2016.01.25山口仲美さん
埼玉大学名誉教授、国語学者の山口仲美さん
後白河天皇の皇女。賀茂神社の斎院になった。斎院は神に捧ぐるため、身は清浄でなければならず、恋は許されない立場である。「忍ぶ恋」の激しさと不安感を詠んだ歌として、山口さんは紹介された。
・第三回は、サブタイトル「キャリア系・清少納言の恋愛事情」。冒頭に、紫式部、清少納言、和泉式部、道綱母の四人の女子力タイプを掲げ、チャート図を描き、明るい、暗い、男っぽい、女っぽいに分けて説明された。山口さんらしいアイデアと機知に富んだ分析だ。
チャート図でいえば、男っぽいと陰性の紫式部(オクテで地味な妄想女子)は、さしずめ、出演者でいうと大久保佳代子さん。男っぽいと陽性の清少納言(ウィットに富んだキャリアウーマン)が山口仲美さん。女っぽいと陰性が道綱母(美人でプライドが高いセレブ妻)で壇蜜さん。女っぽいと陽性は和泉式部(恋多き魔性の女)と分析し、それぞれ女子力タイプを解説した。それにしても、男性ホルモンのテストステロンや神経伝達物質のドーパミンの多寡を、平安女性に当てはめるという発想がユニーク。ドーパミンが多いと「アウトドア派」、少ないと「インドア派」である。
「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも
よに逢坂の 関はゆるさじ」――清少納言
(夜が明けないうちに、鶏の鳴き声でだまそうとしても、函谷関の関ならともかく、逢坂の関はそうはゆきますまい。わたし、あなたとは決して逢わないわよ)
清少納言の才気煥発ぶりが如実に現れた歌だ。漢詩文の素養を武器に男友達の誘いを、魅力的に断った歌である。一条天皇の中宮定子に仕え、その博学さで定子の恩寵を受けた清少納言の、清少納言らしさが出た歌。「逢坂の関」は「逢う」という言葉から男女関係を持つという意味を含むと、山口さんは解説された。
・第三回までの、「恋する百人一首」の展開と内容、歌を簡単にかいつまんで書いてみた。僕の下手なまとめ方では、登場された百人一首を詠んだ歌仙もご不満であろう。山口さんも、同じような感想を持っているにちがいない。だから、今後は「テーマ」と「サブタイトル」と代表的な歌だけで、各回をおさらいしてみようと思う。
・第四回は、サブタイトル「モテ女・和泉式部に学ぶ魔性テク大研究」。和泉式部は男性を惹き寄せる力の強い歌を詠んだ女性。一条天皇の中宮彰子に女房として出仕されたが、とくに身分の高い男性との恋愛に命をかけたことが分かる。
「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
今ひとたびの 逢ふこともがな」――和泉式部
(わたしはもうすぐ死んであの世に行くかもしれません。思い出にせめてもう一度だけあなたにお逢いしたい!)
真に迫る切実さをもっている歌で、平易なレトリックも使わずに心情を吐露し、相手の心をぐっと摑むところにこの歌の特色があると山口さんは言う。
・第五回は、サブタイトル「女の分かれ道 セレブ美人妻・道綱母」。女性にとって、もっともつらく許せないのが恋人や夫の浮気である。それは平安時代も同じだった。右大将道綱母は類まれな美貌を誇り、歌才もあったが、人一倍強い自尊心の持ち主だった。夫がほかの女性のところに通っているのを知ると、猛然と夫に対抗する。和歌に託し、
「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は
いかに久しき ものとかは知る」――右大将道綱母
(あなたが来ないのを嘆き嘆きしながら、一人で寝る夜が明けるまで、どれほど長いかご存じでしょうか。いや、おわかりにはなりますまい)
本朝三美人に数えられるほどの美貌で、歌才もある方で、「一夫一妻多妾制」の平安時代に、現代のような「一夫一妻制」の時代にのみ可能なかたちを求め続けた道綱母の歌に嫉妬心の凝縮を見た思いがする。
・第六回は、サブタイトル「オクテな地味女・紫式部」。紫式部は、恋の歌は少なく、恋愛の実体験があまり豊かではなかったと察せられた。紫式部は年の離れた男性と結婚し、夫と死別するまで幸せな家庭を築いている。いわば良妻賢母型の女性であった。
「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲隠れにし 夜半の月かな」――紫式部
(幼友達と偶然会って、その人かどうか見分けがつかないうちに、雲間に隠れてしまった夜半の月のように、あの人はあわただしく姿を隠してしまったことですよ)
紫式部は藤原道長の娘・彰子のもとに出仕する。女の友情を詠んだ歌を紹介した。幼友達に偶然再会し、その状況を、その夜の月の情景に重ね合わせている。また、紫式部は内面に強い自負心があり、後宮で活躍している清少納言や和泉式部の悪口を日記に記している。
・第七回は、サブタイトル「はじめよう! 恋する心の伝え方」。和歌はそもそも思いを伝える手紙との役割を持っていた。まず、恋をスタートさせるには、恋する思いを相手に伝えることが大切である。
「みかの原 わきて流るる 泉川
いつ見きとてか 恋しかるらむ」――中納言兼輔
(みかの原を分けて流れる泉川。湧き出て流れる泉のように、あの人をいつ見たからといって、こんなに恋しいのだろうか)
この歌の言いたいことは下の句で、「泉川」は「いつ見」を引き出すための「序詞」(じょことば)。まだ見ぬ人への泉のようにこんこんと湧き、清らかな恋心が心を打つ。
今回は、登場する百人一首の歌がことごとく、いずれも平安時代の貴族が恋を和歌にして、いわば「手紙」として、相手の思いを伝えるのがよいか悩んだことが分かる仕掛けになっている。この講座で、山口仲美さんが、百人一首の実用学に力を入れているのがよく分かる。
また今回は、ゲストに森川友義さん(早稲田大学国際教養学部教授)が登場された。「恋愛学」の第一人者(著書に『一目惚れの科学』、『結婚しないの? できないの?』)の立場から、発言をされた。「平安時代の和歌は、現代で言うメールだ。当時は和歌の上手な男性がモテていたと言われる。現代に恋心を上手に伝えるための、恋愛学的「正しいモテメールの出し方」を伝授したいと言う。31文字に思いを込める和歌と同じく、現代のメールは「短い文章で、想像させる余地を残すことが効果的」をおっしゃる。
・最終回は、サブタイトル「恋の終わりの処方箋」と分かっているが、まだEテレの再放送がまだないので書けない。どのようなエンディングを迎えるのか、今から楽しみである。
・冒頭にご紹介した通り、山口仲美さんには、毎号、月刊『清流』に「ちょっと意外な言葉の話」と題したコラムを連載して頂いている。毎回、楽しみに読ませて頂いているが、これもおさらいしてみよう。
初回の2014年8月号から以降、取り上げられた言葉を拾ってみると、「ざっくばらん」、「おべんちゃら」、「総すかん」、「じゃじゃうま」、「てんてこ舞い」、「とんとん拍子」、「ぐる」、「とことん」、「いちゃもん」、「へなちょこ」、「たんぽぽ」、「ぺんぺん草」、「パチンコ」、「ばった屋」、「ひいらぎ」、「はたはた」、「とろろ汁」、「しゃぶしゃぶ」、「おじや」、「どんぶり」……等々。
それぞれの言葉の、発生から成り立ち、どのような変遷を経て現代まで生き伸びてきたかをやさしく説いている。まさに日本語の蘊蓄が詰まった文章で、日本語の持つ奥深さ、豊かさ、その魅力を再認識させられること必定である。
・また、山口仲美さんには不思議な縁を感じている。実は同じ出身中学であることを知った。豊島区立第十中学校の同窓生なのだ。僕の尊敬する担任の小寺(旧姓・小高)禮子先生(月刊『清流』の創刊号からの定期購読者)が、二人の接点を見出してくれた。山口さんは、その後、お茶の水女子大学を卒業し、東京大学大学院修士課程を修了、文学博士、埼玉大学名誉教授となったわけだ。
擬音語・擬態語の研究者として第一人者であり、著書『日本語の歴史』(岩波新書、2006年5月刊)で日本エッセイスト・クラブ賞、平成20年、日本語学の研究で紫綬褒章受章者となった。今を時めくお方なのだ。山口さんとの出会いは、僕にとってまぶしいほど輝かしいものと思っている。
・また、山口さんは、不屈の闘志をお持ちだ。というのも、2009年夏、大腸ガン(S状結腸ガン)を患い闘病、また2013年夏には膵臓ガンと続けて病魔に侵された。それを克服し、『大学教授がガンになってわかったこと』(幻冬舎新書、2014年3月刊)を執筆されている。この250ページの本を何回も読んで、僕は心底納得したものだ。山口さんはこう書いている。《ガンは、わたしに「謙虚」と「受諾」という、自分に最も欠けていた精神的な贈り物をくれました》と……。
僕も二回の脳出血を経て、右半身不随、言語障害の身になって、全く同じ思いをしている。山口さんには、今後も大いに活躍して欲しいと思っている。山口さんの才媛ぶり、才能の発露には、誇らしい気持ちが湧いてくる。応援団の一人にすぎないが、僕にとっても人生における希望の光となっていることをお伝えしておきたい。
2015.12.18鈴木皓詞さん
鈴木皓詞さん(左)が原稿をわが社に持参して下さった。その後、「新世界菜館」で食事をしながら雑談をした。
・鈴木皓詞さんは、茶の湯の専門家であり、茶の湯について雑誌の連載や単行本等でもその博識ぶりを披露している。茶の湯の根本はご存じの通り、亭主が客を迎えることにある。客を迎えるに当たっては、主人が心を尽くすのは、世界中どの地域どの人種においても変わることがない。またその際には、少しでも見栄えよく飾り贅を尽くすのが人情というものではないだろうか。鈴木さんは、長らく茶の湯の歴史を俯瞰してきて、その深淵を熟知されている方である。
「我が国でも、平安時代以来の饗応は、世界中の習慣と、何等変わりありません。通常の感覚とは著しく異なります。どのように違うのかといえば、簡素の中にも季節感を盛り込むことに主眼を置いたものだからです。これが茶の湯のもてなしの根本です」と鈴木さんはおっしゃる。
・僕は、鈴木皓詞さんがお書きになられた『世外井上馨――近代数寄者の魁』(宮帯出版社、平成25年刊)が印象深く心に残っている。意外と知られていない井上馨の近代数寄者「世外」としての側面に注目し、その茶の真髄に迫っているからだ。1909年(明治42年)、茶会好きだった井上馨は、奈良の東大寺から「八窓庵」という茶室を移設し、翌年の春に連続で茶会を開いていく。八窓庵の席披きでは明治天皇に献茶し、天覧歌舞伎においても演劇の近代化を図っている。
長州藩士であった井上聞多(後の馨)は、奇兵隊を率いた高杉晋作と親しく、幕府や守旧派と戦い、西洋列強や薩摩と対峙しながら激動の幕末を生き延びた。維新政府において、外務卿・外務大臣・農商務大臣・内務大臣・大蔵大臣と政府の要職を歴任した。外務卿時代には鹿鳴館を建設し、不平等条約改正交渉にあたったことはあまりにも有名である。元老となった井上馨は、廃仏毀釈を背景に茶席に密教美術を持ち込んで、新たな数奇の世界を創出したのである。六本木ヒルズの裏手、現在の六本木高校があるあたりは、かつて内田山という高台だった。この場所に井上馨の邸宅があった。そんな井上馨を鈴木さんは、茶の湯の面からアプローチして希代の数寄者を見事に活写してみせている。
・また、鈴木さんの著書『近代茶人たちの茶会』(淡交社、平成13年刊)では、新しい時代に適応した茶会を模索し続けた数寄者の達人たちの熱い思いに迫っている。小間・広間・田舎間を併用して仏教美術や古筆を導入した益田鈍翁(本名:孝、三井物産を設立、日本経済新聞前身の中外物価新報を創刊)をはじめとして、根津青山(嘉一郎、東武鉄道の創設者)・村山玄庵(龍平、朝日新聞社の創設者)・小林逸翁(一三、阪急電鉄・阪急百貨店・宝塚歌劇団の創設者)・松永耳庵(安左ヱ門、電力王)など、近代数寄者の見識と創意のプロセスを茶会によって再見してみせている。
余談になるが、僕は松永耳庵翁には頭が上がらない。もちろん、僕がこの長崎県壱岐生まれの電力王と直接、どうこうしたというわけではない。実は鈴木さんが年に何回か送ってくれる酒の名前が、「松永安左ヱ門翁」(長崎県壱岐市、玄海酒造)なのだ。高価で貴重な本格焼酎で、呑み始めたら止められない美味しさである。他にも鈴木さんは、レア物で手に入りにくい「森伊蔵」(鹿児島県垂水市)、「百年の孤独」(宮崎県児湯郡高鍋町)等の銘柄も送ってくれたことがあり、至福の刻を楽しんだものだ。
・また、鈴木さんは著書『茶の湯のことば』(淡交社、平成19年刊)では、「一客一亭」「関守石」「手なり」等、茶の湯の世界で親しまれた言葉を、《もてなし/しつらい/よそおい/ふるまい/うつろい》の五章に分け、 簡潔な解説と多彩なイメージ写真で紹介する。茶道愛好家はもちろん、「和のもてなしの心」に興味を持っている人には、恰好の参考書ではないだろうか。時あたかも2020年の東京オリンピックを目前に控えている。「おもてなし」の精神を発揮するにはどうすればいいのか、その答えがこの本に凝縮されている。ありきたりではない、一味違った和風のイメージを求めている方にも参考になる本である。
・私たちはまさに動乱の時代を生きている。人心は羅針盤を失って難破寸前である。だから動乱の世こそ、茶の湯を用いるべきである、と鈴木さんは訴える。
――「何物も信じられない世にあって、信じた人間に瞬間でも誠を見ることが出来たらよし、とするのが茶の湯である。茶の湯は、おのれの心を糺しながら驕ることなく、今を精一杯に生きることを教えています」――
茶の湯は人間の心のためのもの。茶の湯を語りながら、結局は人の心を語ることになる。世の中の仕組みが変わることで、人間の在り方が大きく変化する。当然、茶の湯も変わっていかなければならない。今や人間の心は温暖化によって崩壊する氷山のように、跡形もなく溶け出している。人間が人間である限り、心が全ての原点。あらゆることは自分の心から出発して、結果は自分の心へと還る。
――「茶の湯もまた、お茶に関わる一人一人が、心を改め、心を組み換えていかなければならない時期を迎えています。その心を整えるために、茶の湯には最高の方法が具備されているのです」――(『茶の湯からの発信』清流出版、平成14年刊)
また、『物に執して』(里文出版、平成20年刊)では、物に守られ、救われている鈴木さんはじめ我々が物と人との68の邂逅、そして交歓を追究する。瀬戸黒茶碗に金海茶碗、掛軸、懸仏、両界曼荼羅から、すりこぎ、孫の手、陶器の壷に至るまで、物に執した著者が綴った物と人との交歓は素晴らしい。
・これまで鈴木さんの著になる単行本を取り上げ、その薀蓄を紹介してきたが、執筆している雑誌もご紹介する。まず真っ先に、わが月刊『清流』誌を挙げたい。あとは、『陶説』『茶会の取合せ』『東美』『淡交』『酒、器スタイル』『和なごみ』『茶人と茶道具』『目の眼』などの雑誌が挙げられる。僕は、『酒、器スタイル』という雑誌は未見だが、大いに興味がある。『陶説』『淡交』や『和なごみ』は何回かもらって、鈴木さんの含蓄のある文章を読んだ。
・わが清流出版の月刊『清流』は創刊以来22年目に入っているが、創刊号からご執筆されている方が二人だけいる。安芸倫雄さんと鈴木皓詞さんである。僕の友人からも「鈴木皓詞さんの連載を楽しみにしている」とよく言われる。僕の数少ない女友達も、圧倒的に鈴木さんファンが多い。『清流』の最新号が届くと、真っ先に鈴木さんのページを開くという方がいるのだ。趣味が茶の湯という方は、すべからく鈴木さんの誌上弟子と思っているに違いない。そして、鈴木さんが取り上げる話題は実に多岐にわたる。日本の伝統行事から、戦国武将や高貴なお方、僧門の偉い方、文化人等の茶にまつわる逸話など、心に沁みてくるお話ばかり。だからこそ、もっと読みたいという方が多いのも、当然といえば当然である。
・ここまで書いてきて、偶然にパソコンで検索し「鈴木皓詞」と打ったら、なんとなんと鈴木さんがホームページを設けていることが分かり、びっくり仰天! それも立派なホームページで、感心してしまった。鈴木さんとは長いお付き合いだが、ITやパソコン関係の話題には一切触れることなく付き合ってきた。鈴木さんはパソコンの世界とは関係がないと思ってきた。その意味で、晴天の霹靂、君子豹変、のような驚きである。みなさんも≪茶人 鈴木皓詞のホームページへようこそ!≫をクリックすれば、見事なホームページを見ることができる。冒頭画面に須田剋太(こくた)の揮毫になる「愚」の書、その後「愚茶へのいざない」の文章が目に飛び込んでくる。あとは、茶の蘊蓄が次々と現れて、鈴木さんのことが分かる仕掛け、ぜひ一読をお勧めしたい。
・鈴木皓詞さんは、北海道のお生まれ。得度して僧籍に入るが還俗。日本大学藝術学部卒業、在学中より裏千家の茶の湯を学ぶ。自ずと数寄者の蘊蓄が備わった。お茶の世界は、茶室、庭、茶道具、焼物、掛けもの、書画……など、広範囲にわたって関係してくる。美術品の鑑定はよほどの目利きでなければ務まらない。あの小林秀雄も何度か苦渋を飲まされている。真贋を見分ける目を養う近道というものはない。骨董屋さんも一流になるには、小僧の頃から本物を見続けて、目を肥やしていくしかない。鈴木さんは、その確かな目利きのお一人。「ご覧になって、この壺、茶碗……はこの値で決めましょう」という値決めをすることも許されている。かつて中尊寺の夥しい宝物の値段が、何年もかけ、鈴木さんのアドヴァイスによって確定したという話もある。
・鈴木さんとのお付き合いも、かれこれ35年になろうか。きっかけは僕のかつての職場ダイヤモンド社の同僚、否、麻雀、競馬、将棋等の遊び仲間であった田村紀男さん(元ダイヤモンド社社長)に紹介されたことによる。田村さんは秋田県出身で直木賞作家の和田芳恵氏の甥筋と聞いた。その同郷の和田芳恵さんを師として学んだ鈴木皓詞さんは、最初、小説家志望だった。その後、曾野綾子さん、三浦朱門さんご夫妻と運命的な出会いをする。三浦朱門さんが文化庁長官になった際、鈴木さんは秘書役として尽力された。その三浦さんも、日本文藝家協会理事長、日本芸術院院長などを歴任された。その間も、お付き合いを続け、鈴木さん曰く「私はこのお二人の食客で、週に4回もごちそうになったこともあるんですよ」。長いお付き合いである。曾野綾子さん、三浦朱門さんとの交流では、数々の面白い逸話もあったようだ。抱腹絶倒の話もお聞きしたが、残念ながら差し障りがあるのでここで披露することはできない。
鈴木皓詞さんは、茶の湯の世界では異色の存在であるらしい。なぜかといえば“裏千家”のみならず、“表千家”、“武者小路千家”など、流派を超えて親しいお付き合いをされていることにある。そんな付き合いができる人というのは、この世界でも稀有な存在らしい。鈴木さんの存在が、茶の湯の世界に果たしている役割は大きいといわざるを得ない。これからのより一層のご活躍をお祈りしたい。
2015.11.24天満敦子さん、岡田博美さん
2015.10.27假屋崎省吾さん
目黒雅叙園で開催された「假屋崎省吾の世界」展。
正面玄関入ってすぐに展示された假屋崎省吾さんの作品。
・目黒雅叙園で10月1日から25日まで長期開催されている「假屋崎省吾の世界」展を臼井雅観君と見に行ってきた。假屋崎さんには、弊社刊行の月刊『清流』に「日常生活で生け花を楽しむ」をコンセプトにして連載をしていただいた。それをまとめた『假屋崎省吾の暮らしの花空間』という本を1冊出させてもらっている。それを恩義に感じてくれたものか、その後も何かイベントがある度に、律儀に招待状を送ってくれる。この7月にも日本橋三越本店7階で、「假屋崎省吾の世界」が開催されたが、この時もわれわれは招待状をいただいた。昼食を兼ねて4人で出かけた。帰り際に猛烈な熱帯性スコールに襲われたが、その異常気象の乱調も印象が薄くなるほど、ただただ假屋崎さんの個展の素晴らしさに感動した。今回も目黒雅叙園の個展に招待を受けた。思い起こせば、雅叙園の假屋崎さんの個展を何回観たことだろうか。最初は、假屋崎省吾さんのプロデュースした「ブライダル・ブーケのファッションショー」に直接の単行本編集担当者だった秋篠貴子嬢、出版部長だった臼井君と何度か招待されて、お土産もどっさり貰い、楽しませてもらった。特別な訪問着や振袖、打掛、ウエディング・ドレス姿のモデルさんたちが、次々に假屋崎さんのプロデュースしたブーケをもって登場し、目を楽しませてくれたものである。ゲスト陣も豪華で、ある時はピアニストのフジ子・ヘミングさん、またある時は書家の紫舟(ししゅう)さんなどが登場し、実際にピアノ演奏や書のパフォーマンスで楽しませてくれた。
今回の展覧会は新趣向もこらされていた。それはトワイライト見学というもので、昼間の時間帯に来られない方のために、夕方5時から7時までという時間で見られるようにしたものである。それもこの時間帯の入場者に限り、会場内の写真撮影がOKという特典つきだ。僕らは午後に出掛けたのだが、ゆっくりと見学して帰ろうとする頃は、すでに夕方に近かった。臼井君は最近カメラに凝っていて当日も肩から下げていたのだが、会場係の方がご親切にも、「しばらくするとトワイライトタイムになるから、写真を撮りたかったらどうぞ」と言ってくれた。こんな心遣いは流石に目黒雅叙園ならではのものであり、僕も嬉しかった。そんなわけで会場内の作品も少しだけだが、お伝えすることができる。
「百段階段」の花、その1。
・目黒雅叙園には、2009年3月に東京都の指定有形文化財に指定された木造建築があり、欅の板材でつくられた99段の階段廊下をもつことから「百段階段」と呼ばれている。この展覧会もこの「百段階段」を会場にして、2000年から始まり、毎年開催してきており今年16回目となるという。総来場者数が約60万人というから大変なイベント企画である。国内だけではなく国際的にも幅広く活躍する假屋崎さんは、昨年もブルガリア、トルコ、ルーマニアなどで個展を行い、大いに日本の華道の素晴らしさを世界に知らしめた。新たにインスパイアされた世界観を、目黒雅叙園でお披露目となったわけだ。
「百花繚乱」という言葉通り、昭和10年に作られたという木造建築「百段階段」には、假屋崎さんの新たな視点で活けられた様々な花が会場内に咲き乱れていた。かつては食事を楽しんだ7部屋を欅の99段の階段廊下が繋いでいる。7つの部屋は、当代一流の芸術家による日本画、黒漆に蝶貝をはめ込んだ螺鈿、組子の建具、銘木など破格の装飾に埋め尽くされ、日本文化の伝統の煌めきを今日に伝えている。具体的には、天井に23面の鏡板で荒木十畝の四季の花鳥風月が描かれた十畝の間、床柱が北山杉の天然絞丸太で格天井および欄間いっぱいに板倉星光の四季草花が描かれた星光の間、室内は純金箔、純金泥、純金砂子で漁樵問答の一場面が描かれた漁樵の間、美人画の大家、鏑木清方が愛着をもって造った茶室風の室で、欄間に清方の四季風美人画が描かれた清方の間など、それぞれの部屋そのものが個性に溢れている。この目黒雅叙園の歴史的文化財と、假屋崎さんが織り成す“美”の世界が今回の個展ということになる。本展では、花と歴史的建造物とのコラボレートを展開している假屋崎さんの原点である「百段階段」と、假屋崎さんの紡ぎだす生命のパワーが溢れる花の世界とのコラボレーションが楽しめる趣向だ。
「百段階段」の花、その2。
・假屋崎省吾さんのプロフィールを簡単に触れておこう。華道家。「假屋崎省吾花・ブーケ教室」を主宰。美輪明宏さんより、「美をつむぎ出す手を持つ人」と評される。着物やガラスの器のデザイン及びプロデュースをはじめ、花と建築物のコラボレートとなる個展“歴史的建築物に挑む”シリーズを毎年開催している。海外ではフランス・パリ「プティ・パレ宮殿」やヴァンセンヌの森「パリ花公園」、タイ王国・バンコク「サイアムパラゴン」、ブルガリア・ソフィア「日勃国交55周年記念」などで個展やデモンストレーションをするなど、国内はもとより海外でも目覚ましい活動を展開している。その他、地域活性化支援のボランティア活動の一環として、少子化問題や地域活性を促す社会活動などにも積極的に取り組んでいる。
現在、TBS系の「中居正広の金曜日のスマたちへ」にレギュラー出演中、NHK「あさイチ」にゲストコメンテーターとしても出演、MBS「プレバト!!」での大人気企画、いけばなの才能査定ランキングの専門家ゲストとして出演するなど、テレビ・雑誌・新聞など幅広い分野で活躍中。
・さて、感想を述べておきたい。まず目黒雅叙園の正面玄関を入ると、假屋崎さんの多彩な交友関係を窺わせるお祝いの花々が並んでいる。そのすぐ右横には、黄色と赤い木を縦横斜めに巡らせた前面に、惜しげ無く使われた白と紫色の胡蝶蘭が配された假屋崎さんの作品が出迎えてくれる。今回のテーマは琳派400年にちなんで『和美共感』だという。豊かな装飾性とデザイン性を特徴とする琳派の様式は、日本が世界に誇る至高の美として知られる。400年を経た現代においても、その輝きは色褪せることはない。本展では室町時代から江戸時代まで、それぞれの時代をイメージした琳派様式の作品約80点を創作。百段階段に連なる絢爛豪華な7部屋に展示されている。
エレベーター経由で、本日のメインである百段階段に向かう。日本伝統の美の空間で、現代日本の花卉生産者が生み出した花々を駆使して假屋崎省吾が織りなす、美の世界をご堪能できるというのが売り文句だがその言葉に偽りはなかった。階段の昇り降りが僕には苦痛なので、全部は見られなかったものの、実に各部屋の個性に合わせて、花々が活けられていることが分かった。それに前々から思っていたのだが、假屋崎さんの作品の空間処理のうまさに驚かされた。何事にも「間」が大事だと言われる。落語における語りの間であり、白地を生かした書道の書もそうだが、彼の作品にはそれが感じられる。この間があることで、作品に余裕が生まれ、美の世界は限りなく広がりを見せている気がするのだ。
「百段階段」の花、その3。
・それにしても、日本各地から提供された花々の、素晴らしいことといったらない。各地のJAなどが生産者だが、ダリア一つ取ってみても、この種類の多彩さ、その豪華さは他に類を見ない。直径20センチもの大きさのダリアなど、これまで僕は見たこともなかった。またこの時期なのに、牡丹の花が活けられていた。普通、牡丹の花は、4月から5月にかけて咲くはず。その牡丹の花が今の時期に見られるとは驚きだ。こうした花卉生産者と假屋崎さんとのコラボあってこそ、この展覧会が続いた理由と思われる。例年、その大胆な使い方には感心させられていた、柿の実がついたままの大振りの柿枝が今回も使われていた。大胆にかつ細心な作品に仕上がっていた。
また、新しい現代感覚のスプレイ菊、鶏頭、花梨、和洋のバラ、トルコギキョウ、シンビジウム、グロリオーサ、南瓜、蘭など、使用した花卉は実に多彩で豪華そのもの。花器関係もご本人のプロデュースで、鉄器、ガラス器、陶器などと作品に合わせて使い分けている。僕は生け花には門外漢だが、いいものはいいとだけは言える。今回、この假屋崎省吾の世界展を見て勇気づけられた気がする。美の世界は世界共通である。假屋崎さんの作品は世界でも高評価されている。そして陰で支える日本各地で花卉の生産に従事している人たちがいる。この素晴らしい花々もまた、世界に通用するものだと僕は信じている。日本のアニメ技術が世界を席巻しているが、この生け花も世界に誇れる日本の伝統文化だと思う。どんどん発信していって、日本に活力をもたらして欲しい。そんな夢を見させてもらった、今回の個展であった。
過去の会場写真を少しご披露しておこう。
假屋崎省吾さん、編集担当の秋篠貴子、僕。撮影:臼井雅観(2009年11月)
假屋崎省吾さん、出版部長の臼井雅観、僕。撮影:秋篠貴子(2006年11月)
2015.09.24西江雅之さん
2015.08.27西山孝司さん、高崎俊夫さん、山崎方夫・みどりご夫妻、田島隆夫さん
2015.08.03東京国際ブックフェア
2015.06.24菅原匠さん、岩波唯心さんの個展
●菅原匠さんの「藍染と焼き物展」
個展会場で自身制作した藍染暖簾の前に立つ菅原匠さん。
・5月27日(水)から6月1日(月)まで、松屋銀座8階で菅原匠さんの「藍染と焼き物展」が開催された。僕は菅原さんの藍染も焼き物も大好きなので、年一回いつもこの時期に行われるこの個展を楽しみにしている。実は清流出版の応接室にも「西行」と題する洒落た藍染暖簾が掛かっている。社内に潤いをというつもりで購入したものだ。題を「山頭火」としてもよさそうな、山道を行く老僧の後ろ姿である。実は、個展を楽しみにしている理由がもう一つある。菅原さんのファンには美人のお嬢さんが多いからだ。だから会場がいつも華やいでいる。会場で知り合った美人とのツーショット写真も何点かある。
藍染用の藍甕を立て(それも9個もの藍甕を用意している)、焼き物を焼く登り窯も敷地内に持っている。今回展示されていた焼き物は、厳冬期にご夫妻が寝ずの番をして窯を焚き、焼き上げたものだ。火を絶やさず、不眠不休で薪をくべ続けるのは大変な重労働であるが、ご夫妻は自分たちだけでこれまでも焼き上げてきた。最近は心境の変化か、器だけでなく仏像も焼くようになっている。京都の著名なお寺から依頼され、仏像の大作を納めたとも聞く。焼き物の対象が広がりつつあるのは、今後も楽しみだ。
壺に活けた山法師の花は大島の自宅からの切り花。
・実は菅原さんは欲張りである。というより、神様はどうしてこうも一人の人間に多くの才能をお与えになるのか、とも思うのだ。菅原さんの創作欲は陶芸と藍染に留まらない。個展会場で展示されたらいいと思うのだが、書画も楽しんでおられる。この書画も余技の域を優に超えている。いいお手本が身近にあったことも、幸いしたのかもしれない。田島隆夫さんは菅原さんの大島の自宅によく遊びに来た。田島さんは本来の目的である、持ち込んだ糸を藍甕で染めた後は、日がな一日、画を描いて過ごしたらしい。菅原さんと三原山方面などにぶらぶらとスケッチに出かけることもあった。
菅原宅での画題は、季節の野菜、草花、果物、それに新鮮な魚介類などもよく選ばれた。田島さんは、竹筆、葛筆など変わった筆ももち、古墨にも詳しかった。だが和紙は薄茶色がかった安紙を好んだ。弊社から刊行された『田島隆夫の日々帖』(前期、中期、後期の全3冊)を始め、ほとんどの傑作はその紙から生まれている。田島さんが亡くなって、使い残しの大量の和紙は菅原さんに遺された。菅原さんは実際に手許に来た紙を見て、びっくりしたらしい。ただの安紙と思っていた和紙は、厳しい目で選び抜かれた味わい深い和紙だったのだ。高価な和紙もたくさん含まれていた。かくして菅原さんは、書画の楽しみも引き継がれたのである。
・菅原さんの師・水原徳言翁はよくこんなことを言っていた。「画は書の如く、書は画の如くあれ」と……。「良寛は画を描くように書を、池大雅は書のように画を描いたではないか」と具体例を引いて説明してくれた。だが、これは口で言うほど簡単なことではない。菅原さんはその真理を自家薬籠中の物にしつつある。今回の個展での藍染作品は、省筆とデフォルメが生きている。正に画だが書のように描かれている。飄逸さの中にも品性が感じられた。菅原さんの創作が、一段と高みに登られたと感じたのは、一人私だけではあるまい。
陶芸の仏像作品、藍染の飄逸な魅力。大胆な省筆とデフォルメ。菅原さんは、独自の世界を紡ぎ出しつつある。月刊『清流』に菅原さんの一年間の活動ぶりを連載させていただいたことがある。連載を読めば分かることだが、その創作活動を支える奥様の麗子夫人の存在も極めて大きい。地元食材を中心に、素材の魅力を引き出す料理の達人である。だからこそ菅原さんも、旺盛な創作意欲も湧いてくるのだと思う。夫に寄り添い、よき理解者であり、戦友ともいえそうな格好のパートナーである。今後、どんな作品が生み出されてくるのか、また来年の個展が楽しみである。
菅原さんの焼き物ファンも結構多い。
●岩波唯心さんの「細々図譜」展
不自由な左手で本にサインをしている唯心さん。
・もう一人、個展を観に行って感動した人物がいる。それは岩波唯心さんという人物だ。岩波唯心さんの個展名は「細々図譜」と銘打たれたもの。5月4日(月)から5月10日(日)までの1週間にわたって、京橋2-5-18京橋創生館1階「孔雀画廊」で開催された。岩波さんは本名・岩波茂雄(岩波書店の創始者と同姓同名。出身地も長野県諏訪市だ)。唯心さんは、身長185センチ位で大きいが、その作品は細々図譜とはよく名づけたものである。30センチ程度の小さめの画だが、超がつく細密画である。山根、蟹、糞の化石、烏賊、貝、茸など、珍しい画題では隕石もあった。いずれにしろ、画題は様々だが、その細密ぶりが半端ではない。不自由な左手で描いたとは到底思えない。筆先がよく見えないのをカバーするため、虫眼鏡で拡大しながら描き進めたという。そこに漢詩のような自作の讃が添えられている。実に見事な作品だった。
唯心さんの個展は、実に6年と数ヶ月ぶりだというが、この個展に出したものは、すべてが新たに描き起こした新作ばかり。その努力と精進ぶりは察するに余りある。この間30点強の新作を描き上げたのである。素晴らしいとしかいいようがない。会場には唯心さんの古くからのファンも見えていた。訊けば1994年に開催された立川・高島屋、2007年の帝国ホテル内の絵画堂で行われた個展からのファンもいるという。実際、80歳を優に超えたお婆さんが、楽しげに唯心さんと歓談されていた。そして次の個展がある時は、またご案内をよろしくといって帰って行かれた。僕はそれを実際に目の前で見ている。
中学時代、唯心さんは美術部に所属していたが、その時の先輩に当たるという女性3人が丁度会場で行き合わせた。一つ先輩という女性3人組を前に、流石に唯心さん旗色が悪そうだったが、3人から聞いた美術部時代のエピソードが面白かった。唯心さんの画の技量が、ほかの美術部員から飛び抜けていたため、一緒にすることができず、唯心さんの特別コーナーが作られていたらしい。
以前、高尾山に登った時、見かけた山根をスケッチした。それがこんな作品になった。まるで生きているようだ。
・岩波唯心さんには、清流出版から『縁あって生かされて 岩波唯心書画集』という書画集を出させてもらった。この本は2008年12月に刊行されている。実は僕が半身不随になったように、唯心さんも脳出血で倒れ、半身不随の身なのだ。それも右半身不随でこれも僕と同じである。利き腕の自由を失い、目も網膜色素変性症で異常をきたしていながら、画を描き続けているのだ。僕は同病相哀れむではないが、唯心さんから初めて作品を見せてもらった時、心からこれは本にすべきだと思った。ハンディがありながら、それを乗り越えてこれだけの画を描く。素晴らしいと、僕は刊行を即決していた。それだけ画に凄みがあった。
もともと唯心さんは仏教画家を目指していた。そこに至るには、悲惨な実体験があった。小学校高学年で唯心さんは、問題教師の生贄とされ、小学校を卒業するまで殴る蹴る、罵詈雑言を浴びるという徹底したいじめを受ける。憂さ晴らしの標的にされたのだった。中学生になっていじめからは解放されたものの、受験戦争に翻弄されることに嫌気がさし、生きる意欲を失っていた。そんな時に、図書館で見つけた画集『国宝 地獄草紙』に衝撃を受ける。その絵巻に繰り広げられる陰惨な場面に、子供ながらに社会への厭世観と疑念を固持する自分の姿を投影していたという。
その本を借り出して、毎日毎日模写をしたという。念のため、再度書くが中学生の時の話である。どれほど精神的に追いつめられていたかが、わかるだろう。ある日、模写の途中で、夢か現か光輝のみの姿で菩薩が目の前に現れたという。正気に返った瞬間から、唯心さんは仏画に傾倒するようになった。徹夜で没頭していたので、極度の過労と睡眠不足で肉体が疲弊し、無意識のうちに救いを渇望し、その果てに菩薩が現出したものらしい。
・以後、14歳で仏画の独習を開始し、仏画師になろうと決意する。文化学院高等課程美術科に入学したものの、家庭の事情もあって2ヶ月で中途退学を余儀なくされる。そして十六歳で家出をし、西村公朝の弟子だという仏画師について修業を開始し6年が経ち、少しずつ小さな注文を受けるようになってきた時、難病の網膜色素変性症に罹患していることが判明する。この難病は、人によって症状が違う。視野狭窄や夜盲、視力低下などが起こる。唯心さんも色の見え方が微妙に狂い始めて、中間色が分かりにくくなった。夜間、電灯の下での作業が出来なくなったというのだ。これでは仏画は描けない。
仏画師を目指してきて、ようやくプロとして仕事も入り、燭光が見え始めたと思ったら、眼疾患でその道を断念せざるをえなくなる。その悔しさはいかばかりだっただろうか。二十二歳の終わりからは、やむを得ず、唯心さんは墨画と書を専門として活動することになる。唯心さんを襲った病魔は、これだけでは退散しない。さらに過酷な人生に引きずり込むことになる。
三十一歳になった時、ひどい頭痛に悩まされるようになり、病院で検査を受けるが、何も病名らしい病名は出てこない。薬を処方されたものの、一向に改善せず悪化していった。病院をたらい回しにされているうち、最後の病院の待合室で倒れる。生死の境をさまようような脳出血が襲ったのだ。左脳の半分以上を失い、冥途に片足突っ込んだところで一命を取り留めたのである。右半身不随となるということは、利き腕だった右腕が使えなくなったということ。画家が利き腕を失って再起するのが、どれほど大変なことかは想像するに余りある。
この超細密画、感じ取っていただけるだろうか。
・今回、見させてもらって、唯心さんはハンディをものとせず、進化していると感じた。訊けば唯心さんは病のデパートである。4年前には、異形狭心症という診断が下され、微細血管不全にあるという。唯心さんが自分で調べてみると、異形狭心症は死亡率が30パーセントを超えるという難病であった。しかし、唯心さんは決して下を向かない。本人はこう言い切る。「与えられたこの命を抱いて、いまわの際まで潤筆、書画を書き続けることこそ活路と心に期している」と……。
この腹の座り方は見事である。あと1週間後に果てるのも、60年生き永らえるのも、もう何も思い残すことはない、と心に刻んだ。1日1日をとにかく大切に生ききると心に決めたのである。最後に個展名の「細々図譜」について訊いてみた。細々とは「ささやかな様」という意味だという。ささやかに生きるもよし、だがそこには煌く大きな命がある。今回の個展用に製作した作品は32点。個展会場の都合上、25点の出品となったという。今後の唯心さんから、目を離すことはではない。願わくば、こうした最近の作品を網羅した作品集を出し、人々に岩波唯心という希代の天才画家を知ってもらいたい。それを切に願っている。
烏賊の質感が見事に表現されている。
2015.05.28山田真美さん
2015.04.27千代浦昌道さん
2015.03.23吉田類さん、坂崎重盛さん
2015.02.20杉田明維子さん
個展会場での杉田明維子さん。(撮影:臼井雅観)
作品集の表紙。地に無限に続く麻の葉をデザインしている。
僕に絵入りのサインをしてくれた。
・いささか旧聞に属する話で恐縮だが、昨年10月12日から20日まで9日間、杉田明維子(すぎた・あいこ)さんの個展が銀座の画廊で行われた。僕は17日の金曜日、明維子さんの担当編集者だった臼井雅観君を伴って個展会場に出かけた。「ギャラリー枝香庵(えこうあん)」という会場で、ビルの最上階の8階にあり、併設するテラスも使えるという抜群のロケーション。杉田明維子さんとは、弊社から刊行させて頂いた『うまれるってうれしいな』という絵本の絵をお願いしたのがご縁である。この絵本の物語は、詩人の堤江実さんが紡いだもの。明維子さんの絵は、とても温かい。だからファンも多い。実際、この『うまれるってうれしいな』の原画展は、銀座を皮切りにして、能登、金沢、神戸、静岡と各地で巡回展示が行われ、好評だったと聞く。
・杉田明維子さんの家族は、夫君の作宮隆氏、娘の杏奈さんと芸術家一家である。家族での三人展も何回か開催している。作宮隆氏は、1954年、石川県金沢市の生まれ。1978年に金沢美術工芸大学商業デザイン科を卒業している。卒業後、日本デザインセンターや第一企画など一流広告会社でデザインやテレビCFを制作しつつ、造形作家として現在活躍中だ。2004年からは「花炭」素材を使った作品を発表して話題を集めている。また、娘の杏奈さんは、「生きること」をテーマに、版木彫りなどをされており、これもなかなか面白い作風で注目されている。実は僕の中学の同級生に井上リラさんという画家がいるのだが、この井上リラさんと明維子さんが親しく、一緒に展覧会などをしている。世間は本当に狭い。不思議な縁を感じている。
・ここで井上リラさんについて少々触れておきたい。リラさんは、僕が豊島区立第十中学校2年2組のとき、本欄の三ヶ月前に登場された担任の小寺禮子先生に教わったわけだが、リラさんも同じクラスメイトだった。彼女はあまり目立つことのない、おとなしい生徒と記憶している。リラさんは画家になったわけだが、僕は後年、彼女の両親ともに画家だったことを知る。ちょうど明維子さんの家族が芸術家一家だったように……。井上リラさんの父君は、井上長三郎という有名な画家であった。かつて、かの井上長三郎をよく知るわが親しき友人、野見山暁治画伯から話を聞いたことがある。そこから導き出した僕なりの結論だが、“池袋モンパルナス”がリラさんの職業選択に多大な影響を与えたのではないかと思った。
・野見山さんは、池袋モンパルナスについて、“歯ぎしりのユートピア”だったとおっしゃっている。難しい顔で黙々と作品制作に没頭する者。果てしなく芸術論を闘わせる理論家肌。雇ったモデルを交えてドンチャン騒ぎをする画家。池袋モンパルナスには、自己責任で自由人の自覚を基に活動する、いろんな芸術家たちが蝟集していた。貧しさや将来の不安はあったにしても、みんなそれぞれの夢に生きていた。野見山さんの歯ぎしりのユートピアとは、実に言い得て妙だ。
豊島区西池袋を中心にして、椎名町、千早町、長崎、南長崎、要町、板橋区向原など、この周辺に多くの自由人たちが住みついてアトリエ村の態をなしていた。画家、音楽家、詩人など多くの、延べ千人近い芸術家たちが暮らしていた。池袋モンパルナスには、小熊秀雄、熊谷守一、靉光(あいみつ)、麻生三郎、松本竣介、長沢節、古沢岩美、北川民次、福沢一郎、丸木位里、丸木俊、寺田政明、林 武……等々、錚々たる人物が集まっていた。もちろん井上長三郎さんも野見山暁治さんも“池袋モンパルナス”の仲間だった。
・井上長三郎さんは、1906年に生まれ、1995年に逝去している。自由美術協会会員で、太平洋画会研究所に学んでいる。また、リラさんの母堂である井上照子さんは、自由美術協会会員、女流画家協会創立会員だった。1911年の生まれで、1995年に没(夫の没年と同じ)している。井上長三郎さんは、1953年から1956年にかけて、日本美術会の委員長を務めた。1972年、第25回日本アンデパンダン展の実行委員長を務めた。時勢を風刺した作品を数多く描き、風刺画家として知られている。暖色調の色彩と丸みのある曲線によって構成された作風からは、ユーモアや気品が感じられる。1938年に照子夫人と渡欧、2年半近くフランスやイタリアに滞在した。リラさんは、1940年の生まれなので、日本に戻った後に生まれたと推測する。この辺のことをご本人にもう少し詳しく聞いてみたいと思ったが、ご本人がなかなかつかまらない。それに生まれた頃、それも戦争直前のことを、あれこれ言っても仕方ないと諦めた。
・井上リラさんは、本欄でご紹介したことがある。父君の『井上長三郎展―生誕100年記念―』が、銀座の「ギャラリー・オリーブ・アイ GALLARY olive eye」で開催されており、僕はその招待状をいただいた。9年前、2006年10月のことである。そのとき、じっくり井上長三郎展を鑑賞させていただいた。彼の絵は素晴らしいと思った。日本人には稀な、諧謔精神に満ちた風刺魂を感じたのである。その前年の2005年、井上リラさんが「池袋モンパルナスの集い」のトーク番組で講師をされたことがある。中学時代には、寡黙な印象が強かったリラさんだが、堂々と立派に務めを果たされた。僕は改めて目を見開かされる思いがした。
昨年、4月21日から5月17日まで、『井上長三郎展』が、八重洲の日本画廊で開催された。その直後に、同じ日本画廊で、『井上照子・リラ展』が、5月19日から6月6日まで開催された。戦後美術の大家だった井上長三郎夫人、照子さんの作品に実際に目にする機会はそうはない。加えて、リラさんも協賛して、「母と娘」が展覧会を開催するとは、僕は他人事ながら賛辞を惜しまない。素晴らしい家族の足跡を拝見できたと感動一入であった。
・話を元に戻そう。杉田明維子さんは、あの彫刻家・佐藤忠良さん(娘さんは女優の佐藤オリヱ)に可愛がられていた方だ。忠良さんは、1990年の伊勢丹での個展の際、『アイ子さんの絵』と題して、こんなメッセージを寄せている。
――ある雑誌の表紙絵がよくて、飽かず見入ったことがある。十年ほど前のことであった。そのときはじめて杉田明維子という人であることを知った。(アイ子と呼ぶのを知ったのはそれからずっと後になる)以来、杉田さんの個展やグループ展はいつもみせてもらっているが、会場を出てその都度思わせられることは、この人には、当て込み的な卑しさがちっともないということである。私も一人のもの作りとして、この媚びからの脱出の切なさを人一倍知っているから一層そのことを強く感じさせられるのかもしれない――
この文章は、杉田明維子という人物像、そして絵の特長を余すことなく伝えている。あの謹厳実直な佐藤忠良さんが、これほど手放しで褒めるというのも珍しいことではないだろうか。
・今回、明維子さんはこの個展に合わせて、作品集を刊行されている。それを見ると、これまでの素晴らしい画業が俯瞰できる。若かりし頃に、シルクロードにスケッチ旅行をしたことをこの作品集で知った。詩人・堤江実さんは明維子さんの絵をこう表現している。
――絵は魂の光です。だから、頭で描いたものは、どんなに技法が優れていても心に光は届かない。明維子さんの絵は光そのものです。その折々、モチーフも変わり、色が変化していても、いつも魂が素晴らしい光を放って、その絵を見るすべての人を幸せでいっぱいにします。誰かのために、みんなの幸せのために、きっと祈りながら絵を描いているのでしょう。明維子さんの絵は、まるで観音様のようだといつも思います――
弊社発行の『うまれるってうれしいな』(文・堤江実、絵・杉田明維子)
2015.01.20キューバの話――出版できなかった企画二つ
宮川安芸良(あきら)さんの大型本『聖地 キューバの記憶』の本文の中から。左から二人目が、著者・宮川さん。ここは文豪ヘミングウェイがこよなく愛したレストラン。壁面にいろいろの文豪の姿がある。この日、演奏していた3兄弟のミュージシャンたちが美しい音楽を聴かせてくれた。
『聖地 キューバの記憶』(宮川安芸良著、左:面表紙、右:裏表紙)
・アメリカとキューバの間で国交が回復する可能性が出てきた。バラク・オバマ大統領は昨年12月17日、1961年以来、半世紀以上も外交関係が断絶しているキューバと、国交正常化に向けた交渉を始めると発表した。2015年に国交が回復すれば、54年ぶりとなる。両国は相互に大使館を設置し、貿易と旅行の規制を緩和する方針。オバマ氏は、「アメリカの外交政策で賞味期限が切れたものがあったとすれば、それは対キューバ政策だ」、「我々のほとんどが生まれる前にとられた、かたくなな政策は、アメリカ人だけでなくキューバ人にとっても役に立つものではない。新たな序章の始まりだ」などと述べ、政策を180度転換させる考えを示している。近年にない明るい話題である。うがった見方をすれば、支持率が芳しくないオバマに変わり、ヒラリー・クリントン大統領実現を目指す民主党の知恵者が考えた策だろうとの話も出ている。オバマ氏の声明を受け、キューバ国内でも歓迎ムードが広がっている。思い起こせば、あのキューバ危機(1962年10月)があった。世界中が一触即発の危機に立たされたことがあったのだ。米ケネディ大統領はこの時点では第三次世界大戦、それも世界が滅亡に至る核戦争という最悪のシナリオを頭に描いていたに違いない。ぎりぎりのところで、ソビエトのニキータ・フルシチョフ首相の判断で第三次世界大戦は回避されたことになる。
・2012年6月刊行で『聖地 キューバの記憶 Mi Cuba Querido』という写真集が出ている。発行はジャン デザイン カンパニー(JAN DESIGN CO.) というデザイン会社。著者も同社社長の宮川安芸良(あきら)さんだ。実はこの写真集の刊行を清流出版で後押ししたことがある。そもそも宮川さんと知り合ったきっかけは、弊社で刊行した画家・桂ゆきの著になるエッセイ集『余白を生きる――甦る女流天才画家・桂ゆき』(2005年、396ページ、定価3780円)を二十数冊購入してくれたことに始まる。訊いてみると桂ゆきとは親しい友人で、共に世界を旅した仲間だったという。この宮川さんが弊社を訪ねてきたのは、10年ほども前になろうか。キューバの写真集を出したいとのご希望だった。ラフレイアウトとそれまで撮り溜めた写真を多数持参されていた。僕は当時の出版部長・臼井雅観君とそれらを見て、いま一つ物足りなさを感じた。全体的に観光地紹介のような写真が多く、庶民の生活感が伝わってこなかったからだ。そこで僕は、もう少し、庶民の生活感が感じられる写真も入れて欲しいと提言したのだった。
・文豪アーネスト・ミラー・ヘミングウェイは、1940年から60年頃にかけてキューバの首都ハバナからほど近い丘に住んでいた。キューバの一体何が、世界的な文豪をしてそれほどまでに惹き付けられたのか。その秘密を知りたかった。また、僕は葉巻が大好きで、よく嗜んでいた。世界に冠たるキューバ葉巻の生産についても興味があったので、そんな葉巻の生産についても知りたかった。また、なぜ一人当たりの国民所得はあんなに低いのに庶民は明るくいられるのか。一般庶民の生活ぶりはどうなっているのか。そんな写真も見たかったのである。もう一つ付け加えると、僕はタンゴ、ルンバ、マンボ、サンバなどラテン系の音楽も好きでよく聴いていた。キューバの音楽も大好きだった。素晴らしく豊かな感性と高度な演奏技術は、世界的に話題を呼んだドキュメンタリー映画『ブエナビスタ ソシアルクラブ』からも伺える。ちょっと脱線になるが、妻の故郷である信州松本市に「ホテル ブエナビスタ」がある。何回も泊まっているので、懐かしい。そのブエナビスタに纏わる音楽、ルンバ、マンボ、チャチャチャ、そしてサルサなどリズムの宝庫であるキューバ。そんなリズムがどう刻まれ、自然に踊る人々も見てみたかった。宮川氏はもう一度、全体構成を考えてみたいと帰って行った。僕の提案を聞き入れてくれたのか、結局、その後も何回かキューバに渡ったようだ。都合10年ほどで11回も渡航し、キューバ各地の人々と交流して写真を撮り続けた。その熱い思いがこの本に集約されていた。フィデル・カストロと中国国家主席・江沢民、ゲバラの肖像がある革命広場、メーデー風景など政治的写真から、僕の提案した庶民の生活感が伝わる写真も多数掲載されていた。ロバのタクシー、のどかな田園地帯、キューバ最高級の葉巻コイーバ(Cohiba)畑やその葉っぱの乾燥風景、遊ぶ子供たち、母子の買い物姿など実に生活感に溢れた写真も僕の目を引いた。
・ここで宮川安芸良さんのプロフィールをご紹介しておこう。1938年、横浜生まれ。3代続くハマッ子である。 福田蘭童に師事した。蘭童は安芸良さんの名付け親でもある。1970年、福田蘭童を団長に、前述の桂ゆき、直木賞作家・渡辺喜恵子等の旅の仲間に飛び込み、中南米を2ヵ月近く旅する。1972年、福田蘭童のお供でフランス、スペイン、ポルトガル、そしてマグレブ地域(現在のモロッコ、アルジェリア、チュニジア三国)から、更にはイタリア、ギリシャ、エジプト、タイ、香港と旅する。1973年、二人の旅の話『サオをかついで世界漫遊』(福田蘭童著)が刊行される。その頃より福田蘭童、檀一雄、開高健といった釣仲間たちで結成された「雑魚(ざこ)クラブ」に加わり、日本各地を旅する。ちなみに同クラブ初代会長は、漫画「のんきなトウサン」の作者で、4コマ漫画の創始者で知られる麻生豊で、幹事長は立野信之、世話役が福田蘭童と女性群代表として渡辺喜恵子、女性釣り人には桂ゆきや宮城まり子、室生朝子などがおり多士済済のメンバーだった。1977年、日本で代表的な日曜画家グループ「竹林会」に入会。 石川達三、草野心平、石垣綾子、戸川幸夫、清水崑、那須良輔等の仲間入りをし、スケッチ旅行で各地を遊ぶ。1992年3月 ポルトガルのサンタクルスに檀一雄の文学碑を仲間三人で建立する。とまあ、こう書いてくると、宮川氏がかなり趣味人であることがうかがい知れよう。
この宮川さんには臼井君共々お世話になった。写真集の内容構成について少しばかりしたアドバイスに恩義を感じてくれ、福田蘭童の子息にして画家青木繁の孫、1994年に亡くなった石橋エータローが渋谷で経営していた酒と肴の店「三漁洞」でご馳走になったこともある。帰り道、世田谷方面で僕と同方向なのでタクシーに同乗、宮川さんのお宅までお送りした。その際、奥さんに紹介されたが、素晴らしい麗人である。案外、この美人の奥さんを見せたかったのかも知れない。
・キューバについてはもう一人忘れられない人がいる。それが田中英子さんである。彼女は元キューバ大使・田中三郎氏のお嬢さん。英子さんは、父君の大使在任中の1996年から2000年までキューバに滞在した。日本に帰国してからは、都内でキューバ独特のリズム、サルサを中心としたダンス教室を開いて教えている。その英子さんが弊社を訪ねてきて、写真集の企画提案をされた。写真はキューバという国そのものを様々な角度から活写しており、一種の「英子ワールド」を醸し出していた。特筆すべきは、自身「トロピカーナ」のダンサーだったこともあり、普通の人は絶対に入れない、見ることができない世界を撮った写真の数々だった。名門ダンスカンパニーである「トロピカーナ」の舞台上と舞台裏の写真は圧巻である。こんな写真の撮影ができたのは、日本人でも彼女だけではないだろうか。ダンサー達の鍛え上げられた肢体、汗に輝く褐色の肌、華やかな髪飾り、飾り立てられた冠、光り輝く装身具、ダイナミックな踊り。かと思えば、対照的に質素で簡素な舞台裏も見せてくれる。開演前のダンサー達の張りつめた表情、閉演後の気だるい充足感漂う弛緩した顔、ゴミゴミした舞台裏の空間。陽気なダンサー達の悲喜こもごもの一瞬の陰影を見事に定着していた。添えられた文章も大変興味深かった。ダンサー達と交わした生の会話などが具体的に書かれ、リアルにダンサーという特殊な世界を楽しむ事ができた。弊社から出したいとの思いから、臼井君に指示し、英子さんとは何回か打ち合わせを重ねたが、最終的な刊行には至らなかった。父君田中三郎氏はフィデル・カストロに大使として滞在期間、実に48回会ったという伝説の人だ。その著書も『フィデル・カストロ――世界の無限の悲惨を背負う人』(635ページの大著、2005年)、『フィデル・カストロの「思索」――人類の経験を背負う人』(2011年)等を刊行した同時代社から、2010年7月に『CUBA――A PHOTO DIARY』として刊行された。結果的に素晴らしい写真集が世に出た。英子さんの衒いのない素直な文と写真が相まって、希少なキューバの魅力を伝えている。彼女は、ロンドン生まれ、ルーマニア、南アフリカで幼少を過ごし、ウィーンのインターナショナル高校で卒業後、上智大学、カリフォルニア大学バークレー校留学を経て、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを卒業、国際関係学修士号を取得というエリートだが、世界的に有名なショーに魅せられ「トロピカーナ」の舞台に立ったユニークな女性として僕は敬愛している。僕としては出版できなくて残念な思いをしたが、彼女の本『CUBA――A PHOTO DIARY』を観てからは、結果オーライと思いたい。田中英子さんの今後のより一層のご活躍を願っている。
田中英子さん(サルサインストラクター)
『CUBA――A PHOTO DIARY』
2014.12.18清川 妙先生
2014.11.14小寺禮子さん、山口仲美さん
櫻井友紀さんと僕。新世界飯店にて。(撮影:臼井雅観)
櫻井友紀さんと斉藤勝義さんと僕。
・櫻井友紀さんが来社された。実は臼井雅観君から櫻井さんの近況を聞いて、会いたくなったのだ。臼井君は柏在住で、櫻井さんが流山。住まいも近く、交流もあったようだ。そこで久し振り、一緒にお昼ご飯でもとなった。櫻井さんとは、僕が元気だった頃に会って以来、しばらく会っていなかった。会うなり櫻井さんが言った言葉は、僕の印象が随分変わったということ。太って、脂ぎっていたあの頃の僕と、現在とを見比べれば、それは当然、違っているはずだ。随分、顔が細くなったらしい。自分では意識していないが、多分そうなのだろう。酒好きの僕だが、櫻井さんも呑兵衛らしいので相性はピッタリ。昼食時に焼酎を一杯飲んで、また会社に戻ってから、美味しいワインで乾杯することになった。外国版権担当顧問の斉藤勝義さん、臼井雅観君、社長の藤木健太郎君も加わった。旧交を温めると共に、談論風発する楽しい場となった。
・櫻井さんは弊社から『ルンルン海外透析旅行――透析患者だって旅に出る』(2002年)を刊行させてもらった著者である。今年、最愛のご主人を亡くされ、失意のどん底にあったが、持ち前の前向き精神で立ち直りつつある。絵筆をとって好きな絵も描き始めている。弊社で刊行した『ルンルン海外透析旅行――透析患者だって旅に出る』は、透析患者であったご主人と海外旅行を楽しんだ、その体験談である。夫婦でアメリカ旅行、ヨーロッパ旅行と世界を旅してきたが、透析の病院を予約しての旅だから大変である。ハプニングも続出する。海外の病院とは、電話とファックスで予約を取ってあっても、先方の手違いで予約がなされていないこともあった。1日置きの透析ができなければ、死と直結してしまう。そんなハプニングも持ち前の行動力で、切り抜けてきた。実際、何度も死を覚悟した、そんな場面もあったという。腹の座り方が、このご夫婦の場合凄かった。特に櫻井さんは、体は小柄だが肝っ玉は大きい。
・先日、櫻井さんは、つくば市にある櫻井家の菩提寺「普門寺」住職から依頼され、80人ほどを前に講演をしてきたという。テーマは『放浪の自分史とブラジル』だったそうだ。そう、櫻井さんはブラジルを放浪した体験がある。28歳の時である。お金をセーブするために、船旅で地球を半周してブラジルに辿り着き、実に2年半もの長きに亘ってブラジル放浪をしたのである。20代、女性の一人旅である。男でも躊躇しそうな広大なブラジルの地、ある意味、危険と隣り合わせの未知の旅である。どう生きるか、という自分探しの旅でもあったというが、素晴らしい行動力である。ブラジルから帰った櫻井さんは、その後イギリスに渡って、ロンドンで1年ほど過ごしている。ちなみに櫻井さんの学歴を尋ねると、名門の都立日比谷高校出である。同級生には芥川賞作家となった古井由吉がいる。当時は日比谷高校がトップで、今をときめく私立開成高校は滑り止めで、一段ランクが低い時代であった。
・櫻井さんは今年、ブラジルでお世話になった方々への恩返しも兼ね、小説仕立ての原稿を書き上げた。依頼されて臼井君もこの小説を読んで、全体構成についてアドバイスをしたという。この作品を締切ギリギリで『小説すばる』新人賞に応募したが、惜しくも受賞は逃した。しかし、ブラジル放浪の旅で、沢山の日本人、日系人に会い、勝ち組、負け組の諍いなどを取材して、書きたいテーマには事欠かない。単行本化を目指して、新たに書き進めたいという。また、ニューギニア日本兵の兵站史も編集担当して刊行されたことがある櫻井さん、父君が送られた戦場でもあり、この悲惨な戦禍の顛末を書き残したいという。5000キロもの彼方のニューギニアがなぜ戦場になったのか、いろいろ疑問が湧いてきて、自分なりに調べて書き加えたいという。戦死者から託された熱い思い、また、日記など多くの資料が残されている。兵站史の全体構成を見直し、新たな事実を書きくわえて、後世に残したいという。この旺盛な執筆欲、大いに楽しみである。
・それにしても今回、久し振りで櫻井さんと会って、共通の知り合いがいて話題が繋がり、お互い世間の狭さを痛感させられた。例えば、菅原佳子さんというベテランライターに創刊直後から手伝って頂いていたが、この菅原さんと櫻井さんがごく親しい間柄だった。二人揃って、清流出版へ来社されたこともある。また、かつて古満君が担当したねじめ正一さんの新刊『老後は夫婦の壁のぼり』(2006年)のサイン会が吉祥寺の弘栄堂書店で行なわれた。その際、菅原さんが長い行列に並んでくださった。有難いことだった。かつて藤木君は、菅原さんと一緒に取材することが多く、そういう時、テーマとか取材先とかをめぐり論争し、反発しながらもより良い仕事を目指したと言う。藤木君は菅原さんをいわば戦友として懐かしがっていた。
・また、僕の学生時代からの知人に青木画廊の青木外司さんがいるが、櫻井さんもこの青木さんと親しいという。青木さん(89歳)も櫻井さん(77歳)も丑年生まれ。丑年生まれの集まり「ウッシッシの会」というのがあり、主な会員は画商仲間らしいが、櫻井さんはそこにオープン参加しているという。絵を見てもらいによく行っているらしい。早速、清流出版の応接室で、櫻井さんはご自分の携帯電話を駆使しながら、青木さんへ連絡された。「今、どこにいると思いますか?」と言った櫻井さんが「加登屋さんと清流出版にいま―す」。この電光石火の早業にビックリした。この積極的な行動が櫻井さんの取り柄だ。おかげで僕も青木さんと久しぶりにお話しできた。
・神田西小学校というのが櫻井さんの母校。すでに廃校になり、現在は官僚用のマンションになっているらしいが、神田神保町界隈は箱庭のようなもの。実際、昼食を一緒に摂ろうと中華料理店まで歩いたのだが、突然、神田神保町の陽明堂武道具店に入って行った。経営者の種井さんとは小学校時代からの友人だという。軽口を叩き合う親しい間柄のようだ。元々、櫻井さんは愛嬌があるので、人に好かれる。旅行作家協会に所属しているが、会長だった故・斎藤茂太さんに随分可愛がられたという。新世界飯店でお昼を食べたのだが、この店の創業社長(中国の浙江省寧波《ニンポー》出身)とは知り合いだという。流石に神田神保町界隈は詳しい。健康の秘訣は水泳。毎週1回、先生について習っているとか。西山さんというコーチのファンが集い、1時間で4種目を習っている。毎年11月上旬、全国年齢別水泳競技大会(いわゆるマスターズ水泳大会)が開催されるが、その大会に出場予定という。4種目すべて泳ぐメドレーで挑戦するというから恐れ入る。
・櫻井友紀さんと言えば、親戚筋に当たる櫻井書店のことが忘れられない。この出版社は、『出版の意気地―櫻井均と櫻井書店の昭和』(櫻井毅著、西田書店、2005年)によると、戦争の最中、情報局の指導や圧力に逆らってまで、一貫して出版の自由を愛し、守り、戦後もなお、その情熱を燃やし続けた。その櫻井書店の経営者こそ櫻井均氏であった。その出版に意気地をかけた生涯に、ご子息である著者(元武蔵大学学長、武蔵大学名誉教授)が迫って、本にされたものだ。この方と、櫻井友紀さんは、年が6歳ほど離れているが、近い親戚だと思う。こうした立派な版元には、もっと頑張ってもらいたいが、現実は厳しい。ともかく出版業はマンガ以外、軒並み苦戦している。櫻井書店のこともさることながら、僕は大学生時代、神田の古本屋で買い求めて、大切にしていた本があった。櫻井書店から刊行された『年を歴た鰐の話』(レオポール・ショヴォ作、山本夏彦訳、昭和16年)である。
・山本夏彦さんは24歳のときにフランス寓話『年を歴た鰐の話』の翻訳で文壇デビューされた。その後、僕がダイヤモンド社の社員時代、すぐ近くに在った山本夏彦さんが経営していた工作社(月刊誌『室内』を発行していた)を訪れ、当時、暇にまかせて何時間でも四方山話をしたものだ。そのうちに2、3年経ち、夏彦さんのコラムや意見が名文の評判が呼び、様々な週刊誌、月刊誌に引っ張りだこになった。今度は、会う機会が限られる。そうした中で、僕が持っていた夏彦さんの処女出版本『年を歴た鰐の話』を持ってゆくと、山本さんが喜んでサインしてくれた。だが、今この本をいくら探しても見当たらない。何回も引っ越し、その度、蔵書が多過ぎて処分せざるを得ず、古本屋に引きとってもらった。その際、間違って出してしまったのかも知れない。とても残念である。夏彦さんも財産を残してくれた。弊社から刊行され、ベストセラーになった『昭和恋々――あのころ、こんな暮らしがあった』(久世光彦・山本夏彦共著、清流出版、1998年)である。弊社で増刷を重ねた上に、文春文庫から文庫判として刊行された。夏彦翁には様々な意味で感謝している。櫻井友紀さんの『ルンルン海外透析旅行――透析患者だって旅に出る』が刊行されたのが、2002年秋、ちょうど山本夏彦さんがお亡くなると同じ頃であった。僕の気持ちとしては、山本夏彦さんから櫻井友紀さんへバトンタッチされたようで、不思議な縁を感じている。櫻井さん、これからもよろしくお願いします。
櫻井友紀さんの著書『ルンルン海外透析旅行――透析患者だって旅に出る』
2014.09.19中平まみさん
出版記念パーティでの中平まみさん
中平まみさんの新刊(未知谷刊、本体2000円+税)
・去る8月20日(水)、中平まみさんの出版記念会が渋谷駅前、東急プラザ渋谷9階にあるロシア料理店ロゴスキーで行われた。書名は『天気の話は致しません ――あの作家(ひと)は私の前ではこんなふう』で、8月初旬に、未知谷から刊行された。僕はたまたまその日は、ディサービスと月1回の脳外診察等で朝の9時から夕方の7時まで動けなかったので、臼井雅観君に出席してもらった。そもそも中平さんとは、当時、出版部長だった臼井君が古くからの知り合いだったことでお付き合いが始まったもの。清流出版から刊行されていた小川宏さんの著『夫はうつ 妻はがん』を読んだ中平さんから臼井君に電話が掛かってきたのだ。2001年の参議院選挙に自由連合から比例代表で立候補、落選後、精神的に疲れ果て、うつ病を患っていた中平さんは、たまたま書店で小川さんのうつ病闘病記の本を購入し、あとがきで旧知の臼井君の名前を見つけたというわけだ。
・清流出版に訪ねてきた中平さんは、2000年の『フルーツフル』(実業之日本社刊)を出版以来、しばらく刊行はなく是非にと望んでいた。訊けばエッセイ集何冊分かの原稿は手元にあるという。僕は読んで面白かったらとの条件つきで、ゴーを出した。すると中平さんから、段ボールに3箱分にも及ぶ過去のエッセイの掲載紙誌が送られてきた。28年分というから、これだけの分量になったわけだ。臼井君もこの量にはビックリしたようだ。急遽、外部編集者として藤野吉彦さんに手伝ってもらって、掲載エッセイの選別作業をすることになった。それが6年前に刊行された『王子(プリンス)来るまで眠り姫』(清流出版刊、2008年)という本である。この時も、盛大の出版記念パーティが行なわれた。場所も中平さんの住まいにほど近い、渋谷のセルリアンタワー東急ホテル宴会場であった。僕は臼井君と外部編集者の藤野さんと三人でこのパーティに出席したが、出席者も多士済済で実に賑やかなパーティだった。プリンセス・スタイルの中平さんに合わせて、中平さんが敬愛する直木賞作家・志茂田景樹氏が、手作りの王冠をかむり、王子役を務めたことを思い出す。ちなみに志茂田さんと僕は同じ辰年生まれの74歳(学年は志茂田さんの方が早生まれで一年先輩)だが、精神年齢はどっちもうんと若い。
・この出版パーティでは、前々からお会いしたいと思っていた人物に会えた。それが康芳夫(こう・よしお)さんである。黒マント姿で、あたりに怪しげな雰囲気を醸し出していた。僕より3歳年上だが、東大在学中の1961年に、五月祭の企画委員長を務め、ジャズ・フェスティバルや文化人によるティーチインを開催する。これがプロデュース業の原点となった。このとき石原慎太郎の知遇を得て、1962年に彼の紹介で「赤い呼び屋」と呼ばれた神彰が主催するアート・フレンド・アソシエーションに就職、本格的に興行師としての仕事を開始する。やがてパートナー神彰と訣別し、単独で活動を再開。金平正紀の協力のもと1972年、日本武道館でモハメド・アリ対マックフォスター、翌年のトム・ジョーンズの来日公演を実現させ、大いに名を上げる。以降の康芳夫は「虚業家」を自称、正統的なプロデュース業からキワモノ的な仕事が多くなる。1973年の石原慎太郎を隊長とする「国際ネッシー探検隊」、1976年のオリバー君招聘とアントニオ猪木対モハメド・アリのコーディネートである。アリを呼ぶためブラック・ムスリムに入信し、マネージャーに近づき話をつけたというから、やることが大胆不敵である。しかし、成功失敗の振幅は大きく、浮沈変転の連続である。1977年、ハイチでトラ対空手家・山元守の試合をプロデュースするも、動物愛護協会からのクレームと愛護協会の要職にいたブリジット・バルドーがカーター大統領に電報を打ち、アメリカの圧力で中止。1979年、アントニオ猪木対ウガンダの「人食いイディ・アミン・ダダ・オウメ大統領」の試合は、政変でアミンが国外逃亡し中止を余儀なくされた。このあたり虚業家の面目躍如である。中平さんは、康芳夫のような傑物をよくぞゲストに迎えたものだ。中平さんの人脈は、実に多士済済。出版記念パーティは、梁山泊の様相を呈していたのである。その頃、『虚人魁人康芳夫――国際暗黒プロデューサーの自伝』(学習研究社刊、2005年)を読んでいた僕には、最高のプレゼントとなった。
・中平まみさんの父君、中平康さんについても触れておかねばなるまい。映画監督だった中平康さんの父親は洋画家の高橋虎之助であり、母親はヴァイオリニストの中平俊であった。俊の祖母もヴァイオリニストだったというから、芸術家一家で生まれ育ち、康は一人娘だった母親の中平姓を継いだことになる。昭和23(1948)年、東京大学を中退し、川島雄三監督に憧れ、松竹大船撮影所の戦後第1回助監督募集に応募、1500人中8人(鈴木清順、松山善三、斉藤武市、井上和男、生駒千里、今井雄五郎、有本正)の内に撰ばれ、松竹に入社する。憧れであった川島をはじめ、佐々木康、木下惠介、大庭秀雄、原研吉、渋谷実、黒澤明等の助監督を務める。ベレー帽にポケットだらけのツナギ服をスタイリッシュに着こなし、体中に七つ道具をつめ込んで撮影所を走りまわる彼の姿は周囲の注目を集め、かぶっていたベレー帽は彼の生涯のトレードマークとなった。
・助監督時代は、自ら志願して就いた黒澤明と川島雄三に可愛がられた。多くの助監督が後輩を指導する際、脚本を勉強することを第一とするのが通常であったのに対し、その他に中平さんは編集の技術も身に付けることを強く主張するなど、助監督時代から既に後の映画テクニックへの執着を見せる。増村保造、岡本喜八、市川崑、沢島忠、鈴木清順らと共にモダン派と称され、映画テクニックを駆使したスピーディーなテンポと洗練されたタッチの技巧派監督として知られる。映画をあくまでも純粋視覚芸術のように捉え、題材として何を描くかではなく、どのように描くかという映画の本質たる「スタイル」と「テクニック」で見せる演出を信条とした。代表作に『狂った果実』、『月曜日のユカ』、『街燈』、『紅の翼』、『殺したのは誰だ』などがある。人となりについては、中平まみさんの著『ブラックシープ 映画監督「中平康」伝』(ワイズ出版刊、1999年)に詳しい。
乾杯の音頭をとった志茂田景樹さん
・出版記念会の話に戻ろう。発起人代表は既出の志茂田景樹さん。中平さんの良き理解者であり、後見人でもある。自身の版元「KIBA BOOK」から中平まみさんの著『囚われた天使』も刊行している。新刊の『天気の話は致しません――あの作家(ひと)は私の前ではこんなふう』の本の内容について触れておくと、中平さんの作家との関わりを描いたもの。登場するのは10人の作家、すなわち石原慎太郎、菊村到、江藤淳、佐藤愛子、志茂田景樹、中上健次、戸川昌子、中山千夏、野坂昭如、吉村昭との関わりを描いている。僕もよく女房にやられるのだが、女性の記憶力とは誠に恐ろしい。何十年か前のことを蒸し返し、あの時あなたはこうだった、この時はこうだったと攻め立てる。閉口するほどだが、中平さんの記憶力も半端ではない。よくまあ、こんな細かいことまで、というようなことを覚えていて詳述している。こんなことまで書かれたらたまらないと、買い占める作家も出てくるのではないか、と心配になるほどだ。志茂田さんは、乾杯の音頭をとる時、こんな話をしたそうだ。「この本は話題性に富んでいるので、ちょっとしたきっかけで化ける可能性がある。5万、10万売れてもおかしくない本だ」と……。話題になってくれればと願っている。
挨拶に立った中平康監督の盟友・矢崎泰久さん(元『話の特集』の編集長、フリージャーナリスト)
・ところで清流出版から出した『王子(プリンス)来るまで眠り姫』だが、有難いことに中平さんは、著者買いを続けてくれている。5冊、10冊ずつでも、継続して買って頂けるのは有難い。臼井君によれば、この本の中にどうしても差し替えたい写真があるそうで、そのためには増刷までもっていかなければならない。中平さんは、それを何年かかってもやり遂げるから断裁しないでと釘を刺している。なんとも頼もしい限りである。今回の新刊がブレークすれば、過去の単行本にもスポットが当たる可能性がある。そんな時が来ればいいのだが、と願ってやまない。
・最後になるが、中平さんのもう一つの活動を伝えておきたい。捨てられた恵まれない犬猫などの介護、殺生をなくす運動を続けている。きっかけは自らの実体験であった。うつ病を病み、苦しんでいた時、中平さんの心の拠り所となり、生きる意欲をかきたててくれたのが犬だった。以来、不幸せな境遇にある犬猫の、引き取り手を探す運動に手を染める。一匹でも殺処分から救い、幸せな生涯を送って欲しいと願っているのだ。もう無くなってしまったが、捨てられて自力で生きていけない犬を集めて、面倒をみる都立の動物愛護センターが世田谷区にもあった。環状8号線の千歳台当たりで、僕が都心から家に帰る途中、甲州街道が混んでいると、千歳台に方向を変えるので、間近に見ることもしばしばだった。近くを通るたび、中平さんを思い出した。いい里親を見つけ、引き取ってもらう。一方的な可愛がり方ではなく、人間も動物によって救われ、そして癒される。まさにウィンウィンの関係を目指している。犬と共に生きていく、そんな人を探して一匹でも救おうとする姿に、頭が下がった。先日、欧米などの捨て犬を介護するテレビ番組を見たが、その費用が並々ならず、篤志家が主に努力している実情をレポートしていた。僕は犬猫にあまり興味がないので、捨て犬を引き取ることはできない。もし、犬猫が好きで共に生きていくのに興味があるという方は、是非、お近くの動物愛護相談センターを訪ねて欲しい。
2014.08.20飯島晶子さんと「被爆ピアノコンサート 未来への伝言 2014」
飯島晶子さんと僕(撮影:臼井雅観)
・また今年も、飯島晶子さんのお招きで、「被爆ピアノコンサート 未来への伝言 2014」を鑑賞することができた。場所は、新装なった読売大手町ホールである。501席を有する読売大手町ホールは、シンポジウムやコンサート、試写会など多目的利用が可能。用途にあわせて残響を調整できるほか、映像設備としてデジタル映写機を導入するなど、充実した音響、映像空間となっている。また、所作台を組み合わせて能舞台を設けることができ、さまざまな伝統芸能の公演も可能という最先端設備が完備されている。確かに館内の側壁はどっしりとした木目調。椅子もゆったりと余裕があり、落ち着ける雰囲気であった。それに演奏が素晴らしかった。“百聞は一見にしかず”で、見てもらうのが一番いい。僕の下手な解説など無用である。一度、ご覧になられたら、きっと感動するに違いない。だからビジュアルであの舞台の空気を少しでも感じていただきたい。飯島さんのご尽力で、カメラマンが撮った写真を拝借することができた。この写真から、被爆コンサートの雰囲気の一旦でも伝われば嬉しい。
・開演前の館内。入場してすぐに気付いたのは、舞台上に座っている人物である。周りに大き目などんぶりのような物をいくつか並べ、両手に持った擂り粉木で、縁を撫でるように触れている。すると何やら音がしている。耳をそば立ててみると、腹の底に響いてくるような重低音で、ブォーン、ブォーンという共鳴音が会場をふるわせている。パンフレットを見ると、「シンギングリン」という新しい音響楽器らしい。その精妙な聖なる響きは、いわばヒーリングセラピーとも言えよう。演奏していたのは白井貴之さん。白井さんは、いわば“音の鍼灸師”なのである。シンギングリンを使っての倍音瞑想会を開き、自らのバイブレーションを感じて、リンの豊かな倍音に浸ることで、体調を整えていくのだという。倍音発声とはどういうものなのか、体験してみないと分からないが、深い呼吸とセットだというから確かに体には良さそうだ。昨年は、この被爆ピアノコンサートで“テルミン”という不思議な楽器に出合って癒された。演奏者はテルミン本体に手を接触させることなく、空間の手の位置によって音高と音量を調節し音楽を奏でた。テルミンの本体からは、通常2本のアンテナがのびており、それぞれのアンテナに近付けた一方の手が音高を、もう一方の手が音量を決める。これで音楽を奏でるのだから、とても不思議であった。もうそんな体験はないかと思っていたが、今年も未知の音楽に誘ってくれた。僕が知らなかった「シンギングリン」という未知の音に浸ることができた。
シンギングリンの白井貴之さん(撮影:谷川 淳)
・当日のコンサートの模様をお伝えしたい。飯島晶子さんは朗読の名手だが、今回はもう一人参加していた。“声の響宴”を僕は楽しむことができた。小磯一斉(こいそ・かずなり)さんである。飯島さんがその朗読センスに惚れ込んで、急遽出演をお願いしたものだという。小磯さんは、劇団CRACKPOTに所属しており、俳優をする他、朗読もされている。流石に声がいい。メリハリの効いた重低音の声が会場中によく響く。その声が戦時中の主だった事件・事変を語り始める。そこへクラーク記念国際高等学校生の朗読が加わる。あの原爆投下の予兆がいよいよ高まる。小磯さんの朗読は、平和ボケしている日本人に、果たしてここのまま突き進んでいいのか、と立ち止まらせる力があった。一見、平和な日本だが、周辺諸国との軋轢もあって、何やらキナ臭い匂いがし始めている。また、戦禍を被ることだけは絶対避けなければならない、そんな強いメッセージが伝わってきた。
小磯一斉さんとクラーク記念国際高等学校学生の朗読(撮影:谷川 淳)
・そして、谷川俊太郎作詞の『原爆を裁く』(杵屋淨貢作曲、谷川賢作編曲)が始まった。三味線が杵屋淨貢さん(人間国宝)、ピアノが谷川賢作さん、歌はクラーク記念国際高等学校生である。大迫力で音響とともに原爆を裁く声が朗朗として流れる。「原爆は、落とした人が悪いのか、投下を命令した人が悪いのか、作った人が悪いのか」と原爆を裁いてゆく歌詞である。『原爆を裁く』は、杵屋淨貢さんが谷川俊太郎さんの詩、5つのエピグラム(警句)「罪と罰」に意気を感じ、作曲されたもの。当時は、歌舞伎の唄い手、十三弦、ティンパニーなどによって収録されたものの、放送直前で過激過ぎるからと放送中止となった経緯がある。約45年間も長らく、放送・発表禁止にされてきた楽曲である。今から5年前、三味線の杵屋淨貢さんとピアノの谷川賢作さんが即興演奏し、復活させたものだ。その刺激的なリズムが胸に突き刺さってくる。クラーク記念国際高等学校生、約100名の切なる願いがいつまでも耳に残る。この『原爆を裁く』を、世の人びとに知って是非、知って欲しい。特に日本の舵取りを担う現政権、安倍総理を始め政府要人、政治家たちには聴いて欲しいと思っている。
その後、『五月のひとごみ』(谷川俊太郎作)の詩が唱われた。この詩が単なる人間模様を描いたものだと思っていると、どんでん返しが待っている。
「ドングリまなこ 金壷まなこ 獅子鼻 団子鼻 乱ぐい歯 二重あご
無精髪 出っ尻 鳩胸 大根足 シャーベットトーン……ケロイド」
最後の「ケロイド」という言葉に接したとき、一瞬ドキリとさせられる。原発、核の被害は、ケロイドに象徴されているからだ。個々の人間の個性を淡々と描いてくるように見せて、最後に戦禍の、というより、原爆という恐ろしい兵器の爪痕が入ることで、奈落の底に落とされる。ある意味、恐ろしい詩だが、現実に直面した人しか分からない迫力がある。
この2つの詩を書いた、谷川俊太郎さんには脱帽するしかない。舞台にいなくても、いやいないほうが一段と存在感をもたらしている。ご子息の谷川賢作さんのピアノが父君の詩とコラボして、素晴らしい効果を上げていた。
『原爆を裁く』(谷川俊太郎作詞、杵屋淨貢作曲、谷川賢作編曲)。三味線・杵屋淨貢、ピアノ・谷川賢作、笛・山崎泰之、合唱・クラーク記念国際高等学校学生(撮影:谷川 淳)
・谷川さんの演奏から、十分に反戦の想いが伝わってきた。
・その後、谷川賢作さん(作・編曲家、ピアニスト)と飯島晶子さんが登場し、なぜ「被爆ピアノコンサート」を毎年開催するのか、その熱い思いを語った。広島から運ばれた「被爆ピアノ」、爆心地から1.8キロという民家で被爆しながらも奇跡的に生き残ったピアノが今、舞台の上にある。調律師・矢川光則さんも舞台に登場し、日本全国で、またニューヨークでもコンサートを開催したことを話した。そして、その力強く美しい旋律は、聴く人、弾く人を魅了し、感動の輪が広がっていることを述べた。シャイな矢川光則さんは、飯島さんの問いかけにも、黙して語らず舞台から降りられた。被爆したピアノがすべて物語っているからということだろう。
ここで、飯島晶子さんのプロフィールを簡単に述べよう。飯島さんはジャンルを超えての朗読音楽コンサートを企画する方だ。今回の「未来への伝言2014」主宰者である。2014年2月3日、NHKEテレビ「お伝と伝じろう」に「きれいな朗読」と題し、「声だけで表現しよう」と、ゲスト出演されている。NPO日本朗読文化協会理事。日本大学藝術学部卒業。著書は、『声を出せば脳はルンルン』(清流出版)、『伝わる――毎日5分の朗読トレで身につく! 声の出し方・話し方』(日本実業出版社)。僕と臼井雅観君は、飯島さんの本を作ったお陰で、毎年、素晴らしい舞台に招かれ、本当に感謝している。
飯島晶子さん(企画、朗読)、谷川賢作さん(作・編曲家、ピアニスト)
(撮影:谷川 淳)
・被爆ピアノを一度弾いてみたい方が、次々に押し寄せた。このコンサートは、被爆ピアノが主人公という狙いがみなさんの想いが分かって、うれしかった。
休憩時間、被爆ピアノを直接触れる人びと(撮影:谷川 淳)
・第2部に入って、ハープ・セラピストの中野智香子さんとジャズピアニスト本田富士旺(ふじお)さんが登場された。中野智香子さんは、“武器を楽器に変えて”という言葉がありますが、一瞬にして武器が楽器に変わる魔法があれば、世界中から戦争がなくなり、この地球が音楽で満たされる世界になりますね!とおっしゃる。国立音楽大学を卒業されてからは、クラシック音楽のみならず、日本の調べ、ポピュラー音楽、スタンダード・ジャズ演奏など、ハープの概念を超えた幅広い音楽活動をされてきた。出自を聞けば納得である。祖父が曹洞宗権大僧正なのだという。仏教の教えを生活の一部として育ち、長じては、神社・仏閣において西洋の楽器ハープで「祈りのハープ・コンサート」を開催。人間の心に47弦の調和音(ハーモニー)を響かせることをテーマに、胎響コンサートなどにも積極的に取り組んできた方。演奏を聴いてみて、なるほどヒーリング音楽だと得心がいった。ジャズピアニストである本田富士旺さんとのコラボは、まさに“ヒーリングジャズハープの世界”。新たな地平を切り開いた、音楽の調べを堪能できたのは僕にとって収穫だった。
中野智香子さん(ハープ・セラピスト)、本田富士旺さん(ジャズピアニスト)
(撮影:谷川 淳)
・次に飯島晶子さんのご紹介で、素敵な女性2人が登場した。クラシックのヴァイオリニスト白澤美佳さんとピアノニスト金山千春さんである。共にスラリとした美人で赤と青のコスチュームが照明に映えて浮かび上がる。共に桐朋音楽大学音楽学部のご出身で、各地でデュオコンサートを開催してきているほどの仲良し。白澤美佳さんは、ヴァイオリニストでヴォーカルも務める。高嶋ちさ子と12人のヴァイオリニストたちの御一人でもある。
ピアニストの金山千春さんは、ザルツブルクのコンサートに出演。神奈川フィルハーモニー管弦楽団と共演するなどの実績があり、売り出し中のお1人。最初に、“チャルダッシュ”が演奏されたが、息はピッタリだった。ちなみに、チャールダーシュ(チャルダッシュ)は、「酒場風」という意味のハンガリー音楽ジャンルの1つで、イタリアの作曲家ヴィットーリオ・モンティにより作曲された。19世紀にはウィーンをはじめヨーロッパ中で大流行を極め、ウィーン宮廷は一時チャールダーシュ禁止の法律を公布したといわれる。
もう1曲の演奏曲が“タイスの瞑想曲”である。この曲は、ジュール・マスネが作曲した歌劇「タイス」(1894年初演)の第2幕第1場と第2場の間の間奏曲として知られる。僕は、バイオリンがアンネ=ゾフィ・ムターで、カラヤン指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏が好きで、随分聴いてきたお馴染みの曲である。この曲を2人の女性アーティストは、どう演奏するか楽しみに耳を傾けた。その甘美なメロディーを2人が演奏し終えたとき、僕の耳には、心地良い余韻が響いていた。
白澤美佳さん(ヴァイオリニスト)、金山千春さん(ピアニスト)
(撮影:谷川 淳)
・杵屋淨貢さん、谷川賢作さん、山崎泰之(民族笛)さん、それにクラーク記念国際高等学校生が参加しての息の合ったコンサートが続く。ここでは、クラーク記念国際高等学校パフォーマンスコースについて触れよう。この学校は、「BoysBe Ambitious!」と唱えたクラーク博士の教育理念のもと全国で1万名以上の生徒が学ぶ高等学校。校長は80歳でエベレスト登頂に挑戦した世界的冒険家・三浦雄一郎。「オーダーメイトの教育」が特色の東京キャンパス・パフォーマンスコースの生徒たちは、文武両道で歌やダンス、演劇、殺陣などの表現を学ぶ夢いっぱい元気いっぱいの高校生である。
杵屋淨貢さん、杵屋長之介、谷川賢作さん、山崎泰之さん、クラーク記念国際高等学校生徒
(撮影:谷川 淳)
・杵屋淨貢さんは、「未来への伝言」レギュラーメンバーである。長唄杵巳流七世家元、重要無形文化財「歌舞伎長唄三味線」保持者(人間国宝)に認定。日本芸術院賞・旭日小綬章を受賞。2012年に大薩摩の名前である杵屋淨貢(きねや・じょうぐ)と改名。「原爆を裁く」を作曲している。なお、作詞は谷川俊太郎。「乃木坂の聖パウロ会での被爆ピアノに感動したのが七年前。ご一緒した飯島晶子さんから賢作さん、静流さん、飯田さんと縁が広がり、今やみんなと深い絆に包まれて、私は幸せです」とこの被爆ピアノコンサート参加の弁。
杵屋淨貢さん(三味線=人間国宝)(撮影:谷川 淳)
・シンガーのおおたか静流さん、この方も「未来への伝言」レギュラーメンバーである。とにかく声に不思議な魅力がある。七色の歌声と言われる所以である。NHKの「にほんごであそぼ」に楽曲提供及び歌唱、日本語の深みと風味を、斬新な切り口で発信し、世界各国でも活躍。“声のお絵かき教室”を主宰、声の可能性とバリアフリーを追究している。おおたか静流さんも「愛とは、あなたを信じ、何処までも一緒に歩こうとすること。そして、いつまでも力強く“NO!”と言い続けること」がスタンスと強調する。僕はおおたか静流さんのCDを全部持っていて、その音楽をいつも楽しんでいる。
おおたか静流さん(シンガー)(撮影:谷川 淳)
・クラーク記念国際高等学校パフォーマンスコースの生徒たち。よーく見ると、各人は個性を発揮していると同時にバランスにこだわり、歌の内容を丁寧に実現したいと思う気持ちが溢れている。この画面から読み取ってほしい。
クラーク記念国際高等学校パフォーマンスコース(校長は冒険家・三浦雄一郎)
(撮影:谷川 淳)
・「未来への伝言」レギュラーメンバーである谷川賢作さん。父君である詩人の谷川俊太郎さんと朗読と音楽コンサートを全国で開催している。現代詩をうたうバンド「DiVa」、ハーモニカ奏者・続木力とのユニット「パリャーソ」でも展開中。また、2014年度船橋市文化芸術ホール芸術アドバイザー等で活躍。また、谷川賢作さんは、被爆ピアノは「年々若くなっている。雨の日も風の日も、このピアノとともに全国へとまわって、実感している」と語っている。不思議なことだが、命を吹き込まれたピアノが世界を回るうち、多くの感動を与えたことでパワーアップしていったというのも分からないではない。
ピアニスト兼作・編曲家の谷川賢作さん
(撮影:谷川 淳)
なお、演出:飯田照雄さん。(株)メディアサウンズ代表。TOKYO FM・JFN番組、各種イベント等多岐に渡る。NPO日本朗読文化協会理事、2008年より銀座博品館での「朗読の日」総合演出等をされている。
2014.07.24ヘンリー・スコット=ストークスさん
ヘンリー・スコット=ストークス(Henry Scott-Stokes)さん。1938年英国生まれ。 1961年オックスフォード大学修士課程修了後、62年『フィナンシャル・タイムズ』入社。64年同社の東京支局初代支局長、67年『ザ・タイムズ』東京支局長、78年『ニューヨーク・タイムズ』東京支局長・アジア総支局長を歴任。三島由紀夫と最も親しかった外国人記者としても知られる。ジャーナリストの徳岡孝夫さんに紹介されて以来、親しくお付き合いをさせて頂いて、ほぼ30年になる。
・ヘンリー・スコット=ストークス(以下略して、ストークス)さんのことはさておき、まずご子息のハリー杉山(正式には杉山ヘンリー・アドリアン・フォリオット・スコット=ストークスと長ったらしい)のことから話してみたい。母親のあき子さんは18歳でパリの美大に留学し、19歳のとき、ローマでストークスさんに出会い、恋に落ち、結婚するに至った。何とも運命的でロマンティックなお話である。彼女が初めて、僕の古巣ダイヤモンド社を訪ねてきたときのことは、記憶に新しい。颯爽とした着こなしの良さと幅広の帽子がよく似合い、世界的なトップモデルでも現れたのかと思ったほどだ。それほど強烈な印象として僕の脳裏に刻まれている。ストークスさんとあき子さんは、お互いに個性を尊重しながら、相手の趣味や主張を理解するパートナーシップを持っていた。ハリー杉山は、日英のハーフとして生まれたわけで、特に日本では、幼い頃からハーフであるが故の偏見や試練にさらされてきたと思う。英国でも歴史的な誤解を受け、ハリー杉山は、11歳まで日本で育ってから英国に帰ったが、最初の授業が日本のやったという「南京大虐殺」で、同級生から苛められたという。
・ハリー杉山が誕生したのは東京で、1985年1月20日のことだった。徳岡孝夫さんによると、赤ん坊のときのハリーは、元英国首相で九十歳だったチャーチルにそっくりだったこともあり、徳岡さんは愛称として「チャーチル」と呼んでいたらしい。ところが成長するにつれ、ハリー杉山はイケメンの若者となっていった。184センチという長身でもある。11歳のとき、家族でイギリスへ移住し、1999年に名門のパブリックスクールであるウィンチェスター・カレッジへ入学した。在学中、ウィリアム王子とヘンリー王子とは水泳やクリケットで対戦したこともあるという。その後、ロンドン大学(専攻は中国語)で学び、卒業後日本に戻り、投資銀行に勤務しながら、種々のコマーシャルにも起用され、モデルとしても活躍している。改めて中国語を学びたいと一念発起、北京師範大学に1年間留学している。英語、日本語、中国語など六ヶ国語を自在に話すことができる国際派。現在、駐日英国大使館の展開する「美味しいイギリス」で食の親善大使に任命されている。また、BSテレビやラジオ番組を見ると、ハリー杉山はいろんな番組に登場している。父ストークスさんが一番関わりたかったメディアの世界で、その才能を開花させつつあるのだ。
かつてハリー杉山が小学生で、多分、9歳か10歳ころだが、毎週武道館で剣道の稽古を行なっていた。その際、ストークスさんは毎回のように付き添っていた。ストークスさんが47歳のときに生まれた子なので、その子煩悩ぶりも頷ける。そのころ清流出版の入っていたビルは、目白通りに面した日本債券信用銀行の真ん前にあった。そのビルから二軒隣、地下鉄九段下駅寄りの武道具店「櫻屋」によくストークスさんは来ていた。ついでに清流出版に寄り、僕といろいろな話をしたものだ。ともかく言えることは、ストークスさんは、ハリー杉山という、いわば宝物のような人材を生み出したのである。
ハリー杉山。29歳の好青年。タレント、モデルとして活躍中
・ストークスさんは、もともと経済記者出身だが、かつてスカルノ、金大中、金日成、シアヌークといった要人に直接インタビューした稀有な人。政治や国際問題に強いジャーナリストで、あらゆるジャンルをこなした。近年の著書には、『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』(加瀬英明氏との共著、祥伝社、2012年)、そして、昨年12月、『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』(祥伝社)を刊行した。後者の本は、大きな反響を呼んでおり、すでに10万部を突破しているという。だが、今年5月になって、翻訳者(藤田裕行氏)が著者に無断で、日本軍による「『南京大虐殺』はなかった」と主張した部分を、書き加えていたことが分かった。ストークスさんの単独の著書という体裁だが、実際、大部分はインタビュー(2013年7月から9月まで、毎日のように行なったそうだ)を基に翻訳者が日本語で書き下ろしたものだという。もともと翻訳者は、日本の戦争責任を否定する立場。ストークスさんに同書の詳細な内容を説明しておらず、日本語を十分に読めないストークスさんは、今年5月に取材を受けるまで問題の部分を承知していなかった。僕が云々するより、経緯はストークスさんの古くからの友人である著名な三國事務所の三國陽夫(みくに・あきお)さんのプログに詳しい。――2014年2月24日、「史実を世界に発信する会」の茂木弘道事務局長から送られたストークスさんの本を三國陽夫さんは、「欧米の一流記者で日本悪者史観を根底から批判する論に到達し、それを本にしたのはストークス氏が初めてであろう」と述べていたほど、感激したという。
・だが、5月に入ってから、共同通信社の記事が出て、紛糾した。簡単に書くと、悪質な記事が共同通信社よって配信されたという。「日本軍による「『南京大虐殺』はなかった」と主張した部分は、著者に無断で翻訳者が書き加えていたことが明らかになったという記事。――ここから事態が複雑化する。 三國陽夫さんは言う。「かねてから外国特派員協会で、ストークス氏と、翻訳者の藤田氏が親しく歓談している姿を何度か見かけ、しかも、その成果がベストセラーになったことを喜んでいた矢先の事件だ。ご本人に、祝意を直接申し上げたこともある。共同通信社の歪曲を、報道の自由に、真実を書くことについての妨害として、糾弾する。日本のマスコミは、外国勢力の手先となって腐ってしまったのか。通信社がいつから謀略のお先棒を担ぐようになったのか。共同通信社は、ストークス氏と藤田氏に誤報として謝罪すべきだ。共同通信社の記事が配信された地方新聞社は、誤報として訂正記事を掲載すべきだ」と発言している。パーキンソン病を患っているストークス氏も、版元の祥伝社を通じて共同通信社の記事は誤り、事実とは異なると激しく非難している。
・今後の事態の成り行きについては、僕には分からない。だが、一番気になることは、「現在パーキンソン病を患っているストークス氏が、本の出版元である祥伝社を通じて、共同通信社の記事は誤りであり、事実とは異なると激しく非難した」という部分だ。パーキンソン病を煩っていながら、病をおしての渾身の出版だったようだ。ぜひお大事にといいたい。そして病気が快癒されることを心から祈念している。
・ストークスさんについては、書きたいことがいっぱいある。ユニークな趣味と行動ぶりについても触れておきたい。僕が感心するのは、ストークスさんは尊敬すべき人物が見つかったら、とことん付き合っていることだ。その具体例として、三島由紀夫(後述)と萩原延壽(はぎはら・のぶとし)の両氏をあげる。萩原氏は、英国外交官(在日英国公使もやった)サー・アーネスト・サトウの幕末期から明治初期までの活動ぶりを描いた『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』を朝日新聞に長期間にわたり連載し、完結刊行(全14巻)を見届け、2001年に亡くなった。萩原氏は、東京大学法学部政治学科、同大学院を出て後、米ペンシルベニア大学、英オックスフォード大学へ留学している。ストークスさんはオックスフォード大学の先輩に当たる同氏に親近感を持ったのだと思う。その萩原さんは宇都宮に住んでいたが、ストークスさんは、毎月、宇都宮まで通って萩原氏の著書『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』の周辺取材をしていた。ストークスさんのジャーナリスト精神の発露である。萩原氏は硬骨・孤高の人物であった。京大教授にと招聘されたがそれを断って、在野での研究・執筆を貫いた信念の人である。先生と呼ばれることを嫌ったので、誰もが「萩原さん」と呼んでいた。だが、在野に徹した苦労は並大抵のものではなかったはずだ。そんな萩原氏に興味を持ち、とことん追いかけたストークスさんも、萩原氏に負けず劣らず、硬骨漢といえるのではないだろうか。
・話変わって、クリフトという芸術家をご存じであろうか? ブルガリア出身の美術家で、環境芸術作家の一人として知られる。妻のフランス人美術家ジャンヌ=クロードと共同作業しながら作品を作る。驚くべきことに、夫妻ともに1935年の同月、同日生まれである。作品は「梱包」芸術として有名になった。例えば、パリの橋を白い布で覆った「ポン・ヌフの梱包」(1985年)が話題を呼んだ。景観そのものを芸術作品の対象とするのである。そして完成した作品は、人々の想像力をかきたてて2、3週間で撤去される。1991年には、6年間の準備を経て、茨城県とカルフォルニア同時に、全部合わせて3100本の傘を立てた『アンブレラ』という作品が世界の注目をあびた。この環境芸術にストークスさんはのめり込んだ。クリフト夫妻と茨城県の対象地域の土地の所有者に一軒一軒訪ねて、狙いを説明。その手法は常に美術界ばかりでなく、社会的にも大きな話題を投げかけた。この間、ストークスさんは、文字通り寝食を忘れ、『アンブレラ』の実現に邁進された。会社をしばしば訪れたストークスさんは、土地の所有者(地権者)を説得するのに、何かいいアイデアがないかと聞かれ、僕はノー・アイデアと答えざるを得なかった。その後、「梱包されたライヒスターク(帝国議会議事堂)」(1995年、ドイツのベルリン)の作品にもびっくりさせられた。 ドイツ議会を巻きこむ長年の論争の末、やっと実現したプロジェクトで、放火事件や第2次大戦で廃墟となり、統一ドイツの議事堂になる予定だったライヒスタークを完全にポリプロピレン布で覆い隠した。わずか2週間に500万人を動員。布やロープも既製品ではなく、作品のために織られ、材料費等の直接経費だけで約7億円がかかったという。「包む芸術」という極めて珍しいアートに魅せられたストークスさんの芸術観、やはり並みの感覚ではない。
ストークスさんが入れ込んだクリフト夫妻の作品。『アンブレラ』(茨城県)。カルフォルニアにも同時に傘を立てた。1ヶ月弱の会期中に日本で50万人、アメリカで200万人を動員したという。
・ストークスさんは、音楽ジャンルにも造詣が深い。僕はその影響を受けた一人だが、所詮エピゴーネンにしかなれなかった。例えば、ストークスさんは、ロックのピンク・フロイドを贔屓にし、スイスの公演先まで切符片手に追っかけをしている。僕もピンク・フロイドが大好きだ。ピンク・フロイドのライブは、サイケデリック・ロックやブルース、フォークなどを織り交ぜたオーソドックスなロックに、けだるい叙情と幻想的なサウンドを醸し出させた高い音楽性に特長がある。さらには大掛かりな仕掛けを施し、スペクタクルに富んだものとしても評判が高い。僕はライブ録音盤CDの第1曲目「Shine On You Crazy Diamond」(「狂ったダイアモンド」)が流れ始めると、何を置いても聞き入ってしまう。アンコールのレアな「雲の影」からの「チャイルドフッズ・エンド」まで演奏されるCDを何百回聴いただろう。他にも、僕はレッド・ツェッペリンやジェスロ・タルも大好きである。いずれもイギリスのロック。ストークスさんの好みはグー! だ。息子のハリー杉山も趣味は音楽鑑賞という。ビートルズ、オアシス、吉井和哉、バナナマンの設楽統を尊敬しているそうだ。親子で好みが変っていても、本質的に音楽を求める点は共通している。
・僕は、ストークスさんの本を2冊作っている。1冊目は、『三島由紀夫 死と真実』(ダイヤモンド社、1985年11月、写真右)、2冊目は、『三島由紀夫 生と死』(清流出版、1998年11月、写真左)である。いずれも翻訳は盟友、徳岡孝夫さん。装丁はいずれも川畑博昭さんに頼んだ。この2冊目の本には、特に僕の思い入れが込められている。三島由紀夫をよく知るドナルド・キーンさん、徳岡孝夫さん、そしてヘンリー・スコット=ストークスさんの鼎談を所収しているのだ。
・鼎談の3人をご紹介する。ドナルド・キーンさんについては、三島由紀夫が亡くなり、28年が過ぎて、『三島由紀夫未発表書簡――ドナルド・キーン氏宛の97通』(中央公論社、1998年)という本を読むと、お二人の関係がよく分かる。三島由紀夫が「怒鳴土起韻様」や「鬼韻先生」「鬼院先生」「鬼因先生」などの呼称で結んでいるのが面白い。鼎談で、皆さんが氏の語る三島由紀夫像を聴き漏らさないようにしていることが分かった。
また、徳岡孝夫さんの場合は、徳岡さんの著書『五衰の人――三島由紀夫私記』(文藝春秋、1996年)で、三島由紀夫との出会いから別れまでを詳述しており、この本を読めばよく分かる。徳岡さんは、三島由紀夫が自決した日(昭和45年11月25日)、「市ヶ谷の自衛隊駐屯地のすぐそばの市谷会館へ午前11時に来てほしい」と言われ、徳岡さん宛ての手紙と写真、そして『檄』を受け取った。これをもってして、いかに三島由紀夫がジャーナリスト徳岡孝夫を信頼していたかが分かる。運命的な出会いとでも言えようか。
ストークスさんの場合は、1969(昭和44)年2月、三島由紀夫に富士山麓での楯の会演習に誘われ、快諾している。同年3月、演習に同行。外国人として初めて三島由紀夫の行動に付き合っている。本の中に、富士山麓の雪中演習に同行し、三島とストークスは雪の上で飯盒の食事した写真が印象的。以上、三人とも三島由紀夫と友情が深く、話が弾んだ。鼎談を設けたのが成功したと思う。
・三島由紀夫とドナルド・キーンさんは、1954(昭和29)年、歌舞伎座で会って以来の長い付き合い。また、徳岡さんは1967(昭和42)年に、バンコック滞在中の三島と交わり、親交を温めることとなる。また、自衛隊体験入隊から帰った三島をインタビューした新聞記者である。これにストークスさんを加えた、三人三様の三島とのお付き合いの中で、それぞれの三島由紀夫観が展開されており、興味深い内容となっている。『三島由紀夫 生と死』は絶版本となっているが、どうしても読みたいという方は、図書館等で借りれば読めると思う。
・ストークスさんは、三島由紀夫との関係で詳しく本で書いている。――それより3年前、初めて三島由紀夫を見たのは、1966(昭和41)年4月18日。外人記者クラブでの昼食会だった。それから1年後、ロンドンの『ザ・タイムズ』支局長として、1968年3月に単独インタビューする。このときの印象を「猛烈にエネルギッシュ。まったく非日本人的な人物。真正面から相手を見据え、自信が感じられる」とメモしている。同年5月、三島邸の夕食に招かれ、「なぜ、われわれのような右翼に興味があるのか」と挑発的な質問を受ける。同年12月、三島が「楯の会」の必要性を力説することに、常軌を逸しているとメモ。69年2月、富士山麓での楯の会演習に誘われ、願ってもないニュース素材と快諾。同年3月、演習に同行。三島の私兵には興味がもてず。悪趣味から作った制服のみ印象に残る。ホモセクシャルのクラブか? と書く。同年4月、三島邸訪問。日本刀を見せられる。切腹の仕方を教えるのに寒気。同年4月、映画「憂国」を見る。延々と続く切腹シーンに辟易。ストークスさんは、1970年(昭和45年11月25日)の自決した日、マニラに向かうはずだったが、台風でキャンセル。東京にいて臨時ニュースで自決を知った。聞いた瞬間、茫然となったという。中途半端な行動をしない男であり、いったん死ぬといえば、どんなことがあっても死ぬと思っていたからだ。小説での切腹シーン、映画出演しての切腹シーンなど、何度もサインを出していたのに見落とした、友達を見捨てた私の罪は許すべからざるものである、と未だに自己批判している――ときめ細かく本に書いている。
・ストークスさんについてはもっと話したいことがあるが、今回はこれぐらいにしたい。それにしてもストークスさんは在日英国ジャーナリストとしてユニークな方だと確信する。三島由紀夫のように「超絶の人」と付き合って、その体験を本にされた。その翻訳書を二回刊行した僕は、得難い経験を積んだ。
ヘンリー・スコット=ストークスの2冊の本。『三島由紀夫 死と真実』(ダイヤモンド社、写真右)。2冊目は、『三島由紀夫 生と死』(清流出版、写真左)。いずれも徳岡孝夫訳。2冊目の本は、ドナルド・キーン、徳岡孝夫、ヘンリー・スコット=ストークスの鼎談を所収している。
2014.06.19鈴木れいこさん
・過日、鈴木れいこさんが清流出版に来社され、お昼をご一緒させていただいた。僕は鈴木さんには頭が上がらない。というのも、『旺盛な欲望は七分で抑えよ――評伝 昭和の女傑 松田妙子』(2008年10月)という鈴木さんの著を清流出版から刊行させていただいたのだが、在庫がゼロになってしまったのだ。つまり、市中の本を残らず売り切ってしまったわけだ。今は電子出版用として倉庫に数冊を残すのみである。種明かしをすると、鈴木れいこさんが書いた評伝の主人公・松田妙子さんが在庫していた分を全部買い取ってくれたのだ。販売効率的にいってもこれ以上の本はなく、発行者としての僕は、お二人に感謝するとともに、刊行に踏み切って良かったと思った。
・最初、鈴木さんがこの企画を提案してきた時、僕は一瞬ドキリとしたのを覚えている。当の松田妙子さんという人物をよく知っていたからだ。1970年代のある時期、僕の古巣であるダイヤモンド社のビルに松田妙子さんも一時、同居していたのである。当時、ダイヤモンド社は、9つの子会社も含めて社員は550名ほどの出版社で、自社ビルのスペースが余っていた。今のように総合的出版社としての「ダイヤモンド社」ではなく、経済専門出版社を謳う「経済雑誌ダイヤモンド社」だった頃のことである。住所は千代田区霞ヶ関1丁目4番地の1と、通産省の隣に位置しており抜群の立地だった。2階部分を日本住宅金融株式会社に貸し、10階には将棋の木村義雄名人や松田妙子さんほか、著名な弁護士等のオフィスとして貸していた。しばらくして、日本住宅金融の庭山慶一郎社長と松田妙子さんが、しばしば話しながら歩いているのを見掛けたからこのビルがご縁で知遇を得たものと思われる。実は、僕はそれより数年前、松田妙子さんに取材したことがあった。場所は銀座の殖産住宅の子会社だったと思う。テーマは、これからの日本の住宅産業についてだった。毅然として理路整然、歯に衣着せぬ物言いで、女傑との印象が強く残っていた。その松田妙子女史が、なんとダイヤモンド社の10階に移ってきたわけだ。
・振り返ってみれば、松田妙子さんは1954(昭和29)年に渡米し、南カリフォルニア大学テレビマスコミ科に学ぶかたわら、NBCテレビへ勤務。帰国後、コスモPR取締役等を経て、1964年、日本ホームズを設立した。その後、松田さんはどんどん力を発揮し、向かうところ敵なしの勢いだった。建築審議会委員、東京都公安委員他多くの委員を務め、政策提言を行った。87年藍綬褒章受章、99年東京大学博士号(工学)取得。現在、87歳になったが、財団法人住宅産業研修財団会長、財団法人生涯学習開発財団理事長、大工育成塾塾長などを務めている。まさに女傑という呼び方がピッタリの方。さもありなん、松田妙子さんの父君は、元衆議院議長、文部大臣の松田竹千代氏である。竹千代氏はアメリカで過ごした破天荒な青春時代を『無宿の足跡』(昭和43年、講談社)に残しているが、社会福祉事業に一生を捧げた政治家としてよく知られる。だから妙子さんは東京幡ヶ谷の社会事業施設「労働クラブ」に併設された自宅で産声を上げている。余談だが、『旺盛な欲望は七分で抑えよ』のタイトルは、編集担当した臼井君が提案してきたものだが、聞いてみると父君である竹千代氏が娘妙子に贈ったアドヴァイスの言葉から取ったものだという。小さい頃から、妙子さんのあまりに破天荒なお転婆ぶりに、多少不安に思ったのであろうか。僕にはそんな親心が透けて見えた気がした。
・鈴木さんが松田妙子の名前を聞いたのは、メキシコ在住のバレリーナ、ワトソン繁子からだった。鈴木さんが『ワトソン・繁子――バレリーナ服部智恵子の娘』(彩流社)という本を書くため、メキシコに滞在していた時のことである。松田妙子と幼馴染だった繁子は、彼女を懐かしんで、「好奇心いっぱいに生きている男まさりの才女なの、傑物だわ、愉快な人よ」と言ったという。帰国して大宅文庫で調べものをしていた鈴木さんは、1972年の『Newsweek』誌に、松田妙子が「強烈な個性を持ったレディにしてボス」と紹介されているのを見つけた。鈴木さんは、この記事に興味をひかれ評伝を書いてみたいと思ったのだ。それにしても、松田妙子と三島由紀夫が親しくお付き合いをしていたなど、鈴木さんの本を読むまで知らなかった。河口湖にあった別荘に三島がよく訪ねてきたのだという。日本人にはめずらしいボディラインの妙子の後ろ姿を気に入った三島が、「コカ・コーラのボトルみたいだ」と言っていて、しばしば妙子は三島のちょっと前を歩かされた。また、川端康成邸に原稿を届ける三島に妙子が付き添ったこともあるというから、よほど信頼が厚かったに違いない。それにしても、こんな秘話をよく鈴木さんは引き出したものだ。よほど信頼関係が築けていない限り、出てくる話ではない。
・鈴木さんは最近、彩流社から『台湾 乳なる祖国――娘たちへの贈り物』という本を刊行した。実は鈴木さんは1935(昭和10)年、台湾台北市のお生まれなのだ。1947年に台湾から引き揚げてきたが、12歳まで台湾で過ごしている。1冊、僕も贈呈していただいたが、日本統治下の12年間の少女時代の想い出から敗戦による混乱の中での引き揚げ、そして晩年、再び台湾に住んでかつて親交のあった人たちとの再会を描いている。台湾に半生を賭け、壮年期を過ごした父君が残した小冊子を頼りに、当時は知らなかった部分を補填しながら、記憶にある故郷を書くことに専念したというが、幸せなひと時だったのではないだろうか。鈴木さん自身、こうして育ててくれた父君を偲びながら筆を進めるうち、不思議な安らぎに全身を包まれた気がしたと書いている。母と娘との関係というのは濃密で、よく書かれているテーマだ。しかし、娘が父との関係を問い直していくというのは、読んでいて新鮮に思えた。そして、少し羨ましかった。というのも、僕には娘がいないからだ。仮にいたとしたら、どんな関係が築けただろうか、そんなことを想像したものだ。
・鈴木さんは、1980(昭和55)年、朝日新聞記者の夫の定年退職後、台湾、シンガポール、アメリカ、カナダ、スペイン、コスタリカ、メキシコなどを訪ね、一年の半分を海外旅行に費やしたという。著書も、すでに6冊。『旅は始まったばかり――シニア夫婦の生きがい探し』(1991年、ブロンズ新社)、『世界でいちばん住みよいところ』(1997年、マガジンハウス)、『日本に住むザビエル家の末裔――ルイス・フォンテス神父の足跡』(2003年、彩流社)、『ワトソン・繁子――バレリーナ服部智恵子の娘』(2006年、彩流社)、『旺盛な欲望は七分で抑えよ――評伝 昭和の女傑 松田妙子』(2008年、清流出版)、『台湾 乳なる祖国――娘たちへの贈物』(2014年、彩流社)。
・この中で、気になった本は、断然、『日本に住むザビエル家の末裔――ルイス・フォンテス神父の足跡』である。この本は、各新聞でも書評に取り上げられ、丁寧な解説が付いている。そうした素晴らしい書評があるのに、屋上屋の僕の拙い解説は一切控えたい。では、3つの新聞の書評をご紹介する。
まず、『キリスト教新聞』の書評から。
――ルイスさんはスペイン生まれ。ザビエルが日本からパリに送った手紙を16歳の時に読み感動、日本へ渡ることを決心した。25歳でマドリッドの神学大を卒業後に来日。20年間、上智大や早稲田大で倫理学や比較宗教論を教え、84年から10年間は福岡県の高校で教師として働いた。ザビエルの兄ミゲルはルイスさんの父の祖先でフランス系。ちなみにルイスさんの母はケルト系で、祖先にはスペインの画家ゴヤが肖像画を描いている、プラド美術館の創設者ホセ・モニノ・イ・レドンドがいる。ルイスさんは現在、山口県下松市在住。日本での司牧生活はすでに50年以上になる。現在は、字部市アストピアに完成した、チャペルを備えたブライダル施設「フェリース」で働いている。本の著者である鈴木れいこさんは、ルイスさんのスペイン語教室の生徒。「聖フランシスコ・ザビエルがお手本」というルイスさん。神に頼り切った飾らない人柄が本の中からも十分に伝わってくる。
次は、『中国新聞』の書評。
――日本にキリスト教をはじめて伝えたフランシスコ・ザビエルの兄の子孫で、下松市に住むルイス・フォンテス神父(72)のザビエルに導かれた運命的な半生を、光市のエッセイスト鈴木れいこさん(68)が執筆した。「日本に住むザビエル家の末裔」のタイトルで彩流社(東京)から出版された。鈴木さんは4年前、海辺の風景が気に入って光市に移り住んだ。2年前から通う中国新聞カルチャーセンターのスペイン語講座の講師がフォンテス神父だった。スペイン語の講義のおもしろさや知識の深さに人間的興味を覚えたのに加え、ザビエルの子孫という事実が、創作意欲を刺激したという。2001年6月ごろから聞き取りで取材を続け、ザビエル関連の書籍を求めて図書館通いをしながら、昨年10月に書き上げた。神父自身が、ザビエルとのつながりを知ったのは六年前。『スペインの親類から送られてきた結婚式の案内状だった。覚えのない署名だったため手元の資料を調べるなどして、自分の14代前がザビエルの長兄ミゲルであることを知った。ザビエルとのえにしは50年前にさかのぼる。偶然手にしたザビエルの書簡集が日本への興味をかき立て、神学校を経て日本へと向かわせた。こうしたエピソードや、宣教の足跡、人々との触れ合いなどを5章にまとめた。これが3冊目の著書となる鈴木さんは「神父の取材を通じ、人間の信念というものを学べた」と話している。
最後に『西日本新聞』の書評。
――日本にキリスト教をはじめて伝えたフランシスコ・ザビエルの兄の子孫で、山口県に住むようになった著者は、スペイン語を学ぶため語学教室を訪れる。そこの講師は神父のルイス・マギーネ・フォンテスさん。何と、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの子孫だった。ルイスさんは来日47年になるが、そのことは数年前まで本人も知らなかった。故国スペインから届いた結婚式の案内がきっかけで家系調べに熱中、系図をつきあわせていくうち、14代前の先祖がザビエルの長兄ミゲルだと分かった。ルイスさんは少年時代、長崎のキリシタン殉教者の絵に日本への興味を募らせた。さらに山口で宣教していた神父が書いた本に出合い、ザビエルの書簡集を読み、日本行きの気持ちを固めた。はるか昔のザビエル、そして今、同じように日本に来た末裔の自分─ルイスさんは「導き」と思う。本書は、宗教土壌の違いに戸惑いつつも日本で神父として歩むルイスさんの姿を追う。
鈴木れいこさんの本には、このような素晴らしい書評で迎えられている。鈴木さんの目のつけところもよいが、それを的確に紹介するべく人がいる。僕は、今、地方新聞文化部にも目利きがいるなと嬉しくなった。
・もう一度言うが、鈴木さんの最新刊『台湾 乳なる祖国――娘たちへの贈り物』もとても面白い視点で書かれている。日本と台湾の関係は、尖閣諸島界隈の漁業権の問題などあったが好転しつつある。日本統治時代に台湾の水利事業で大きな功績を残した日本人技師、八田與一をたたえる記念公園の建設も実現した。2011年3月11日発生の東日本大震災に際しては、台湾がいち早く救援隊派遣を表明。人口が約13倍の米国を大きく上回る義捐金が集まったことは記憶に新しい。また、国立故宮博物院の日本展覧会開催なども始まる。中国王朝芸術の粋を集めた台北・故宮コレクションのうち、人気の高さからこれまで海外展示が見送られてきた清代玉器の逸品「翠玉白菜」「肉形石」を含む計231件が、東京と福岡で公開されることになっている。台湾と日本との関係を問い直すに恰好の著ではないだろうか。
・今後も鈴木れいこさんの優れた嗅覚と自由自在の人物像に恵まれて、われわれに素晴らしい作品を読ませていただきたい。ご健筆とご健勝をお祈りする。