2012.09.18マイケル・レドモンドさん、他
●マイケル・レドモンドさん
日本語の上手さと囲碁九段の実力で注目されている
・一冊の本が翻訳出版されるまでには様々なドラマがある。すんなり翻訳出版に至ることなどほとんどない。むしろ希有なことだ。通常、企画段階からアドバンスを払ってゴーを出すまで、「やめようか」、「否、やろうか」と迷いに迷う。社員一同、翻訳ものの原価率が高いことをよく知っている。アドバンスを払って版権を取った後も、翻訳印税、監修料、校閲・校正料、デザイン・レイアウト、装幀料、写真代、印刷・用紙代……ここまでは本を作るのに欠かせない経費だ。本が出来あがれば出来あがったで、取次各社への配本部数のお願い、宣伝販促費、書店対策費等々……が待っている。こうした難問を乗り越えて、一冊の本が世に出るわけである。その際、まず定価を決めてから諸々の費用を弾く方法と、全費用を弾いて最終的に定価を決める方法がある。同じようだが、答えは全然ちがう結果となることの方が多い。ここに、弊社で多分うまくいった部類に入る翻訳ものがある。囲碁の翻訳本である。
・翻訳出版する場合、どんな企画提案であろうと、弊社の海外版権担当者を抜きにしては語れない。その任に当たるのが、出版部顧問の斉藤勝義さん(元ダイヤモンド社出身)である。斉藤さんはほぼ毎週1回、出社してくる。持病である糖尿病の透析をしながらだから大変である。でも、出社した日は皆さんと一緒に昼食を摂る。そして海外出版物でゴーサインが出ているものがあれば、出版契約書をチェックし、よければ代表者の署名捺印をしてもらい海外版権代理店に返送手続きをする。御年七十七歳のベテランだから余裕がある。いままでに斉藤さんは、ピーター・F・ドラッカーやダニエル・ベル、アイアコッカ、ケネス・ブランチャード、マイケル・E・ポーターをはじめ、数々の欧米の著者や出版社と版権交渉をした強者。「ダイヤモンド社に斉藤あり」と世界に名を轟かせた男である。
・その斉藤勝義さん、欧米出版社だけでなく、近年は中国語も独学で学び始めて、幅広く仕事にも使っている。その結果、良い本を中国から見つけてきてくれた。『黄龍士(ファンロンシー)――中国古碁・最強棋士対局集』(定価3990円〈税込〉 328ページ A5判 上製)がそれ。囲碁ファンだったら、垂涎の本である。とはいうものの、探した斉藤さん自身、囲碁はやらない。弊社で囲碁を打つ人は藤木君と僕しかいない。いったいどこからこのような囲碁の本を見つけてきて、翻訳したいと思ったのか、その秘密を明かしてもらおう。
・数年前、斉藤勝義さんは、僕にいかにも聡明そうな中国人女性を紹介してくれた。今にして思えば、それが発端だった。その方は石岩(シ・ヤン)さんといった。名刺の肩書には、北京東方之友科技術展有限公司の代表とある。彼女は1980年代初期に留学生として国費で来日、東京大学大学院工学系研究科で学んだ俊才であった。その時、同じ留学生仲間だったご主人も、東京大学大学院工学系研究科を卒業し、今は中国の海南大学学長に就かれている。お二人とも現在、中国では要職にある。
・石さんの実妹は、石莉萍(シ・リーピン)さんという。彼女もまた日本の東京学芸大学大学院教育学研究科に留学し、1994年に卒業している。妹さんは、そのまま日本に住み続け、日本人と結婚された。そして、姉の経営する会社の日本支社(オーフレンズ株式会社)のマネジメントをしながら、中国語講師を務めていた。中国語を学ぼうとしていた斉藤勝義さんが、その石さんと知り合ったのは偶然であった。場所は東京の久留米市の公会堂。毎週、中国語のレッスンが開催される。久留米市在住の斎藤さんが、このレッスンに通い始める。斉藤さんの中国語は極めて実践的で、われわれと神田神保町界隈の中華料理店に入ると、中国語を連発する。習うより慣れろ、の人なのだ。ニーハオの次に「ビン・スゥイ」(氷水)を頼み、しばらく中国人の店員さんと中国語会話を楽しんでいる。われわれは、言葉の意味が分からないので、羨ましい限りだ。
・斉藤さんと石(シ)姉妹とは、次のような会話があったらしい。斉藤さんが中国の出版物で何か日本人向きの本、翻訳可能な本はないかと切り出した。そこで、お姉さんの石さんが薦めたのが、『黄龍士――中国古碁・最強棋士対局集』であった。「今、中国で人気の本だし、囲碁だったら日本人も関心が高いでしょう」。囲碁を知らない斉藤さんだったが、気をそそられた。珍しい古い棋譜を記した本で、石さんの出版社から、2007年に復刻版を出している。以来、シリーズで4巻刊行し、中国では人気が高い本だという。
・今からざっと400年前、中国・清の時代に黄龍士(ファンロンシー)という大棋士がいた。その棋譜を収載したのがこの本なのである。著者は中国の棋士・薛 至誠(シュエジウジョン)で、黄龍士が対局した棋譜を丁寧に解説している。それが評判を呼んで売れているというわけだ。話を聞いて、囲碁はまったく門外漢だった斎藤さんだが、なんとなくピンとくるものがあったようだ。
・しかし、原文は中国語。翻訳するとなると大変だ。そこで登場するのが、名編集者の誉れ高き佐藤徹郎さん(通称・徹ちゃん、元ダイヤモンド社)である。彼は囲碁をこよなく愛し、力量もアマチュア六段格の実力者である。徹ちゃんはダイヤモンド社を定年退職した後、2003年11月に創刊された『知遊』(NPO法人・日医文化総研発行、年2回)というハイブローで一脈「治癒」(ちゆう)に通じる雑誌の編集人を務めている。その中で毎号、日本棋院九段のマイケル・レドモンドさんに「囲碁と読書は友だち」を連載してもらっていた。僕も毎号『知遊』が届くと、真っ先にマイケル・レドモンドさんのページを見る。そして、レドモンドさんの奥様というと、中国囲碁協会の牛仙仙(ニュー・シェンシェン)三段である。その奥様とは軽井沢で開かれた碁のセミナーで知り合ったそうだが、その姉上が棋士の牛力力(ニュー・リーリー)五段で、碁の神様の呉清源先生の秘書をしていた。この素晴らしい人脈を使わない手はない。奥様の牛仙仙さんが翻訳し、夫のレドモンドさんには監修・解説を引き受けてもらった。ここまで一気に話が進んだ。
・2008年4月からは、NHK総合テレビ日曜日の囲碁番組で講師を務めた。レドモンドさんの愛読書は、吉川英治の『三国志』、宮城谷昌光さんの一連の中国歴史小説である。壮大な歴史ものが好きで、『黄龍士――中国古碁・最強棋士対局集』についてレドモンドさんはこう書いている。≪古代中国の棋士の持つ戦闘力、計算の深さは、現代の棋士でも超え難い力がある。(中略)古代中国碁のように、好戦的な棋風で知られる韓国の棋士は、精密なヨミと鋭い踏み込みを武器に、「闘いの碁」で、世界を征した。私たちはもう一度、古代中国の「闘いの碁」を研究し直す必要がある≫と……。
・黄龍士(ファンロンシー)は、西暦で言うと1651(順治8)年の生まれ。没年は不明となっている。中国囲碁の最盛期といわれた清代に、異彩を放ったのが黄龍士である。彼は少年時代より、飛び抜けて聡明だった。囲碁を覚えて数年経ったころには、故郷の泰県には敵がいなかったというほど。弱冠18歳の時、70代の大先輩・盛大有に7番勝負を挑み、あれよあれよの連戦連勝。以下、黄龍士の強さを物語るエピソードには枚挙に暇がない。当時、なんとか互角に渡り合えたのは、重鎮といわれた周東候と徐星友だけだったという。中国の「十四聖人」に、棋士として一人だけ選ばれているが、そのことをもってしても黄龍士が特別な存在であったことは知れよう。黄龍士(ファンロンシー)の強さ、素晴らしさは本を読んでもらえば、一目瞭然である。是非、書店で手にしてもらいたい。
・余談だが、中国古碁では、黒石と白石を二つずつタスキ掛けに置き、そこから白番が第一着を打ち始める。なんと現代の囲碁とは違うのか。黒が上位者である。終局を迎える際、生きている石の集団は少ないほどハンデが軽くなる。盤上の一石の碁はハンデゼロ目、三つに分かれているときはハンデ六目、五つに切れているときはハンデ一〇目というわけだ。これを「切り賃」と呼び、実際に勝負で使われていた。石のつながりを重視する棋士には願ってもないルールだと言える。時代を経て、囲碁の持つ勝負感が変わったことを知る。
・部厚いこの囲碁本の見本が出来あがった時、マイケル・レドモンドさん、奥様の牛仙仙さん、佐藤徹郎さん、藤木健太郎君が、弊社に参集。そこで一番打つことになった。レドモンドさんと藤木君、牛仙仙さんと佐藤徹郎さんという対戦の組み合わせで(何目置いたのか不明)、各々、楽しんだそうだ。結果は、レドモンドさんと徹ちゃんが勝利した。あまりにも囲碁が楽しかったので、残念ながら写真を撮るのを忘れてしまったという。
・最後に、原書のカバー折り返しに「囲碁十訣」記載されている。ここに転載したい。これは今から1300年の昔、黄龍士が生きた時代から遡って、さらに900年も昔に、中国の賢人が創ったと言われる囲碁の教えだ。人生観にも通じる言葉だ。心して味わいたい。
「不得貪勝」―――貪(むさぼ)れば勝利を得ず
「入界宜緩」―――界に入りては宜しく緩なるべし
「攻彼顧我」―――彼を攻めるには我を顧みよ
「棄子争先」―――石を棄てて先を争え
「捨小就大」―――小を捨てて大に就くべし
「逢危須棄」―――危うきに逢えばすべからく棄てよ
「慎勿軽速」―――謹んで軽速なるなかれ
「動須相応」―――動かばすべからく相応すべし
「彼強自保」―――彼強ければ自ら保て
「勢孤取和」―――勢い孤なれば和を取れ
(唐代・王積薪 作)
2012.08.17奥田敏夫さん
奥田敏夫さんと僕。真夏の暑い日、藤木君が撮ってくれた。
・本欄(2005年2月)に過去1度登場された奥田敏夫さんを、再度書かせていただく。彼は都立戸山高校から東京大学文学部を卒業された俊才である。弊社社長の藤木健太郎君とは、ある企画で頻繁に打ち合わせをしている様子。僕は同席する機会があると、奥田さんの話す芸術や出版界のホットな話題に熱くなっている。僕の親友・長島秀吉君が健在だった頃、東京・杉並区方南町の長島葡萄房のコンサートに奥田さんを誘ったことがある。その日、特別出演したピアニストの高橋アキさんと奥田さんが、何やらエリック・サティの話で盛り上がっていた。そこに僕も割り込んで高橋アキさんや兄上の作曲家・ピアニストの高橋悠治氏がなぜエリック・サティの音楽に魅せられるかを訊いてみた。お二人の会話に引き込まれて、思わず質問してしまったのだ。ことほど左様に奥田さんは僕にとって気になる方である。いうなれば幅広いジャンルに通じている真の教養人である。
・奥田敏夫さんに初めて会ったのは2005年1月のこと。当時、僕の恩師・椎名其二先生は知る人ぞ知るで、世間的にはそれほど高名とはいえなかった。ところが椎名先生のことを、奥田さんがご存じだった。これには大いに感心し、感激したものだ。椎名先生のお人柄もその人生哲学的な傾向も、実によく理解しておられた。僕が椎名其二さんを知ったのは学生時代。当時、椎名其二さんは70歳。まだ二十歳前の僕とは50歳以上も離れていた。奥田さんは僕より8歳から9歳ほど若いのに、椎名さんをよくぞ知っていたと思う。椎名さんは滞仏40年、モラリストであり自由人で実に高潔な方であった。東洋の哲人と言われながらパリでルリュール(製本装釘)の仕事をし、かつかつの生活費で暮らしておられた。その椎名さんに、60年安保の前年、椎名さんの故郷・秋田に労働大学を創設する話が持ち上がった。その学長にと白羽の矢がたち、椎名さんはフランス人の妻を離縁して帰国したものの、最終的に労働大学の話は立ち消えとなってしまう。
・当時、大学生だった僕と長島秀吉君は、山内義雄先生(『チボー家の人々』『狭き門』などの翻訳者として有名)の勧めもあって椎名其二さんの元に通い、フランス語や本物のモラリストの生き様を学んだ。椎名さんには不思議な魅力があり、哲学者・森有正、当時新進気鋭の画家・野見山暁治、作家・芹沢光治良、フランス語の泰斗にして翻訳の名手・山内義雄、作家・評論家・山梨県立文学館長・元中央公論社の名編集長・近藤信行、日本ロマン・ロラン協会会長・蜷川譲……こういう著名な方が、親身になってお世話をしていた。否、お世話をしたくならせるのが椎名其二さんという人だった。アミチエ(友情)は大いに受けるが、モノとかカネの援助は要らないのを信条とし、毅然として清貧の道を歩んだ椎名さん。僕と長島君はこの知的巨人に惚れ込んだ。7年前、奥田敏夫さんと初めて会った際、椎名さんのことに触れている野見山暁治さんの『四百字のデッサン』(河出書房新社刊)、『愛と死はパリの果てに』(講談社刊)、『パリ・キュリイ病院』(筑摩書房刊)、森有正さんの『バビロンの流れのほとりにて』『木々は光を浴びて』(各、筑摩書房刊)などを話題にしたが、奥田さんがすでに読んでおられることが分かり、嬉しくて興奮したのを覚えている。
・奥田さんの発言で印象にあるのが、「野見山暁治さんは文化功労章を取っているが、今度は文化勲章を授与されるのではないか」という言葉。弊社刊行の野見山暁治さんの『アトリエ日記』シリーズもすでに『アトリエ日記』(2007年刊)、『続 アトリエ日記』(2009年刊)、『続々 アトリエ日記』(2012年刊)の3冊。文化勲章をいただくことになれば、当然のことながら売れ行きに弾みが出る。僕も奥田さんの意見に同感だったが、結論的に言えば野見山さんは多分断わると思う。勲章を貰って喜ぶ姿は野見山さんらしくない。それより、意気軒昂として新しい世界にチャレンジされるほうが野見山さんらしい。
・昨年10月28日から12月25日まで開催されたブリヂストン美術館の「野見山暁治展」と、2012年5月10日から5月23日まで銀座のナカジマアートで開催された「野見山暁治の墨絵展」を観て、91歳の野見山さんの描くものがどんどん若くなってきている印象を強く受けた。絵画への情熱が衰えることなく、現在も新たな境地を見出すべく活発な創作活動を続けておられる。自ら死ぬ気が一向にしない、と言う力強い言葉も聞いた。ブリヂストン美術館の絵画を観て、あの自由奔放でエネルギーに溢れた絵画世界が形成されていくプロセスと、さらに表現の幅を広げようとする姿勢が素晴らしい。そして、ナカジマアートの「墨絵展」。現代洋画壇の巨匠が描く新作、しかも墨絵である。5月10日、奥田さんを誘って、藤木君、臼井君と僕が野見山さんの「墨絵展」を見に出かけた。小泉淳作さんから譲られた墨を使って、日本画とも洋画ともつかぬ不思議な新境地を紡ぎ出されていた。個展を観た後、銀座の「竹の庵」で一献傾けたが、観てきたばかりの個展をめぐり、侃侃諤諤。至福のひと時だった。
・奥田さんと初めてあった時の肩書は、有限会社「無限」代表取締役とあったが、いまも同じなのかは確かめていない。初めて会った時、約8名のメンバーと月刊『趣味の水墨画』を手掛けているとの話だった。素晴らしい企画でも、この出版不況の下、事業を継続させるのは大変に違いない。そういうのには訳がある。同じ誌名の月刊『趣味の水墨画』(ユーキャン刊)は、書店販売をしていない。通販のみで販売している。『趣味の……』ジャンルは不要不急の時代、苦戦しているが、奥田さんも例外ではないと思う。肩書が変わっていないことを望む。
・以前、奥田敏夫さんは別の会社にいた。野本博君(愛和出版研究所代表取締役)と一緒に(株)エス・プロジェクトという会社で働いていた。それも電子出版「エンカルタ」編集長だったと聞く。当時の事情が分らなかったが、2003年頃、(株)エス・プロジェクトの澤近十九一社長が僕に積極的に近づいてきた。「エンカルタ」を共同プロジェクトでやらないか、というのだ。「二億円出せば成功間違いなし」と言うが、僕は費用がかかるばかりで儲からないし、積算が疑問だと答えた。その後も、澤近さんとは何回も会った。今にして思うのだが、僕は話に乗らないで良かったと思う。その時すでに奥田さんは(株)エス・プロジェクトから離れて有限会社「無限」を立ち上げていた。澤近さんは、かつて平凡社の動物雑誌「アニマ」の編集長をされた。その関係で京都大学、国際日本文化研究センター(日文研)の先生方に滅法強く、業績を上げていたはずだ。だが、現実は厳しい。何時の間にやら優秀な編集者がどんどん辞めていった。いまでは、ご本人も図書出版(株)新樹社の編集長のポストにあるらしい。
・(株)エス・プロジェクトのスタッフで僕が一番買っているのが、西郷容子さんである。噂によると、西郷さんは西郷隆盛の子孫筋。英語が得意で翻訳ものを次々と僕に提案してくれた。国際基督教大学博物館湯浅八郎記念館、(財)日本野鳥の会などで働いた経験があり、翻訳作品には自然と関わりの深いものが多かった。主な訳書に『オーデュボンの自然史』(宝島社刊)、『熱帯林破壊と日本の木材貿易――世界自然保護基金(WWF)レポート』(築地書館刊)、『狼とくらした少女ジュリー』、絵本『ゆめのおはなし』、『レッドウォール伝説』シリーズ(各、徳間書店刊)などがある。自然ものの得難い翻訳の名手だと思う。
・わが清流出版に、西郷容子さんが翻訳出版を提案してくれたのが、ケニーゼ・ムラトの『皇女セルマの遺言』(白須英子訳、上下、2003年刊)、『バダルプルの庭』(井上真希訳、2006年刊)の2冊。オスマン帝国の皇女として生まれ、美貌と知性が讃えられ、インドの藩主に嫁ぎながらも、最後にはフランスで貧困のなかに死んでいったセルマ。一人残された娘ザフルは哀れにも孤児となり、3つの養家に次々と預けらながら、自分の本当の父を探し求め、アイデンティティーを確立しようともがき続けた。中東イスラーム問題の渦中を生きる作家、ケニーゼ・ムラトの壮大な自伝的小説である。この2冊を刊行した後、著者ケニーゼ・ムラトを日本に呼ぼうかというプランもあった。原作がフランス国内で数百万部のベストセラーとなり、1988年の「エル」読者大賞を受賞、23ヵ国語に翻訳されてもいるという話。だが、日本人はこういう異国の自伝的小説には、反応が鈍いと判断し、諦めざるを得なかった。いずれも西郷容子さんが提案されたものだが、お忙しいので、実際の翻訳は他の方に頼み、編集・進行のお手伝いをお願いした。
・奥田敏夫さんにからんで、(株)エス・プロジェクトのことを思い出した。出版不況の折、事態が刻刻移り変わっている。離合集散や合併などが当たり前の業界。幸い弊社の前に倒産が起こることなし。皆さんでこのことを認識して、今ある作業や編集に大いに邁進してほしい。
2012.07.13宮崎正弘(作家・評論家)さんの新刊書と故・藤島泰輔氏
・稀代のチャイナ・ウォッチャーとして知られる宮崎正弘さんが、またまた弊社から話題作を上梓された。今回のタイトルは、『中国が世界経済を破綻させる』である。だが、本文を読めばわかる通り、必ずしも中国だけに焦点を絞るのではなく、欧米の通貨危機の本質を脱経済理論の北朝鮮、韓国情勢を含む国際政治の裏舞台の動きを視野に入れて、多角的に議論展開している。米ドル基軸による世界銀行、IMF体制が揺らいでいる。否、中国が揺らしているのか。中国の人民元を基軸通貨へという野望なのか? 我々日本人が関知できない舞台裏で、金本位制度復帰という選択肢も真剣に論議されている。こうした時々刻々変化する世界情勢を、縦横斜めから検証できる宮崎正弘さんは、得難い書き手である。
・宮崎さんはこれまで弊社から中国関係の本を五冊刊行している。『風紀紊乱たる中国』(2001年刊)、『迷走中国の天国と地獄』(2003年刊)、『中国よ、「反日」ありがとう!』(2005年刊)、『上海バブルは崩壊する ―― ゆがんだ中国資本主義の正体』(2010年刊)、そして、前述した最近刊『中国が世界経済を破綻させる』(2012年刊)の五冊。宮崎さんの中国への渡航回数は数十回に亘り、中国33のすべての省、直轄地、モンゴル、ウイグルなど自治区、特区を踏破している。だからこそ、これほど中国情報に通暁している方はいない。
・宮崎さんに顔つなぎしてくれたのは、井口順雄さんだった。今から37年前、僕が井口さんと知り合った当時、「ぜひ加登屋さんに紹介したい人物がいる」と言うので、3人で会うことになった。井口さんは当時、日本総研に席を置いていたが、日本旅行作家協会理事長の斎藤茂太さんの勧めで同協会の事務局長になった。僕の宮崎さんへの第一印象は「爽やかな人物」だった。
・その後、宮崎さんと一緒に、北野アームスの加瀬英明さんを訪ねると、ジェラルド・カーティス(コロンビア大学政治学部教授)さんも来ていて、3人は流暢な英語で会話された。この段階で、宮崎さんは「英会話も上手だ」との強い印象が残った。当時、宮崎さんは、マイケル・アームストロングの翻訳ものを手掛けていて、ご自分の名前で著書は出していなかった。そこで、僕は、『軍事ロボット戦争』(1982年刊)、『日米先端特許戦争』(1983年刊、共にダイヤモンド社)以下、国際情勢を分析する本を数々手掛けてくれた。でもこの際、もう少しマル秘情報を明かしておこう。この件は、宮崎さんと僕にとっては暗黙の承知事だ。
・入社から18年、それまで属していたダイヤモンド社の雑誌部門を離れた。入社以来、出版局への異動を希望していたのだが、結局、40歳まで異動することはできなかった。出版局に入るのは本当に至難の業だった。まず出版局の長井弘勝君が新しい雑誌『BOX』誌へ異動し、席が空いた出版局に僕が滑り込んだことになる。週刊誌、月刊誌の数々に携わってきた僕には、出版局で単行本を編集する仕事は面白くて仕方がない。僕が手掛けた「単行本シリーズ」の一つに、ポール・ボネの『不思議な国ニッポン≪在日フランス人の眼≫』があった。結局、全部で16冊のポール・ボネ本を仕掛けることになる。それがことごとく増刷に次ぐ増刷である。笑いが止まらなかった。そして、新刊後4年経った時、全部、角川書店で文庫化されることになった。多分、角川書店から文庫シリーズとしてトータル500万部を超えた。これだけの部数の3%(=印税)だから、元出版社=ダイヤモンド社の取り分も大きかったはずだ。まさに濡れ手で粟状態だった。
・そのポール・ボネこと藤島泰輔さんと宮崎正弘さんが親しく付き合っていたことを、その時、僕は知らなかった。当然ながら、その時点で僕は藤島さんとは編集者として付き合っていた。藤島さんは、今上天皇(当時、皇太子)のご学友の一人だ。その藤島さんが学習院高等科時代の皇太子と「ご学友たち」を題材にした小説『孤獨の人』で作家デビューした。その序文で、三島由紀夫が「うますぎて心配なほど」と評価している。1964年(昭和39年)、メリー喜多川さんと結婚。翌年、長女・藤島ジュリー景子が誕生する。僕が、港区六本木鳥居坂のマンションへ原稿を貰いに行くと、当時中学か高校生くらいだったジュリー景子さんが、英語でペラペラ父親の藤島さんに頼みごとをしているのをしょっちゅう見かけたものだ。今でも、宮崎さんはメリー喜多川さんとお付き合いがあるらしく、先日、豪華な自家用車でご一緒したと話してくれた。知り合って数年経つと、藤島さんはホテルを定宿にした(最初はホテルオークラ、後にホテルニューオータニのスイートルーム)。毎月の原稿受け渡しや遊びのほか、僕もホテル・ライフを楽しんだ。若い僕に豪華な洋酒、煙草(ダビドフが一番多かった)、高級なおつまみ、雲丹や牡蠣などをよくご褒美にいただいた。
・宮崎さんは真面目な方で、競馬はおやりにならないが、僕は競馬、競輪、競艇、オートレースとなんでもござれのギャンブル大好き人間である。ある時、藤島さんが中央競馬会の勧めで馬主になった。それが、なんと単行本のベストセラーの印税なみに稼ぐことになる。馬の名前はランニングフリー。1985年9月、中山競馬場でデビューを果たすと、順調に勝ち抜いて、オープン馬となり、春の天皇賞では13番人気ながらタマモクロスに次ぐ2着となった。そのお蔭で、皇太子ご夫妻(当時)も府中の競馬場へ足を運ばれた。7歳時にはアメリカジョッキークラブカップ、日経賞とG2を2連賞するなど活躍した。3回ぐらい、ホテルオークラの祝勝会に呼ばれて祝杯を挙げた。そこで競馬の神様・大川慶次郎さんにもお会いし、得難い会話を楽しんだ。僕の電話投票もその席で藤島さんが農林省の次官殿に頼んで入れてもらったものだ。
・次に、藤島さんは、有り余るお金でパリ16区(高級住宅地)に豪邸を手に入れた。「部屋はいくつもあるから、パリに来てホテルに泊まる必要はない…」と言う。結局、その豪邸を訪ねたことはなかったが、僕もかつてシャイヨ国立劇場やトロカデロ庭園のすぐそば、16区のマンションに住んだことがあった。そのマンションは、かつてカトリーヌ・ドヌーブが賃貸で借りていた場所らしい。20代の僕も贅沢な想いを楽しんだものだ。その後、藤島さんの16区の住まいは、元NHKの花形キャスター磯村尚徳さんが日本文化会館初代館長になった際、リースされることになったという。その話は、大宅壮一ノンフィクション賞をとった作家・深田祐介さんも知っているので盛り上がった。深田さんとは人脈が重なるところがあり、同じ身体障害者一級同士ということで話が弾んだ。
・藤島さんに頼んで、ダイヤモンド社からポール・ボネ以外の本を刊行したこともあり、懐かしい思い出だ。『中流からの脱出――新しいステータスを求めて』(1986年刊)、『ウルトラ・リッチ―超富豪たちの素顔・価値観・役割』( V. パッカード著、藤島泰輔訳、1990年刊)、『名画の経済学――美術市場を支配する経済原理』(ウィリアム・D・グランプ著、藤島泰輔訳、1991年刊、すべてダイヤモンド社刊)などである。いずれの仕事も藤島さんは楽しんでくれた。「加登屋さん、僕は作家・評論家なのに、皆さんが本を出していない、唄を忘れたカナリヤだと言う。本当は、毎日せっせと書いている。それもベストセラーを書いている。ポール・ボネとは、実は僕なんだと何度も告白したい気持ちになる。ポール・ボネ以外の作品を書くのは、ストレス発散になって嬉しいよ」とよく言われた。
・宮崎正弘さんにちなみ、今回は藤島泰輔さんのことを主に書いた。人には、運、不運、成功、失敗がつきものだ。藤島泰輔さんの人生は、恐ろしいぐらいつきまくった。上流家庭に生まれる。皇太子(当時)のご学友となる。作家・評論家としてデビューする。メリー喜多川(藤島メリー泰子)さんと結婚、一人娘ジュリー藤島(藤島ジュリー景子)さんを儲け、ジャニーズ・アイドル帝国を築いた。たのきんトリオ、SMAP、嵐……一連のアイドルたち。資産家で、長者番付の常連。父親(藤島敏男)は登山家、日本銀行監事、祖父(藤島範平)は日本郵船専務。一代では築くことができない名門である。唯一、1977年、第11回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区に立候補し、新日本宗教団体連合会関連諸団体の推薦を取り付けるなどして188387票を獲得し、法定得票数に達したが66位で落選した。これが唯一の汚点というか、残念なことだった。1933年1月9日生れ、1997年6月28日没(享年64)。
・宮崎正弘さん、貴兄のことをもう少し書こうと思ったが、残念ながら今回はこの辺でペンを擱く。単行本の新刊を弊社から出したとき、また書くことにする。それが早い時期になることを待っている。じゃー、また。
2012.06.07「菅原匠の藍染とやきもの展」を観る
銀座松屋の会場には、菅原さんの藍染と陶芸の魅力がたっぷり。
地元、伊豆大島から切ってきた野生種の額紫陽花が彩を添える
・菅原匠さんから銀座松屋での個展開催のご案内をいただいた。菅原さんは毎年、1週間ほどの会期で、この松屋デパートで藍染と陶芸の個展を続けている。藍染、陶芸ともに斯界の第一人者であり続けるのは至難の業だが、難なくこなしているのにはいつも感心させられる。もっとも当人にしてみれば、近年、比重的には陶芸に魅せられ、入れ込み具合も違ってきているようだが。かつて月刊『清流』で菅原匠さんの企画を連載したこともあった。『自然を生きる』のタイトルで毎号、菅原さんの暮らしや生き方を語る企画だ。第1回目の「藍を育て、藍で染め、暮らしを慈しむ」以降、ユニークな記事が続いた。余談だが、毎年のようにこの個展会場で顔を合わせる感じのいい女性がいて、この女性に会えるのも楽しみの一つであった。6月1日の金曜日、弊社顧問の斎藤勝義、出版部の臼井雅観両君と出かけた。楽しみにしていた女性だが、菅原さんによれば、昨日来場したという。残念だがしかたあるまい。
・ご存じのように、菅原さんの名を世に知らしめたのは、あの白洲正子である。菅原さんの藍染の素晴らしさに惚れ込み、暖簾を何点も購入して自宅に飾るとともに、単行本や雑誌でも称賛したものだ。菅原邸の門に「藍風居」と書かれた扁額がかかっているが、白洲正子の命名だという。藍染の藍を建てるのはとても難しい。藍が発酵する適温は摂氏20度からだとか。生きているだけに目が離せないのだ。調子のいい甕がいつでも1つは必要だからと、菅原さんはなんと9個の藍甕を育てている。まさかの時に備えて、予備の藍甕が必要なのである。その上、染める生地にこだわっていたから、いい生地を手に入れるのも大変だった。日本各地はもとより、海外にまで足を運んでお眼鏡に叶うものを探した。
・菅原さんが辻清明と親交があったということは、人から聞いて知っていた。だが、辻清明が菅原さんの仲人役を果たしたというのは初耳であった。麗子夫人との出会いも、素材となる生地を求めて訪れた韓国であった。麗子夫人は韓国のやんごとなき家系の出身。結婚して日本に連れてくるには、現地で古式にのっとった結婚式をする必要があった。その時、東奔西走して、手を差しのべてくれたのが辻清明だった。結婚式に日本から出席する二十数人の人選をし、渡航の手続きなどすべて手配りする。だから菅原さんは辻清明には頭があがらなかったようだ。
・弊社では、2010年の夏に『独歩 辻清明の宇宙』という本を刊行している。そもそもこの本は、陶芸家の辻清明が藤森武さんのカメラマンとしての腕に惚れ込み、撮影を依頼したものだった。辻清明は知る人ぞ知る異端の陶芸家である。特に師をもたない独立独行の孤高の陶芸家で、同業者で親しく付き合った人はない。信楽焼きを得意とし、優れた作品群を制作している。ホワイトハウスを始め、欧米の美術館・博物館に収蔵され、また、国家元首クラスの要人へのお土産としても多く使われたことでもその異才ぶりは際立つ。晩年、ドナルド・キーンさんと一緒に東京都の名誉都民ともなった。キーンさんとは、安部公房を介して知り合い、連光寺の自宅に招いたこともある。蕎麦打ちが得意だった辻清明は、自宅の庭で、野外パーティなども開いた。自分の焼き物で蕎麦を供するとはなかなか風流であった。
・昭和62年、辻清明がちょうど還暦を迎えた時、長野県南安曇郡穂高町有明に10年を費やして100坪の工房と登り窯を完成させる。これは本拠としていた多摩・連光寺の工房周辺の宅地開発が進み、仕事に支障が出てきたので、新潟県にあった270年を経た古民家を解体し、新たに設計し直したものだった。茅葺屋根の豪壮・壮大な屋敷だったようだ。ところが好事魔多しとはよくいったもの。2年後の平成元年12月、この工房を焼失してしまう。乾燥し切った茅葺屋根の家である。たった10分ほどで焼け落ちてしまったという。
・菅原さんによれば、出火原因は、通常考えられるような火の粉が屋根に飛び移ってというのではないらしい。12月の安曇野は、かなり冷え込みが厳しい。そこでがんがん、囲炉裏で火を焚いているうち、屋根裏近くに熱がこもり自然発火したものだという。辻清明の落胆ぶりは想像するにあまりある。10年を費やして手に入れた理想の工房を失ったばかりでなく、気に入って集めていた鉄器などのコレクションもすべて無くし、茫然自失の態だったという。ただ、登り窯だけは延焼をまぬがれ、翌平成2年「古信楽と辻清明の世界展」を開催できたのは、不幸中の幸いであった。
・その辻清明が助手を連れて伊豆大島の菅原邸を訪ねてきたことがあるという。菅原さんが身振り手振り交えて話してくれたが、その酒豪ぶりはあとあとまでの語り種である。新鮮な魚介類を肴に酒を飲みながら食事をし、菅原さんは夜半を過ぎたのでさすがに疲れ、眠ってしまった。ところが、辻清明はといえば、その後も飲み続け、菅原さんが朝起きてみると、なんと清酒一升、焼酎一升、ウィスキー1本を開けたうえ、まだ酒が残っていないかと家探ししていたというのだから。豪快といえば豪快な大酒呑みだったようだ。知られざるエピソードである。
菅原匠さん(左から2人目)を囲んで、弊社顧問の斎藤勝義さん(右から2人目)、出版部の臼井雅観君(左)、僕(右)。
2012.05.21『オペラの館がお待ちかね』の本が完成!
著者・室田尚子さん(左から2番目)を囲んで、デザイナーの臺毅一郎さん(左)、編集の助っ人・青柳亮さん(右から2番目)、弊社社長の藤木健太郎君(右)。
・室田尚子さんの新刊本『オペラの館がお待ちかね』(5月28日発売 弊社刊 定価1890円)の見本を前に、僕は思わず「待ってました!」と叫んでしまった。帯文に「あなた様を、お待ちしておりました」とあったのに呼応した反応だ。僕は約六年にわたり、室田さんの本の出来上がりを待っていた。本欄でも過去2回(2006年6月、2010年3月)、室田さんのことを書いている。その時は企画会議で、いずれも編集工房「ラグタイム」の青柳亮さんが同席していた。会うたびに室田さんの着想、アイデアの斬新さに感心させられた。一日も早く刊行したいと願ったが、その後、室田さんの身辺に思わぬ変化が訪れた。結婚、出産、そして3.11後の体調不良等が重なって、完成がのびのびになっていたのだ。その間、NHKBS3チャンネルでしばしば、室田さんが司会をされたり、コメントするオペラ番組などを、一ファンとして僕は観ていた。やっと弊社から室田さんの本が出る! なんとうれしいことだろう。オペラファンのみならず、初めてオペラを観るという方、いやオペラなんて観たくもないという方にも、断固、お薦めしたい本である。
・まず、本の構成がユニークでなんとも素晴らしい。目次から見てみよう。本文は『応接室』から始まるが、この応接室では「オペラ劇場の楽しみ方」を紹介している。例えば、切符を買うには? いい席は、どこ? どんな服装で、誰と行くのか? 開演前に予習は必要か? ホワイエ(劇場のロビー)の楽しみ方は? オペラグラスの使い方は? 急にトイレに行きたくなったら? 聴きどころ、見どころは? 拍手!ブラヴォー! の掛け声はいつすればいい? 咳が止まらないが? 眠いときは? 休憩時間に何を飲む?……などなど微に入り細にわたって、さまざまな疑問への答えが用意されている。初めてオペラを観る人にとっては、すぐに役立ちそうな情報である。こうした読者に親切な構成は室田さんならではのお心遣いだろう。
・応接室の次は、オペラの楽しみ方を解説する『○○の部屋』となっている。この部屋は、オペラを洋館に見立て、イケメンの執事が次々と各部屋をご案内してゆく趣向である。「禁じられた愛」の部屋、「恐い女」の部屋、「困った男」の部屋、「結婚相談所」の部屋、「美人薄命」の部屋、「殺人事件」の部屋、「魔法使いとファンタジー」の部屋、「身代わり請負人」の部屋、「詐欺師と泥棒たち」の部屋、「子ども部屋」……の順で、名曲オペラを紹介、解説してゆく。お勉強タッチではなく、テーマパークのアトラクションを巡るように読んでもらえるはずと、室田さんも自信たっぷり。オペラが「総合芸術」=音楽、文学、美術などが一体となったパフォーマンスであることがよくわかる仕組みだ。
・もう少し具体的に部屋の紹介をしてみよう。部屋では29曲のオペラについて、時代背景、ストーリー、誕生秘話、萌えポイントまで語ってくれる。最初の「禁じられた愛」の部屋は、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』、ヴェルディの『アイーダ』の3曲を選んでいる。まずリヒャルト・ワーグナーの曲から始まるのが面白い。だが、ここでは個々のオペラは論じない。取り急ぎ各部屋の取り上げるオペラ曲を見ていくことを優先したいからだ。この「禁じられた愛」の部屋のオペラは、伴侶以外の人を愛してしまう不倫愛、身分違いの愛、略奪愛など、およそ現実の社会ではこの手の愛にハマると破滅の道をまっしぐらとなる。どろどろした「禁じられた愛」を存分に堪能できること請け合いだ。
・次は「恐い女」の部屋が待っている。プッチーニの『トゥーランドット』、同じくプッチーニの『トスカ』、リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』、ベルクの『ルル』の4曲である。純愛に生きる青年、男を手玉にとる悪女、可憐で純粋な少女、オペラにはさまざまな人物が登場するが、極端に嫉妬深かったり、潔癖症だったり、自己中心的だったりする「恐い女」も続々出てくる。オペラの中ではそれが実に魅力的に映る。『トゥーランドット』は「氷の姫君」の異名をもつ恐い女、オスカー・ワイルド原作『サロメ』にも恐い女が出てくるが、恐い中にも魅力があって惹きつけられてしまう。
・次の「困った男」の部屋は、プッチーニの『蝶々夫人』、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』、チャイコフスキーの『エフゲニー・オネーギン』の3曲。姫君を守る王子サマ、恋に一途な純情クン、包容力ある父親など、オペラに登場する男たちもさまざまだ。やっかいなのはルックス抜群でイケメンぞろい、モテモテ男たちの存在である。だからこそいいように遊ばれた挙句、人生を誤る女性も跡を絶たない。そんな「困った男」たちだが、なんだか憎めないのである。例えば、蝶々夫人は「無責任」で「困った男」のピンカートンにいいようにあしらわれる。また、カルメンが「悪女」の典型なら、ドン・ジョヴァンニは「悪い男」の見本のような男だ。
・「結婚相談所」の部屋では、ロッシーニの『セビリアの理髪師』、モーツァルトの『フィガロの結婚』、リヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』の3曲を選んでいる。結婚にこぎつけるまでの高い障壁、おなじみ結婚後の倦怠期や後悔、そして配偶者の浮気。結婚は人生の輝かしいゴールなのか、はたまた灰色の墓場なのか? そんな結婚のもつ喜び、悲しみ、苦労、幸せをオペラは存分に教えてくれる。例えば、セビリアの理髪師を観終わったあとの幸せな気分はどうだ。こんなオペラはそうたくさんあるわけではない、との室田さんの意見に大賛成! ≪フィガロ、フィガロ、フィガロ!≫と「何でも屋」の理髪師は、自分のことを人気者で引っ張りダコであると歌う。そのことを声高々に歌う歌声に、オペラを聴いている僕も幸せな気持ちでいっぱいになる。
・「美人薄命」の部屋では、ヴェルディの『椿姫』、プッチーニの『ラ・ボエーム』の2曲が取り上げられる。愛し合う恋人が不治の病に、「ああ、運命はなんて残酷!」といった悲劇はお好きではないですか? たいていの障害はなくなった現代の恋愛で、「不治の病」は唯一乗り越えられない障害である。だからこそ、病によって引き裂かれる恋の悲劇は、ドラマティックに盛り上がろうというもの。椿姫は、原題が『ラ・トラヴィアータ』で、その意味は「道を踏み外した女」だが、くわしくは本文を読んでほしい。『ラ・ボエーム』の主人公ミミも、「薄幸のヒロイン」のイメージ通りの女性である。
・物騒な「殺人事件」の部屋には、ビゼーの『カルメン』、ヴェルディの『オテロ』、ベルクの『ヴォツェック』の3曲が登場する。愛憎のもつれは、ついに殺人事件にまで発展してしまう。ストーカー行為の末、相手の女性を刺殺する。妻の浮気を疑った夫が妻を絞殺してしまう。内妻の妻を殺して自らも命を絶つ。こうした血なまぐさい事件の裏側には、人間のもつ業や愛の深さ、心の複雑さ、生きることの難しさが渦巻いている。また、カルメンの視点とホセの視点では、観方が変わってくると室田さんが書いているがまさに慧眼である。確かに視点を変えると話がガラッと動く。オテロは「ヴェルディ最高の作品」と書いているが、僕も同感なので嬉しかった。
・「魔法使いとファンタジー」の部屋にノミネートされたのは、モーツァルトの『魔笛』、ウェーバーの『魔弾の射手』、ワーグナーの『ニーベルングの指輪』四部作の3曲。現実の世界では決して起こり得ない魔法や魔術が登場するファンタジーだが、間違っても子ども騙しだなどとは言わないでほしい。確かに浮世離れはしているが、人間の心理描写やドラマは変化に富み、大人の鑑賞にも耐えられる。時には「夢と魔法」の世界に遊んでみることをお薦めしたい。『魔笛』もよいが、『ニーベルングの指輪』四部作が素晴らしい。
・「身代わり請負人」の部屋は、モーツァルトの『コシ・ファン・トゥッテ』、ヨハン・シュトラウス二世の『こうもり』、レハールの『メリー・ウィドウ』の3曲。「誰かと誰かが入れ替わってしまう」という仕掛けは、いつも、話を複雑化し面白くしてくれる。観ている側は誰と誰が入れ替わったのかを知っている。だが、登場人物同士はわかっていないので、みんな右往左往して大混乱に陥る。見事この混乱が終息するかどうかは、オペラをご覧になってのお楽しみ。ヨハン・シュトラウス二世の『こうもり』は、何回観ても面白い。オペレッタの傑作で、ウィーンらしいおシャレな曲だと思う。
・ドニゼッティの『愛の妙薬』、オッフェンバックの『ホフマン物語』、ヴァイルの『三文オペラ』とくれば、「詐欺師と泥棒たち」の部屋である。人の心の隙間に忍び込み、言葉巧みに操って利益をまんまとせしめる詐欺師たち。騙すほうが悪いのか、騙されるほうが悪いのか。そして、他人様の懐からちょっとしたお金や宝石等を盗み取る泥棒たち。オペラに出てくるこうした悪人たちだがどこかマヌケで憎めない。彼らの所業をたっぷりとご覧いただきたい。ドニゼッティは、僕も好きな作曲家で、『愛の妙薬』のほか『アンナ・ボレーナ』、『ランメルモールのルチア』、『連隊の娘』、『ドン・パスクワーレ』等をよく聴く。また、映画『フィフス・エレメント』(ブルース・ウィルス、ミラ・ジョヴォヴィッチ主演)の中に、なんと歌劇『ランメルモールのルチア』のアリア「愛のささやき」が使われている。オペラも映画も大好きな僕は、このコラボに狂喜したものである!
・最後は「子ども部屋」。ラヴェルの『子どもと魔法』、フンパーディンクの『ヘンゼルとグレーテル』の2曲が選ばれた。多分、室田さんがお子さんと一緒に観に行くつもりで最後に選んだものだと思う。ヨーロッパでは、子ども連れでオペラハウスを訪れる姿が見られるが、日本でも小さい頃からオペラに親しんでおけば、もっと「オペラ好き」の大人が増えるのではないでしょうか――室田さんの切なる気持ちがあらわれた文章である。『○○の部屋』では、以上全部合わせて29曲が解説、紹介される。
・この本は、『応接室』、『○○の部屋』の次に、『キッチン』が付いている。歌劇場で、われわれが音楽とドラマが一体となった華やかなオペラの舞台を観ながら、泣いたり笑ったりする。だが、その舞台は目に見えない大勢の人たちの力と、膨大な時間が、その準備のために費やされている。オペラという素晴らしい料理がつくられる『キッチン』を見てほしいとの気持ちから室田さんが用意したページである。≪オペラの舞台ができるまで≫とサブタイトルにあるように、オペラの企画から立ち稽古開始まで、立ち稽古から本番まで、いよいよ本番、オペラが成功するためには、という流れで舞台裏を詳しく解説してくれる。個性豊かな歌手、指揮者、演出家、スタッフたちが一体となって創る舞台で、まさに総合芸術だと頷けると思う。最後に二つのコラムがある。「質の高い歌手たちの集団がつくりあげる世界的なオペラ――東京二期会」、「新演出のもとで海外からの本場のスターたちが競う――新国立劇場」。この一冊で、満足感がいっぱいになることを保障したい。
・全編を通じて室田尚子さんの文の巧みさが目につく。オペラの面倒な解説ではなく、およそジャンルを超えて、上質のエッセイ並みの読後感を味わえる。僕の下手な推薦文を読むより、だまされたつもりで本を買って読んでほしい。また、カバーから見返し、本文に至るまで、ユニークなイラストを描いてくれた桃雪琴梨さんに拍手! と同時にブックデザインを担当してくれたフェアリーダスト・オフィス(株)の臺(だい)毅一郎さん、編集の助っ人・青柳亮さんも、ご苦労様でした。
・僕が初めてオペラを本格的に聴いたのは、高校一年生の時だ。家のNHKFMから流れてきた曲がなぜか気に入って、それ以来、オペラのファンになった。その時聴いたのがペルゴレージのオペラ『奥様女中』(1733年作曲)だった。テープレコーダーに録音して、何回も何回も聴いた。その後、大学一年生の時、九段会館で二期会が公演した『奥様女中』の初演を観た。当然のことだが、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710―1736)の『スターバト・マーテル』も大好きな曲になった。惜しくもペルゴレージは26歳で夭折。さすがに編集工房「ラグタイム」の青柳亮さんはこの『奥様女中』のことを知っておられた。僕は、女中セルピーナ(ソプラノ)が、金持ちの老人ウベルト(バリトン)を「怒っちゃだーめよ、自惚れちゃだーめね」と茶化す歌詞がいたく気に入った。高校生の頃、『奥様女中』のメロディーを口笛で吹きながら歩いたことが懐かしく想い出される。
・僕は「ワグネリアン」ではないが、過去、何回か行った欧米旅行の際、主にワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』、『さまよえるオランダ人』、『ローエングリン』、『タンホイザー』、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のオペラにせっせと通いつめた。実はある方と偶然会えるチャンスを期待しての劇場通いであった。その人は、江戸時代末期(文久二年)創業の元祖佃煮の老舗、日本橋鮒佐の御曹司・大野さん(名前は忘れた)である。ワーグナーに関する薀蓄で並び立つ人はいなかった。日本橋のお宅を訪ね、素晴らしいステレオ装置と貴重なレアものレコードやワーグナーの話を聞かせてもらった。大野さんはちょうど僕と同い年で、慶應義塾大学で政治学を学び、ドイツに留学(多分『独ソ外交交渉史』だと記憶)し、毎年バイロイト音楽祭の全日程を観続けた方である。独英仏その他の国々のワグネリアンと付き合っていて、その交際範囲の広さにびっくりしたことを覚えている。後日、私は『藝術新潮』の山崎編集長に大野さんを推薦した。山崎さんは「バイロイト祭の近年事情」を書いてほしいと依頼したと記憶している。今から約45年も前のことなので、間違っていたら許してほしい。その後、大野さんは老舗の佃煮店を継がないで、アメリカへ渡って、モード雑誌(『VOGUE』かな?)のカメラマンになったと風の便りで聞いた。大野さんを思い出したのも何かのご縁。あの懐かしい方に会うことができれば、この上ない幸せである。どなたか大野さんの消息をご存じの方はいませんか? いらしたら、是非、ご連絡を乞う。
・最後に著者・室田尚子さんのプロフィールを述べておこう。1988年、東京藝術大学音楽学部楽理科卒業。1991年、同大学大学院音楽研究科音楽学修士課程修了。早稲田大学・武蔵野音楽大学各講師。東京新聞や日本経済新聞、雑誌『音楽現代』等で演奏会評・音楽時評を手掛けてきた。また読売日本交響楽団の定期演奏会「名曲シリーズ」や読響『Orchestra』、『二期会通信』などをはじめとする演奏会の曲目解説を行ない、音楽評論家・ライターとして活躍している。特にドイツの音楽キャバレーにおける音楽文化、ヴィジュアル・ロックや少女マンガ、とくに「やおい」など、「ネット・コミュニケーション」、「大衆文化」、「オタク文化」をキーワードに、より幅広いフィールドで執筆活動を展開されている。NHKFM「クラシック・サロン」、「クラシック・リクエスト」、衛星PCM放送ミュージックバード「Naokoのクラシック・ダイアリー」のパーソナリティを務めるなど、ラジオ放送でのクラシック音楽紹介にも力を入れておられる。著書には『チャット恋愛学――ネットは人格を変える?』(PHP新書刊)、他に共著が『クラ女のショパン』、『ショパンおもしろ雑学事典』など10冊ほどある。
これは素晴らしくいい本だから、買って、見てね!
2012.04.11くすはら順子さんの個展を観る
ユニークな作品群
美人姉妹のツーショット
清流出版メンバーとくすはらさん(撮影:臼井雅観)
●自由奔放なタッチ、風変わりなフォルム――才能ある方!
・くすはら順子さんは、僕がお気に入りのイラストレーターである。弊社発行の月刊誌や単行本のイラスト、装画など、すばらしい作品を提供してくれている人だ。その作風はといえばペン、筆、パステル、グァッシュなどを駆使した画で、自由奔放なタッチ、風変わりなフォルムが持ち味である。連載エッセイをスタートさせる際、イラストレーターとしてくすはらさんを指名した方もいる。そのお一人が、産経新聞の「産経抄」を35年間、書き続けたことにより菊池寛賞を受賞したコラムニストの石井英夫さんである。いまも月刊『清流』に連載中の石井さんのコラム「いとしきモノたち」は、添えられたくすはらさんの絵がアクセントとなってユニークな誌面となっている。また、連載はすでに終了したが、金田一秀穂さんのコラム「気持ちにそぐう言葉たち」でもくすはらさんのイラストが、文章との間に妙な緊張感を生み出して、僕は大いに笑いながらその誌面を楽しんだものだ。
そのくすはらさんから個展の案内状をもらった。顧問の斎藤勝義さん、編集担当の金井雅行君、出版部の臼井雅観君を誘い都合4人で出かけた。個展会場は、銀座6丁目の「ギャラリー近江」である。僕がよく通っていた文藝春秋画廊や交詢社ビルがほど近い画廊であった。会場に着いてみると、月刊『清流』の秋篠貴子君がいたので、清流出版の関係者は5人になった。
会場入り口の招き猫?
・会場の入り口には、ネコをモチーフにした陶器がチョコンと置かれ、来場者を迎えてくれる。早くも「くすはら順子はタダモノじゃない」という雰囲気が漂う。案内には「作陶器展」とあったが、実際は陶器と絵画の二本立てであった。会場の半分ほどは、テーブルの上に陶器作品を並べ、会場の壁面にリキテックスによる絵画作品を展示していた。この平面(絵画)と立体(陶器)の組合せが両々相まって、くすはら順子の摩訶不思議な雰囲気を醸している。
・まず、陶器をじっくり見せてもらった。文字に表わすのは難しいが、くすはらさんの巧みな才能を感じた。ほとんどが動植物をモチーフに器とドッキングさせたもので、ファンタジックな世界に誘い込まれる感じだ。鳥をかたどって、魚をイメージして、あるいはネコ、そして草花などをモチーフに、器と融合させた作品群……不思議な形状と陶器が次々現われる。約50点の作品が、ことごとくユニークで、日本ではない風土を、多分、東南アジアをはじめ、メキシコ、中南米、アフリカ等を連想させる形状。ある人が「ガウディに近い」と言ったが、それも確かに頷けた。ガウディの建築に似ているなど、ほめ言葉としても最高! 僕は、シュルレアリズムと抽象主義をつなぐ存在の画家、アーシル・ゴーキーの雰囲気を感じた。それほど自由奔放に遊んでいる。今回のくすはらさんの個展は、僕のあくまで個人的判断だが、断然、陶器の方が好きだ。くすはらさんの立体造形の感覚は日本人離れしていると思う。
・会場の壁に飾られたリキテックスによる絵画も、面白かった。今まで見かけたことのない秩序と構成の絵画である。陶器には見られなった規則的な線と色で構成された絵が多い。シンプルで、抑制された画風。およそ、くすはらさんらしからぬ作品といえようか。でも、ひょっとしたらこれらの作品は、あえて静かなふりを装っているのかもしれない、と僕は深読みする。あえて絵画の部分は、「私だってきちんとした絵が描ける」と自己主張している。約30点の作品のうち、会場の奥に展示された二枚の作品は、ものすごく気に入った! あとの作品は一枚のキャンバスのうち、三分の一しか描き込みがない。残りは、白基調に塗りつぶされた空間が三分の二ほどあって、その部分は、みなさんの想像力、イマジネーションで埋めてみれば……とでもいっているようだ。挑戦されているようで、なんだかわくわくさせられる!
・会場の片隅に、これまでくすはらさんが装画を手掛けた本のカバーが展示されていた。その中に弊社の本で思い出深い『愛しの太っちょ――ダイヤモンド・ジムの生涯』(H.ポール・ジェファーズ著、仙名 紀訳、定価2940円、2008年刊)を手に取って、しばし感慨にふけった。この本は、シルクハットと燕尾服の太っちょ姿が描かれているが、黒の色調がとても効果的であった。実在の成金だった、ダイヤモンド・ジムは金に飽かせてグルメ三昧。でっぷり太った姿に大粒のダイヤを身に着けた装画は、なんとも愛敬があって微笑ましかった。そして、この翻訳に纏わるエピソードを思い出した。最初、僕の畏友、徳岡孝夫さんに翻訳を依頼したのだが、その後、徳岡さんは視力が低下して目が見えにくくなり、残念ながら翻訳を途中で断念された。そこで僕は、急遽、仙名紀さんにバトンタッチをお願いして完成させた経緯がある。いわば毎日新聞出身者(徳岡さん)から朝日新聞出身者(仙名さん)にリレーしたことになるが、お二人とも僕のかつての仕事ぶりをよく知る方なので、スムースに移行できた。いい仕事をしてくれたくすはらさんには心から感謝したい。帰り際、くすはらさんのお姉さんがたまたま来合わせた。お二人は大阪の出身だが姉君は嫁ぎ先が横浜だったとのこと。現在も横浜在住だという。お名前は大畑悦子さん。主婦業のかたわら、ピアノを教えているという才媛である。美人姉妹にさよならするのは残念だったが、後ろ髪を引かれながら会場を後にした。
・「ギャラリー近江」に行ったメンバーは5人。清流出版メンバーが銀座に集うことは、めったにない。この後、美味しいお昼ごはんを一緒に楽しんだ。
2012.03.16瀬川昌治さんの演出した舞台を堪能!
・映画監督・瀬川昌治さんが、『乾杯!ごきげん映画人生』(定価2100円、2007年1月刊)に続いて、自伝的エッセイ第二弾『素晴らしき哉 映画人生!』(定価2310円、2012年3月刊)を弊社から刊行の運びとなった。今回は、僕も大好きなアメリカのフランク・キャプラ監督の名画『素晴らしき哉 人生!』をもじった書名である。映画ファンだったら、このタイトルに惹かれ思わず手に取るはずだ。瀬川さんと言えば、喜劇映画の名手の異名をとるが、脚本家、舞台演出家もされている。1925(大正14)年生まれで御年87歳になる。東京帝国大学文学部英文科の卒業である。東大時代、俊足・好打の野手として東京六大学野球でも大活躍された。
・瀬川さんの1歳年上の兄上・瀬川昌久さんも東京帝国大学法学部の卒業。富士銀行に入行し、ニューヨーク支店駐在中からジャズ評論を開始され、退職後は、音楽関連レクチャーやコンサート企画などを精力的に行った。弊社から『ジャズで踊って――舶来音楽芸能史』(定価2100円、2005年10月刊)を刊行されている。さらには三男・瀬川昌昭さんも東京帝国大学政経科を卒業し、NHKに入局。社会番組部長などを歴任され、現在は(株)瀬川事務所社長である。まさに秀才三兄弟だが、皆さん趣味が高じて実業として成り立たせている。これが僕にはうらやましい限りだ。このご兄弟も高崎俊夫さんが紹介してくれ、清流出版と縁を結ぶことができた。
・今回の『素晴らしき哉 映画人生!』の仕掛け人も高崎さんである。「清流出版ホームページ」の『高崎俊夫の映画アット・ランダム』欄ですでに二ヵ月前、この本について詳述されている。だから今回の僕のブログでは、新著の紹介は省かせていただく。詳しく知りたい向きは、高崎さんのブログを見ていただきたい。前著と少し違うのは、寺岡ユウジさんに編集協力をお願いしたこと。瀬川さんが眼の手術をされ、十全な執筆活動ができない不安があった。そのため、寺岡さんが取材を重ねて元原稿を起こしたもの。取材は20回以上に及び、実に四年がかりであった。その原稿に視力を恢復された瀬川さんが手直しをされ、完全原稿に仕上げたというわけだ。取材のほとんどは、九段会館の喫茶室で行なわれたそうだが、3月11日の東日本大震災による天井崩落事故によって会館は閉鎖された。そのこともあり、刊行スケジュールが延びてしまった。僕も何度も経験があるが、一冊の本が出来上がるまでには、いろいろハプニングがあるものだ。
・実は3年ほど前から、瀬川さんは「瀬川塾」を作り、後輩の若い俳優たちを育てておられる。今回、瀬川塾3周年記念特別公演のご案内を瀬川さんからいただいたが、面白そうな企画なので、清流出版のメンバー総勢10人で観劇に出かけた。会場は、築地本願寺のブディストホール。演目は鈴木聡作の『凄い金魚』である。演出はもちろん瀬川さん。出演者は瀬川塾の塾生18人に、ベテラン俳優の村山龍平さん、著名なコメディアンの山口ひろかずさんが協力出演している。鈴木聡さんは博報堂のコピーライターとして活躍する一方、劇団「サラリーマン新劇喇叭屋」(現・劇団ラッパ屋)を結成、演出家として二足の草鞋を履きながら活躍されている。この鈴木聡さんの『凄い金魚』、瀬川さんが目をつけ、演出に臨んだ。曰く――「ラッパ屋 鈴木聡の世界に喜劇映画の名手・瀬川昌治が挑む!」
・ちょっと長いが、話の顛末を皆さんにご紹介しよう。
≪中央線沿線のとある町にある高野家。映画プロデューサーである主人公・幸太郎はバツイチで、今は実家で妹、父、祖父と共に暮らしている。駅から徒歩圏内にあるちょっと古いその家の中庭には池があり、昔から金魚が飼われている。ある夏の日、幸太郎が幼い時分から毎年、ボランティアで池掃除をかって出てくれる「金魚のおじさん」が訪れたところから始まる。高野家の誰もそのおじさんの名前も素性も知らない。≫
≪たまたま家にいた幸太郎の大学の後輩・吾郎は、その怪しげなおじさんと口論となる。そこへ幸太郎と妹・聖子が現れて、ひとまずその場は収まる。≫
≪この時、離れで寝ていたはずの祖父・高野潤三が亡くなっていたことが発覚。亡くなった祖父はジャズ好きで洒脱なおじいちゃんだったらしい。あいにくの父の不在――山へ行ってくると言ったまま、数日間家を空けていた――もあり、葬式の手配にてんやわんやの長男・幸太郎。≫
≪金魚のおじさんの手助けもあり、その日のうちに通夜の手配をし、高野家は一転、親戚、知人、そして幸太郎の元妻・夏子、家を出て行って久しい長女の文子も会して賑やかな夜を過ごしていた。そこへ父・英太郎がリュックを担いで帰宅し、家族全員が集合。その後、祖父は趣味の映画作りで散財した結果として、その家を手放さなくてはならない、という新事実が明かされる。≫
≪あわてふためく家族。幸太郎は元妻・夏子とよりを戻したいと思っていた。ところが父・英太郎と夏子の会話を聞いて、「山へ行く」と言っていた英太郎が実は夏子と2泊3日で出かけていたことを知り、幸太郎は荒れまくる。高野家はさらなる混乱の迷路に入っていく。だが、あまりにも悪いことばかりの連続に、かえって開き直る幸太郎。すべてを受け入れ、明日からも生きていくことを亡き祖父に誓うのだった。≫
・早足でストーリーを紹介したが、ラストシーンは、暗くなった舞台に、祖父から父・英太郎に宛てた遺言テープの声が流れる。昼寝から起きていた幸太郎は英太郎と夏子との間に起きたことを知っている。やりたいことをやれ。淡々と語る祖父の台詞は、妙に頷ける。この話、微妙に現実の世間を皮肉っているように僕は思える。この演劇、初演は1996年4月だが、1997年11月にも公演、なんと驚くのは昨年1月「座・高円寺1」の公演、大地震があった昨年3月に「ラッパ屋第37回公演」、今年も2月に劇団ひまわりで「アトリエ新人公演」と、今回の3月に「ラッパ屋 鈴木聡の世界に喜劇映画の名手・瀬川昌治が挑む!」と、何回も公演が打たれていることだ。
・瀬川さんは、「お客さんには人間の機微に注目して観てもらいたいですね。話も二転三転、おもしろく展開していくので、観ていて飽きない作りになっています。セリフも非常におもしろい。塾生は完ぺきではないかもしれないけれど、おもしろく感じてもらえるはずです」と自信の演出と胸を張る。われわれ清流出版社員一行も、大いに楽しんだ。やはり演劇はこうでなくちゃ。
2012.02.21ピアニストのフジ子・ヘミングがベストセラー!
弊社で今まで一番売れている本がこれ!
・これまで弊社で刊行した単行本はざっと500点。そのうち一番売れて、今でも注文が途絶えることがないのが、人気ピアニストが書いた『フジ子・ヘミングの「魂のことば」』(2002年、定価1260円)である。今まで32刷を重ねてきた。僕はフジ子・ヘミングのコンサートを仕事がらみ、あるいは個人的にと、何回か聴きに行ったことがある。招待されていったあるホテルでのパーティでのこと、ゲストで彼女が登場した。「ラ・カンパネラ」を含む三曲を演奏して、大きな拍手を受けたのち、彼女が舞台袖の階段を降りてきた。驚いたことには彼女がまっすぐに僕のもとに歩いてきて、分厚く柔らかい手で握手してくれた。まあ偶然、大勢の観客の中から車椅子に乗っている身障者の僕に目を付けて足を運んでくれたのが真相だろうが、今をときめくピアニストだっただけに大いに感激したものだ。
・華道家の假屋崎省吾さんは、クラシック音楽をバックに流しながら花を活けるというクラシック好き。フジ子・ヘミングのファンでもある。その假屋崎さんには月刊『清流』に「暮らしに根ざした生け花」を連載、それをまとめて『假屋崎省吾の暮らしの花空間』と題する本を弊社から出させていただいた。それをきっかけに、毎年、目黒雅叙園で行われる「假屋崎省吾のブライダル・ファッションショー」にご招待をいただき、楽しみに出席してきた。ある年、假屋崎さんはこのファッションショーのゲストにフジ子・ヘミングを呼んだことがあった。ピアノ曲を数曲演奏したが、弊社の編集担当だった秋篠貴子、出版部長の臼井君と僕はこの演奏を大いに楽しんだ。そういうわけで、フジ子・ヘミングには格別の親近感をもっている。
・この本は、フジ子・ヘミングをよく知る外部スタッフの宣田陽一郎さんを仲介者として、編集協力の水野恵美子さん、出版部長の臼井君らが担当となって取り組んだ本であった。そもそも宣田さんは『猫びより』という愛猫家向けの雑誌の編集長をしていたとき、猫好きのフジ子・ヘミングを取材し、心が通じ合ったのである。幸いなことに臼井君も大の猫好きとあってスムーズに編集作業は進んだ。カバー装画も、文中の猫のイラストもフジ子・ヘミングが描いたもの。絵も各地のデパートで個展を開くほどの腕前である。新書判上製なので小さ目でもちやすく、お洒落な本に仕上がった。その後も僕は何回かフジ子・ヘミングのコンサートに出かけ、たまたま会場にいた実弟の大月ウルフさんに名刺を渡し、わが社の本の販促をお願いしたこともある。父君がスウェーデン人のフジ子・ヘミング姉弟。バイキングの末裔を自称するウルフさん。彼のドラ声で、清流出版の社名が津々浦々まで伝わっていくことを祈ったものである。
・今、改めて弊社刊行の本をジャンル毎に分析すると、音楽、映画、絵画、文芸エッセイなどが上位に並ぶ。このような結果が出ることに、僕は予想通りと安心すると同時に、いささか心配もしている。弊社の音楽、映画、絵画……等の芸術領域のジャンルは、正直言って売れても弊社の主流路線とはなりえず、編集者と僕の趣味の範疇と思って刊行してきたきらいがある。今後は、趣味的なジャンルではなく、稼ぎ手のジャンルとするために真剣に企画を練った方がよいだろう。
・この機会に音楽ジャンルの話を少ししておきたい。音楽と言ってもクラシック、ジャズを始め、フォーク、ゴスペル、ラテン、ニューエイジ、ワールド、カントリー、ポップ、ブルース、ロック、リズム&ブルース……等、ジャンルは幅広く、またクラシックに限っても、オペラ、歌曲、ミサ、カンタータ、交響曲、協奏曲、室内楽、ピアノ曲……と様々で裾野はとてつもなく広い。気に入ったジャンルについて今後はこのプログで随時触れていきたい。
・僕は右半身が不自由なためコンサートへは滅多に行けない分、アイポッドを使って、毎日4時間以上、音楽を聴いている。趣味に関しては音楽に割く時間が一番多い。二つのアイポッドに収録されている音楽は、優に3万曲を超えている。毎日寝ないで40曲ずつ聴いたとしても、計算上きちんと聴くには、優に2年以上はかかる。就寝時は、何の曲を聴きながら寝ようかと嬉しい悩みである。小さな音もクリアな音で聴けるボーズ(BOSE)スピーカーやシュアー(SHURE)のイアーフォンを愛好して、すっかりステレオ装置を使わなくなった。かつて楽しんだタンノイ、マッキントッシュなどのステレオ装置は存在すら忘れている。
・クラシックの専門家でない僕は、一ファンの備忘録として書いておこうと思う。ウィキペディアや音楽の資料本を使い必要な情報を集めたい。これまでレコード、レーザーディスク、MD、CD、パソコン、アイポッドなどによって音楽を楽しんできた。クラシックは中学生の頃から好きだった。やがて高校生になって、池袋東口にあった音楽喫茶「白鳥」へ親友の長島秀吉君と日参するようになる。「白鳥」に学校から直行し、毎日夜9時くらいまで教科書を忘れて、各種の芸術?本と英独仏の辞書持参で、クラシックを聴きながら青春の時を過ごした。語学に興味をもったのには理由がある。高校の先輩、西江雅之さんの存在である。当時、伝説になっていた語学の天才、ポリグロットぶりの西江雅之さんに、少しでも近づきたい気持ちがあったからだ。西江さんと僕は同じ町内、家もわずか100メートルくらいしか離れていなかった。「西江伝説」はご近所の噂話として聞こえてきていた。それにしても、われわれ付属校生は大半がエスカレーター式に志望学部に進める特権があった。受験勉強をする必要はなく、高校の3年間はいわば至福の時期であった。
・さて、このブログはまず手始めに19世紀生れの天才、ラフマニノフを取り上げてみたい。セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ、1873年生まれ、1943年没のロシア人のピアニストである。身長が2メートルに達する巨漢であり、必然的に巨大な手の持ち主だった。12度の音程を左手で押さえることができたと言われている。
・セルゲイ・ラフマニノフは10歳くらいの頃、両親が離婚、ロシアのピアニストで音楽教師であったズヴェーレフに引き取られる。名伯楽として名高く厳格な名教授ズヴェーレフ師は、ラフマニノフの才能をひと目で見抜いた。毎日のように精魂込めて彼を指導した。ピアノ演奏の基礎を叩き込んだ厳格な師は、弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味をもつことを禁じた。しかし数年後、ピアニストとしての精進を求めるズヴェーレフ師と、作曲の喜びに目覚めたラフマニノフは決裂してしまう(師が同性愛者だったことに抵抗してという説もある)。
・ラフマニノフ以前、約60年前、同じピアニストの天才、ハンガリー生れのフランツ・リスト(1811年-1886年)にもちょっと触れておきたい。彼は超絶的な技巧をもつ最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれた。あのズヴェーレフ師もリストを優れたピアニストだと認めていた。だが、リストの「作曲」については、師は一言でことごとく「凡庸だ!」という評価をくだした。現代ではだれが何と言おうと、リストは偉大な作曲家という評価が定着している。作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフは、やがてズヴェーレフ師と対立し、邸を出ることになる。
・1891年に18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を金メダルの賞を得て卒業した。金メダルは通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛びぬけて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席(大金=ラフマニノフ)、次席(小金=スクリャービン)として分け合った。
・だが、ラフマニノフは鬱傾向と自信喪失に陥り、創作不能の状態となる。1899年にロンドン・フィルハーモニック協会の招きでイギリスに渡ったラフマニノフは、ここでピアノ協奏曲の作曲依頼を受け創作を開始するが、再び強度の精神衰弱におそわれる。1900年に友人のすすめでニコライ・ダーリ博士の催眠療法を受け始めると快方に向かい、同年夏には第2、第3楽章をほぼ完成させた。最大の難関だった第1楽章も同年12月頃に書き始め、1901年春には全曲を完成させた。初演は大成功に終わり、その後も広く演奏されて圧倒的な人気を博した。本作品の成功は、ラフマニノフがそれまでの数年間にわたるうつ病とスランプを抜け出す糸口となった。作品は、ラフマニノフの自信回復のためにあらゆる手を尽くしたニコライ・ダーリ博士に献呈された
・ラフマニノフはその頃、アンナという年上の女性に恋していた。溢れる思いは壮麗な旋律となり、やがて初めての交響曲が生まれる。だが、「交響曲第1番」の初演は失敗に終わり、ラフマニノフは恋と名声を一夜で失う。アンナに捧げ尽くした傷心のラフマニノフに、救いの手を差しのべたのは従妹のナターリヤ・サーチナであった。その前にも、彼がピアノ教師を務める高校の生徒、マリアンナと恋に落ちている。彼女の魂と肉体の輝きは、ラフマニノフに旋律を生み出す力を与えた。「ピアノ協奏曲第2番」を書き上げたラフマニノフは、苦しい時に見守ってくれたナターリヤ・サーチナの愛に気付いてプロポーズする。数年後、ロシア革命から逃れようとした時、皮肉にもロシア革命の闘士となったマリアンナの出国証明を受け、脱出に成功する。1902年には従妹のナターリヤ・サーチナと結婚。彼女は生涯の妻として存在する。1917年12月、ラフマニノフは十月革命が成就しボリシュヴィキが政権を掌握したロシアを家族とともに後にし、スカンディナヴィア諸国への演奏旅行に出かけた。そのまま二度とロシアの地を踏むことはなかった。
・ロシア革命の難を逃れてアメリカへ亡命した結果、ラフマニノフに幸運の女神がほほ笑むことになる。コンサート主催者のピアノを宣伝するためピアノ製作者スタインウェイの後押しでアメリカ全土を公演して回り、成功裡に公演旅行を終える。今でこそ押しも押されもせぬスタインウェイ&サンズも、当初は知名度も低く、大変な営業努力を要したようだ。最初の演奏会は、ニューヨークのカーネギー・ホールだった。その時、観客席にソ連大使一行がいるのを見つけたラフマニノフは、彼らのためには断固として演奏しないと宣言し、演奏を拒否する。その硬骨漢ぶりに、ホールの聴衆はやんやの喝采を送った。ほうほうの体でソ連大使一行が退出するのを見届け、やっと演奏を開始したという。
・ラフマニノフの生涯は、輝かしいものだった。数々の女性にもて(失恋もある)、財産もできた。念願の作曲も支持されたのだから。いずれにせよ、ラフマニノフはチャイコフスキーの薫陶を受け、モスクワ楽派(音楽院派、西欧楽派などとも呼ばれる)の流れを汲むと言われた。そして、リムスキー=コルサコフの影響や民族音楽の語法をも採り入れて、独自の作風を築いた。今日、ラフマニノフはロシアのロマン派音楽を代表する作曲家の一人に数えられる。やはり米欧でピアノ・ヴィルトゥオーソとして定着している。作曲は、わけてもピアノ曲を中心とした様々な分野の作品を残している。
・時代が移り、ナチス・ドイツが台頭してくると、当時、別荘を建て、ヨーロッパ生活の拠点としていたスイスに滞在することもできなくなった。最後の作品となる交響的舞曲を作曲したのは、アメリカのロングアイランドでのことだった。1942年には、家族とともにカリフォルニア州のビバリーヒルズに移り住むことになる。
・ここでラフマニノフの生涯と、その人生を変えた3人の女性を描いた映画をご紹介しよう。ロシアの「ラフマニノフ ある愛の調べ」(2007年製作)がそれだ。監督は「タクシー・ブルース」のパーヴェル・ルンギン。出演者はエフゲニー・ツィガノフ(ラフマニノフ)、ヴィクトリア・トルストガノヴァ(ナターリヤ・サーチナ)、アレクセイ・ペトレンコ(スタインウェイ)など。ロシアの映画をあなどるなかれ、これがなかなかにいい。この映画の最後では、ラフマニノフが、新曲が生まれない苦しみから、日に日に憔悴していく姿が描かれている。それでも演奏旅行は続けなければいけない。そんなある日、ライラックの花束が届く。その甘い香りはラフマニノフに切ない記憶を甦らせた……。生涯を変えた3人の女性の思い出がちらちらと観ている僕に訴えてくる。巧みな手法である。実際は、演奏の旅を続けるラフマニノフの帰りを待っている妻ナターリヤ・サーチナが、オランダから取り寄せた黄色いライラックだった。雨が降ってきた庭にライラックを植えて、旅から帰ったラフマニノフと妻、そして愛娘が抱き合う。かつてピアノ独奏曲にも編曲した歌曲「ライラック」作品21-5(1941年)が決定的な場面で使われる。
・現実のラフマニノフは左手小指の関節痛に悩まされながらも、演奏活動を亡くなる直前まで続けた。だが、1943年、70歳の誕生日を目前にして癌のためビバリーヒルズの自宅で死去した。ラフマニノフ自身はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されることを望んでいたが、戦争中のことでもあり実現できず、ニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地に埋葬された。
・駆け足でラフマニノフの生涯を見てきたが、ラフマニノフはピアノ演奏史上有数のヴィルトゥオーソであり、作曲とピアノ演奏の両面で大きな成功を収めた音楽家としてフランツ・リストと並び称される存在である。あの「のだめカンタービレ」でもラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ハ短調、作品18、第1楽章が、がピアノ奏者としてシュトレーゼマン(竹中直人)と共演した曲として登場する。いろいろの場面で、今後ますますラフマニノフファンが増えることを期待する。
・僕はピアノ演奏ができないのだが、昨年12月某日、母の95歳の誕生を祝って、入居している老人ホームに出かけた折、僕の弟と甥が交互にピアノ演奏で母を励ましてくれた。二人とも公務員で、時間的に余裕があり、うらやましい境遇にある。そのピアノ演奏が約1時間30分続いた。ハイライトは難曲と言われるラフマニノフの『ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調』を甥が暗譜で弾いた。
ロシアのピアニスト兼作曲家兼指揮者、ラフマニノフ。「ピアノの魔術師」リストの再来といわれた。
2012.01.19「メディア王とマスコミ王」を企画し、出版した話
二人のメディア王が、時代を動かした……
・今から約半世紀前になろうか、1冊の本を読んで驚いた記憶がある。ダニエル・J・ブーアスティン著『幻影の時代』(後藤和彦・星野郁美訳、東京創元社刊、1964年)が、その本だ。英文の原題は『The Image』(『ジ・イメージ』)。それが邦題では『幻影の時代』となったのが僕にとっては新鮮な驚きだった。「ジ・イメージ」では写真やデザインのジャンルの本のように思えるが、「幻影の時代」という邦題は的を射た書名だ。サブタイトルも、原題は「orWhat Happened to the American Dream」で、直訳すれば「または、アメリカン・ドリームに何が起こったのか」だが、邦題は「マスコミが製造する事実」であった。この邦題を見ればマスコミ界の欺瞞を鋭く指摘した社会思想の本ではないかとすぐ分かる。
・ブーアスティン曰く、「われわれは、幻影にあまりに慣れきってしまったので、それを現実だと思い込んでいる」、「われわれは、現実ではなく、現実の代わりに置き替えたイメージに取りつかれている」など刺激的なフレーズが並ぶ。それにしても、半世紀も前に現在の状況を見事に見抜いた慧眼ぶりには驚くしかない。ブーアスティンが「成功した政治家とは、疑似イベントを作り出す新聞やその他の手段を巧みに利用する人を意味する」、「現代のニュースがそこかしこで起きた事実を報道するのではなく、人々の興味に添った形で製造されている」と喝破していた。半世紀前も、世は三権分立ではなく、四権分立といわれる頂点に報道(マスコミ)がデンと鎮座ましまして、その「報道」を征する者、「メディア」の覇権をとった者が世を動かすことを追究していた。
・ダニエル・J・ブーアスティンが説いている社会思想のジャンルではないが、僕は24年後、類似のテーマで文字通り体現した男が2名いて、それぞれの半生記を編集している。清流出版の前の出版社の時、英国のメディア王、マスコミ王について、僕は2冊の翻訳企画を刊行した。1冊は『マックスウェル――情報覇権に賭ける奇蹟の人生』(ジョー・ヘインズ著、田中至訳、ダイヤモンド社刊、1988年)。もう1冊は『マードック――世界制覇をめざすマスコミ王』(ジェローム・トッチリー著、仙名紀訳、ダイヤモンド社、1990年)である。ビッグ・スケールの実業物語がものを言って、2冊とも期待以上に売れた。
・いま世界的に政治とマスコミの絡みがしばしば話題となっている。そして、今日、再び世がこうしたメディア王、マスコミ王に注目しつつあるので、翻訳テーマである主に英国やアメリカの情報覇権について触れておきたい。今回の話題の主は、オーストラリアはメルボルン出身のメディア王マードックである。僕が翻訳出版した頃、ルパート・マードック(当時は59歳だったが、現在81歳)は、マスコミ界の帝王として、新聞、雑誌、書籍、放送、通信衛星によるCATV、さらに航空会社、映画会社、ホテル、農場まで幅広く手を広げていた。支配地域もオーストラリアから、アメリカ、英国、ヨーロッパ大陸に及び、アジアもターゲットになりつつある段階だった。マードック帝国の資産は、当時すでに二兆円と言われていた。日本のメディア総体の年間売上高が約二兆円と言われた時代にである。
・翻訳刊行後もマードック帝国は買収による拡大が続いた。固有名詞を出せば、みなさんもよくご存じの英国の名門紙タイムズやアメリカの映画会社20世紀フォックスの買収から、アメリカでのテレビ・ネットワークFOXやニューズ・コーポレーションを設立、2005年には当時世界最大のSNS/MySpaceを買収、その影響力をネット世界にまで拡大させている。そして、メディア王マードックの強引な手法がしばしば報道され、問題視されることになった。
・英国のメディア産業も支配してきたマードックだが、歴代の英国首相も彼を恐れるあまり、気を遣い盛大にもてなしてきた。マードック・ウォッチャーの僕にとって、昨2011年はマードック関連のニュースが盛り沢山だった。それもマードック帝国にとって芳しくない出来事が続いてである。その最たるものが、傘下にあった英国タブロイド紙「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」の盗聴事件だった。2002年、英国で行方不明になった少女(13歳のミリー・ダウラーさん)の携帯電話の伝言を消し、家族に生存の希望を抱かせていた事実が発覚した。結局、少女は後に遺体で発見されたが、マードック率いる米「ニューズ・コーポレーション社」の株価は暴落。ロンドン警視庁や政界との癒着も浮き彫りになった。盗聴は、ウィリアム王子から一般市民にまで及んでいたそうだ。マードックは、ロンドンでダウラーさんの両親らに謝罪し、英各紙に「遺憾」で「許されない」との謝罪広告を掲載したが、遅きに失した。ついに2011年7月10日発行を最後に168年間続いた日曜版大衆紙「ニュース・オブ・ザ・ワールド」(週376万部)が廃刊の憂き目をみることになった。
・そして今、オーストラリア、英国、アメリカのメディアを支配してきたマードックの情報帝国が音を立てて崩壊しつつあるとの報道が次々出てきた。81歳になるマードックは、過去、結婚を3度している。70歳の時、当時30歳だった徐州生まれのウェンディ・デンと3度目の結婚、2女を儲けている。それ以前、離婚した2人の妻との間に男子3名がいる。この3名が後継の座を争い、次男のジェームズ・マードックが一応勝利した。彼は米ニューズ・コーポレーションで副最高執行責任者(COO)を務め、英紙「サン」「タイムズ」、それに「サンデー・タイムズ」を発行している英新聞発行事業会社の取締役を務めていた。だがなんと驚くべきことに、2011年9月、そのジェームズ・マードックがこれらの役職を辞任していたことが規制当局への報告書でわかった。このまま2代目のジェームズ・マードックが消えるとなると、マードック帝国は今後どうなっていくのか? メディア周辺の動きは現在も流動的で、ウォッチャーとして僕は興味津々で、その動向を見守っている。
・メディア王のもう一つの企画の話に移る。マードックの本を翻訳する前に、僕はイアン・ロバート・マックスウェルという人の翻訳書に携わった。今からザっと24年前、1988年まで遡る。当時、英国ではマックスウェルが情報化社会の覇権をめぐって大活躍していた。情報産業を主力に新聞、放送、雑誌・書籍、印刷からヘリコプター会社、語学教育、科学出版まで、世界各地に幅広く展開、急成長を遂げていた。マックスウェルは政治家でもあり、サッカー・チームのオーナーでもあった。
・その企画の話が出る約10年前、知り合いだったジャーナリストの田中至さんは、当時、マックスウェルの率いる「ミラー・グループ新聞社」東京特派員をしていた。その田中さんから、ジョセフ・トーマス・ヘインズという人が『マックスウェル』(マクドナルド社刊)という単行本を出した話を聞いた。早速、僕は版権交渉に入った。その時点で、英国出版界でもマックスウェルが売れ線だとにらんだのだろう、アラウム社とバンタム社で同じく『マックスウェル』を題材に緊急刊行が決まっていた。いち早く翻訳出版しようとした僕の動きは、出版界(日本のみならず英国)でもびっくりするほどのスピードだったようだ。
・コロンビア大学大学院新聞学科卒で、英語が得意の田中至さんに翻訳を依頼したが、スピードアップを図るため翻訳家の吉田利子さんにもお手伝いをお願いした。田中さんの話だとヘインズは6ヵ月で本書を書き上げたとのこと。だったら翻訳を半分の3ヵ月でやろうと決意した。田中至さん、吉田利子さんを叱咤激励しながら、原書525ページのところを一部割愛し(それでも翻訳書に512ページを要した)、同じ年の9月に上梓することができた。お蔭で発売と同時に売れに売れ、1か月後には増刷となった。
・マックスウェルの生い立ちはドラマチックだった。ジェフリー・アーチャーの『ケインとアベル』の主人公さながらに、刻苦勉励と激動のビジネス人生を歩んで、一代で英国にマスコミ王国を築いていった。マックスウェルという男の魅力はいろいろある。英語、ドイツ語、チェコ語、ハンガリー語、フランス語、ロシア語、ポルトガル語、ブルガリア語、ルーマニア語、セルビア・クロアチア語等をマスターしている語学の天才という側面もその一つ。後に(1988年)、マックスウェル・コミュニケーションズが語学で有名なベルリッツを買収(経営権取得)したが、マックスウェルの語学に対する情熱を見ると頷ける。またマックスウェルは、見るからに巨漢である。声も大きい。その外見が相手を圧倒する。まさに「ブロック・バスター」であり、実に魅力ある人物だった。
・マックスウェルは1923年、現在ソ連領になっている中部ヨーロッパ屈指の寒村ルテニア地方で生まれた。両親ともにユダヤ人。9人兄弟の第3子だった。ここから9歳の時、チェコスロバキアのブラチスラバにあったユダヤ教の神学校に送られた。16歳の時、神学校を抜け出し、チェコの抵抗運動に加わる。その後、ユーゴスラビア、ブルガリア、ギリシア、トルコ、シリアを経由し、レバノンのベイルートに出て、フランス外人部隊指揮下のチェコ部隊に入る。この後、マルセイユ、ジブラルタル海峡を通って英国に渡る。敵を恐れぬ猛烈果敢な行動で、英国軍最高の栄誉とされる「戦功章」を授与された。
・話は紆余曲折するが、現在メディア王と言えば、オーストラリア出身のルパート・マードックであるが、1970から90年まで20年以上に渡り、世界のメディア王と言えばマックスウェルであった。僕が刊行した翻訳書には書かれていないが、なんと最終的にマックスウェルは1991年に「怪死」している。そのニュースを聞いて、僕は茫然自失した。
・マックスウェルは、新聞『デイリー・ミラー』の経営から、ヨーロッパのどの地域でもどの言語でも読める雑誌『ザ・ヨーロピアン』の発行、世界最大の翻訳出版社「シュプリンガー・フェアラーク社」の経営まで、文字通りメディア王として世界に君臨した。そしてヨーロッパの統一、EUをメディア面で先取りしていた。そのメディア王マックスウェルの死には、不可解な部分が多々あった。自分のクルーザーから「転落して溺死」したことになっていたが、クルーザーの手すりを越えて「滑って海中に転落する」というのは、通常あり得ないと英国の新聞なども報道した。
・マックスウェルは、自身、活躍した英国よりイスラエルで国葬された。イスラエル国家のために「大きく貢献した」という理由だった。ルーマニア出身のマックスウェルは、かつて共産主義思想を信奉していたフシがあり、共産主義ルーマニア国家の大統領チャウシェスク、ソ連のフルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフと言った歴代首脳とも親交があった。マクスウェルの死後、彼のビジネス上の問題の多いやり方や活動などが暴露されるところとなった。彼は何億ポンドもの自社の年金基金を、グループ内の借入金返済や狂ったような企業買収、自らの豪華な生活のために使っていた。こうした行為のためグループの従業員らは年金をほぼ失っている……全部、派手な生活を送った彼の死後、明らかになったことである。大金持ちと言われたが、その実、破綻状態に陥っていたことが分かった。
・だがマックスウェルは、ジェフリー・アーチャーの『ケインとアベル』の主人公のように、劇的な人生を送った男である。僕はマックスウェルとマードックを絡め二人のメディア覇権、マスコミ王争奪戦をわが手で単行本にしたいと真剣に思った。作者はもちろんジェフリー・アーチャーに頼みたいと思った。だが、ジェフリー・アーチャーの作品は、『百万ドルをとり返せ!』(1977年)の処女作以来、ことごとく永井淳訳で新潮文庫刊だった。僕は1990年にこの企画を思いついたが、永井淳さんは角川書店編集者を経て、超売れっ子の翻訳家となっていた。アーサー・ヘイリー、スティーヴン・キング、ジェフリー・アーチャーなどのビッグ・タイトルを独占的に抱えてもいた。永井さんに何回も接触を図ったが断られた。そのうち僕が会社を辞めることになり(1991年)、最終的に清流出版という出版社を立ち上げたのでその野望に終止符を打った。
・そしてなんと、ジェフリー・アーチャーが『メディア買収の野望』という題名で、僕の狙い通りのストーリーを発表した。僕が企画を立てた1990年から、6年が経っていた。すぐ永井淳訳の新潮文庫を買って読んだ。僕はすべてを納得し、自分が創刊したばかりの女性誌の製作に邁進した。月刊『清流』創刊2年目のことである。
2011.12.09福田恆存生誕百年記念公演を観る
演出家・福田逸(はやる)さん(右)と車椅子に乗った僕。福田逸さんは、福田恆存氏の次男で演出家・翻訳家、明治大学商学部教授、財団法人「現代演劇協会」理事長でもある。勝呂伸子さん(福田恆存氏の実妹)からのご案内で、一夜、僕は福田恆存のお芝居を観て大いに楽しんだ。
・今年9月の本欄に昨年お亡くなりになった勝呂忠さん(画家にして、舞台美術家、装幀家、大学教授)のことを書いた。勝呂さんの奥様の伸子さんが、僕が把握していなかった「福田恆存生誕百年記念公演」の開催日時を知らせてくださった。かつて日本の有名なイデオローグであり、評論家、翻訳家、劇作家として活躍した福田恆存氏の芝居を観る絶好のチャンスである。弊社の藤木健太郎君と臼井雅観君を誘って出かけた。
・東京都豊島区南池袋にあるシアターグリーンでの「福田恆存生誕百年記念公演」は、『一族再會』と『堅壘奪取』の二本立て。マチネーとソワレーの2部構成だったが、われわれ3人のスケジュールからしてソワレーしか観られない。そんなわけで、金曜日の午後7時からの、『堅壘奪取』(初演は昭和25年 文学座アトリエ)を観た。演出は福田逸さんである。父君の作品を演出したのは初めてだという。勝呂伸子さんとの関係は、叔母と甥の関係になる。
・ここで簡単に、福田逸さんの略歴を紹介しておきたい。1948年、神奈川県生まれ。1973年、上智大学大学院文学研究科英文学専攻修士課程修了。父君・福田恆存の演劇活動を受け継いで、シェイクスピア劇を中心とした演出家となる。ウィキペディアに拠れば、福田恆存氏等が結成した「劇団雲」を経て、その流れを汲む「劇団昴」で『ジュリアス・シーザー』、『マクベス』、『リチャード三世』、『ハムレット』などシェイクスピア作品、その他に、『ウィンズロー・ボーイ』、『谷間の歌』、『マレーネ』などの演出を手掛け、さらに、『西郷隆盛』、『武田信玄』、『お国と五平』、『道元の月』など新作歌舞伎も手掛けるという異才ぶり。
・『堅壘奪取』(けんるいだっしゅ)という劇の登場人物は三名。高名な宗教家であり、社会評論家であり、第一線のジャーナリストでもある主人(金子由之)の自宅に、ある日、一人の青年(奥田隆仁)が訪ねてくる。気が触れているのか、はたまたどこまでが正気なのか、とにかくその青年は風呂敷包みに千枚にもなんなんとする自作の原稿を前に、奇怪な持論・珍論をまくしたてる。主人の困惑をよそに、一向に帰る気配を見せない。困り切った主人は、なんとか帰ってもらいたいと負けず劣らず迷論を開陳。ついには、我を忘れて青年との意味不明の激論に没入していく。「音と光のエネルギーの決着をつけろ」という迷台詞も飛び出す有様。茶を入れ替えるため応接に入ってきた奥さん(茂在眞由美)は、意味不明の掛け合いに戸惑いを隠せない……というストーリーである。
・初演後61年経った戯曲だが、古さをまったく感じない。驚くべきことだが、現代の世相と相通じる芝居である。福田恆存氏は1980年10月、劇団昴公演パンフレットで自作『堅壘奪取』について「あなたはだまされていませんか……自分に?」という人間観が主題の一つであると解説された。演劇活動だけでなく、政治、社会、教育問題、全てについて人間の生き方、人生論に於いても通じる、大袈裟に言うと、ソクラテスの「汝自身を知れ」ということになるとも述べておられる。
・福田逸さんは父君・福田恆存の本質をきちんととらえている。よく福田作品で言われるような「自己欺瞞」ではなく、単に人は時として馬鹿をやってしまう、そんなおかしさを演劇エンターメントとして演出しようとしている。笑わせてなんぼ、楽しませてなんぼの世界を十分に味わわせてくれる。このお芝居を観て、パンフレットの「特集INTERVIEW」にある「僕にあるのは冗談が好きな、ひょうきんな父親像。そんな父が自分の実体験を茶化した作品だから、とにかく面白く、おかしい舞台にしたい」との演出意図は達成されていたように思う。
・この「福田恆存生誕百年記念公演」パンフレットに、評論家・エッセイストの坪内祐三さんが寄稿されている。「三百人劇場の稽古場で私が見たもの」と題して、福田恆存氏とのお付き合いの経緯が書かれていた。そういえば坪内祐三さんは早稲田大学文学部を卒業されたが、卒業論文は「福田恆存論」だったそうだ。坪内さんは福田恆存氏に1979(昭和54)年、個人的な面識を得たとのこと。その後、お付き合いを経て卒論を書き始める。ちなみに坪内祐三さんの父親は、僕がかつて勤めていたダイヤモンド社の元社長、会長の坪内嘉雄さんだ。坪内祐三さんの卒論の指導教授は松原正教授である。当時、松原先生は、福田恆存氏の一番弟子を自負されておられた。そして、僕は松原先生の単行本を前の出版社で一冊出させてもらった。書名は『道義不在の時代』(昭和56年 ダイヤモンド社刊)である。
・松原正先生はその「あとがき」に――「敬愛する京都大學教授勝田吉太郎氏の好意、及びダイヤモンド社の加登屋陽一氏の盡力無しに本書の上梓はありえなかつた。兩氏に深く御禮を申し述べる。本書が歴史的假名づかひのまま世に出る事を私は大層喜んでゐるが、それは加登屋氏の識見に負ふところ大なのである。また、私は龍野忠久氏の校正の見事に感服した。加登屋、龍野兩氏の助力が報いられるやう、すなはち本書の出版によつてダイヤモンド社が大損せぬやう、私は祈らずにゐられない。」――と、書いてくれた。
僕はすっかり忘れていたが、坪内祐三さん(常盤新平さんによると天才・坪内祐三氏)のお陰で、松原先生の「あとがき」で、龍野忠久さんに歴史的假名づかひの校正をしてもらったことを思い出した。かつてその龍野さんから紹介されて勝呂忠さんの知遇を得た。その奥様・伸子さんが甥っ子の福田逸さんを紹介してくれた。その前に、龍野忠久さん夫妻を仲人として結婚した僕の親友・長島秀吉君が存在する。長島君亡き後、奥さんの長島玲子さんが勝呂伸子さんと僕とのパイプ役を務めてくれた。こうして人と人は知り合い、輪は広がってゆく。僕にとってこうした人間関係の連環は、なんとも不可思議で面白いものだと感じ入っている。
2011.12.08「清水邦夫の劇世界を探る」を観る
劇作家・清水邦夫さん(右)は、素晴らしい人物で、作品も極めてユニークだ。うれしいことに清水さんと僕は、ある所で毎週、親しくお付き合いする仲である。
・「福田恆存生誕百年記念公演」のお芝居を観た翌週、今度は、現代劇の異才・清水邦夫さんの劇を観るチャンスが訪れた。今年は清水さんの作品が頻繁に上演された。『血の婚礼』、『あなた自身のためのレッスン』、『署名人』等がそうだが、僕は最後にあげた『署名人』を観た。その約一ヵ月前、新聞に多摩美術大学と世田谷文学館の共同研究で『清水邦夫の劇世界を探る』を講演するという告知がなされた。僕はすぐに応募して、抽選の結果運よく当たった。
・その共同研究の幹事役・庄山晃さん(多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科准教授)がパンフレットにこの経緯を書いている。「そもそも共同研究を立ち上げる発端は、演出家の蜷川幸雄氏が昨年、文化勲章を受章された慶事にちなむ。蜷川氏が演出家として衝撃的なデビューを果たしたのは、群衆が長い行列を舞台に連ねている清水邦夫作の戯曲『真情あふるる軽薄さ』であった。それ以後、二人はコンビで車の両輪の如くエネルギッシュに数々の話題作を世に問うてきた。(略)清水邦夫氏は平成6年から平成19年に定年退職されるまで本学の教授を勤められ、在職中には『イエスタデー』、『草の駅』、『破れた魂に侵入』の3篇を卒業公演に書き下ろして下さった。」と語る。
・ここでちょっと脱線する。最近号(2012年1月号)の月刊『清流』だが、「著者に聞く」欄で『蜷川ファミリー』(朝日新聞出版刊)について、ライターの浅野祐子さんが著者・蜷川宏子さんに会って、インタビューしてくれた。この記事で、宏子さんが「私はこれまで『演出家の蜷川幸雄さんの奥様ですか』と声をかけられることが多かったのですが、近頃は若い人から『写真家の蜷川実花ちゃんのお母さんですか』と言われることのほうが増えました……」。そのあとにも面白い文章が続く。この記事を詳しく読みたいという方は、ぜひ月刊『清流』(定価700円)を買って読んでください。
・共同研究の『清水邦夫の劇世界を探る』の第1部は、『署名人』の劇である。これは、清水さんが21歳(1958年)のときの作品だ。早稲田大学三年生の時、夏に実家(新潟県新井市)に帰省した。家の2階で、生水をガブ飲みしながら、腹這いになって書き上げたと伝えられる衝撃的な処女作である。清水さんは幼少から絵画が大好きで最初、文学部美術科に入った。だが、早稲田大学在学中、長兄が学生劇団を主宰していたこともあり、その影響を受け、文学部演劇科に転科した。その転科に際し書いたのが『署名人』である。この作品は雑誌『早稲田演劇』、『テアトロ』と次々に掲載され、倉橋健氏、安部公房氏らの知遇を得る切っ掛けとなった。
・署名人とは、今日、一般的には分からない概念である。新聞雑誌の署名を、大金を受け取って肩代わりし、讒謗律(ざんぼうりつ)に引っかかった場合、監獄に入るのが仕事である。当時、憂国の志士たちは新聞雑誌に政府批判の論文を書いたとしても、発表など一切許されなかった。そこで、論文執筆者の身代わりとなっての入獄を稼業とする便利屋、つまり署名人という下賤なやからが出てくる。讒謗律とは明治8(1875)年、新聞紙条例と共に明治政府によって公布された言論規制法令のこと。著作類により人を讒謗する者を罰する、つまり名誉毀損に対する処罰を定めた法律である。その狙いは自由民権運動などの政府批判の抑圧であった。清水さんは明治時代の歴史を勉強され、その存在をストーリーにしようと、一気に書き上げた。
『署名人』の舞台は明治17年代の国事犯官房の一室。理想の立憲政体を実現しようと自由民権運動に身を捧げた憂国の志士、赤井某(酒向芳)と松田某(平野正人)が舞台に登場する。彼らの権力者暗殺計画は事前に露見し、国事犯として収監されていた。そこに署名人・井崎某(大島宇三郎)が入牢してきたとこらから3人の間に波紋が広がってゆく。やがて命を懸けた激しい葛藤が生まれる。この3人と、典獄(監獄の事務を司る職)の獄吏(囚人を取り扱う役人)2名(田山仁、増田雄)計5名が全登場人物だ。そして、獄吏の猫が木に登って降りられないという事件が起き、それにからんで、2人の脱獄の目的が明らかになってゆく……。
・この劇における個々の人物設定、対立する人間関係、舞台設定、事件の発生と結果、登場人物の心理描写などが見事で、重厚感さえ漂っている。実によくできた芝居であり、これが大学3年生、21歳での処女作とは本当に驚いた。
・『署名人』を観劇した後、共同研究『清水邦夫の劇世界を探る』の記念公演第1弾として、演劇研究者・井上理恵さんの『署名人から始まる清水戯曲の魅力について』を聴かせてもらった。この講演がなかなかよかった。井上さんは、『久保栄の世界』、『近代演劇の扉をあける』、『菊田一夫の仕事』(いずれも社会評論社刊)など精力的に執筆活動をするほか、桐朋短大、白百合女子大などで教壇にも立つ。演劇学会副会長の要職にもある方だ。
・その井上さんの講演を聴いて、「清水戯曲の魅力」がよく分かった。僕はメモを取れないので、覚え間違いもあるかと思うが要点をまとめておきたい。清水作品はまず「タイトル」が斬新。今までの戯曲とは全然違うことに注目したいという。僕も以前からタイトルにインパクトの強さを感じていた。例えば『狂人なおもて往生をとぐ』(1969年)、『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』(1971年)、『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』(1975年)、『わが魂は輝く水なり』(1980年)、『昨日はもっと美しかった』(1982年)、『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』(1982年)、『救いの猫ロリータはいま……』(1985年)、『オフィーリア幻想』(1998年)、『ライフ・ライン(破れた魂に侵入)』(2000年)、『真情あふるる軽薄さ2001』(2001年)……。どのタイトルをとっても、実にユニーク。
・井上理恵さんの講演は1時間ほどだったが、いくつかの解説が耳に残る。例えば、清水邦夫さんが、長兄からシェイクスピアとチェーホフの作品を読めと言われ、この2人から劇作術を学んでいる。また、清水作品の底流には『アリストテレス・詩学』が存在している。そして、『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』(1975年)までが活躍の場は新宿であったが、労演(勤労者演劇協議会)が衰退していくと同時に脱新宿路線を歩まざるを得なかった。世は寺山修司や唐十郎人気に沸いていた。路線変更には塗炭の苦しみを味わった。しかし、結果的に独自路線を切り拓くことになり努力は報われたのである。特に印象深いのは、「殺(ころ)す=将門」のテーマがギリシャ悲劇を意識したということ。僕はこの解説を聴いて、全然違うことを考えていた。ギリシャ悲劇の重要な役目の「コロス」のことだ。能のワキ的な観客の代表としてコロスが存在する……等、井上さんの話に触発され、次々連想が閃いた。
・清水邦夫さんは、大学を出てすぐ岩波映画社に入社。同期だった田原総一朗(2歳年上)さんと知り合う。その結果、二人は共同監督で『愛よよみがえれ』(1967年)という映画を製作した。今、その時のシナリオ『愛よよみがえれ』(栄光社刊)がなんと29800円以上の高値がついている。僕も読みたいのはやまやまだが、この値段では手も出ない。
今週号(2011.12.15)の『週刊文春』に、興味ある記事が出ている。田原総一朗さんのコラム「Close Up」で、1971年に監督した唯一の劇場映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』が、製作から40年の時を経て初のDVD化がなった。その作品は清水邦夫と共同で脚本・監督したATG作品だという。『週刊文春』には、「幻の監督映画が初DVD化」のタイトルがあった。その作品の4年前(1967年)に製作された『愛はよみがえれ』を僕は観たい。これこそ幻の映画であり脚本であろう。
・それはそれとして、清水邦夫さんは、過去、多くの演劇・文学の賞をお取りになった。主だった賞だけを挙げる。「岸田國士戯曲賞」(1974年)、「紀伊國屋演劇賞個人賞」(1976年)、「芸術選奨文部大臣新人賞」(1980年)、「泉鏡花文学賞」(1980年 『わが魂は輝く水なり』)、「読売文学賞」(1983年)、「テアトロ演劇賞」(1990年)、「芸術選奨文部大臣賞<演劇部門>」(1990年)、「芸術選奨文部大臣賞<文学部門>」(1993年)……それから、2002年には「紫綬褒章」を受章。芥川賞候補にも三度ノミネートされている。
こういう素晴らしい方と親しく付き合って、例えば世田谷美術館を訪ね、名画を観たり、美味しいフランス料理を食べて過ごすのが僕の至福の時である。
2011.11.11ガストン・レビュファとモンブラン
ガストン・レビュファ――伝説的な登山家、山岳の名ガイド。山岳文学を著し、「山の詩人」と呼ばれた。生涯1000回以上、モンブランを登ったフランス人。
・モンブラン――アルピニストが一度は挑戦したい山である。ヨーロッパ・アルプスの最高峰で、標高約4810m。モンブラン(「白い山」の意味)、フランス語ではMont Blanc(モン・ブラン) 、イタリア語ではMonte Bianco(モンテ・ビアンコ)。別に「白い貴婦人」を意味するLa Dame Blanche(ラ・ダーム・ブランシュ)というフランス語の異名もある。
53年前、大学のワンダーホーゲル部の練習(もっぱら自分と先輩の重いリュックも持たされてグラウンドを走る)が辛くて1年で部を辞めてしまった僕に、登山を語る資格はない。その代わりといってはなんだが、山岳写真を楽しむことにしている。
それにしても「モンブラン」の名称は、多くの品々で使われている。例えば美味しいケーキのモンブランを筆頭に、モンブラン万年筆、モンブランボールペン、モンブランオーガナイザーシステム手帳(丸善で5万円以上した)など、僕の生活エリアにモンブランの名を冠した物は多い。
・肝心の山岳のモンブランの話に戻そう。モンブランは、仏伊の国境に位置している。山頂が仏伊のどちらの国に属するかが、つねに論議の対象になっていると訊く。1957年から1965年にかけて、フランスのシャモニーとイタリアのクールマイユールの二つの町を結ぶ全長約12kmのモンブラン・トンネルの掘削が行なわれ、アルプス越えの主要ルートの一つとなった。僕の1969年から1970年のフランス滞在中、友人にモンブランを臨むシャモニーに誘われたことがあったが、残念ながら忙しくて断った。
だが、モンブランには少々思い出がある。僕は、今年11月7日、NHK–BSテレビの画面でモンブランにまつわる懐かしい人が出ているのを見た。記憶に残る今、書き留めておかなければと思った。今をさかのぼる45年前、僕が26歳の若造だった頃のことである。
・その人はフランス人のアルピニスト、ガストン・レビュファである。1921年マルセーユの生まれで、1985年にパリで逝去した。生涯1,000回以上、モンブランを登った伝説的な登山家で、山岳の名ガイドである。山岳文学を著し、「山の詩人」と謳われた。
NHK-BSテレビの伝えた番組は、そのガストン・レビュファの姿を、活き活きと映し出した。当時(1966年)のことがまざまざと思い起こされて、思わず涙が出そうになった。レビュファは、その日、東京港区の虎ノ門ホールで、「近代スポーツ アルピニズム」のテーマで講演をしたのである。数々の山々の写真、登攀技術、ピッケル、アイゼンなど登山用具類、自らの体験……を交え、満場の観客も真剣に聞き惚れる素晴らしい内容だった。
講演終了後、当方の取材を受けてもらった。僕が以前勤務していた出版社が請け負っていたJTBのPR誌『パスポート』の取材であった。当時、僕は別の編集部にいたが、しばしば友軍記者として『パスポート』の取材を頼まれていた。この話は、約300名の社員の中でもアルピニストとして有名な、田中義朗さん(通称デンさん)が、いち早く来日をキャッチし、『パスポート』編集部に伝えたことに端を発する。田中さんの所属は確か印刷事業部だった。当時、『パスポート』編集部にはアルバイトながら荒木弥栄子、天野和美という2人の有能な女性編集者がいて、編集活動をされていた。即断即決でいい企画を先取りして掲載していたが、レビュファのケースがまさにこれだった。
・早速、レビュファを取材するためのアポをとり、僕が記事を書く段取りになった。その際、通訳を引き受けてくれたのが、今井通子さんだった。今井さんは、当時、まだ23歳位で、東京女子医科大学泌尿器科(医学博士)を卒業し、翌年のマッターホルン登攀を目指していた。今井さんは美しい方で、しかもフランス語を流暢に話すアルピニストだった。その後、女性としては難しいと思われた、マッターホルン、アイガー、グランドジョラスの三大北壁登攀に成功してその名をとどろかすことになる。律儀な方で、45年経った今でも、僕のところに毎年、(株)ル・ベルソー(今井通子事務所)特製のカレンダーを届けてくれる。
『パスポート』編集部の企画として、他にも忘れられない企画がある。オーストリア出身の“黒い稲妻”の異名をとった天才スキーヤー、トニー・ザイラーの取材である。この取材で通訳をお願いしたのが鰐淵晴子さんだった。彼女が、ドイツ語を自在に駆使して、トニー・ザイラーの本音を引き出してくれた。楽しい思い出である。
・ガストン・レビュファに話を戻す。取材することになったので、すぐに参考資料として彼の著書を買いに行った。その時、虎ノ門書房にあったのは、『モン・ブランからヒマラヤへ』と『天と地の間に』の2冊だけ。後で調べてみると、その時点で、レビュファが書いた本は5冊出ていたが、翻訳はことごとく近藤等さんであった。
当日、虎ノ門ホールのレビュファの講演会でも、近藤さんが挨拶したが、そもそもレビュファを呼び、著書を宣伝するというプランは、近藤さんのアイデアの賜物だったらしい。レビュファと近藤さんは、期せずして1921年生まれで同年齢だった。近藤さんの略歴をざっと触れておこう。早稲田大学文学部仏文科卒。早大商学部助教授、教授、名誉教授を歴任した。ヨーロッパ・アルプスの名だたる120余峰に登頂。シャモニー名誉市民、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章受章、1998年、日本山岳会名誉会員。
近藤さんはその後も、ガストン・レビュファの本を訳出し、都合15冊にも及んだ。その上、レビュファのDVDを監修、翻訳され、われわれ山岳ファンの期待に応えてくれた。近藤さんという存在がなければ、レビュファの印象も違っていたかもしれない。僕の勝手につけたレビュファの本ベスト3は、『氷・雪・岩』、『星にのばされたザイル』、『星と嵐――6つの北壁登行』である。この内、最後にあげた本は、1955年に白水社から、1987年に新版が出、さらには新潮文庫、集英社文庫、山と渓谷社の単行本、その後ヤマケイ文庫などで再刊された。よい本は、各出版社が永遠に再刊しづつけることがわかる。
・また、近藤さんは『わが回想のあるアルプス』をはじめ自著も15冊、共著が6冊、翻訳書が約90冊、合わせて110冊強の堂々たる書き手だ。今思い起こすのは、ガストン・レビュファの来日で、近藤先生と親しくなって渋谷区西原のお宅に呼ばれたが、後のフォローがまずかった。当時、単行本を手掛ける出版部とは縁のない雑誌部門にいたこともあり、積極的に企画に結びつけようという発想がなかった。近藤さんの本を何冊か出したかったと今にして思う。いつ、どこでも、編集者としては出版の企画に熱心でないと、将来の芽を摘んでしまうことを学んだ。
取材が終わって、ガストン・レビュファと握手した時、驚いたことがある。なんと大きな手だろう、そしてなんと柔らかな手だろうと思った記憶がある。そういえば、山登りで親指を下向きに持つ保持法を「ガストン」というのはガストン・レビュファの名前に由来するという。その魔法の手の感触を、今もって忘れられない。
2011.10.14沖縄旅行
「ひめゆりの塔」の前で。悲しい沖縄史の象徴。僕も献花した。
・わが社から沖縄に関する本は、社歴18年になるが一冊しか出ていない。『かんたん、男の沖縄料理』(料理制作・監修「抱瓶(だちびん)」料理長 神谷八郎著、2009年3月刊、定価1470円)がそれ。残念ながら、初版のまま増刷にもなっていない。このままでは、仕掛けに乗った僕の名が廃れる。なんとか沖縄企画でいい本を出したいとの思いがあった。
一方、沖縄に一度は行きたいと思いつつも無理と諦めていた。長時間、飛行機に乗るのは医者に制限されている。脳出血の身には、急な気圧の変化はタブーなのだ。それでも意を決し、バリアフリー・ツアーに申し込んだ。結果的に、なにごともなく無事沖縄旅行をしてきた。主だった観光スポットを訪ねるには、二泊三日では強行スケジュールだったが、なんとか楽しんでこられた。行ってみて改めて、沖縄問題の根深さを肌で感じ取れた。
東日本大震災の被災地となった東北地方同様、天災・人災をモロに受けてしまうと容易に立ち直れない状況が続く。わけても沖縄は、第二次世界大戦の爪痕が、66年経った今もまざまざと残る。日米安保関係の改善のためには、焦眉の急ともいうべき基地問題もまだ決着をみていない。その上、遠く歴史を遡れば、日本史の「琉球以来の問題」もある。
沖縄の歴史を辿ることから始まって、実生活(衣食住)、伝統芸能など……駆け足ではあったが、接することで理解を深めることができた。実際の現場を見てつくづくよかったと思う。僕の沖縄観は、行く前と後で大きく違ってきたことを正直に言っておこう。
・絶対に見ておきたいと思ったのは、都合三か所。一番目が「首里城公園」である。「めんそーれ(沖縄の方言で「いらっしゃいませ」)首里城!」と呼び込まれた。2000年に世界文化遺産に登録された首里城公園では、琉球王国の栄華を物語る数々の歴史的な建造物を目の当たりにできた。守礼門から入り、園比屋武御嶽石門(世界遺産)を通り、凝った命名をされたいくつかの門をくぐり、南殿・番所、書院・鎖之間、庭園、正殿、北殿と順路に沿って回る。自然、華やかなりし琉球王朝時代に想いを馳せた。
・二か所目は、「ひめゆり平和祈念資料館」。入口の「ひめゆりの塔」を見ただけで、込みあげてくるものがあり目が潤んでしまう。資料館に入ると、大勢の見学者で込み合っていた。ひめゆり学徒隊、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒たちの悲惨な姿が目に染みる。結局、陸軍病院に動員されたひめゆり学徒隊は240人(生徒222名、教師18名)、うち死者136人(生徒123名、教師13名)、陸軍病院動員以外の死者91人(生徒88名、教師3名)、残った生存者104人(生徒99名、教師5名)。沖縄戦で亡くなった女師・一高女の生徒・教師は227人(生徒211名、教師16名)にものぼる。こうした多くの前途有為な女性たちが、戦争の犠牲者として散っていった。我々平和ボケしている現代人は、ひめゆりの塔を前にすると、言葉もない。
・三か所目は、「沖縄県平和祈念資料館」。この資料館は、2000年4月、旧資料館を移転改築し、開館されたもの。広大な敷地を持ち、延べ面積で約10倍、展示面積で約5倍に拡張されたという。「平和の礎」――沖縄戦などで亡くなられた国内外の20万人余のすべての人々に追悼の意を表し、御霊を慰めるとともに、今日、平和を享受できる幸せと平和の尊さを再認識し、世界の恒久平和を祈念する。こうパンフレットに書かれているように、平和を発信する重要拠点としての役割を担う資料館である。
最初に「平和の火」を見て、「平和の礎」に移る。20万人余もの膨大な名前の中から、妻の叔父を見つけることにする。数年前、妻は二人の姉と共にここへ来ている。それでも簡単には見つけられない。長野県から探すことにした。丹念にあいうえおを辿って行く。妻が「ありました」と声をあげた。名前の前で二人は合掌した。
その後、資料館を1時間ぐらい見るうち、僕は検索装置を発見した。その機械だと、戦死した人の出身地・名前等を入力すると、大きな「平和の礎」の中から、なんと当該部分が出力される仕掛けになっている。これだと20万余の中から容易に目的の人物に辿り着ける。今度、機会があったら、これを使わせてもらうことにしよう。
・番外のお勧めとして「おきなわ文化王国・玉泉洞ワールド」を挙げておきたい。王国歴史博物館、全長5kmの玉泉洞(珊瑚礁からでき、30万年をかけてできた鍾乳洞)、琉球ガラス王国工房、陶器工房、紅型工房、藍染工房、紙すき工房、機織り工房等があり、どこを見ても魅力的だ。僕が一番気に入った場所は、「エイサー広場」だった。エイサーは、旧盆の頃、沖縄諸島で踊られる伝統芸能。大小の太鼓を持ち、若者たちが歌とお囃子に合わせ、踊りながら練り歩く。若い男女が、夢中になって踊る様を見て、53年前、学生時代に石川県輪島で御陣乗太鼓(ごじんじょだいこ)を見たことを思い出した。太鼓のリズムが身体に響いてきて、その時以来の興奮を覚えた。
エイサーにはストーリーがある。途中、翁と姥が出てきて、やおら数百人の観客の中からあろうことか僕に向かって、瓢箪から酒を浴びせた。すると、そこに大きな獅子が現われ、僕をガブりと頭から食べる仕草をした。あっという間の出来事だった。お客さんは、意外な展開にヤンヤの喝采と拍手。僕は身障者なので一番前にいた。運悪く(人によっては運が良く)、一番前に座っていたことによる悲喜劇だった。
それア・太平洋戦争の末期、日米両軍は沖縄で住巻
・そもそも沖縄を意識したのは、中学時代に遡る。石垣島から努力家の石垣信浩君が転校してきたのだ。たまたま僕の後ろの席だったことから、親しく接するうち沖縄に興味が湧いてきたのだ。石垣君のお父さんは、郵便局の局長さんだったらしい。「ぜひ一度、石垣島に遊びにおいでよ」、との当時の会話が懐かしくよみがえった。その後、石垣君は早稲田大学文学部史学科を出て、現在は大東文化大学名誉教授。西ドイツ留学を経験し、僕も頂いた労作『ドイツ鉱業政策史の研究―ルール炭鉱業における国家とブルジョワジー』を著している。
僕の浅薄な知識で言うと、沖縄と言ってすぐ頭に浮かぶのは、「泡盛」と「豚の角煮」、「ゴーヤ・チャンプル」といったところ。また、歌に独特の雰囲気があり、沖縄出身歌手は歌唱力が凄いという印象がある。安室奈美恵、古くは喜納昌吉がいる。夏川りみの「涙そうそう」「花」等、何度聴いてもいい。それに仲間由紀恵、新垣結衣、黒木メイサといった個性的な美人女優。宮里藍、宮里美香、上原彩子以下、天才プロゴルファーも多く輩出している。
少し硬い話をすると、僕が沖縄を強く意識したのは、50年前に何気なしに本を読んで、ある人を知ってからだ。意識を変えたその人の名は、沖縄自由民権運動の父と称される謝花昇(じゃはな・のぼる)である。残念ながら、今は忘れられて話題にもならない人だ。
ウィキリークスを借りて言えば、慶應元(1865)年生まれ、明治41(1908)年に没している。東京帝国大學農科大學を卒業した、沖縄県初の学士だった。この人が、大學時代に中江兆民に師事し、木下尚江や幸徳秋水らと自由民権運動に触れる。大學卒業後、沖縄県技師となり、同時に様々な役職を兼務し、県政改革に献身尽力した。その後、紆余曲折があり、旧支配者層に妨害を受け、挫折することになる。
明治34年、生活に困窮したことから、職を求めて山口県へ向かう途中、なんと神戸駅で発狂した。以来、廃人状態に陥り、明治41年、44歳の若さで亡くなった。この謝花昇の生涯を多感な頃に知って、僕は激しい憤りを感じた。
その後、「戯曲 謝花昇伝」の素晴らしい舞台を見て、ますます沖縄に強く関心を抱いた。そういった意味で、今回の沖縄旅行は、青春時代にし残した宿題に改めて取り組み、心の中で切を付けた充実感がある。
・たまたまホテルで新聞を読んでいて、ある記事が目についた。「沖縄タイムス」2011年10月10日(月)のコラム「大弦小弦」(筆者・平良哲)には、こう書かれていた。
「戦争は酷(むご)く愚かな行為だ。中でも悲惨で卑劣なのは空襲だろう。武器をもたぬ民間人が犠牲になり、地域に根を下ろした暮らしが無差別に破壊されていくのだから▼67年前のきょう、多くの県民が逃げ惑い、命を落とした。戦闘機のごう音や爆弾の落下音が、空を切り裂く。生まれ育った家を焼かれ、防空壕で爆撃音に耐える。その恐怖は想像を絶する」、(中略)、「壮絶な体験から数十年たって症状が現れることが多いようだ。いつまでも人の心に巣くう戦の本当の怖さが見て取れる。沖縄戦は過去のものでない。なお現在進行形で、多くの人を苛む実情を心に刻みたい」――。
調べてみると、この筆者は、僕と同じ早稲田大学第一政治経済学部出身で三歳年上とのこと。今は(財)沖縄観光コンベンションビューロー会長、その前は那覇空港ビルディング(株)代表取締役社長であった。
その平良哲さんは、別の記事で――、
≪作家吉村昭さんは著書「三陸海岸大津波」の中で、三陸の魅力に触れている。屹立(きつりつ)した断崖(だんがい)や海の色をたたえた淵(ふち)、海岸線につらねる漁師の家々が「まぎれもない海の光景として映じる」とある》 (中略)
≪▼東日本大震災では海岸線から10キロ以内、標高30メートル以下の地域が津波で浸水した。その条件に照らすと、沖縄は面積が1200平方キロに及ぶ。県土全体の半分以上、県人口の54%に当たる75万人余が暮らすと国交省は分析する。標高20メートル以下で約50万人、10メートル以下は28万人以上が居住するという▼空港が被災した時の島々の困窮は想像に難くない。しばらくは物資が届かず救援の手が行き渡らないこともあろう。孤立することを想定して県や島ぐるみの支え合いが必要だ》と書いている。
沖縄と東日本――その対比・類似を、このように明らかにしたコラムは、心に深く染み入った。貴重な僕の沖縄土産ともなっている。
2011.09.09勝呂忠さん 野見山暁治さん 新井苑子さん
●勝呂忠さん
勝呂忠さん。2010年3月逝去。享年83。洋画家、舞台美術家のほか、早川書房の通称「ポケミス」の表紙絵を長く手掛けたことで有名。
写真上の本:勝呂忠さんの「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」シリーズが講談社出版文化賞受賞をしたことを報じた『ミステリマガジン』2011年8月号のページ。写真右は、勝呂伸子さん(勝呂忠氏夫人=福田恆存氏の実妹)。
写真下の本:追悼・勝呂忠 誌上ギャラリー。「エラリイ・クイーンズ・ミステリ」の表紙イラストを創刊号から、同じく「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」の装画を二十代後半から約60年間、2010年3月に亡くなるまで1730冊余り描き続けた。多くのファンを楽しませたことを報じる『ミステリマガジン』2010年7月号のページ。
・今回は、勝呂忠さん、野見山暁治さん、新井苑子さんの三人(いずれも画家)を取り上げてみたい。この原稿を書く直前まで、僕は夏風邪を引き、咳痰熱が出て約2週間ほど寝込み、これで僕は終わりかなというほどの衰弱状態にあった。やっと立ち直れることができたのは、この三人の画家のお陰であったと信じている。
・まず、洋画家で舞台美術家の勝呂忠(すぐろ・ただし)さんである。このブログにしばしば登場している大学時代の先輩で、僕の敬愛する龍野忠久さん(主に河出書房新社、講談社、新潮社などで活躍された校閲の専門家。1993年秋に肺がんで逝去)に紹介されたのがお付き合いの始まり。温厚な人柄の奥に、鋭い感性と創作意欲を秘めている方で、絵も装幀もモダンで斬新なものだった。ざっと計算してみると今から53年も前のことである。
龍野さんから、勝呂さんの奥様伸子さんは、有名なイデオローグ福田恆存氏の妹さんだと聞いていた。福田恆存氏といえばいわずと知れた、評論家、翻訳家、劇作家として、また保守派の論客として、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲の翻訳としてもつとに知られた方だが、当時、僕は尊敬していたこともあって、福田さんの本を片っ端から読んでいた。
その伸子さんと結婚され、お子さんを設けた勝呂さんは、僕たちが知り合った当時、鎌倉の神奈川県立近代美術館のすぐ傍に住んでいたが、間もなく、二階堂の瑞泉寺近くに引っ越しをされた。龍野忠久さん一家も、実家があった都内北区の滝野川を離れ、鎌倉に転居し、最初は妙本寺に近い場所、その後、勝呂さんの住まいから数分の場所に引っ越しをされた。後に僕は、清流出版で画家・平山郁夫さんの単行本を手掛けることになる。そこで初めて分かったのだが、平山さんのお住まいとは徒歩15分位でご近所であった。僕は平山さんの単行本取材のため、都合十回ほど、平山さんの家を訪れている。そしてほぼ同じ回数、平山さんが馴染みであった寿司屋に通ったことを懐かしく思い出した。
・勝呂さんはお嬢さんが生まれると、「あかね」という名前を付けた。それが、漢字で書くと朱子(あかね)さんということが分かったのは、ごく最近のことだ。それまで僕は茜(あかね)と表記するとばかり思い込んでいた。朱子さんが生まれた後、銀座の茜画廊で個展をしようかと、勝呂さんが真剣に悩まれたことがある。その朱子さんも現在、51歳になるそうだ。そのことを教えてくれた長島玲子さん(僕の親友・長島秀吉君の夫人。二人は、龍野忠久さんに仲人役を頼んで結婚した。長島秀吉君は2009年11月、逝去。享年68)は、夫亡き後、勝呂夫人の後見役? として、僕にお願いしたいことがあるという。「勝呂忠さんの素晴らしい絵画を、広く世の中の人々に知っていただくために、お力をお借りしたい」というのだ。
そういわれても、僕の力などたかが知れている。特に、二回の脳出血をして以降は、言語障害で言うことも書くことも、思い通りにならない。本当は、勝呂忠さんをよく知る千代浦昌道さん(獨協大学名誉教授)や、青木外司さん(青木画廊)、菅原猛さん(色彩美術館館長)、鈴木恭代さん(ピアニスト、東京音楽大学専任講師)……等に頼めば、僕よりきっとよいアイデアを出してくれそうな気がする。しかし、長島玲子さんからのたってのお願いということなので、微力ながら僕のブログで発信し、宣伝にこれ努めようと思った次第だ。
・簡単に、勝呂忠さんの略歴に触れておこう。1926年、東京生まれ。50年多摩造形芸術専門学校(現多摩美術大学)を卒業。1951年、モダンアート協会創立展に招待参加。56年、第1回シェル賞展佳作。61–63年、イタリアに留学しモザイク壁画を研究する。その時、イタリア給費学生としてフィレンツェに学び、フレスコ画も勉強された。その後、多摩美術大学助教授を経て、79年、京都産業大学教授に就任。義兄・福田恆存氏が誘ったからだと思うが、教授をしながら舞台美術、装幀にも早くから手を染めている。
「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」シリーズ(通称ポケミス)の表紙画、約1730冊余りを描いている。最初の作品は、ケネス・フィアリング『孤獨な娘』(長谷川修二訳、1954年)である。勝呂さんは一連のボケミス表紙画を評価され、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)美術賞を受けている。著書に『西洋美術史提要』『近代美術の変遷史料』など。2010年3月、間質性肺炎のため死去、享年83。
・龍野忠久さんによれば、日本のミステリは、日本人以外には余り馴染みがなかった。「勝呂忠さんの快挙は、米国の『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』も脱帽するぐらい装幀が素晴らしかったので、メディアとして美術賞を挙げざるを得なかった」と龍野さんは受賞理由を解説した。また最近、『ミステリマガジン』2011年8月号に載った、ミステリ作家の逢坂剛さんによると、「勝呂忠さんは、モダンアートの世界にこの人あり、といわれた著名な洋画家である。……若くして脚光を浴びる存在になった。……これはもうギネスものである。わたしが学生のころ、モダンな装丁のポケミスを持ち歩くことが、〈ハイブラウ〉の象徴にさえなっていた」と書いている。僕も逢坂さんの意見に大賛成だ。ひと頃は「勝呂ブーム」があり、有名な田村隆一さん(早川書房の初代編集長)との交流がものをいった。ちなみにその田村隆一さんの処女作『詩集 四千の日と夜』(東京創元社刊、1956年)も勝呂さんの装幀である。
・長島秀吉君は、勝呂忠さんの絵画を飾るために家を改築し、大きな壁面を設けた。勝呂さんの作品に惚れ込んだ真のコレクターであり、その所有する数十点を毎日飽かず眺めては楽しんでいた。多忙な長島君にとって、「勝呂さんの絵画は生活の潤いに欠かせない」と僕によく言ったものだ。絵画は毎日見ていて、初めて分かるとの卓見の科白である。青木画廊の青木外司さんが、「長島君はリッチマンだから」とよく言っていた。真のリッチマン、長島君の面目躍如である。
僕は二階堂の勝呂さんのお宅には、三回くらい伺ったことがある。二階の広々としたアトリエには、描きかけの絵が何枚か置かれており、過去にご自分が装幀してきた本が全部揃っていた。瑞泉寺に近い閑静なお住まいは、仕事に集中できる絶好の環境だったに違いない。僕は勝呂さんの小さな版画を持っていて、時々眺めている。「リッチマン」ではないので、こうした勝呂ファンの一人に過ぎない。だがここまで読んでこられた方で、勝呂さんの絵に興味をもち、鑑賞したいと思う人がいたら、買うこと(所有すること)をお勧めする。勝呂伸子さんの言によると、全部で200点ぐらい那須のアトリエに眠っているそうだ。加登屋のプログを見て、興味が沸いたのでと一言言ってくれれば幸いである。この後、勝呂伸子さんのお許しを得て、絵画を1点、それも有名な黄土色の作品シリーズの絵画を、このホームページで公開することにしよう。
『均衡の相(曲線)』1982年
野見山暁治さんから、新著『異郷の陽だまり』を送っていただいた。
・夏風邪で2週間ほど床に伏せった病み上がりの身には、本当に嬉しいプレゼントだった。90歳を過ぎてなお、矍鑠として活躍されている画家、そして名エッセイストでもある野見山暁治さんから、新著『異郷の陽だまり』(生活の友社刊)が贈呈されたのだ。装幀はあの菊地信義氏である。帯の文章に「過ぎてみれば歳月は一瞬に縮まる。もう一度、あのしじまに立って、今の自分を見つめてみたい」とある。僕も野見山さんと同様、過去を懐古するより現在の自己直視が必要だと思っていたところだったので、贈られた本に飛びついた。
この本を読めば、野見山さんの交友歴が歴然と分かる。例を挙げれば、藤田嗣治、麻生三郎、香月泰男、木村忠太、森芳雄、小川国夫、田淵安一……等が独特な視点で語られる。僕の大好きな椎名其二さんも登場しているが、画家・佐伯祐三のことや哲学者・森有正とやりとりが面白い。このあたり、よくぞと担当編集者を褒めてあげたい。こうした古い原稿を見つけてきて、単行本として編んだ意図が素晴らしい。また、無言館の窪島誠一郎さん(このわが社のホームページで、『夜の歌――戦没作曲家・尾崎宗吉の生涯』を執筆中)と一緒に菊池寛賞を受賞するに至ったくだりは、野見山さん独特の軽妙洒脱な筆致で思わず笑ってしまった。ついでに思い出したのが、窪島さんの温情により、長島秀吉君が亡くなる前年(2008年)6月、貸切バスをチャーターして上田市・無言館を訪れ、閉館後、この無言館でクラシックの演奏会を催したことだ。とりわけ椎名其二さんが勧めてくれたベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番が目玉だったが、窪島誠一郎さんもよくぞ承諾してくれたと、今でも感謝しているし、貴重な思い出ともなっている。
・この本で、興味をもった箇所がある。僕が高校生の時、ドイツ語を教わった坂崎乙郎さんのことだ。野見山さんは坂崎さんのことをたった1行しか書いていないが、その文章が僕の多感な高校生時代を思い出す導火線となった。坂崎乙郎さんが、西ドイツのザールブリュッケンに留学(3年間)して後、早稲田大学高等学院のドイツ語の教師となって帰国、僕らを指導してくれた。あの有名な処女作『夜の画家たち』(雪華社刊)を出す2年前のこと。新進気鋭の西洋美術史研究家、美術評論家として、世に出る直前のことだった。
・坂崎さんは僕ら高校生を相手に、ドイツ語より絵画の研究を情熱的に語った。僕はそういう人が好きだったから、この授業を大歓迎した。(僕の長男が大学でひょんなことから、坂崎先生を尊敬している哲学者・社会学者と知り合いになった。その方が坂崎フリークともいえる方だったのも不思議な縁を感じる)。坂崎先生は次々と素晴らしい本を書き、僕も興味を惹かれて買いまくった。
・主にドイツ表現派、幻想派の画家を紹介した。分けても、28歳の短く波瀾に満ちた生涯を送ったウィーン表現主義の画家、エゴン・シーレの愛と苦悩を名文で語ったのにはしびれた。僕の興奮は頂点に達したといってよい。それがなんと、坂崎さんも57歳で自殺してしまう。父親の著名な美術史家・坂崎坦は、91歳と長生きしたのにである。巷では憶測が渦巻いた。その自殺の前、親しかった鴨居玲さん(鴨居羊子さんの弟)が自殺。その影響も論じられたものだ。野見山さんの著書から話が飛躍してしまったが、このような連想に至ったことにむしろ喜びを感じる。
かつて長島秀吉君が経営していた長島葡萄房(東京・杉並区方南町)を訪れて、くつろぐ野見山暁治さん。画面には見えないが、勝呂さんの絵が数点、店内に飾られていた。長島葡萄房のコンサートによく通った清流出版の社員は、見た覚えがあるはず。
個展会場で野見山さんとのツーショット。
●新井苑子さん
新井苑子さんから絵画をプレゼントしていただいた。
・新井苑子さんから。絵画のビッグ・プレゼントが届いた。ある日突然、デパートから大きな包みが届いた。開けてみると、上のような絵画が出てきた。これまでも新井さんは、新しい郵便切手をデザインするたびに、僕に送ってくれた。今回は、月刊『清流』の表紙絵をジークレー(Giclee)版画にしたものであった。近年、ジークレー版画は吹き付けて着色する方法で、最も原画に忠実な表現ができる技法として注目されている。この度いただいた絵は、タイトルが「オランダの花祭り」で、木靴の中から美しい花々が咲いている風景が印象的だ。新井さんらしいイメージで表現した優れた作品である。新井さんの話では、京都新聞社、読売新聞西部本社(福岡)の依頼を受け、年末美術家チャリティー展のために版画にしたという。
残暑お見舞いの書状も同封されていた。その時僕は、2週間ほど、夏風邪をひいてうんうん唸り、酒も飲めない状態で、心が晴れぬ日々を送っていた。大好きなジャズやクラシック、映画やミステリーにも全然興味が湧いてこず、71歳の夏を迎えて、もうこれで終わりかと思えるほど落ち込んでいた。そんな絶不調の時、届いた絵である。見るだけで、気持ちが明るくガラッと弾んだ。新井苑子さん、本当に有難うございました。
・新井さんのことを話す時、昨年2月、同じ町内(東京・世田谷区成城)でお亡くなりになったご母堂のことに触れねばなるまい。97歳で逝去されたが、長く『清流』の有料購読者であった。隅々まで読み、分からないことがあれば、辞書や事典を使って調べるほど向学心の強い方だった。こういう読者がいることを知るだけで、編集者は元気をもらえる。支えられていることで励みになるものだ。
また、令息についても触れておきたい。医学博士で、日本形成外科学会認定専門医であり、米国ハーバード大学形成外科研究員(2007–2009年)と素晴らしいキャリアだ。現在は、日本医科大学付属病院准教授、医局長を務めておられる。趣味は、ジャズ、ドラム演奏、米国のSF・サスペンス映画鑑賞、スキー、バドミントン……など。数々の画期的な医学的解析、治療法を編み出した方である。どうしたらこのような優れたご子息が持てるのか、新井さんからじっくりお聞きしたい。もっともご主人の姪御さんとその旦那さんが病院を経営しており、いざとなったら身内だけで全身どの部分でも診察してもらえるというから、うらやましい限りである。
かつて新井苑子さん(後列右)は、われわれ夫婦を招待し、美味しいフランス料理をご馳走してくださった。後列左は松原淑子(月刊『清流』編集長)。
2011.08.19飯島晶子さん
飯島晶子さんのご招待でコンサート『未来への伝言』を観る。左から飯島晶子さん、谷川賢作さん、杵屋巳太郎さん、おおたか静流さん。(写真提供:VoiceK)
・今回は、二つのことを書きたい。一つは飯島晶子さんの「未来への伝言」と題した朗読&コンサートのこと、もう一つは小池邦夫さんと俳優の緒形拳さんの25年間の絵手紙交流を中心にした交流展についてである。二つのイベントの背景に脈打っているのは、東日本大震災の復興支援への思いであり、ともにしみじみと感激したからである。
・まず、声優・朗読家の飯島晶子さん(写真をご覧になる方は、このホームページ2006年1月号を参照)からである。飯島さんとは、弊社から初の著書『声を出せば脳はルンルン』を刊行して以来、お付き合いが続いている。この本にはCDがついていて、早口言葉や有名な詩、歌詞、小説の一節、さらには般若心経まで、録音されている。脳の活性化には恰好の教材であり、僕も脳出血のリハビリの一環として大いに利用させていただいた優れものだ。
・その飯島さんは、年齢が五十代でお孫さんもいらっしゃるのだが、どう見ても四十代にしか見えない、若々しく美しい方なのだ。去る2011年7月22日、朝日新聞の「55プラス 孫と楽しく1」欄に飯島さんが登場されていた。飯島さんは、仕事を持つ娘さんを「支えたい」と、孫の花音(かのん)ちゃんの面倒を見ておられる。そして、お孫さんから「あーちゃん!」と呼ばれているそうだ。「若くて美しい方=飯島晶子さん」の印象は、孫がいようといまいと僕には変わらない。この新聞記事が出た一週間後、「未来への伝言」のコンサートがあったのだ。招待された僕は妻と勇躍出かけた。
・このコンサートには過去二回、招かれている。今回の会場は、豊島区西池袋の自由学園明日館であった。あの帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの傑作で、重要文化財指定の建物である。僕は結婚するまで豊島区の住民だったが、まだここを訪れる機会がなかった。だからぜひ行きたいと思っていた。この建物の設計を依頼した羽仁吉一・もと子夫妻の深い見識が感じられる。すぐ近くには、お二人が創業された(株)婦人之友社もある。僕は木の温もりが感じられる会場の落ち着いた佇まいに痺れた。暖炉がしつらえられてあり、クリスマスのイベントでは、ここで薪が燃やされるという。パチパチと赤く燃える焚き木は、きっと人の心を解きほぐし、温めてくれるに違いない。
・コンサートの名称は、「未来への伝言 ひとり ひとり…ひとりじゃない」だったが、今年はその前に「東日本大震災復興支援チャリティーコンサート」の名称が付いていた。コンサートは素晴らしいの一言であった。舞台に登場した皆さんが実にいきいきと躍動していた。僕は、このコンサートを、一昨年(会場は東京ウイメンズプラザホール)、昨年(会場は文京シビックセンター小ホール)と観ているが、今年は大震災復興支援をストレートに、真剣に打ち出すことで例年以上に盛り上がった舞台の印象をもった。
・出演者をご紹介したい(敬称略)。
杵屋巳太郎(三味線・人間国宝)、谷川賢作(ピアノ、作・編曲)、おおたか静流(ヴォーカル)、飯島晶子(朗読)、ZEROキッズ(合唱)、クラーク記念国際高等学校の学生さん約80名(パフォーマンスコース)といった方々だ。
最初のプログラムでは谷川俊太郎の詩がうたわれた。
ひとりひとり違う目と鼻と口をもち
ひとりひとり同じ青空を見上げる
ひとりひとり違う顔と名前を持ち(略)…
ひとりひとりどんなに違っていても
ひとりひとりふるさとは同じこの地球…
全員が、この詩を一節、一節読んだ。やはり谷川俊太郎の詩はよい。
・次に、おおしばよしこ作 じょうたろう構成の『みえないばくだん』がうたわれた。
むかし、せんそうがありました。
そらにひこうきがたくさんとんできて
ばくだんをおとしたり、
おとされたりしました。(略)
…えらいひとたちがべんりになるものをつくりました。
…(略)…あるひとがいいました。
「たしかにべんりになるけども、
これは『ばくだんになるもの』じゃないの?」(略)
・飯島さんの『みえないばくだん』の朗読に、三味線、ピアノ、ヴォーカルがかぶさる。おおたか静流の津波を表現した発声は、その迫真性に思わずぞくぞくと寒気を覚えた。この谷川俊太郎の詩と『みえないばくだん』の二曲を聴けば、コンサートの意図がはっきり分かる仕掛けになっている。それほどに、日本は現在、危機的状況に置かれている。未だ出口の見えない原発問題が、国民一人ひとりの上に重くのしかかっていることを再認識させられた。
・次は、谷川俊太郎作詞、杵屋巳太郎作曲『五つのエピグラム』より、『原爆を裁く』『五月の人ごみ』がうたわれた。三味線(杵屋巳太郎、杵屋長之助)、ピアノ(谷川賢作)、歌(おおたか静流+クラーク記念国際高等学校の生徒さん)の総メンバーで、中身が濃いメッセージだった。
・『原爆を裁く』は、長らく(約四十年間)放送・発表禁止にされてきた楽曲であるとのこと。ピアノ(谷川賢作)と三味線(杵屋巳太郎)の即興演奏が、胸に突き刺さってくる。そして、田村依里奈作詞作曲 クラークオリジナルソングの『ずっと忘れない ずっと頑張るよ』がうたわれた。僕も「東日本大震災」になぞらえて、こういうしかないと思った。これで第一部が終わった。
・第二部も充実した内容で、心にジーンと来た。朗読あり、歌あり、三味線あり、ピアノあり、パフォーマンスあり、で素晴らしい内容だった。来年は、清流出版の社員一同と一緒に来たいものだと思った。
・内容にも少し触れておきたい。おおたか静流がうたう『三月の歌』(谷川俊太郎作詞 武満徹作曲)、『明日ハ晴ハレカナ曇リカナ』(武満徹作詞・作曲)、『ピリカチカッポ』(知里幸恵作詞 おおたか静流作詞・作曲)が、何とも不思議な世界へと誘い込む。静流さんの声は、七色に変化するのだ。
『ピリカチカッポ』は、NHK教育テレビの「にほんごであそぼ」で3年前、『銀の滴―ピリカチカッポ』が放映されて、幼児たちに人気となった。アイヌ語で「シマフクロウ」を表し、僕の感じでは老若男女問わずアピールする歌である。
その後、『谷川賢作ピアノの世界』、『杵屋巳太郎三味線の世界』、『寶玉義彦(南相馬から)』と続いた。寶玉義彦は、若い詩人であり、普段は南相馬市でパッションフルーツを作っている方だそうだ。被災地の生の声を初めて聴いた。
・あと忘れていけないのは「被爆ピアノ」の存在である。原爆で跡形もなくなった広島で奇跡的に生き残ったピアノが、調律師・矢川光則によってよみがえり、コンサート活動を続けている。終始、谷川賢作のピアノ演奏がしっかりと音を出している。この被爆ピアノは、2010年9月11日にはアメリカ・ニューヨークに渡り、「被爆ピアノ」を奏でて平和を願ったという。2001年の米同時多発テロの犠牲者を追悼するコンサートを開催したことでも有名になった。
・その後、飯島晶子さんが『子どもたちの遺言』(谷川俊太郎作 ピアノ・谷川賢作)を朗読し、いよいよ最後の番組『祈り』(佐々木香作詞 谷川賢作作曲 ZEROキッズ+クラーク記念国際高等学校)へと続く。約90名の出演者が、演出(飯田輝雄)の素晴らしさもあり、一段と充実しているように感じた。
優れたコンサートで、感動、感激した。
・東北の人々の底力を感じ、ともに未来を信じ、心を込めて、うたい、語りたい 復興支援オリジナル作品を! こども・大人ジャンルを超えての合唱「祈り」を!――と、プログラムにあるように、そして、ひとりひとり… ひとりじゃないとのメッセージを僕なりにきちんと受け止めた。飯島晶子さん、ありがとう!
・蛇足だが、飯島晶子さんの朗読の会が9月25日(日)、東京・神楽坂の矢来能楽堂(12時30分開場、13時開演)で行われる。物語と能。二つの源氏物語が楽しめる。
『源氏物語』の「葵・賢木」より飯島さんが現代語訳を朗読する。その後、仕舞「半蔀」「葵上」、能「野宮」を演じる。「野宮」でシテ(六条御息所)を観世流の遠藤喜久、ワキ(旅僧)を下掛宝生流(シモホウ)の工藤和哉が務める。その工藤和哉は僕より四歳下で、学生時代から一緒に謡をよくやったものだ。現在は職分として、一段と芸域が向上した。
全員で盛り上がって、最高の舞台が繰り広げられた。被災地の方々にも観てもらいたいと思った。(写真提供:VoiceK)
2011.08.18小池邦夫さん
小池邦夫さんの痛々しい顔に注目。それでも会場控室で元気一杯に語る
月号で書いている。続けて取り上げるのは本来、避けたいのが筋ではあるが、あまりに素晴らしかったのであえて書きたい。会場は日本橋三越本店の七階催事場である。かなり広いスペースをとりながら、タイトルは『緒形拳からの手紙。小池邦夫の師友16人展』。
出かけたのは8月12日の金曜日である。大きな会場だけに余裕で展観できると思っていたら大間違い。入場してみると、人でいっぱいで動けない。圧倒的にご婦人方が多い。ほぼ、8、9割がご婦人であった。僕は電動の車椅子で行ったのだが、人ごみに呑まれて前にも後にも動きが取れない。間隙をぬって時間をかけながら、ようやく見て回った。
・入口付近には緒形拳さんの絵手紙である。『季刊 銀花』の愛読者用葉書で絵手紙通信を銀花編集部に送り続けたものだという。これが実に楽しく遊んでいて、興味深かった。いったん、文字を塗りつぶしてそこに絵を描いたり、はみ出さんばかりの書が踊っていたりする。編集部との行き違いで誤解していたことを素直に謝る言葉が書かれたものもある。緒形さんが描いたチャップリンの似顔絵なども飾られていたが、実にお上手で思わず見とれてしまった。
・次の会場は小池邦夫さんと緒形拳さんとの「25年間にわたる絵手紙交流」が展示されていた。小池さんは普段着の絵手紙の魅力をよく強調しておられるが、まさにそんな普段着の緒形さんからの絵手紙が目白押しだ。葉書に菊の花が書かれ、ただ、「ありがとう」と書いただけの書もある。中国のロケ先から送られたた和紙の海外便もある。また、弊社から刊行された田島隆夫さんの本を贈呈したのだろう、素晴らしい田島隆夫本を有難うというお礼状もあった。とにかく拝啓も敬具もない、フランクで自由な絵手紙のやりとりは、見ていても気持ちのよいものだ。
・小池さんと緒形さんとは、25年間の交流があったのだが、なんと話はほとんどしていないという。緒形さんが小池さんの新宿で行われた個展に来て、食い入るように見ていたのが25年前。そこから手紙のやり取りが始まり、細く長く続いてきた。会って話をすれば、テンションが下がってしまう。会いたいという気持ちを絵手紙に込めたからこそ、相手の琴線に触れる絵手紙となる。これが長続きした理由ではないだろうか。
・そして小池さんの16人の師友との絵手紙交流コーナーがあった。師として敬愛した瀧井孝作、中川一政の両御大から、樋口比庵、田島隆夫、棟方志功、北大路魯山人、渡辺俊明、高村光太郎、みつはしちかこなどまで、画家、書家、陶芸家、彫刻家、漫画家、作家と職業的にも実にバラエティに富んだもの。いずれも小池さんがほれ込み、ぶつかり稽古を繰り返してきた人たちだ。
・小池さんは、こうした芸術家の本業にはあまり興味がない。余儀ともいうべき、書や絵や言葉に惚れるのだ。惚れれば、雨あられと絵手紙を出し続け、ついには交流が始まるというわけだ。多少は強引でも、人を振り向かせてしまうというのが、小池流の絵手紙の力である。そのために日々に絵を鍛え、書を鍛え、言葉を磨いてきた。こうした人たちとの交流を経て、今日の小池さんがあることがよくわかった。
・近くの最後のコーナーには、被災地の皆さんからの絵手紙が展示されていた。小池さんが東日本大震災の被災地の絵手紙愛好者295名に送った絵手紙に、約200通余りの返事が届いたというのだ。そもそも295名に絵手紙をかく。これだけでも大変である。返事は結構だからと送ったにも関わらず、墨と硯をなんとか手にして返事を出している人がいる。
・肉親や親せき、友を亡くされ、食糧や水もままならない被災地の方々が、こんなにも励まされて返事を書いている。この絵手紙の持つ底力には脱帽である。葉書あり、巻紙に大書された絵手紙もある。大きさはともかく、一様に小池さんの絵手紙が届いたことに驚き、感激したことがよくわかる。生きる勇気をかきたてた一通の手紙の底力に、僕は本当に驚かされた。
・会場裏にある控室で小池さんとお話することができた。目についたのは、顎の部分に真っ白い包帯が見える。訊いてみると、今日狛江市役所前で転んで、病院で七針も縫ってきたというのだ。そういえば少し、歩き方もびっこを引いておられた。これだけの大怪我である。出てくることは難しい。それでもこの日がサイン会の日とあれば、這ってでも会場入りする。小池さんの強い責任感であろうか。精神力もお強い方なのだ。
・小池さんの絵手紙は今年で51年目を迎えている。その間、いろいろなことがあった。阪神・淡路大震災の時も全国の絵手紙仲間を募って励ましの絵手紙を描き、義捐金を届けている。そんな小池さんを僕はいつも敬愛している。絵手紙を創始してくれて感謝している。僕の周りには、絵手紙のファンが多い。小池さんの本も随分買っていただいている。これからもますます絵手紙の普及に尽力してほしいと願っている。そして思いやりの心、支えあう絆が強固になれば、日本は捨てたもんじゃない、明るい未来が待っているような気がしてくるのだ。
2011.08.02清川妙先生と会食
清川妙先生と会食、歓談
・作家・エッセイストの清川妙(きよかわ・たえ)先生(右から二人目)と久しぶりに会食しながら歓談することができた。お会いしたのは、先生が万葉集や枕草子などの講座でよく使われるという御茶ノ水・山の上ホテル別館。同席者は松原淑子(右)と秋篠貴子(左)の両名。先生は、月刊『清流』創刊以来、「古典鑑賞」、「映画評論」、「手紙は愉し」、「季節のことのは」……等々、いろいろのテーマで誌面を飾っていただいた。現在、90歳になられる。
逆算してみると、先生が72歳の時、僕は初めてお会いして、月刊『清流』のレギュラー執筆者になっていただいたことになる。先生のお嬢様の佐竹茉莉子さんも、月刊誌、単行本のライター・著者としてフル回転していただいている。お二人のご協力がなければ、清流出版の今日はなかった! と言っても過言ではない。
・清流出版の先生の担当編集者は、ことごとく先生に接することによって鍛えられ、編集者として一人前になった経緯がある。一番古いお付き合いになるのが松原淑子(『清流』編集長)。もう一人の秋篠貴子は、近年、月刊誌のみならず、先生の単行本(『今日から自分磨き――楽しみながら、すこしずつ』)の編集担当を経験している。両名とも、先生の「ていねいな仕事」ぶりを学んだ結果、出版業界でも有能な編集者に育ってくれたと思っている。
・清川先生からいただいた初期の玉稿(月刊『清流』1994年8月号)が、特別、僕の印象に残っている。忘れもしない17年前、『伊勢物語の世界 第23段』をお書きになっている。その文章の中に、「くらべこし振り分け髪も肩すぎぬ 君ならずしてたれかあぐべき」の言葉があった。返句で女返しの言葉だ。当然、その前の句は「つつゐつのいづつにかけしまろがたけ すぎにけらしな妹(いも)みざるまに」である。
能『井筒』の一節にある「筒井筒、井筒にかけし……」が僕にはすぐ思い浮かんだ。ゲラを読みながら、下手な謡曲を思わず唸ってしまったことを覚えている。当時、われわれ早稲田大学下掛宝生流のOBたちは、清流出版の入っていたビルの、道路を挟んだ向かい側にあった日本債券信用銀行(当時)の和室を借り、毎週火曜日に人間国宝の寳生閑先生に謡を習っていた。
・その後、『伊勢物語の世界 第23段』の解説で、清川先生は「化粧」(假粧=けさう)のことをお書きになっている。「さりけれど このもとの女 悪しと思へるけしきもなくて 出しやりければ をとこ こと心ありてかかるにやあらむと思ひうたがひて 前栽の中にかくれいて 河内へいぬる顔にてみれば この女 いとよう假粧じて うちながめて……」。いつも女性は化粧をしているほうがよい、と僕は伊勢物語、いな先生から学んだものである。
・この『伊勢物語』の名解説のほか、以後は一作品につき3号分で、古典の解説を清川先生に依頼した。『大和物語』、『枕草子』、『更科日記』、『蜻蛉日記』、『古事記』、『落窪物語』……。いずれも多くの読者から好評を得たが、先生には、古典以外のテーマにも挑戦していただくことになった。まず、「言葉の贈り物」として『手紙は愉し』を連載していただいた。
素晴らしい文章、切り口で、清川ファンが増えることイコール月刊『清流』の購読者増に直結したと思う。この日は、談たまたま、お互いに好きな映画の話になった。先生は『八月の鯨』(1987年)について、リリアン・ギッシュとベティ・デイヴィース姉妹が、実際は妹役の方が年上で、撮影当時、リリアン・ギッシュは93歳、ベティ・デイヴィースは79歳だったという話をされたが、今も変わらぬ映画への思い、薀蓄に感心させられた。 ・この日、僕は「パソコンに載った清川妙先生の著作集」のホームページ・プリントを持って行った。これをご覧になって先生は、「パソコンは私の知らない世界です。でも、このホームページを書いている方はよく知っております。私が初めて教職に就いた時、私より七つ年下の生徒さんで、クラスの中でも、一番成績が良かった方です。その後、私の教室で今も、講義を受けています。今でも成績が一番いい方です。お年は83歳。この年でパソコンを駆使できるとは、尊敬に値しますね」。僕は、そのプリントを先生に差し上げた。
件のホームページの優れた点は、書名などのほかに、必ず本の書影を付けていることだ。全部で九十作ほど紹介されていた。その中に、わが社の本も、四点含まれている。『名画で恋のレッスン――こころのシネマ・ガイド』(1995)、『古典に読む恋の心理学』(1996)、『出会いのときめき――花、旅、本、愛する人たち』(2002)、『今日から自分磨き――楽しみながら、すこしずつ』(2008)。いずれも清川先生の人となりが横溢した素晴らしい本である。
・清川先生は著書、『おてんば八十八歳。喜び上手の生き方ノート』(海竜社刊)で若々しく生きるヒントを明かしている。それが「七つの提案」として提案されているからご披露しよう。1、好奇心を失わない。2、すぐに行動すること。3、小さなことも喜ぶこと。4、人との出会いを楽しむこと。5、世代を超えて若い人とも付き合うこと。6、若々しく生きる人を目標にすること。7、お洒落も忘れないこと。
アクティブに生きる先生のご趣味というか特技は、五十三歳になって始めたという英会話を駆使しての外国旅行、それも独り旅を楽しむことだという。前述の七つの要素をほとんど網羅していることはお分かりいただけよう。先生の凄いのは、旅行会社を一切使わず、自分でスケジュールを立てること。そして、ほんのちょっとしたお土産を欠かさないこととか。
僕は、右半身不随で血圧の変化が致命傷となる。だから飛行機での海外旅行はできない。日本の旅行では、先生が贔屓にしておられる松本・扉温泉の明神館が大好きで、ここ毎年、行っている。ここのフレンチ料理、懐石料理は素晴らしいと思う。その女将曰く、「私も毎月、上京して、山の上ホテルの清川先生の講義を聴いております」。なんと素晴らしい師弟愛であろうか!
・清川先生の市川市国府台のご自宅へ一度伺ったことがある。まだ、僕が健常者だった頃だ。先生は、最愛のご主人を1994年秋、心不全のため旅先で亡くされた。その悲しみの涙も乾かない2か月後、今度は最愛の息子さんの身体にすい臓がんが、さらにご本人にも胃がんが見つかった。1995年、先生の手術が成功してから10日目、ご長男が49歳の若さで亡くなった。そんな悲しみの中にありながら、先生は、気丈に振る舞われていた。蔵書の山に囲まれ、古典の世界がすぐ目の届く位置にあった。最愛のお二人の喪失感から、必死に乗り越えようという姿勢が健気だった。僕は何と言ってお慰めしたらよいか、途方に暮れていた。救いの手を差し伸べてくれたのが清川先生だった。これからも執筆の意欲をさらに高めて、清流出版とお付き合いしたいと発言されたのである。「古典」、「映画」、「手紙」……と、書きたいテーマはいくらでもあります、僕の方がかえって元気を出しなさい、と勇気をもらった気がした。
・清川先生は、第10回 市川市民文化スウェーデン賞(平成18年)を受賞された。この賞の受賞者は、宗左近、山本夏彦、井上ひさし等、錚々たるメンバーが並ぶ。訊いてみると詩人・宗左近と交流のあったスウェーデン大使館員が、全国でも極めて特異な市民文化賞の設立趣旨に賛同し、市川市の文化の発展と両国の文化の交流を祈念して設けられた賞だという。先生の場合、「万葉集」など日本の古典研究が、この賞で認められたと思うと嬉しいではないか。
・「数ある中で、ご自身一番愛着のある本は何ですか」と、訊いてみると――「難しいわね。一つあげると、『わたしの古典2 「清川妙の万葉集」』(1986 集英社刊)かしら」と答えられた。わが社は、会社設立が1994年だから、それよりずっと前の本になる。その本を刊行した年、先生は65歳。そこからザーッと九十作、よくお書きになられたものだと思う。
そのなかでも、僕のお勧めは弊社刊行の『今日から自分磨き――楽しみながら、すこしずつ』(2008弊社刊)である。もう一冊は、他社本だが、『兼好さんの遺言』(2011 中経出版刊)である。この本を読むと、吉田兼好は『徒然草』の中で、「ものくくる友、くすし(医師)、智慧ある友」が好ましいと言う。僕にとって冒頭の「ものくるる友」は、清川先生ご自身だと、いつも感謝している。先生の本は「ていねい かつ 愛情たっぷり」だから、どの本を取っても外れはない。今後、ますます清川妙節に磨きをかけられ、われわれに感動を与え続けてほしい。
清川先生と愉しく語る
2011.07.14小池邦夫・恭子さんご夫妻
絵手紙作家の小池邦夫・恭子さんご夫妻
・暑い日の一夕、小池邦夫・恭子ご夫妻と会食をした。この日は午前中から、臼井雅観出版部長らと恒例の東京ビッグサイトで行われていた「第18回 東京国際ブックフェア」を見た後、ご夫妻と京王線国領駅近くのお店で待ち合わせた。小池さんご夫妻とは、先日、狛江市役所前花屋の三階にオープンした「絵手紙さろん」(小池恭子さん主宰。8月末まで展示。無料)にお邪魔したとき以来であった。読者の皆さんはご存じかどうか、小池さんは思っている以上に凄い方である。とにかく、日本広しといえども、「手紙書き」を職業としている方は、小池さん以外いないはず。手紙書きでおまんまが食べられる唯一の人ではないだろうか。僕がよく行く喜多見のリハビリ施設の周辺には、「絵手紙発祥の地 狛江。小池邦夫」と目立つ横断幕をつけたコミュニティバス(こまバス)が往来している。狛江市は絵手紙発祥の地として新聞・テレビなどマスコミで報じられたこともあり、知名度も全国区になりつつある。絵手紙恐るべしだ。
・小池さんには最近、弊社から同時に二冊、本を出させていただいた。オールカラー印刷で半世紀以上にわたる絵手紙人生を集大成する『小池邦夫の人を振り向かせる絵手紙』と、二色刷りで言葉の力、言葉の面白さにスポットを当てた『小池邦夫の心を揺さぶる言葉集』である。前著は小池さんが独自に編み出した「拓」と「土版画」が見ものだ。呼び名も制作方法もまったくのオリジナルである。粘土板に釘で深く彫り込むように絵を描いて、これにもう一枚の粘土板を押し当てる。つまり凹面から凸面に変換するのである。これを焼成したのが拓である。この拓の凸面に色を乗せて葉書に刷り取れば出来上がりとなるのだが、是非、この迫力ある絵手紙を本書で見ていただきたい。もう一冊の言葉集は、小池さんが昨年末にかけての、ほぼ四ヶ月間で六十点以上を一気に書きあげたもので、言葉・書ともに勢いがあり迫力十分である。絵手紙は「画と書と言葉」の三要素で見せるものだが、小池さんが一番こだわってきたのは、やはり言葉の力だという。絵手紙はやはり言葉から始まったのだということを再認識させられる好著である。
・今年は小池さんが絵手紙を創始して五一年目に当たる。お話を伺うと、どういうわけか、昨年の五十周年より、今年に大きなイベントが集中しているようだ。春以降だけみても、広島を皮切りに、熊本、大分、札幌と日本各地の有名デパートで個展が開催されるほか、この夏には、日本橋三越本店の催事場を使って『男の絵手紙 25年の絆 緒形拳からの手紙』と題するイベントが行われる。小池さんと緒形拳さんとは実に二五年間にわたって絵手紙交流を続けてこられた。緒形さんは書も絵も達者で、書画の個展もされているし、単行本も出しておられる。若かりし頃、恩師・島田正吾に書の腕を褒められたというが、確かに味のあるいい書を描かれる。これはかなりな大型イベントで、多くの動員が予想される。会期は「八月九日から一四日」までの一週間ほど。一番暑い時期だが、是非、足を運びたいと思っている。この一大イベントの後も、福山天満屋デパートの個展があり、恒例の一一月上旬の銀座・鳩居堂の個展まで一気に流れが出来ている。有難いことに、小池さんは、こうしたデパートの個展会場でサイン会をしながら単行本の販促活動に一役買っていただいている。
・小池さんは心の優しい方である。自分自身がある程度売れると確信しない限り、企画そのものにゴーを出されない。出版社側の採算を真っ先に考えてくれる方なのだ。だから弊社でも、小池さんが著書、もしくは監修者として十冊ほど刊行させていただいたが、いずれも採算ベースに乗っている。増刷を重ねたものも多い。その意味で本当に得難く、有難い著者ではないだろうか。
・今回、お会いして、小池さんは絵手紙の底力を再認識したという。東日本大震災後、小池さんは被災地東北に住む絵手紙教室の生徒たちに、励ましの絵手紙を描いて送った。すると、筆や硯、葉書など絵手紙を描く道具もままならない被災地の絵手紙愛好家からつぎつぎと返事が返ってきた。「生きてまーす」と太い筆文字で書いた人、原発事故のため他県に避難したことなど近況を細かく伝えてきた人……、こうした経緯を『東京新聞』の名物コラム“筆洗”(6月19日付)が伝えている。また、『産經新聞』文化欄(7月6日付)にも同様に、この経緯が詳しく報じられた。被災地の絵手紙会員295人に宛て絵手紙を送ったところ、約200通余りの返書が届いたという。いわき市のお二人は、「まず一歩」「支えられての私の絵手紙の日々」の文章と同時にカラーの絵手紙も紹介されている。小池さんによると、日本絵手紙協会の会員は、中高年の女性が圧倒的多数を占めるが、震災後、男性や大学生が絵手紙に興味を持ち始めているとか。
・そして会食当日だが、なんとこの日の『讀賣新聞』夕刊(7月8日付)に、ほぼ紙面の半分を割いて大きく報じられた。「ヘタでいい ヘタがいい」(邦夫)、「心に響く素直な気持ち」との表題の下、被災地と小池さんのやりとりを感動的に紹介されていた。電子メール全盛の現代だが、どっこい手書き文化が見直されているのだ。現に記者(社会部 稲村雄輝さん)は、「日本人は手書きの文化を捨てようとしているのでは」と危惧していたが……「今、心に揺さぶる手書きの力」を確信している、と素晴らしい結語で終えている。
・臼井君と小池さんとは、かれこれ三十年以上のお付き合いになるという。なんと小池さんの奥様である恭子さんより古い付き合いなのだ。臼井君には、「小池さんの絵手紙関連本を、早く二、三十冊にするように」と発破をかけているところだ。そうなれば、いずれ全国の大型書店には、清流出版の絵手紙コーナーが出来るはず。そうなることを楽しみにしている。師匠の小池さんをよく知っている一番弟子・臼井君は、自著『絵手紙を創った男 小池邦夫』(あすか書房刊)に続く「小池さんの原点に迫った本」もすでに書き上げている。必ず売れて、早晩、増刷になるから、自信をもって刊行する手筈を整えてほしい。そう願うばかりだ。
最新刊『小池邦夫の人を振り向かせる絵手紙』、『小池邦夫の心を揺さぶる言葉集』の二冊
2011.06.20石井英夫さん
中央の石井英夫さんの手に注目! 両手に<華、花>状態でご満悦。
・産経新聞の名物コラム「産経抄」を35年間(昭和44年から平成16年まで)にわたって書き続けた石井英夫さん(中央)。その石井さんを囲んで、ある夕、小宴を持った。集ったのは、イラストレーターのくすはら順子さん(右)、松原淑子(月刊『清流』編集長)、藤木健太郎(今は僕の後を継いで、清流出版株式会社代表取締役社長)、そして僕。石井さんによれば、くすはら順子さんは名前がよいという。僕はiPod(アイポッド)を持っていて、移動の際よく聴いているが、約1万7000曲を収納している。長渕剛も好きなミュージシャンでアルバムが何枚分か入っている。検索してみるとズバリ、彼のヒット曲だった“順子”も入っていた。そこで、石井さんにちょっとさわりを聴いてもらった。「うーん、“順子”か、こういった世界もあるのかー」と感心された。
・石井さんは美女が大好き(僕も同様です)。今回も美しい女性を2人参加させているのがホストたる主要な役目である。今までにも石井さんとは、何回も打ち合わせと称して呑み会をしてきたが、石井さんの軽妙洒脱な話しぶりには感心させられるばかり。名文プラス名座談のコツを盗んでやろう、などという僕の魂胆はいつも空振りに終わる。真似ようにも真似られる次第のものではないのだ。美味しい辛口のお酒(静岡の名酒「花の舞」)を呑み、石井さんのお話をただ聞くばかりだった。
・石井英夫さんの名文には、かの司馬遼太郎さんも脱帽、「現代のもっともすぐれた観察者」と評したほどだ。日本記者クラブ賞(昭和63年)、菊池寛賞(平成4年)を受賞したことからも証明される。石井さんは、かの山本夏彦さんを師匠と仰ぐ。かつて山本夏彦、久世光彦、徳岡孝夫、石井英夫の四人を「現代の名筆」と讃える向きもあった。この四人が揃って、清流出版の雑誌連載をし、単行本を刊行できたことが、僕と松原淑子のちょっとした自慢である。この豪華メンバーと仕事をご一緒し、単行本を刊行するなど滅多なことではできない。
・ちなみにホームページでも、四人について僕が拙い文章で書いている。山本夏彦さん(2002年11月、2008年5月、2009年7月)、久世光彦さん(2001年12月、2003年1月、2003年2月、2006年2月)、徳岡孝夫さん(2001年12月、2003年1月、2006年4月、2008年4月、2008年7月、2008年9月、2009年8月、2011年2月)、石井英夫さん(2005年11月)。四人それぞれに、お付き合いのさまを触れている。
・宴の前に、石井さんから私に宛てた本年の年賀状を見せられた。「配達準備中に調査しましたが、あて所に尋ねあたりません」――それは、僕の旧住所・八王子市北野台に宛てた年賀状だった。僕が現在の世田谷区成城に引っ越してすでに八年が経っている。裏面を見ると、「兎の顔に何やらかける老蛙なり」の自作の句。いかにも洒脱な石井さんらしい。石井さんの名著『蛙の遠めがね』を思い出した。この宛先不明で戻った年賀状を有難く頂戴することにした。
・「加登屋さん、これまで18年間、単行本を出してきて、一番気に入っている本は何ですか?」と質問された。僕は「それは言うまでもない。『秋艸道人會津八一の學藝』(植田重雄著)です」と答えた。著者の植田さんは會津八一の研究家として知られた方で、『秋艸道人會津八一書簡集』『秋艸道人會津八一の生涯』等の著書もある。石井さんは「會津八一ですか、僕も関心があります」とのこと。書評をいろいろな雑誌にお書きになっている石井さんのこと、当然、この本もお贈りしたと思い込んでいたが、贈呈リストから漏れてしまっていたようだ。
・會津八一は猫も杓子も西欧文化にかぶれ、日本の伝統美をないがしろにする当時の風潮を断固否定し、日本本来の伝統美、例えば奈良の大仏、仏像、仏閣から、良寛の歌集など、多分、石井さんも好む世界を生涯かけて追究した。僕は「日本人の精神的拠り所を明らかにした」本だと確信する。恥をさらすようだが、僕はダイヤモンド社時代、悪友連と夏は新潟まで遠征し、地方競馬を楽しんだものだ。その際、定宿にしていた小さな旅館があって、そこには秋艸道人の真筆の額が飾られていた。見るからに書に品格があり、その日の競馬に運が呼び込めそうな気がしたことを懐かしく思い出す。
・その石井英夫さんの単行本が、わが社から7月末に刊行予定だ。月刊『清流』で連載していただいた「いとしきモノたち」を一冊に編むもので、松原の編集担当で順調に作業が進んでいる。タイトルも『いとしきニッポン』にほぼ決まっている。この話をすると、「おいおい、ちょっと待った! 著者がゴーサインを出してから日にちも経たない。ろくすっぽ検討しないうちに、刊行時期、書名、定価、ページ数……などを決めて……」と石井さんは驚いていたが、担当者の松原は動じない。そればかりか、「四六判の並製とし、珍しいフランス装にしたい。すでに書店向けのパンフレットも営業の木内文乃さんに作ってもらっている。全部で6章構成とし、読みやすい活字を組んでもらいます」と、カラー印刷の書店用チラシを差し出した。
・まあ、忙しくても仕事が早いのが松原の特技である。僕は、この本については校正者として川鍋宏之さんを使ってくれと頼んだ。「なべちゃんは、石井さんの大ファンで、かつて将棋のプロたちが集まっていた呑み所『あり』を経営していた有名な奥さんの燿子さんともども産経新聞を愛読している」と、僕は種明かしをした。脱線ついでに川鍋燿子さんについて触れると、野見山暁治さんの博多での連れ合い(2番目の妻)が亡くなり、その名物女将ぶりを慕っていた燿子さんが、追悼の席を企画し司会などをした。各界の人々が参集して、当時『週刊新潮』に載って話題を呼んだものだ。
・先日、蓼科から車山経由でドライブ旅行をしたが、ある素晴らしい彫刻家の作品を見た。日本を代表する芸術家(特に彫刻家)の一人で、明治17年生まれの北村西望(通例の呼び名は“せいぼう”だが、本名は“にしも”)である。文化勲章、文化功労者顕彰、紺綬褒章受章など数々の栄誉に輝いている。一番有名なのは、「長崎平和祈念像」である。お亡くなりになったのは昭和62年、享年104。北村西望は書もいい。僕は、ある場所で西望の書を見て、その闊達で雄渾な筆運びに圧倒された。藤木君もこの書を見たことがあるらしいが、あまり関心を持たなかったようだ。
・今回の旅行で、蓼科高原芸術の森の「マリー・ローランサン美術館」に隣接する彫刻公園を訪れ、たっぷり北村西望の彫刻作品を鑑賞した。彫刻公園には約70点の彫刻が所蔵されているが、そのうち約30点が北村西望の作品。「獅子―咆哮」「虎―青風」「母子像」「孔子像」「戦災者慰霊の女神」「天女」「光に打たれる悪魔」「十二支」「北村西望自像」……など、傑作が目白押しである。しばし、感激して見惚れていた。わが社の編集担当の金井雅行(石井さんが編集担当として優秀な男で、末が楽しみと褒めてくれた)君が、ほど近くの別荘によく来るので、作品を鑑賞したことがあるかもしれない。東京の武蔵野市御殿山にある井の頭自然文化園彫刻園にも北村西望作品があるはず。一度見たらみなさん必ずファンになること必至である。
・脱線ついでに、北村西望の経歴に触れておく。明治36年に京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)に入学。後に親友であり同志となる彫刻家・建畠大夢と出会う。建畠は僕のよく知る人物だ。北村西望と建畠大夢は明治40年、共に上京し、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学する。その建畠大夢のご子息が建畠覚造(彫刻家)である。覚造はイギリスのヘンリー・ムーアの影響を受け、抽象彫刻の道に進んだ。1959年、その覚造が多摩美術大学教授だった時、僕と数回、親しくお話しする機会があった。また、そのご子息(大夢の孫)建畠晢(あきら)は、詩人、美術評論家、国立国際美術館長を経て、2011年より京都市立芸術大学学長である。大学卒業後、新潮社『芸術新潮』の編集者だったこともある。僕とも何回か行動を共にした。そういうわけで近代彫刻と言えば、北村西望・建畠大夢の巨星を見逃してはいけないと肝に銘じている。
北村西望は彫刻のみならず、書が気魄に満ち満ちていて素晴らしい。
2011.03.28東北・関東大震災とダンテの『神曲』
天変地異・驚天動地・茫然自失・阿鼻叫喚、暗中模索……「しばし、言葉もなし」
・この度、東北・関東を襲った超巨大地震(マグニチュード9・0)は、死者・行方不明者数が3万人に迫ろうかという日本の歴史上未曾有の大災害を引き起こした。被害があまりに広範囲に及んでおり、今もって細目が分からない状況にある。惨禍……地震、津波、放射能汚染(原発問題は人災の部分が大きいと思う)のすさまじさに茫然自失の態である。まさに言語を絶する「人間としての存在」を脅かされる事態に陥った。
・衣食住すべてを失って避難所生活を強いられている人、さらに追い打ちをかけるように原発事故による放射能汚染で避難した人がいる。20数万人ともいわれる避難所生活者が援助を待つ。ライフラインの復旧も遅々としたもので、ほとんど寸断されたままだ。道路、鉄道、港湾などインフラ整備も急がねばならない。一体、いつになったら、平穏な日々が戻ってくるのか。まったく見通しが立っていない。かといって手をこまねいていては、何も進まない。まず人命救助、次に復興、それに原発の放射能汚染除去。われわれも被災地の方々の少しでもお役に立てるよう、各人ができるところからボランティア活動に立ち上がりたい。焦眉の急として、すべからく日本人は、今こそ天変地異と現実社会の混乱を超克しなければならない。
・この非常事態にあたり、思い出すことがある。イタリアの詩人・哲学者・政治家、ダンテ・アリギエーリ(1265年から1321年)の地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成る叙事詩『神曲』(Divina Commedia)のことだ。「神聖喜劇」という原題が付けられている。地獄篇第3歌に登場する地獄への入口の門が人口に膾炙されたので、ご存じの方もおられると思う。
「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」を含む銘文で、印象的である。
・僕が高校2年生の時のことだが、国語副読本担任の石丸久先生にイタリア語(トスカーナ方言)で冒頭の行を暗記するようにという宿題を出された。昔のことだが、今でも冒頭部分を覚えている。石丸先生の訳だと、確か「ここ過ぎて憂いの市に入る」とお訳しになった。高校生に分かりやすく訳してくれたのだと思う。
「ペル メ シ ヴァ ネ ラ シタ ドレンテ、 ペル メ シ
ヴァ ネ レターノ ドロレ……」
以下、真意が分からないままに、イタリア語で覚えさせられた。それが今回の大震災に際し、わが頭に浮かんで、離れない。『神曲』地獄篇は、作者にして主人公のダンテが古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれて、地獄を巡るという内容である。
・今、関心がないと言われればそれまでだが、冒頭部分を、山川丙三郎さんの邦訳でご紹介したい。
Per me si va ne la città dolente
per me si va ne l'etterno dolore
la somma sapïenza e 'l primo amore.
Dinanzi a me non fuor cose create
se non etternee io etterno duro.
Lasciate ogne speranzavoi ch'intrate'
我を過ぐれば憂ひの都あり、
我を過ぐれば永遠《とこしへ》の苦患《なやみ》あり、
我を過ぐれば滅亡《ほろび》の民あり
義は尊きわが造り主《ぬし》を動かし、
聖なる威力《ちから》、比類《たぐひ》なき智慧、
第一の愛、我を造れり
永遠《とこしへ》の物のほか、物として我よりさきに
造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、
汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ
・ダンテが偉大な人物であることは論を待たないが、『神曲』を読み直して、勇気づけられることがある。ダンテが人間の底力を信じていたからだ。『神曲』の構成は、地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部構成。最後に『神聖喜劇』というタイトルがしっくりと腑に落ちる構成になっている。ダンテを地獄界に導いたウェルギリウス、その後、煉獄界の頂上にベアトリーチェ(ダンテが幼少のころ出会い、心惹かれた少女)が現れダンテを迎える。永遠の処女ベアトリーチェの導きで天界へと昇天し、各遊星の天を巡って至高の天へと昇りつめる。最上部の至高の天には、神と天使と死を超克し神とともにある歓喜を他者に伝えた至高の聖者の魂だけが住む「秘奥のバラ」(天上の薔薇)がある。ここに集い、ダンテは永遠なる存在を前にして刹那、「見神の域」に達する。ここで見事に『神曲』(『神聖喜劇』)は終わる。
・イタリアの文学がわが国の地震・津波・放射能汚染とどうつながるのかと思われる方々には、もう少し聞いてほしい。わが宮澤賢治のことについて触れたい。かつて僕が東北旅行をした時、このホームページでも紹介した(2008年5月)が、花巻市の宮澤賢治記念館を訪れた。そして、宮澤賢治と天変地異は深いつながりがあったことが印象に残っている。宮澤賢治が生まれた明治29年には三陸沖で地震(死者2万2000名)があり、その後に起きた津波で大被害が出た。さらに2カ月後には陸羽地震があり、岩手は大打撃を受けている。これに限らず東北地方は冷害や凶作で大変な時代が続いている。また、宮澤賢治が亡くなる直前の昭和8年3月に、再び三陸沖で地震があり、津波の被害を被った。誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感ずると実弟・宮澤清六氏は指摘していらっしゃる。
・歴史を振り返れば、1142年前、東北地方太平洋沿岸部に「貞観(じょうかん)地震・津波(869年7月13日)」が起こっている。その時はマグニチュード8.3から8.6で、死者約1000名だった。多分、人口密度から見て現在の10000人から30000人の死者と見てよい打撃を被った。「千年一瞬耳」――千年の時も一瞬に過ぎないとのフレーズが出てくる。その時は地震と津波の天変地異だったが、今回は原発の放射性禍が加わる惨状。いわば今回は天災と人災のダブルパンチ。「自然の破壊力」のすさまじさの前に「文明文化の力」が脆くも崩れ果てた。
・今後、日本人全員で長い「復興の道」を歩まなければいけない。関東大震災復興時の後藤新平のような働きと柔軟かつ斬新的アイデアがほしい。今、残念なことに政治家たちの指導力が期待できない。我々一般の日本人の底力を発揮するしかない。それぞれが自分のライフスタイル、習慣の見直しをすることから始めたい。身近でできることを集積し、日本の奇蹟力を世界中に証明したい。例えば、卑近なところで言えば、『早寝、早起き』の生活を送って、電力需要を少なくし、省エネに努める。そんな小さな習慣を集積し、大きなうねりと化して、我々のライフスタイルを改めていきたい。さあ、みなさん、共に頑張っていきましょう!
●ダンテの『神曲』(ディヴィナ・コメーディア)を読み直そう。