのバーゲン・コーナーを楽しみにしている。なにせ美術・建築・デザイン・写真・ファッション・料理・絵本から旅行・スポーツ・音楽・語学・専門書まで、実に広範囲にわたり、約1万点、冊数にして5万冊以上の洋書が並べられ特別割引価格で販売されるのだから。
  だが今年は、ブックフェア開催直前に激震が走った。6月26日、取次店の一つ栗田出版販売が、東京地方裁判所に民事再生手続き開始を申し立てたのである。出版界にとってショッキングなニュースであった。総合取次店では初の経営破綻である。僕は、今を去ること20余年ほど前、清流出版を創業した。単行本や雑誌を出すに当たり、さんざん苦労して大手取次6社と取引契約を結んだことを思い出し、感慨深いものがあった。その時は、冨山房と大明社の2社から推薦状をもらい、栗田出版販売と取次契約を結ぶことができた。その栗田が、2015年3月末時点で、負債総額約134億円、資産は約104億円で、約30億円の債務超過に陥っていたことが判明した。対策としては、今後、中堅取次店の大阪屋との経営統合を目指すようだ。大口債権者である講談社を始め、大手の小学館、集英社なども支援を惜しまないと言う。
  清流出版は創業以来20余年というもの、地道な経営方針が奏功し、つつがなくやってこられた。今後も、一発屋的なベストセラー狙いではなく、堅実な経営を続けてほしいと願っている。死屍累々となる大物一発狙いより、ポテンヒットや、粘りに粘っての四球出塁のほうが、清流出版らしい気がする。が、今やそのヒット1本打つこと、四球で塁に出ることすら難しい時代になっている。僕にも、こんな苦い経験がある。編集担当した『アイアコッカ――わが闘魂の経営』(徳岡孝夫訳、ダイヤモンド社)が売れに売れ、99版を重ね大ベストセラーとなった。ところがこの大ベストセラーがありながら、ダイヤモンド社出版局全体ではその期の損益バランスは、なんと赤字だったのである。販売本部も『アイアコッカ』だけを増刷しながら売っていれば、営業的に問題はなかったはず。しかし、出版局としてそうはいかない。他の出版物が目論見通りには売れずに足を引っ張ることになり、赤字になってしまったのだ。

・東京国際ブックフェアの話に戻そう。今回の祭典も、いろいろユニークな催しはあったものの、総じてビッグな目玉や派手なブースが見当たらない。それは何故なのか、考えてみてすぐに分かった。大手出版社が軒並み出展を控えたことが大きい。例えば、文藝春秋を始め、新潮社、幻冬舎、光文社、中央公論新社、ダイヤモンド社、東洋経済新報社、凸版印刷……等々が、出展していない。このような大手の出版社・印刷会社にとって出展費用は大したものではない。とすると出展しないのは、出展費用に困ってのことではないはず。どうもブックフェアに出展する意味、そのメリット・デメリットがいまひとつ分からないというのが、全般的に盛り上がらない一因だったのではなかろうか。
  斉藤勝義さんや僕は、ダイヤモンド社出身で、22年前の第1回ブックフェア開催時から参加してきた。その後、清流出版を立ち上げた僕は、ブックフェアへの参加を残念ながら見合わせてきた。ダイヤモンド社では、欧米のブックフェアにも何回か参加した経験があり、今回のダイヤモンド社の不参加には、なんとなく肩身が狭い思いがした。だが、専門セミナー部門(7月2日、15:30から16:30まで)で「なぜ、あの本がベストセラーになったのか? ヒット作を生み出すダイヤモンド社のプロモーション手法を一挙公開」として、ダイヤモンド社営業部副部長の松井末來さんが講演している。ベストセラーはいかにして生まれたのか? 本のどこを見て、何を目指し、どんな施策を行ってきたのか? 広告を打つタイミング、パブリシティの出し方、書店の店頭陳列と連動する方法など、彼女はベストセラー本の仕掛け方法を具体的なデータを使って解説したようだ。そういえば斉藤勝義さんもブックフェアの第1回専門セミナーの講師役を務めている。彼はP.F.ドラッカー博士ととても親しかった。その博士の翻訳本出版を例に取って、翻訳出版の実務と交渉法などをレクチャーした。

・ちょうど10年前になろうか。本欄に「第12回 東京国際ブックフェア 2005(TIBF)」を報じた際、《出展規模は約2.5倍に、来場者数も約2倍に達し、世界25ヶ国から650社の参加を得て、発展途上にある、というのだが……実態はどうだったのかクエスチョンが残った》と僕は書いている。3年前の第19回目の開催では、世界25ヶ国から984社が出展し、ブックフェアますます前進との見解があったが、その時も僕にはクエスチョンだった。やっと一部の方々が、出版業界の「異変」について囁きはじめた。なぜ、今回のように著名な出版社の出展が少なかったのか。そのひとつの要因となったのが、2011年の東日本大震災に際し主催者側と出版社間で起こったトラブルだ。その間の事情について老舗出版社の営業担当者が、冷静に指摘している。そして、今回の栗田出版販売の債務超過問題である。文藝春秋などは『火花』(又吉直樹著、7月16日には芥川賞授賞決定)が、発売初日の1月7日にインターネット各書店では軒並み品切れ状態となり、発売6日で6刷、35万部(7月15日64万部、その後7月31日には160万部突破)とのことだが、ブックフェアとは関係がない。いずれにせよ僕は来年から東京国際ブックフェアに行かないことも選択肢と考えている。僕の親しい文藝春秋関係者が、こぞって不参加を表明している。だから、それに倣いたくなったのだ。また、来年は9月の読書週間にちなんで、読者に的を絞ったフェアにしようという動きがあるようだ。時期もその頃に開催されるという。主催者側も、何のためのフェアなのか、もう一度原点にかえって考えてみようということなのかもしれない。

・清流出版の編集部員諸君は、ブックフェアでどんなことを学んだだろうか。少し、感想を聞きたくなった。新鮮な感性の持ち主、新人の吹石佑太君は、農文協のブースに魅力を感じたという。『農家に教わる暮らし術』など、一般家庭でできる生活の知恵を紹介する書籍を多数出版しており、好感度の印象を得たのである。また、枻(えい)出版社ブースでは、同社の日本文化をさまざまな視点から紹介する雑誌『Discover Japan』に惹きつけられたとか。月刊『清流』の特集ページを企画する上で参考になるヒントがあったようだ。また、彼は医療・介護・子育てに関する福祉ジャーナリストと面識をもった。20年間、福祉活動を取材・執筆してきた安藤啓一氏である。安藤氏の介護雑誌編集長を歴任してきた経験を生かし、月刊『清流』で医療や介護関係の特集企画になんらかの協力を仰ぎたいと思ったのである。その他にも、精力的に新しいイラストレーター、ライター、デザイナー、編集者などと積極的に名刺交換し、担当する誌面に新風を送るべく人脈開発に努めたようだ。

  わが社中堅社員の古満温(すなお)君の感想もご紹介しよう。専門セミナーで、アスコム出版の取締役編集部長・柿内尚文氏の「2年連続ミリオンセラーを出すために、アスコムがやったこと」と題した講演を聴講した。とにかくアスコムは8年前に倒産しているのである。つまり、マイナスからのスタートでここまで盛り返した。また、実用書の作り方で、ヒントになる話も印象に残ったようだ。例えば、『医者に殺されない…』、『長生きしたけりゃふくらはぎ…』で年間ベストセラー1位を2年連続で獲得し、ほかにもベストセラーを連発しているアスコムである。詳しい内容はここでは書けないが、ヒットを連発し続けた背景には、アスコム独自の常識を覆す「仕組み作り」があったのである。

 電子書籍についても古満君は、ブース出展の規模が縮小している気はするが、漫画を中心の積極的な大手を中心に進化を続け、販路も広がっているとの印象をもったようだ。会場で配られた「文化通信 bBB」によると、「現在、電子書籍を発行していますか?」との質問に対し、発行していると答えたのは48%、発行していないは52%だった。その電子書籍を発行点数の多い順に並べ、発行点数と累積割合を示したパレートグラフをみてみると、電子書籍の発行点数の多い上位3%の出版社が、電子書籍全体の実に約80%を占めていることがわかった。電子出版市場は、寡占化が進んでいると見ていいようだ。このように、古満君を始め清流出版の社員諸君も、それぞれ良いところに目を付け、ブックフェアから学ぶところは学び、今後の編集活動に生かそうと努力している。大いに結果を期待したいところだ。

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基調講演中の養老孟司さん。

・さて、今回の東京国際ブックフェアで最も注目されたのが、初日の東京大学名誉教授、養老孟司さんの「『出版』は普遍的な職業か?」と題した基調講演であろう。僕は、生憎その日は都合が悪く出席できなかった。今回、藤木健太郎君がメモを取ってくれたので、およそ話の内容が理解できた。なお、この養老さんの基調講演につき、ネットで毎日新聞総合メディア事業局企画室委員(全盲記者)・岩下恭士さんの報告と、インプレスR&D発行人/OnDeck編集長・井芹昌信さんの報告もそれぞれ僕にとって良い情報だったので、参考にさせていただいた。

  養老孟司さんの基調講演は、100年に1度という転換期を迎えている出版業界の現状を論じた。知識の習得が、デジタルやインターネットの世界に移りゆく今、出版人はこれとどのように向き合えば良いのか。書き手でありながら、出版社のトップ(東京大学出版会理事長)の経験を持ち、かつベストセラー執筆者の養老さんが、出版・本・編集者という職業などについて脳科学の立場から業界を語ってくれた。
  養老さんは、今日の講演タイトルは主催者側が決めたものだと話の口火を切った。ご本人は通常、「シラバス」(講義計画書)のように話す内容を予め決めておくことは苦手で、話しながら考えるタイプとのこと。つまり聴衆の反応を見ながら、頭の中で今考えたことを話すのをモットーとしているという。「出版は普遍的な職業か?」とお堅い演題だったが、講演内容は縦横無尽に「普遍」について話を展開し堅苦しいものではなかったようだ。
  養老さんは、中学、高校と神奈川県の進学校、カトリック系の栄光学園で学んだ経験を基に「普遍的(ユニバーサル)」という言葉について説明された。「カトリック」には文字通り「普遍」という意味がある。つまり、ユニバース(宇宙)は、天上に神がいて、地上に人間がいると考える。これがカトリックの考える基本的な構造だった。ところが、現代は、このユニバース(宇宙)から神がいなくなって、グローバル(地球)だけになった。今しきりに言われる、いわゆる「グローバリズム」である。グローバルは「球」、ひとつの全体で、脳科学では、グローバル・コンシャスネス(脳意識)という使い方をする。ユニバースもグローバルもいわば脳の中の出来事なので、言ってみれば宇宙→地球→脳、となってきたと言える。すなわち時代と共に、天の神と地上の人間が共存するユニバーサルから地上中心のグローバルに、その概念が移行したのである。どちらも脳内意識の問題だ。意識は流動的で不確かなものだが、そこで考えられたことを言語化して固定化し、具体的したものが出版物である。言語はユニバーサルなもので、出版はその延長線上にあると強調した。

・養老さんは小学2年生だった時、敗戦を体験し、価値観が180度変わる体験をした。教師の指示で、教科書に墨を塗ったことを今でも強烈に覚えているという。本にまとめられた内容は、確かに普遍的なものだが、私たちは、それにとらわれることなく、時にはそこに墨を塗って自由に考えるとよい、とアドバイスをする。以下は、特に養老先生の講演の中で、印象に残ったフレーズをご紹介する。養老さんの刺激的な講演を伝えるには、これしかない。

・ヨーロッパの人々は、神と向き合った自己という立場から、自分の存在を大前提としているが、そのヨーロッパでも最近は、「自分という確たるものは存在しない」と言われるような時代になった。仏教では「無我」を説くが、その仏教と同じような考え方が出てきたのである。習慣を前提として、それがいずれ意識となる。意識は人類に共通するものではないか。知的財産、つまり知的なものは人類全体に共通性をもつ巨大な脳でできている。脳の普遍性を取り出したものは、PC(パソコン)である。例えて言えば、本は一つの端末とみてよい。感覚的なもの、マンガを電子書籍で見ると見開き単位である。紙の本と電子書籍を比較すると、マンガ本はザラザラした紙をめくって読む感覚が身についているため、電子書籍リーダーのディスプレーで見ると違和感がある。学術書などを専門的に読む人は紙の本を選ぶので、紙の本が無くなることはない。アート紙だと解剖図になってしまう。知にふさわしい触覚、視覚的な印象が、全体としてバランスのよい形で求められる。結論として、本はなくならない。オフィスでもペーパーレス時代と言われるものの、丁寧に読むためにはプリントアウトする。PCの場合、保存したとしても画面はすぐに消える。固定化はできない。紙にも欠点はある。それは自由自在に拡大できないことだ。デジカメと比較しても分かる。さらに、電子書籍の利便性として、文字の大きさを自由に調節したり、語句の検索が簡単にできることを挙げた。どちらにも一長一短があるのだ。

・養老先生は職業としての出版業、仕事のことを考えると、母(小児科医・養老静江)が、自立するために医者の資格をとったことを思い出すという。ご母堂さんは常日頃から、人間は手に職をもたないとダメだと言っていたそうだ。「ストレス学説」を唱え、ストレッサーの生体反応を明らかにしたオーストリアの生理学者ハンス・セリエは、何が起こったとしても、自分の身についた能力や技術は盗まれることはないと書いた。“Ars longavita brevis.”というラテン語の言葉は、ヒポクラテス全集の巻頭の言葉として知られている。「手に職をつけるには時間がかかる」という意味で、つまり「人生は短い」ということだ。出版という職業では何が身につくのか、何を身につければよいのか? 職業として果たして成り立ち得るのか? 私は、解剖学という学問を仕事にしてきたが、常にこんな研究をして、何になるのか? と考えてきた。いまだに、何の役に立つのかわからない。また、仕事でさまざまな能力を身につけたはずだが、覚えたことは意識化できない。編集者が、コンテンツを本にするためには一連のシステムに乗せていくことが必要だ。印刷をどうするかなどを考えねばならない。

・製作費や利益などの金銭上の問題もある。まず仕事が先であり、お金は後から入ってくる。つまり本で言えば、沢山売ろうと思って本を作るのでなく、作ってみたら結果的に売れたということになるのだ。本ほど意識的に作られるものはないが、なぜ売れたのか? 売れたか否かの結果については、その理由は分からない。これは意識そのものの性質に似ている。われわれは自分の意識を中心にして生きていると思い込んでいるが、もしそうなら睡眠と意識の関係を考えて見るがいい。もし意識が中心なら「さあ、これから眠るぞ!」と意識すれば眠れるはずだが、実際はそうではない。体が眠気を起こすと自然に眠ってしまう。意識がまるですべてをコントロールしているかのように、一番威張っているが、眠ると意識がなくなるに耐えられなくなって、いつの間にか眠ってしまうのだ。眠ると意識は他力本願で、自主性がない。だが一旦目が覚めて、意識が出てくると、一番威張っている。身体の都合など意識は頓着していない。

・わずか0.2mmの受精卵が、胎児を経て人間になる。そうなることは分かるが、なぜ、どうしてそうなるかは分からない。解剖して、何がどこまで分かりましたか? と聞かれても、永久に分かるわけがない。意識というものがいつ発生するのか? それも、分からない。同じように、なぜ本が売れたのか、デザインがよかったのか、内容がよかったのか、タイミングがよかったのかなどいろいろな結論が出るが、その結論を聞いたとしても、当てにはならない。つまり結果は、分からないのだ。そう思うと、安心して出版できるのではないだろうか。イギリス人のデービッド・アトキンソン(『イギリス人アナリストだからわかった日本の「強み」「弱み」』の著者にして、創業300年の老舗・小西美術工藝社社長)は、「石によって骨が折れるが、言葉では折れない」との名言を吐いた。私たちは教科書で学んだことを知っているつもりになっているが、結局、全ては意識が考えることであり、何も分からないのだ。意識に振り回されないように、私たちは一度教科書に墨を塗ってみることだ。そして、外からの感覚を大事にすることだ。また、知名度は低いが、64歳は虫寿である。このムシの日に、私は虫塚を作り供養した。今はムシがいなくなった。昔は蠅がよく出る五月に、蠅がうるさいと名付けて五月蠅(うるさい)と書いたが、そのハエが消えてしまった。ムシが生きていけない世界に人間が生きられるはずがない。ムシがいなくなる→人間が生きにくくなる→少子化である。東京という所は、若い人を集めて、食えなくする所である。「地方消滅」は、ハエのいなくなる世界であり、人間がいなくなる世界である。このような世界では、意識の世界をやせて貧しいものになる。意識が豊かになるためには、意識の生まれる母体、無意識が豊かでなければならないのだ。

・情報とは何か? 動いているもの、流動的なものを固定することである。本を見れば、分かる通り、本は止まっている。映画やTVは動いているではないか? と言うが、静止画像を連続して見せて動いているように見えるが、映画もTVも止まっているのだ。意識で扱うと、すべてのものは皆止まってしまう。仮に本を録音して見たらどうだろう。全体を静止画像でとらえるなら別だが、部分を拡大して読む時、本のヘリが外に飛んでるので、カメラを上下移動して、読む部分を固定しなければ読めないだろう。読書をする時は本を動かさず、目を動かす。読み取る部分を脳が固定する。明らかに見える中心視野と、その逆に見えない周辺視野をつくる。世界が静止していると思えるのは、脳がそのように見せているからである。ビデオカメラで録画しようと構えたら、なるべく動かしてはいけない。できるだけゆっくり動かさないと人間には見えないからだ。これは撮影する時の鉄則である。

・脳と本の深い関係についての話なので、当然、この講演に結論は出ない。「あとは自分で考えてください」という言葉で聴衆の笑いを誘って、締めくくられた。「意識的なものが豊かになるためには、意識の生まれる母体である無意識が豊かでなければならない」という言葉は、肝に銘じたい。

・井芹昌信さんのメモもここにご紹介する。Google的な検索はネットに知的なものを作り出した。それは拡大解釈すれば意識、つまり脳のようなものだ。人間には意識がある以上、知的なものは終わらない。だから、出版的なものも終わらない。出版においては、皮膚感覚がとても大事(たとえば手ざわりや手作業によるもの)である。現象を感覚として意識に伝える力が重要なのだ。現在のネット検索は知的なものだが、人間が創り出す出版は感覚から立ち上がっているので、ネット検索とは異なるものだ。最近は感覚が抑制されてきていて、言えないことや書けない言葉が多くなってきた。再度、価値観の見直しが必要ではないか。出版には、その役割もあるのではないかと思う。「あくまで自分の整理なので、養老先生の主旨から外れているかも知れない。読者の皆さんにも、ご自身での考察をおススメしたい」と結んでいる。
  以上のまとめ、藤木健太郎君、岩下恭士さん、井芹昌信さん、どうもありがとうございました。

2015.06.24菅原匠さん、岩波唯心さんの個展

●菅原匠さんの「藍染と焼き物展」


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個展会場で自身制作した藍染暖簾の前に立つ菅原匠さん。


・5月27日(水)から6月1日(月)まで、松屋銀座8階で菅原匠さんの「藍染と焼き物展」が開催された。僕は菅原さんの藍染も焼き物も大好きなので、年一回いつもこの時期に行われるこの個展を楽しみにしている。実は清流出版の応接室にも「西行」と題する洒落た藍染暖簾が掛かっている。社内に潤いをというつもりで購入したものだ。題を「山頭火」としてもよさそうな、山道を行く老僧の後ろ姿である。実は、個展を楽しみにしている理由がもう一つある。菅原さんのファンには美人のお嬢さんが多いからだ。だから会場がいつも華やいでいる。会場で知り合った美人とのツーショット写真も何点かある。

 藍染用の藍甕を立て(それも9個もの藍甕を用意している)、焼き物を焼く登り窯も敷地内に持っている。今回展示されていた焼き物は、厳冬期にご夫妻が寝ずの番をして窯を焚き、焼き上げたものだ。火を絶やさず、不眠不休で薪をくべ続けるのは大変な重労働であるが、ご夫妻は自分たちだけでこれまでも焼き上げてきた。最近は心境の変化か、器だけでなく仏像も焼くようになっている。京都の著名なお寺から依頼され、仏像の大作を納めたとも聞く。焼き物の対象が広がりつつあるのは、今後も楽しみだ。

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壺に活けた山法師の花は大島の自宅からの切り花。


・実は菅原さんは欲張りである。というより、神様はどうしてこうも一人の人間に多くの才能をお与えになるのか、とも思うのだ。菅原さんの創作欲は陶芸と藍染に留まらない。個展会場で展示されたらいいと思うのだが、書画も楽しんでおられる。この書画も余技の域を優に超えている。いいお手本が身近にあったことも、幸いしたのかもしれない。田島隆夫さんは菅原さんの大島の自宅によく遊びに来た。田島さんは本来の目的である、持ち込んだ糸を藍甕で染めた後は、日がな一日、画を描いて過ごしたらしい。菅原さんと三原山方面などにぶらぶらとスケッチに出かけることもあった。

 菅原宅での画題は、季節の野菜、草花、果物、それに新鮮な魚介類などもよく選ばれた。田島さんは、竹筆、葛筆など変わった筆ももち、古墨にも詳しかった。だが和紙は薄茶色がかった安紙を好んだ。弊社から刊行された『田島隆夫の日々帖』(前期、中期、後期の全3冊)を始め、ほとんどの傑作はその紙から生まれている。田島さんが亡くなって、使い残しの大量の和紙は菅原さんに遺された。菅原さんは実際に手許に来た紙を見て、びっくりしたらしい。ただの安紙と思っていた和紙は、厳しい目で選び抜かれた味わい深い和紙だったのだ。高価な和紙もたくさん含まれていた。かくして菅原さんは、書画の楽しみも引き継がれたのである。


・菅原さんの師・水原徳言翁はよくこんなことを言っていた。「画は書の如く、書は画の如くあれ」と……。「良寛は画を描くように書を、池大雅は書のように画を描いたではないか」と具体例を引いて説明してくれた。だが、これは口で言うほど簡単なことではない。菅原さんはその真理を自家薬籠中の物にしつつある。今回の個展での藍染作品は、省筆とデフォルメが生きている。正に画だが書のように描かれている。飄逸さの中にも品性が感じられた。菅原さんの創作が、一段と高みに登られたと感じたのは、一人私だけではあるまい。

 陶芸の仏像作品、藍染の飄逸な魅力。大胆な省筆とデフォルメ。菅原さんは、独自の世界を紡ぎ出しつつある。月刊『清流』に菅原さんの一年間の活動ぶりを連載させていただいたことがある。連載を読めば分かることだが、その創作活動を支える奥様の麗子夫人の存在も極めて大きい。地元食材を中心に、素材の魅力を引き出す料理の達人である。だからこそ菅原さんも、旺盛な創作意欲も湧いてくるのだと思う。夫に寄り添い、よき理解者であり、戦友ともいえそうな格好のパートナーである。今後、どんな作品が生み出されてくるのか、また来年の個展が楽しみである。

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菅原さんの焼き物ファンも結構多い。




●岩波唯心さんの「細々図譜」展


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不自由な左手で本にサインをしている唯心さん。


・もう一人、個展を観に行って感動した人物がいる。それは岩波唯心さんという人物だ。岩波唯心さんの個展名は「細々図譜」と銘打たれたもの。5月4日(月)から5月10日(日)までの1週間にわたって、京橋2-5-18京橋創生館1階「孔雀画廊」で開催された。岩波さんは本名・岩波茂雄(岩波書店の創始者と同姓同名。出身地も長野県諏訪市だ)。唯心さんは、身長185センチ位で大きいが、その作品は細々図譜とはよく名づけたものである。30センチ程度の小さめの画だが、超がつく細密画である。山根、蟹、糞の化石、烏賊、貝、茸など、珍しい画題では隕石もあった。いずれにしろ、画題は様々だが、その細密ぶりが半端ではない。不自由な左手で描いたとは到底思えない。筆先がよく見えないのをカバーするため、虫眼鏡で拡大しながら描き進めたという。そこに漢詩のような自作の讃が添えられている。実に見事な作品だった。

 唯心さんの個展は、実に6年と数ヶ月ぶりだというが、この個展に出したものは、すべてが新たに描き起こした新作ばかり。その努力と精進ぶりは察するに余りある。この間30点強の新作を描き上げたのである。素晴らしいとしかいいようがない。会場には唯心さんの古くからのファンも見えていた。訊けば1994年に開催された立川・高島屋、2007年の帝国ホテル内の絵画堂で行われた個展からのファンもいるという。実際、80歳を優に超えたお婆さんが、楽しげに唯心さんと歓談されていた。そして次の個展がある時は、またご案内をよろしくといって帰って行かれた。僕はそれを実際に目の前で見ている。

 中学時代、唯心さんは美術部に所属していたが、その時の先輩に当たるという女性3人が丁度会場で行き合わせた。一つ先輩という女性3人組を前に、流石に唯心さん旗色が悪そうだったが、3人から聞いた美術部時代のエピソードが面白かった。唯心さんの画の技量が、ほかの美術部員から飛び抜けていたため、一緒にすることができず、唯心さんの特別コーナーが作られていたらしい。

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以前、高尾山に登った時、見かけた山根をスケッチした。それがこんな作品になった。まるで生きているようだ。


・岩波唯心さんには、清流出版から『縁あって生かされて 岩波唯心書画集』という書画集を出させてもらった。この本は2008年12月に刊行されている。実は僕が半身不随になったように、唯心さんも脳出血で倒れ、半身不随の身なのだ。それも右半身不随でこれも僕と同じである。利き腕の自由を失い、目も網膜色素変性症で異常をきたしていながら、画を描き続けているのだ。僕は同病相哀れむではないが、唯心さんから初めて作品を見せてもらった時、心からこれは本にすべきだと思った。ハンディがありながら、それを乗り越えてこれだけの画を描く。素晴らしいと、僕は刊行を即決していた。それだけ画に凄みがあった。

 もともと唯心さんは仏教画家を目指していた。そこに至るには、悲惨な実体験があった。小学校高学年で唯心さんは、問題教師の生贄とされ、小学校を卒業するまで殴る蹴る、罵詈雑言を浴びるという徹底したいじめを受ける。憂さ晴らしの標的にされたのだった。中学生になっていじめからは解放されたものの、受験戦争に翻弄されることに嫌気がさし、生きる意欲を失っていた。そんな時に、図書館で見つけた画集『国宝 地獄草紙』に衝撃を受ける。その絵巻に繰り広げられる陰惨な場面に、子供ながらに社会への厭世観と疑念を固持する自分の姿を投影していたという。

 その本を借り出して、毎日毎日模写をしたという。念のため、再度書くが中学生の時の話である。どれほど精神的に追いつめられていたかが、わかるだろう。ある日、模写の途中で、夢か現か光輝のみの姿で菩薩が目の前に現れたという。正気に返った瞬間から、唯心さんは仏画に傾倒するようになった。徹夜で没頭していたので、極度の過労と睡眠不足で肉体が疲弊し、無意識のうちに救いを渇望し、その果てに菩薩が現出したものらしい。


・以後、14歳で仏画の独習を開始し、仏画師になろうと決意する。文化学院高等課程美術科に入学したものの、家庭の事情もあって2ヶ月で中途退学を余儀なくされる。そして十六歳で家出をし、西村公朝の弟子だという仏画師について修業を開始し6年が経ち、少しずつ小さな注文を受けるようになってきた時、難病の網膜色素変性症に罹患していることが判明する。この難病は、人によって症状が違う。視野狭窄や夜盲、視力低下などが起こる。唯心さんも色の見え方が微妙に狂い始めて、中間色が分かりにくくなった。夜間、電灯の下での作業が出来なくなったというのだ。これでは仏画は描けない。

 仏画師を目指してきて、ようやくプロとして仕事も入り、燭光が見え始めたと思ったら、眼疾患でその道を断念せざるをえなくなる。その悔しさはいかばかりだっただろうか。二十二歳の終わりからは、やむを得ず、唯心さんは墨画と書を専門として活動することになる。唯心さんを襲った病魔は、これだけでは退散しない。さらに過酷な人生に引きずり込むことになる。

 三十一歳になった時、ひどい頭痛に悩まされるようになり、病院で検査を受けるが、何も病名らしい病名は出てこない。薬を処方されたものの、一向に改善せず悪化していった。病院をたらい回しにされているうち、最後の病院の待合室で倒れる。生死の境をさまようような脳出血が襲ったのだ。左脳の半分以上を失い、冥途に片足突っ込んだところで一命を取り留めたのである。右半身不随となるということは、利き腕だった右腕が使えなくなったということ。画家が利き腕を失って再起するのが、どれほど大変なことかは想像するに余りある。

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この超細密画、感じ取っていただけるだろうか。


・今回、見させてもらって、唯心さんはハンディをものとせず、進化していると感じた。訊けば唯心さんは病のデパートである。4年前には、異形狭心症という診断が下され、微細血管不全にあるという。唯心さんが自分で調べてみると、異形狭心症は死亡率が30パーセントを超えるという難病であった。しかし、唯心さんは決して下を向かない。本人はこう言い切る。「与えられたこの命を抱いて、いまわの際まで潤筆、書画を書き続けることこそ活路と心に期している」と……。

 この腹の座り方は見事である。あと1週間後に果てるのも、60年生き永らえるのも、もう何も思い残すことはない、と心に刻んだ。1日1日をとにかく大切に生ききると心に決めたのである。最後に個展名の「細々図譜」について訊いてみた。細々とは「ささやかな様」という意味だという。ささやかに生きるもよし、だがそこには煌く大きな命がある。今回の個展用に製作した作品は32点。個展会場の都合上、25点の出品となったという。今後の唯心さんから、目を離すことはではない。願わくば、こうした最近の作品を網羅した作品集を出し、人々に岩波唯心という希代の天才画家を知ってもらいたい。それを切に願っている。

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烏賊の質感が見事に表現されている。

2015.05.28山田真美さん

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3月27日(金)神田神保町ビアレストラン「ランチョン」にて。黒生ビールで乾杯する山田真美さんと僕。明治42年創業の老舗で吉田健一が愛した店である。

・忘れもしない1995年は、阪神淡路大震災があった年である。その年、僕は魅力的な著者に出会った。それが今回登場いただく山田真美さんである。真美さんは、いまでこそ有名人となっているが、その頃はまだ、出身県の長野以外ではそれほど知名度の高さはなかった。だから真美さんの才を認めて、広く世に知らしめたのは、他ならぬ僕だと思っている。出会いとは不思議なものである。真美さんとの出会いもそんな不思議に満ちたものだった。
 
・1994年3月に清流出版を立ち上げた僕は、月刊誌『清流』を刊行するかたわら、単行本部門を立ち上げていた。ジャンルは文藝エッセイ的なものが多かったが、特に限定せずに様々な分野から魅力的な著者を発掘し、世に知らしめたいと意気込んでいた。だから鵜の目鷹の目で、さまざまなマスコミ媒体に目を通し、神保町巡りをするなど著者探しも続けていた。僕が山田真美さんを初めて知ったのは、初夏の6月19日月曜日のことである。なぜ、こんなに詳しく書けるのかというと、僕のメモが残っているからだ。
 
・その日、僕は自宅から会社に向かう電車に乗っていた。たまたま前に立った人がスポーツ新聞を読んでいた。見るともなく見ると魅力的なお嬢さんの記事が載っていた。僕の琴線に響いてきた。そんな閃きが単行本企画には大切である。だからその記事を無性に読みたくなった。そのサラリーマン風の男性に、「すいませんが、その新聞記事を是非読みたいので、見終わったら譲ってくれませんか?」と声をかけていた。それが山田真美さんを知るきっかけだった。早速、新聞社を通して連絡先を手に入れた僕は連絡を取り、真美さんと会った。
 
・二葉亭で昼食を摂りながら話をした。話せば話すほど、小柄で華奢に見える真美さんが、エネルギーの塊のような方だと分かった。意気投合して1995年、オーストラリア人のハリー・ゴードン氏の書いた本を翻訳していただいた。『生きて虜囚の辱めを受けず――カウラ第十二戦争捕虜収容所からの脱走』(清流出版)がそれ。続いて1997年 には、インドで魔法使い探しをすることになった著者が繰り広げる奇想天外な冒険物語『インド大魔法団』(清流出版)を刊行させてもらった。真美さんの実体験を元に書き下ろした、冒険小説仕立てのノンフィクションである。刊行後、しばらくしてあの幻冬舎の見城徹氏が文庫化を打診してきた。それを聞いて僕は、旬の著者を発掘できたことが証明できたとほくそ笑んだ。


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自著『インド大魔法団』を手にした真美さん

・真美さんの略歴をご紹介しておこう。とにかく五つの大学を出ているのだから凄い。明治学院大学を卒業(経済学士)した真美さんは、単身シドニーに渡り、ニュー・サウス・ウェールズ大学に留学する。当時、捕鯨国日本はクジラの獲りすぎだと世界から糾弾されていた。真美さんは自ら検証してみなければ納得できないタイプである。そこで海洋学科に在籍し、指導教官のマッキンタイヤー教授、鯨類学のエキスパート(アレン博士、カークウッド博士)の指導のもと、南半球に於けるマッコウクジラの回遊を研究した。日本捕鯨の歴史と現状をテーマに、教授および院生を対象としたレクチャーも開催するほど精通することになる。
 
・1990年には インド外務省の外郭団体であるインド文化関係評議会の招聘により、インド全土を取材旅行している。1996年、インド外務省の外郭団体であるインド文化関係評議会の招聘により、インド留学(デリー大学大学院哲学科)を果たす。以後、家族と共に2001年までニューデリーに在住する。1998年、インド最大のマジック大会「Vismayam '98」(ケララ州トリヴァンドラムにて開催)のゲスト審査員を務める。2004年には、第14世ダライ・ラマ法王猊下に謁見し、「日本人と自殺」をテーマに単独インタビューに成功する。弘法大師空海が日本に密教をもたらした年から数えて1200年目に当たる2006年、高野山大学大学院文学研究科修士課程密教学専攻(通信教育課程)に進学。2007年には、作家として長年にわたりインドを日本に紹介してきた功績を認められ、インド国立文学アカデミー(India's National Academy of Letters)より世界で3人目となるドクター・アーナンダ・クマラスワミ・フェローシップを受けている。
 
・2006年、ダライ・ラマ法王猊下に2年ぶりに謁見、「第三次世界大戦を回避するために私たち一人一人にできること」をテーマに2度目の単独インタビューに成功。2009年には、高野山大学大学院修士課程を修了し、修士(密教学)の学位を取得する。さらには2011年、カウラ事件を博士論文にまとめるため、お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科博士後期課程に進学する。そして2年後の2013年、 明治学院創立150周年の記念すべき年に、明治学院大学経済学部特命教授第1号に任命される。2014年、論文「捕虜を生きる身体―第二次世界大戦期・カウラ第十二戦争捕虜収容所に於ける日本兵の日々―」を博士論文として、お茶の水女子大学大学院博士後期課程を修了し、博士(人文科学)の学位を取得した。お分かりのように、4つの大学院の研究テーマはまったく別物であり、興味の対象が見つかると、体当たりでぶつかっていく真美さんの面目躍如ぶりが際立っている。
 
・去る3月27日、真美さんと神田神保町の「ランチョン」で旧交を温めたのだが、話を聞くと最近の活躍ぶりも目覚ましい。現在、理工系大学でMITに勝るとも劣らないインド工科大学ハイデラバード校教養学部客員准教授に任命され、日本文化を講義しているというのだ。インド工科大学は、工学と科学技術を専門とするインド国内16ヶ所に点在する国立大学の総体、または、その各校である。国家的な重要性を有した研究機関と位置づけられ、研究水準の高さは国際的にも認められている。1947年インドの独立後、インドの経済的・社会的進歩を目的として知的水準の高い労働力の育成が求められ、科学者と技術者を養成するために、1951年にジャワハルラール・ネルーにより第1校が設立された。その名門インド工科大学の准教授に招聘されたのである。
 
・2006年版のThe Times Higher Education Supplementによれば(理工系大学ランキング)、1位 MIT、2位 UCバークレー、3位 インド工科大学、4位ロンドン王立大学、 5位 スタンフォード大学、6位 ケンブリッジ大学、7位 東京大学となっている。現在ではMITを抜き、世界No.1になっているとの声もある。インド工科大学は年間20万人が受験して合格率は1%台。入試倍率が130倍になる学科もあるという超難関大学だが、今年日本人で初めてこの難関を突破した方がいるという。灘高から進学した下西啓一郎君である。今後、東大・京大の工学部へ進学するより、インド工科大学へ進学する学生が増える可能性がある。なぜなら、NASAの科学者の3割強、米シリコンバレーのIT企業の管理職の7割を占めるのがインド系。つまり多くがこのインド工科大学卒業生なのだ。
 
・もはや「インドの理工系人材は優秀」というのは世界の共通語になった感があり、IT企業を中心に、彼らをめぐる採用競争(ウォー・フォー・タレント)は世界的に熾烈を極める。グローバルトップ企業の本社から採用責任者がこぞって獲得にやってくるとか。2013年には、オラクルがインド工科大学の学生に対して、初任給で年収1300万ルピー(約2200万円)を提示したというニュースが伝えられた。この他にも、グーグルやサムスンといった企業が1000万円を超える年俸を用意し、アプローチしている。これは中途採用の提示金額ではない。大学新卒の初任給の話だというから驚く。
 
・このインド工科大学で真美さんが教鞭を執っているというのだから愉快である。そして優秀な学生を日本に送り込みたいという。そのためには日本の魅力を伝えていかなければならない。そんな役割を果たすには、真美さんこそ恰好の人材である。真美さんの講義内容だが、「七福神信仰を通して見た日印関係」というテーマ、さらには日本の弁財天信仰(注:弁財天の原型はインド由来の「智恵と学問の女神」であるサラスワティ)を通じて日本文化や歴史、ひいては日印関係を広く深く講義していくらしい。学生達はなかなか活発らしく、ポンポン質問も飛び出し活気のある授業だという。また(当然かも知れないが)彼らは日本のアニメやマンガにも強い関心を持っている。日本文化に触れ、日本の魅力に触れることで、日本への関心が深まれば幸いである。
 
・真美さんは先日、エチオピアの複数の大学で特別講義をしている。最初のテーマは「女性の力―1934年にエチオピアの王子と婚約した日本人令嬢の場合」。2つ目の講義では「モッタイナイとその先にある『3つのR』」。そして3つ目の講義は「継承することの大切さ―世界最古のロイヤルファミリー・企業・ホテルに見る日本的マネージメント」というテーマであったという。講義の使用言語はすべて英語、さすが真美さんはグローバル・スタンダードな人である。


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エチオピアでの講演チラシ

・准教授として赴任して、思うところもある真美さん。インドの学校と日本の学校の教科書、授業の進め方等がどう違うのか、日本がインドから学ぶべき点、また日本が優れている点など、比較文化論をまとめて出版する予定だという。灘高から進学している下西啓一郎君にも会い、すでに取材も済ませている。日本のトップクラスの高校を出た下西君が、世界トップクラスの理工系大学で何を学び、何を感じているのか興味深い。刊行する出版社も決まり、全体構成もほぼ見えてきた。これから執筆にかかれば、年末頃には書店に並ぶに違いない。真美さんのインド工科大学での活躍ぶり、そこから導き出される世界的な理工系大学の長所と欠点、さらには今後の課題など読みどころは満載で、大いに楽しみである。
 
・蛇足だが、インド工科大学をモデルにした映画『きっと、うまくいく』(監督ラージクマール・ヒラニ、2009年、インド、170分)をぜひご覧になってほしい。エリート軍団を輩出する超難関理系大学ICEを舞台に、3人の学生“3 idiots”(三バカトリオ)が、ハチャメチャの珍騒動を巻き起こし、鬼学長を激怒させるというのがあらすじである。彼らの合言葉は、「きっと、うまくいく!」。抱腹絶倒の学園コメディに見せかけつつ、ミステリー仕立てであり、彼らの10年後を同時進行で見せている。その根底には「加熱化する学歴競争とインドの教育問題」に一石を投じる意味がある。そして万国普遍のテーマ「いまを生きる」ことの素晴らしさを問いかける映画である。あのスピルバーグ監督が「3回も観たほど大好きな映画」と絶賛し、ブラッド・ピットは「心震えた映画だ」と称した。世界各地でリメイクが決定している至高の感動エンターテイメント「きっと、うまくいく!」。山田真美さんと僕の意見が一致し、意気投合したインド映画である。

2015.04.27千代浦昌道さん

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「シェ松尾」の庭での記念撮影。左から千代浦淳子さん、千代浦昌道さん、僕の妻。


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わが家の前にある野川沿い公園で。千代浦さんご夫妻も桜見物を堪能してくれた。

・今回は、僕の先輩に当たる千代浦昌道さんについて書いてみたい。先日、千代浦さんの奥さんの淳子さんも交え2組の夫婦でお花見会と洒落てみた。お天気もよく絶好のお花見日和。満開の桜の花が青空に映えて美しかった。まず、成城学園の駅ビルで待ち合わせて、「グランファミーユ・シェ松尾 成城コルティ店」でフランス料理とワインを楽しんだ。「シェ松尾」の庭で記念撮影をし、その後、妻の運転で自宅に戻り、そこからほど近い野川沿いの桜並木を散策した。気の置けない友人夫妻との語らいである。身体の不自由な僕にとって、まことに幸せなひと時であった。

・ちょっと古い話をしよう。1959(昭和34)年は、僕が大学に入った年である。早稲田大学第一政治経済学部経済学科に在籍したが、メインの講義である政治学や経済学にはあまり関心がなかった。というのも論理や心理、倫理の要素をあまり含まないと思っていたからだ。むしろ文学や語学こそ、人間の心理や感情の機微が描かれているものと勝手に決め付けていた。そこでまず語学を集中的にマスターしたいと思った。高校時代から第2外国語としてドイツ語を学んだ僕は、さらにフランス語に挑戦しようと決めた。幸い第1外国語にフランス語を選択して第一政治経済学部に受かった2人の友人と特に親密なお付き合いをすることになった。一人は高等学院から一緒だった長島秀吉君、もう一人は暁星高校から来た神本洋治君だった。そして、僕は3人目の学生として、『狭き門』(アンドレ・ジット)や『チボー家の人々』(ロジェ・マルタン・デュ・ガール)等の名翻訳で有名な山内義雄先生の授業を特別に聴講させていただくことを許された。

・神本君は部活としてカト研(カトリック研究会)と仏文研(フランス文学研究会)に入部したという。部室へ遊びに行ったら、僕も入部を勧められた。その結果、僕はカトリック教徒でもないのにカト研へ、特にフランス文学を読んでいないのに仏文研に入ることになった。その二つの部活動で伝説の泰斗に出会うことになる。当時から語学の天才として有名だった高等学院の三年先輩で、政治経済学部の西江雅之さんである。西江さんは、早くからインドネシア語、フランス語、中国語、ロシア語、アラビア語、ハンガリー語等を独習。その後、ポリグロット(多言語を操る人)で知られた語学の天才は、スワヒリ語からサンスクリット語まで何十ヶ国語の言語を話し、終生、僕の尊敬する方となった。
 また一年先輩に、都立新宿高校卒の千代浦昌道さんがいた。千代浦さんは、何かと面倒見がよい先輩だった。考えてみると、カト研も仏文研も誘われたから偶然入ったようなもの。二つとも、美人部員が多かったというのが、強いていえば入部動機だった。そういう不真面目な考え方では、長続きしないものだ。その時、僕はすでに高等学院の友人の栗原忠躬君が勧めた下宝(下懸宝生流=ワキ宝生)という能・謡の部にも興味を持ち入部していた。人間国宝の宝生弥一師匠やご子息の宝生閑師匠(後に人間国宝、文化功労者)が教えてくれるのが魅力だった。結局、高等学院の三年生Fクラス5人が仲良く大学に入っても部活動を続けた。僕は、卒業の後も続けて、延々、脳出血で倒れた57歳まで謡をやっていた。周りの人は、着実に上手くなって、職分(プロの身分)やアマチュアなのにプロ並みの謡い手が続々と輩出した。僕は残念ながら、長く続けたというだけ。中途半端な修業に終始したので、ものにはならなかった。

・一方、千代浦さんとのお付き合いは深まった。学校以外に、日仏学院で長塚隆二さんの「フランス・ジャーナリズム研究」をご一緒に学んだことが大きい。その研究内容は、最新の時事問題から、ジャーナリズムを研究するというものだった。長塚隆二さんは日本よりフランスにファンが多く、『ナポレオン』の著作は、内外共に反響を呼んだ。千代浦さんは、その後、大学を優秀な成績で卒業して、第一銀行(現・第一勧業銀行)へ入行した。千代浦さんは、政治経済学部で一番人気があって、入ることが難しかった久保田明光ゼミで学び、成果を挙げた。その後、銀行を辞め、もう一度、向学心を満足させるため早稲田大学大学院経営学研究科へ進んだ。修士課程を終えると、さらに社団法人日本経済調査会のエコノミストになった。途中、フランス中小企業振興研究所の客員研究員として数年間を過ごす。その後、獨協大学経済学部経済学科教授に奉職された。得意なフランス語を武器に経済開発学、アフリカ経済学、フラン圏の経済を学んだことが生きたのだ。最後は、獨協大学図書館長を拝命する。そして、現在は、同大名誉教授になっている。千代浦さんの人生に対する堅実さ(僕には厳密なカトリック教徒というより老荘思想のような包容力を感じる)、学問に対する真面目さ、よき趣味(カメラ技術の追究や絵に対する真摯な態度)など、僕が敬愛して能わざる存在となった。

・懐かしい思い出だが、僕は千代浦さんの結婚披露宴の司会を仰せつかった。荷が重いとは感じながらも、他ならぬ千代浦先輩の披露宴である。引き受けた。そして、淳子さんに初めて出会った。いまからうん十年前の話だ。その時、千代浦さんは、すでに日経調(社団法人日本経済調査会)の主任研究員となり、いわば新進気鋭のエコノミストであった。だからこそ、この結婚式には、華やかな列席者が目についた。学者、代議士、エコノミスト等……が次々とスピーチをし、式に華を添えた。後に分かったことだが、千代浦さんは無類の愛妻家であった。各種個展や観劇、演奏会、旅行などには、必ずといっていいほど奥様の淳子さんを連れて行く。僕は自分を恥じ入るしかない。自分勝手な僕は、妻を同行するなど考えもしなかった。また、淳子さんは、早くから世田谷区のボランティア活動をされた。その活動のため、ご自宅付近の世田谷区下馬から僕の住む成城学園駅近くの砧総合支所にもしばしば足を運んでいるようだ。


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右から、千代浦昌道さん、龍野忠久さん、僕、鈴木恭代さん、神本洋治君。ここに写っていない長島秀吉君が撮影者だ。滝野川の龍野家の前。1964年?
 
・千代浦さんといえば、忘れてならない方が、大先輩である龍野忠久さんだ。龍野さんは、勤めていた時事通信社を辞め、もう一度、人生の生き方を見直しながら勉強しようとされていた。僕より13歳年上だった龍野さんとの出会いは、千代浦さんの人生にもエポックメーキングとなったはずだ。親しくなったきっかけは、僕が出席を許された山内義雄先生のフランス語の授業に、龍野さんも許されて出席していたことに始まる。千代浦さんは一学年上だったので、山内先生との授業の結び付きは同じというわけではない。だが、学年や年齢を超え、いわば「龍野ファミリー」の一員として、交友を深めた。芸術や文化のあらゆるジャンルで刺戟を受け、与えあったのは僕の人生においてかけがえのない幸せな体験だった。
 
 たとえば画廊巡りや演劇、映画、写真、音楽、建築、デザイン、古本屋巡り……などをしながら全員で切磋琢磨したものだ。古書についてだが、龍野さんの読書量は群を抜いていた。優に古書店を開業しても十分なほど、質量ともに十分な蔵書を誇っていた。それでもなお、毎日のように古書店巡りをしたいと言っていた。古書店巡りをしていると、本を読む時間が削られる。まさにそのジレンマにあった。また、ある時は同じ古本を二冊買って、一冊はカバー・表紙をハトロン紙で丁寧に包んで蔵書として保存、もう一冊は読んで注釈や疑問点など細かく書き込みをして楽しんでいた。ゆうに五万冊を超えるよい本があった。「一冊の本は、古今東西の老若男女が今、ここに対話するために集まっている」とのスタンスであった。この「龍野ファミリー」の中に、千代浦さんをはじめ、故長島秀吉君、故正慶孝君、神本洋治君、ピアニストの鈴木恭代さんらがいた。今、思うと、このような年齢差を超えて親しくお付き合いし、楽しく有意義な時間を過ごしたことは、我が人生の至福の刻だったのではないか。だが、どんな人生にも限りはある。紆余曲折を経て、我が敬愛する龍野忠久さんは、1993年10月15日、お亡くなりになった。

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右から、千代浦昌道さん、長島秀吉君、龍野忠久さん、龍野克子さん、僕、鈴木恭代さん。龍野さんの出版記念パーティで。1991年10月。

・ここで、千代浦さんの知られざるエピソードをご披露しておきたい。僕の千代浦さんのイメージは、真面目一方で遊びとは無縁の人というものだった。ところが、「阿刀田高から、麻雀を教えて貰った」という。早くそのことを知っていれば、長島君、神本君、僕は、お手合せができて、楽しかったのに……。阿刀田さんは、1935年の生まれ、千代浦さんは1938年の生まれである。年齢が合わないと思ったら、阿刀田さんは1955年に結核を病んで休学し、16ヶ月間の療養生活を送る破目に。一浪して、早稲田大学第一文学部フランス文学科に入学して、結核を患った療養期間を加えると、千代浦さんと同級生というのも計算が合う。阿刀田さん自ら――僕も実を言うと、中退してるんです。大学二年の頃、結核になってね。休学するつもりだったんだけど、事務局の人に「一年以上休むんでしたら、中退した方がいいですよ」って言われてね。ちゃんと手続きをとれば無試験で復学できるんですね。その間の授業料も納める必要ないし。だから、二年間療養して、ちゃんと復学できました――と語っている。
 
 人と人との出会いというのは、不思議に満ちている。千代浦さんと阿刀田さんの関わりから、連想した人物がいる。清流出版からトヨタ自動車関連の本を数冊刊行している三戸節雄さんである。三戸さんは、“炎のジャーナリスト”と異名をとる行動派のジャーナリストだ。この三戸さんが、阿刀田高さんとは都立西高校の同窓で親しい間柄にある。阿刀田さんが2007年に日本ペンクラブ会長に就任した際、三戸さんは自宅に何人かの同級生を呼んで、大いに阿刀田さんの会長就任を祝って祝杯をあげたという。三戸さんは慶應義塾大学に進学し卒業している。そういえば先にあげた西江雅之さんも早稲田の仏文研で阿刀田さんと親しく付き合った一人だ。阿刀田高という直木賞作家一人とってみても、高校、大学と学生時代を過ごすうちに、浪人、闘病生活や中退などによる年齢差を超えて早慶に分かれた友達ができて、親しい仲間となってゆく。縁とは実に不可思議なものである。
 
・このプログを書こうと思った日の新聞(夕刊)を見ていたら、なんと千代浦さんの旧知の方が第一面の全三段広告を出していた。偶然のようでいて、なんらかの意味があるのだ。その広告は、介護付有料老人ホームだった。「これからの幸せを求めて――大切な人のために考えてください。」と題するキャッチコピーが大きく出ている。千代浦さんの知人は、大久保貞義さんという。ロイヤルハウス石岡園長兼ロイヤル川口園長。昭和34年、東京大学教育学部卒業後に毎日新聞社編集局入社、昭和36年に東京大学新聞研究所卒業、スタンフォード大学大学院留学、プリンストン大学大学院留学、さらに昭和39年、アメリカ議会奨学生として留学、その後、昭和51年獨協大学教授、平成18年獨協大学名誉教授(現在に至る)と略歴がある。その広告には、大久保さんのご著書が五冊、カバー付きで紹介されている。あと、右隅に「大久保貞義講演会開催!」の予告付きのメッセージがある。全三段をフルに使った広告である。
 
・千代浦さんは、大久保先生の定年退職を祝って、「大久保貞義『試論』」を書いている。大久保さんが、定年を迎える時、そのユニークな人柄と行動と業績を書いているが、あまり長文なので、さわりだけ紹介する。
《……筆者が知る限りの大久保先生の人生は、その交友関係を見ても、また大学における研究・教育活動を見ても、尋常でない激しく波乱に満ちたものであるように思われるのである。(中略)……先生の出身高校は名門水戸高校である。水戸高時代の同窓生の元獨協学園理事長で精神科医の大森健一氏によると、「大久保くんは水戸高時代から現在と同じような風貌を漂わせていた」由で、「成績はわたし(大森氏)がトップだったが、クラスの人望は大久保くんに集まっていた」という話を大森氏自身から聞いたことがある。水戸高校から東京大学に合格したのだから、人望だけでなく成績もそこそこ優秀であったことは間違いない。(中略)……大久保先生は、教育学部卒業後はふたたび東大新聞研究所に入り、ここも無事に卒業した。教育者の道を選ばずにあえて新聞記者の道を目指したことは、大久保先生にとっては波乱万丈の人生の第一歩といえる。目指したとおり、就職先は毎日新聞東京本社の編集局政治部という、これまた文芸部でもなく経済部でもない、いくぶん危険でかつ刺激に富んだ職場であった。この新聞記者時代の豊かで変化に富む貴重な経験と人脈が、彼のその後の人生の重要な局面を形作っている。いわば新聞社政治部と永田町的感覚がドッキングした大久保人脈の形成につながったのである。(中略)……大久保先生は、その間にアメリカのスタンフォード大学やプリンストン大学の大学院に学び、またアメリカ議会奨学生としての留学経験もある。その後、東海大学に教職を得て、ふたたびフルブライト交換学生としてカリフォルニア大学に派遣された。前に述べた幅広い多様な人脈とこの若き日の数度にわたる留学から得たアメリカ的価値観と発想法が、大久保先生の人生を支える車の両輪を形成することになる。(中略)……大久保先生の講義科目である「行動科学論」や経済学部の「総合講座」に大久保先生の紹介で講演や講義を行った講師のリストを見ると、その人脈の広さと多様性の一端をうかがうことができる。それは自民党幹事長安倍晋三氏から始まって、元大蔵大臣の塩川正十郎氏、新党さきがけ代表で元大蔵大臣の武村正義氏、前衆議院議員で元郵政大臣の八代英太氏、民主党のホープ枝野幸男議員、衆議院予算委員会であの「ムネオハウス」の追求で一躍有名になった共産党の佐々木憲昭議員、元総連会長の鷲尾悦也氏、さらに石原慎太郎と前の知事選を争った女性評論家樋口恵子氏に至るまで、すべては大久保人脈の一部にすぎない。元文部大臣の自民党小杉隆衆議院議員は大久保先生の大学時代からの友人である。とにかく、打ち出の小槌のように先生の人脈の水源は枯れることなく、彼の招きに応じて現在の日本を動かしている重要人物がつぎからつぎへと現れる。(後は、略す)》
 
・千代浦さんは、大久保さんのことを、「人生の成功者」と評している。確かに人生の成功者であろう。ただ、月々の小遣いにも汲々としている僕からすれば、「定年後にもお金がどんどん入ってくる、打ち出の小槌をお持ちの方」とでも評したいところだ。まことにうらやましい限りである。千代浦さんはどうかしらないが、僕はほんのちょっぴりのお裾分けで構わない。金運にあやかりたいものだと思っている。そういえば、2011年に清流出版から刊行した『貧困と憎悪の海のギャングたち』というドキュメント本の翻訳を、千代浦さんにお願いしたことがある。お世話になりっ放しの千代浦さんに、たくさん売って翻訳印税をたっぷりお支払いする算段だった。が、しかし、初版止まりで終わってしまった。なかなか人生は思い通りには運ばないものである。恩師、親友の多くも鬼籍に入ってしまい、こちらにいる方が少なくなってきた。千代浦先輩には、これからもよろしくお付き合いのほどをお願いしておきたい。

2015.03.23吉田類さん、坂崎重盛さん

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吉田類さんが「酒場詩人」として、超ビッグな存在となった。


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『吉田類の酒場放浪記 8杯目』(TBSサービス、2014年7月)


・僕はかねてより「酒場詩人」吉田類さんをこの欄へ登場させたいと思ってはいたが、多少の迷いがあった。それが、注目のテレビ番組「クローズアップ現代」で吉田類さんが取り上げられるに及んで吹っ切れた。2015年2月12日(木)、NHK総合テレビ「クローズアップ現代」が、吉田類さんを取り上げたのだ。「今夜ももう一杯――酒場と日本人の新たな関係」と題し、吉田類さんが取材されていた。類さんが、酒場で一杯飲む姿をバックに、番組は夜ごと、酒場に惹かれ訪れる人々のルポを通して、大衆居酒屋の持つ魅力の深淵に迫ったものだ。キャスターはお馴染みの国谷裕子(くにやひろこ)さん。橋本健二(早稲田大学人間科学学術院教授)さんがゲストで、「なぜ、今夜ももう一杯」なのか、を分析してみせた。橋本健二さんは、類さんが大衆酒場ブームの先導役となった理由について、「大量消費社会が極限化する中で、決して背伸びをしない酒との向き合い方、手触り感ある食やコミュニケーションが見直されているのでは……」と語っている。橋本さんは、自らも居酒屋めぐりを趣味とするが、同時にフィールドワークでもあると、自著『居酒屋ほろ酔い考現学』(毎日新聞社)に書いている。縄のれんの向こうに、日本のいまが垣間見える。ゲストに階級論でお馴染みの社会学者に白羽の矢を立てた、「クローズアップ現代」のスタッフの目は、さすが確かだと僕は感心した。類さんは、酒の飲み方にも一本筋が通っている。酒と酒肴を頂くにも一家言持っている人だ。NHKの慧眼ぶりには驚くばかり。類さんといい、橋本健二さんといい、恰好の時代の牽引者を人選したものだなと感服した。

・テレビ番組は視聴率こそが通信簿である。視聴率を稼げるのが、類さんの一番の強みである。類さんが訪ねる居酒屋は東京が多いが、北は北海道から南は沖縄、石垣島まで、全国を飲み歩くので、行く先々の酒場で「テレビ、見てますよ!」と言われることが多い。世の呑兵衛たちの心を熱くする類さんの番組が、全国ネットで放映されているからだ。それが、BS-TBSチャンネルの月曜日夜9時からの1時間番組、「吉田類の酒場放浪記」だ。毎回、四軒ほどの飲み屋を紹介してくれる。BS-TBSのほか、CS-チャンネルだと、僕の地域ではCS-554とCS-556でも毎日、4回か5回、20分番組で類さんの酒場放浪記が放映されている。訪ねる酒場がすべて異なるのも嬉しい。類さんは、よほどの人気タレントでも、顔色なさしめるほどの露出度を誇っているのだ。

・そして4年前からだが、NHKの看板番組「紅白歌合戦」の向こうを張って、大晦日には『年またぎ酒場放浪記―吉田類とカウントダウン』という年越し特番が組まれている。実に6時間もの長時間特番だ。2014年から2015年への年越し生放送では、「開創1200年・四国お遍路歩き旅&樽酒鏡開き」 と題し、類さんが四国八十八か所をお遍路しながら、四国の居酒屋を巡る様子を伝えている。高知県人の類さんは、懐かしの故郷への里帰りもあって、余計杯は進んだようだ。四国のお遍路と居酒屋巡りとのコラボレーション。地酒を楽しみ、地元の新鮮食材を使った酒肴に舌鼓を打つ類さんは、実に幸せそうだった。

・ここで吉田類さんのプロフィールを紹介しておく。高知県生まれ。66歳。酒場詩人。3歳の時に父親と死別。小学生の頃に絵を習い始める。かねてから憧れを抱いていた京都に小学校卒業と同時に移り住み、中学・高校時代を過ごす。その後ニューヨークやヨーロッパ等を放浪しながら絵を勉強し、シュール・アートの画家として主にパリを拠点に約10年間活動する。30代半ばで活動の場を日本に移し、イラストレーターに転身。1990年代からは、酒場や旅に関する執筆活動を始めるかたわら、俳句愛好会「舟」を主宰する。独身、一人暮らし(『吉田類の酒場放浪記』より)。高知県観光特使及び仁淀川町観光特使を拝命。猫好きでも知られ、公園で見つけた野良猫に“からし”と名付けて飼い始め、17年間を一緒に過ごした。“からし”が死んだ後は、典型的なペットロス症候群に襲われる。虚脱感から立ち直るのに約5年間を要したという。

・類さんの番組人気・知名度の上昇が顕著となった2010年以降、長時間スペシャルや通常放送枠の4本目で放送される「特別編」が度々制作されている。全部をご紹介するわけにはいかないが、主だったものだけでも凄い数だ。『吉田類の今日は始球式』(2010年11月)は、プロ野球公式戦「横浜対巨人」(横浜スタジアム)で、類さんが始球式を務めた時のもの。『吉田類の酒場放浪記スペシャル――奥の酒道・芭蕉と呑む!』(2010年12月、BS-TBS開局10周年記念番組)は、この放送をもって、紹介された酒場が400軒を超える節目となった。2012年6月より『酒場放浪記スペシャル――海の男 吉田類とほろ酔い3人娘』として、新たに美しい女性3人が加わった。類さんが月曜日、女性陣は土曜日の放映となっている。新規放送では番外編として『吉田類の今日は釣り日和』が放映、城ヶ島の「中村屋」(神奈川県三浦市)が紹介された。2013年9月の『祝! 10周年! 吉田類の酒場放浪記スペシャル――10年の奇跡をふりかえろう』では、550回を超える放送エピソードから主に地方ロケ中心にセレクトして放映。続く『吉田類の赤坂サカスで10周年!!』(2013年9月)では、同年9月1日に赤坂サカスで行われた番組10周年を祝うトークライブの模様が放映された。『おんな酒場放浪記』の倉本、古賀、栗原の美女3人が駆けつけて、類さんとビールを飲みながらトークを展開している。

・『吉田類の酒場放浪記 忘年会スペシャル』(2013年12月)という番組もあった。梅島の「こんちゃん」で吉田が酒と酒肴を頂きながら2013年を振り返り、10周年記念関連の番組本とDVDが紹介された。終盤には類さんが『BAD BAD WHISKEY』を生歌で披露した。類さんの歌いっぷりだが、まあまあの及第点だった。これで類さんは一つ肩書きが増えた。ジャズ・ヴォーカリストの仲間入りを果たしたわけだ。2014年7月の『吉田類の酒場放浪記 暑気払いスペシャル』は、東京・上野の「上野精養軒」ビアガーデンでの収録が斬新だった。『吉田類の今日は授賞式』(2014年10月)では、同9月に「グランドプリンスホテル高輪プリンスルーム」で『第12回グッドエイジャー賞』(主催:日本メンズファッション協会、グッドエイジャー委員会)を開催した時の模様が、収録放映されたもの。受賞者は吉田類さんのほか、金美齢、竹下景子、小松政夫、堀内孝雄、吉田輝幸の各氏。類さんはその夜、近くの居酒屋「壇太」で一人祝杯を上げたようだ。『吉田類の酒場放浪記 忘年会スペシャル』(2014年12月)は、前・後編2部構成。合計5時間に及ぶ長時間番組だった。後編は2013年12月31日に生放送された「年またぎ酒場放浪記」の「九州横断! 龍馬の足跡を辿る」が再放送された。

・テレビでのご活躍もさることながら、著書も多々刊行されている。酒場と酒場をめぐる人間模様をテーマにした著書が多い。『立ち呑み詩人のすすめ』(同朋舎 びっくりぶろ、2000年9月)、『東京立ち飲みクローリング』(交通新聞社 散歩の達人ブックス:大人の自由時間、2002年1月)、『酒場歳時記』(日本放送出版協会 生活人新書、2004年9月)、『酒場のオキテ』(青春出版社 青春文庫、2007年4月)、『東京立ち飲み案内』(メディア総合研究所、2009年4月)、『酒場を愉しむ作法』(ソフトバンク クリエイティブ ソフトバンク新書、2010年9月)。
また、BS-TBSの番組とリンクさせた単行本シリーズも好評発売中である。『吉田類の酒場放浪記』(TBSサービス、2009年4月)を皮切りとして、『吉田類の酒場放浪記 2杯目』(TBSサービス、2010年7月)、『吉田類の酒場放浪記 3杯目』(TBSサービス、2010年12月)、『吉田類の酒場放浪記 4杯目』(TBSサービス、2011年7月)、『吉田類の酒場放浪記 5杯目』(TBSサービス、2011年12月)と、これまで都合5冊まで刊行されている。まだまだ、類さん人気に陰りは見えない。人気番組として視聴者の熱い支持を受けている。このシリーズも続刊が期待されている。
昨年刊行された単行本は、『酒場詩人・吉田類の旅と酒場俳句』(KADOKAWA、2014年2月)と『酒場詩人の流儀』(中公新書、2014年10月)の2冊。相変わらず、類さんはいいペースで執筆活動を続けている。今の僕は、ただの呑兵衛に過ぎないが、類さんはただの呑み助ではない。この年になっても、せっせと原稿を書いているところが凄い。仕事をした後の一杯は、より一層美味しいことは経験上推察できる。年を重ねながらも、人生を謳歌し続ける類さんは、僕にとって羨望の的である。これからも大いに飲み、大いに食べ、大いにお客さんらと交歓しながら、全国津々浦々の一押し酒場を紹介して欲しいものである。

・もう一つ“呑兵衛”たちの胸を熱くするテレビ番組があるが、ご存じだろうか。それが、BS-ジャパンで2014年4月1日から始まった『酒とつまみと男と女』である。火曜日の21時から放映される世の酒好き向けの番組だ。不良隠居役で旧知の坂崎重盛さんが出演している。雑誌『古典酒場』編集長の倉嶋紀和子と交替出演だ。この番組も録画して、僕は喜んで見ている。坂崎重盛さんと吉田類さんは、かつての僕の仕事仲間であった。仕事でも、酒でも、遊びでも、とことん付き合って肝胆相照らす仲といっていい。僕が身障者になっていなかったら、今頃、毎日のようにつるんで飲み歩いていることだろう……ということを書きながら、ご本人に確かめたら、なんと3月一杯で終了になったとの話。最終回に吉田類さんが、局が違うのに出てくれたというご報告である。


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路地裏の居酒屋巡りが大好き。坂崎さんのステッキに注目。


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甘いものにも目がない。現在、「アートアクセス」で“年甲斐もなく甘い生活”を連載中。


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本置場でのスナップ。古本とステッキとひょうちんに囲まれて。

・坂崎重盛さんは、東京生まれ。72歳。千葉大学造園学科卒。横浜市公園部で児童公園等の設計に参加。退職後、出版社に勤務する。1981年、遊戯的出版プロデューサー集団「波乗社」を設立して代表に。ダイヤモンド社時代、僕はこの波乗社と組んで、数々の話題本を出版刊行してきた。そうこうするうち、坂崎さんは、“新講社”という出版社も立ち上げ、出版活動も開始した。出版不況が伝えられている中で、これまで2社とも順調に社歴を重ねているようだ。最初から坂崎さんは、会社経営を幹部社員に任せ、原稿執筆に余念がない。かつて四〇代のころは、社員一同に「なぜ、もう少しよい企画を出さないのか!」と、当り散らしたという噂も。しかし、今日はさすがに人格も円満になったそうな。なお、THE ALFEEの坂崎幸之助の叔父(実父の末弟)であり、一回りほど歳が上の粋人とあって、幸之助君にとっては憧れの叔父だったという。

・坂崎さんの本造りの一端をご紹介しよう。『90年代ビジネスは快楽志向』(ダイヤモンド社、1990年)、『なぜ、この人の周りに人が集まるのか 人望力についての実感的研究』(PHP研究所、1990年)、『豚もおだてりゃ樹に登る 河童もけなせば溺れ死ぬ ほめて生かそう自分も人も』(PHP研究所、1993年)、『超隠居術 快楽的生活の発見と堪能』(二玄社、1995年)、『道草的人生のヒント 「ココロ」の休日が人間を育てる』(大和出版、1995年)、『蒐集する猿』(同朋舎、2000年)、『東京本遊覧記』(晶文社、2002年)、『Tokyo老舗・古町・お忍び散歩』(朝日新聞社、2004年)、『一葉からはじめる東京町歩き』(実業之日本社、2004年)、『「秘めごと」礼賛』(文春新書、2006年)、『東京下町おもかげ散歩 明治の錦絵・石版画を片手に、時を旅する、町を歩く』(グラフ社、2007年)、『東京読書 少々造園的心情による』(晶文社、2008年)、『東京煮込み横丁評判記』(光文社、2008年)、『神保町「二階世界」巡り 及ビ其ノ他』(平凡社、2009年)、『「絵のある」岩波文庫への招待 名著再会』(芸術新聞社、2011年)、『粋人粋筆探訪』(芸術新聞社、2013年)、『ぼくのおかしなおかしなステッキ生活』(求龍堂、2014年)等々、精力的に執筆刊行してきた。その他、雑誌『東京人』にも、しばしばエッセイを寄稿している。それにしても坂崎さんの単行本企画の眼の付け所は斬新だ。やはり単行本は企画力がものを言う。

・僕は坂崎重盛さんとはタイのバンコクへ、吉田類さんとは香港へと、海外旅行をご一緒したことがある。お二人とも、ユニークな嗜好、趣味の持ち主で、一緒にいて飽きさせない点で似ている。普通の方とは異なる方法で旅を楽しむので、ハプニングや面白いエピソードにはこと欠かない。しかし、差しさわりがあるのでここでご披露するわけにはいかない。ところで、坂崎さんはステッキ(杖)のコレクターとして、類さんは帽子のコレクターとしてつとに知られる。そのため、二人とも海外旅行に出ると、遊びながらもコレクターとしての目を光らせる。蚤の市、野外マーケット、専門店などを探訪物色し、鋭い感覚でコレクションの成果を上げている。僕にはそんな才は微塵もなく、ただただ恐れ入っている次第だ。

・最後に、ダイヤモンド社で僕が編集担当した『香港 極上指南』(香港お百度参りの会編、1992年3月)と題するユニークな本を紹介する。類さんには、イラスト地図を20点ほど描いてもらった。
“香港お百度参りの会”は、会長が神戸明さん。カメラと万年筆のコレクターで知られた人だ。光文社の名物編集者でもあった。惜しくも1997年6月1日、銀座の中古カメラ店前の街頭で、心筋梗塞の発作を起こし急逝された。神戸さんは、吟行にも何度かご一緒したことがあるが、俳句のセンスが抜群だった。神戸さんの天性ともいえる言葉選びは群を抜いていた。坂崎さん、吉田さんも俳句には造詣が深かったが、神戸さんの感性の閃きには一歩譲ると僕は思う。吟行には、波乗社の石原靖久さん、山口哲夫さんやデザイナーの鈴木一誌さん、作家・演出家の滝大作さん等も参加した。ある時は作家・江國滋さんをゲストに迎えて句作を楽しみ、後は酒が入り無礼講となった。談論風発する愉快なひと時であった。いま思えば、あのままの生活を続けていたら、なんと幸せな人生だっただろうと夢想する。ダイヤモンド社を中途退社せず、労多くの清流出版を創業しなかったらいったいどんな人生が待ち受けていたのか……。もう一回生き直すことが出来るのなら、やってみたい気がする。僕の人生の恩師・椎名其二翁が訳出した名著『出世をしない秘訣』(ジャン=ポール・ラクロワ著)の教えを破った咎めを、今更ながら悔いている。嗚呼。



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(左)『香港 極上指南』(香港お百度参りの会編、ダイヤモンド社刊、1992年3月)のカバー。
(右)奥付のスタッフ紹介。吉田類さんは入魂的イラストとなっている。

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右のページは吉田類さんのイラスト付きのユニークな地図。


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吉田類さんのイラスト地図は、本当に面白い!      

2015.02.20杉田明維子さん

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個展会場での杉田明維子さん。(撮影:臼井雅観)


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作品集の表紙。地に無限に続く麻の葉をデザインしている。


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僕に絵入りのサインをしてくれた。


・いささか旧聞に属する話で恐縮だが、昨年10月12日から20日まで9日間、杉田明維子(すぎた・あいこ)さんの個展が銀座の画廊で行われた。僕は17日の金曜日、明維子さんの担当編集者だった臼井雅観君を伴って個展会場に出かけた。「ギャラリー枝香庵(えこうあん)」という会場で、ビルの最上階の8階にあり、併設するテラスも使えるという抜群のロケーション。杉田明維子さんとは、弊社から刊行させて頂いた『うまれるってうれしいな』という絵本の絵をお願いしたのがご縁である。この絵本の物語は、詩人の堤江実さんが紡いだもの。明維子さんの絵は、とても温かい。だからファンも多い。実際、この『うまれるってうれしいな』の原画展は、銀座を皮切りにして、能登、金沢、神戸、静岡と各地で巡回展示が行われ、好評だったと聞く。


・杉田明維子さんの家族は、夫君の作宮隆氏、娘の杏奈さんと芸術家一家である。家族での三人展も何回か開催している。作宮隆氏は、1954年、石川県金沢市の生まれ。1978年に金沢美術工芸大学商業デザイン科を卒業している。卒業後、日本デザインセンターや第一企画など一流広告会社でデザインやテレビCFを制作しつつ、造形作家として現在活躍中だ。2004年からは「花炭」素材を使った作品を発表して話題を集めている。また、娘の杏奈さんは、「生きること」をテーマに、版木彫りなどをされており、これもなかなか面白い作風で注目されている。実は僕の中学の同級生に井上リラさんという画家がいるのだが、この井上リラさんと明維子さんが親しく、一緒に展覧会などをしている。世間は本当に狭い。不思議な縁を感じている。


・ここで井上リラさんについて少々触れておきたい。リラさんは、僕が豊島区立第十中学校2年2組のとき、本欄の三ヶ月前に登場された担任の小寺禮子先生に教わったわけだが、リラさんも同じクラスメイトだった。彼女はあまり目立つことのない、おとなしい生徒と記憶している。リラさんは画家になったわけだが、僕は後年、彼女の両親ともに画家だったことを知る。ちょうど明維子さんの家族が芸術家一家だったように……。井上リラさんの父君は、井上長三郎という有名な画家であった。かつて、かの井上長三郎をよく知るわが親しき友人、野見山暁治画伯から話を聞いたことがある。そこから導き出した僕なりの結論だが、“池袋モンパルナス”がリラさんの職業選択に多大な影響を与えたのではないかと思った。


・野見山さんは、池袋モンパルナスについて、“歯ぎしりのユートピア”だったとおっしゃっている。難しい顔で黙々と作品制作に没頭する者。果てしなく芸術論を闘わせる理論家肌。雇ったモデルを交えてドンチャン騒ぎをする画家。池袋モンパルナスには、自己責任で自由人の自覚を基に活動する、いろんな芸術家たちが蝟集していた。貧しさや将来の不安はあったにしても、みんなそれぞれの夢に生きていた。野見山さんの歯ぎしりのユートピアとは、実に言い得て妙だ。

   豊島区西池袋を中心にして、椎名町、千早町、長崎、南長崎、要町、板橋区向原など、この周辺に多くの自由人たちが住みついてアトリエ村の態をなしていた。画家、音楽家、詩人など多くの、延べ千人近い芸術家たちが暮らしていた。池袋モンパルナスには、小熊秀雄、熊谷守一、靉光(あいみつ)、麻生三郎、松本竣介、長沢節、古沢岩美、北川民次、福沢一郎、丸木位里、丸木俊、寺田政明、林 武……等々、錚々たる人物が集まっていた。もちろん井上長三郎さんも野見山暁治さんも“池袋モンパルナス”の仲間だった。


・井上長三郎さんは、1906年に生まれ、1995年に逝去している。自由美術協会会員で、太平洋画会研究所に学んでいる。また、リラさんの母堂である井上照子さんは、自由美術協会会員、女流画家協会創立会員だった。1911年の生まれで、1995年に没(夫の没年と同じ)している。井上長三郎さんは、1953年から1956年にかけて、日本美術会の委員長を務めた。1972年、第25回日本アンデパンダン展の実行委員長を務めた。時勢を風刺した作品を数多く描き、風刺画家として知られている。暖色調の色彩と丸みのある曲線によって構成された作風からは、ユーモアや気品が感じられる。1938年に照子夫人と渡欧、2年半近くフランスやイタリアに滞在した。リラさんは、1940年の生まれなので、日本に戻った後に生まれたと推測する。この辺のことをご本人にもう少し詳しく聞いてみたいと思ったが、ご本人がなかなかつかまらない。それに生まれた頃、それも戦争直前のことを、あれこれ言っても仕方ないと諦めた。


・井上リラさんは、本欄でご紹介したことがある。父君の『井上長三郎展―生誕100年記念―』が、銀座の「ギャラリー・オリーブ・アイ GALLARY olive eye」で開催されており、僕はその招待状をいただいた。9年前、2006年10月のことである。そのとき、じっくり井上長三郎展を鑑賞させていただいた。彼の絵は素晴らしいと思った。日本人には稀な、諧謔精神に満ちた風刺魂を感じたのである。その前年の2005年、井上リラさんが「池袋モンパルナスの集い」のトーク番組で講師をされたことがある。中学時代には、寡黙な印象が強かったリラさんだが、堂々と立派に務めを果たされた。僕は改めて目を見開かされる思いがした。

  昨年、4月21日から5月17日まで、『井上長三郎展』が、八重洲の日本画廊で開催された。その直後に、同じ日本画廊で、『井上照子・リラ展』が、5月19日から6月6日まで開催された。戦後美術の大家だった井上長三郎夫人、照子さんの作品に実際に目にする機会はそうはない。加えて、リラさんも協賛して、「母と娘」が展覧会を開催するとは、僕は他人事ながら賛辞を惜しまない。素晴らしい家族の足跡を拝見できたと感動一入であった。


・話を元に戻そう。杉田明維子さんは、あの彫刻家・佐藤忠良さん(娘さんは女優の佐藤オリヱ)に可愛がられていた方だ。忠良さんは、1990年の伊勢丹での個展の際、『アイ子さんの絵』と題して、こんなメッセージを寄せている。

  ――ある雑誌の表紙絵がよくて、飽かず見入ったことがある。十年ほど前のことであった。そのときはじめて杉田明維子という人であることを知った。(アイ子と呼ぶのを知ったのはそれからずっと後になる)以来、杉田さんの個展やグループ展はいつもみせてもらっているが、会場を出てその都度思わせられることは、この人には、当て込み的な卑しさがちっともないということである。私も一人のもの作りとして、この媚びからの脱出の切なさを人一倍知っているから一層そのことを強く感じさせられるのかもしれない――

  この文章は、杉田明維子という人物像、そして絵の特長を余すことなく伝えている。あの謹厳実直な佐藤忠良さんが、これほど手放しで褒めるというのも珍しいことではないだろうか。


・今回、明維子さんはこの個展に合わせて、作品集を刊行されている。それを見ると、これまでの素晴らしい画業が俯瞰できる。若かりし頃に、シルクロードにスケッチ旅行をしたことをこの作品集で知った。詩人・堤江実さんは明維子さんの絵をこう表現している。

 ――絵は魂の光です。だから、頭で描いたものは、どんなに技法が優れていても心に光は届かない。明維子さんの絵は光そのものです。その折々、モチーフも変わり、色が変化していても、いつも魂が素晴らしい光を放って、その絵を見るすべての人を幸せでいっぱいにします。誰かのために、みんなの幸せのために、きっと祈りながら絵を描いているのでしょう。明維子さんの絵は、まるで観音様のようだといつも思います――

弊社発行の『うまれるってうれしいな』(文・堤江実、絵・杉田明維子)

2015.01.20キューバの話――出版できなかった企画二つ

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宮川安芸良(あきら)さんの大型本『聖地 キューバの記憶』の本文の中から。左から二人目が、著者・宮川さん。ここは文豪ヘミングウェイがこよなく愛したレストラン。壁面にいろいろの文豪の姿がある。この日、演奏していた3兄弟のミュージシャンたちが美しい音楽を聴かせてくれた。

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『聖地 キューバの記憶』(宮川安芸良著、左:面表紙、右:裏表紙)

 

・アメリカとキューバの間で国交が回復する可能性が出てきた。バラク・オバマ大統領は昨年1217日、1961年以来、半世紀以上も外交関係が断絶しているキューバと、国交正常化に向けた交渉を始めると発表した。2015年に国交が回復すれば、54年ぶりとなる。両国は相互に大使館を設置し、貿易と旅行の規制を緩和する方針。オバマ氏は、「アメリカの外交政策で賞味期限が切れたものがあったとすれば、それは対キューバ政策だ」、「我々のほとんどが生まれる前にとられた、かたくなな政策は、アメリカ人だけでなくキューバ人にとっても役に立つものではない。新たな序章の始まりだ」などと述べ、政策を180度転換させる考えを示している。近年にない明るい話題である。うがった見方をすれば、支持率が芳しくないオバマに変わり、ヒラリー・クリントン大統領実現を目指す民主党の知恵者が考えた策だろうとの話も出ている。オバマ氏の声明を受け、キューバ国内でも歓迎ムードが広がっている。思い起こせば、あのキューバ危機(196210月)があった。世界中が一触即発の危機に立たされたことがあったのだ。米ケネディ大統領はこの時点では第三次世界大戦、それも世界が滅亡に至る核戦争という最悪のシナリオを頭に描いていたに違いない。ぎりぎりのところで、ソビエトのニキータ・フルシチョフ首相の判断で第三次世界大戦は回避されたことになる。

 

 

20126月刊行で『聖地 キューバの記憶 Mi Cuba Querido』という写真集が出ている。発行はジャン デザイン カンパニー(JAN DESIGN CO.) というデザイン会社。著者も同社社長の宮川安芸良(あきら)さんだ。実はこの写真集の刊行を清流出版で後押ししたことがある。そもそも宮川さんと知り合ったきっかけは、弊社で刊行した画家・桂ゆきの著になるエッセイ集『余白を生きる――甦る女流天才画家・桂ゆき』(2005年、396ページ、定価3780円)を二十数冊購入してくれたことに始まる。訊いてみると桂ゆきとは親しい友人で、共に世界を旅した仲間だったという。この宮川さんが弊社を訪ねてきたのは、10年ほども前になろうか。キューバの写真集を出したいとのご希望だった。ラフレイアウトとそれまで撮り溜めた写真を多数持参されていた。僕は当時の出版部長・臼井雅観君とそれらを見て、いま一つ物足りなさを感じた。全体的に観光地紹介のような写真が多く、庶民の生活感が伝わってこなかったからだ。そこで僕は、もう少し、庶民の生活感が感じられる写真も入れて欲しいと提言したのだった。

 

 

 

・文豪アーネスト・ミラー・ヘミングウェイは、1940年から60年頃にかけてキューバの首都ハバナからほど近い丘に住んでいた。キューバの一体何が、世界的な文豪をしてそれほどまでに惹き付けられたのか。その秘密を知りたかった。また、僕は葉巻が大好きで、よく嗜んでいた。世界に冠たるキューバ葉巻の生産についても興味があったので、そんな葉巻の生産についても知りたかった。また、なぜ一人当たりの国民所得はあんなに低いのに庶民は明るくいられるのか。一般庶民の生活ぶりはどうなっているのか。そんな写真も見たかったのである。もう一つ付け加えると、僕はタンゴ、ルンバ、マンボ、サンバなどラテン系の音楽も好きでよく聴いていた。キューバの音楽も大好きだった。素晴らしく豊かな感性と高度な演奏技術は、世界的に話題を呼んだドキュメンタリー映画『ブエナビスタ ソシアルクラブ』からも伺える。ちょっと脱線になるが、妻の故郷である信州松本市に「ホテル ブエナビスタ」がある。何回も泊まっているので、懐かしい。そのブエナビスタに纏わる音楽、ルンバ、マンボ、チャチャチャ、そしてサルサなどリズムの宝庫であるキューバ。そんなリズムがどう刻まれ、自然に踊る人々も見てみたかった。宮川氏はもう一度、全体構成を考えてみたいと帰って行った。僕の提案を聞き入れてくれたのか、結局、その後も何回かキューバに渡ったようだ。都合10年ほどで11回も渡航し、キューバ各地の人々と交流して写真を撮り続けた。その熱い思いがこの本に集約されていた。フィデル・カストロと中国国家主席・江沢民、ゲバラの肖像がある革命広場、メーデー風景など政治的写真から、僕の提案した庶民の生活感が伝わる写真も多数掲載されていた。ロバのタクシー、のどかな田園地帯、キューバ最高級の葉巻コイーバ(Cohiba)畑やその葉っぱの乾燥風景、遊ぶ子供たち、母子の買い物姿など実に生活感に溢れた写真も僕の目を引いた。

 

 

 

・ここで宮川安芸良さんのプロフィールをご紹介しておこう。1938年、横浜生まれ。3代続くハマッ子である。 福田蘭童に師事した。蘭童は安芸良さんの名付け親でもある。1970年、福田蘭童を団長に、前述の桂ゆき、直木賞作家・渡辺喜恵子等の旅の仲間に飛び込み、中南米を2ヵ月近く旅する。1972年、福田蘭童のお供でフランス、スペイン、ポルトガル、そしてマグレブ地域(現在のモロッコ、アルジェリア、チュニジア三国)から、更にはイタリア、ギリシャ、エジプト、タイ、香港と旅する。1973年、二人の旅の話『サオをかついで世界漫遊』(福田蘭童著)が刊行される。その頃より福田蘭童、檀一雄、開高健といった釣仲間たちで結成された「雑魚(ざこ)クラブ」に加わり、日本各地を旅する。ちなみに同クラブ初代会長は、漫画「のんきなトウサン」の作者で、4コマ漫画の創始者で知られる麻生豊で、幹事長は立野信之、世話役が福田蘭童と女性群代表として渡辺喜恵子、女性釣り人には桂ゆきや宮城まり子、室生朝子などがおり多士済済のメンバーだった。1977年、日本で代表的な日曜画家グループ「竹林会」に入会。 石川達三、草野心平、石垣綾子、戸川幸夫、清水崑、那須良輔等の仲間入りをし、スケッチ旅行で各地を遊ぶ。19923月 ポルトガルのサンタクルスに檀一雄の文学碑を仲間三人で建立する。とまあ、こう書いてくると、宮川氏がかなり趣味人であることがうかがい知れよう。

 

この宮川さんには臼井君共々お世話になった。写真集の内容構成について少しばかりしたアドバイスに恩義を感じてくれ、福田蘭童の子息にして画家青木繁の孫、1994年に亡くなった石橋エータローが渋谷で経営していた酒と肴の店「三漁洞」でご馳走になったこともある。帰り道、世田谷方面で僕と同方向なのでタクシーに同乗、宮川さんのお宅までお送りした。その際、奥さんに紹介されたが、素晴らしい麗人である。案外、この美人の奥さんを見せたかったのかも知れない。

 

 

・キューバについてはもう一人忘れられない人がいる。それが田中英子さんである。彼女は元キューバ大使・田中三郎氏のお嬢さん。英子さんは、父君の大使在任中の1996年から2000年までキューバに滞在した。日本に帰国してからは、都内でキューバ独特のリズム、サルサを中心としたダンス教室を開いて教えている。その英子さんが弊社を訪ねてきて、写真集の企画提案をされた。写真はキューバという国そのものを様々な角度から活写しており、一種の「英子ワールド」を醸し出していた。特筆すべきは、自身「トロピカーナ」のダンサーだったこともあり、普通の人は絶対に入れない、見ることができない世界を撮った写真の数々だった。名門ダンスカンパニーである「トロピカーナ」の舞台上と舞台裏の写真は圧巻である。こんな写真の撮影ができたのは、日本人でも彼女だけではないだろうか。ダンサー達の鍛え上げられた肢体、汗に輝く褐色の肌、華やかな髪飾り、飾り立てられた冠、光り輝く装身具、ダイナミックな踊り。かと思えば、対照的に質素で簡素な舞台裏も見せてくれる。開演前のダンサー達の張りつめた表情、閉演後の気だるい充足感漂う弛緩した顔、ゴミゴミした舞台裏の空間。陽気なダンサー達の悲喜こもごもの一瞬の陰影を見事に定着していた。添えられた文章も大変興味深かった。ダンサー達と交わした生の会話などが具体的に書かれ、リアルにダンサーという特殊な世界を楽しむ事ができた。弊社から出したいとの思いから、臼井君に指示し、英子さんとは何回か打ち合わせを重ねたが、最終的な刊行には至らなかった。父君田中三郎氏はフィデル・カストロに大使として滞在期間、実に48回会ったという伝説の人だ。その著書も『フィデル・カストロ――世界の無限の悲惨を背負う人』(635ページの大著、2005年)、『フィデル・カストロの「思索」――人類の経験を背負う人』(2011年)等を刊行した同時代社から、20107月に『CUBA――A PHOTO DIARY』として刊行された。結果的に素晴らしい写真集が世に出た。英子さんの衒いのない素直な文と写真が相まって、希少なキューバの魅力を伝えている。彼女は、ロンドン生まれ、ルーマニア、南アフリカで幼少を過ごし、ウィーンのインターナショナル高校で卒業後、上智大学、カリフォルニア大学バークレー校留学を経て、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを卒業、国際関係学修士号を取得というエリートだが、世界的に有名なショーに魅せられ「トロピカーナ」の舞台に立ったユニークな女性として僕は敬愛している。僕としては出版できなくて残念な思いをしたが、彼女の本『CUBA――A PHOTO DIARY』を観てからは、結果オーライと思いたい。田中英子さんの今後のより一層のご活躍を願っている。

 

 

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田中英子さん(サルサインストラクター)

 

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CUBA――A PHOTO DIARY』 

2014.12.18清川 妙先生

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清川 妙先生と会食、歓談の幸せ。御茶ノ水・山の上ホテル別館。同席しているのは松原淑子(右)と秋篠貴子(左)の両名。平成23(2011)年7月。

・我が敬愛する清川妙先生がお亡くなりになられた。93歳という長寿を全うされたが、わが清流出版にとっては大きな痛手である。先生には、月刊『清流』の立ち上げ時から大変お世話になった。月刊『清流』創刊以来、「古典鑑賞」「映画評論」「手紙は愉し」「季節のことのは」……等々、いろいろのテーマで誌面を飾っていただいた。人生においての悲しみや寂しさに対処する方法を自ら編み出し、それを実践してこられた方でもある。この写真を見ると、懐かしさに胸が張り裂けそうになる。御茶ノ水・山の上ホテル別館で会食をした時のものである。山の上ホテルは、先生が『万葉集』や『枕草子』など古典の講座でよく使われていたお馴染みのホテルだ。同席しているのは松原淑子(右)と秋篠貴子(左)の両名。

・逆算してみると、清川先生が72歳の時、僕は初めてお会いしたことになる。月刊『清流』のレギュラー執筆者になっていただいたのである。先生のお嬢様の佐竹茉莉子さんも、月刊誌、単行本のライター・著者としてフル回転していただいている。お二人のご協力がなければ、清流出版の今日はなかった! と言っても過言ではない。本当に残念である。それにしても先生の生き様はお見事のひと言。おいくつになられても執筆欲は衰えることなく、90歳を超えてもいくつかの連載を持ち、日々原稿執筆を続けていた。こうした前向きに生きる姿勢は、多くの方々に生きる勇気を与えてくれた。長寿社会を明るく生きる知恵がいっぱいつまったエッセイ集が何冊も刊行されている。もちろん、ご専門の古典文学についての執筆やご講演も続けてこられていた。『源氏物語』『枕草子』『徒然草』『万葉集』……テーマは無尽蔵のようにあり、嬉々として取り組んでおられた。

・人生にはいい時も悪い時もある。襲ってくる試練とどう向き合ったらいいのか、日々悩みながらも歩き続けるしかない。僕も最近になって知ったのだが、先生ご自身子供の時から片目しか見えていなかったとか。そして初めて授かったご子息は、耳が不自由だった。先生は真正面からこの現実に対処しようとする。千葉県市川市国府台にある唯一の国立の特別支援学校(聾学校)、現在の筑波大学聴覚特別支援学校近くに引っ越ししたのだ。日常生活でも手話会話でなく、言葉で話せるよう家族みんなが協力したという。そんな途方もない道のりをコツコツと努力し、ご子息はちゃんと会話ができるようになり、後年、聾学校の先生になっている。このご子息との生活をつづった手記「聞こえない葦」は雑誌『主婦の友』に掲載され、40歳で文筆活動をスタートさせることになる。 この原稿を読んだ『主婦の友』編集長は、先生の文章を高く評価し、これからも物書きとして生きていけるだろうといったという。

・順風満帆に思えた先生を大嵐が襲ったのは73歳の時である。僕が初めて先生にお会いして2年目のことである。先生のご主人は高校の校長を務めた後、定年退職され、それからは好きな旅行を楽しんでいた。清川先生は仕事が忙しかったので同行は叶わないことが多く、ご主人はしょっちゅうひとりで旅をしていたらしい。1994年秋、運命のその日も旅行会社のツアーに参加し、温泉旅に出掛けた旅先でのことだった。その夜、ご主人は露天風呂に入っていて心不全をおこし、そのままあの世に旅立ってしまわれたのだ。ここで根拠のない推論を述べさせて頂く。ご主人がお亡くなりになった温泉は、紅葉が鮮やかな明神館ではなかったのか、と……。明神館の女将は、清川妙先生の講義を聴くため、「私も毎月、上京して、山の上ホテルへ行って聴いております」。ただならぬ因縁…。その後、僕と妻は数回、扉温泉・明神館へ行っている。

・その後、御嬢様の佐竹茉莉子さんに確認したところ、僕の推測は間違っていたようだ。ご主人が亡くなられたのは、新潟県の長野県境に近い秋山郷の温泉宿だったとか。鈴木牧之の著になる『北越雪譜』でお馴染みの豪雪地帯である。不謹慎ながら僕にはとてもうらやましく思える。錦繍に彩られた秋山郷。ひなびた温泉宿で露天風呂に入っている。至福の刻を味わいながら、そのまま天に召されるなんてそんな逝き方があっていいものか、と……。それにしても、ご主人は素晴らしくハンサムだったようで、清川先生は連れ合いが美男子であることをよく自慢されていた。僕のかつての職場、ダイヤモンド社の上司であった森友幸照さんの奥様は、高校時代清川先生のご主人に教わったという。だから美男子ぶりは、間近に接していたから良くご存じだった。森友夫人は、美男子のご主人に教わった結果、教職を志すところとなり、御茶ノ水女子大学卒業後、同じ教職の道を歩んでいる。

・話を元に戻そう。清川先生のご不幸は連鎖するように続く。主人の葬儀に駆けつけたご子息の顔色の悪さが気にかかった先生は、一度病院で検査をしてはと薦める。ご主人が逝って2か月後、ご子息は病院で精密検査を受けて、末期のすい臟がんと宣告される。余命は半年ほどと医師に聞かされた。1995年、残された時間の少ないご子息を看病している最中に、先生もまたがんに侵されていることが分かる。かなり進行している胃がんだった。すぐに胃の3分の2を切除する。幸いにも再発はしなかったものの、ご子息は医師の告げた通り半年ほどで天国へと旅立った。先生の胃がんの手術が成功して10日目、ご子息が49歳の若さで天に召されたのだった。
 この体験を通して清川先生は心に期するものがあったという。明日どうなるかは誰にもわからない。今日という日が明日もやってくるとは限らない。今日やれることは明日に延ばさない。お礼の手紙は思いついたらすぐに書く。楽しいと思えることはすぐにやる。そうして毎日を過ごしていると、自分に残された時間がとても愛おしく思えてきたのだという。寂しさや不安と付き合っていることが何とももったいない。どうせ人間の頭は一つのことしか考えられないなら、前向きのことだけで頭をいっぱいにしておきたい。そう思うことにし、行動することにしたのだという。

・僕はそんな時期に、市川市国府台の先生のご自宅を訪ねた。悲嘆の涙も乾かない悲しみの底にありながら、先生は、気丈に振る舞われていた。蔵書の山に囲まれ、古典の世界がすぐ目の届く範囲内にあった。最愛のお二人の喪失感から必死に乗り越えようとする健気な姿勢が、僕は胸に響いてきた。僕は何と言ってお慰めしたらよいのかと、途方に暮れていた。救いの手を差し伸べてくれたのが先生だった。これからも執筆意欲をさらに高めて、「古典」「映画」「手紙」等々、書きたいテーマはいくらでもあるから、これからも清流出版とお付き合いしていきたいと言ってくれたのである。この言葉を聞いた時、僕の方がかえって元気を出しなさい、と勇気をもらった気がしたものだ。「乗り越えられたのは、こうした仕事があったからです。締め切りに追われ、原稿を書いている間は、悲しみを忘れることができました。好きなこと、打ち込めるものを持っているのは幸せなこと。肉体的な老いとは真剣勝負です。なすがままに任せたらそれで終わり。私はきれいに歩こうと自分に言い聞かせて、一歩一歩足を前に出すことにしたの」。先生はなんという強い心の持ち主であろうか、僕はつくづく感じ入るばかりだった。

・先生の凄いのはすぐに行動を起こすこと。悲しみへの見事な対処法を示したエピソードがある。近くの小さなレンタルビデオ店で毎日1本ずつ昔の名作映画を借り、仕事の合間を縫って映画を観ることにしたのだ。映画が始まった途端に、頭は仕事頭に切り替わる。不安や寂しさという感情は誰もが持っているもの。それらをまったくなくすことはできない。でも、そればかりを考えていると、いつのまにか不安頭や寂しさ頭になってしまう。それはとてももったいないことだ。自分が大好きなこと、時間を忘れさせるようなものを見つけることで、不安や寂しさを克服できることに気づかれたのだ。
 実は先生は、10年にわたってある女性雑誌で映画評論の連載をしている。弊社から刊行させていただいた『名画で恋のレッスン――こころのシネマ・ガイド』はそれを元に編集構成したものだ。結局、弊社からは、この『名画で恋のレッスン』(1995年)を含め、4点出させていただいたことになる。『古典に読む恋の心理学』(1996年)、『出会いのときめき――花、旅、本、愛する人たち』(2002年)、『今日から自分磨き――楽しみながら、すこしずつ』(2008年)。いずれも清川先生の人となりが横溢した素晴らしい本である。もっともっと単行本を出させていただきたかった。

・清流出版の先生の担当編集者は、ことごとく清川先生の謦咳に接することによって鍛え上げられ、編集者として一人前になってきた経緯がある。一番古いお付き合いになるのが、松原淑子(月刊『清流』前・編集長、現・出版部長)である。もう一人の秋篠貴子は、近年、月刊『清流』のみならず、先生の単行本(『今日から自分磨き――楽しみながら、すこしずつ』)の編集担当を経験したことによって目に見えて成長したように思う。両名とも、先生の「ていねいな仕事」ぶりを学んだ結果、出版業界でも有能な編集者に育ってくれたと思っている。人材育成の意味においても、先生にはいくら感謝してもしきれない。

・思い起こせば、いただいた初期の玉稿(月刊『清流』1994年8月号)が、特別、僕の印象に残っている。忘れもしない20年ほど前、『伊勢物語の世界 第23段』をお書きになっている。その文章の中に、「くらべこし振り分け髪も肩すぎぬ 君ならずしてたれかあぐべき」の言葉があった。返句で女返しの言葉だ。当然、その前の句は「つつゐつのいづつにかけしまろがたけ すぎにけらしな妹(いも)みざるまに」である。
 能『井筒』の一節にある「筒井筒、井筒にかけし……」が僕にはすぐ頭に思い浮かんだ。ゲラを読みながら、下手な謡曲を思わず唸ってしまったことを覚えている。当時、われわれ早稲田大学下掛宝生流のOBたちは、清流出版の入っていたビルの、道路を挟んだ向かい側にあった日本債券信用銀行(当時)の和室を借りて、毎週火曜日に人間国宝の寳生閑先生に謡を習っていた。

・その後、『伊勢物語の世界 第23段』の解説で、先生は「化粧」(假粧=けさう)のことをお書きになっている。「さりけれど このもとの女 悪しと思へるけしきもなくて 出しやりければ をとこ こと心ありてかかるにやあらむと思ひうたがひて 前栽の中にかくれいて 河内へいぬる顔にてみれば この女 いとよう假粧じて うちながめて……」。いつも女性は化粧をしているほうがよい、と僕は伊勢物語、いな先生から学んだものである。
  この『伊勢物語』の名解説のほか、以後は一作品につき3号分で、古典の解説を清川先生に依頼した。『大和物語』『枕草子』『更科日記』『蜻蛉日記』『古事記』『落窪物語』……。いずれも多くの読者から好評を得たが、先生には、古典以外のテーマにも挑戦していただくことになった。まず、「言葉の贈り物」として『手紙は愉し』を連載していただいた。
 素晴らしい文章、切り口で、清川ファンが増えることイコール月刊『清流』の購読者増に直結していったと思う。この日は、談たまたま、お互いに好きな映画の話になった。先生は最近観た映画では、『八月の鯨』(1987年)が気に入っておられたようだ。主演のリリアン・ギッシュとベティ・デイヴィース姉妹が、実際は妹役の方が年上で、撮影当時、リリアン・ギッシュは93歳、ベティ・デイヴィースは79歳だったという話をされたが、変わらぬ映画への熱い思い、薀蓄に感心させられたものだ。

・晩年近くになっても、先生は一人で飛行機に乗って講演に出掛け、イギリスなどへの外国旅行にも出掛けた。何かやりたいことがあるのに、もう歳だからと絶対にあきらめてはいけないことを教えてくれた。先生のモットーは、「思い立ったが吉日。いくつからでも間に合う」である。先生は初めての海外旅行で英語が通じなかったことにショックを受ける。悔しさから一念発起、53歳で英語学校に通い始め、65歳でイギリスにひとり旅を敢行するまでになる。以来、イギリスへのひとり旅を毎年のようにしてきた。もちろん、英語もひとり旅も、一筋縄ではいかない。しかし、さまざまな不幸も乗り越えて、何かを学びながらひとりで生きるということを自らに科し、いきいきと日々を過ごしている姿は、老いへの漠然とした不安を抱えている人たちに、ひとつの光明を与えてくれた。
 独り暮らし。一体、スケジュール管理等をどうしているのかと尋ねてみると、先生は頭の辺りを指差して、「ここに秘書がいるからなまけられないのよ」と笑った。空想上のハンサムな秘書が、「妙さん、仕事のお時間ですよ。起きてください」と起こしてくれる。また気分が乗らない時には、「何をそんなに落ち込んでいるのですか、らしくありませんよ」と、励ましてくれるのだという。このように自分で自分をケアする達人だった。かえすがえすも惜しい人を亡くしたものである。衷心よりご冥福をお祈りする。

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清川先生担当の秋篠貴子(左)。清川先生に「ていねいな編集の仕方」を学んだ結果、優れた編集者に成長している。
 
 
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清川先生は、僕が健常人だった頃を知っていらっしゃる。転じて右半身不随、言語障害の身を知っている方だった。




2014.11.14小寺禮子さん、山口仲美さん


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小寺禮子先生(僕の向かって左隣)、山口仲美先生(右)、『清流』編集長の長沼里香(左)。小寺先生のお住まいである「サンシティ吉祥寺」の玄関ホールにて。

・僕の中学時代の恩師小寺(旧姓・小高)禮子先生は、月刊『清流』の創刊時からの有料購読者である。それもつい最近まで2冊ずつ購入されていた。小寺先生の恩師の吉田夏さんに贈呈されていたが、101歳のご高齢で眼が見えなくなり、やむを得ず購読中止になった。その吉田夏先生は、体操の世界ではよく知られた方だ。日本人で初めて体操の国際女性審判員となり、メルボルンから5大会連続で五輪の国際審判員として活躍された。2011年9月、チェコの名花、東京五輪女子体操金メダリストのチャスラフスカさんが来日した。東日本大震災の被災地慰問が目的だったが、チャスラフスカさんも吉田夏さんをよく覚えていて、インタビューしたスポーツ・ジャーナリストの長田渚佐さんに「今、吉田さんはおいくつになられましたか?」と尋ね、「101歳になられましたが、とてもお元気です」という言葉を聞いて、「すばらしい!」と言ったと伝えられている。また、吉田夏先生は女性として初の紫綬褒章も受章されている。
 
・小寺禮子先生は、かつて『清流』の特集企画や読者欄に何度か登場された。弊社の大事な協力者の一人でもある。ついこの間も、僕のブログに書かせていただいた。小寺先生は、われわれが中学2年になる時、豊島区立第十中学校に赴任し、わが2年2組のクラス担任となられた。その時から、すでに約60年という長い歳月が流れている。この小寺先生からある日、「月刊『清流』にあなたの後輩がレギュラーで登場しているのは、加登屋君の計らいですか?」と尋ねられた。「えっ、誰のことでしょう?」とお尋ねすると、「山口仲美さんです。旧姓は橋本さんとおっしゃった」とのご返事。早速、『清流』編集長の長沼里香にこの件を、山口仲美先生に確認してもらった。「お尋ねの件ですが、その通りです。私の旧姓は橋本、小高(当時)先生に教わりました。第十中学校の卒業生です。加登屋さんに是非お会いしたいとお伝えください」と長沼のもとにメールが届いた。小寺先生の発言から、山口さん(十期生)と僕(七期生)が第十中学校の同窓生であることが分かった。僕が高校に入る時、山口さんが豊島区立第十中学校に入ったことになる。その方が、お茶の水女子大学を卒業し、東京大学大学院修士課程を修了し、文学博士、埼玉大学名誉教授となった。擬音語・擬態語の研究者として第一人者で、著書『日本語の歴史』(岩波新書)で日本エッセイスト・クラブ賞、平成20年、日本語学の研究で紫綬褒章受章者となった。この出会いはまぶしいほど、僕としては望外の喜びであった。
 
・10月17日(金)、山口仲美先生と長沼里香、加登屋の三人が、小寺禮子さんお住まいの高齢者マンション「サンシティ吉祥寺」へ集まった。僕はサンシティ吉祥寺の素晴らしさをよく知っているので、小寺先生にはご迷惑だが、迷わず集合場所にさせていただいた。運よくこの日の夜、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーであるザイフェルト弦楽四重奏団がサンシティのホールで演奏することになっていた。その本番前の練習が終わった午後3時過ぎ、ホールでウィーン・フィルハーモニーのメンバーを拝見して、われわれもほんの少しウィーンの香りを楽しむことができた。
 
・僕は第十中学校卒業後、2年2組のクラス会でしばしば小寺先生に会っているが、山口先生は卒業以来、小寺先生にお会いしてないことが分かった。お2人の会話が、あれもこれも思いつくままに、どんどん進んでゆく。やはり半世紀ぶりの邂逅で、お互いのことを知りたい気持ちが僕にも伝わってくる。お子さん(小寺先生は男の子三人、山口先生は男の子二人)を産んで、育てたこと。傍で聞いていると、お二人とも立派な子育ての仕方で、妻に任せっぱなしだった僕にはなんとも羨ましい限り。山口先生は、二人のお子さんも豊島区立第十中学校に入れたと言う。それから山口先生は、他の先生方の消息もいろいろと尋ねた。忘れないうちに書いておくが、山口先生はこんな質問をされた。「小高先生、私は先生に憧れて、教職に就きたいと思ったのです。なぜ十中を退職されたのですか」と。小寺先生の存在が、山口先生のような生徒に崇拝され、その後の人生に影響を与えたことを聞いて、僕は大いに納得し感動を覚えた。計算すると、小寺先生の奉職期間は約5年間で、十中時代を終えたことになる。その後、われわれ七期生の2年2組と小寺先生とのクラス会は約30回を数え、今に続いている。

・この日、お昼のご馳走が、この上なく美味しかった。山口先生も、食が進んだことと思う。実は、山口先生は、2009年夏、大腸ガン(S状結腸ガン)を患い、また2013年夏には膵臓ガンにかかって、食べ物の選択が難しいそうだ。果たしてお口にされるか分からないまま、小寺先生もサンシティ吉祥寺の献立係りにいろいろ相談され、和食中心に、豪華かつ健康によい食事を用意してくれた。他のレストランに行けば、一人当たり1万円以上のご馳走だったと思う。
 ここで山口先生の著書『大学教授がガンになってわかったこと』(幻冬舎新書、2014年3月刊)をご紹介しよう。この250ページの本を何回も読んで、僕は納得した。山口先生はこう書いている。《ガンは、わたしに「謙虚」と「受諾」という、自分に最も欠けていた精神的な贈り物をくれました》と。僕も二回脳出血し、右半身不随、言語障害の身になって、同じ思いをしているので納得できた。
 この本には、数々の読み処がある。患者が病院を選ぶ際、どういう基準で決めたらいいのか? 手術はしなくてはいけないのか? 手術するとしても、執刀医の腕は信じられるのか? 看護婦の態度に傷つくことがあるが、仕方ないことなのか? 手術で入院する際の病室は、個室にしたほうがいいのか? ……等々、現実的な問題で困惑したり、迷っている患者サイドから書かれた本だ。
 面白いのは、山口先生が、ご自分の担当医を、オチョボ先生(端正な顔立ちにオチョボ口がなんともいえない愛嬌をたたえている)、コウベエ先生(小言幸兵衛のようにお小言がお好き)、センザイ先生(千載一遇のチャンスだと、手術を勧める)、キサク先生(ニコニコと気持ちのいい笑顔を見せて、親しみやすさを体全体から発散している)、サワヤカ先生(患者の心をつかむコツを心得ている、若い男性医師)…等々、愛称を多用し、読者がイメージしやすくお書きになっている。僕は、難しい医学用語の多用することを緩和するために、先生方に「あだ名」を付けることで読者を引き込み、さすがに国語学者だなと思い、感心することしきりであった。

・10月一杯、山口仲美先生は毎週水曜日に、NHKのEテレ「100分de名著」に4回連続で出演された。詳しく言えば、10月1日・8日・15日・22日の毎水曜日、夜11時から25分の番組であった。さらに再放送は翌週の水曜日の朝とお昼の時間で、僕は何回も見た。名著として取り上げたのは、『枕草子』だった。1回目は「鮮烈な情景描写」、2回目は「魅力的な男とは? 女とは?」、3回目は「マナーのない人、ある人」、4回目は「エッセイストの条件」という身近なテーマで、楽しく、分かりやすく、今まで誰もやらなかった全体構成でお話しなされた。
 NHKのテレビテキスト(2014年10月)も発売されていた。早速、妻が買ってきてくれた。『100分de名著――枕草子』という雑誌で、“どうして、春は「あけぼの」?”から始まって、“観察力と批判力が大事。あとは、ミーハー的好奇心!”と続く。最初にカラーページがあり、「世界初の随筆文学」と謳い、清少納言が中宮定子のもとに初出仕したのは正暦四年(九九三)ごろで、宮仕えを終えたのは定子が二十四歳で亡くなった長保二年(一〇〇〇)のこと。2014.10.16櫻井友紀さん

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櫻井友紀さんと僕。新世界飯店にて。(撮影:臼井雅観)


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櫻井友紀さんと斉藤勝義さんと僕。


・櫻井友紀さんが来社された。実は臼井雅観君から櫻井さんの近況を聞いて、会いたくなったのだ。臼井君は柏在住で、櫻井さんが流山。住まいも近く、交流もあったようだ。そこで久し振り、一緒にお昼ご飯でもとなった。櫻井さんとは、僕が元気だった頃に会って以来、しばらく会っていなかった。会うなり櫻井さんが言った言葉は、僕の印象が随分変わったということ。太って、脂ぎっていたあの頃の僕と、現在とを見比べれば、それは当然、違っているはずだ。随分、顔が細くなったらしい。自分では意識していないが、多分そうなのだろう。酒好きの僕だが、櫻井さんも呑兵衛らしいので相性はピッタリ。昼食時に焼酎を一杯飲んで、また会社に戻ってから、美味しいワインで乾杯することになった。外国版権担当顧問の斉藤勝義さん、臼井雅観君、社長の藤木健太郎君も加わった。旧交を温めると共に、談論風発する楽しい場となった。


・櫻井さんは弊社から『ルンルン海外透析旅行――透析患者だって旅に出る』(2002年)を刊行させてもらった著者である。今年、最愛のご主人を亡くされ、失意のどん底にあったが、持ち前の前向き精神で立ち直りつつある。絵筆をとって好きな絵も描き始めている。弊社で刊行した『ルンルン海外透析旅行――透析患者だって旅に出る』は、透析患者であったご主人と海外旅行を楽しんだ、その体験談である。夫婦でアメリカ旅行、ヨーロッパ旅行と世界を旅してきたが、透析の病院を予約しての旅だから大変である。ハプニングも続出する。海外の病院とは、電話とファックスで予約を取ってあっても、先方の手違いで予約がなされていないこともあった。1日置きの透析ができなければ、死と直結してしまう。そんなハプニングも持ち前の行動力で、切り抜けてきた。実際、何度も死を覚悟した、そんな場面もあったという。腹の座り方が、このご夫婦の場合凄かった。特に櫻井さんは、体は小柄だが肝っ玉は大きい。


・先日、櫻井さんは、つくば市にある櫻井家の菩提寺「普門寺」住職から依頼され、80人ほどを前に講演をしてきたという。テーマは『放浪の自分史とブラジル』だったそうだ。そう、櫻井さんはブラジルを放浪した体験がある。28歳の時である。お金をセーブするために、船旅で地球を半周してブラジルに辿り着き、実に2年半もの長きに亘ってブラジル放浪をしたのである。20代、女性の一人旅である。男でも躊躇しそうな広大なブラジルの地、ある意味、危険と隣り合わせの未知の旅である。どう生きるか、という自分探しの旅でもあったというが、素晴らしい行動力である。ブラジルから帰った櫻井さんは、その後イギリスに渡って、ロンドンで1年ほど過ごしている。ちなみに櫻井さんの学歴を尋ねると、名門の都立日比谷高校出である。同級生には芥川賞作家となった古井由吉がいる。当時は日比谷高校がトップで、今をときめく私立開成高校は滑り止めで、一段ランクが低い時代であった。


・櫻井さんは今年、ブラジルでお世話になった方々への恩返しも兼ね、小説仕立ての原稿を書き上げた。依頼されて臼井君もこの小説を読んで、全体構成についてアドバイスをしたという。この作品を締切ギリギリで『小説すばる』新人賞に応募したが、惜しくも受賞は逃した。しかし、ブラジル放浪の旅で、沢山の日本人、日系人に会い、勝ち組、負け組の諍いなどを取材して、書きたいテーマには事欠かない。単行本化を目指して、新たに書き進めたいという。また、ニューギニア日本兵の兵站史も編集担当して刊行されたことがある櫻井さん、父君が送られた戦場でもあり、この悲惨な戦禍の顛末を書き残したいという。5000キロもの彼方のニューギニアがなぜ戦場になったのか、いろいろ疑問が湧いてきて、自分なりに調べて書き加えたいという。戦死者から託された熱い思い、また、日記など多くの資料が残されている。兵站史の全体構成を見直し、新たな事実を書きくわえて、後世に残したいという。この旺盛な執筆欲、大いに楽しみである。


・それにしても今回、久し振りで櫻井さんと会って、共通の知り合いがいて話題が繋がり、お互い世間の狭さを痛感させられた。例えば、菅原佳子さんというベテランライターに創刊直後から手伝って頂いていたが、この菅原さんと櫻井さんがごく親しい間柄だった。二人揃って、清流出版へ来社されたこともある。また、かつて古満君が担当したねじめ正一さんの新刊『老後は夫婦の壁のぼり』(2006年)のサイン会が吉祥寺の弘栄堂書店で行なわれた。その際、菅原さんが長い行列に並んでくださった。有難いことだった。かつて藤木君は、菅原さんと一緒に取材することが多く、そういう時、テーマとか取材先とかをめぐり論争し、反発しながらもより良い仕事を目指したと言う。藤木君は菅原さんをいわば戦友として懐かしがっていた。

・また、僕の学生時代からの知人に青木画廊の青木外司さんがいるが、櫻井さんもこの青木さんと親しいという。青木さん(89歳)も櫻井さん(77歳)も丑年生まれ。丑年生まれの集まり「ウッシッシの会」というのがあり、主な会員は画商仲間らしいが、櫻井さんはそこにオープン参加しているという。絵を見てもらいによく行っているらしい。早速、清流出版の応接室で、櫻井さんはご自分の携帯電話を駆使しながら、青木さんへ連絡された。「今、どこにいると思いますか?」と言った櫻井さんが「加登屋さんと清流出版にいま―す」。この電光石火の早業にビックリした。この積極的な行動が櫻井さんの取り柄だ。おかげで僕も青木さんと久しぶりにお話しできた。

・神田西小学校というのが櫻井さんの母校。すでに廃校になり、現在は官僚用のマンションになっているらしいが、神田神保町界隈は箱庭のようなもの。実際、昼食を一緒に摂ろうと中華料理店まで歩いたのだが、突然、神田神保町の陽明堂武道具店に入って行った。経営者の種井さんとは小学校時代からの友人だという。軽口を叩き合う親しい間柄のようだ。元々、櫻井さんは愛嬌があるので、人に好かれる。旅行作家協会に所属しているが、会長だった故・斎藤茂太さんに随分可愛がられたという。新世界飯店でお昼を食べたのだが、この店の創業社長(中国の浙江省寧波《ニンポー》出身)とは知り合いだという。流石に神田神保町界隈は詳しい。健康の秘訣は水泳。毎週1回、先生について習っているとか。西山さんというコーチのファンが集い、1時間で4種目を習っている。毎年11月上旬、全国年齢別水泳競技大会(いわゆるマスターズ水泳大会)が開催されるが、その大会に出場予定という。4種目すべて泳ぐメドレーで挑戦するというから恐れ入る。


・櫻井友紀さんと言えば、親戚筋に当たる櫻井書店のことが忘れられない。この出版社は、『出版の意気地―櫻井均と櫻井書店の昭和』(櫻井毅著、西田書店、2005年)によると、戦争の最中、情報局の指導や圧力に逆らってまで、一貫して出版の自由を愛し、守り、戦後もなお、その情熱を燃やし続けた。その櫻井書店の経営者こそ櫻井均氏であった。その出版に意気地をかけた生涯に、ご子息である著者(元武蔵大学学長、武蔵大学名誉教授)が迫って、本にされたものだ。この方と、櫻井友紀さんは、年が6歳ほど離れているが、近い親戚だと思う。こうした立派な版元には、もっと頑張ってもらいたいが、現実は厳しい。ともかく出版業はマンガ以外、軒並み苦戦している。櫻井書店のこともさることながら、僕は大学生時代、神田の古本屋で買い求めて、大切にしていた本があった。櫻井書店から刊行された『年を歴た鰐の話』(レオポール・ショヴォ作、山本夏彦訳、昭和16年)である。


・山本夏彦さんは24歳のときにフランス寓話『年を歴た鰐の話』の翻訳で文壇デビューされた。その後、僕がダイヤモンド社の社員時代、すぐ近くに在った山本夏彦さんが経営していた工作社(月刊誌『室内』を発行していた)を訪れ、当時、暇にまかせて何時間でも四方山話をしたものだ。そのうちに2、3年経ち、夏彦さんのコラムや意見が名文の評判が呼び、様々な週刊誌、月刊誌に引っ張りだこになった。今度は、会う機会が限られる。そうした中で、僕が持っていた夏彦さんの処女出版本『年を歴た鰐の話』を持ってゆくと、山本さんが喜んでサインしてくれた。だが、今この本をいくら探しても見当たらない。何回も引っ越し、その度、蔵書が多過ぎて処分せざるを得ず、古本屋に引きとってもらった。その際、間違って出してしまったのかも知れない。とても残念である。夏彦さんも財産を残してくれた。弊社から刊行され、ベストセラーになった『昭和恋々――あのころ、こんな暮らしがあった』(久世光彦・山本夏彦共著、清流出版、1998年)である。弊社で増刷を重ねた上に、文春文庫から文庫判として刊行された。夏彦翁には様々な意味で感謝している。櫻井友紀さんの『ルンルン海外透析旅行――透析患者だって旅に出る』が刊行されたのが、2002年秋、ちょうど山本夏彦さんがお亡くなると同じ頃であった。僕の気持ちとしては、山本夏彦さんから櫻井友紀さんへバトンタッチされたようで、不思議な縁を感じている。櫻井さん、これからもよろしくお願いします。


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櫻井友紀さんの著書『ルンルン海外透析旅行――透析患者だって旅に出る』

2014.09.19中平まみさん

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出版記念パーティでの中平まみさん


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中平まみさんの新刊(未知谷刊、本体2000円+税)



・去る8月20日(水)、中平まみさんの出版記念会が渋谷駅前、東急プラザ渋谷9階にあるロシア料理店ロゴスキーで行われた。書名は『天気の話は致しません ――あの作家(ひと)は私の前ではこんなふう』で、8月初旬に、未知谷から刊行された。僕はたまたまその日は、ディサービスと月1回の脳外診察等で朝の9時から夕方の7時まで動けなかったので、臼井雅観君に出席してもらった。そもそも中平さんとは、当時、出版部長だった臼井君が古くからの知り合いだったことでお付き合いが始まったもの。清流出版から刊行されていた小川宏さんの著『夫はうつ 妻はがん』を読んだ中平さんから臼井君に電話が掛かってきたのだ。2001年の参議院選挙に自由連合から比例代表で立候補、落選後、精神的に疲れ果て、うつ病を患っていた中平さんは、たまたま書店で小川さんのうつ病闘病記の本を購入し、あとがきで旧知の臼井君の名前を見つけたというわけだ。


・清流出版に訪ねてきた中平さんは、2000年の『フルーツフル』(実業之日本社刊)を出版以来、しばらく刊行はなく是非にと望んでいた。訊けばエッセイ集何冊分かの原稿は手元にあるという。僕は読んで面白かったらとの条件つきで、ゴーを出した。すると中平さんから、段ボールに3箱分にも及ぶ過去のエッセイの掲載紙誌が送られてきた。28年分というから、これだけの分量になったわけだ。臼井君もこの量にはビックリしたようだ。急遽、外部編集者として藤野吉彦さんに手伝ってもらって、掲載エッセイの選別作業をすることになった。それが6年前に刊行された『王子(プリンス)来るまで眠り姫』(清流出版刊、2008年)という本である。この時も、盛大の出版記念パーティが行なわれた。場所も中平さんの住まいにほど近い、渋谷のセルリアンタワー東急ホテル宴会場であった。僕は臼井君と外部編集者の藤野さんと三人でこのパーティに出席したが、出席者も多士済済で実に賑やかなパーティだった。プリンセス・スタイルの中平さんに合わせて、中平さんが敬愛する直木賞作家・志茂田景樹氏が、手作りの王冠をかむり、王子役を務めたことを思い出す。ちなみに志茂田さんと僕は同じ辰年生まれの74歳(学年は志茂田さんの方が早生まれで一年先輩)だが、精神年齢はどっちもうんと若い。


・この出版パーティでは、前々からお会いしたいと思っていた人物に会えた。それが康芳夫(こう・よしお)さんである。黒マント姿で、あたりに怪しげな雰囲気を醸し出していた。僕より3歳年上だが、東大在学中の1961年に、五月祭の企画委員長を務め、ジャズ・フェスティバルや文化人によるティーチインを開催する。これがプロデュース業の原点となった。このとき石原慎太郎の知遇を得て、1962年に彼の紹介で「赤い呼び屋」と呼ばれた神彰が主催するアート・フレンド・アソシエーションに就職、本格的に興行師としての仕事を開始する。やがてパートナー神彰と訣別し、単独で活動を再開。金平正紀の協力のもと1972年、日本武道館でモハメド・アリ対マックフォスター、翌年のトム・ジョーンズの来日公演を実現させ、大いに名を上げる。以降の康芳夫は「虚業家」を自称、正統的なプロデュース業からキワモノ的な仕事が多くなる。1973年の石原慎太郎を隊長とする「国際ネッシー探検隊」、1976年のオリバー君招聘とアントニオ猪木対モハメド・アリのコーディネートである。アリを呼ぶためブラック・ムスリムに入信し、マネージャーに近づき話をつけたというから、やることが大胆不敵である。しかし、成功失敗の振幅は大きく、浮沈変転の連続である。1977年、ハイチでトラ対空手家・山元守の試合をプロデュースするも、動物愛護協会からのクレームと愛護協会の要職にいたブリジット・バルドーがカーター大統領に電報を打ち、アメリカの圧力で中止。1979年、アントニオ猪木対ウガンダの「人食いイディ・アミン・ダダ・オウメ大統領」の試合は、政変でアミンが国外逃亡し中止を余儀なくされた。このあたり虚業家の面目躍如である。中平さんは、康芳夫のような傑物をよくぞゲストに迎えたものだ。中平さんの人脈は、実に多士済済。出版記念パーティは、梁山泊の様相を呈していたのである。その頃、『虚人魁人康芳夫――国際暗黒プロデューサーの自伝』(学習研究社刊、2005年)を読んでいた僕には、最高のプレゼントとなった。


・中平まみさんの父君、中平康さんについても触れておかねばなるまい。映画監督だった中平康さんの父親は洋画家の高橋虎之助であり、母親はヴァイオリニストの中平俊であった。俊の祖母もヴァイオリニストだったというから、芸術家一家で生まれ育ち、康は一人娘だった母親の中平姓を継いだことになる。昭和23(1948)年、東京大学を中退し、川島雄三監督に憧れ、松竹大船撮影所の戦後第1回助監督募集に応募、1500人中8人(鈴木清順、松山善三、斉藤武市、井上和男、生駒千里、今井雄五郎、有本正)の内に撰ばれ、松竹に入社する。憧れであった川島をはじめ、佐々木康、木下惠介、大庭秀雄、原研吉、渋谷実、黒澤明等の助監督を務める。ベレー帽にポケットだらけのツナギ服をスタイリッシュに着こなし、体中に七つ道具をつめ込んで撮影所を走りまわる彼の姿は周囲の注目を集め、かぶっていたベレー帽は彼の生涯のトレードマークとなった。


・助監督時代は、自ら志願して就いた黒澤明と川島雄三に可愛がられた。多くの助監督が後輩を指導する際、脚本を勉強することを第一とするのが通常であったのに対し、その他に中平さんは編集の技術も身に付けることを強く主張するなど、助監督時代から既に後の映画テクニックへの執着を見せる。増村保造、岡本喜八、市川崑、沢島忠、鈴木清順らと共にモダン派と称され、映画テクニックを駆使したスピーディーなテンポと洗練されたタッチの技巧派監督として知られる。映画をあくまでも純粋視覚芸術のように捉え、題材として何を描くかではなく、どのように描くかという映画の本質たる「スタイル」と「テクニック」で見せる演出を信条とした。代表作に『狂った果実』、『月曜日のユカ』、『街燈』、『紅の翼』、『殺したのは誰だ』などがある。人となりについては、中平まみさんの著『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』(ワイズ出版刊、1999年)に詳しい。


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乾杯の音頭をとった志茂田景樹さん


・出版記念会の話に戻ろう。発起人代表は既出の志茂田景樹さん。中平さんの良き理解者であり、後見人でもある。自身の版元「KIBA BOOK」から中平まみさんの著『囚われた天使』も刊行している。新刊の『天気の話は致しません――あの作家(ひと)は私の前ではこんなふう』の本の内容について触れておくと、中平さんの作家との関わりを描いたもの。登場するのは10人の作家、すなわち石原慎太郎、菊村到、江藤淳、佐藤愛子、志茂田景樹、中上健次、戸川昌子、中山千夏、野坂昭如、吉村昭との関わりを描いている。僕もよく女房にやられるのだが、女性の記憶力とは誠に恐ろしい。何十年か前のことを蒸し返し、あの時あなたはこうだった、この時はこうだったと攻め立てる。閉口するほどだが、中平さんの記憶力も半端ではない。よくまあ、こんな細かいことまで、というようなことを覚えていて詳述している。こんなことまで書かれたらたまらないと、買い占める作家も出てくるのではないか、と心配になるほどだ。志茂田さんは、乾杯の音頭をとる時、こんな話をしたそうだ。「この本は話題性に富んでいるので、ちょっとしたきっかけで化ける可能性がある。5万、10万売れてもおかしくない本だ」と……。話題になってくれればと願っている。


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挨拶に立った中平康監督の盟友・矢崎泰久さん(元『話の特集』の編集長、フリージャーナリスト)


・ところで清流出版から出した『王子(プリンス)来るまで眠り姫』だが、有難いことに中平さんは、著者買いを続けてくれている。5冊、10冊ずつでも、継続して買って頂けるのは有難い。臼井君によれば、この本の中にどうしても差し替えたい写真があるそうで、そのためには増刷までもっていかなければならない。中平さんは、それを何年かかってもやり遂げるから断裁しないでと釘を刺している。なんとも頼もしい限りである。今回の新刊がブレークすれば、過去の単行本にもスポットが当たる可能性がある。そんな時が来ればいいのだが、と願ってやまない。


・最後になるが、中平さんのもう一つの活動を伝えておきたい。捨てられた恵まれない犬猫などの介護、殺生をなくす運動を続けている。きっかけは自らの実体験であった。うつ病を病み、苦しんでいた時、中平さんの心の拠り所となり、生きる意欲をかきたててくれたのが犬だった。以来、不幸せな境遇にある犬猫の、引き取り手を探す運動に手を染める。一匹でも殺処分から救い、幸せな生涯を送って欲しいと願っているのだ。もう無くなってしまったが、捨てられて自力で生きていけない犬を集めて、面倒をみる都立の動物愛護センターが世田谷区にもあった。環状8号線の千歳台当たりで、僕が都心から家に帰る途中、甲州街道が混んでいると、千歳台に方向を変えるので、間近に見ることもしばしばだった。近くを通るたび、中平さんを思い出した。いい里親を見つけ、引き取ってもらう。一方的な可愛がり方ではなく、人間も動物によって救われ、そして癒される。まさにウィンウィンの関係を目指している。犬と共に生きていく、そんな人を探して一匹でも救おうとする姿に、頭が下がった。先日、欧米などの捨て犬を介護するテレビ番組を見たが、その費用が並々ならず、篤志家が主に努力している実情をレポートしていた。僕は犬猫にあまり興味がないので、捨て犬を引き取ることはできない。もし、犬猫が好きで共に生きていくのに興味があるという方は、是非、お近くの動物愛護相談センターを訪ねて欲しい。

2014.08.20飯島晶子さんと「被爆ピアノコンサート 未来への伝言 2014」

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飯島晶子さんと僕(撮影:臼井雅観)


・また今年も、飯島晶子さんのお招きで、「被爆ピアノコンサート 未来への伝言 2014」を鑑賞することができた。場所は、新装なった読売大手町ホールである。501席を有する読売大手町ホールは、シンポジウムやコンサート、試写会など多目的利用が可能。用途にあわせて残響を調整できるほか、映像設備としてデジタル映写機を導入するなど、充実した音響、映像空間となっている。また、所作台を組み合わせて能舞台を設けることができ、さまざまな伝統芸能の公演も可能という最先端設備が完備されている。確かに館内の側壁はどっしりとした木目調。椅子もゆったりと余裕があり、落ち着ける雰囲気であった。それに演奏が素晴らしかった。“百聞は一見にしかず”で、見てもらうのが一番いい。僕の下手な解説など無用である。一度、ご覧になられたら、きっと感動するに違いない。だからビジュアルであの舞台の空気を少しでも感じていただきたい。飯島さんのご尽力で、カメラマンが撮った写真を拝借することができた。この写真から、被爆コンサートの雰囲気の一旦でも伝われば嬉しい。


・開演前の館内。入場してすぐに気付いたのは、舞台上に座っている人物である。周りに大き目などんぶりのような物をいくつか並べ、両手に持った擂り粉木で、縁を撫でるように触れている。すると何やら音がしている。耳をそば立ててみると、腹の底に響いてくるような重低音で、ブォーン、ブォーンという共鳴音が会場をふるわせている。パンフレットを見ると、「シンギングリン」という新しい音響楽器らしい。その精妙な聖なる響きは、いわばヒーリングセラピーとも言えよう。演奏していたのは白井貴之さん。白井さんは、いわば“音の鍼灸師”なのである。シンギングリンを使っての倍音瞑想会を開き、自らのバイブレーションを感じて、リンの豊かな倍音に浸ることで、体調を整えていくのだという。倍音発声とはどういうものなのか、体験してみないと分からないが、深い呼吸とセットだというから確かに体には良さそうだ。昨年は、この被爆ピアノコンサートで“テルミン”という不思議な楽器に出合って癒された。演奏者はテルミン本体に手を接触させることなく、空間の手の位置によって音高と音量を調節し音楽を奏でた。テルミンの本体からは、通常2本のアンテナがのびており、それぞれのアンテナに近付けた一方の手が音高を、もう一方の手が音量を決める。これで音楽を奏でるのだから、とても不思議であった。もうそんな体験はないかと思っていたが、今年も未知の音楽に誘ってくれた。僕が知らなかった「シンギングリン」という未知の音に浸ることができた。


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シンギングリンの白井貴之さん(撮影:谷川 淳)


・当日のコンサートの模様をお伝えしたい。飯島晶子さんは朗読の名手だが、今回はもう一人参加していた。“声の響宴”を僕は楽しむことができた。小磯一斉(こいそ・かずなり)さんである。飯島さんがその朗読センスに惚れ込んで、急遽出演をお願いしたものだという。小磯さんは、劇団CRACKPOTに所属しており、俳優をする他、朗読もされている。流石に声がいい。メリハリの効いた重低音の声が会場中によく響く。その声が戦時中の主だった事件・事変を語り始める。そこへクラーク記念国際高等学校生の朗読が加わる。あの原爆投下の予兆がいよいよ高まる。小磯さんの朗読は、平和ボケしている日本人に、果たしてここのまま突き進んでいいのか、と立ち止まらせる力があった。一見、平和な日本だが、周辺諸国との軋轢もあって、何やらキナ臭い匂いがし始めている。また、戦禍を被ることだけは絶対避けなければならない、そんな強いメッセージが伝わってきた。


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小磯一斉さんとクラーク記念国際高等学校学生の朗読(撮影:谷川 淳)


・そして、谷川俊太郎作詞の『原爆を裁く』(杵屋淨貢作曲、谷川賢作編曲)が始まった。三味線が杵屋淨貢さん(人間国宝)、ピアノが谷川賢作さん、歌はクラーク記念国際高等学校生である。大迫力で音響とともに原爆を裁く声が朗朗として流れる。「原爆は、落とした人が悪いのか、投下を命令した人が悪いのか、作った人が悪いのか」と原爆を裁いてゆく歌詞である。『原爆を裁く』は、杵屋淨貢さんが谷川俊太郎さんの詩、5つのエピグラム(警句)「罪と罰」に意気を感じ、作曲されたもの。当時は、歌舞伎の唄い手、十三弦、ティンパニーなどによって収録されたものの、放送直前で過激過ぎるからと放送中止となった経緯がある。約45年間も長らく、放送・発表禁止にされてきた楽曲である。今から5年前、三味線の杵屋淨貢さんとピアノの谷川賢作さんが即興演奏し、復活させたものだ。その刺激的なリズムが胸に突き刺さってくる。クラーク記念国際高等学校生、約100名の切なる願いがいつまでも耳に残る。この『原爆を裁く』を、世の人びとに知って是非、知って欲しい。特に日本の舵取りを担う現政権、安倍総理を始め政府要人、政治家たちには聴いて欲しいと思っている。

 その後、『五月のひとごみ』(谷川俊太郎作)の詩が唱われた。この詩が単なる人間模様を描いたものだと思っていると、どんでん返しが待っている。


「ドングリまなこ 金壷まなこ 獅子鼻 団子鼻 乱ぐい歯 二重あご 

無精髪 出っ尻 鳩胸 大根足 シャーベットトーン……ケロイド」 


最後の「ケロイド」という言葉に接したとき、一瞬ドキリとさせられる。原発、核の被害は、ケロイドに象徴されているからだ。個々の人間の個性を淡々と描いてくるように見せて、最後に戦禍の、というより、原爆という恐ろしい兵器の爪痕が入ることで、奈落の底に落とされる。ある意味、恐ろしい詩だが、現実に直面した人しか分からない迫力がある。

 この2つの詩を書いた、谷川俊太郎さんには脱帽するしかない。舞台にいなくても、いやいないほうが一段と存在感をもたらしている。ご子息の谷川賢作さんのピアノが父君の詩とコラボして、素晴らしい効果を上げていた。


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『原爆を裁く』(谷川俊太郎作詞、杵屋淨貢作曲、谷川賢作編曲)。三味線・杵屋淨貢、ピアノ・谷川賢作、笛・山崎泰之、合唱・クラーク記念国際高等学校学生(撮影:谷川 淳)


谷川さんの演奏から、十分に反戦の想いが伝わってきた。


・その後、谷川賢作さん(作・編曲家、ピアニスト)と飯島晶子さんが登場し、なぜ「被爆ピアノコンサート」を毎年開催するのか、その熱い思いを語った。広島から運ばれた「被爆ピアノ」、爆心地から1.8キロという民家で被爆しながらも奇跡的に生き残ったピアノが今、舞台の上にある。調律師・矢川光則さんも舞台に登場し、日本全国で、またニューヨークでもコンサートを開催したことを話した。そして、その力強く美しい旋律は、聴く人、弾く人を魅了し、感動の輪が広がっていることを述べた。シャイな矢川光則さんは、飯島さんの問いかけにも、黙して語らず舞台から降りられた。被爆したピアノがすべて物語っているからということだろう。

ここで、飯島晶子さんのプロフィールを簡単に述べよう。飯島さんはジャンルを超えての朗読音楽コンサートを企画する方だ。今回の「未来への伝言2014」主宰者である。2014年2月3日、NHKEテレビ「お伝と伝じろう」に「きれいな朗読」と題し、「声だけで表現しよう」と、ゲスト出演されている。NPO日本朗読文化協会理事。日本大学藝術学部卒業。著書は、『声を出せば脳はルンルン』(清流出版)、『伝わる――毎日5分の朗読トレで身につく! 声の出し方・話し方』(日本実業出版社)。僕と臼井雅観君は、飯島さんの本を作ったお陰で、毎年、素晴らしい舞台に招かれ、本当に感謝している。


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飯島晶子さん(企画、朗読)、谷川賢作さん(作・編曲家、ピアニスト)

(撮影:谷川 淳)


・被爆ピアノを一度弾いてみたい方が、次々に押し寄せた。このコンサートは、被爆ピアノが主人公という狙いがみなさんの想いが分かって、うれしかった。


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休憩時間、被爆ピアノを直接触れる人びと(撮影:谷川 淳)


・第2部に入って、ハープ・セラピストの中野智香子さんとジャズピアニスト本田富士旺(ふじお)さんが登場された。中野智香子さんは、“武器を楽器に変えて”という言葉がありますが、一瞬にして武器が楽器に変わる魔法があれば、世界中から戦争がなくなり、この地球が音楽で満たされる世界になりますね!とおっしゃる。国立音楽大学を卒業されてからは、クラシック音楽のみならず、日本の調べ、ポピュラー音楽、スタンダード・ジャズ演奏など、ハープの概念を超えた幅広い音楽活動をされてきた。出自を聞けば納得である。祖父が曹洞宗権大僧正なのだという。仏教の教えを生活の一部として育ち、長じては、神社・仏閣において西洋の楽器ハープで「祈りのハープ・コンサート」を開催。人間の心に47弦の調和音(ハーモニー)を響かせることをテーマに、胎響コンサートなどにも積極的に取り組んできた方。演奏を聴いてみて、なるほどヒーリング音楽だと得心がいった。ジャズピアニストである本田富士旺さんとのコラボは、まさに“ヒーリングジャズハープの世界”。新たな地平を切り開いた、音楽の調べを堪能できたのは僕にとって収穫だった。


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中野智香子さん(ハープ・セラピスト)、本田富士旺さん(ジャズピアニスト)

(撮影:谷川 淳)


・次に飯島晶子さんのご紹介で、素敵な女性2人が登場した。クラシックのヴァイオリニスト白澤美佳さんとピアノニスト金山千春さんである。共にスラリとした美人で赤と青のコスチュームが照明に映えて浮かび上がる。共に桐朋音楽大学音楽学部のご出身で、各地でデュオコンサートを開催してきているほどの仲良し。白澤美佳さんは、ヴァイオリニストでヴォーカルも務める。高嶋ちさ子と12人のヴァイオリニストたちの御一人でもある。

ピアニストの金山千春さんは、ザルツブルクのコンサートに出演。神奈川フィルハーモニー管弦楽団と共演するなどの実績があり、売り出し中のお1人。最初に、“チャルダッシュ”が演奏されたが、息はピッタリだった。ちなみに、チャールダーシュ(チャルダッシュ)は、「酒場風」という意味のハンガリー音楽ジャンルの1つで、イタリアの作曲家ヴィットーリオ・モンティにより作曲された。19世紀にはウィーンをはじめヨーロッパ中で大流行を極め、ウィーン宮廷は一時チャールダーシュ禁止の法律を公布したといわれる。

もう1曲の演奏曲が“タイスの瞑想曲”である。この曲は、ジュール・マスネが作曲した歌劇「タイス」(1894年初演)の第2幕第1場と第2場の間の間奏曲として知られる。僕は、バイオリンがアンネ=ゾフィ・ムターで、カラヤン指揮のベルリン・フィル­ハーモニー管弦楽団の演奏が好きで、随分聴いてきたお馴染みの曲である。この曲を2人の女性アーティストは、どう演奏するか楽しみに耳を傾けた。その甘美なメロディーを2人が演奏し終えたとき、僕の耳には、心地良い余韻が響いていた。


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白澤美佳さん(ヴァイオリニスト)、金山千春さん(ピアニスト)

(撮影:谷川 淳)


・杵屋淨貢さん、谷川賢作さん、山崎泰之(民族笛)さん、それにクラーク記念国際高等学校生が参加しての息の合ったコンサートが続く。ここでは、クラーク記念国際高等学校パフォーマンスコースについて触れよう。この学校は、「BoysBe Ambitious!」と唱えたクラーク博士の教育理念のもと全国で1万名以上の生徒が学ぶ高等学校。校長は80歳でエベレスト登頂に挑戦した世界的冒険家・三浦雄一郎。「オーダーメイトの教育」が特色の東京キャンパス・パフォーマンスコースの生徒たちは、文武両道で歌やダンス、演劇、殺陣などの表現を学ぶ夢いっぱい元気いっぱいの高校生である。


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杵屋淨貢さん、杵屋長之介、谷川賢作さん、山崎泰之さん、クラーク記念国際高等学校生徒

(撮影:谷川 淳)


・杵屋淨貢さんは、「未来への伝言」レギュラーメンバーである。長唄杵巳流七世家元、重要無形文化財「歌舞伎長唄三味線」保持者(人間国宝)に認定。日本芸術院賞・旭日小綬章を受賞。2012年に大薩摩の名前である杵屋淨貢(きねや・じょうぐ)と改名。「原爆を裁く」を作曲している。なお、作詞は谷川俊太郎。「乃木坂の聖パウロ会での被爆ピアノに感動したのが七年前。ご一緒した飯島晶子さんから賢作さん、静流さん、飯田さんと縁が広がり、今やみんなと深い絆に包まれて、私は幸せです」とこの被爆ピアノコンサート参加の弁。

 

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杵屋淨貢さん(三味線=人間国宝)(撮影:谷川 淳)


・シンガーのおおたか静流さん、この方も「未来への伝言」レギュラーメンバーである。とにかく声に不思議な魅力がある。七色の歌声と言われる所以である。NHKの「にほんごであそぼ」に楽曲提供及び歌唱、日本語の深みと風味を、斬新な切り口で発信し、世界各国でも活躍。“声のお絵かき教室”を主宰、声の可能性とバリアフリーを追究している。おおたか静流さんも「愛とは、あなたを信じ、何処までも一緒に歩こうとすること。そして、いつまでも力強く“NO!”と言い続けること」がスタンスと強調する。僕はおおたか静流さんのCDを全部持っていて、その音楽をいつも楽しんでいる。


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おおたか静流さん(シンガー)(撮影:谷川 淳)


・クラーク記念国際高等学校パフォーマンスコースの生徒たち。よーく見ると、各人は個性を発揮していると同時にバランスにこだわり、歌の内容を丁寧に実現したいと思う気持ちが溢れている。この画面から読み取ってほしい。


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クラーク記念国際高等学校パフォーマンスコース(校長は冒険家・三浦雄一郎)

(撮影:谷川 淳)


・「未来への伝言」レギュラーメンバーである谷川賢作さん。父君である詩人の谷川俊太郎さんと朗読と音楽コンサートを全国で開催している。現代詩をうたうバンド「DiVa」、ハーモニカ奏者・続木力とのユニット「パリャーソ」でも展開中。また、2014年度船橋市文化芸術ホール芸術アドバイザー等で活躍。また、谷川賢作さんは、被爆ピアノは「年々若くなっている。雨の日も風の日も、このピアノとともに全国へとまわって、実感している」と語っている。不思議なことだが、命を吹き込まれたピアノが世界を回るうち、多くの感動を与えたことでパワーアップしていったというのも分からないではない。


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ピアニスト兼作・編曲家の谷川賢作さん

(撮影:谷川 淳)


なお、演出:飯田照雄さん。(株)メディアサウンズ代表。TOKYO FM・JFN番組、各種イベント等多岐に渡る。NPO日本朗読文化協会理事、2008年より銀座博品館での「朗読の日」総合演出等をされている。


2014.07.24ヘンリー・スコット=ストークスさん

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ヘンリー・スコット=ストークス(Henry Scott-Stokes)さん。1938年英国生まれ。 1961年オックスフォード大学修士課程修了後、62年『フィナンシャル・タイムズ』入社。64年同社の東京支局初代支局長、67年『ザ・タイムズ』東京支局長、78年『ニューヨーク・タイムズ』東京支局長・アジア総支局長を歴任。三島由紀夫と最も親しかった外国人記者としても知られる。ジャーナリストの徳岡孝夫さんに紹介されて以来、親しくお付き合いをさせて頂いて、ほぼ30年になる。

 

・ヘンリー・スコット=ストークス(以下略して、ストークス)さんのことはさておき、まずご子息のハリー杉山(正式には杉山ヘンリー・アドリアン・フォリオット・スコット=ストークスと長ったらしい)のことから話してみたい。母親のあき子さんは18歳でパリの美大に留学し、19歳のとき、ローマでストークスさんに出会い、恋に落ち、結婚するに至った。何とも運命的でロマンティックなお話である。彼女が初めて、僕の古巣ダイヤモンド社を訪ねてきたときのことは、記憶に新しい。颯爽とした着こなしの良さと幅広の帽子がよく似合い、世界的なトップモデルでも現れたのかと思ったほどだ。それほど強烈な印象として僕の脳裏に刻まれている。ストークスさんとあき子さんは、お互いに個性を尊重しながら、相手の趣味や主張を理解するパートナーシップを持っていた。ハリー杉山は、日英のハーフとして生まれたわけで、特に日本では、幼い頃からハーフであるが故の偏見や試練にさらされてきたと思う。英国でも歴史的な誤解を受け、ハリー杉山は、11歳まで日本で育ってから英国に帰ったが、最初の授業が日本のやったという「南京大虐殺」で、同級生から苛められたという。

・ハリー杉山が誕生したのは東京で、1985120日のことだった。徳岡孝夫さんによると、赤ん坊のときのハリーは、元英国首相で九十歳だったチャーチルにそっくりだったこともあり、徳岡さんは愛称として「チャーチル」と呼んでいたらしい。ところが成長するにつれ、ハリー杉山はイケメンの若者となっていった。184センチという長身でもある。11歳のとき、家族でイギリスへ移住し、1999年に名門のパブリックスクールであるウィンチェスター・カレッジへ入学した。在学中、ウィリアム王子とヘンリー王子とは水泳やクリケットで対戦したこともあるという。その後、ロンドン大学(専攻は中国語)で学び、卒業後日本に戻り、投資銀行に勤務しながら、種々のコマーシャルにも起用され、モデルとしても活躍している。改めて中国語を学びたいと一念発起、北京師範大学に1年間留学している。英語、日本語、中国語など六ヶ国語を自在に話すことができる国際派。現在、駐日英国大使館の展開する「美味しいイギリス」で食の親善大使に任命されている。また、BSテレビやラジオ番組を見ると、ハリー杉山はいろんな番組に登場している。父ストークスさんが一番関わりたかったメディアの世界で、その才能を開花させつつあるのだ。

かつてハリー杉山が小学生で、多分、9歳か10歳ころだが、毎週武道館で剣道の稽古を行なっていた。その際、ストークスさんは毎回のように付き添っていた。ストークスさんが47歳のときに生まれた子なので、その子煩悩ぶりも頷ける。そのころ清流出版の入っていたビルは、目白通りに面した日本債券信用銀行の真ん前にあった。そのビルから二軒隣、地下鉄九段下駅寄りの武道具店「櫻屋」によくストークスさんは来ていた。ついでに清流出版に寄り、僕といろいろな話をしたものだ。ともかく言えることは、ストークスさんは、ハリー杉山という、いわば宝物のような人材を生み出したのである。


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ハリー杉山。29歳の好青年。タレント、モデルとして活躍中

・ストークスさんは、もともと経済記者出身だが、かつてスカルノ、金大中、金日成、シアヌークといった要人に直接インタビューした稀有な人。政治や国際問題に強いジャーナリストで、あらゆるジャンルをこなした。近年の著書には、『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』(加瀬英明氏との共著、祥伝社、2012年)、そして、昨年12月、『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』(祥伝社)を刊行した。後者の本は、大きな反響を呼んでおり、すでに10万部を突破しているという。だが、今年5月になって、翻訳者(藤田裕行氏)が著者に無断で、日本軍による「『南京大虐殺』はなかった」と主張した部分を、書き加えていたことが分かった。ストークスさんの単独の著書という体裁だが、実際、大部分はインタビュー(2013年7月から9月まで、毎日のように行なったそうだ)を基に訳者が日本語で書き下ろしたものだという。もともと翻訳者は、日本の戦争責任を否定する立場。ストークスさんに同書の詳細な内容を説明しておらず、日本語を十分に読めないストークスさんは、今年5月に取材を受けるまで問題の部分を承知していなかった。僕が云々するより、経緯はストークスさんの古くからの友人である著名な三國事務所の三國陽夫(みくに・あきお)さんのプログに詳しい。――2014224日、「史実を世界に発信する会」の茂木弘道事務局長から送られたストークスさんの本を三國陽夫さんは、「欧米の一流記者で日本悪者史観を根底から批判する論に到達し、それを本にしたのはストークス氏が初めてであろう」と述べていたほど、感激したという。

・だが、5月に入ってから、共同通信社の記事が出て、紛糾した。簡単に書くと、悪質な記事が共同通信社よって配信されたという。「日本軍による「『南京大虐殺』はなかった」と主張した部分は、著者に無断で翻訳者が書き加えていたことが明らかになったという記事。――ここから事態が複雑化する。三國陽夫さんは言う。「かねてから外国特派員協会で、ストークス氏と、翻訳者の藤田氏が親しく歓談している姿を何度か見かけ、しかも、その成果がベストセラーになったことを喜んでいた矢先の事件だ。ご本人に、祝意を直接申し上げたこともある。共同通信社の歪曲を、報道の自由に、真実を書くことについての妨害として、糾弾する。日本のマスコミは、外国勢力の手先となって腐ってしまったのか。通信社がいつから謀略のお先棒を担ぐようになったのか。共同通信社は、ストークス氏と藤田氏に誤報として謝罪すべきだ。共同通信社の記事が配信された地方新聞社は、誤報として訂正記事を掲載すべきだ」と発言している。パーキンソン病を患っているストークス氏も、版元の祥伝社を通じて共同通信社の記事は誤り、事実とは異なると激しく非難している。

・今後の事態の成り行きについては、僕には分からない。だが、一番気になることは、「現在パーキンソン病を患っているストークス氏が、本の出版元である祥伝社を通じて、共同通信社の記事は誤りであり、事実とは異なると激しく非難した」という部分だ。パーキンソン病を煩っていながら、病をおしての渾身の出版だったようだ。ぜひお大事にといいたい。そして病気が快癒されることを心から祈念している。

・ストークスさんについては、書きたいことがいっぱいある。ユニークな趣味と行動ぶりについても触れておきたい。僕が感心するのは、ストークスさんは尊敬すべき人物が見つかったら、とことん付き合っていることだ。その具体例として、三島由紀夫(後述)と萩原延壽(はぎはら・のぶとし)の両氏をあげる。萩原氏は、英国外交官(在日英国公使もやった)サー・アーネスト・サトウの幕末期から明治初期までの活動ぶりを描いた『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』を朝日新聞に長期間にわたり連載し、完結刊行(全14巻)を見届け、2001年に亡くなった。萩原氏は、東京大学法学部政治学科、同大学院を出て後、米ペンシルベニア大学、英オックスフォード大学へ留学している。ストークスさんはオックスフォード大学の先輩に当たる同氏に親近感を持ったのだと思う。その萩原さんは宇都宮に住んでいたが、ストークスさんは、毎月、宇都宮まで通って萩原氏の著書『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』の周辺取材をしていた。ストークスさんのジャーナリスト精神の発露である。萩原氏は硬骨・孤高の人物であった。京大教授にと招聘されたがそれを断って、在野での研究・執筆を貫いた信念の人である。先生と呼ばれることを嫌ったので、誰もが「萩原さん」と呼んでいた。だが、在野に徹した苦労は並大抵のものではなかったはずだ。そんな萩原氏に興味を持ち、とことん追いかけたストークスさんも、萩原氏に負けず劣らず、硬骨漢といえるのではないだろうか。

・話変わって、クリフトという芸術家をご存じであろうか? ブルガリア出身の美術家で、環境芸術作家の一人として知られる。妻のフランス人美術家ジャンヌ=クロードと共同作業しながら作品を作る。驚くべきことに、夫妻ともに1935年の同月、同日生まれである。作品は「梱包」芸術として有名になった。例えば、パリの橋を白い布で覆った「ポン・ヌフの梱包」(1985)が話題を呼んだ。景観そのものを芸術作品の対象とするのである。そして完成した作品は、人々の想像力をかきたてて23週間で撤去される。1991年には、6年間の準備を経て、茨城県とカルフォルニア同時に、全部合わせて3100本の傘を立てた『アンブレラ』という作品が世界の注目をあびた。この環境芸術にストークスさんはのめり込んだ。クリフト夫妻と茨城県の対象地域の土地の所有者に一軒一軒訪ねて、狙いを説明。その手法は常に美術界ばかりでなく、社会的にも大きな話題を投げかけた。この間、ストークスさんは、文字通り寝食を忘れ、『アンブレラ』の実現に邁進された。会社をしばしば訪れたストークスさんは、土地の所有者(地権者)を説得するのに、何かいいアイデアがないかと聞かれ、僕はノー・アイデアと答えざるを得なかった。その後、「梱包されたライヒスターク(帝国議会議事堂)」(1995年、ドイツのベルリン)の作品にもびっくりさせられた。 ドイツ議会を巻きこむ長年の論争の末、やっと実現したプロジェクトで、放火事件や第2次大戦で廃墟となり、統一ドイツの議事堂になる予定だったライヒスタークを完全にポリプロピレン布で覆い隠した。わずか2週間に500万人を動員。布やロープも既製品ではなく、作品のために織られ、材料費等の直接経費だけで約7億円がかかったという。「包む芸術」という極めて珍しいアートに魅せられたストークスさんの芸術観、やはり並みの感覚ではない。


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ストークスさんが入れ込んだクリフト夫妻の作品。『アンブレラ』(茨城県)カルフォルニアにも同時に傘を立てた。1ヶ月弱の会期中に日本で50万人、アメリカで200万人を動員したという。

・ストークスさんは、音楽ジャンルにも造詣が深い。僕はその影響を受けた一人だが、所詮エピゴーネンにしかなれなかった。例えば、ストークスさんは、ロックのピンク・フロイドを贔屓にし、スイスの公演先まで切符片手に追っかけをしている。僕もピンク・フロイドが大好きだ。ピンク・フロイドのライブは、サイケデリック・ロックやブルース、フォークなどを織り交ぜたオーソドックスなロックに、けだるい叙情と幻想的なサウンドを醸し出させた高い音楽性に特長がある。さらには大掛かりな仕掛けを施し、スペクタクルに富んだものとしても評判が高い。僕はライブ録音盤CDの第1曲目「Shine On You Crazy Diamond」(「狂ったダイアモンド」)が流れ始めると、何を置いても聞き入ってしまう。アンコールのレアな「雲の影」からの「チャイルドフッズ・エンド」まで演奏されるCDを何百回聴いただろう。他にも、僕はレッド・ツェッペリンやジェスロ・タルも大好きである。いずれもイギリスのロック。ストークスさんの好みはグー! だ。息子のハリー杉山も趣味は音楽鑑賞という。ビートルズ、オアシス、吉井和哉、バナナマンの設楽統を尊敬しているそうだ。親子で好みが変っていても、本質的に音楽を求める点は共通している。

・僕は、ストークスさんの本を2冊作っている。1冊目は、『三島由紀夫 死と真実』(ダイヤモンド社、198511月、写真右)、2冊目は、『三島由紀夫 生と死』(清流出版、199811月、写真左)である。いずれも翻訳は盟友、徳岡孝夫さん。装丁はいずれも川畑博昭さんに頼んだ。この2冊目の本には、特に僕の思い入れが込められている。三島由紀夫をよく知るドナルド・キーンさん、徳岡孝夫さん、そしてヘンリー・スコット=ストークスさんの鼎談を所収しているのだ。

・鼎談の3人をご紹介する。ドナルド・キーンさんについては、三島由紀夫が亡くなり、28年が過ぎて、『三島由紀夫未発表書簡――ドナルド・キーン氏宛の97通』(中央公論社、1998年)という本を読むと、お二人の関係がよく分かる。三島由紀夫が「怒鳴土起韻様」や「鬼韻先生」「鬼院先生」「鬼因先生」などの呼称で結んでいるのが面白い。鼎談で、皆さんが氏の語る三島由紀夫像を聴き漏らさないようにしていることが分かった。

また、徳岡孝夫さんの場合は、徳岡さんの著書『五衰の人――三島由紀夫私記』(文藝春秋、1996年)で、三島由紀夫との出会いから別れまでを詳述しており、この本を読めばよく分かる。徳岡さんは、三島由紀夫が自決した日(昭和451125日)、「市ヶ谷の自衛隊駐屯地のすぐそばの市谷会館へ午前11時に来てほしい」と言われ、徳岡さん宛ての手紙と写真、そして『檄』を受け取った。これをもってして、いかに三島由紀夫がジャーナリスト徳岡孝夫を信頼していたかが分かる。運命的な出会いとでも言えようか。

ストークスさんの場合は、1969(昭和44)年2月、三島由紀夫に富士山麓での楯の会演習に誘われ、快諾している。同年3月、演習に同行。外国人として初めて三島由紀夫の行動に付き合っている。本の中に、富士山麓の雪中演習に同行し、三島とストークスは雪の上で飯盒の食事した写真が印象的。以上、三人とも三島由紀夫と友情が深く、話が弾んだ。鼎談を設けたのが成功したと思う。

・三島由紀夫とドナルド・キーンさんは、1954(昭和29)年、歌舞伎座で会って以来の長い付き合い。また、徳岡さんは1967(昭和42)年に、バンコック滞在中の三島と交わり、親交を温めることとなる。また、自衛隊体験入隊から帰った三島をインタビューした新聞記者である。これにストークスさんを加えた、三人三様の三島とのお付き合いの中で、それぞれの三島由紀夫観が展開されており、興味深い内容となっている。『三島由紀夫 生と死』は絶版本となっているが、どうしても読みたいという方は、図書館等で借りれば読めると思う。

・ストークスさんは、三島由紀夫との関係で詳しく本で書いている。――それより3年前、初めて三島由紀夫を見たのは、1966(昭和41)年418日。外人記者クラブでの昼食会だった。それから1年後、ロンドンの『ザ・タイムズ』支局長として、19683月に単独インタビューする。このときの印象を「猛烈にエネルギッシュ。まったく非日本人的な人物。真正面から相手を見据え、自信が感じられる」とメモしている。同年5月、三島邸の夕食に招かれ、「なぜ、われわれのような右翼に興味があるのか」と挑発的な質問を受ける。同年12月、三島が「楯の会」の必要性を力説することに、常軌を逸しているとメモ。692月、富士山麓での楯の会演習に誘われ、願ってもないニュース素材と快諾。同年3月、演習に同行。三島の私兵には興味がもてず。悪趣味から作った制服のみ印象に残る。ホモセクシャルのクラブか? と書く。同年4月、三島邸訪問。日本刀を見せられる。切腹の仕方を教えるのに寒気。同年4月、映画「憂国」を見る。延々と続く切腹シーンに辟易。ストークスさんは、1970年(昭和451125日)の自決した日、マニラに向かうはずだったが、台風でキャンセル。東京にいて臨時ニュースで自決を知った。聞いた瞬間、茫然となったという。中途半端な行動をしない男であり、いったん死ぬといえば、どんなことがあっても死ぬと思っていたからだ。小説での切腹シーン、映画出演しての切腹シーンなど、何度もサインを出していたのに見落とした、友達を見捨てた私の罪は許すべからざるものである、と未だに自己批判している――ときめ細かく本に書いている。

・ストークスさんについてはもっと話したいことがあるが、今回はこれぐらいにしたい。それにしてもストークスさんは在日英国ジャーナリストとしてユニークな方だと確信する。三島由紀夫のように「超絶の人」と付き合って、その体験を本にされた。その翻訳書を二回刊行した僕は、得難い経験を積んだ。

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ヘンリー・スコット=ストークスの2冊の本。『三島由紀夫 死と真実』(ダイヤモンド社、写真右)。2冊目は、『三島由紀夫 生と死』(清流出版、写真左)。いずれも徳岡孝夫訳。2冊目の本は、ドナルド・キーン、徳岡孝夫、ヘンリー・スコット=ストークスの鼎談を所収している。


2014.06.19鈴木れいこさん

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・過日、鈴木れいこさんが清流出版に来社され、お昼をご一緒させていただいた。僕は鈴木さんには頭が上がらない。というのも、『旺盛な欲望は七分で抑えよ――評伝 昭和の女傑 松田妙子』(2008年10月)という鈴木さんの著を清流出版から刊行させていただいたのだが、在庫がゼロになってしまったのだ。つまり、市中の本を残らず売り切ってしまったわけだ。今は電子出版用として倉庫に数冊を残すのみである。種明かしをすると、鈴木れいこさんが書いた評伝の主人公・松田妙子さんが在庫していた分を全部買い取ってくれたのだ。販売効率的にいってもこれ以上の本はなく、発行者としての僕は、お二人に感謝するとともに、刊行に踏み切って良かったと思った。

・最初、鈴木さんがこの企画を提案してきた時、僕は一瞬ドキリとしたのを覚えている。当の松田妙子さんという人物をよく知っていたからだ。1970年代のある時期、僕の古巣であるダイヤモンド社のビルに松田妙子さんも一時、同居していたのである。当時、ダイヤモンド社は、9つの子会社も含めて社員は550名ほどの出版社で、自社ビルのスペースが余っていた。今のように総合的出版社としての「ダイヤモンド社」ではなく、経済専門出版社を謳う「経済雑誌ダイヤモンド社」だった頃のことである。住所は千代田区霞ヶ関1丁目4番地の1と、通産省の隣に位置しており抜群の立地だった。2階部分を日本住宅金融株式会社に貸し、10階には将棋の木村義雄名人や松田妙子さんほか、著名な弁護士等のオフィスとして貸していた。しばらくして、日本住宅金融の庭山慶一郎社長と松田妙子さんが、しばしば話しながら歩いているのを見掛けたからこのビルがご縁で知遇を得たものと思われる。実は、僕はそれより数年前、松田妙子さんに取材したことがあった。場所は銀座の殖産住宅の子会社だったと思う。テーマは、これからの日本の住宅産業についてだった。毅然として理路整然、歯に衣着せぬ物言いで、女傑との印象が強く残っていた。その松田妙子女史が、なんとダイヤモンド社の10階に移ってきたわけだ。

・振り返ってみれば、松田妙子さんは1954(昭和29)年に渡米し、南カリフォルニア大学テレビマスコミ科に学ぶかたわら、NBCテレビへ勤務。帰国後、コスモPR取締役等を経て、1964年、日本ホームズを設立した。その後、松田さんはどんどん力を発揮し、向かうところ敵なしの勢いだった。建築審議会委員、東京都公安委員他多くの委員を務め、政策提言を行った。87年藍綬褒章受章、99年東京大学博士号(工学)取得。現在、87歳になったが、財団法人住宅産業研修財団会長、財団法人生涯学習開発財団理事長、大工育成塾塾長などを務めている。まさに女傑という呼び方がピッタリの方。さもありなん、松田妙子さんの父君は、元衆議院議長、文部大臣の松田竹千代氏である。竹千代氏はアメリカで過ごした破天荒な青春時代を『無宿の足跡』(昭和43年、講談社)に残しているが、社会福祉事業に一生を捧げた政治家としてよく知られる。だから妙子さんは東京幡ヶ谷の社会事業施設「労働クラブ」に併設された自宅で産声を上げている。余談だが、『旺盛な欲望は七分で抑えよ』のタイトルは、編集担当した臼井君が提案してきたものだが、聞いてみると父君である竹千代氏が娘妙子に贈ったアドヴァイスの言葉から取ったものだという。小さい頃から、妙子さんのあまりに破天荒なお転婆ぶりに、多少不安に思ったのであろうか。僕にはそんな親心が透けて見えた気がした。

・鈴木さんが松田妙子の名前を聞いたのは、メキシコ在住のバレリーナ、ワトソン繁子からだった。鈴木さんが『ワトソン・繁子――バレリーナ服部智恵子の娘』(彩流社)という本を書くため、メキシコに滞在していた時のことである。松田妙子と幼馴染だった繁子は、彼女を懐かしんで、「好奇心いっぱいに生きている男まさりの才女なの、傑物だわ、愉快な人よ」と言ったという。帰国して大宅文庫で調べものをしていた鈴木さんは、1972年の『Newsweek』誌に、松田妙子が「強烈な個性を持ったレディにしてボス」と紹介されているのを見つけた。鈴木さんは、この記事に興味をひかれ評伝を書いてみたいと思ったのだ。それにしても、松田妙子と三島由紀夫が親しくお付き合いをしていたなど、鈴木さんの本を読むまで知らなかった。河口湖にあった別荘に三島がよく訪ねてきたのだという。日本人にはめずらしいボディラインの妙子の後ろ姿を気に入った三島が、「コカ・コーラのボトルみたいだ」と言っていて、しばしば妙子は三島のちょっと前を歩かされた。また、川端康成邸に原稿を届ける三島に妙子が付き添ったこともあるというから、よほど信頼が厚かったに違いない。それにしても、こんな秘話をよく鈴木さんは引き出したものだ。よほど信頼関係が築けていない限り、出てくる話ではない。

 

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・鈴木さんは最近、彩流社から『台湾 乳なる祖国――娘たちへの贈り物』という本を刊行した。実は鈴木さんは1935(昭和10)年、台湾台北市のお生まれなのだ。1947年に台湾から引き揚げてきたが、12歳まで台湾で過ごしている。1冊、僕も贈呈していただいたが、日本統治下の12年間の少女時代の想い出から敗戦による混乱の中での引き揚げ、そして晩年、再び台湾に住んでかつて親交のあった人たちとの再会を描いている。台湾に半生を賭け、壮年期を過ごした父君が残した小冊子を頼りに、当時は知らなかった部分を補填しながら、記憶にある故郷を書くことに専念したというが、幸せなひと時だったのではないだろうか。鈴木さん自身、こうして育ててくれた父君を偲びながら筆を進めるうち、不思議な安らぎに全身を包まれた気がしたと書いている。母と娘との関係というのは濃密で、よく書かれているテーマだ。しかし、娘が父との関係を問い直していくというのは、読んでいて新鮮に思えた。そして、少し羨ましかった。というのも、僕には娘がいないからだ。仮にいたとしたら、どんな関係が築けただろうか、そんなことを想像したものだ。

・鈴木さんは、1980(昭和55)年、朝日新聞記者の夫の定年退職後、台湾、シンガポール、アメリカ、カナダ、スペイン、コスタリカ、メキシコなどを訪ね、一年の半分を海外旅行に費やしたという。著書も、すでに6冊。『旅は始まったばかり――シニア夫婦の生きがい探し』(1991年、ブロンズ新社)、『世界でいちばん住みよいところ』(1997年、マガジンハウス)、『日本に住むザビエル家の末裔――ルイス・フォンテス神父の足跡』(2003年、彩流社)、『ワトソン・繁子――バレリーナ服部智恵子の娘』(2006年、彩流社)、『旺盛な欲望は七分で抑えよ――評伝 昭和の女傑 松田妙子』(2008年、清流出版)、『台湾 乳なる祖国――娘たちへの贈物』(2014年、彩流社)。

この中で、気になった本は、断然、『日本に住むザビエル家の末裔――ルイス・フォンテス神父の足跡』である。この本は、各新聞でも書評に取り上げられ、丁寧な解説が付いている。そうした素晴らしい書評があるのに、屋上屋の僕の拙い解説は一切控えたい。では、3つの新聞の書評をご紹介する。

まず、『キリスト教新聞』の書評から。

――ルイスさんはスペイン生まれ。ザビエルが日本からパリに送った手紙を16歳の時に読み感動、日本へ渡ることを決心した。25歳でマドリッドの神学大を卒業後に来日。20年間、上智大や早稲田大で倫理学や比較宗教論を教え、84年から10年間は福岡県の高校で教師として働いた。ザビエルの兄ミゲルはルイスさんの父の祖先でフランス系。ちなみにルイスさんの母はケルト系で、祖先にはスペインの画家ゴヤが肖像画を描いている、プラド美術館の創設者ホセ・モニノ・イ・レドンドがいる。ルイスさんは現在、山口県下松市在住。日本での司牧生活はすでに50年以上になる。現在は、字部市アストピアに完成した、チャペルを備えたブライダル施設「フェリース」で働いている。本の著者である鈴木れいこさんは、ルイスさんのスペイン語教室の生徒。「聖フランシスコ・ザビエルがお手本」というルイスさん。神に頼り切った飾らない人柄が本の中からも十分に伝わってくる。

  次は、『中国新聞』の書評。

――日本にキリスト教をはじめて伝えたフランシスコ・ザビエルの兄の子孫で、下松市に住むルイス・フォンテス神父(72)のザビエルに導かれた運命的な半生を、光市のエッセイスト鈴木れいこさん(68)が執筆した。「日本に住むザビエル家の末裔」のタイトルで彩流社(東京)から出版された。鈴木さんは4年前、海辺の風景が気に入って光市に移り住んだ。2年前から通う中国新聞カルチャーセンターのスペイン語講座の講師がフォンテス神父だった。スペイン語の講義のおもしろさや知識の深さに人間的興味を覚えたのに加え、ザビエルの子孫という事実が、創作意欲を刺激したという。2001年6月ごろから聞き取りで取材を続け、ザビエル関連の書籍を求めて図書館通いをしながら、昨年10月に書き上げた。神父自身が、ザビエルとのつながりを知ったのは六年前。『スペインの親類から送られてきた結婚式の案内状だった。覚えのない署名だったため手元の資料を調べるなどして、自分の14代前がザビエルの長兄ミゲルであることを知った。ザビエルとのえにしは50年前にさかのぼる。偶然手にしたザビエルの書簡集が日本への興味をかき立て、神学校を経て日本へと向かわせた。こうしたエピソードや、宣教の足跡、人々との触れ合いなどを5章にまとめた。これが3冊目の著書となる鈴木さんは「神父の取材を通じ、人間の信念というものを学べた」と話している。

  最後に『西日本新聞』の書評。

――日本にキリスト教をはじめて伝えたフランシスコ・ザビエルの兄の子孫で、山口県に住むようになった著者は、スペイン語を学ぶため語学教室を訪れる。そこの講師は神父のルイス・マギーネ・フォンテスさん。何と、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの子孫だった。ルイスさんは来日47年になるが、そのことは数年前まで本人も知らなかった。故国スペインから届いた結婚式の案内がきっかけで家系調べに熱中、系図をつきあわせていくうち、14代前の先祖がザビエルの長兄ミゲルだと分かった。ルイスさんは少年時代、長崎のキリシタン殉教者の絵に日本への興味を募らせた。さらに山口で宣教していた神父が書いた本に出合い、ザビエルの書簡集を読み、日本行きの気持ちを固めた。はるか昔のザビエル、そして今、同じように日本に来た末裔の自分─ルイスさんは「導き」と思う。本書は、宗教土壌の違いに戸惑いつつも日本で神父として歩むルイスさんの姿を追う。

  鈴木れいこさんの本には、このような素晴らしい書評で迎えられている。鈴木さんの目のつけところもよいが、それを的確に紹介するべく人がいる。僕は、今、地方新聞文化部にも目利きがいるなと嬉しくなった。

・もう一度言うが、鈴木さんの最新刊『台湾 乳なる祖国――娘たちへの贈り物』もとても面白い視点で書かれている。日本と台湾の関係は、尖閣諸島界隈の漁業権の問題などあったが好転しつつある。日本統治時代に台湾の水利事業で大きな功績を残した日本人技師、八田與一をたたえる記念公園の建設も実現した。2011年3月11日発生の東日本大震災に際しては、台湾がいち早く救援隊派遣を表明。人口が約13倍の米国を大きく上回る義捐金が集まったことは記憶に新しい。また、国立故宮博物院の日本展覧会開催なども始まる。中国王朝芸術の粋を集めた台北・故宮コレクションのうち、人気の高さからこれまで海外展示が見送られてきた清代玉器の逸品「翠玉白菜」「肉形石」を含む計231件が、東京と福岡で公開されることになっている。台湾と日本との関係を問い直すに恰好の著ではないだろうか。

・今後も鈴木れいこさんの優れた嗅覚と自由自在の人物像に恵まれて、われわれに素晴らしい作品を読ませていただきたい。ご健筆とご健勝をお祈りする。