2014.05.21笹本恒子さん
かつて弊社を訪ねてきた時の写真家・笹本恒子さん(中)。その時は、写真集『昭和を彩る人びと――私の宝石箱から100人』の企画打ち合わせをした。今から約10年前のことになる。右は臼井雅観君。
2014年4月15日(火)の日本経済新聞に掲載された全5段広告「笹本恒子100歳展」に、僕はビックリさせられた。その広告は、5月14日(水)にも再度、掲載された。今どき、全5段広告といえば、海外旅行関係、健康食品関係といったところが主流で、文化イベントの広告などあまり見かけない。その中で、この「笹本恒子100歳展」は、人びとの印象に深く刻まれたと思う。記事としても各紙で取り上げられ、4月30日付け朝日新聞夕刊でも、写真入りで紹介されている。展示された写真は、戦前から現在まで約130点。昭和から平成へと続く激動の時代を見事に切り取って見せてくれる。全4部構成だが、「明治生まれの女性たち」のコーナーには、宇野千代、淡谷のり子、市川房枝、加藤シヅエなど時代を牽引した女性たちが並ぶ。
・昨年、『はつらつ!――恒子さん98歳、久子さん95歳 楽しみのおすそ分け』(笹本恒子・吉沢久子共著、2013年6月発行、定価=本体1400円+税)という本を弊社から刊行した。お2人が100歳間近という年齢にもかかわらず、現役で元気に過ごしておられる様子が伝わる。一方、僕は盛夏が到来すると74歳になるが、物忘れがひどくアルツハイマー病スレスレの状態である。笹本恒子さんも吉沢久子さんも、普段の生活から頭脳明晰で思考力を発揮し、本当に頭が下がる。そして、今回、「笹本恒子100歳展」で笹本恒子さんが、大いに話題となった。僕と笹本恒子さんとの関わりについて、少し述べてみたい。
・清流出版を立ち上げた僕は、出版部門の柱として写真集のジャンルを考えていた。ちょうど創業から3年ほど経った1996年初頭、恰好の人物に出会うことができた。それが日本初の女性報道写真家として売り出し中だった笹本恒子さんである。笹本さんは、「女性の権利が保障されていなかった明治に生まれ、大正、昭和と走り抜けた、この人たちの苦労を残しておかなければ」の強い思いから、明治生まれの女性たちを撮り続けてきた。僕は日ごろから、女性の潜在パワーには感服していたこともあり、そのテーマに惹きつけられた。そこから数ヶ月、写真集が完成。弊社から刊行された『きらめいて生きる 明治の女性たち――[笹本恒子写真集]』はこうして世に出た。明治という時代に生まれ、大正、昭和、平成と四つの時代を生き抜き、牽引してきた各界の女性たち。笹本さんは、そんな女性たち60人に直接会い、毅然として生きる姿を活写したのである。お恥ずかしい話だが、題字は元気だったころの僕が書いたものだ。ちなみに60人の主な内訳は、先に挙げた宇野千代、淡谷のり子、加藤シヅエのほか、佐多稲子、杉村春子、沢村貞子、秋野不矩、住井すゑ、丸木俊、櫛田ふき、飯田深雪、石垣綾子、井上八千代、北林谷栄、相馬雪香、田中澄江、長岡輝子、三岸節子、メイ牛山、吉行あぐり等など錚々たる女性たちが並ぶ。
・この本が出来上がると、資生堂の福原義春社長(現・名誉会長)がいたく気に入ってくれた。そこで福原社長は、発売と同時に、資生堂別館を使って紫式部から続いてきた煌めく女性の歴史を俯瞰する「千年のバトンタッチ」と題する写真展を開催できるように取り計らってくれた。その準備に奔走されたのが堤江実(つつみ・えみ)さんである。今でこそ堤江実さんといえば、詩人、翻訳家、エッセイスト、絵本作家と幅広いジャンルで執筆活動をされ、文化放送アナウンサーの経歴もあって詩の朗読イベントもされているが、当時は、グリーティングカード、ラッピングペーパーの会社を経営されていた。福原さんはこのイベントを仕切れる女性として江実さんに白羽の矢を立てた。江実さんは、その起用に見事に応えてみせた。こうして「千年のバトンタッチ」は、福原義春さん、堤江実さん、笹本恒子さんのトライアングルで、写真展は成功裏に幕を閉じたのだ。
ちなみに堤江実さんは清流出版から、著者として『ことば美人になりたいあなたへ』、絵本『うまれるってうれしいな』、『水のミーシャ』(読書推進運動協議会賞)、『風のリーラ』(ユネスコ・アジア文化センター賞)、『森のフォーレ』(ユネスコ・アジア文化センター賞)等を刊行されている。また、お嬢さんの堤(現・川田)未果さんも注目の新進気鋭ジャーナリストとして、ベストセラーを連発されており、弊社からも『人は何故過ちを繰り返すのか?』(佐治晴夫さんとの共著、2012年)を刊行されている。
・「千年のバトンタッチ」のイベント開催にあたり、来賓の方々がスピーチされたが、とりわけ僕の印象に強く残ったのは、野中ともよさんだった。野中さんは、上智大学文学部新聞学科卒業後、ミズーリ大学コロンビア校大学院に留学。帰国後フォトジャーナリストとしての活動を開始。アメリカの大学院時代にたたきこまれた、スピリット・オブ・ジャーナリズム精神でテレビ界に転じ、当時、テレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」の2代目キャスターとして、人気沸騰中だった。スピーチの詳しい内容はともかく、概要はこんなだった。野中さんは、笹本さんにあこがれて、報道写真家を目指したものの、なかなかよい写真を撮れないままにテレビの世界に入ってしまった。それに引き換え、笹本恒子さんは、女性初の報道写真家として今も牽引し続けている。素晴らしい目標とすべき女性である。そんな内容だったと思う。
・その野中ともよさんと、弊社の翻訳本の訳者としてお付き合いすることになろうとは、その時は知るべくもなかった。その本がピーター・ドラッカー夫人のドリス・ドラッカーの著になる『あなたにめぐり逢うまで――ドラッカー博士を支えた妻の物語』(1997年、弊社)である。96年9月まで「ワールドビジネスサテライト」のキャスターを務められた野中さん、超多忙の日々の中で翻訳時間を捻出され、刊行までこぎつけてくださったことには、感謝の言葉もない。それにしてもドリス・ドラッカーさんも凄い方だ。あの一世を風靡したドラッカー博士を70年近くにわたって支え続けた。そのドラッカー博士は2005年に鬼籍に入られたが、103歳になるドリスさんは今も元気だそうだ。笹本さんといい、ドリスさんといい、100歳を超えて元気に活躍している。女性の時代が到来したことを痛感せざるを得ない。なお、野中ともよさんは、このあと国連本部にて行われたシンポジウムに日本代表のジャーナリストとして参加、2001年には経済界大賞「フラワー賞」を受賞、三洋電機株式会社代表取締役会長等を経て、NPOガイア・イニシアティブ代表など様々な要職に就いていらっしゃる。
・ここからはお忙しい方には失礼、蛇足である。笹本さんの本は、『夢紡ぐ人びと――一隅を照らす18人』(2002年)、『ライカでショット!――お嬢さんカメラマンの昭和奮戦記』(2002年)、『昭和を彩る人びと――私の宝石箱の中から一〇〇人』(2003年)と立て続けに刊行したが、この間、(有)遊人工房の飯嶋清さんが企画、印刷等、笹本さんの意向を心得た協力をしてくれた。「笹本恒子100歳展」にも、飯嶋さんは一枚噛んでいる。会場には、『100歳のファインダー 日本初の女性報道写真家 笹本恒子』(東京新聞事業局・編、東京新聞社刊)が並んでいる。制作は飯嶋さんの遊人工房、印刷所は光村印刷。カバーデザインは弊社でもお馴染みのデザイナー、西山孝司さんが担当している。
・この飯嶋清さんは、今を遡ること約45年前、光村印刷に勤務されていた頃、印刷学会の関係で僕の古巣であるダイヤモンド社をしばしば訪れ、石山四郎副社長(後に、社長)、入谷光治さん(後に、ダイヤモンド・グラフィック社社長)等と交流されていた。当時、印刷学会はオフセット派、グラビア派に分かれ、それぞれ自らの陣営が将来、主流になるものと論陣を張っていた。オフセット派かグラビア派か、その渦中に飯嶋さんもいたわけだ。ダイヤモンド社の石山四郎さんはオフセット派の筆頭格だった。その関係で、現在、清流出版の外国版権担当顧問をしている斉藤勝義さんは、ダイヤモンド社主催で日本の出版各社の印刷関係者を引き連れて、デュッセルドルフ、フランクフルト、パリ、スイス等にしばしば行った。世界的に有名なDRUPA(ドルッパ)――「印刷及び印刷機材業界最大の展示会」である。
・笹本さんの本では、『夢紡ぐ人びと――一隅を照らす18人』が、懐かしい本だ。とくに最初に登場する「富田忠雄――ラベンダーに憑かれた男」に思い出深いものがある。僕は数年前、北海道旅行をした際、念願だった富田ファームを訪ねた。オーナーの富田忠雄さんに会って、素晴らしいラベンダー畠を見せて頂き、しばしお話することができた。あの観光客がごった返す中、よくぞ車椅子の僕に付き合ってくださった。笹本恒子さんのことやら、遊人工房の飯嶋清さんの近況などをお話すると、思わず身を乗り出すようにされたのを思い出す。その時の光景が忘れられない。その富良野・美瑛の美しい地域にもう一つ観光スポットがある。「榎木孝明水彩画館」だ。榎木さんには、月刊『清流』で長期にわたって画とエッセイを連載していただいた。榎木さんは、実は南の鹿児島県人だが、この北の富良野・美瑛に長年の夢であった水彩画館をつくった。しかも、そこにはあの写真家の織作峰子さんが撮った榎木さんの大きな写真が飾られている。美男美女のお二人の友情を目の当たりにして、うらやましいなと思った次第である。そして、富田さんのラベンダー畠については、飯嶋清さんの遊人工房から『富良野ラベンダー物語』(岡崎英生著、2013年)が昨年刊行されている。ファーム富田の富田忠雄会長の人生を軸に、ラベンダー栽培の歴史をたどったもの。発行人・飯嶋さんの写真への、また出版への熱い思いが伝わってくる本である。
・最後に、笹本さんの健康法をご紹介しよう。まず、食から。笹本さんは、ほぼ毎日のように100グラムの牛肉を食べる。それも霜降り肉が好物で豚肉は食べない。食事は3食、自分で作る。焼き魚、煮魚は好きではない。肉といえば、脂身のある牛肉か鶏肉がメイン。夕食には、必ず赤ワインを1杯。このワインが主食代わりでご飯やパンなど炭水化物は食べないという。赤ワインはポリフェノールが多く健康にいいらしい。行動力も笹本さんの健康の源だ。重いカメラ機材をもって身軽に動く。また、テレビ番組を見ていて気付いたことはメモ、気になる新聞記事は切り抜いたりもする。時代の変化を敏感に読み取って、撮影テーマを見つけるためのアイデア集を作っているのだ。現在、笹本さんの関心事は「老い」だ。100歳になっても、いや100歳だからこそ、ふさわしいテーマだと思う。今後も、報道写真家として前人未踏の境地を切り開いてほしい。
『きらめいて生きる 明治の女性たち――笹本恒子写真集』(著者:笹本恒子、発行者:加登屋陽一、造本デザイン:道信勝彦、編集担当:高橋与実、印刷:内外印刷、製本:加藤製本、発行所:清流出版)。右は初版の表紙、左は3ヶ月後に出した新装改訂版第2版の表紙。
2014.04.18熊井明子さん
●講演中の熊井明子さん(撮影:臼井雅観君)
熊井啓・明子さんご夫妻。お二人が月刊『清流』に登場されたのは、創刊2年目の1995年10月号だった。その後、熊井啓監督は、2007年にお亡くなりなった。日本を代表する社会派の映画監督で、その作品は内外問わずますます評価が高い。
・熊井明子さんは最近、特に活発に活動をされている。つい先日も、柏市の「アミュゼ柏 クリスタルホール」講演会で講師をされた。地元の臼井雅観君は、明子さんとは長い付き合いがあり、当然出席した。その模様を聞いて、後にまとめてお話をしたい。NHKの朝ドラが『花子とアン』となり、『赤毛のアン』と関係の深い明子さんは引っ張りだこの状態。だが明子さんを語る前に、ご主人の熊井啓さんに触れておきたい。啓さんは、残念ながら2007年5月にお亡くなりになったが、日本を代表する社会派映画監督の巨匠だった。わが月刊『清流』の創刊2年目、1995(平成7)年10月号に、「夫婦で歩む人生」欄に、明子夫人と登場された。
・熊井啓さんの作品の多くは『キネマ旬報』ベスト・テンに選出され、ベルリン国際映画祭やヴェネツィア国際映画祭の各賞を受賞した。『帝銀事件 死刑囚』(1964年)から始まって、問題作の『黒部の太陽』『忍ぶ川』『サンダカン八番娼館 望郷』『お吟さま』『天平の甍』『日本の暑い日々 殺・下山事件』『海と毒薬』『千利休 本覺坊遺文』『式部物語』『ひかりごけ』『深い河』『日本の黒い夏―冤罪』『海は見ていた』等などの名作を残している。いずれも重厚な人間ドラマを世に問うた作品だ。日本の文芸作品(山崎朋子、辻邦生、井上靖、武田泰淳、遠藤周作、三浦哲郎、井上光晴、秋元松代……等)を原作とし、人間の生と死を見つめ、われわれに生きる意味を問いかけてくる。幸いなことに、啓さん生誕の地・長野県安曇野市豊科に、熊井啓記念館が開設された。弊社もご夫妻初の共著で出した『シェイクスピアの故郷――ハーブに彩られた町の文学紀行』を300冊寄贈させていただいたが、貴重な資料をもとに、同監督の業績を顕彰できるようになっている。僕としては大好きな信州詣でのもう一つの理由ができてうれしい。
・熊井啓さんと明子さんは、同じ高校(現在の松本深志高校)を出て、共に信州大学で学んだ。年がちょうど10歳違う。信大(地元ではこう呼ばれている)で、啓さんは文理学部、明子さんは教育学部を卒業した。ご結婚は昭和37年。お見合い結婚だった。当時、啓さんは日活の助監督、明子さんは清内路村(せいないじむら)という長野県でも僻地の小学校の先生だった。啓さんの母堂と明子さんの祖母が松本の女子師範学校の同級生だったことが縁であった。母と祖母が同級生では年の差が相当出てしまいそうだが、啓さんが末っ子、明子さんが長女ということで10歳差に落ち着いた。啓さんは自他共に認める仕事人間である。四六時中映画のことしか考えていない。最初は明子さんも戸惑いがあったようだが、脚本の清書など啓さんの仕事を手伝ううち、少しずつ夫の仕事が理解できるようになったという。啓さんの監督デビューは自作オリジナル脚本による『帝銀事件 死刑囚』である。戦後間もない昭和23年に起きた帝国銀行椎名町支店の行員毒殺事件を入念に再検証し、犯人とされた平沢貞通を無罪とする立場で、事件経過をドキュメンタリー風に仕立てた野心作だった。僕の育った東長崎は、その椎名町の隣町で、しょっちゅう自転車で遊びに行った所。帝銀事件は、8歳の少年の僕にとっても記憶に残る大事件だった。
・この時の明子さんの八面六臂の活躍あればこそ、この映画は完成したともいえる。資料集めから、日活に提出する企画書の清書はともかく、借りてきた膨大な裁判記録を手書きで書き写したのである。当時、コピー機などなかったから、ひたすら手作業で筆写するしかない。こうした仕事の手伝いを通して、事件の真相に迫ろうと、確固たる考証を懸命に模索する啓さんの姿を見て、明子さんは心底、感銘を覚えた。夫婦の絆の強さは、以来、筋金入りだ。そんな事実を証明するエピソードがある。夫婦喧嘩の時に、捨て台詞をいうことはよくある。啓さんが夫婦喧嘩の際、明子さんによく言った言葉が「来世で結婚してやらないぞ!」だったというから驚く。実際、弊社刊『シェイクスピアの故郷――ハーブに彩られた町の文学紀行』の「あとがき」にこんなことが書かれている。啓さんの言葉だが、「富士山を羽で払うと、ほんの少し低くなる。富士山が無くなるまでは、気の遠くなるほどの回数、払わなければならない。その回数ほども、生まれかわっては結婚しようね」と言われたのだという。あの謹厳実直風な啓さんが言った言葉とはとても思えないのだが、事実らしい。夫婦の愛情の形はいろいろあるだろうが、これほど相思相愛を貫いたご夫婦を僕は知らない。
『シェイクスピアの故郷――ハーブに彩られた町の文学紀行』(熊井明子著、2005年、弊社)。写真はすべて熊井啓さんが撮った。いわば、共作の本である。
熊井明子さんはポプリの研究家として知られる。きっかけが『赤毛のアン』シリーズであった。文学少女だった明子さんは、『赤毛のアン』の熱心な愛読者だった。主人公のアンが、孤児院から養女としてもらわれていく。その自然豊かなカナダのプリンス・エドワード島を舞台に、アンは想像の翼を羽ばたかせながら成長していく。そのグリーンゲーブルズという自然豊かな地が、信州松本に似ていたことも惹きつけられた原因の一つ。信州の春は遅い。だからこそ赤毛のアン同様、春を迎えるときの弾けるような喜びは格別だった。福寿草の黄色い花、蕗の薹(ふきのとう)などが雪を割って顔を覗かせる。春の使者ともいうべき、レンギョウ、マンサク、スイセン、サンシュユ、タンポポなど黄色い花が多いのが特徴だ。さて、『赤毛のアン』の文中に“雑香”と訳されたものが出てくる。明子さんは気になって仕方がない。この字面だけではどんなものなのか、わからなかったからだ。明子さんは、図書館に通い、洋書などで調べて、各種のハーブとオイルで作られたこの雑香を、ポプリと命名して世に知らしめた。ポプリ好きだった田辺聖子さんと『ポプリ』という雑誌を創刊したのもこの頃だ。ポプリは草花や葉っぱ・香草(ハーブ)、香辛料(スパイス)、木の実、果物の皮や苔、精油などの香料を混ぜあわせて容器に入れ熟成させて作る。
・前述したように、この3月末からNHKの朝の連続テレビドラマ『花子とアン』が始まった。『赤毛のアン』シリーズの翻訳者・村岡花子さんの生涯を描くドラマである。今年は何かにつけ『赤毛のアン』が話題になるはず。アンへの造詣が深く、『「赤毛のアン」の人生ノート――あなたの夢が実現できる7つの鍵』(岩波現代文庫)も出している明子さんも、お忙しい日々をお過ごしのようだ。先日、「アミュゼ柏」で行われた講演会には、熊井さんご夫妻の単行本を3冊担当した臼井雅観君が聴きに行ってくれた。同君によれば、『赤毛のアンに教えられた夢実現の秘訣』と題して明子さんは、赤毛のアンに学んだポジティブな生き方、シェイクスピア作品の魅力、さらには夫・熊井啓監督の映画をめぐる秘話などを話したという。実際、明子さんは、ポプリ研究家からシェイクスピア作品の香りの研究へとテーマを広げていった。「女性だって一生付き合える仕事を持ったほうがいい」。これは日ごろから啓さんからアドバイスされた言葉だというが、小説の中のアンも、養母マリラに進められて教師への道を歩むことになる。啓さんは生前、明子さんにエッセイだけでなく、小説も書くよう薦めていた。明子さんは監督の期待にたがわず短編小説集を書き、『夢のかけら』(春秋社)としてすでに刊行している。夢を持ち続けることの大切さをアンに学んだ明子さんは、自ら夢見た作家への道を歩み始めている。まさにアンの「夢実現の法則」を現実にした方なのである。
・弊社では明子さんの実の妹である5歳下の桐原春子さんともお付き合いがある。本も2冊出させていただいた。話を聞いてみると、性格的には小さい頃から対照的なお二人だった。姉の明子さんは文学少女で、静かに本を読むのが大好き。一方、妹の桐原春子さんはアウトドア派。子供の頃は真っ黒になって野山を駆け回っていたという。その名残は現在も色濃くあり、シェイクスピアの香りについての研究書を何冊も上梓している理論派の明子さんに対し、桐原さんは現実にシェイクスピア・ガーデンを自宅に作り丹精している。クロワッサンが主催した第1回「黄金の針賞」を受賞したのは桐原さんだが、お膳立てしたのは明子さんだった。大量のパッチワーク用の端切れを集め、それを桐原さんに手渡して、これでパッチワークを完成させてと制作を促したのだ。桐原さんは動くことが大好き。材料がすでに目の前にあって、あとは仕上げるだけとなれば、完成にこぎつけるまでにそれほど時間はかからなかった。受賞をきっかけに桐原さんも有名人の仲間入り。実践派のハーブ研究家として多くの本を出し、各所のカルチャーセンターで講師を努めている。さらには、シェイクスピア・ガーデンをきっかけに庭園に興味をもった桐原さんは、世界中の庭園を訪ね歩き、それぞれの庭園の魅力を、現在も読売新聞に月1回、庭園紀行として連載している。写真も文章も桐原さんだ。弊社から刊行された『桐原春子の花紀行――世界の庭園めぐり』は、その中から精選したもの。金も時間もある団塊世代以上の富裕層に受けた。このように、熊井明子さん、桐原春子さん姉妹には弊社は大いにお世話になっている。お二人のより一層のご活躍をお祈りしたい。
『桐原春子の花紀行――世界の庭園めぐり』(桐原春子著、2010年、弊社)
2014.03.19野見山暁治さん
ニューオータニ美術館の喫茶店で「野見山暁治展カタグロ」を読む僕(撮影:臼井雅観君)
・画家の野見山暁治(のみやま・ぎょうじ)さんから、近著を送られた。『アトリエ日記』シリーズの第4弾『やっぱりアトリエ日記』(生活の友社)だ。早速、その本を読んだ。相変わらず野見山節は酔わせる。この『アトリエ日記』シリーズは、一巻から三巻まで、清流出版で刊行した。いわば僕がゴリ押しで3冊出させていただいた。近著のあとがきで野見山さん曰く、「〈アトリエ日記〉の書籍を、是非ウチで、とおっしゃったのは清流出版の加登屋陽一氏だった。三巻まで、ずっと清流出版のお世話になった」。それが、「今回からは、月々連載している〈美術の窓〉の生活の友社に戻って出す」と。企画編集部長の小森佳代子さんの活躍もあってこの本が刊行できたとある。彼女は、近年、体がすぐれないと聞いていたが、野見山さんのあとがきに「幸いなことに小森さん、体がめきめき恢復してきたので、生まれたてみたいな顔になって張り切っている」とある。僕もひと安心した。小森さんは、『やっぱりアトリエ日記』の巻末で「野見山暁治先生への105の質問」コーナーを設けた。ここが彼女らしいユニークな編集である。その質問の87で、「尊敬する人は?」と問うている。野見山さん曰く「直接会った人では椎名其二という随分年をとった青年です」。「年とった青年」は上手い言い方だ。今から約55年前、僕(当時18歳)が椎名其二さん(当時71歳)と野見山暁治さん(当時37歳)を知ったことで、今日の日がある。感慨もひとしおである。
・書籍に続いて、野見山さんから個展案内が届いた。それによると、2014年1月25日から3月23日までニューオータニ美術館で「野見山暁治展――いつかは会える」を開催するとのこと。野見山さんの中学生時代の自画像や、東京美術学校時代を含めた作品36点を展示していると言う。早速、ニューオータニ美術館へ臼井君と出かけた。この個展には、大きな作品がズラリと並んだが、目玉となるのが、駅などの公共施設に飾られた巨大な作品の原画だった。いわば『環境芸術』の作品だ。一つめは、《いつかは会える》と題し、地下鉄の東京メトロ副都心線・明治神宮前駅のステンドグラス原画(2008年)。老若男女がこの明治神宮駅を利用する時、この巨大なステンドグラスを目にして何を思うのか気になるところだ。二つめは《海の向こうから》と題し、JR博多駅に飾られたステンドグラス原画(2011年)。野見山さん曰く、「原画とステンドグラスの在りようは、小説とその映画化、と納得してシナリオを提供したつもりだ」と語っている。三つめは《そらの港》と題し、福岡空港国際線ターミナルに飾られたステンドグラス原画(2013年)である。野見山さんが「中国大陸や東南アジアへの窓口だから、その人たちの衣裳や装身具をアトリエの床に散らして、その色合や雰囲気を画面に掬った」と狙いを述べている。原画も迫力があり、魅力があったが、拡大された本物のステンドグラスだったら、各々約10メートルの膨大な色彩の迫力に圧倒されたことだろう。僕は、明治神宮前駅だったら、行けるのではないかとも思ったが、車椅子でエレベーターを乗り継いでの勇気はまだ湧いてこない。
・ニューオータニ美術館の個展は、初期の作品も10点余あった。その中に16歳の頃、描いた『自画像』(1937年)や東京美術学校予科に入学した年の秋の風景画コンクールに出品した『渋谷風景』(1938年)、『骸骨』(1947年)、『花と瓶』(1948年)、『肖像』(1949年)、野見山さんの父親が炭鉱業を営んでいたことから身近であった炭坑を主題とした作品『炭坑の一隅』(1951年)、『川沿いの炭坑』(1951年)……などなど。最初はフォーヴィスム絵画に惹かれ、その後、セザンヌの影響を受け、キュビスム風からグレコ風へと作風が変わったことがわかる。1952(昭和27)年に、フランス政府私費留学生として渡仏するが、この後、劇的に野見山さんは変わる。
・2014年3月6日(木)、読売新聞には、個展の紹介記事が出ているが、面白いのでさわりを紹介しよう。「東京・紀尾井町のニューオータニ美術館で、文化功労者の野見山さん(93)の画業をたどる個展が開かれている。2月には同館で講演し、初期から近作のステンドグラスの原画まで、展示作品をひょうひょうと解説した。(中略)……1940年代後半、盛んに描いた骸骨の絵については『骸骨を見たいと言ったら、九州大に勤めていた妹が標本を風呂敷に入れて持ってきた』と振り返り、笑いを誘った。(中略)……2月に美術誌の連載をまとめた『やっぱりアトリエ日記』を刊行し、大阪高島屋でも個展が始まった。老いてますますにぎやかな春を迎えている」――簡潔で、要を得た文章。さすがに読売新聞の記者。大文字で「老いてなおにぎわう春」のタイトル。
・2月25日(火)、日本経済新聞の22、23面を観て、びっくりした。2面を使った大広告である。「日本交通文化協会はおかげさまで65周年。」と題し、「当協会は、わが国の芸術・文化の発展の一助となるべく、パブリックアートの普及・振興事業、育英事業、そして展覧会事業に取り組んでいます」……。その手段として「日本に『1%フォー・アーツ』の実現を」と大々的に主張。「芸術アカデミー構想」を強力に推進しますと宣言する広告。この中に、意義に共感し、故・平山郁夫氏をはじめ、多くの芸術家が制作に参加。名前(敬称略)を挙げれば、福沢一郎、高橋節郎、野見山暁治、片岡球子、澄川喜一、平山郁夫、宮田亮平などなどの方を挙げた。野見山さんは「創造する魂、広がるパブリックアートの世界」で、「絵を描くことは、子供に帰れ、原始に帰れと、今まであった大人を洗いざらい捨てていく戦い」と述べた。添えられた写真は、ステンドグラス制作中の野見山暁治さんと、もう一つ、「そらの港」(福岡空港・2013年)の写真が紙面上に掲載されていた。
・3月9日(日)のNHK Eテレ「日曜美術館」で、野見山さんが取り上げられた。この番組を、僕は食い入るように見た。長いお付き合いで知っているつもりでも、こうして山あり谷ありの来し方を見てみると知らないことも多い。東京美術学校を繰り上げ卒業して戦地に送り込まれた野見山さん。病魔に襲われ、戦地で死の淵をさまようことになる。死地を脱して1947年に描かれた自画像からは、生気が感じられない。これからどう生きていくのか、何を描いていったらいいのか、といったあせりと不安、虚無感が滲み出ている。
・1952年、32歳の時にフランスに私費留学する。3年後には日本に残した妻・陽子さんを呼び寄せ、幸せな生活を始める。好事魔多しとはよく言ったもの。その陽子さんが癌を発症、29歳の若さでこの世を去る。愛妻の死を両親に報告する義務があるとして、野見山さんは断腸の思いで陽子さんとの日々を綴り、『愛と死はパリの果てに』(講談社、1961年)を上梓する。そして改題再版して『パリ・キュリィ病院』(筑摩書房、1979年)を刊行している。後者に使用された装画やスケッチは、すべて陽子さんの描いた絵だ。女学生の頃、妹さんのところに遊びに来ていた陽子夫人は、妹さんの呼び方を真似ていつも野見山さんを「お兄ちゃん」と呼んでいたらしい。看病の日々。死の床から「お兄ちゃん」と呼ぶ声がする。愛妻の最期を看取った野見山さんの、胸中たるやいかばかりだったのか、想像するに余りある。
・野見山さんはその後、後妻として福岡でクラブを経営していた女性を迎え、東京と福岡での別居結婚の形をとった。その妻・京子さんも20代から癌などの病歴があったが、野見山さんは健康面・店の経営面から支えつづけた。後妻は後年までクラブを切り盛りするも、2001年、体力の限界などからクラブを完全閉店し、まもなく逝去した。その時、名物女将ぶりを慕っていた川鍋燿子さんが追悼の席を企画し、司会などをした。各界の人々が参集して、当時『週刊新潮』に載って話題を呼んだものだ。野見山さん、よくよくついていない。「行き暮れてひとり」のタイトルがテレビを観ていた人の胸にジーンと迫る。
・野見山さんのアトリエは練馬にあり、すぐ近くを石神井川が流れている。40年前に建てたものだ。コンクリートの箱のような家。仕切りがなく100平米のアトリエ空間が広がる。アトリエから小さな階段を上がり、ドアを開けると書庫兼書斎がある。ここで野見山さんは『四百字のデッサン』(河出書房新社、1978年)で、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞して以来、画家・野見山暁治の他、エッセイスト、文人として原稿を書く。夥しい数の自著が並ぶ。戦争体験、芸術論、交遊録、アトリエ日記など、書くジャンルは広い。東日本大震災から3ヵ月後、已むに已まれず、現地を訪ねている。人間の知恵が人間を欺く浅はかさを見極めたい、の強い気持ちとともに、わくわくするような好奇の眼で、自然が作り出した異様な形態に心惹かれている自分がいる。野見山さんは、絵描きの業というものを考えさせられるのだ。日が経つにつれて、野見山さんは確信するに至る。原発を作ったことが間違いだ、と……。人間がそこまで手を染めたとき、これで地球は壊れると、確信に近い畏れをもった、と『やっぱりアトリエ日記』に書いている。
・なお、野見山さんの実妹は作家・翻訳家の田中小実昌さんの妻であった。小実昌(「こみまさ」が正式な呼び方だが、「こみしょう」が愛称だった)さんが2000年2月27日、旅先のロスアンゼルスで亡くなるまで、実の兄弟のような温かい交流があった。例えば、小実昌さんが訳した『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(原作ジェームズ・M・ケイン)は、5人くらいが訳しているが僕はどの訳者の翻訳より断然こなれていて上手いと思った。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、ルキノ・ヴィスコンティ監督などによって、4度映画化されている。「こみしょう」(田中小実昌)さんが生きていたら、野見山さんと文章の掛け合い漫談を仕掛けたいところだった。小実昌さんは著書もあるが、路線バスの旅が大好きで、ふらりと飛び乗って、いい景色、いい町、いい飲屋にたどり着く。そこで出会う人との交流を楽しんだ。アメリカ、メキシコなどにふらっと出かけていた。特にメキシコがお気に入りだった。当然、現地でも庶民の生活に溶け込んでしまう。だからスラングには滅法強かった。ある映画評論家に聞いた話だが、試写室で小実昌さんと映画を観ていると、笑いがずれる。笑うのが一瞬早いのだ。また、字幕では特に面白いことを言っているわけでもないのに笑うこともあったらしい。スラングを理解している小実昌さんだからこその話である。当然、翻訳にもその特技が生かされたわけだ。
・野見山さんは、自然の脅威について、郷里飯塚に近い福岡県糸島市にある、もう一つのアトリエでも実感している。普段は目の前に姫島があり、穏やかな景色が広がる風光明媚な場所だが、ひと度、大自然が荒れ狂うと大事なものを根こそぎにしていく。美しいものは現象でしかない。本質は魔性性(デーモン)を秘めていることを気づかされたという。その魔性性を捉えなければ、画家は自然の本質を描いたことにはならない、と……。「ある証言」という絵には、自然の猛威に、後添いの京子さんが大事にしていた甕が割れる瞬間が描かれている。なるほどと腑に落ちた。同様に2011年、震災を見た後に描かれた「ある歳月」という絵がある。野見山さんの心の動揺が透けて見える気がした。混沌、不協和音、不安、あせり……見たままを勿論描いているわけではないが、そんなものが感じ取れる。そしてその絵は野見山さんなりの鎮魂歌であったのかもしれない。少しずつ絵のなんたるかが見えてきたとはいえ、「行き暮れてひとり」。野見山さんの心境を表した言葉だという。なんのために絵を描くのか、どう描いたらいいのか、93歳にしてまだ模索し続けている野見山さん。僕はそんな野見山さんをただただ静かに見守っていたい。
懐かしい写真をお見せしたい。野見山暁治さんとのツーショット。撮影者は故・長島秀吉君、場所は杉並区方南町にあった長島葡萄房。思い出が詰まった写真。
2014.02.21小野田寛郎さん
小野田寛郎さんと僕(撮影:臼井雅観君)
小野田寛郎さんを扱った本。弊社では二冊、出させていただいた。
・2014年1月16日、小野田寛郎さんがお亡くなりになった。1922(大正11)年、和歌山県の生まれ。享年91。来し方をざっと振り返ってみる。小野田さんは、1944(昭和19)年、陸軍中野学校二俣分校に入校。同年、フィリピンのルバング島へ派遣された。以後30年間、終戦を信じず、仲間と戦争状態にいたわけだ。いわば青春の大半をかの地で失った。上官から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く」との言を肝に銘じて戦い抜いた。任務解除命令を受けられないまま「残置謀者」として情報収集、遊撃、後方攪乱する目的の戦闘任務を遂行し続けた。1974(昭和49)年、ついにルバング島において直属機関長の上官だった谷口元陸軍少佐から作戦解除命令書伝達式を受け日本に帰還した。小野田さんはその時、すでに52歳になっていた。
・帰国後の日本は、小野田さんを絶望の淵に追い込む。人心は乱れ、道徳・秩序もなく、変わり果てた日本に違和感を覚えたのだ。「ルバング島での証人なき戦い」という言葉に発奮した小野田さんは、自らの力を証明するため、新天地ブラジルで一からの牧場開拓を決意する。町枝さんという恰好の伴侶を得て、最終的に成田空港より広い1128ヘクタールの土地を手に入れる。広大な原生林である。生い茂る樹木は切り払い、ブルドーザーで開墾して牧場用地を開拓する。ここで念願の小野田牧場を始めることになる。この時買ったブルドーザーは、今に至るも現役。酷使に酷使を重ねたので、歯がすり減ってしまった。小野田さんはどうしたかというと、町で鉄板を買い求め、すり減ったキャタピラに自分で溶接して歯をつけてしまった。このように小野田さんは器用でメカにも滅法強かった。
・飼育する肉牛は実に1800頭。種牛を買って子牛を育て、少しずつ頭数を増やしていく。7年間は無収入だった。仕方がないので、ブルドーザーを時間貸しするなどして糊口を凌いだ。ついに8年目から、牧場経営が軌道に乗り始めたのである。牧場の写真を見せてもらった。写真は広大な小野田牧場を捉えていた。雄大な大地に沈みゆく夕陽。鮮やかな花々。何もかもスケールが違う。パンパを渡る風が感じ取れるような写真だった。カメラの腕も玄人はだしで、メカに強いというのも腑に落ちた。ただ小野田夫妻の心残りは後継者の問題だった。幸い町枝さんの妹さんに男の子が生まれた。このご子息を養子に迎え、後継ぎ問題も解決している。
・1980(昭和55)年11月29日、衝撃的な「金属バット殺人事件」が起こる。神奈川県川崎市に住む20歳の予備校生が、両親を金属バットで殴り殺した事件であった。受験戦争やエリート指向が巻き起こした悲劇とされ、話題を呼び、ノンフィクションやテレビドラマの題材ともなった。この報をブラジルで知った小野田さんは心を痛め、いてもたってもいられずに立ち上がる。このままでは日本はダメになる。次代を担う子供たちを救いたい、との強い思いから帰国する。健全なる人間形成と、文化社会と自然との共存のためにも、自然教育の必然性を痛感し、1984(昭和59)年7月より野外教育活動『小野田自然塾』を開校したのである。御年62歳であった。
・全国各地でキャンプを開催。多くの青少年たちにサバイバルの知恵を施した。以来、毎年約1000名の子供達の指導にあたった。自然塾で教育してきた子供たちはのべ2万人を超える。小野田さんは言う。「今の日本人からはたくましさが消えた。平和ボケしている一方で、自殺や引きこもりなど人生を放棄する若者たちもいる。これらはいずれも人間が本来持っている野性味を失った結果ではないか」と……。大自然を舞台にしてのサバイバル訓練のような体験から、自分で自分を背負う、自立心・自律心を養うカリキュラムを組んだのである。極限状態の中で生き抜き、戦い抜いた小野田さんならではの発想であった。
・弊社は、小野田寛郎さんを扱った本を二冊出させていただいた。一冊は、『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』(小野田町枝著、2002年)、もう一冊は、『魚は水 人は人の中――今だからこそ伝えたい 師小野田寛郎のことば』(原 充男記・小野田寛郎談、2007年)である。最初の本は、著者が小野田夫人の町枝さんである。妻の立場から寛郎さんとの来し方を振り返っている。苦楽を共にしてきた2人は、まさに戦友という言葉がよく似合う。共に闘ってきたその思いが凝縮されている。微笑ましい話なのでよく覚えているが、お二人はお風呂を必ず一緒に入ったという。きっかけは、町枝さんが入浴中に、大きなヘビが浴室に入ってきたことによる。ブラジルには毒ヘビが多く、10匹に8匹は毒ヘビだという。以来、寛郎さんと一緒にお風呂に入るのが日課になった。2人で入浴することで、その日の出来事を振り返ることもできる。青い月の光が差し込んでいた。こんな穏やかな夫婦のひと時があったから、明日への活力が湧いてきたのである。
・実は『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』を弊社から刊行できたのには理由がある。町枝さんは大手出版社のK社社長から、本を出すならK社からと依頼を受けていた。もう一つ、K社にこだわる理由があった。このK社の出版物(漫画)を小野田寛郎さんはよく子供の頃読んでおり、昔からファンだったのだという。だから寛郎さんの強い思い入れもあった。K社で出したいという思いは僕にもよく理解できた。町枝さんは元気の塊のような方である。だからこそ一途にブラジルまで小野田寛郎さんを追いかけた。そんなバイタリティの持ち主だった。
・この町枝さんは、弊社近くの九段会館でのイベントに参加することもあり、よく弊社を訪ねてきた。弊社の空気が肌に合い、居心地がいいのだという。町枝さんが入ってくるとすぐに分かった。とにかく声が大きい。「こんにちはー!」と言いながら入ってくる。入ってきた途端、社員全員、アッ町枝さんだ、とわかったものだ。僕もなんとなく馬があって、よく雑談に花を咲かせた。そのうち、町枝さんは「私、本を出すなら清流出版で出したい」と言い出したのだ。弊社にとっては願ってもないお話である。お二人の波瀾の人生を単行本に出来れば、大いに話題を呼ぶに違いない。そう確信したからだ。
・しかし、その話があって、実際に単行本として刊行するまでには3年ほどの時間がかかった。無理もない。町枝さんは文章を書く専門家ではない。ブラジルでの牧場経営もあるし、日本に帰国すればしたで、寛郎さんへの講演の依頼、取材依頼の電話がかかってくる。町枝さんがスケジュール管理をする秘書的な役割をこなしていたから、超多忙な毎日であった。執筆にかける時間も限られていた。よく最後まで頑張って脱稿してくれたものだと思う。おかげ様でこの本は新聞、雑誌、テレビにとマスコミでも取り上げられ、大いに話題になった。さらにプラス材料があった。町枝さんの営業力である。とにかく顔が広くて、明るい性格だから経営者にも好かれた。だから他の本には見られない、企業の一括買いが多かった。200冊、300冊と一括受注した町枝さんは、すべて自筆サインをして送っていた。そんな相乗効果もあって、刷数を重ねることになった。大いに弊社に利をもたらしてくれたのである。感謝の言葉もない。
・寛郎さんの講演会場に訪ねるなど、ご夫妻とは何度かご一緒したことがある。食事もご一緒したが、寛郎さんは見事に肉食中心であった。大きなステーキを頼んで、美味しそうに平らげていた。付け合わせの野菜はおざなりに手を付けるだけ。町枝さんが「うちの人、野菜を食べてくれないんですよ」と嘆いていたことを思い出す。それにしても寛郎さんは健啖家であった。多少、耳が遠いくらいで元気そのものに見えたので、白寿は超えられるに違いない、と思っていた。
・小野田寛郎さんの座右の銘は「不撓不屈」であった。ルバング島の戦場を含め、六十余年心に秘めてきた言葉だという。その小野田さんが、こんな言葉を遺している。「貧しさや乏しさは耐えられる。問題は卑しさである」と……。金銭至上、物質至上で心が置き忘れられた日本人一人ひとりが、心して受け止めたい言葉である。寛郎さんの死後、町枝さんは体調を崩されていると聞く。無理もない。かけがえのない唯一無二の戦友を失ったのだから。戦後、われわれ日本人が失った信義、礼節、矜持、自尊心……そして、親と子、教師と生徒、上司と部下との関係が崩れ去った今日、小野田寛郎さんが残した多くの行動や言葉をもう一度問い直すのが、われわれの務めであろう。そしてそれを生の言葉で伝えられるのは、寝食を共にしてきた町枝さんだけである。是非、お元気になって小野田寛郎さんの遺志、否遺言を後世に伝えていって欲しい。そう心から願っている。
・余談であるが、今回、「小野田元少尉発見」を週刊誌がどのような視点で捉えたかのかが気になって、古本屋、図書館等を当たったが、どこにもなかった。幸いにも友人の津田英治さんが『週刊朝日 緊急特集 1974.3.25号 小野田元少尉 ルバングの30年 第1次捜索から帰国まで』(朝日新聞社、定価100円)を所蔵していることがわかり、お借りして読むことができた。冒頭に、「生還小野田元少尉の決定的瞬間」を取り上げたモノクロ写真5頁を含む総74ページの特集記事であった。内容も、経歴から始まって、ご本人帰国時の羽田空港での記者会見で、寛郎さんは、戦友の「小塚を殺され、私は復讐心に燃えた」と発言している。その他にも、「知られざるルバング救出作戦秘話」、30年ぶりに明るみに出たもう一つの「日本謀者」、現地記者座談会「成功した静かな救出」、「小野田少尉殿 社会復帰の方法をお教えします」(横井庄一)、酔うように日本語をしゃべり続けた小野田元少尉、“軍国の母”小野田タマエさんを取り巻く家風、47年10月の捜索の時は(江森陽弘)、と盛りだくさんな内容。大岡昇平、山本七平、藤原彰、秦郁彦の4名による「皇軍堕落の歴史を探る」という座談会も組まれていた。更には、直属機関長の命令を待ちつづけた「残置諜者」、「戦う人」が「生きる人」になるための儀式(原田統吉)、ルバング戦記、世界が見る孤独の30年、マンガ「諜者 命令ヲマツ」(おおば比呂司)と続く。週刊誌の特集号とはいえ異例の充実ぶりだった。
・そして、その号の編集長は涌井昭治となっている。懐かしい名前だ。僕はかつて涌井さんに連載原稿を頼んでいて、朝日新聞社通いをしていたものだ。涌井さんを執筆陣に迎えたのは、もと朝日新聞記者で文明評論家の森本哲郎さんが推薦されたからである。その森本さんも本年1月5日、88歳でお亡くなりになられた。以前、このコラムで森本さんを取り上げたことがあるが、また1人、僕が懇意にしてきた著者が泉下の人となったわけだ。残念だし、寂しいものである。話が飛んでしまったが、この『週刊朝日 緊急特集 1974.3.25号』は、いまや朝日新聞社にも在庫が1冊もない。津田英治さんには永久保存すべき雑誌であることをお伝えした。
婚約時代、迎賓館の前で
結婚式で、永遠の愛を誓う
ブラジルの農場を闊歩する小野田寛郎・町枝夫妻
写真は『私は戦友になれたかしら――小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』(小野田町枝著、2002年、清流出版)から
2014.01.22芳賀綏さん
芳賀綏さんから近著を贈られた。混迷の世、是非読んで欲しい内容だ。
・評論家、東京工業大学名誉教授の芳賀綏(はが・やすし)さんから、近著『日本人らしさの発見――しなやかな〈凹型文化〉を世界に発信する』(大修館書店、定価2000円+税、257ページ)を贈られた。早速、読んで、素晴らしい内容に感銘を受けた。現在、日本は政治から外交、環境、文化……諸々の状況で、危うい岐路に立たされている。そのような混迷の時代を生き抜く意味で、皆さんに是非、お薦めしたい書籍である。早速、ブログで取り上げることにする。なお、この本は芳賀さんが同じ大修館書店から刊行された『日本人らしさの構造――言語文化論講義』(定価2000円+税、322ページ、2004年)と対をなすもので、ほぼ10年がかりで発刊にこぎつけたという。
・本の内容を触れる前に、日本語学者・芳賀綏さんの略歴を簡単に紹介しておきたい。昭和3(1928)年生まれ。北九州市のご出身。昭和28(1953)年、東京大学文学部国文学科卒業。東洋大学・藤女子大学・法政大学各助教授、東京工業大学・静岡県立大学各教授、旧西独ルール大学客員教授を経て、現在、東京工業大学名誉教授。この他、NHK部外解説委員、BRC(放送と人権等権利に関する委員会)委員長代行などを務めたほか、NHK「視点・論点」「ラジオ深夜便」等に出演多数、産経新聞「正論」欄メンバーのほか、活字・電波メディアの評論で活躍中である。
・芳賀さんの著書も紹介しておこう。『日本語の社会心理』(人間の科学社、2007年)、『日本人の表現心理』(中央公論社、1979年)、『言論と日本人――歴史を創った話し手たち』(講談社学術文庫、1999年)、『定本高野辰之』(郷土出版社、2001年)、『売りことば買いことば』(日本経済新聞社、1971年)、『新・売りことば買いことば』(人間の科学社、1994年)、『失言の時代 ことばの十字路』(教育出版、1976年)等、多数ある。
・弊社からも二冊、刊行させていただいている。『威風堂々の指導者たち――昭和人物史に学ぶ』(2008年)と、『昭和人物スケッチ――心に残るあの人あの時』(2004年)である。なにしろ博覧強記のご仁であり、政界、芸能界、角界、ジャーナリズムにと幅広い交際関係をお持ちで、透徹した鋭い観察眼と驚異的な記憶力に裏打ちされた人物論は、他の追随を許さない。イラスト風のスケッチも得意とし、弊社刊行の二冊ともご本人の装画・さし絵付きである。『威風堂々の指導者たち――昭和人物史に学ぶ』は、戦後を貫く政治の大きな流れを描く一方、吉田茂、石橋湛山、三木武夫といった日本を牽引した政治家の知られざるエピソードと、似顔絵等によってその人となりを浮き彫りにする。また、『昭和人物スケッチ――心に残るあの人あの時』は昭和の“人間山脈”を、希代の筆致で見事にスケッチして見せる。まさに“人間山脈”という名に恥じない登場人物で、ジャンルとしては三つに分けられる。福田赳夫、海部俊樹、中川一郎といった政治家たち、田中絹代、杉村春子、森繁久彌といった芸能人、宮本常一、阿川弘之、臼井吉見など言論人といった色分けで、実に多士済々である。添えられた似顔絵も、プロのイラストレーター顔負けで、それぞれの特長を過不足なく捉えていて文句なしの傑作だ。これだけでも楽しめるほど。
・さて、最新刊『日本人らしさの発見――しなやかな〈凹型文化〉を世界に発信する』の内容に触れるが、基本的には、日本人にお馴染みの「和を以て貴しとなす」〈凹型文化〉を世界に広めていくことの重要性を説いている。そもそも対をなすこの二冊の本を刊行するきっかけとなった論稿があるという。それは、文化人類学者・石田英一郎博士の『自由』、『中央公論』各誌上(1961年)に発表した論稿で、芳賀さんは一読、この考え方に触発された。芳賀さんご自身の日本文化論、比較文化論的日本人論の原点になったとまで書いている。
・芳賀さんが石田英一郎博士から学んだという核心を次に掲げる。(1)日本人のコア・パーソナリティと見るべきものは、遅くとも弥生時代の稲作農耕民の間には形成されて永続してきた、(2)グローバルに見渡すと、牧畜の長い伝統を有する文化圏と日本は隔絶して異質の文化圏を形成しており、そこに日本の特性がある、とした考え方であった。(1)を主眼として日本文化の内部を照射したのが前著『日本人らしさの構造』であり、新著では(2)に軸足を置いて、地球上に分布する牧畜主体の凸型文化圏と日本が属する農耕主体の凹型文化圏の多面的・重層的な比較をしたものだ。多様な具体例を駆使して縦横に論を展開して、そこから”日本人らしさ”を浮き彫りにしようとしている。
・攻撃・征服を当然のこととする凸型民族、とりわけ白人諸民族は、自己の文化的所産というべきものを後進諸国に押し付けるように広めてきた。西欧文明の物的側面である科学技術は、結果的に大きな問題を引き起こすことになった。すなわち、環境破壊、ひいては人間を含む自然界の生命の危機に陥ったのである。地球生命科学・深海生物学などの立場から、有限の地球システムを維持するためにはどうすればいいのか。淡泊で控えめであった凹型国家日本は、先進国の一員でありながら、世界の脇役に位置し続けてきた。しかし、ことここに至って、人類中心の視点から人間も自然の一要素という考えに立ち還って考えざるを得なくなった。
・八百万の神々を信奉し、自然と共に生きてきた日本人。人間も自然の一要素という考え方こそ、日本人本来の自然観・宇宙観そのものではないか。アニミズムの伝統の息づく日本人こそ、今世界からもっとも待望されているというのである。「愛でる」「いつくしむ」「思いやる」……日本人の細やかなる心遣い、繊細な意識の素晴らしさは、自他を対立と捉えるのではなく、自他を一体感として捉える考え方にある。芳賀さんは、世界史の転換点ともなる今世紀、凹型日本文化は脇役に甘んずることなく、主役としてその美風を世界に発信して、地球と人類の生命を守る新文明を創出すべき使命があると説く。僕もこの論稿には大賛成だ。是非、次代を担う若い世代の人々にも読んでいただき、地球存亡の危機を日本人主導で堂々と乗り切って欲しいと念願している。
・僕が芳賀さんと知り合ったのは、今からほぼ40年前のことになる。芳賀さんが旧西独ルール大学客員教授だった頃、僕はダイヤモンド社で創刊間もないマイナー雑誌の編集者をしていた。その雑誌に、「今遠く日本を離れて、日本の政治状況はどのような問題があるか、率直に書いてくださいませんか」と原稿依頼をしたのだった。面識があったわけでもなく、創刊したばかりの無名の雑誌である。多分、断られると覚悟していたのだが、芳賀さんは快く引き受けてくださった。独自の視点から日本の政治状況を抉ったタイムリーな原稿を、掲載することができた。
・芳賀さんに協力していただいた企画が、もう一つある。芳賀さんと知り合った頃、僕が発案した企画がある。『情報源に強くなる』というムック本がそれだ。今でいう『マスコミ電話帳』の原型といったら分かりやすいだろう。ビジネスジャンルを中心に、3000人の住所、連絡先、学歴、著書、所属学会、研究テーマ等のプロフィールなど、個人情報を入れた情報源であった。幅広く日本の状況を鑑みて、ビズネス・ジャーナリズム、政治、経済、社会、経営一般、国際経営、法律、教育、人事・組織・管理、労働・労務、情報管理、マーケティング、会計・経理、コンピュータ、生産管理、行動科学・心理学、理学、工学、農学、薬学・医学、哲学、マスコミ論、科学・技術評論、ルポライター、イラストレーター、写真家、文化人、作家・評論家など28ジャンルに分けた。それぞれの分野でブレーンとなる方々をピックアップし、一冊にまとめあげたのだ。このメタ情報は都合三回ほど発行したが、僕の手元に残っているのは、最後の刊行となった『1980年版 情報源に強くなる本――あなたのブレーン3000人』(週刊ダイヤモンド別冊、1980年)しかない。
・最後となったこのメタ情報誌の「政治」欄を見ると芳賀さんの名前もある。その中で芳賀さんは、専攻分野として「日本の政党、政治文化」、今後1年間の研究テーマとして「日本人の政治心理、日本人の言語」、所属団体として「日本社会心理学会、日本記者クラブ」と書いている。また、趣味欄には「旅行、写真、相撲」とお書きになっている。このメタ情報誌を完成した後、僕はやっと念願だった出版局に人事異動することができた。長年、経済畑の記者・編集者として雑誌部門と離れられなかったが、夢が叶って出版局に異動し、単行本のジャンルに挑戦することになったのだ。その意味では僕の人生にとって最後の記念すべきムックとなった。年齢も40歳になっていた。
・芳賀さんは博学の上、無類の記憶力の持ち主でもある。あまりの詳細な情報力に唖然とさせられることも度々であった。例えば、大相撲の話である。笠置山という相撲取りがいた。笠置山の息子さんと僕は高校の時、同級生だった。そこで、話題として出したところ、芳賀さんにかかれば、笠置山のデータベースがすでに頭の中にあって、たちどころにこんなエピソードを引っ張り出してきた。笠置山は理論派として知られ、早稲田大学を卒業したインテリだった。だからといって、早稲田大学の相撲部に所属したことはない。大学相撲には一切関わらなかった。双葉山を破ったら、それを花道に引退しようとしていたともいう。とにかく、へたな大相撲解説者以上に詳しい。僕がかつて月刊『レアリテ』誌でドイツ文学者、評論家、随筆家だった高橋義孝さんの編集担当を務めたことがある。その高橋さんは横綱審議会委員長として素晴らしい識見と幅広い知識の持ち主だったが、芳賀さんも高橋さんに比肩する才の持ち主である。
・また、芳賀さんの話がプロ野球草創期に転じたことがある。1950年、日本職業野球連盟は大地殻変動により、12球団がセパ両リーグ6球団ずつに分裂した。その時の、阪神タイガーズと大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)との因縁話を微に入り細を穿つように語った。いまや当時のことなど、事情通でも記憶が曖昧になっているはず。ところが、芳賀さんのデータベースに不可能はない。名実ともに巨人と対等の強豪だった阪神が、セパ両リーグに分かれるとき、主力を新球団大毎オリオンズにひき抜かれたというのだ。1番 金田、2番 呉、3番 別当、4番 藤村、5番 土井垣、6番 本堂、7番 大館、8番 長谷川、これは当時ダイナマイト打線と呼称され、巨人と何ら遜色のないオーダーだった。ところが阪神タイガーズに残留したのは金田、藤村だけで、大エース若林まで引き抜かれてしまう。この被害の甚大さは、大毎オリオンズが第一回の日本シリーズの覇者になったことで証明される。このように立板に水のごとく解説し、昨日あったことのように鮮やかな印象で語る。総じて、プロ野球の細部のことに関しては、芳賀さんの話を聞いて、うなずかされることが多かった。
・芳賀さんの話で、僕が一番関心あったのは、文部省尋常小学校唱歌のジャンルである。数々の唱歌・童謡を手掛けた作詞家の高野辰之のことは、芳賀さんが監修した大型本『定本 高野辰之』(郷土出版社)の本に詳しい。長野県出身の国文学者・高野辰之は、「春の小川」「故郷(ふるさと)」「朧(おぼろ)月夜」「春が来た」「もみじ」などの歌を作詞したほか、専修大学、松本商業学校(現松商学園高校)校歌をはじめ、100近い学校の校歌の作詞も手掛けた人物である。聞くと、芳賀さんの奥様(文子様)の祖父に当たるという。大型本『定本 高野辰之』は、現在、図書館でしか見ることができない。だが、デイサービス(老人福祉施設・通所介護事業)では、老人たちが喜びそうなことをいろいろ催すが、これら高野辰之をはじめとする唱歌がもっとも人気があるという。
2013.12.18天満敦子&岡田博美のデュオ・リサイタル
2013.11.22猪狩誠也さんと月刊『清流』を囲む会
自由学園クラブハウスしののめ寮の方々
●猪狩誠也さんの提案
・11月のある晴れた金曜日、僕は東久留米市学園町にある自由学園に招かれていた。自由学園といえば、キリスト教精神に基づいた教育の実践を理想に掲げ、1921年4月15日に開校されている。校舎は当初、東京府北豊島郡高田町(現・豊島区)にあったが、1934年、東久留米市に移転され、現在にいたっている。ここでの楽しく且つ有意義に過ごした1日を書いてみたい。招かれたメンバーは、僕のほかに、月刊『清流』編集長&出版部長の松原淑子、それに弊社外国版権担当の斉藤勝義顧問である。なぜこの3人が呼ばれたのか、不思議に思われる方もおられよう。僕の古巣であるダイヤモンド社の大先輩、東京経済大学名誉教授・猪狩誠也さんからのお誘いだったからである。付け加えれば、顧問の斉藤勝義さんも同じダイヤモンド社出版局の同僚であり、奇しくも猪狩さんと同じ東久留米市の住人だったからである。
・猪狩誠也さんには、大学のほかに、もう一つ肩書がある。「自由学園クラブハウスしののめ寮」の寮長という肩書がそれ。しののめ寮では、「二金会」という集まりを持っている。「二金会」では、社会から色々なことを学ぶため、外部から人を招いて話を聴いたりする。その人選を話し合ううち、メンバー数人が、月刊『清流』を話題にし、良い雑誌であると盛り上がったそうだ。猪狩さんは「その雑誌は、よく知っている人が創刊した雑誌だ。ここにゲストとして来てもらえるかどうか、話してみようか」とメンバーに図り、了承を得たのである。猪狩さんから弊社へは、こんな提案がなされた。「主にご婦人が対象だから、出版社を知らない方が多い。そんな方にもわかりやすく、清流出版という会社の出版理念について語ってほしい。また、月刊『清流』の編集コンセプトや具体的な編集作業の流れなどについても、話してくださいませんか」と。
・そもそもこの話がきたのは、半年前までさかのぼる。猪狩さんは、こちらの都合も慮ってじっくり時間をとってくださった。4月に最初のお電話があり、翌5月にはご本人と、「しののめ寮」幹事役のご婦人が、打ち合わせのため来社された。その幹事役、宮崎一江さんも『清流』の有料購読者であり、毎号、愛読してくださっているとのこと。弊社としてもより一層、清流出版という会社を知ってもらえるし、これまで購読していただいた方へのご恩返しの機会でもある。そんな観点から、『清流』編集長、松原淑子が全面的に対応することになった。松原は、更なる万全を期すため、東久留米の自由学園に都合2度、打ち合わせに出掛けている。
・以下、冒頭に猪狩誠也さんが挨拶と三人の清流出版メンバーを紹介してくれた。それを受けて松原淑子の簡単なこれまでの経緯と御礼の言葉があり、次は僕の挨拶となった。
●加登屋の挨拶
・清流出版という小さな出版社を創りました加登屋です。不規則な生活や仕事のストレスが原因で、僕は二度、脳出血に見舞われ、言語障害となり右半身不随の身になりました。清流出版という会社、月刊『清流』についての詳細は、後で松原淑子が申し述べますので、今日、こちらにお伺いした経緯について一言、お話しさせていただきたいと思います。
・本日は、しののめ寮の寮長である猪狩誠也さんが、自由学園の自由人を育てる教育現場や建造物を見せてくれるそうで、今から期待に心が弾んでおります。自由学園といえば、池袋の明日館(みょうにちかん)が特に印象深く私の心に残っています。20世紀を代表する建築家フランク・ロイド・ライトと弟子の遠藤新(あらた)が手がけた美しい建物。1921(大正10)年、羽仁吉一(よしかず)・羽仁もと子夫妻によって女学校として創立されたことも存じています。また、お二人が始められた婦人誌『婦人之友』(元『家庭之友』、1903年創刊)は、今年4月13日で創刊110周年を迎えられるとのこと、誠におめでとうございます。
・今回、招いてくださった猪狩さんは、ダイヤモンド社で取締役出版局長や子会社の「地球を歩く」シリーズで有名なダイヤモンド・ビッグ社の社長を務めたお方です。20代にして目覚ましい業績を上げ、社会心理学者の南博さんや石川弘義さんらの知遇を得て、社会心理学研究所に入所され、社会心理学の研究にも勤しんでこられました。それがご縁で、南さんや石川さんが学んだ成城大学でもパブリック・リレーションズの講義をされています。また、ダイヤモンド社をお辞めになってからは、現代経営研究会を設立し、現代広報研究所長などを歴任。その後、東京経済大学コミュニケーション学部の発足に伴い招聘されて教授になりました。2004年、定年退職となり、同大学の名誉教授です。現在、日本広報学会副会長、経営行動研究学会理事等などを務めておられます。猪狩さんは、私の知るダイヤモンド社諸先輩方の中でも、最も輝けるキャリアの持ち主ではないでしょうか。
・こちらにお伺いしたかったもう一つの理由、それは御校ご出身の市岡揚一郎さんの存在です。市岡さんがどんな環境のもとで、どう学び育ったのか、私は興味津々でした。市岡さんの業績は30年ほど前から認識しておりました。上海生まれで、自由学園最高学部を卒業し日本経済新聞社に入社、ワシントン支局長、総編集次長等を歴任された後、作家(ペンネーム水木揚さん)として世に出ました。現在、学校法人自由学園の理事長を務めておられます。市岡さんは、今から28年前、サイマル出版社から『アメリカ100年の旅――新・米欧回覧実記』という本をお出しになっています。岩倉具視が率いた明治時代の遣米欧使節団一行の随行員の一人でもあった久米邦武が編纂した『米欧回覧実記』を題材にしたものでした。実に632日に亘る岩倉使節団の大旅行の精細な記録で、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など、明治の主要な閣僚が参加し2年弱の長きにわたって日本を留守にした使節団でした。政府のトップが長期間政府を離れ外遊するのは異例でしたが、直に西洋文明や思想に触れたという経験が彼らに与えた影響は大きく高い評価を受けました。その著書に魅せられ、ダイヤモンド社出版局の編集者であった私も類書に挑戦することにしました。 市岡さんの刊行から遅れること2年、今から26年前のことになりますが、無事刊行にこぎつけることができました。書名は『新・米欧回覧の記――世紀をへだてた旅』。本書の著者、泉三郎さんは、1996 年、「米欧亜回覧の会」を創立し、同会の代表を現在に至るも務めておられます。市岡さんのご著書がきっかけとなり、このような意義深い会が生まれたのであり、感謝の念に堪えません。
・最後になりましたが、私どもが編集している月刊『清流』を、8000円という少なくない年間購読料にもかかわらず、宮崎一江さん以下、東久留米市学園町にお住まいの方々が有料購読して下さり、本当に有難うございます。同じ町内にこのように購読者が沢山いてくれることは、わが社にとって奇跡ともいうべきこと。今後とも、よろしくお引き立てのほどお願いいたします。
松原、斉藤、加登屋の清流出版メンバー
●松原編集長の説明
・続いて松原編集長が、(1)なぜ、この催しが実現したのか、(2)月刊『清流』創刊から今日までの道のり、(3)月刊『清流』が出来上がるまでの進行スケジュール、(4)制作現場においてのアクシデント、失敗談、(5)心に残る取材対象者と、制作過程の裏話など、40分にわたってお話しをした。
・大変興味深い話だったのだが、公開するのは控えたい。取材対象者がご存命であること、また毀誉に関係することもある。当日、出席者だけ記憶に留めておけばよい。だが、このオフレコの部分が、僕には一番面白かった。
この会をきっかけに清流出版という会社に興味を持ってもらうこと、定期購読者へのご恩返しすること、そんな意味でお受けした話だったので、所期の目的は達したと思っている。附随して、月刊『清流』を購読してみたいという方が出てくれば、弊社にとってこんな嬉しいことはない。
●「二金会」の催しなど
・猪狩さんは、われわれを楽しませる催し物まで準備してくださっていた。まず、当日10時から11時まで、藤枝貴子さんによるアルパの演奏会があった。アルパとは耳慣れない言葉だが、ラテンアメリカ諸国ではハープ全般をアルパと呼ぶのだそうだ。16世紀頃スペイン人が南アメリカに入植した際、カトリックの教会で使われていたハープを、原住民が真似て発展したものが現在の形になった。パラグアイ、ベネズエラ、コロンビア、ペルー、メキシコなどのフォルクローレ音楽には欠かせない楽器で、中でもアルパ・パラグアージャ(パラグアイのアルパ) は完成度が高いという。別名、ラテンハープ、インディアンハープとも。スペイン語でアルパ奏者のことはアルピスタ(arpista)と呼ばれている。藤枝さんはこの楽器演奏を習得されたのだった。演奏曲は「思い出のサリーガーデン」から有名な「コンドルは飛んでゆく」、さらには日本の「秋のメドレー」(「小さい秋みつけた」、「里の秋」、「もみじ」)、「鐘つき鳥」、最後にアンコール曲「故郷」と、われわれが好きな郷愁を誘われる選曲で大いに堪能した。アルパ独特の音色も実に心地良かった。
・藤枝貴子さんについてもう少し触れておこう。都内の音楽専門学校を卒業後、楽器店に就職された。そこでアルパの音色に出合い、衝撃と感動を覚えたという。そこで、アルピスタとして日本で活躍中だった日下部由美さんに奏法の基礎を学び、パラグアイ音楽の魅力を学び始める。全日本アルパコンクールで第3位に入賞したことを機に楽器店を退職し、パラグアイで本格的にアルパを学ぶために留学を決意する。美しい音色にこだわり続けるパピ・ガランさんに師事し、ソロアルバムを2枚制作している。
・今や東京都公認のヘブンアーティストとして路上や公園などでのライブ活動も積極的に行なっている。2011年、第1子出産後も各地でボーダーレスに活動中である。そういえば、月刊『清流』を囲む会の途中、小さい子の話し声を聴いたが、藤枝さんのお子さんの声だった。
・演奏後、楽器のアルパ、別称ラテンハープを見せてくれた。また、衣装が独特で素晴らしい。ニャンドゥティ(nanduti)といわれる民俗衣装である。
アルパ奏者・藤枝貴子さん。衣装も素晴らしい。
右から二人目が高安流大鼓方の佃良太郎さん。お父さんも高安流大鼓方の名人だ。右は、佃さんの奥様。
・次の催しに登場する方もご紹介いただいた。高安流大鼓方の佃良太郎さんである。能は、シテ方、ワキ方、笛、太鼓、大鼓、鼓、狂言……から構成される芸術である。来年5月、しののめ寮主催で演じる予定だという。
・月刊『清流』を囲む会の後、メンバーがわれわれに、お抹茶、手製のパンとコーヒーをふるまってくれた。手製のパンといっても、むしろパンケーキに近いもので、この美味しい昼食を味わったら、大抵のゲストが「二金会」にまた招かれたいと思うのもむべなるかなである。
・その後、猪狩さんは自由学園の校舎やグラウンド、各種施設や自然環境などをゆっくりと回りながら説明してくれた。乗っていた僕の重たい電動車椅子を、猪狩さん自ら手動に切り変え、誘導してくれた。恐れ多いことである。そして、自由学園の幼児生活団幼稚園、初等部、男子部中等科・高等科、女子部中等科・高等科、最高学部の各校舎を見せてくれた。約2万坪に亘る広い学校施設で、約1000名の生徒たちが寄宿舎生活を送っている。みなさん、見るからに生き生きとし、楽しい学園生活を送っていることが見てとれた。学園内には樹木や草花など丹精された植物も多い。外部の見学者が、三々五々、10名位ずつ集まって、案内役に樹木や草花の説明を受けている姿も見られた。
・自由学園は冒頭に記したように、キリスト教精神に基づいた教育の実践を理想に掲げ、女学校として創立された。だが、学校の評価が高まり、規模が拡大するにつれて手狭となり、1925年に現在の東京都東久留米市に購入した学校建設予定地周辺の土地を学園関係者などに分譲し、その資金で1934年、新しい学校施設を建設して移転した。全部合わせると10万坪にもなる敷地面積。そのうち、2万坪を使って、校舎、寮、グラウンド……等を建設した。素晴らしい学習環境である。すべて最初に計画、起案した人――羽仁吉一・羽仁もと子夫妻の優れた感性と教育への燃えるような情熱があったればこそである。「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」の標語を見て、僕は自由学園の理念を少しだけ理解できた気がした。
2013.10.24渡辺一夫さんとラブレー、エラスムス……
『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』(フランソワ・ラブレー著、渡辺一夫訳、全5巻、岩波文庫版、合計2965ページ、1973年―1975年刊行 原作1532年―1564年)
『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』の元版になった『フランス古譚 ガルガンチュワ大年代記』(渡邊一夫譯、筑摩書房刊、1943年、原作1532年)
・今回は、本の話をしてみたい。それも、仏文学の泰斗・渡辺一夫さんが僕の青春にもたらした読書の楽しみについて語りたい。渡辺一夫さんと言っても、今の日本人では一部の人しか知らないと思う。だから簡単に紹介しておこう。1901年―1975年の生涯。仏文学者の辰野隆さんに師事。東京帝国大学文学部講師、助教授、教授を経て、1962年に東京大学を定年退職。東京大学文学博士、日本学術院会員。晩年は、明治大学兼任教授、立教大学文学部教授、明治学院大学文学部教授などを務めた。その間、パリ大学附属東洋語学校客員教授も務めている。文字通りフランス文学の大家である。渡辺一夫さんは、ユマニスム(人文主義)を基盤した深い学識と透徹した眼をもち、日本社会のゆがみを批判した。とくに寛容と平和と絶えざる自己認識が必要であることを熱心に説いている。狂乱の時代に節操を堅持した知識人として、各世代に深い感銘を与えた人物である。
・ここで、一旦、話が飛ぶ。なぜ僕がフランス語やフランス文化について興味を持ったのか、語りたい。僕がフランス語に興味を抱いたのは早稲田大学の山内義雄さん(1894年―1973年)に学んでからである。アンドレ・ジッドの『狭き門』、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』などの翻訳で著名な方で、渡辺一夫さんと同じく日本学術院会員だった。早稲田大学第一政治経済学部で第一外国語をフランス語で取った正規の学生は二人だけだった。僕は山内義雄さんの授業を、ぜひ聴講したいと思っていた。高校から第二外国語としてドイツ語を選択していたが、フランス語を学びたいので聴講させて欲しいとお願いした。正規の学生であった長島秀吉君と神本洋治君が後押ししてくれたのも幸いして山内義雄さんからOKの返事が来た。
・もう一人、僕と同じ、正規ではない聴講生がいた。僕らより年齢が13歳も年上の龍野忠久さんだった。龍野さんは勤めていた時事通信社を辞め、山内義雄さんの授業に出席されていた。龍野さんはブッキシュな方で、ご自宅へ伺うと、優に五万冊以上の古書を集めていた。その生涯は河出書房、講談社、新潮社などで校閲の職をされ、僕もいろいろな方と付き合ったが、古書収集のジャンルは実に見事なものだった。龍野さんは、渡辺一夫さんの本も集めていた。その話がとても面白く、僕も負けずに渡辺本コレクターの仲間入りをした。最後に、龍野さんは、僕の持っていなかった珍しい渡辺本を譲ってくれた。本当に嬉しかった。本来なら恩師である山内義雄さんの本のコレクションだけが筋だろうが、われわれは良い本だと認めれば、手当たり次第に買って、読んだものだ。
・話を戻そう。渡辺一夫さんはフランスのルネサンス文化、特にフランソワ・ラブレーの研究で知られている。渡辺一夫さんの業績としては、翻訳不可能と言われたラブレーの『ガルガンチュワとパンダグリュエル物語』(ラブレーの原作は1532―1564年)の日本語訳を完成させたことが最大の業績であろう。その訳業で、1965年に読売文学賞を受賞。1971年に朝日賞を受賞した。
・僕は学生時代から30歳代の半ばまで、渡辺一夫さんの翻訳書をせっせと古書店巡りで集めた。現在、持っている翻訳本を、古い順から言うと、『フランス古譚 ガルガンチュワ大年代記』(筑摩書房刊)、『フランソワ・ラブレー述 パンタグリュエル占筮』(高桐書院刊)、『フランス古譚 パニュルジュ航海記』(要書房刊)、『エラスムス 痴愚神禮讚』(河出書房刊)、それに『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』(全5巻、岩波文庫版、1973年から1975年)の決定版である。もともと『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』は白水社で1941年から1964年にかけ刊行されたが、渡辺一夫さんは改訳を続け、この岩波文庫版が事実上の決定稿になった。龍野忠久さんから頂いた本も含め、僕は翻訳書を引っ越すたびに散失し、今では半分位しか残っていない。だが、ラブレーやエラスムスの筆致を味わい時には、充分過ぎるほどページがあるので、僕は満足している。
・まず渡辺一夫さんの名訳の誉れ高いエラスムスの『痴愚神禮讃』(河出書房刊、1952年)について少し触れておきたい。この本は、聖職者の道徳的堕落について語った風刺文学の傑作である。「ロッテルダムのエラスムス」とも呼ばれるエラスムスは1466年、ネーデルラント出身の人文主義者、カトリック司祭、神学者、哲学者。『痴愚神禮讃』を世に出した時は、1511年。今から約500年前のことだ。エラスムスの思想は宗教改革運動と対抗宗教改革運動の双方に大きな影響を与えた。『ユートピア』を著したトーマス・モアとの親交やマルティン・ルターとの論争でも知られている。
・最初はエラスムスとルターは、好意的関係にあったが、ルターの活発な活動により、険悪なものになっていった。事態は過激化、複雑化して、当時のドイツ情勢とからんで政治問題化していった。エラスムスの想定を超え、徐々にルターとエラスムスの思想の違いが明らかになった。神の恩寵か、人間の自由か――二大思想家が展開した自由意志論争は、ルネサンス最大の精神的な闘いであった。恩寵の絶対性に帰依するルターと理想主義的ヒューマニズムに賭けるエラスムス。教会改革で一致しながら、対立点を強調し、神と人間をめぐることの論争だった。本質的には21世紀の今も解決できていないと思うが、クリスチャンではない僕にとって、ヴォルテールの「神がもし存在しないなら、創り出す必要がある」とする理神論が僕にとって一番好ましい理論だ。
・『痴愚神禮讃』からエラスムスとルターの論争について、派生した疑問で僕の記憶に残っているのが、「よくできた頭」か「よく詰まった頭」かの闘いである。エラスムスの「賢い知性」と、ルターの「詰め込んだ頭脳」との闘いは、また、全身細身のエラスムス、でっぷり太ったルターの闘いでもあった。僕としては、断然、エラスムスの方に軍配を上げたい。
『痴愚神禮讚』(エラスムス著、渡邊一夫譯、河出書房刊、1952年、原作1511年)。
エラスムスの風貌を見て欲しい。なんと理知的な顔であろうか。
・渡辺一夫さんの翻訳書のうち一番大事なのは、『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』(全5巻、岩波文庫版、1973年―1975年)である。岩波文庫は『第一之書 ガルガンチュワ物語』(570ページ)から『第二之書 パンタグリュエル物語』(444ページ)、『第三之書』(663ページ)、『第四之書』(700ページ)、『第五之書』(588ページ)と刊行された。渡辺一夫さんの解説、訳者略註もたっぷりの総ページ数、実に2965ページである。
ここで大事なのは、本の刊行された順番は、『第二之書 パンタグリュエル物語』(1532年)の方が先で、『第一之書 ガルガンチュワ物語』(1534年)は後だということ。そして、『第五之書 パンタグリュエル物語』は、遺作品だということ。ラブレーは1553年に死んだと思われるが、第五之書は1564年に発表されている。他の四巻は例外なしに、時の思想検察当局パリ・ソルボンヌ大学神学部から、不敬・瀆聖の書即ち危険思想書として告発され、あるいは焚書処分を下されているからだ。
なお、宮下志朗(1947年生まれ、東京大学名誉教授、放送大学教授)さんが最近と言っても2005年から2012年にかけてだが、『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』の新訳版をちくま文庫から出している。新訳は読みやすいが、僕は渡辺一夫さんの訳注が大好きで、文体も古いが僕にはこの方がしっくりくる。引用する際には、渡辺一夫さんの方を使うが予め承知しておいてほしい。
・「大ガルガンチュワの世にも畏怖すべき生涯の物語」と謳ったこの本は、フランソワ・ラブレーの警句が煮詰まった本であることを言いたい。
「汝の欲するところをなせ」、
「食欲は食べていると起こり、乾きは酒を飲んでいると起こる」、
「笑いは人間の特質である」、
「時間は真理の父である」、
「良心を欠いた学問は魂の廃墟以外のなにものでもない」、
「不幸は決してひとつきりではこない」……。
巨大なガルガンチュワ
ガルガンチュワの大食と飲みっぷり
・ラブレーの特色は、文体であり、皮肉の饒舌さであり、徹底的なカリカチュア精神に満ちている。例えば、巨人ガルガンチュワがこの世に誕生する瞬間を紹介しよう。
「子供は、生まれるやいなや、世間なみの赤ん坊のように《おぎぁー、おぎぁー》とは泣かずに、大音声を張りあげて《のみたーい! のみたーい! のみたーい!》と叫び出し、あらゆる人々に一杯飲めと言わんばかりであった」(ガルガンチュワ物語 第一之書 第6章)
・母親ガルガメルと父親グラングゥジエは、嬰児(あかご)の「のみたーい! のみたいー!」と大声でせがんだのをあやすために、ぐびりぐびりと葡萄酒を飲ませ、その後、善きキリスト信者の習慣通りに、洗礼泉で洗礼を受けさせた。ここに、ガルガンチュワという命名された巨人が誕生した。なんともはや面白い文学ではあるまいか!
・また、「第一之書 第13章」では、ガルガンチュワが尻を拭く妙法を考え出した優れた頭の働きについて述べている。
「僕は長い間の熱心な実験の結果、今までなかったような、最も殿様らしい、最も素敵な、最も具合のよい、お尻の拭き方を発明しましたよ。」
「或る時、腰元の誰かの天鵞絨(びろうど)の小頭布(カシユレ)で拭いてみましたが、なかなかようございましたよ。何しろ、絹の柔らかさで、出口のところが、とてもとてもよい気持ちでした。」
その後、羽根飾りをたんまりつけた小姓の帽子、茴香(ういきょう)や、葡萄のまよなら草や、葡萄の葉や、クッションや、毛氈(もうせん)や、艶ぶきんや、考える限りもろもろの試したが、結論といたしては――、
「産毛(うぶげ)のもやもやした鵞鳥の子にまさる尻拭きはないと判断し且つ主張する者であります。鵞鳥の雛の産毛の柔らかさと言い、そのほどよい加減の暖かさと言い、お尻の穴に、得も言われぬ心地良さをお感じになりましょう」――といった文章が続くのである。
・『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』(全5巻、岩波文庫版)の総2965ページに込められた壮大な物語は、汲めども尽くせずの楽しみを与えてくれる。ここで荻野アンナさんの『ラブレーで元気になる』(みすず書房刊、2005年)を紹介したい。彼女もガルガンチュワがいたく気に入ったようで、よっぱらい、うんこ、あそびの3回に分けて、ラブレーの過激な笑いや発想を漫談調で紹介している。ところで才女・荻野アンナさんは、弊社から『とんとん拍子』(2002年)を刊行している。
・話は変わる。渡辺一夫さんの自著は、翻訳本とは違って独特の雰囲気がある。ユマニストの語り口が強い。渡辺一夫さんは名エッセイストとしても知られ、『随筆うらなり抄――おへその微笑』(光文社刊)は、1955年(昭和30年)のベストセラーとなっているほどだ。
僕が集めた渡辺一夫さんの本で、最も古い『ふらんす文學襍記』(白水社刊、1938年)。ちなみに、「六隅許六装幀表飾晝抄選於……」と自らデザインした刻印が残っている。
・僕と龍野忠久さんが集めて、現在でも残っている渡辺一夫さんの本は、『ふらんす文學襍記』(白水社刊)、『紅毛鴃舌集』(青木書店刊)、『魚の歌』(実業之日本社刊)、『ラブレー覚書 その他』(白水社刊)、『白日夢』(生活社刊)、『ルネサンスの面影』(民友社刊)、『無縁佛』(能學書林刊)、『ぶるいよん』(白日書院刊)、『架空旅行記など』(改造社刊)、『教養についてなど』(白水社刊)、『仙人掌の歌』(中央公論社刊)、『蟻の歌』(創文社刊)、『うらなり抄』(光文社刊)、『ラブレー研究序説』(東京大学出版会刊)、『三つの道』(朝日新聞社刊)、『奇態な木像』(彌生書房刊)、『へそ曲がりフランス文学』(光文社刊)、『寛容について』(筑摩書房刊)などである。本を読みたくなる時、渡辺一夫本を残して良かったとしみじみ思う。
・このユマニストの本を、どれでもよいが、ページを開くたびに漂う雰囲気がたまらない。僕が集めた中、一番古い本『ふらんす文學襍記』(白水社刊、1938年)を見てみよう。68ページに、「モラリスト」と題し、興味ある文章がすぐ目に飛び込んでくる。
「モラリストといふ言葉は極めて便利な曖昧さを有する言葉の一つとして横行し易く、これを我々は各々適当な用途に之を使用することが多いやうである。モンテーニュ、パスカル、ラ・ブリュイエール、ラ・ロシュフゥーコー、ルゥーソー、モンテスキュー、ジゥーベール、ヴォーヴナルグ、スタンダール、サント・ブーヴ、ジィド、ヴァレリー、アラン、モーロワ…に我々は時々モラリストといふ名称を与えることがある。」
この文章に初めて接した時、「よーし僕はこの人たちを残らず勉強してみよう」と思った。そしてモンテーニュ、アランの本は、原文と翻訳書でよく読んだ。残念ながら、「言うは易く行なうは難し」である。言い訳がましいが、俗事であまりにも忙しかった。
・また、同じ本の中に、渡辺一夫さんが「ヴォルテール作、池田薫氏譯『カンディード』を讀む」という小品を『文學界』(1937年5月號)に寄せているのを見て、渡辺さんも僕と同じだと思った。ちょっと長いが、結論の部分を引用してみたい。
「然し難癖をつけた所で何にもならぬ。僕は『カンディード』を耽讀した事實を告白せざるを得ない。そして、ヴォルテールに何も文句をつける筋合のものでないことを感じ、むしろ僕としてはこの痛快な似而非小説を耽讀せしめ之を黙殺する能はざらしめた僕の存在の條件たる時間と空間とに唾を吐きかけたくなるのである。」
「ある古い作品のアクテュアリテはそれをアクテュエルたらしめる時代の責任に帰属するからだ。その上、もし僕が唾を吐きかけたら、『カンディード』にその使命を果しれないのである。故にとに角僕は一刻も早くこんな小説がつまらなくなりたいと思ふし、もつと甘い美しい小説を耽讀して憚らぬ時代に生きたいと思ふのである。」
僕は、ヴォルテールの『カンディード』が面白くて仕方がない。多分、滞仏40年の椎名其二翁から原文で習ったのが尾を引いて、渡辺一夫さんのように「一刻も早くこんな小説がつまらなくなりたいと思ふ」とは、全然思わない。だが、渡辺さんも本音は違うと思うが……。
・また、渡辺一夫さんは大学教授として、二宮敬、串田孫一、森有正、辻邦生、清岡卓行、清水徹、大江健三郎氏ら数々の文学者を育てた。渡辺さんは常に「弟子」とみなすのを嫌い、教え子を「若い友人」と呼んだという。このような方だったから、ますます人気を集めたのだと思う。
・渡辺一夫さんは、本の装丁家としても有名。六隅許六(むすみ・ころく)というペンネームで、師の辰野隆さんや中野重治さん、福永武彦さんら錚々たる方々の著書を装丁している。六隅許六の意味は、ミクロコスモスのアナグラムから取ったとのことだ。マクロコスモス(宇宙)と対比して、ミクロコスモスは「人間のこと」を指しているのは言うまでもない。
・青春の日、渡辺一夫さんという方を知り、また龍野忠久さんのコレクションと逢い、充実した日々を送れたのは、まったくラッキーとしか言いようがない。残された本と思い出が僕の宝。今も、僕の心の中でしっかりと息づいているのである。
2013.09.20小澤征爾さんと大西順子さんのコンサート
上の部分:障害者向けの「サイトウ・キネン・フェスティバル(SKF)松本」公演鑑賞の旅を薦めるパンフレット。(写真提供:クラブツーリズム株式会社)
下の部分:公演の翌朝、「ジャズ大西順子さん クラシック小澤征爾さん 一夜限り 夢の共演」とコンサートの模様を報ずる信濃毎日新聞。第1面のほか、関連記事を28、33ページと3ヵ所に載せる充実した紙面。(写真提供:信濃毎日新聞社)
・2013年9月6日(金)、この日を僕はどれだけ首を長くして待っていたことか。小澤征爾さん(総監督・指揮)率いるコンサート開催日だったからである。場所はキッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)。世界的に有名になったクラシック音楽のフェスティバル公演である。「サイトウ・キネン・フェスティバル」の冠にある齋藤秀雄さんとは、1902年生まれ、東京府出身の 日本のチェロ奏者、指揮者、音楽教育者として活躍された音楽家である。齋藤さんは、1955年に桐朋学園短期大学学長に就任された。その齋藤さんの没後10年にあたる1984年に、小澤征爾さんらの呼びかけによって世界各地から弟子たちが集まりコンサートを行なったのがきっかけという。
その後、1992年、オーケストラとオペラを2本柱とした第1回目の音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル(略称SKF)松本」が開催された。今回はその第22回目に当たるが、初めて小澤さんとジャズ・ピアニスト大西順子さんとの共演が組まれていた。僕はジャズもクラシックも大好き。両方を楽しめる絶好の機会となり、この上なくラッキーな思いがしていた。それもこんな夢の組み合わせがなぜ実現したのか、後ほど説明しようと思う。車椅子に座ったままで鑑賞する機会を許可してくれた主催者と、そもそもこの旅を企画してくれたクラブツーリズム株式会社に改めて感謝の気持ちを捧げたい。
・小澤征爾さんは、近年、食道癌(2010年)や腰痛(2011年)を患って大変な時期を過ごされたが、現在は体力回復期にあると思われる。万一指揮ができない場合は、他の指揮者が指揮を務めるという事前通告があった。
そんな噂を払拭するように、今回、小澤さんは元気よくタクトを振って、会場の約1800名のファンを楽しませてくれた。昨年、小澤さんは体調が勝れず、「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」の音楽監督しか務めることができなかった。だから、われわれファンもこの日、小澤さんの健在ぶりを目の当たりにし大満足のひと時であった。小澤征爾が戻ってきてくれた。日本が世界に誇る至宝は、この人だと改めて確信した。もっともっと長生きして、感動的な音楽を指揮し続けてほしいものである。
・第1部は、ジャズ演奏だった。大西順子トリオはチャールズ・ミンガス作曲の「So Long Eric」と「Meditation(For A Pair Of Wire Cutters)」2曲を立て続けに演奏した。次に、ジェイ・リヴィングストンとレイ・エヴァンスの「Never let me go」。最後に、大西順子の「Eurogia No.15」が演奏された。ピアノが大西順子さん、ベースがレジナルド・ヴィール、ドラムスがエリック・マクファーソンの構成。各々、素晴らしいジャムセッションだった。メリハリがある演奏で気分が高揚し、一気に会場中が乗ってきた感じがした。
ベースのレジナルド・ヴィールの演奏も圧巻だった。右手の指先は柔らかいままで、約30分間に及ぶピチカートを弾いたが、その指先は最後まで柔らかく、しなやかだったのには僕もびっくりした。並のミージシャンだったら5分も続けられないはず。
また、大西順子さんのピアノが素晴らしかった。これ以上望めないほど奔放かつダイナミックな音色で、ピアノ・ソロの極致を味わわせてくれた。いままで大西順子さんの演奏を聴いてこなかったのが残念に思えたほどだ。
最初の「So Long Eric」(あばよ、エリック)は、ミンガスがエリック・ドルフィーに宛てた「告別」の手紙が内容だ。この曲は、1964年のヨーロッパ・ツアー中、ミンガスが、一人ヨーロッパに留まろうとしたエリック・ドルフィーを強く説得したが、翻意させることができなかった。ドルフィーはミンガスと別れ、その直後、糖尿病による心臓発作のため、ベルリンにて他界する。享年36の夭折だった。「So Long Eric」の曲をトップにもってきた大西順子さん。何に「告別」したかったのか、大西さんなりのお考えあってのことだろう。
・ここでなぜジャズとクラシックのコラボが実現できたか、述べてみよう。本日のコンサート開演前、ロビーで作家の村上春樹(64歳)さんを見かけたが、僕は事情を知っているのでうなずけた。小澤征爾さん(78歳)と大西順子さん(46歳)を引き合わせたのは、この村上春樹さんである。村上さんは以前から大西さんの演奏を買っていて、小澤さんを大西さんのジャズ・ピアノのライブハウスへ何回か誘ったという。
昨年11月、その大西さんの最後の演奏会が厚木のライブハウスで行われた。小澤さんはお嬢さんの小澤征良さんを伴って会場に足を運んだ。終演の言葉で、大西さんが感無量のおももちで「残念ながら、今夜をもって引退します」と聴衆に向かってしみじみと語った。突然、すっくと立ち上がった人がいた。小澤さんである。「(引退に)おれは反対だ!」思わず叫んでいた。勇気ある発言である。いや、それほど大西さんのピアノ演奏が素晴らしかったのだと思う。惜しんでも余りある引退宣言だった。
大西順子さんは、4歳からピアノを始めた。22歳でボストンのバークリー音楽院を首席で卒業。ジェシー・デイヴィス・クインテットのレギュラー・ピアニストやジョー・ヘンダーソン・カルテットのピアニストとして、アメリカ、日本をツアー演奏している。その後、1992年に日本へ帰国。数々の話題作を発表し、複数の受賞歴もあるが、2000年の大阪公演を最後に活動を休止していた。そして、2005年に演奏活動を再開する。だが、また2012年、引退を表明する。2011年に、親しい方を亡くされ、ショックで演奏はできなくなった。今後は、「Jazz勉強会」を続けていきたいという。
その後、村上さんが仲介の労を取り、大西さんと小澤さんが話し合う機会をもった。小澤さんが大西さんを口説いた。ジャズのピアノトリオのワークショップを松本でやらないか、そして、サイトウ・キネン・オーケストラ(略称SKO)と一緒にガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」もやらないかと。結果、大西さんは新設の「サイトウ・キネン・ジャズ勉強会」の講師を務める他、ガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」の演奏を約束された。――これが、今回、実現された夢の共演というわけだ。
・休憩をはさんで、第2部は、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」組曲より(原作はシェイクスピア「ロミオとジュリエット」)。演奏は管弦楽がサイトウ・キネン・オーケストラ(略称SKO)、指揮者がチェン・リン(陳琳)。
演奏されたのは、「モンタギュー家とキャピュレット家」、「踊り」、「アンティーュの娘たちの踊り」、「ジュリエットの墓の前のロメオ」、「タイボルトの死」の5曲である。
チェン・リン(陳琳)さんは中国黒龍江省生まれの北京中央音楽院教授で、35歳の指揮者(女性)だが、さすが小澤さんが見込んだ方である。指揮棒の振り方や身のこなしなど、小澤征爾さんとそっくり。迫力に満ちた指揮棒の動きで、180名のオーケストラを自在に率いて見せた。個人的感想だが、いままで僕が見た女性指揮者のうちでも、西本智実さんや三ツ橋敬子さんと並ぶ力量ありと確信した。男女を問わず指揮者トップ10を挙げよと言われたら、間違いなく僕はチェン・リン(陳琳)さんを入れたい。
約180名のサイトウ・キネン・オーケストラも、各パーツがのびのびして、音楽の醍醐味を味わわせてもらった。僕は、金管楽器、木管楽器のパーツがとくに素晴らしかったと思う。
・この後、いよいよ小澤征爾さんの登場である。曲名はジョージ・ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」。大西順子トリオ、管弦楽がサイトウ・キネン・オーケストラ、指揮者が小澤征爾。いよいよ小澤さんがタクトを振る。僕の胸は期待に膨らみ、一人興奮していた。
・小澤さんは、思った以上に元気だった。いや、「ラプソディー・イン・ブルー」を指揮するのには、完璧に近いと思った。このまま何曲も振れるんではないかと思ったほどだ。僕の贔屓目かもしれないが、それほど今日の指揮は、際立っていた。実際、僕は小澤さんが体力回復期にあると認識していたが、指揮棒を振る姿や形を見ている限り、そんなことは微塵も感じさせなかった。そして、小澤さんが病歴を持つ78歳という年齢であることも。
・小澤さんの指先が宙に舞うと、サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)と大西さんが「ラプソディー・イン・ブルー」の踊りだしそうなメロディーを紡いで応えた。大西さんが乗りに乗ってピアノのソロ部分に入ると、小澤さんも指揮棒を振る必要がなくなった。そして腰痛で立つことがつらい小澤さんが椅子に登り、足をぶらぶらさせ、リズムを取っていたのは面白かった。特に、大西さんが長いカデンツァを精力的に弾いた部分でのこと、小澤さんの足が満足する度に大きく揺れる。クライマックスでは揺れが特に激しくなった。いかに素晴らしい演奏であったかは、小澤さんのその足を見ていれば一目瞭然である。
・ガーシュインのラプソディーとはジャズの語法によるラプソディー(狂詩曲)だ。ジャズとクラシックを融合させたこの作品は「シンフォニック・ジャズ」の代表的な成功例として世界的に評価されている。そして、大西順子さんと小澤征爾さんの最強タッグチームで今、聴いている。そう思うと、幸せが押し寄せてくる。演奏が終わると、観客全員総立ちとなり、大歓声の渦に包まれた。
・「ラプソディー・イン・ブルー」(1924年)、「パリのアメリカ人」(1928年)や「ポギーとベス」(1935年)など不朽の名作を作曲したガーシュインは38歳で脳腫瘍のため夭折した。もし、長生きしていたら、どんな名曲を生んでくれただろうと思うと残念でたまらない。
・小澤征爾さんは24歳の時(1959年)、神戸を出発し、約50日後、マルセイユに上陸した。そこから日本のスクーターでパリを目指す。そして、ブザンソン国際指揮者のコンクールに飛び入り出場し、見事1位に輝き、指揮者としての桧舞台へとかけあがっていく。カラヤン、バーンスタインに認められてニューヨーク・フィル副指揮者に就任するまでを書いた『小澤征爾のボクの音楽武者修行』はわが青春の愛読書だった。
・マエストロ小澤征爾さんは、僕と同じ町に住んでいる。小澤さんが贔屓にしている「そば処 増田屋」へ行けば、小澤さんや横尾忠則さんに会えるかもと思い、期待して何度か行ったことがある。だが、残念ながらまだお会いしたことはない。また、大江健三郎さんも同じ町内で、小澤さんと大江さんの共著(『同じ年に生まれて 音楽、文学が僕らをつくった』、中央公論新社刊)がある。大江さんには散歩の途中で何度か会ったが、あまりに相手がまぶしい存在で言葉を掛けるには至らなかった。それより年に一度、「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」に期待して、切符を手配することにしよう。
「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」のパンフレットより
小澤征爾と村上春樹の共著。この本を読んだら、音楽の世界が広がって楽しくなった。クラシックもジャズも良い。小林秀雄賞受賞。(新潮社刊)
「サイトウ・キネン・フェスティバル(SKF)松本」のパンフレット。このパンフレットは、旅行仲間の間で大好評で、小澤征爾さんと毎日一緒に生きたいと、机に張っておきたい案やパソコンのトップ画面であしらいたい案など、みなさんがアイデアを出していた。
2013.08.21飯島晶子さんと『未来への伝言 2013―響け世界へ 平和の旋律』のコンサート
被爆ピアノを弾く谷川賢作さんと朗読する飯島晶子さん(撮影:谷川 淳氏)
ナターシャ・グジーさん(左)は、ウクライナの生まれ。歌手兼民族楽器パンドゥーラ奏者で、日本人のファンが圧倒的に多い。司会役の飯島晶子さん(右)とぴったり息を合わせた。(撮影:谷川 淳氏)
・今年もあの素晴らしい舞台を見る夢がかなった。『未来への伝言 2013―響け世界へ 平和の旋律』のコンサートである。今回はどんな演出で楽しませてくれるか、僕はわくわくしながら会場に足を運んだ。NPO日本朗読文化協会理事、有限会社ヴォイスケ(VoiceK)の代表・飯島晶子さんが、このイベントの仕掛け人である。飯島さんには、『声を出せば脳はルンルン』(2006年刊、1785円)というCD付の単行本を弊社から刊行させていただいた。その縁で、毎年この時期に行われるコンサートにお誘いの声を掛けてくれる。今年は、六本木ヒルズハリウッドホールが会場。これまで池袋の自由学園明日館や銀座の博品館劇場、渋谷の東京ウィメンズプラザホール、後楽園にほど近い文京シビックセンターなど中規模な会場で開催されてきた。今回は場所も六本木ヒルズとなり、ハリウッドホールは1000人ぐらい入れる大きなホールだ。加えて、終演後、余韻を楽しみながら食事をするにもってこいのロケーションである。このビルの地下2階には、和洋中のレストラン街が揃っていて選り取り見取り。今回はその中でも、しゃぶしゃぶとお蕎麦が売り物の和食店に予約を入れていた。
・出演者は、三味線の人間国宝杵屋淨貢さん(きねや・じょうぐ。昨年末まで杵屋巳太郎)、作曲と編曲のピアニスト谷川賢作さん、ヴォーカルおおたか静流さん、クラーク記念国際高等学校の生徒さん(校長は80歳で3度目、世界最高齡でのエベレスト登頂を達成した三浦雄一郎氏)、朗読、企画、司会が飯島晶子さん。以上がレギュラー出演者である。それに、もう一つ重要な役割を担うレギュラー出演物がある。広島の爆心地から1.8キロの民家で被爆しながら奇跡的に生き残ったピアノである。調律師矢川光則氏によってよみがえり、全国各地で、また海を越えニューヨークに渡りコンサートで演奏されてきた。その力強く美しい音色は、聴く人、弾く人を魅了し、感動の渦が広がっている。ヤマハのアップライトピアノで、1932(昭和7)年に製造された。高さ120センチ、重さ220キロ、鍵盤85鍵、鍵盤の材質は象牙である。ピアノ演奏は、谷川賢作さんであった。彼の弾き方は、ピアニシモからフォルテシモまで自由自在。とくに、父君の谷川俊太郎氏の詩に旋律をつけて弾いたのが印象深い。詩がメロディにのって深みを増し、谷川父子の力強い反戦メッセージが伝わってきた。付け加えれば、このピアノを題材にして松谷みよ子さん(文)と木内達朗さん(絵)による『ミサコの被爆ピアノ』(講談社刊、2007年)が刊行されている。
・舞台転換は幕を使わずに行われた。電気が一つ一つ消えて、舞台の出演者にスポットライトが当たるという演出だ。谷川賢作さんの被爆ピアノの演奏で、プロローグ飯島晶子さんの朗読『私はピアノ』が始まった。
「私はピアノ。68年前、広島で被爆したピアノ。私は忘れない。20万人の人が一瞬に消えてしまったあの原爆の日。私が生き残ったのは奇跡。あなたに平和を伝えるための奇跡。平和の尊さを、平和の喜びを伝えたい――どうぞ私を聴いてください」……。
そして『子どもたちの遺言』という詩……。
谷川俊太郎氏の詩である。朗読は飯島晶子さん、ピアノが谷川賢作さん。
生まれたよ ぼく
やっとここにやってきた
まだ眼は開いていないけど
まだ耳も聞こえないけど
ぼくは知ってる
ここがどんなにすばらしいところか
だから邪魔しないでください
ぼくが笑うのを ぼくが泣くのを
ぼくが誰かを好きになるのを
ぼくが幸せになるのを
いつかぼくが
ここから出て行くときのために
いまから遺言する
山はいつまでも高くそびえていてほしい
海はいつまでも深くたたえていてほしい
空はいつまでも青く澄んでいてほしい
そして人はここにやってきた日のことを
忘れずにいてほしい……
谷川俊太郎氏の詩が実に良い! 3歳の子が遺言に託す言葉を表現する。思わず「ああ、僕もこんな詩が書ければなあ」と長嘆息してしまった。
次に、『ひとりひとり』。谷川俊太郎氏の詩、朗読はVoiceK、ハープが中野智香子さん。同じ谷川俊太郎氏の詩が、朗読とハープのコラボで変化するのも一興である。
ひとりひとり違う目と鼻と口をもち
ひとりひとり同じ青空を見上げる
ひとりひとり違う顔と名前をもち
ひとりひとりよく似たため息をつく
ひとりひとり違う小さな物語を生きて
ひとりひとり大きな物語に呑みこまれる
ひとりひとりひとりぼっちで考えている
ひとりひとりひとりでいたくないと
ひとりひとり簡単にふたりにならない
ひとりひとりだから手がつなげる
ひとりひとりたがいに出会うとき
ひとりひとりそれぞれの自分を見つける
ひとりひとりひとり始まる明日は
ひとりひとり違う昨日から生まれる
ひとりひとり違う夢の話をして
ひとりひとりいっしょに笑う
ひとりひとりどんなに違っていても
ひとりひとりふるさとは同じこの地球……
中野智香子さんのハープは、47弦のハーモニーを響かせる。中野さんは国立音楽大学を卒業後、ライフワークとして胎響コンサート、音楽療法、神社・仏閣においてハープという西洋の楽器で祈りのコンサートを数多く実施してきた人である。
そして、『祈り』。「歌っていれば、笑顔になれる。祈りは必ず届くはず」の部分が印象的だ。 佐々木香さん、谷川賢作さんが作詞・作曲、歌はZEROキッズ+クラーク記念国際高等学校の生徒さん、ピアノは谷川賢作さんだった。合唱は、非営利活動法人ZEROキッズとクラーク記念国際高等学校の生徒さんで、溌剌とした動きと歌声であった。クラーク記念国際高等学校は、「Boysbe ambitious」のクラーク博士の教育理念のもと全国一万人以上の生徒が学ぶ。パフォーマンスコースの生徒は文武両道である。歌、ダンス、演劇、殺陣などで表現力を学び、それを舞台いっぱいに使って表現していた。
ここまで曲の説明は無しで、一気にプログラムが進行してきた。そして司会の飯島晶子さんが、ここまでの演奏曲名、作詞・作曲者などを紹介してくれた。今までになかった舞台進行で、この方がより効果的に思えた。この後、飯島さんはいったん舞台袖から消え、すぐにウクライナのナターシャ・グジーさんの手を取りながら登場してきた。
・ナターシャ・グジーさんは、日本人のファンが圧倒的に多い。歌手兼民族楽器パンドゥーラ奏者として知られる。1980年、ウクライナの生まれ、3人姉妹の末っ子。6歳の時、チェルノブイリ原発事故に遭遇する。原発から3.5キロで被爆したのである。このような境遇にもかかわらず、民族音楽団「チェルボナ・カリーナ」(赤いカリーナ)のメンバーとして1996年と1998年に来日し、全国で救援コンサートを行なっている。また、2000年から日本語を学びながら日本での本格的な活動を開始している。その透明感のある美しい歌声は、「水晶の歌声」と称えられた。民族楽器、パンドゥーラの音色も素晴らしい。可憐な響きは多くの聴衆の心を惹きつけている。2008年には「徹子の部屋」、NHK教育テレビ「視点・論点」などに出演し、その歌声が多くの人々の感動を呼んだ。また、福島の原発事故と住民の避難先についても深い関心をお持ちの方だ。広河隆一氏を発起人とする沖縄・球美(くみ)の里を支援する運動に、ナターシャ・グジーさんは賛同し、日本語で呼びかけをしている。
僕は、彼女のCDを、すでに4枚持っている。会場で、近作『Nataliya2』と単行本『ふるさと――伝えたい想い』(文・絵・写真提供:ナターシャ・グジー、オフィス・ジルカ刊)を買ったが、僕のようにナターシャ・グジーさんのファンだったら、全部集めたいのと思うのが本音であろう。今回のコンサートでは、『キエフの鳥の歌』(ウクライナ民謡、日本語詞が木内宏治氏)と『いつも何度でも』(覚和歌子作詞、木村弓作曲)を披露してくれたが、本当に素晴らしかった。曲の終わりに流暢な日本語で語りを入れた。彼女の携えた民族楽器「パンドゥーラ」について説明してくれたのだ。パンドゥーラの弦は64弦あり、重さも8キロを超えるという。お陰で「腕力」がついたとポーズし、ユーモアを交えて話され、会場内をなごませた。
・その後、『原爆をさばく』(谷川俊太郎作詞、杵屋淨貢作曲、谷川賢作編曲)が始まった。三味線が杵屋淨貢さん、ピアノが谷川賢作さん、歌はクラーク記念国際高等学校の生徒さんである。大音響とともに原爆を裁く声が朗朗と流れる。原爆は、落とした人が悪いのか、投下を命令した人が悪いのか、作った人が悪いのかと原爆を裁いてゆく歌詞である。『原爆をさばく』は、長らく(約四十年間)放送・発表禁止にされてきた楽曲である。2年前、三味線の杵屋淨貢さん(もと巳太郎)とピアノの谷川賢作さんが即興演奏し、復活させたものだ。その刺激的なリズムが胸に突き刺さってくる。クラーク記念国際高等学校の学生さん約100名の妥協を許さぬ声がいつまでも耳に残っている。これで、プログラムの第一部は終わりになった。
・第二部は、ノルウェーから、その名も「PIKADON‐MUSIC&DANCE&FILM」という世界平和をパフォーマンスで訴えるグループが登場した。PIKADONの作曲家や聖歌隊、約60名が来日し、盛り沢山の音楽、ダンス、朗読等を上演した。合唱はボルダ・コーラスの方々、ダンスはエイニ・オーム・バークス、ケヴィン・ホー、ウタ・タケムラ、ゲストダンサーは日本から三好由貴さん。次々に登場する。ハッと視線を上げると、舞台上の演技者の他に、2階のキャットウォークのような通路でも男女が3人ずつ2組、ダンサーがパフォーマンスをしていた。そして、会場の左右には幕があり、短編アニメ映画や舞台上のパフォーマンスが映し出される仕掛けになっている。
・まず、ヤン・エーリック・ヴォル作詞、マグナル・オール作曲の表題となる『PIKADON‐MUSIC、DANCE AND FILM』を皮切りにして、『To Unfold(君に告ぐ)』(ハープ:エレン・セーイェシュテード、歌:ヌア・サルボ)と続いた。その内容は「僕は、僕は生きる、君という愛を」と歌う。ヌア・サルボさんが耳に付けるイヤーオンタイプマイクが実に効果的な音を出すことに驚かされた。一瞬、日本独自の古い聲明(声明=しょうみょう)と似ている。ヌア・サルボさんの歌とAsian Wingsのボーカルおおたか静流さんの掛け合いは、迫力満点であった。
・次に、『Will this moment ever let go?(この瞬間は何処へ?)』(演奏:PIKADON‐MUSIC&DANCE&FILM+Asian Wings)が歌われる。「誰かが呼んでいる、答えは、返ってこない、けれど、誰かが、呼んでいる、しかし、答えは、もう、届いている」というメッセージが伝わる。歌というより祈り、叫びなどを強調してのノルウェーの現代音楽である。指揮者のマグナル・オールさんはノルウェーを代表する現代作曲家の一人。2013年、オスロ市市長舍にて、日本の短編アニメ映画「ピカドン」に触発されて作曲したという楽曲「Will this moment ever let go?」を初演した。
そこに「Asian Wings」のメンバーが加わる。おおたか静流(ボーカル)さん、佐伯雅啓(ウード、三線)さん、児嶋佐織(テルミン)さん、嵯峨治彦(馬頭琴、喉歌)さんなど、民族楽器、ボイス、電子音を組み合わせて、独特の郷愁と浮揚感溢れる音楽世界を醸し出した。ノルウェーと日本メンバーとのコラボである。よく意思の疎通も取れ、音楽の調和もよくお見事というしかない。
・こうしたノルウェーの演奏家、聖歌隊、舞踏家が日本の音楽集団「Asian Wings」と共に行なう大規模な音楽のイベントは、すでに今年3月、オスロで開催された核兵器の非人道性に関する国際会議の際で初演され、話題を集めた。そして、2013年8月4日には広島平和市長会議で、広島から世界へ平和への願いをアートに込めて発信した。そして、京都でも演奏をし、今日、東京の六本木ヒルズハリウッドホールで「未来への伝言 2013」のゲストとして、この曲を披露したという。
・ここで僕は、「Asian Wings」の児嶋佐織さんが弾く楽器テルミンに注目した。テルミンの最大の特徴は、本体に手を触れることなく、空中の手の位置によって音高と音量を調節することである。テルミンの本体からは2本のアンテナがのびており、それぞれのアンテナに近付けた一方の手が音高を、もう一方の手が音量を決める。わずかな静電容量の違いを演奏に利用するため、演奏者自身の体格・装身具などによる静電容量の違いをはじめ、演奏環境に依存する部分が大きく、演奏前に綿密なチューニングを必要とするなど、安定した狙った音階を出すには奏者の高い技量が要求され、演奏には熟練を要するという。確かに、児嶋さんの手元を見ていると、左手の位置と右手の位置が全然違う。両手の格好も違う。片方の手は上下に叩く、もうひとつの手は左右に流す。その不思議な動作と音色が魔法のようだ。なんたる不思議さよ、と見とれていた。
・ようやくフィナーレが近づいた。若い力が『Ambitious』(秋山耕太郎、Erina Tamura作詞・作曲、歌はクラーク記念国際高等学校)と、『ずっと忘れない ずっと頑張るよ』(田村依理奈作詞・作曲、歌はクラーク記念国際高等学校生徒)を歌う。その後、エピローグの『そして鳥は歌う』(構成:谷川賢作)が続いて歌われる。
クラーク記念国際高等学校の生徒さんは、生き生きとして、全員が調和のある歌い方で、それにもかかわらず動きは違っていた。体を動かしてのパフォーマンスはそれぞれの個性の発露なのだ。そこに今回は、ウクライナのナターシャ・グジーさんやノルウェーの演奏家たちが合流し、素晴らしい舞台となった。学生諸君、今後も精進して欲しいと思う。平和への歌声をこれからも世界に響かせ、初心忘るべからずと言いたい。素晴らしい舞台を創った約200名の演奏者、その全体の演出・飯田照雄さん、また企画そのものにいまや欠く事ができない、すなわち「未来への伝言」がライフワークになった飯島晶子さんには絶大なる拍手を送りたい!
三味線の人間国宝・杵屋淨貢さんは、昨年12月、一門の杵屋巳吉に「巳太郎」を譲った。現代の高校生たちにも三味線の音が魅力的に感じられるのは、うれしいことだ。(撮影:谷川 淳氏)
終演間際の会場。中心に、ナターシャ・グジーさん(赤いスカート)と飯島晶子さんが並ぶ。その左におおたか静流さん。その奥に三味線を持つ杵屋淨貢さんが見える。(撮影:谷川 淳氏)
ナターシャ・グジーさんと飯島晶子さんをアップ。ノルウェーの演奏家や着物姿がよく似合うZEROキッズたち。(撮影:谷川 淳氏)
2013.07.18林 勝彦さん
林勝彦さんが監督で、ドキュメンタリー映画「いのち―from FUKUSHIMA to Our Future Generations―」がこのほど完成。日本の老若男女のみ限らず、全世界の人々に見て、考えていただきたい。
・科学ジャーナリスト林勝彦さんについては、2009年9月の本欄で少しだけ触れた。その時メインに扱った人物が、絵手紙の創始者として知られる小池邦夫さんである。弊社出版部では、絵手紙のジャンルに特に力を入れてきた。小池邦夫さんが執筆、もしくは監修・編纂した本は10冊以上にものぼる。また、35年以上と長らく小池さんとお付き合いし、私淑してきた担当編集者の臼井雅観君も、小池邦夫の絵手紙草創期を論じた単行本を2冊刊行し、絵手紙黎明期を通して、なぜ絵手紙文学が世に誕生してきたのか世に知らしめる役割を果たした。このお二人が従弟同士(母親同士が姉妹)ということは、小池さんから林さんを紹介してもらった時に初めて知った。今から半世紀以上も前のこと、大学受験を控えた小池邦夫さん(当時18歳)は愛媛県松山市から受験のため上京、文京区湯島の林勝彦さん(当時16歳)宅に下宿し、東京学藝大学書道科を受験、見事合格する。その後も、小池さんは林さん宅に下宿し、大学に通うことになった。二人は隣の部屋で寝起きし、切磋琢磨して勉学に勤しんだ。その甲斐あって、2年後には、林さんが慶應義塾大学文学部哲学科(産業社会学)に入学する。お二人の青春時代は、それぞれに人生を模索、彷徨しながらも、さぞかし充実した時を過ごしたと思われる。その後、二人はそれぞれの道を切り開く。小池さんは愛好者200万人とも言われる絵手紙の創始者となり、一方、林さんはNHKでのディレクター、プロデューサー経験を経て、NHK退局後は、メディア理論を引っ提げて、新進気鋭の科学ジャーナリストとなった。
・弊社出版部と執筆テーマを検討した結果、2012年9月、林勝彦さんは、NHK時代の仲間たち、元朝日新聞記者らとともに、『科学ジャーナリストの警告――“脱原発”を止めないために』(林勝彦編著、2012年9月刊)という単行本を弊社から上梓している。その前に林さんの経歴を簡単にご紹介しておきたい。慶應義塾大学を出た後、NHKに入局。ディレクター(1965-1982)、デスク(1982-1986)、プロデューサー(1987-2005)として40年間、約300本以上の番組を制作。それも主に、科学、環境、医療、原子力など、開発現場の最前線を踏まえた最先端科学、最先端技術情報を俎上に乗せて世に問うてきた。NHKエグゼクティブ・プロデューサー、科学ジャーナリスト塾塾長、映像作品「いのち」監督・制作、東京大学先端科学技術研究センター客員教授などを歴任後、現在は、東京工科大学メディア学部客員教授、東京藝術大学非常勤講師、早稲田大学大学院ジャーナリストコース非常勤講師などを務め、超多忙な日々を送られている。
・林さんの業績として世界的に評価された番組は多い。日本よりむしろ外国からの評価が高いほどだ。NHKスペシャル「驚異の小宇宙・人体」、「人体II―脳と心」、「人体III―遺伝子・DNA」全シリーズや、「プルトニウム大国・日本」、NHK特集「原子力(3) 放射性廃棄物」、「チェルノブイリ原発事故」等、林さんの制作した番組は燦然として輝いている。僕は林さんのNHKスペシャルを見て、驚異の念を抱いた。最先端科学、医療現場、放射能汚染と、極めて今日的なテーマを取り上げ、問題点をあぶり出し、その真相に肉薄していたからだ。映像的にも素晴らしく、見る人の心に訴えかけてきたように思う。その制作の姿勢、その敏腕ぶりはNHKでも、つとに鳴り響いていた。林さんは、あの立花隆、養老孟司といった博覧強記の方々と、丁々発止とやりあいながら、自らの信念に忠実に映像を制作された。今もってNHKでの語り草になっていると聞く。
・弊社で刊行した『科学ジャーナリストの警告――“脱原発”を止めないために』は、科学ジャーナリスト塾塾長・林勝彦さんが、原発問題を考えるに当たり、真摯に取り組んできた科学ジャーナリストを人選し原稿依頼したものだ。何箱もの膨大な資料の中から、珠玉の10本余の今日的な話題性あるテーマを選んで、主に林さんが親しい科学ジャーナリストたちが中心の執筆陣となった。例えば環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也を林さんがインタビューし、脱原発への道を探る。チェルノブイリ事故現場の四号炉に入ったNHKの現役解説委員・室山哲也、チェルノブイリの今を検証するため、取材に訪れた林さんの最新情報などは、原発の底知れぬ恐ろしさを伝えている。編集・校正にあたった担当者の臼井雅観と横沢量子は、資料の取捨選択から校了まで、原発の恐ろしさを誰よりも感じて編集作業をしたようだ。後日談がある。単行本が上梓された後、林さんから打ち上げをやろうとの話はあったようだ。しかし、林さんがとにかく多忙でなかなかスケジュール調整がつかなかった。そうこうするうち、時間ばかりが経っていた。単行本刊行から半年ほど経ったある日、横沢量子は偶然、林さんと出会った。「原発問題の解決には、まだまだ程遠いのだが、今後もよろしく」と二人でビールを飲みながら健闘を誓ったらしい。「加登屋さんとも一度お会いしたい」とラブコールメッセージを頂いたそうだ。
・この本の章タイトルと筆者(敬称略)をまとめると、脱原発へ本格的なアプローチが見て取れる。「放射能汚染地帯の既視感――フクシマでの始まった〈生命の切断〉」(NHK放送文化研究所主任研究員・七沢潔)、「科学ジャーナリズムの反省すべきこと」(科学ジャーナリスト・柴田鉄治)、「脱・原子力村ペンタゴン、脱・発表ジャーナリズム」(科学ジャーナリスト・小出五郎)、「チェルノブイリ原発事故から学んだこと」(NHK解説委員・室山哲也)、「海外メディアが暴いたニッポン大本営発表報道」(フリージャーナリスト・大沼安史)、「踏み出せ、脱原発エネルギーへの道」(環境エネルギー政策研究所所長・飯田哲也)、「アメリカにおける原子力発電の現状」(科学ジャーナリスト・藤田貢崇)、「日本の再生可能エネルギーはいま――現状と課題を探る」(サイエンスライター・漆原次郎)、その他は林さんがすべて書いた。序章「人類初の原発連続爆発・メルトダウン事件」、第6章「脱原発は可能か」、特別レポート「放射線の人体への影響――チェルノブイリから何がわかったか」、終章「原子力大国・日本の悲劇」などがそれ。最後に、参考文献、「あとがき」を執筆された。このような執筆陣と的を射た論文を集められたことは、科学ジャーナリスト塾塾長・林勝彦さんの面目躍如である。
・ここまでは林さんの本を中心に紹介してきたが、今年になってもう一つ、映画「いのち」監督・制作者の名前が大きくクローズアップされることになった。ドキュメンタリー映画「いのち―from FUKUSHIMA to Our Future Generations―」(監督:林勝彦)というタイトルで、映像作品「いのち」プロジェクトが、立ち上がった。手始めに3月30日(土)、4月27日(土)で法政大学の市ヶ谷キャンパスのスクリーンで学生相手に無料で公開上映された。そして本格的に7月3日、渋谷アップリンクで、ドキュメンタリー映画『いのち』が、上映されることが決定した。入場料1000円。上映後に林監督と軍司達男さん(元NHK衛星放送局長/元NHKエデュケーショナル社長)のトークショーが行われた。パンフレットに元NHKエクゼクティブ・プロデューサー、サイエンス映像学会副会長・林勝彦の挨拶文「人類史上初めての《原発建設爆発・メルトダウン》事件が起きて、福島第一原子力発電所事故から2年が過ぎた現在も16万人もの福島県民が故郷を追われ、生態系汚染も深刻な事態を続いている」から始まって、なぜこのような映画を作ることになったのか、切々と語りかけた。冒頭に「この映画は、協賛金、個人の寄付金で制作されている」と宣言されているが、この文章に僕はいたく心揺さぶられた。多くの一般企業が協賛し、市井の方々が手弁当で手伝い、出来上がった映画である。この人類史上、未曾有の危機に直面している福島原発事故。他人事ではない、風化させてはいけないのだ。日本人一人ひとりがもう一度、胸に手を当て、原発の功罪を検証すべき時ではないか。地震国日本に原発は本当に必要なものかどうか……。そんなことを考えさせてくれる。未来の地球や子供たちに、負の遺産を残すべはではない。日本各地で巡回上映されるこの映画を是非、見てほしい。林さんのこの熱い思いを無駄にしてはいけないとつくづく思う。
2013.06.21鎌田 實先生とハワイ旅行へ
鎌田實先生(医師、作家、諏訪中央病院名誉院長)と僕
・わが月刊『清流』の人気コラム「カマタ流生きるヒント」を執筆されている鎌田實(かまた・みのる)先生とご一緒にハワイ旅行をしてきた。この旅は、題して「鎌田實先生と行くドリームフェスティバルinハワイ6日間」という。毎年の恒例行事だそうで、今回が9回目になるという。身障者とその家族を対象にした旅行であり、北海道から九州博多からと、全国の鎌田ファンが参集した。脳出血2回の僕も鎌田先生と一緒なら何かと安心と、期待に胸弾ませながら参加した。企画を立案した旅行会社は、添乗員のほか大勢の女性トラベルサポーターも用意し、至れり尽くせりである。僕はこれまでにも、その旅行会社の企画を年に数回利用していた。その国内ツアーでご一緒した顔見知りの添乗員が、たまたま2名参加していてより一層安堵したものだ。また、大王製紙が紙おむつやティッシュのエリエールを無償で配るサービスやヘルパーを3人派遣することでスポンサーシップを発揮していた。鎌田先生も日本テレビの人気長寿番組「笑点」のメインスポンサー・大王製紙が旅行に一枚噛んでいることを強調されていた。今回のハワイ旅行は、総勢63名であった。僕の認識だとこれでも大人数だが、一番多い年は200名を超えたこともあったというから鎌田さんの信用力は大したものである。
・十数年前、僕は鎌田先生の著になる『がんばらない』(2000年)、『あきらめない』(2003年、ともに集英社刊)を読んでファンになった。妻も信州は松本の出身という関係から、同じ中央本線上諏訪駅の諏訪中央病院名誉院長・鎌田先生の熱心な読者になった。僕は、わが『清流』にも、是非連載執筆していただきたいと思っていたが、鎌田先生がご多忙を極めていたこともあり、なかなか実現には至らなかった。だが、ラッキーといおうか、月刊『百楽』という雑誌に鎌田先生は「カマタ流・生きるヒント」を連載されていたのだが、その雑誌が1年半前休刊することになった。未来工房の竹石さんが関わっていた企画だったことから、弊社の編集者・古満君に連載継続を打診してきた。こうして鎌田先生に接触し、やっと月刊『清流』への連載にこぎつけた。その後、深澤里香が担当編集者になって毎号力を入れて編集をしている。おかげで読者からの反響も良く、月刊『清流』の連載はすでに15回目を数えている。今後、この連載の単行本化については、古満君が意欲を燃やしているので実現してくれるものと思う。僕もこの機会に、少しでもみなさんの力になれれば、幸いである。そして、鎌田實先生のご友人・知人(例えば村上信夫さん、金澤翔子さん、大石芳野さん、神田香織さん、加藤登紀子さん、瀬戸内寂聴さん、永六輔さん、なかにし礼さん、舘野泉さん、池田香代子さん……)たちも月刊『清流』を賑わしてくれている。有難いことである。
・ハワイに行くのは初めてだった僕だが、オアフ島に滞在してみて、なんと素晴らしい所だと感心した。湿気が少ない上、気温も26度位と実に過ごしやすい。もう少し早く来れば良かったと思う。われわれ夫婦はオアフ島のコースしか見学しなかったが、人によってマウイ島、ハワイ島、カウアイ島等の観光コースを選んだ方もいた。だが、やはりオアフ島がメインコースで、鎌田先生もこの島で過ごされた。ザッとスケジュールを振り返って見よう。成田空港からホノルルに着いて、最初に訪れたのが「この木なんの木」で有名なモアナル・パーク。ワイキキのホテルにチェックインして、夜は『はじめましてパーティー』で鎌田先生が「感動して、がんばらない旅をしてほしい」と、いろいろ話をされた。一行の中には、95歳の女性が車椅子で参加していた。鎌田先生がみなさんに紹介してくれたが、その女性は「化粧は一切しないスッピン」の色白美人で、年齢をあらかじめ聞いてなかったら60代でも通りそうな若々しさ。そのあと、参加した数人の身障者を紹介されたが、症状は人によって様々で、よくこの機会に参加されたものだと思った。パーティーが始まる直前、当日、司会進行役を引き受けてくれた旅行会社の内山さんが、僕の持参した『清流』を掲げて、雑誌の宣伝をしてくださった。
・2日目から4日目まで、印象に残ったことをメモ風に書くと――ホテルからほど近いカピオラニ公園で朝の散策した後、2台のバスに分乗してノースショアドライブ(オアフ島北端の西岸エリア)へ向かう。次は、僕にとっては歴史認識でショックなこと(難しくてこういう科白しか言えない)だったが、巨大戦艦アリゾナ(海中に没した戦艦名)の記念館やパールハーバーをじっくり見学した。いまでもハワイの人々は、「真珠湾奇襲攻撃」と堅く信じている。夕暮れ近くなり、一転してスター・オブ・ホノルル・サンセット・ディナークルーズで船上から夕陽が世界を赤く染めながら没していくのを楽しんだ。ロブスターやビーフステーキ、美味しい果物も供され、最高の満足感を味わった。また、初体験であったが、水陸両用の車椅子でワイキキ・ビーチの海へ飛び込んだのもいい思い出である。その後、リニューアル・バウ・セレモニー(一行に結婚式を挙げた若いカップルがいたほか、金婚式のカップルもいた)に列席した。最後に鎌田實先生の講演会&『さよならパーティー』……以上、簡単に印象に残ったシーンを述べてきたが、盛り沢山な内容構成ながらゆったりしたスケジュールで組まれ、至福の刻を大いに楽しめた旅であった。
・僕が泊まったのはワイキキ・ビーチ・マリオット・リゾート&スパだったが、毎日、昼食は他のホテル(シェラトンやハイアット、ヒルトン、アウトリガー)など目先を替えてくれたので嬉しかった。食事の度、僕は何がしかの食前酒を注文した。ブランデー、焼酎、日本酒、ワイン、ウィスキー、バーボン等を美味しく呑んだ。鎌田先生は目ざとく僕の酒呑みシーンを見つけると、「あっ、また呑んでいる。それで何杯目?」などと訊いてくる。僕は「適量で呑んでいます」とさらりと受け流して涼しい顔だ。こういう受け答えはカミサンとの会話で慣れているのが強みだ。
・鎌田實先生は、最初の日、夕食を摂りながら時間をたっぷりとって講演をされた。この旅行の目的について、ご自分の出自等についても、忌憚なく話された。生い立ちで僕の印象に残っているのは、鎌田先生が1歳で養子に出されたこと。個人タクシーを営む養父と病弱気味な養母に引き取られる。その養母が心臓病を患い、闘病生活を間近に見たことから医者になろうと決意する。名門都立西高校から医学部進学を考え、「医大に進ませてほしい」と言ったところ、「バカなこと言うな! 貧乏人の息子は働けばいい!」と一蹴される。鎌田さんは、簡単には引き下がらない。強い思いを心に秘めていたからだ。養父にしがみついて「医大に行かせて欲しい」と泣いてすがった。結局、一浪の後、三つの医学部に合格、東京医科歯科大学へ進学することになる。時代は世界同時多発的に学生運動の波が押し寄せていた。先生も全共闘運動に参加したことがある。その時の東大デモ隊の中に今井澄氏がいた。後に、今井、鎌田の両氏が順に諏訪中央病院の院長を務めることになる。僕は素晴らしい話だと思った。
・鎌田先生は、大学を出ると、信州にあえて「都落ち」する。赤字の諏訪中央病院に押しかけ赴任した。「行くからには弱い人を助ける医者になれ」という父親との約束の履行であった。同じ長野県の佐久市に農村医学の父と呼ばれた若月俊一先生がいて、著書を読んで影響を受けたという。八ヶ岳連峰をはさんで佐久と諏訪がある。ここから長野県の健康に対する啓蒙活動が浸透していく。「地域住民を巻き込んだ健康づくり」である。こうした運動が奏功して、長野県の健康長寿度は大幅に改善していった。結局、鎌田先生が52歳で院長を辞めて名誉院長となった時、あの赤字病院は17億円の剰余金を持つ優良医療施設になっていたのである。
・その間の事情もお話された。赴任した当時、諏訪中央病院のベッド数は95床だった。それを145床に拡大する。40歳の今井澄さんが院長になって2年後、鎌田先生も33歳で副院長になり、二人三脚の病院づくりが始まった。最近、「鎌田先生、おめでとう!」と声を掛けられることが多いという。その理由は、かつて脳卒中にかかって死亡率が全国2位だった長野県が、いまや男女とも長寿日本一になった。その成果に貢献してきたというわけだ。それまで、信州人にとって、三度三度の食事の度に、また午前・午後のお茶の度に、野沢菜は欠かせない食べ物だった。それに加えて、海なし県の長野県には新鮮な魚は入ってこない。塩ジャケ、佃煮、塩からい味噌汁等、塩分過多の食生活が続いていた。この食生活を脱して、減塩の食習慣に変えていく。この運動が実を結んだのである。栄養価の高い野菜や果物、麹や納豆、味噌等の発酵食品を摂取し、さらには生活に「笑い」があれば良いと気づいた成果である。もう一つ、つい最近、鎌田先生は『鎌田式 健康ごはん』(マガジンハウスムック刊)の本を出された。それによると減塩にエゴマ、干し野菜、寒天、キノコ、キャベツ、ショウガ、ニンニク、ガリ、モロヘイヤ、納豆、オクラ、じゅんさい、唐辛子、わさび、ネギ……等をあしらって料理づくりする方法を奨励されている。
・話は飛ぶが、最後の日の講演は、スライドやパソコン等を使い、「がんばらない理論」をいろいろの局面で解き明かしていく。現在は、介護地獄の時代であるが、人生を変える、幸せな生き方をしてもらいたいという。例えば、交感神経と副交感神経のバランスを考え、ゆったりと38度の風呂に入る。そうすると副交感神経が活性化して、幸せホルモンのセロトニンが体内に出る。感動すると、さらに良い結果を招聘する。要は、「がんばらない」の実践である。あと、重要なことは鎌田先生が早くからチェルノブイリ原発事故の放射能汚染問題で、直接現地を見て、抗がん剤や抗生物質などの薬剤を日本から運び込む運動に熱意があったことだ。同時に、先の東日本大震災の時、福島第一原子力発電所の事故の深刻さが、鎌田先生にショックを与えた。早速、福島県南相馬市の知人と連絡をとって、薬剤や紙おむつ、カッパ、マスク等を携えた諏訪中央病院と日本チェルノブイリ連帯基金の混成チームが福島市立総合病院に到着した。「おでんパーティーをやろう!」、「千人風呂プロジェクト」、「ふくしま子どもリフレッシュサマーキャンプ」等のアイデアあるテーマを実行されている。そうした活動のスライドを見ながら、僕は鎌田先生がスケールの大きな真摯な医者だとつくづく感じ入った次第である。
・もう一度言うが、最後の夕食を兼ねて、参加者全員と鎌田先生がお話をされた。一人ひとりに身体の状況や旅に出て困ったこと、嬉しかったことを尋ねる。その後、先生のこれまで書いた著書15種類を、旅の中でユニークな患者に、一人ひとり「なぜ、この方はユニークだったのか」を解説した後で、手渡しされた。鋭い観察眼に裏打ちされたコメントを聞いて、改めて「臨床医・鎌田實」の本質が分かった気がした。ここで15冊の本の名前を、うろ覚えだが上げてみる――、 『がんばらない』『あきらめない』『それでもやっぱりがんばらない』、『なげださない』『雪とパイナップル』『ちょい太でだいじょうぶ』『空気は読まない』『鎌田實の幸せ介護』『言葉で治療する』『がんばらない健康法』『超ホスピタリティ』『へこたれない』『よくばらない』『ウェットな資本主義』『鎌田式 健康ごはん』、これらの自著をみなさんにプレゼントしてくれた。
・鎌田先生がこうしたお話をされている時、バックグラウンドに低く音楽が流れていた。その一つに、パブロ・カザルスの「鳥の歌」があった。鎌田先生が並々ならぬ音楽通だと思わせる曲である。講演にはまったく邪魔にならない、むしろチェロの響きが法悦の歓喜に誘い、酔うような作用をする。僕が、「天満敦子さんもこの曲を良く演奏されますね。またルーマニアの曲ですが、天満さんが弾くポルムベスクの“望郷のバラード”は絶品ですね」と水を向けると、鎌田先生も「天満さんのヴァイオリンは素晴らしい!」と頷きながら即答された。そして、自らもCDの製作については、加藤登紀子さんとジョイントされ、何枚も曲を作っている。鎌田先生率いる「JCF 日本チェルノブイリ連帯基金」で、CDの収益はすべて福島の子どもたちのために使われるという。素晴らしいボランティア精神ではないだろうか。
・鎌田先生の本ではないが、ちょうど今回の旅で持参した本、『旅は道づれ アロハ・ハワイ』(高峰秀子・松山善三著、中公文庫刊)は、道中恰好のガイドブックであった。「運命の地・ハワイ――亡き母・高峰秀子に捧ぐ 斎藤明美」のあとがきを見て、今は松山明美(作家/松山・高峰夫妻の養女)さんになったが、明美さんの発した冒頭の言葉「これほど素晴らしい本だとは思わなかった」との感想もうなずける。「人柄、価値観、暮らし方、夫婦の愛情……、そしてハワイという異国の地に抱く、二人の敬愛が溢れている」。お二人は1963(昭和47)年からハワイのアラモアナ・センター近くの34階建マンションの5階、2LDKの角部屋を買って、楽しんだ様子が活写されている。僕がこの本をバスの中で読んでいると、鎌田先生が「本好きな人なんだな、面白いかい?」と声を掛けてくれた。
・どうしても触れたいのが、学生時代に鎌田先生に影響を与えた三木成夫(しげお)氏についてである。当時、東京医科歯科大学の助教授だった三木成夫先生が「発生学」を講義してくれた。「私たちはどこから来たのか」。そんな深遠なテーマを、独自の手法でひもといていく。――人間は三八億年前に発生した単細胞の小さないのちがいまにつながり、哺乳類の顔に変わっていく。三木成夫先生は1925(大正14)年―1987(昭和62)年の生涯に、生命の根源的リズム、胎児に宿る面影などをキーワードに思索を深めた。生前の著書は二冊ある。『胎児の世界』(中公新書)、『内臓のはたらきと子どものこころ』(築地書館)がそれ。この科学者(解剖学者、発生学者)であり、哲学者(ゲーテ、クラーゲス等)だった三木成夫さんと結婚したのが、三木(旧姓・竹谷)桃子さん。1940年生まれ。夫とは15歳も離れた才媛である。奇しくも僕の中学校の同期生である。彼女は以前、年賀状で「うぶすな書院で三木成夫先生の著作の編集、校正等の仕事に携わっています」と書いてきたことがあった。鎌田先生の尊敬する三木成夫先生を思い出して、ハワイとは直接関係ないが、触れてみた。
鎌田實先生とわれわれ夫婦で談笑。ロブスターやステーキの美味しさもさることながら先生のウィット溢れる会話を楽しんだ。
2013.05.22長谷邦夫さん
漫画家・長谷邦夫(ながたに・くにお)さんは、現在、脳出血で入院中という。お見舞いに行きたいが、ご自宅は栃木県塩谷郡高根沢町で、いささか遠い。写真の替わりをいろいろ迷ったが、石ノ森章太郎『章説 トキワ荘の春』(清流出版刊)から似顔絵を拝借した。
・5月の連休明けのこと、臼井雅観君が僕に知らせてくれた――「長谷邦夫さんに弊社刊行の『漫画に愛を叫んだ男たち』が増刷になったことを知らせるため、ご自宅に電話したところ、奥様がお出になられて、《4月末に脳出血で倒れ、入院している》」とのことだった。僕はびっくりして、あのお元気だった長谷さんも、ついに僕と同病になった……と暗澹たる気持ちに陥った。長谷さんは「長谷邦夫の日記」というブログをもっておられるので、パソコンでそこに当たってみると、5月1日付で、ご長男が代筆した次のような状況経過が載っていた。
今日、病院に行ってきました。
意識ははっきりしており、会話もできました。
出血は左脳側で、右半身にしびれがあるようです。
動かしたりは出来ますが力は入らないとのことで
トイレも車椅子で連れて行ってもらうような感じです。
血圧を下げる処置をしながら、落ちついたらすぐ
リハビリも並行して進める模様です。
とりあえずは重症ではないので、ご安心ください。
油断禁物ですが………
・重症ではなかったようなので少し安心したが、僕の病院仲間には脳出血、脳梗塞患者が圧倒的に多い。もう一つの脳卒中であるくも膜下出血の場合、死亡率がかなり高い。僕の場合は、2回脳出血になり、左右両方の脳を損傷し、右半身不随、言語障害をもつ身になってしまった。長谷邦夫さんのその後をお聞きしてないのでなんともいえないが、早めにリハビリに励んで、一日も早く復帰して、元気な姿を見せてほしい。
・長谷邦夫さんとは、前の出版社、ダイヤモンド社でお会いして以来、長いお付き合いになる。ダイヤモンド社で何冊も単行本のシリーズ物をお願いし、僕が清流出版を創業後も1冊刊行させていただいた。お付き合いの経緯を少し述べると、初めて会ったのは、かれこれ30年前にもなろうか。新宿のゴールデン街で、旧知の波乗社、山口哲夫さんと呑んだ時ご紹介を受けた。その時、長谷さんは赤塚不二夫のブレーンというかアシスタント役として紹介された。僕はダイヤモンド社で、新ジャンルであるマンガ本を出したい旨を話した。この話には赤塚不二夫も大いに乗り気になって、「DIAMOND COMICS」と題して、全六冊を刊行するに至った。実務はフジオプロの桑田専務が交渉に当たり、両者の取り分が決着した。そして、長谷さんは一冊ごとにユニークなストーリーから気の利いた科白までアイデアを出してくれた。絵も赤塚不二夫とそっくり似せて描いてくれた。だが、その内、超多忙を極めた赤塚不二夫抜きの、いわゆる権限のあるゴーストライターとしてお付き合いすることになった。その時の刊行タイトルは、『孫子――ライバルに勝つ兵法』、『葉隠――死ぬ気の意思決定』、『五輪書――達人に学ぶ競争優位の智略』、『論語――究極の自己啓発術』、『菜根譚――成功を呼ぶマインド・コントロール術』、『君主論――リーダーシップ発揮の極意』(各ダイヤモンド社刊、1986年から1987年)。すべて順調に売れ、お堅い経済物主力のダイヤモンド社で初めて「経済マンガ路線」が認められたのであった。
・6年後、赤塚不二夫がアルコール依存症で入院した時、僕はもはや長谷邦夫という自分名義で刊行すべきではないかと思った。新しいシリーズは「長谷邦夫+フジオプロ」の著者名によって、『南方熊楠――永遠なるエコロジー曼荼羅の光芒』、『出口王仁三郎――“軍国日本”を震撼させた土俗の超能力者』、『アインシュタイン――はじめて宇宙の果てまで見た男』、『ノストラダムス――滅亡へのカウント・ダウンが始まった!』、『フロイト――あなたの深層心理にいま一つの光があたる!』(各ダイヤモンド社刊、1992年)の五冊刊行に至った。「コミック世紀の巨人」をシリーズタイトルに謳い、伝記マンガを刊行してもらったのである。売れ行きは赤塚本と同様、好調に推移した。この漫画ジャンルの11冊は、カバー、扉、見返し等、ことごとくデザイナーの中川恵司さんに引き受けてもらった。当時、『プレジデント』誌のカバーを全部引き受けていて売れっ子の中川恵司さんも、乗りに乗って素晴らしいデザインを毎回提案してくれた。
・お付き合いするうち、長谷邦夫さんが無類の本好きであり、博学なので薀蓄の一部を文章に書いてもらった。今で言うと内田樹さんや小田嶋隆さん、呉智英さんに依頼するような気持ちだった。そうした結果が『快読術――BOOK TO THE FUTURE ブック・トゥ・ザ・フューチャー』(1990年)、『脳に気持ちいい乱読術』(各ダイヤモンド社刊、1992年)の二冊。これらの本は、読書に纏わる今の時代でも通じる路線だ。一冊目の見返しの惹句に「“時代感覚”を磨く読書術!――漫画家にして、詩人、エッセイスト、ジャズ愛好家、そして稀代の推理小説読み。このいくつもの顔を持つ博覧強記の読書家が時代を読み取る読書術、時代感覚を磨く読書術を軽いタッチで披露してくれる」と謳った。そして、二冊目の見返しに「ひとはなぜ本を読むのか? それは“脳に気持ちいいからだ!” こう喝破する漫画家・長谷邦夫は、稀代の乱読家。そして、発想を豊かにし、独創を生み出すには、乱読に限ると、宇宙論から、モダン・ホラー、ジャズ論、世阿弥論、ダニエル・ベルの大著まで幅広い読書に挑戦、読書の醍醐味、効用を実践的に繰り広げる」と、大上段に宣伝したのだが、この惹句は嘘偽りのない僕の本音だった。
・ここで、ちょっと脱線する。わが社は1994年3月の創業だが、その前の一年間は僕がダイヤモンド社を辞めて、九段下のマンションの一室で得難いメンバーと新雑誌の構想を練っていた時期だ。方向は女性誌と決めて、産みの苦しさを味わった。その時、長谷邦夫さんも100メートルほど近くの飛鳥新社が産んだ子会社で悩んでいた。コミックペーパー『日刊アスカ』の発刊に参加し、1993年暮れに創刊にこぎつけた。長谷邦夫さんは、「ニュース・コミック」の構成を担当し、あれこれ試行錯誤され、僕と数回、近所の珈琲館で情報交換した。結局、新しいコミックペーパーは、編集企画や発行資金の弱体もあって半年で廃刊となった。そして、長谷邦夫さんも僕の前からいなくなった。その後、長谷邦夫さんは住まいも葛飾区南水元から栃木県に引っ越した。仕事も漫画創作をしばらくやめて、大学と短期大学、専門学校でマンガ論、デザイン美術、マンガ創作の指導や「現代風俗文化論」を展開していた。大垣女子短期大学、椙山女学園大学、中京大学、宇都宮アートアンドスポーツ専門学校などの講師をやっていた。ネットで検索して見ると、長谷邦夫さんを慕う生徒さんが今も期待している様子が窺える。
・最後になったが、肝心のわが清流出版の本を宣伝したい。長谷邦夫さんと10年ぶりに仕事をした作品だ。『漫画に愛を叫んだ男たち』(定価1890円〈税込〉 2004年刊)である。装丁は西山孝司さん。《手塚治虫、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、藤子不二雄、寺田ヒロオ、水野英子……。漫画史にその名をとどろかせた伝説の「トキワ荘」アパートの住人たちである。その中には、この本の著者である長谷邦夫さんもいた。長谷さんは赤塚不二夫と知り合い、その人生に大きくかかわってきた。全盛時を支えたブレーンであり、ときには赤塚のゴーストライターをしたこともある。その長谷邦夫さんが描いたあの頃の漫画少年たちの青春群像、そしてその後、淡雪のように消えていった人もいれば、日の出の勢いで世に出て一世を風靡した人もいた……。「夢と挫折」を描いた渾身の書き下ろし小説である。》と、宣伝文句を繰り返したが、本質は一言「漫画と心中してもかまわない男たちの生き様を高らかに謳った本」としか言えない。
西山孝司さんの装丁である
2013.04.22わが恩師、小高先生を囲んで…
小高先生(前列左から二人目)を囲み、クラス会。
・小高禮子先生は、われわれが中学2年になる時、東京学藝大学を卒業して豊島区立第十中学校へ赴任し、わが2年2組のクラス担任となられた方である。その時から、すでに約60年という長い歳月が経っている。その間、クラスの仲間たちが、高校・大学進学、仕事や結婚など、さまざまな悩みごとや壁にぶつかったとき、相談相手になっていただくなど、温かい気配り、心配りをされ、大いに支えとなっていただいた。僕も小高先生から懇切丁寧な手紙をしばしば頂戴している。恐らく僕にとって、生涯で一番多く手紙をもらったのが小高先生ということになるのではないだろうか。このように長いお付き合いが続いてきたのは、なんといっても先生の人間的魅力のしからしめるところであろう。今回も、野村育弘君(後列左)の呼びかけで、先生を慕うクラスメートたちが集まった。
・特筆すべきは集まったクラスメートたちに、月刊『清流』の購読者が多いことだった。まず小高先生ご本人が、自分と恩師に贈る分と二部有料購読してくれていた。だが、残念なことに小高先生の恩師が齢101歳と高齢になったため文字が読めなくなり、この5月号をもって購読終了の手続きをされたとのこと。浅野応孝君(後列右から二人目)もご自分と知人のため、二部有料購読をしてくれている。松本邦明君(後列右から三人目)も、創刊以来、有料購読してくれているほか、『清流』創刊号の表2に帝人の企業広告を出稿してくれた。当時、松本君は帝人の広報部長だったのに甘え、僕が頼み込んだのである。心から感謝したい。ただし、これには後日談がある。
・出稿してもらった帝人の広告は、「坂田明のミジンコ観察」がテーマだった。企業広告らしからぬイメージ広告である。その後、弊社では画家・堀文子さんの対談集『堀文子 粋人に会う』(2009年11月刊)を刊行することになるのだが、追加対談のお相手に坂田明氏を指名された。そこで、ホテルグランドパレスの一室を借り、対談の運びとなった。当日は僕も同席したのだが、坂田さんがミジンコの細胞分裂やプランクトンの遊泳などの説明をすると、堀さんは身を乗り出してメモを取り、微妙な動きは図解して説明してもらうほどの入れ込みようであった。ご高齢(刊行時91歳、現在95歳)にもかかわらず、知的好奇心が旺盛で、年齢をまったく感じさせない方だった。改めて月刊『清流』は、創刊時から、堀文子さんと坂田明さんの出会いを予定調和していたのではと思った次第だ。
・小高先生は、これまでにも数回、月刊『清流』の特集企画や読者欄に登場していただいた。松原淑子編集長兼出版部長が、その間の事情をよく知っている。ある意味で、弊社の大事な協力者の一人でもある。そして、先生は体操、コーラス、絵手紙、書道、水彩画、ピアノ等と多彩な趣味の持ち主で、体操、コーラスなどは地域のリーダーをされている。一昨年、ご主人を亡くされたが、今は自宅近くの高齢者マンションで、悠々自適な生活を送っておられる。
・高齢者マンションでの生活の一端を見せていただくことが、今回のクラス会の狙いの一つでもあったわけだが、まずロビーの豪華さと広さに圧倒された。またライブラリーも充実している。ダイニングルームも高級リゾートホテルのようだった。シアター・ルーム、ビリヤード・ルーム、麻雀ルーム、アトリエ、カラオケ・ルーム、大浴場、サウナ、プール、ヘアサロン、フィットネス・ルーム、応接室、カフェ・ラウンジ、メール・ルーム、屋上庭園、駐車場、駐輪場、フロント、ロビー等、ホテル並みの共用スペースが素晴らしい。老後を十分にエンジョイされている様子が見て取れた。先生の個室も見せていただいた。ご自分の習作された水彩画が数点、壁に掛けられている。部屋は一人住まいにほどよい広さで、キッチンで自ら調理することもできる。実際、共用のレストランでの会食も良かったが、先生のお部屋で手作りしたご馳走もよかった。美味しい家庭料理を堪能させていただいた。お酒もたっぷりと供され、自ずから話も弾んだ。入居一時金、管理費、食費、健康管理費などを含め、費用はそれ相応にかかるが、このような施設に入れば、老後の快適な人生が保証されることは間違いないと感じ入った。
・この日、いろいろな話題が出たが、僕のアルツハイマー気味の短期記憶では論理が明快にならない。おまけにお酒を呑んでいて呂律がまわらない。それにもかかわらず高柳幸子さん(前列右から二人目)がした読書の話が印象に残っている。彼女が最近読んだ本では、三浦しをんの『舟を編む』が面白かったという。2012年の本屋大賞を受賞した作品だ。僕も読んだが、辞書編集部をテーマにした優れた作品だと思う。折しも、原作にした映画『舟を編む』も公開されている。主演は僕の贔屓にしている松田龍平である。原作とどこがどう違うか、ぜひ映画を観てみたいと思っている。
・僕は「魂の旋律――音を失った作曲家、佐村河内守(さむらごうち・まもる)」についてつたないながら話をした。小平晋士君(後列左から三人目)が早速、持参していたiPadを開いて、佐村河内守がどんな人物なのか検索してくれた。NHKテレビで佐村河内守が出ていた番組を見た僕は、大きなショックを受けた。ちょうど、14年前、NHKテレビが取り上げ話題となった67歳のピアニスト、フジ子・ヘミングの時のように衝撃的だった。フジ子・ヘミングも片耳がほとんど聴こえない。佐村河内守は両耳が聴こえない上、眼も不自由だという。本人曰く、耳はいつもゴーッという異音に悩ませられるとか。そんな肉体的ハンディがありながら素晴らしい作曲をする。このテレビを見て受けた感動や印象を、なんとか語ろうとしたのだが、言語障害があるため、悲しいかな伝えたいことの半分も伝わらなかった。
・それでも、彼の『交響曲第1番《HIROSHIMA》』は、別名「希望のシンフォニー」と言われ、絶望と希望と祈りを込めた80分の超大作であることを話した。ベートーヴェンを超えるほどの壮大なスケールで、CDがクラシック界では異例の10万枚突破となっている。また、曲中、「悪魔の音程」と言われる禁じ手「トリトヌス」の多用はまれであることなど、自分がさも音楽通であるかのように強調した。そのあとも、佐村河内守について思い出すまま述べたが、皆さんには迷惑だったかもしれない。上野博司君(後列右)が、うまく合いの手を入れてくれ、知ったかぶりの恥をかかずに済んだ。
・小高先生は、われわれと9歳違いだが、いつお会いしても感覚が若々しい。恐らく知的好奇心に裏打ちされた多彩な趣味、つまり壷中の天をお持ちだからこそ、ではないかと推測している。9歳年下のわれわれよりも、よほど感性がしなやかである。そのような方を先生にもって、幸せを感じられるのは稀有のことかもしれない。先生がこれからもますます壮健で、周りの方々に、幸せのおすそわけをしてほしいと願うばかりだ。
2013.03.22徳岡孝夫さん
眼が不自由な徳岡孝夫さんが、清流出版へ来社された。
・横浜市港南区港南台在住のジャーナリスト、評論家、翻訳家の徳岡孝夫さんが、決死の覚悟? でわが社に来社された。徳岡さんは視力が両眼合わせ、0.1ぐらいしかない。だから、2011年の年末のこと、三鷹にある大学病院の眼科に向かう途中、京王・井の頭線の渋谷駅プラットホームから転落されたことがあった。幸いにもその時、近くに駅員がいてすぐに駆けつけ、ホーム上に押し上げてくれた。命にかかわるような災禍にはならずに済んだのだが、左腕を骨折し、救急車で広尾の日赤医療センター救急科へ運ばれ治療を受けている。以来、徳岡さんと会う時は、こちらから出向くことに決めていた。ところが今回、徳岡さんがどうしても弊社を訪ねたいとおっしゃるので、心配ながらもお待ちすることにした。長年、担当してきた松原淑子出版部長(左)も無事会社に着くことを心から祈っていた。
・徳岡さんは、名文家として評判が高い。菊池寛賞を受賞した産経新聞『産経抄』の前執筆者、石井英夫さんがある随筆にこう書いた。「山本夏彦、久世光彦なきこの世で、徳岡孝夫氏は当代随一の名文家だと私はひそかに思っている」と……。われわれも、まったく同感である。付け加えれば、そう書いた石井英夫さんも名文家のお一人だと思う。山本夏彦、久世光彦、徳岡孝夫、石井英夫の各氏には、共通点がある。言わずもがなだが、文章に魅力がある。対象にズバリ切り込み、その切り口は鋭く、ムダな字句が一切ない。古今東西の先哲に通じ、引用が巧みで、軽みや諧謔、皮肉があり、読んだ後に余韻が残るのも共通。特に徳岡さんは関西のご出身だけに、随所に大阪弁を織り込んで書いている。このリズム感は絶妙というしかない。この四人の方々と月刊誌の連載や単行本でご一緒できたのは僕の誇りである。
・弊社に着くや、徳岡さんは、「83歳になるのに、毎月、雑誌の締切りに追われています」と言った。ちなみに、弊社でも月刊『清流』で“ニュースを聞いて立ち止まり…”欄をご執筆されている。『清流』読者は大半が女性だが、徳岡さんのニュース解説が分かりやすいとファンも多い。新潮社刊行の月刊誌『新潮45』の巻頭随筆“風が時間を”も徳岡さん執筆である。珠玉のエッセイで、読むだけで心が洗われる。もう一つ、新潮社のウェブ版国際情報サイト『フォーサイト Foresight』で、“クオ・ヴァディス きみはどこへいくのか?”欄を連載されている。得難い国際情報を見事な包丁さばきで読ませてくれる。かつて文藝春秋の月刊誌『諸君!』が休刊する前まで、匿名巻頭コラム“紳士と淑女”欄をご執筆されていた。いったい誰が書いているのだろうか? と世上に噂された。さもありなんである。『諸君!』の休刊が決定し、初めて執筆者・徳岡孝夫の名が明かされた。
・徳岡さんによれば、山本夏彦翁も87歳の死の直前まで連載4本を抱え、ゲラの校正をしながら死んでいったと言う。ジャーナリストとして執筆依頼があれば、書かざるを得ない。人生、なかなか思うようにはいかないもの、「うまく死ねたら幸せ」と徳岡さんは達観している。だから病院に行っても「注射を右手には打たないでくれ。筆を持てなくなる」と言ってしまう。会うなり、死や寿命の話で盛り上がってしまった。「仕事をせずに、電車で西に向かえば、湯河原、熱海、伊東…辺りで、温泉に浸かってのんびりしたいが、なかなかできない」とポツリ。僕が「聖路加国際病院の日野原重明さんは101歳で、理事長をされていますが…」と振ると、少し間をおき、「男、101歳であちらが現役の方がよっほどいいが…」と一蹴された。その絶妙な切り返しは、さすがに徳岡さんだ。そこに居合わせた全員がどっと笑った。
・僕が最近見た映画の話をした。ロバート・ゼメキス監督の『永遠(とわ)に美しく』(1992年)だ。メリル・ストリープ、ブルース・ウィリスの主演で、不老不死の秘薬を飲んだ女性たちの騒動を通して、「いつまでも若く美しくありたい」という願望をブラックに描いたコメディ映画だ。徳岡さんは、「永遠に美しくありたいという気持ちは、それはそれで良いが、むしろ適当に死んでゆく方が望ましい」というご意見。僕も同感である。
・徳岡さんは三島由紀夫と親しかった。昭和42(1967)年5月、初めて自衛隊体験入隊から帰った三島をインタビューしたのが徳岡さんだ。同年8月に毎日新聞社バンコク特派員の辞令を受けバンコクに赴任、バンコク滞在中の三島と親しく付き合った。三島が最後の長編小説『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』を取材しているころであり、お二人は交流を深めた。その時、三島がノーベル文学賞候補にあがり、独占インタビューも可能だったが、あいにく受賞には至らなかった。そんな経緯があり、自決した昭和45(1970)年11月25日、徳岡さんは三島から『檄文』を託されている。
今回、三島の最後の戯曲『癩王のテラス』(1969年)に関し、僕がつたない語彙をもって触れた。その作品はバンコク(タイ)の隣、カンボジアを舞台にする物語である。徳岡さんもその戯曲が出た1ヵ月後、早速アンコール・トムへ行ったと言う。癩病に罹った若き王がアンコール・トムを造営し、バイヨン寺院を建設していく。王が臨終の間際、精神と肉体を対比して語る。そして寺院の頂きに、燦然と裸の美しい若い王自身の肉体が出現する。「肉体こそ永遠なのだ。青春こそ不死なのだ」と叫ぶ――三島由紀夫らしいレトリックに満ちた戯曲だ。あのボディビルで鍛えた三島が、肉体のほうが永遠だと宣言する。ひるがえって目の不自由な徳岡さんと右半身不随の僕にとって、日々の現実は不自由な身体をもてあまし、強いて言えば精神? しかない。それも僕の場合、あまりにひ弱な精神しか持ち合わせていない。情けない限りである!
・徳岡さんの話は面白い。東南アジアをはじめ諸外国には、われわれ日本人には想像もつかない人間の営みがあるらしい。徳岡さんは、具体例を挙げて語ってくれた。熱帯ではお寺の土台に絡まって植物が根を伸ばし、最後に建物のレンガの隙間から根を出し、どんどん大きくなり建物を崩壊させることもあると言う。実際、放っておいたらあと2、3ヶ月で倒れかねない寺院が現在数ヶ所あるという。そして食虫植物。葉や茎などが捕虫器官になっており、昆虫や動物プランクトンなどを招き寄せ、捕らえ、消化吸収してしまう。
またフランス人がジャングルで遭遇した橋の欄干の話。見た目はまさに巨大な蛇のようで、びっくり仰天したが実際は精巧な蛇の彫刻だった。また、山には山ヒルが生息しており、頭上から降ってくる。嚙まれても痛みはほとんど無く、出血していても吸われたとは気づかない。背中、首筋、腕の裏、ふくらはぎなどを狙ってくるので、まず自分では分からないらしい。他人に見て貰って初めて気が付くほど。しかも蛭の吸い口は釣り針のような返しがあるそうで、一度食らいつかれると払ったくらいでは落せないという。こうして聞いていると、恐ろしい話のはずだが、徳岡さんが語るとそうは聞こえないのがおかしかった。
・砂漠の夜の話にも驚かされた。星を立ったままの状態、つまり水平(横)方向に見えるのだという。星を見るのに、首を上げる必要がないのだ。「水平方向に星がある」のは、経験した人でないと分からないはず。不思議な光景ではないだろうか。34歳(今から49年前)の時、徳岡さんは、隊を組んでヨルダンのアンマンからイラクのバクダットまで小さな自動車で砂漠地帯を走破したことがある。また、直接、飛行機でインドのニュー・デリーまで飛べず、パキスタンのカラチからネパールのカトマンズまで迂回せざるを得なかったこともある。いずれも生命の危険を伴う冒険譚であり、いつ死んでいてもおかしくなかった。人間はつくづく生かされていると思ったと言うが、実感がこもっていた。このあたり、徳岡さんの話は僕の書いたよりもっと面白い。
・徳岡さんはつい最近、『週刊新潮』の“掲示板”に質問を載せた。「京都の仁和寺の桜が観たいが、いったい満開は何時ごろでしょうか?」という内容だった。僕は、この答えは知らないが、仁和寺と聞いて思い出したことがある。この寺のすぐ前に住まいがあった勝田吉太郎さんに、単行本を出していただいた。勝田さんは京都大学、奈良県立大学、鈴鹿国際大学各名誉教授、元鈴鹿国際大学学長を務めた方で、徳岡さんより2歳年上。書いていただいた本は『平和病日本を撃つ』(ダイヤモンド社刊、1982年)というタイトルだったが、そういえば徳岡さんも『「戦争屋」の見た平和日本』(文藝春秋刊、1991年)という本を刊行されている。僕が親しく付き合った文藝春秋の宇田川眞さんが編集担当した本だ。二人とも同じ京都大学卒の国を憂える書き手である。そんなわけで、僕は仁和寺の桜が咲くころ、ゲラを持って勝田さんを訪ねたことがあった。そして、桜といえば、謡の『鞍馬天狗』の一節「…ある時は 愛宕高雄の初桜 比良や横川の遅桜 吉野初瀬の名所を 見のこす方もあらばこそ」が口をついて出る。
・徳岡さんの該博な知識は歌舞伎にも及んだ。最初は、『隅田川』である。梅若丸を人買いにさらわれ、京からはるばる武蔵国の隅田川まで訪ねて、愛児の死を知った母親(班女の前)の悲しみ。春の物狂いの名作であるが、「名にし負えば いざこととはむ 都鳥 わが思う人は ありやなしやと」の名文句が悲しい。次に出たのが『娘道成寺』。團十郎の演技が今も印象に残っているとおっしゃる。桜満開の紀州道成寺を舞台に、安珍・清姫伝説の後日譚が繰り広げられる。清姫の化身だった大蛇に鐘を焼かれた道成寺は、長らく女人禁制となったが…。徳岡さんの軽妙な語り口をなんとか文字で表現しようと思うが、僕の筆では書けそうにない。歌舞伎は、特に踊りと所作事が大事ということだけは分かった。昨年お亡くなりになった中村勘三郎、またつい最近鬼籍に入られた團十郎やその息子海老蔵の話題でひとしきり盛り上がった。徳岡さんは、歌舞伎に関し「通」と言われるのは嫌で、強いて言えば「歌舞伎をこよなく愛している」一ファンであるとの自己認識だが、聞いていると何時間でも話が尽きない。
・徳岡さんとの会話ははずみ、笑い声が絶えなかった。でも僕は、言語障害をもろに受けて自分の思いを伝えられずもどかしかった。それでも徳岡さんと会うと元気になれる。それが嬉しいので、言語不明瞭な言葉を次々に発して困惑させたものと思う。谷崎潤一郎は若い頃、能弁で、周りの人の発言の機会を封ずるほどおしゃべりだったというが、歳をとるほど寡黙になり、晩年は座談会や対談を一切しなかったという。逆に、若い頃、無口で、晩年になると能弁というより多弁な人も多い。埴谷雄高も多弁、雄弁の口で、大岡昇平によると認知症気味の多弁となってからは、繰り返しが多くなり、付き合っておれない状態になったと言っている。まあ、僕も高校時代は雄弁会に入り、弁は立つほうだった。今は思ったことの三分の一も伝えられないが、それはそれでいい、プラス思考で行こうと思っている。
別れはつらい。いつまた徳岡さんとお会いできるかは分からない。お互いに元気でいれば、また会える。そう思い、笑ってお別れした。徳岡さんは電車で帰るとタクシー券の受け取りを固辞したが、これだけはこちらも譲れない。階段の上り下りもあるし、少しの段差で転んだりすることは僕自身もよくあること。怪我をされたりしたら、取り返しがつかない。そんなわけで、タクシーで帰っていただいた。また、こんな楽しい食事をご一緒できればと思っている。
ところで最近のことだが、徳岡さんがご自宅で郵便を受け取りに出て転んだという。その際、右手を骨折された。こんな非常事態であるからして、しばらく原稿執筆は出来ないと考えるのが常識である。ところが、松原宛に今月の原稿が届いたという。僕は驚いた。なんと指先は固められていないので、パソコンで打ったらしい。いかにも律儀な徳岡さんである。骨折しても締切を守る。こんな硬骨漢はそういるものではない。僕は感動すら覚えている。徳岡さん、有難う。
2013.02.25近藤信行さん
山岳文学研究の傑作『小島烏水――山の風流使者伝』の著者・近藤信行さん
大佛次郎賞受賞作の『小島烏水』
見返しにいただいたサイン。「北に遠ざかりて、雪白き山あり、問へば甲斐の白峰といふ」(『平家物語』より)
・久方ぶりに、旧知の作家・文芸評論家の近藤信行さんと会う機会を得た。近藤さんは、東京の杉並区西荻北と山梨県勝沼町に住まいをお持ちだが、現在、山梨県立文学館館長という公務に就いておられることから、勝沼町の方に居ることが多いという。この日も勝沼から上京された。近藤さんには、僕は前々からお願いしたいことがあった。単行本としてご執筆いただきたいテーマがあったのだ。共通の師である“椎名其二(しいな・そのじ)”についてである。正式なご依頼もしないうちに、肝心の僕が清流出版の社長を辞め、晴耕雨読の悠々自適な? 生活に入ったことで企画そのものが宙ぶらりんになっていた。
・それがなんと僕が出社していない日に、近藤さんの方からお会いしたいと電話が掛かってきたという。電話をとってくれた藤木健太郎君(現・社長)は、かつて近藤さんを取材したことがあって、すでに面識があった。それは、月刊『清流』の1998(平成10)年2月号の『清貧に生きる』という特集で、“清貧の人”椎名其二さんを語っていただいたのだ。「自由人として、生きる喜びを大切にした椎名其二さんのこと」と題して、近藤さんの他にも、僕の親友だった長島秀吉君を取材、藤木君は要領よく特集にまとめてくれていた。椎名さんは1887(明治20)年、秋田県角館の生まれ。その生涯は知る人ぞ知る、波瀾に満ちたものだった。僕の生涯で、尊敬する人を一人だけ挙げろと言われれば、椎名さんをおいて他にない。藤木君によれば、その日の電話で、「いずれ椎名先生の本を書き上げたい」と語っていたという。僕はそれを聞いて嬉しかった。
・近藤さんに初めてお会いしたのは、今から52年前まで遡る。その頃、近藤さんは『中央公論』にその人ありとして知られた名編集者だった。その日は、忘れもしない1960(昭和35)年11月5日のことで、僕はまだ早稲田大学の3年生だった。近藤さんも逆算してみると29歳のときである。温厚のなかにも精悍な風貌だったというのが、僕の第一印象に強く残っている。その日は、恩師・椎名其二さんが横浜港からヴェトナム号でフランスに向けて出航された日だった。作家の芹沢光治良さんや、安齋和雄、安井源治など早稲田大学の諸先生、長島秀吉君、神本洋治君、僕ら先生から教えを受けた学生たちも別れを惜しんだ。近藤さんもこの別れは感慨ひとしおだったと思う。椎名さんは、75年の生涯をフランスで終えている。日本に裏切られ、この国に失望しての死であった。成人してからの日本滞在はたった2回だけ。1回目は1922(大正11)年から1927(昭和2)年にかけ5年ほど、2回目は1957(昭和32)年から1960(昭和35)年にかけ3年ほど、都合8年にも満たない短いものだった。70歳の椎名さんはふるさとに骨をうずめるつもりで、妻子に永の別れをつげて、単身かえってきたのだったが、故国は決して≪終の棲家≫となりえなかったのである。この日は、いわば椎名さんの生涯で、2回目の日本に幻滅しての旅立ちだったのだが、3回目は永遠に訪れなかった。
・近藤信行さんは早稲田大学大学院仏文科修士課程修了の後、中央公論社へ入社し、『中央公論』『婦人公論』『小説 中央公論』『日本の文学』などの編集に携わった。『中央公論』の編集部にいた近藤さんは、椎名さんご本人が自分の人生で何も語るものがないとして書くのを断っていたのに「自由に焦れて在仏四十年」「石川三四郎のことなど」「パリで知った黒岩涙香」「佐伯祐三の死」などを聞き出して、連載をものにした。だが、嶋中鵬二社長は、「貧乏たらしい話で嫌い」と周囲の人に漏らしていたそうだ。そして1969(昭和44)年、文芸雑誌『海』が創刊されたが、編集長は近藤さんだった。「世界史的な同時性という観点に立ち、インターナショナルな視野から新しい日本文学を創造していきたい」と創刊に当たっての文章を書いている。実際、海外の作家の作品を多く掲載している。また、創刊号に三島由紀夫の『癩王のテラス』が掲載され、読んだのをはっきり覚えている。僕が29歳の時だった。近藤さんの部下には、大江健三郎の学友で、夭折された塙嘉彦さん(国際的なジャーナリストとして『ル・モンド』紙が75行を割いて悼んだ)がいた。その後『海』は、村松友視、安原顯などの編集者によって尖端的な文芸雑誌に変質していく。一方、近藤さんは編集者稼業より山岳文学関連評論へと比重をかけるようになった。1976(昭和51)年、文芸雑誌『海』編集長の職を辞し、同社を退職した。そして1978(昭和53)年、『小島烏水――山の風流使者伝』(創文社刊)で大佛次郎賞(第5回)を受賞した。453頁もの大著で、山岳文学研究の傑作がここに生まれた。
・ここで少し脱線するが、数年前、長野県上高地を旅行して帝国ホテルに泊まった。何気なくホテルの図書室を覗いてみると、近藤信行さんが解題・解説をされている全14巻別巻1の「小島烏水全集」(大修館書店刊、1979年から1987年まで)が、全部揃っていた。僕は、近藤さんが解題・解説を苦労されてお書きになっていたのを、旅の途中ですべて読むことができて、帝国ホテルに泊まったことの幸せを噛みしめた。また、近藤信行さんの『小島烏水――山の風流使者伝』(創文社刊)は、昨2012(平成24)年10月に、新版刊で平凡社ライブラリー(上下)から刊行されている。手頃なソフトカバーになってお薦めである。
・今となっては何年何月かを特定できないが、近藤さんが僕に送ってくれた『帖面』《56号、1977(昭和52)年3月、帖面舎発行》の文章に打たれる。近藤さんは「山内先生のあたたかさ」と題して、ポール・クローデルと早稲田大学教授の山内義雄先生との交流賛歌を書いている。このあと椎名其二さんのことに触れ、半世紀にわたる人生を紹介された。その文章は近藤さんが同人誌『白描』の創刊号で『ある生涯』という一八〇枚の作品を書いたことに端を発している。椎名さんの生涯をごく短い分量でまとめておられるので、さわりだけご披露したい。
――≪名利をもとめなかった椎名さんの生き方は、『舞姫』の主人公とは正反対のものだった。……早稲田に学んだが、安部磯雄の示唆によってアメリカにわたり、ミゾリー州立大学の新聞科を出た。セント・ルイス、ボストンでの記者生活ののち、ジャン・ジョレス、ロマン・ロランにあこがれてフランスにわたる。英国の詩人カーペンターの紹介でポール・ルクリュと知りあい、南仏ドンムのルクリュ家の学僕となったが、これが椎名さんの一生を決定したといえるだろう≫。
引用をもう少し続ける。
≪日本を脱出した石川三四郎と出会ったのも、このルクリュ家においてであった。ロマン・ロランの『大戦下の日記』のなかに、椎名さんはクルュッピ夫人の農場ではたらく一日本人として「彼は非常に聡明で、教育があり、洗練された礼儀と清潔さとを身につけて」いると描かれているし、クルュッピ夫人はロランにあてて「私は彼を、かなりトルストイ的な、働くべきであるからには、最良の労働は土のそれだと感じている社会主義者なのだと思います」とかいている。≫――
この『帖面』(56号、昭和52年)の文章の最後はこうなっている。
――山内先生の教えをうけ、先生の紹介によって椎名さんのもとへかよった加登屋陽一君(現在ダイヤモンド社勤務)は、「椎名其二のこと」と題する山内先生の文章を大切に保存していた。その一部を紹介すると、つぎのとおりである。
≪滞仏四十年といっても、それは椎名さんの場合、簡単に言いきれないものがあります。最近に「中央公論」に連載中の滞仏自叙伝によって御承知の方もあろうと思いますが、永い滞仏中、終始フランスの思想、文化、社会、政治にわたって巨細な観察と犀利な批判につとめられた椎名さんのような方は、けだし稀有の人をもってゆるされるだろうと思います。そうした椎名さんのフランス語については今さら言うまでもありませんが、語学を通じ、さらに語学を踏みこえて、フランス文化の骨髄をいかにつかむべきかについての教えには、聴くべきもの多々あることを信じて疑いません。……文学者であるとともに科学者であり、さらに一個哲人のおもかげある椎名さんの祖国日本に帰られてからのこれからのお仕事には、大きな期待を禁じ得ないものがあります。≫
……の部分は、≪かつて一旦帰朝の際、吉江喬松博士の招請により早稲田大学フランス文学科で教鞭をとっておられたころの椎名さんのお仕事には、バルザック、ギヨマン、ペロションなどの文学作品の翻訳とともに、ファーブル『昆虫記』の翻訳がかぞえられます。≫――の文章が入る。近藤さんは紙数に限りがあるので、やむなく省略されたのであろう。
・今回の近藤さんと会う日時を決めた後、一週間余り経った日、電話で近藤さんが訊ねたいとしている用件の一つが分かった。山梨県立文学館が出す資料に椎名其二から中村星湖(山梨ゆかりの自然主義作家)に宛てた手紙四通を資料集に納める許諾の件で、椎名其二の著作権継承者(相澤マキ)の連絡先と継承の経緯をご存じですかとの内容である。僕が、2010年2月の本欄で書いた相澤マキさんのことだった。彼女は椎名先生の兄・椎名純一郎の孫である。純一郎の息子・椎名正夫の次女だ。その時は、色彩美術館を主宰する菅原猛さんを介して椎名其二さんの縁者、相澤マキさんと福井和世さんのことを知ったが、お二人ともそれまでまったく知らなかった方たちだった。近藤信行さんも椎名ミチさん(椎名正夫の長女)しか知らないと言う。相澤マキさんによれば、父君の椎名正夫さんや姉上の椎名ミチさんはもはや亡くなったと言う。早速、山梨県立文学館著作権担当の小石川学芸課長さんに、相澤、福井両女の連絡先を教えてさしあげた。だが、僕はまだこの件に納得が行かなかったので、二人を紹介された菅原猛さんに詳しく訊いてみなければならないと思った。椎名先生に纏わることで、正確な情報を得たいのなら、見逃せない要素だ。
・会ってみて、近藤さんからいろいろ興味深い話が出た。僕がもっとも興味を惹かれたのは、近藤さんが晩年の「椎名書簡」のなかに告白を読み解いていたことだ。近藤さんは、すでに『椎名其二の手紙――旅と棄郷と』《早稲田文学、1981(昭和56)年》の中で触れているが、椎名其二さんが甥の椎名正夫さんに対し、次のようなことを述べたことに触れている。
≪正夫、俺にも若い時代があった。お前達の生れる前のことである。俺は或る女をひそかに愛した。が、この女は他の人と結婚した。この女はお前の母だった。この他の人とは、お前達の父だった。俺はそれなりすべてを胸の底にたたみこんだ。しかしこの苦しみは俺をして国を去らしめた原因である。それ以来、あらゆる変遷にもかかわらず、俺の気持ちは四十有余年と変りはしない。
この事実は未だ嘗て誰にも打ち明けたことはない。お前のお母さん自身も知らないことである。
正夫、お前にたのむ。俺のこの心をお母さんに打ち明けてくれ。お母さんもあらゆる苦難をなめられた。それにしても心は年と共に老けはしない。尚ほ胸の底に若干の純粋さ、若干の若さを保存してゐるに違ひない。そして俺を了解し、俺の不躾をゆるしてくれるに違ひない。そして、俺はなんぼうせいせいすることか。正夫、たのむ。≫
近藤さんがこの書簡を、重要視する。椎名兄弟に何が起こったのか?
・椎名其二さんの兄は、一高時代に安部能成、小宮豊隆、岩波茂雄らの同級生で、その名前は安部の『岩波茂雄伝』にも登場する。郷里角館の家督をついで、その土地にふさわしからぬ新聞社をおこしたり、遊蕩三昧のすえに禁治産者となった。昭和12年に亡くなった椎名純一郎だが、その兄に嫁いだ女(ひと)を人知れず好きだったと言う。叶わぬ恋と決別するため放浪。アメリカからフランスへのかくも長き不在だと思う。そう思うと、椎名其二さんの一生の思索や行動の秘密が分かるようだ。
僕も椎名さんの下宿で、甥の椎名正夫さんに何回も会ったが、口数が少ない温厚な方だった。ひょっとしたら椎名さんのお子さんではないかとも? 僕の浅はかな知識で思った。近藤さん、本当の椎名伝説をぜひ書いてほしいです。
・時々、椎名其二さんの言葉や仕草、つまり人間像を逐一思い出す時、ガツーンと頭を殴られたような気になる。僕の人生は堕落した一生だったと忸怩たる思いに駆られる。先生が翻訳された『出世をしない秘訣』にことごとく背いた生き方であり、師を蔑ろにしたのではと情けなくなる。ひるがえって椎名其二さんの薫陶を得た近藤信行さん(81歳)や画家の野見山暁治さん(92歳)は、ご自分の姿勢、主義主張、持分を持ち続けて、実り多き人生にされておられる。
いずれ近藤信行さんの「椎名其二伝」が上梓されるであろう。近藤さんの名文で、汲めども尽きぬ魅力をもった、椎名其二という人物を浮き彫りにしてほしい。一人でも多くの人に、この清貧の生き方、生きる哲学を知ってほしい。僕は、半世紀以上、椎名さんに恋してきた。親友・長島秀吉君と競って椎名さんに対し思慕の念を募ってきた。長島君亡き後、そのたぎるような熱い思いは、いまもって変わりない。刊行はもちろん、わが清流出版からと思っている。
恩師・椎名其二さんがフランスへ帰る日。横浜港からヴェトナム号で出航。上の写真で、同伴の椎名ミチさん(椎名さんの兄の孫娘)、その左は近藤信行さん。僕はこの時初めて、近藤さんに会った。20歳の時だった。1960年11月5日。
作家の芹沢光治良さんとお別れの挨拶する椎名其二先生。左後ろに、近藤信行さんが見える。
2013.01.21大島渚さんよ、永遠なれ!
・衝撃が走った。1月15日(火)、映画監督の大島渚さんが肺炎のためにお亡くなりになったのだ。日本のヌーベル・ヴァーグの旗手として戦後日本映画を牽引してきた革命児がもういない! 享年80。夫人の小山明子さんは、「介護ではやるべきことはすべてやりました。悔いはありません。これまで私が支えてあげたので、これからは彼が私のことをしっかり見守ってくれると思います」と、最愛の夫を見送った心情を吐露されている。
・実は小山明子さんは、大島さんが亡くなった翌日の1月16日(水)から20日(日)まで東京・池袋の東京芸術劇場シアターウエストでの「女のほむら 高橋お伝、切なき愛のものがたり」(原作:根本順善、脚本・演出:森井 睦、舞台美術:假屋崎省吾)で主演することになっていた。小山さんにとっては、20年ぶりとなる舞台である。昨年10月末には「どんな事態になってもやりますから」と覚悟の程を示されていた。このため、大島さんの通夜、葬儀・告別式は、舞台が終わった後にずれ込むことになった。遺体は防腐処理をするため、一旦自宅を出て、処理後、自宅に戻して、安置された。お通夜は築地本願寺で21日(月)、葬儀・告別式が22日(火)に行われる。
・小山明子さんが演じた「女のほむら」だが、舞台は能舞台のように一場面のみであり、舞台装置も竹を使ったシンプルなもの。この舞台美術は華道家の假屋崎省吾さんが手掛けた。背景に放射状の銀色の竹を配し、両サイドにも竹をあしらった。物語は日本三大毒婦の一人と言われている「高橋お伝」が主人公である。この劇のユニークなところは、お伝を小山さん含め三人が演じたところ。小山さんは二人の若手女優が演ずるお伝とシンクロさせながら見事に女の情念を演じきっていた。
・もともとこの舞台の発端は、語り役で登場するベテラン女優・白石奈緒美さんが、独り舞台にならないかと原作本を演出家の森井睦さんに持ち込んだことに始まる。原作を読んだ森井さんは、持っているテーマの大きさからいって独り芝居よりも普通の芝居にしたほうがいいのでは、と白石さんに返事を返した。こうして森井さんは脚本を書いたのだが、その第一稿を読んだ白石さんは、面白い芝居になると確信し、主演に小山明子さんを推薦したのだという。
・重病の夫を抱え、その薬代を稼ぐために、必死に生きざるを得なかったお伝。波之助を愛すれば愛するほど、彼女の人生は大波のように翻弄され続ける。「波さん、とうとうオカネがなくなっちまった……」「もういいよ、お伝、先に行くのは忍びねえけど、頼むから、おらを、楽にしてもらいてえ……」「波之助さん、頑張ったんだよね、よく頑張った、これからあたしが、楽にしてあげるからね……女は、女はさ、男を産むことはできないが、殺すことはできるよね……」(『女のほむら』パンフレットより)。この科白に、現実の大島渚さんを介護してきた小山明子さんの姿をダブらせて、涙なしでは観られないシーンである。
・月刊誌『清流』では、小山明子さんに「しあわせ日和」というエッセイを連載していただいている。介護の日々への共感もあって、多くの読者の共感を呼んでいる。単行本としても、『小山明子のしあわせ日和――大島渚と歩んだ五十年』(定価1575円、2010年刊)、『女として、女優として』(定価1890円、2011年刊)の2冊刊行。共に小山さんの自伝的エッセイだ。あの美しい小山さんが、年をとると共にますます魅力が増している。なぜそんなことが可能だったのか。一つのヒントが、『小山明子のしあわせ日和』に瀬戸内寂聴さんが寄せた推薦文にある。「病夫 大島渚への無償の愛と献身こそ、美と若さの妙薬であった」と書いてくれた……。一方、大島監督の本も刊行させていただいている。映画エッセイ集『わが封殺せしリリシズム』(定価2520円、2011年刊)がそれ。未発表のエッセイを中心に編まれており、大島監督の未知なる魅力を発見できること請け合いである。編者は、映画評論家として僕が気に入っている高崎俊夫さんだ。
・通常、大島さんの書く世界は、時代を変革してきたラディカルな表現者としてのイメージを補強する内容になっている。その常識に挑戦した高崎俊夫さんは、つぶさに大島作品を読み進め、ポレミックな発言をする過激な論客としての貌とは別に、過敏なまでにセンチメンタルで抒情的な資質を隠し持つ大島渚がいるのではないか――と、知られざる大島渚をキーワードに全編通して組み立てた。読者も大島監督が「これほど繊細で心優しいセンチメンタリスト」の側面を持っていたことに驚かされるはずである。例えば、「1993年にくも膜下出血により急逝した盟友・川喜多和子さんの葬儀で大島監督が読んだ弔辞は、あたかも慟哭するような痛切な〈声〉の響きが忘れがたい印象を残した」、と高崎俊夫さんはコメントする。読んでみれば分かるが、確かに心揺さぶられる感動的な弔辞であった。
・1996(平成8)年2月、大島渚さんはロンドンのヒースロー空港で脳出血に襲われた。僕も同年9月に脳出血で倒れている。僕は、大島さんと同じ悩み、言語障害、右半身不随を持ついわば戦友といっていい。大島さんはその後、順調な回復を見せ、復帰作『御法度』(1999年)の公開を果たす。なんとも劇的で素晴しかった。僕の場合、3年経った夏に、2回目の脳出血に見舞われた。今度は右脳だったが、幸いなことに症状は軽かった。大島さんとの共通点は、二人とも、酒が大好きなこと。大島さんはビールをよく飲んだ。僕は40歳前に痛風にかかり、医者からビールを禁じられている。その代わり、焼酎、泡盛、ウイスキー、ブランデーの類は蒸留酒で良いだろうと信じている。だが、今日だけは大島監督を偲び、ビールを飲んで、一人しみじみ感慨に浸りたい。
●米長邦雄さんよ、永遠なれ!
・編集者として僕は米長さんを著書にした本を出せていない。1980年、この年僕は40歳でダイヤモンド社の雑誌部門から、ようやく出版局へと異動を認められ、企画を考えていた頃だ。その前年、米長さんは勝運にも乗って九段へ昇格していた。ダイヤモンド社の出版局には米長夫妻(奥さんはクラス委員)と都立鷺宮高校時代にクラスメイトだった花田茂明君がいた。そこで米長さんに何か書いてもらおうと企画し、花田君と一緒に仕掛けようと思ったのだった。花田君も大賛成だったが、九段になった米長さんが超のつく多忙になり、時間が取れなかった。そうこうするうち、肝心の僕の年間刊行点数がどんどん増えて、いつしか米長本は断ち消えになった。
・僕が独立し、清流出版を創業した頃、もう一度米長本を出すチャンスがあった。だが、将棋の本は清流出版としてはメインの路線にはできない事情があった。しかしながら、いつかは米長さんの本を作りたいという気持ちは秘めていた。その突破口としての意味もあり、将棋の本を何冊か刊行した。『西からきた凄い男たち――と金に懸けた夢』(中平邦彦著、定価1575円、2003年刊)、『将棋、ヨーロッパを行く――欧州遠征将棋珍道中』(田辺忠幸著、定価1575円、2004年刊)、『第一線棋士!――B級に落ちても輝け中年の星』(青野照市著、定価1575円、2004年刊)と続いた。結論として、将棋の専門出版社でもなく、清流出版で将棋本を刊行するのは難しいとの感触を持った。
・だから米長本は、棋譜など専門書的なアプローチではなく、人生論、勝負の神髄を語るなどのテーマで出したいと思っていた。例えば、米長さんはよく「三人の兄達は頭が悪かったから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」と言っていた。ここらへんにヒントがないか、と僕は考えていた。そこに恰好の話題が転がり込んだ。ある時(正確には2003年)、三戸節雄さんが清流出版を訪ねて来て、面白いことを言った。三戸さんは元ダイヤモンド社、元プレジデント社、世界的なベストセラー『トヨタ生産方式』の共著者である。弊社からも三戸さんの著になる『大野耐一さん「トヨタ生産方式」は21世紀も元気ですよ――写真で見る「ジャスト・イン・タイム」』(定価1680円、2007年刊)、『日本復活の救世主・大野耐一と「トヨタ生産方式」』(定価1470円、2003年刊)を刊行している。「炎のジャーナリスト」の異名を持つ方であった。
・三戸さんが、財界人(元東亜燃料工業社長、元日本銀行政策委員会審議委員)の中原伸之さんのお子さんの結婚披露宴に出席した際、同じテーブルだった米長邦雄さんとヘンリー・スコット=ストークスさんと教育問題で意気投合したというのだ。ストークスさんは元ロンドンタイムズ東京支局長など歴任した経済ジャーナリストで、弊社からも『三島由紀夫 生と死』(徳岡孝夫訳、定価2100円、1998年刊)を刊行している。この三人で今後も語り合おうと、その披露宴の席で別れた。その後、喫茶店、バー、三戸さんの家と何度か三人で会ったという。米長さんは青少年の教育問題がもっぱらの関心事。ほかの二人も日本の教育が危ないと断言していた。結局、三戸さんが文章をまとめることになった。その後が大変だった。僕が企画にゴーを出せばよかったのだが、あえて出さなかった。いわば永遠の教育問題を今の時点で結論付けて、単行本にまとめるのは難しい作業であることを熟知していたからだ。
・米長さんは、日本将棋連盟会長に就いたのは平成17(2005)年だが、その前から東京都教育委員をされていた。任期は平成11(1999)年から平成19(2007)年まで8年間。この時期、米長さんは教育問題に関心があった。僕が米長さんに将棋以外のことで執筆を期待していたのは、昭和57(1982)年、ダイヤモンド社の頃だった。僕の企画はあまりに早すぎたのかもしれない。その後、独立して清流出版を立ち上げた。最初、ダイヤモンド社で企画を考えた後17年が経った時、米長さんは東京都教育委員として熱心な委員だったと思う。平成19(2007)年、米長さんは地方教育行政功労者を受賞した。そのユニークな発言、タレント性は、教育問題の著者として不足がない。何かにつけ物議をかもして、ベストセラーも望めた。米長企画を中途半端な気持ちで立ち消えに終わらせたことは、清流出版の若い編集者たちは、絶対真似してはならない!
2012.12.20清流出版の忘年会
・衆院選挙が間近に迫り宣伝カーが騒々しい師走のある夕べ、弊社の忘年会が行なわれた。冒頭、弊社社長の藤木健太郎君が「日頃お世話になっている方々(ライター、デザイナー、イラストレーター、校正者、外部編集者、印刷会社営業マン……)などに感謝するのが、この忘年会の趣旨であるとし、本年同様、来年も宜しくお願いします」と挨拶した。次に、松原淑子出版部長が、「今日は、月刊『清流』の”村上信夫のときめきトーク”でご活躍の村上信夫(元NHKエグゼクティブアナウンサー)さんを特別ゲストとしてご招待しました」とコメントし、村上さんにご挨拶をお願いした。それを受けて村上さんは、「今年3月、NHKを退職しフリーになったが、昨夏、清流出版を訪ねて“ときめきトーク”企画を売り込みに行き、清流スタッフの面接を受け、どうやら合格をもらえた云々」と、現在の連載を引き受けるに至った経緯を話された。
・村上信夫という名は、僕には懐かしい。口髭をたくわえ“ムッシュ村上”の愛称で親しまれた料理人の村上信夫さんが頭に浮かぶのだ。東京オリンピック女子選手村の料理を取り仕切り、シェフ300人超のリーダーを務め、各国選手団のために腕を振るったことで知られる。晩年、帝国ホテルの専務取締役料理長を務めた方だ。アナウンサーの村上さんとは別人であるが、料理人の村上さんもNHKとは関係が深く、「今日の料理」の名物講師として各家庭へプロの味を広めた。バイキング方式を初めて行ったことでも有名。不思議な縁というものはあるもので、「NHKニュースおはよう日本」という番組で、アナウンサーの村上さんが、料理長の村上さんをインタビューしたこともあるという。そのアナウンサーの村上さんが、将棋番組(NHK BS2チャンネル)を担当している姿を僕は記憶している。“村上信夫のときめきトーク”の編集担当者・秋篠貴子は将棋道場に毎週通うほどの将棋ファン。今では、村上さんを将棋の師と仰いで研鑽を積み、弊社内でも1、2を争う腕前となっている。村上さんの担当編集者としては、うってつけの適任者である。
・行われた場所は神田神保町の「新世界菜館」。よく昼食などを食べに行っていた店なので、勝手はよく知っている。人気店であることから、早くから予約をしておかないと取れない。弊社も10月上旬に予約して、なんとかこの日を抑えたものである。料理は美味しかった。四種の前菜からフカヒレスープ、自家製チャーシュー、芝海老と茸の炒め料理、大黒神鳥産牡蠣の湯引き、豚腹肉捲き、太刀魚の寧波風高菜旨煮、お好みひとくち麺まで全八品、それにデザートがついている。5、6品目を食べ終わる頃には、お腹がいっぱいになり、食べきれないほどだった。お酒も、紹興酒、ビール、ワイン、日本酒、焼酎と各種取り揃えており、僕のような呑んべえにも嬉しい店である。ちなみにこの店のご主人・傅(ふう)健興さんは、ワイン通として知られており、ヴィンテージワインを貯蔵している自宅のワインセラーが雑誌に取り上げられたほど。
《12月13日発売の『週刊文春』に注目すべき記事が二つあった。一つは、“祝100万部、本誌だけが知っている阿川佐和子「聞く力」オフレコメモ”という記事。二週間前に刊行された『清流』1月号の”村上信夫のトキメキトーク”の対談相手がこの阿川佐和子さんだった。6ページの記事だったが、対談の当日、阿川さんの『聞く力』(文春新書)は50万部を超えるベストセラーと書いてある。それがこの年末には倍の100万部になった。この『清流』の対談記事で村上信夫さんも100万部達成に貢献されたと思う。いや、めでたし、めでたしである。もう一つは、『清流』の「ニュースを聞いて立ち止まり…」で活躍中の徳岡孝夫さんが“勘三郎「鏡獅子」に泣いた夜”と題して、素晴らしい文章を書いている(後日、ご本人はこの文は電話取材で起こされた記事で、自分は文壇に関係していないし、歌舞伎通ではないとしているが……)。
……鏡獅子は役者の踊りだけを見る「所作事」である。気力充実した完全無欠な演技が、客の呼吸とピタリと合う。痒いところにすっと爪を立てる。勘三郎は、そんな神業の持ち主だった。…(中略)…その夜の感想を、のちに私はこう記している。〈若い娘、若い獅子。満開の牡丹。舞う胡蝶。世の春。だが若者も、やがて老いては衰えて死んでいく。華やかさと表裏一体の悲哀。槿花一朝の夢。それを「鏡獅子」に感じたのも、その日が初めてのことだった〉(『妻の肖像』より)…(中略)…終戦直後から歌舞伎を見てきた者として、贔屓の役者を失うのは、もちろん初めての経験ではない。だが、勘三郎の早世は、あまりにも無念である。掌の宝石を、深い闇の底に落としてしまったような思いがしてならない。》……と。
2012.11.21佐藤徹郎さんと西脇礼門さん
元ダイヤモンド社出版局の佐藤徹郎さん(左)と、麗澤大学出版会編集長の西脇礼門さん。
・僕が週1回出社する時(基本的には金曜日だが)、会いたいという人が複数いて、調整ができない場合がある。結果的にダブルブッキングに近いこともよく起こる。そういう時は事情を説明して、同席をお願いする。この方法でいままでも特に問題が起こったことはない。昼食をご一緒することもあるし、弊社で到来物のワインを開けて歓談することもある。このような出会いは、時として刺激的なことが多く、僕の最も好きな時間となる。この日も、弊社社長の藤木健太郎君が僕の長年の親友である名編集者・佐藤徹郎さん(左)を正午に会社へ呼んでくれていた。その時すでに、出版部顧問の斉藤勝義さんが僕に会わせたいとして翻訳出版の名編集者・西脇礼門さん(右)が来社しており、旧知のように話が盛り上がっていた。早速、二人のゲストと昼食を摂ることにした。この写真には写っていないが、藤木、斉藤、臼井に僕を加えた合計六人のメンバー。場所は気心の知れた店員がおり、居心地がよいのでよく行く神保町の寿司屋である。
・佐藤徹郎さんは、前々月の本欄に紹介したように、弊社の囲碁本『黄龍士――中国古碁・最強棋士対局集』(薛至誠著、牛仙仙訳、監修・解説マイケル・レドモンド、定価3990円〈税込〉)の編集協力をしてくれた方だ。囲碁ファンなら、見逃せない好著である。僕はこの本を読むたびに、実態はともかく囲碁の腕が上がったような気がしてならない。また、徹郎さんはかつて、月刊『清流』で50回にわたり「職人を訪ねて」という連載を企画し、優れた女流伝統工芸士たちを取材して紹介してきた。伝統工芸を熱心に追究し続けてきた女性たちを、少しでも応援したいという徹郎さんの熱い心が伝わる企画だった。徹郎さんは囲碁が滅法強く、実力六段、いや今は七段ぐらいの腕前である。そして今は、『知遊』というハイブローな雑誌(NPO法人・日医文化総研発行、年2回)の編集人を務めている。
・佐藤徹郎さんについては、何度か本欄でもご紹介したので、今回は西脇礼門さんのことを中心に書いてみる。頂いた名刺には、麗澤大学出版会編集長とあるが、良い仕事している出版人である。僕との最初の出会いは、1970年、今からざっと40年ほど前まで遡る。ダイヤモンド社の月刊誌『レアリテ』で僕が礼門さんを翻訳者として抜擢したことに始まる。礼門さんが訳した記事は「ルネ・ラリックの〈ガラスの城〉」である。当時、ルネ・ラリックの名前は日本人の間ではほとんど知られていなかったが、アール・ヌーヴォー、アール・デコの両時代にわたって活躍した作家だった。その後、ラリック商会は、ルネ・ラリックから息子マルクへ、さらに孫娘のマリー・クロード・ラリックへと受け継がれて発展の一途を辿った。しかし、“好事魔多し”とはよく言ったもの。ガラス工芸品以外に手を広げすぎたのがあだとなり、1994年に彼女はラリック社の株を売却せざるを得なくなる。その彼女が最近、ニュースになって驚いた。今年4月、アメリカのフロリダ州滞在中、不慮の出来事で死去したのである。享年64。僕は今まで『レアリテ』の記事を担当したことから、気になっていたラリック社の浮沈や消息がこのニュースで終焉したのである。
・TBSブリタニカといえば、僕は1975年、ダイヤモンド社雑誌事業部にいたが、ある企画でTBSブリタニカの初代社長であるフランク・B・ギブニーと何回かお会いしたことがある。その時、ギブニーさんは『吾輩はガイジンである――日本人の知恵の構造』(大前正臣訳、サイマル出版会刊、1975年)を出版し、それが僕の目にとまった。だが当時、西脇礼門さんは多分、系列会社の阪急コミュニケーションに出向されていた時期で、出会うことは叶わなかった。僕は知日派のアメリカのジャーナリストを追っかけ、フランク・B・ギブニー、エドワード・ジョージ・サイデンステッカー、ドナルド・キーン、バーナード・クリッシャーなどに次々と取材をした。担当していた月刊『価値ある情報』臨時号に、その一端を掲載した。フランク・B・ギブニーさんは日本語も流暢で、毎回、葉巻を燻らせながら熱弁をふるった。当時、『ブリタニカ国際大百科事典』の最新版を上梓したばかりで、勢いに乗ったジャーナリスト兼経営者だった。
・話が飛ぶが、月刊『レアリテ』で、西脇礼門さんのご母堂・西脇美津子さんが「私の好きな味」欄で、フランス哲学の研究・翻訳者の松浪信三郎さんと誌面に登場されていた。その欄の編集担当者は、僕ではなく三木(旧姓・磯)久恵さんだった。礼門さんもそのことをよく覚えていて、しきりと懐かしがっているご様子。たしか磯さんは入社したばかりの頃で、父親は大手電機メーカーの社長さんだった。久恵さんは九人姉妹の末っ子。現在は、大津市で彫刻家のご主人と暮らしているとのこと。今度、機会があったら、礼門さんと一緒に磯さんと旧交を温めたいと思っている。
・西脇礼門さんを「礼門」(れいもん)と命名したのは、松浪信三郎さんだったそうだ。20歳で夭折したフランスの作家・詩人で、14歳の時『肉体の悪魔』の傑作を書いたレイモン・ラディゲに因んで、名前を付けたという。僕はもう一人、レイモン・ラディゲに因んだ方を知っている。弊社から『ものみな映画で終わる――花田清輝映画論集』(花田清輝著、2007年刊)の「編者あとがき」(編者は高崎俊夫さん)に登場する清輝さんのご子息・黎門(れいもん)さんだ。残念なことに花田黎門さんは昨年5月にお亡くなりになった。それはそれとして、松浪信三郎さんには懐かしい思い出がある。サルトル全集で『存在と無―― 現象学的存在論の試み』(松浪信三郎訳、第18–20巻、人文書院刊、1956–1960年)を大学生の頃、訳文と原書や辞書と首っ引きで読んだことだ。礼門さんによれば、数ある松浪翻訳本のうちでも、最高の本はモンテーニュという話だ。松浪信三郎訳『モンテーニュ 随想録〈エセー〉』は知っていながら、まだ読んでいない。僕は関根秀雄訳で慣れ親しんだが、松浪訳でもう一度読みたいと思っている。
・TBSブリタニカ、阪急コミュニケーションズ、麗澤大学出版会と版元は変わったものの、礼門さんの出版人として生きた過程は素晴らしい。一言で言うならきわめて倫理的である。その一例として、礼門さんの編集・刊行していらっしゃる『福田恆存評論集』(全20巻別巻1)が何とも素晴らしい。本欄(2011年12月)でも述べたが、福田恆存さん(1912―1994)は評論家、翻訳家、劇作家であり、日本の戦後の文芸、論壇に異才を放つ存在。今読んでも頷ける。小林秀雄と並んで、いまだに納得できるイデオローグだ。
・ここからは、僕の早とちりで誤解していたことを話す。西脇礼門さんの命名は、最初、詩人、英文学者の西脇順三郎さんだとばかり思っていた。西脇姓は、新潟県に多い。ちなみに西脇順三郎さんは新潟県北魚沼郡小千谷町(現在の小千谷市)の生まれ。聞くと、なんと西脇礼門さんも小千谷市の生まれ。だが、それとなく僕が確かめたところ、命名者は松浪信三郎さんだと分かり、誤解が溶けた。西脇順三郎さんは戦前のモダニズム・ダダイズム・シュルレアリスム運動の中心人物。そして、慶應義塾大学の教壇に立った。一方、松浪信三郎さんは哲学者であり、早稲田大学で教鞭をとった。その違いは誰でもわかるが、僕は早稲田大学出身の西脇礼門さんのことを、早とちりで40年間、間違って認識していた。
・もう一つ、付け加えておきたい。実は、西脇礼門さんをもう少し詳しく知ろうと思い、パソコンで検索してみた。すると、そこには、俳優・西脇礼門なる同姓同名の人がいて、写真付きのプロフィールが沢山載っている。僕の探している西脇礼門さんも出てはくるが、最初に出てくる頁では一項目のみ。立命館大学大学院教授の谷口正和さんのブログで紹介されているだけだ。谷口さんは福田恆存を「知の巨人」と定義づけている。保守派の論客として論文、文藝批評、シェークスピア等の戯曲の翻訳はじめ、演出家としてもその異才ぶりを存分に発揮した人物。その福田恆存の全仕事を『福田恆存全集』全20巻(別巻1)として編集・刊行してきた編集者・西脇礼門さんについて「いい仕事をなさっている」と絶賛している。これで少しは僕の溜飲も下がった。これからも礼門さんには、敏腕編集者として大いに話題作を世に問うてほしいと願ってやまない。そしてまた、談論風発する楽しい会食をご一緒したいものだ。
2012.10.18三戸節雄さん
三戸節雄さんの名司会ぶりで、パネリストの先生方もハッスル。『大野耐一生誕100年記念フォーラム』は熱い議論の場になった。
・“炎のジャーナリスト”三戸節雄(78歳)さんがその健在ぶりを示し、その影響を受け、久しぶりに僕も燃えた。三戸さんはトヨタ生産方式の生みの親、大野耐一氏との共著で、『トヨタ生産方式』(ダイヤモンド社刊)を著している。この本は世界中で30年以上も読み継がれている経営バイブルである。三戸さんは弊社からも『日本復活の救世主 大野耐一と「トヨタ生産方式」』(2003年刊)、『大野耐一さん、「トヨタ生産方式」は21世紀も元気ですよ』(2007年刊)の2冊を刊行されている。その三戸さんが発起人の一人であり、司会進行しての『大野耐一生誕100年記念フォーラム』が開催された。時は10月15日、場所は千代田区飯田橋にあるホテルグランドパレスの「ダイヤモンドルーム」。主催は「大野耐一生誕100年記念フォーラム」実行委員会 、モノづくり日本会議/日刊工業新聞社で、テーマの総タイトルは『21世紀「ものづくり思想」の探究』とあった。三戸さんのご厚意で、僕と藤木君、臼井君の3人が招待され列席した。300人という定員だったそうだが、日刊工業新聞社のホームページを覗いてみると、定員になったので締め切りましたと社告が出ていた。実際にトヨタ生産方式を現場に導入して奮戦中の中小企業の経営者が参加者の中心。だから意気込みが違う。開催前から熱気を感じていた。
・まず三戸さんが開会の挨拶をされた。フォーラム実現に向けて、それこそ三戸さんは東奔西走されたと聞く。言葉の端々に感慨無量の思いがにじんでいたように思う。続いて、「大野耐一の思想」と題して、下川浩一氏(法政大学名誉教授)の基調講演があった。下川氏は大野耐一の神髄を三つに要約された。一つは徹底的なムダの排除、二つ目が現場主義を貫く、三つ目がプロダクトプッシュからマーケットプルへという流れ、と説明された。その後、大野耐一とトヨタ生産方式 21世紀『ものづくり思想』の探究と題して、パネル・ディスカッションが行われた。パネリストは、張 富士夫氏(トヨタ自動車株式会社会長/「モノづくり日本会議」共同議長)、門田安弘氏 (筑波大学名誉教授)、中沢孝夫氏(福井県立大学「地域経済研究所」所長/特任教授)、藤本隆宏氏(東京大学大学院経済学研究科教授/東京大学ものづくり経営研究センター長)の4人。司会は前述した通り、三戸節雄さん(経済ジャーナリスト)である。
・実は会場に入った途端、ウォールの写真に惹きつけられていた。大野耐一の写真が3点飾られていた。講演中の写真、応接間で身振り手振りを交えて熱弁をふるう写真などだ。飾られていなかったが、実はジャスト・イン・タイムの現場を案内する大野耐一の写真が多数あったのだ。この大野耐一が熱弁を振るった相手、つまり取材者は若かりし頃の三戸さんである。大野耐一が徹底的なムダの排除を追求し続けた空間こそ工場であった。背筋を真っ直ぐに伸ばして颯爽と工場を案内していた大野耐一。五感をフル動員して人間が働く生産現場をトコトン観察する姿は生き生きしていた。こうした一連の写真を実は以前見せてもらっていた。懐かしかった。もちろん、単行本に所収される前の話である。弊社の応接間で見せてもらったのも、ついこの間のような気がする。実はこの写真の撮影者こそ、今は亡きデザイナーの大御所・廣瀬郁さんである。なぜ廣瀬さんがカメラマンをしていたのか。不思議に思う方もおられよう。もともと廣瀬さんは写真が好きだった。当然、カメラにもお詳しい。すでに三戸さんと大野耐一共著の装丁デザインをしていた廣瀬さんは、大野耐一の風貌姿勢を想像するうち、どうしても直接触れてみたくなったらしい。会っておかなければ後悔するとの熱い思いが、三戸さんと同行しての、カメラマン廣瀬郁を誕生させたのである。
・1985年11月20日(水曜日)、豊田紡織本社工場で廣瀬さんがほぼ1日がかりで大野耐一を追った貴重な写真だ。撮影当時、大野耐一73歳、三戸節雄51歳、廣瀬郁48歳。この貴重な写真が出てきたからこそ、弊社の『大野耐一さん、「トヨタ生産方式」は21世紀も元気ですよ』の本が生れることになったのだ。大野耐一の勇姿とともに、トヨタ生産方式の現場が見事に写し撮られていた。廣瀬さんは大野耐一を評し「工場を見て歩くうち、大野さんが要所、要所でカメラを操ることに驚きました。問題点を頭に入れると同時に、しっかり問題箇所を写真に撮っておく。これは凄いことです」と言っていた。三戸さんがすぐにこう付け加えた。「大野さんは、改善できるところは今すぐやればいい。大きなムダを生みそうな箇所は、気配だけでも写しておいて、考える材料にする」とおっしゃっていた、と。
・廣瀬さんは僕より2歳年上であった。1960年日宣美特選以来、数々の賞を受賞してきている。日本図書設計家協会設立発起人で、同協会初代事務局長なども歴任してきた文字通り、デザイン界の大御所だった。前年の春先、喉頭がんと肺がんの手術を受けたとはいえ、お会いした2005年の12月には術後とは思えないほど元気だった。予後がよいので運動を始めていると言っていた。それにしてもプールで毎日600メートルも泳いでいるとは知らなかったが。本文設計、全体構成の最初の打ち合わせに来た廣瀬さんは、三戸さんと僕に付き合って、焼酎、日本酒、ウイスキーをちゃんぽんで飲みながら、卓抜なアイデアが溢れ出し止まることがなかった。その後も三戸さんと廣瀬さんは、ワインに珍しいチーズなど海外の手土産などを持って何度も弊社に打ち合わせをするため訪れた。体調がいいときの廣瀬さんは、陽気なお酒で実に楽しそうに飲んでいた。その廣瀬さんが、この本が出来上がった翌年の2008年8月、暑い盛りに、幽明境を異にされたのは、かえすがえすも残念だった。三戸さんも交えて、もっと談論風発する楽しい酒を飲みたかった。
・話はあらぬほうに飛んでしまったが、弊社の単行本のタイトルそのままに、大野耐一さんの「トヨタ生産方式」は、形を変えながらも21世紀に息づいている。三戸さんはいわば、「大野耐一教」の伝道師のような方である。これからも炎のジャーナリストとしてジャスト・イン・タイムの行く末を見守るとともに、この素晴らしい経営バイブルをもっともっと世界中に広めていって欲しい。
追記:このフォーラムが開催される数日前、新国立劇場でウィリアム・シュイクスピアの「リチャード三世」(翻訳:小田島雄志、演出:鵜山仁)を観た。パンフレットを見ていたら、公益財団法人新国立劇場運営財団の評議員に張 富士夫氏が入っていた。張氏が文化事業にも興味をもち、一役噛んでいる。経営者としてももちろん優秀だが、文化人としての張氏も生き生きと活動している。ものづくり(車)と人間性追究(劇)を同時に両立させた張氏、そんな懐の深さに感銘を受けた。