2011.02.14山川方夫、みどりさんの本、連続刊行!

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結婚後まもない頃、自宅での山川夫妻

 

・山川方夫は1930(昭和5)年の生まれで、慶應義塾(幼稚舎、普通部、予科文学部、大学文学部仏文科、大学院文学研究科仏文専攻)で一貫して学んだ。彼の功績は数々あるが、1954(昭和29)年、第3次『三田文学』を創刊し、新人発掘に力を注いだことがまず挙げられる。曾野綾子、江藤淳、坂上弘など数々の才能を開花させたことでも知られる。その後、ご本人の文学作品も何回か芥川賞、直木賞の候補となるが、惜しくも受賞には至らなかった。文学賞は時の運次第ともいえる。あの久世光彦も何度か候補になったが、直木賞とは縁がなかった。小説、戯曲、放送台本、エッセイ、評論……等、あらゆるジャンルで素晴らしい作品を残し、夭折した天才・山川方夫氏。小説「夏の葬列」「愛のごとく」「海岸公園」等は今でも高く評価されている。いま改めて再評価するのに絶好といえるエッセイ集ではないだろうか。

・本書に所収された、江藤淳、石原慎太郎、大江健三郎、曾野綾子ら同時代作家への優れた文藝評論は、的を射たもので今でも頷ける。また、「中原弓彦について(小林信彦)」というエッセイで、小林信彦の今日あるを見通しているのは流石である。山川方夫自身、中原弓彦編集の『ヒッチコック・マガジン』誌にショートショートを執筆して話題にもなった。その他、ミケランジェロ・アントニオーニの「情事」、アラン・レネの「去年マリエンバートで」、アンリ・コルピの「かくも長き不在」などへの卓抜した映画評論もこのエッセイ集に編まれているが、いずれも独創的で質が高い。

・話は飛ぶが、僕は20から30代の頃、梅田晴夫主宰の「雑学の会」のメンバーだった。親しくなったので梅田晴夫に頼んで、編集担当していた週刊の経済誌に広告エッセイの連載をしてもらったことがある。紳士の身だしなみや、持ち物に関するエッセイで、万年筆、パイプ、傘、時計……等がテーマだった。梅田の薀蓄の深さはとどまるところを知らず、毎回楽しみに読んだものだ。スポンサーからは、この筆の冴えをことのほか喜ばれた。通常の原稿料と比べると高額だったこともあり、梅田も大変喜んでくれた。その梅田晴夫が冬樹社の山川方夫全集第5巻に付属している月報第5号(昭和45年7月)に「嘉巳ちゃん」という文章を書いている。「ある日、彼(山川方夫)が訪ねて来て、<実は父の先生であった鏑木清方の「方」と、梅田晴夫さんの「夫」をいただいて方夫というペンネームにしました>と」本名・山川嘉巳がいかにしてペンネーム山川方夫となりしかの打ち明け話をされたと書いている。「嘉巳ちゃんは天国で昔の無口な少年に戻っているだろうか」と、梅田は言葉を結んでいる。山川方夫を論じて、敬愛する梅田晴夫のことが思い出され、懐かしかった。

・その山川方夫が1965(昭和40)年2月19日、二宮駅前の国道1号でトラックに轢かれる交通事故に遭い、翌日死去する。享年34。山川は、郵便を二宮駅前の郵便局や二宮駅の鉄道便受付で出す習慣がありその帰り道であった。通りがかりの地元タクシーが山川を大磯病院まで運んだ。夜になると同級生や先輩たちが病院にかけつけたが意識は戻らかった。翌20日午前10時20分、大磯病院の病室で家族に見守られて死去。この若さで不慮の死を遂げた天才が、書き遺した瑞々しい文章を、今読むことができる。うれしいことである。

・山川みどりさんは、方夫氏の妻としてわずか9ヵ月。新婚生活1年を経ずして最愛の夫を亡くしたことになる。1964(昭和39)年の3月に大学を卒業し、5月に結婚式を挙げ、その翌年2月の交通事故である。その悔しさ、無念さは筆舌に尽くしがたいものがあったと思う。その前後の経歴を見ると、聖心女子大学国文科卒、母校の湘南白百合学園に講師として勤めながら、聖心女子大学大学院で国文学を学ぶ。1968(昭和43)年に新潮社入社。1983(昭和58)年から19年間、『芸術新潮』の編集長として活躍された。2001(平成13)年、定年退職。後で触れるが、僕は新潮社の方々とは何人も知り合って懇意にしている人も多いが、山川さんとはお付き合いがなかった。

・山川みどりさんは、退職後、新潮社の季刊誌『考える人』に「六十歳になったから」を連載し、好評を博す。この23回にわたる連載を全部見て、文章の巧みさに惹きこまれ、同世代に受けること間違いなしと刊行を決意した。今のところ、仮題は『還暦過ぎたら遊ぼうよ』で行きたい。まず、「六十歳になったから」の第1回目“これからいっぱい遊ぶんだ!”を読んで、ものすごく面白かった。雑誌『芸術新潮』で編集に携わっていた最後の数年間に、花人・川瀬敏郎さんに「今様花伝書」を、書家・石川九楊さんに「一から学ぶ」を連載していただいたのも、定年退職後の山川さんの生活の準備だったとも見做されるもので、その用意周到さに感心させられた。僕の場合、自分の仕事から現実のなりふりを教訓的に見るなどはあまりしたことがない。あの健全で、倫理的な『清流』を編集していながら、清き流れの住人とは見られない。むしろ濁流で過ごしていると思われているフシがある。(反省!)

・高崎俊夫さんは、月刊『清流』の2011(平成23)年4月号に、「夫・山川方夫を語る――山川みどり」のタイトルで、インタビュー記事を書いてくれた。その記事を読むと、夫亡きあと、文学から目をそらし続けた日々が印象的だ。26歳で新潮社に入社し、装丁の仕事から始め、まもなく『芸術新潮』に異動する。初めて向き合ったアートの世界に刺激されのめり込む。編集という作業も、とても性に合ったという。山川みどりさんの本質を見抜いている。

・仮題『還暦過ぎたら遊ぼうよ』の本の中で出てくる山崎省三さんの名前が僕にとっては懐かしい。『藝術新潮』(現在は『芸術新潮』)の元編集長である。僕は25から40歳ぐらいまで、山崎省三さんとは親しくお付き合いをさせていただいた。この40歳の時、僕は長年望んでいたダイヤモンド社の出版局に異動し、それまでの雑誌部門からようやく足抜けできた。それ以降、他社の出版部とは競合相手になるので、お付き合いは控えめになった。一方、山川みどりさんは41歳の時、山崎省三さんからバトンを受け、『芸術新潮』編集長となる。文字通り、タッチの差でみどりさんと僕はお付き合いがなかったのだ(ちなみに山川みどりさんは僕より1歳年下である)。

・山崎省三さんの編集長時代、例えば瀧口修造、大島辰雄、吉岡実各氏と画廊や展覧会や各種イベントに集う時(例えば、後楽園の「ボリショイ・サーカス」や赤瀬川原平さんの「千円札裁判」までも)は、ほとんど山崎省三さん(実際は新潮社)に奢ってもらった記憶がある。コーヒー、食事はもとより、特にお酒が入ると大いに談論風発し、楽しい集まりであった。その集まりの中では、僕一人だけが年若だった。なんという幸せな一時を過ごしたことだろう。きっかけは河出書房、講談社、新潮社等の校正・校閲を歴戦された龍野忠久さんの存在が大きい。龍野さんと僕は歳が一回りほど違うが、後輩の僕をこういった方々と何かというと引き合わせてくれた。経済誌中心の出版社であり、僕に芸術や文学のジャンルに野心がないことを山崎省三編集長もよく知っていて気軽に呼んでくれた。山川みどりさんの前任者である山崎省三さんに僕は心からお礼を言いたい。

・この際、僕の知っている新潮社の方々を列挙し、厚遇されたことへの御礼と近年のご無沙汰をお詫びしておきたい。まず、お亡くなりになった方から――。●山崎省三さんと●龍野忠久さんについては、一回り歳下の僕を友だち扱いして、いろいろな場所やイベントに見に来るように誘ってくれた。その結果、この上ないアートの世界に導かれると同時に、文学、建築、写真……等を一緒に見て、大いに勉強になった。龍野さんが1993年に亡くなり、山崎さんが2006年に亡くなった今、出版界におけるあのようなお付き合いしてくれる先輩方がいなくなった。それにしても、僕がいたダイヤモンド社の社風に比べ、新潮社には自由と進取の気風があった。僕は文藝春秋にも知人が多い。新潮社、文藝春秋いずれも社員が大好きな企画や編集をやる気運が満ち満ちているように思った。●新田敞(ひろし)さん;出版部長から常務取締役を務めた。新田さんが出版部長であった当時、偶然、同じ著者にぶつかることが何回かあった。新田さんがある時、病院に入院すると、隣の病室には作家の森本哲郎さんが入院中。おかげで二人は企画会議がいつでもできることを喜んだとか。●山岸浩さん;僕が素晴らしいと思った叢書「創造の小径」を熱心に編集していた。当時、「創造の小径」全巻を買う人は稀有なことだった。なにせ高額本だったから。僕はその全巻を買って持っていた。山岸さんと一緒に個展を見に行って、親しい著者・宗左近さんとバッタリ出会ったことがある。直ぐそばのビアホールでハーフ&ハーフで乾杯したのがついこの間のことのように思い出す。残念にも40歳前後で夭折された。僕は山岸さんの編集感覚に、大いに刺激されたものだ。

・まだ生きている方たち――。●前田速夫さん;東大のボクシング部出身。「新潮」編集長。僕のダイヤモンド社での編集担当本『アイアコッカ』の版権を買ってくれた人だ。お蔭で『アイアコッカ』はダイヤモンド社で99版を達成したが、100版は新潮社に任せて、会社は印税をしこたま稼いだ。その後、前田さんは歴史研究者になり、『渡来の原郷――白山・巫女・秦氏の謎を追って』以下、注目すべき本を出している。●酒井義孝さん;画廊、古本屋、映画館とよくご一緒した。京王線のつつじヶ丘南口に住んでいた。池波正太郎の担当で、よく池波本をもらったことを覚えている。つい最近、ご自分の担当した『石本正と楽しむ裸婦デッサン』刊行を記念して、特別講演会を開いた。講師・酒井義孝として活躍の場面がネット画面に流れているのを見て、頑張っているなと思った。●伊藤暁さん;奥様も新潮社出身。その奥さんの友だちは、同じ新潮社出身で澁澤龍彦さんに嫁いで有名になった龍子さん。伊藤暁さんは、澁澤龍彦さんと比べられるのがはなはだ不愉快と、夫人に文句を言っていた。立川に住んでいたが、よく我々の集まりに参加してくれた。清流出版の単行本を新潮文庫にしたいと版権を買ってくれた。思いがけぬ時に、かつての友だち関係は生きてくるのが楽しい。●伊藤幸人さん;長年、「フォーサイト」を担当。25年前、外人記者クラブで徳岡孝夫さんに紹介してもらったのがきっ掛けでお付き合いが始まった。かつて「フォーサイト」の伊藤編集長が書く『次代を「考えるヒント」』は、僕もよく愛読していた。今の肩書は、新潮社広報宣伝部長。最近の『週刊新潮』を見ると、よく伊藤広報宣伝部長の談話が出てくる。活躍しているなとわがことのようにうれしい。亡くなったお父上は、元住友商事社長・会長という。●山田恭之助さん;『新潮45+』(現在は『新潮45』)の初代編集長。山田さんとは平山郁夫さんとひろさちやさんの対談本でお世話になった。平山さんの行きつけだった鎌倉の寿司屋の二階を借りて、都合8回ほど対談を行なった。その単行本『アジアの心 日本のこころ』は会場費、食事代等が嵩んだので採算分岐点が心配になったが、結果的に黒字になって成功した。その他、山田さんには月刊『清流』の編集でお手伝いをお願いした。●伊藤貴和子さん;新潮社の女性は、何人か知っているが、代表して伊藤貴和子さんをご紹介したい。初めて出会ったのは「龍野忠久さんの出版記念会」だったか、「龍野忠久さんを偲ぶ会」か忘れたが、いずれにせよわが親友にして博覧強記の正慶孝明星大学教授が、才女の伊藤貴和子さんをご紹介してくれた。その後また、天才ヤスケンこと安原顯の葬儀の時に、伊藤貴和子さんが紹介してくれたのは僕の憧れの方・辻佐保子さんだった。辻邦生さんの令夫人である。伊藤貴和子さんの編集担当は数々あるが、かつては司馬遼太郎、いまは塩野七生担当と聞いてうらやましく思った。今は、財団法人 新潮文芸振興会国際文化交流事業担当という肩書。伊藤貴和子さんも新潮社のよき人材として印象に残っている。

 

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山川方夫全集を前に僕

 

2011.01.17『硫黄島を生き延びて』の著者・秋草鶴次さん

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かつて洋上大学でご一緒した時の一枚(前列中央が秋草鶴次さん)

・秋草鶴次さんの『十七歳の硫黄島』(平成18年、文春文庫刊)を読んだときは、僕自身、大変な衝撃を受けた。足利市の農家の長男として生まれ、十七歳の時、あらかじめ玉砕を運命づけられた硫黄島に海軍通信兵として配属された。十分な飲み水も食べ物もない極限状態を生き延びなければいけない。一番安心できる食べ物は、なんと自分の体に湧いたウジだったという。非情で過酷な状況に耐え、そして生き抜いた方であり、いかなる人物なのかと興味を抱いたものだ。

・その秋草鶴次さんと、平成十九年五月、洋上大学でお会いできることになった。二万三千トンを超える豪華客船“ふじ丸”での九泊十日の旅である。是非、お会いできたら、わが社で続編をお願いしようと思っていた。当時、『十七歳の硫黄島』は常にベストセラー上位にランキングされていた。この洋上大学は「根っこの会」の加藤日出男会長が、ほぼ毎年のように続けてきたもので、硫黄島沖、グアム島、サイパン島を巡る慰霊を兼ねた船旅である。ご一緒することになった二〇〇七(平成十九)年は、洋上大学三十九回目に当たった。加藤会長はこの回のゲストとして秋草さんご夫妻を招待したのである。洋上大学は参加総勢四百名を二十人ずつ班分けし、グループ行動を共にしたが、運よく我々は秋草さんと同じ班であった。

・そもそも僕がこの洋上大学に参加しようと思ったきっかけは、加藤会長の『生涯青春』という本を弊社から刊行させていただいたご縁からであった。八十歳を目前にしながら、正に生涯青春を地でゆくような会長の若々しさに感心させられたこともある。それに船内でサイン会をして本の販促に一役買ってくれるというのである。そんな経緯で編集担当した出版部の臼井雅観君、出版部顧問の斎藤勝義氏と三人で参加したのである。

・秋草鶴次さんは、復員後に、戦争体験を原稿用紙1000枚以上にわたって秘かに綴るも、ご両親にはその悲惨さを知らせたくないと、生前中は一切見せず大切に保管されてきた。二〇〇六(平成十八)年夏、NHKが放送した『硫黄島玉砕戦 生還者61年目の証言』で取材に応じるまで、秋草さんをはじめ多くの元帰還兵は、硫黄島での惨状に一切口を開かず、沈黙を守ってきた。また、二〇〇八(平成二十)年九月、在日米軍の計らいで硫黄島を訪問した秋草さんが、六十三年ぶりに地下壕の入口の前に立って「ここに戦友がいるんだ」と嗚咽した。どれもこれも沈黙を破り、戦争を語ることは、戦争を生き抜いた人にとって、もう一つの闘いだったのだと思い知らされた。

・今回の『硫黄島を生き延びて』の「あとがき」に、「正しい戦争、聖戦などといえるものが本当にあるのだろうか。私には信じられない。あの戦争はなんだったのか? 南方等の戦場で失われた300万を超す命は、この世の平和の柱となって現世を支えている。その散華によって、現世に平和の尊さを教えている。我々は平和を託されている、と私は理解する」という文章がある。この文章から秋草さんの平和を願う気持ちがひしひしと伝わってくる。

・YouTubeでも秋草さんの硫黄島訪問と発言をご覧になることができる。これは在日米陸軍チャンネルで作られたものだが、「YouTube-010.IwoJima 1硫黄島の戦闘の経験 1、2、3」をクリックすると見ることができる。肉声に触れたい人は是非、こちらも視聴されてはいかがだろうか。


大いに語る秋草鶴次さん。84歳には見えず。

2011.01.13大久保清朗さん、高崎俊夫さんとシャブロル映画を語る

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・待望されていた翻訳書『不完全さの醍醐味――クロード・シャブロルとの対話』が間もなく弊社より刊行となる。この日、翻訳者の大久保清朗さんが再校ゲラを持参してくれた。翻訳者として大久保さんを推薦し、この本の仕掛け人でもある編集者の高崎俊夫さんも相前後して来社された。クロード・シャブロルと言っただけでお分かりの方は、相当な映画のファンであり、わけてもヌーヴェル・ヴァーグに詳しい方と想像がつく。ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーと並ぶヌーヴェル・ヴァーグ「三羽烏」と謳われたのがシャブロルだからだ。

・先に、訳者の大久保清朗さんをご紹介しておこう。1978年の東京生まれ。映画研究者(特に成瀬巳喜男の研究家)、日本映像学会員。現在、学究の徒でもあり、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論博士課程に在学中という。蓮實重彦さん、山根貞男さんと共著で『成瀬巳喜男の世界へ リュミエール叢書36』(筑摩書房刊)、「クロード・シャブロル、あるいは逆説の日常――『ヴィオレット・ノジエール』をめぐって」(『映像表現の地平』、中央大学出版部刊)などの著書がある。

・大久保さんの映画への洗礼は小学6年生までさかのぼる。その頃、スピルバーグ監督を通じて黒澤明を知ったらしい。つまり初めて知った映画監督がスピルバーグであり、そのスピルバーグが心酔していた黒澤明監督を知ったというわけである。ちょうど、黒澤監督の『夢』が公開されていた頃だろうか。アメリカの映画監督を経由して世界の黒澤明を知った日本の小学生。若き秀才の幼き日、映画体験が織りなす事実だ。僕は面白い話だと思った。

・クロード・シャブロルは、ヌーヴェル・ヴァーグ三人衆の中で、最初に長編デビューを飾った監督である。僕にとっては、長編第2作『いとこ同志』(1959年)が強く印象に残る作品だ。田舎からパリに出て来た朴訥で真面目な青年(ジェラール・ブラン)と寄宿先のいとこで女好きの遊び人(ジャン=クロード・ブリアリ)との関係。二人は法学の勉強のために同居する。放埓ないとこのせいで、真面目な青年がどんどん影響されていく。正にヌーヴェル・ヴァーグを体現する青春ドラマである。この作品は第9回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞し、その偉才ぶりを印象づけた。

・そのクロード・シャブロルは昨年(2010年9月12日)、残念ながら亡くなった。1930年生まれだから、享年80。この原書は、ほぼ1年前に翻訳を開始したから、ご本人が生きていたとしたら邦訳を契機に来日も可能であったと思われる。残念である。このホームページの2010年9月の時点で高崎俊夫さんがいち早く「〈愛の欠如を描く詩人〉クロード・シャブロルを追悼する」を書いておられるが、その解説で、「1957年、エリック・ロメールとの共著『ヒッチコック』が出版した批評家時代のシャブロルが、理不尽にも犯罪に手を染めてしまう人間存在の深い闇を鋭くえぐる才能は、明らかにヒッチコックの最良の後継者と呼ぶにふさわしい」と指摘されている。

・クロード・シャブロルが作った『肉屋』(1970年)、『野獣死すべし』(1969年)の2本も素晴らしい映画で、こちらは大久保清朗さんから送っていただいたDVDで見た。『肉屋』の女性主人公はステファーヌ・オードランで、どうでもいいようだが彼女はジャン=ルイ・トランティニャンの元妻であったことを初めて知った。『野獣死すべし』の原作は英国のミステリー作家ニコラス・ブレイク(『野獣死すべし』永井淳訳、ハヤカワ文庫)で、僕はすでに読んでいた。ニコラス・ブレイクは有名な詩人セシル・デイ=ルイスのペンネーム。この作品は、息子を轢き逃げで失った父親が、復讐を心に誓い、探偵まがいの行動から真犯人を特定していく“復讐の挽歌”である。この二作とも、シャブロルが素晴らしい監督であったことを証明している。

・シャブロルが残した監督作品を見ると第一作の『美しきセルジュ』(1958年)を筆頭に、『いとこ同志』、『二重の鍵』、『気のいい女たち』、『パリところどころ』、『女鹿』、『野獣死すべし』、『肉屋』、『ジャン=ポール・ベルモンドの交換結婚』、『ヴィオレット・ノジエール』、『意地悪刑事』、『マスク』、『ふくろうの叫び』、『ボヴァリー夫人』、『沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇』、『嘘の心』、『ココアをありがとう』、『悪の華』、『石の微笑』、『権力の陶酔』……等、名画・傑作が目白押しだが、昨年『不貞の女』(1969年)のDVDを見て、僕はスリラーの醍醐味を味わった。夫(ミシェル・ブーケ)と妻(ステファーヌ・オードラン)、浮気相手(モーリス・ロネ)を巡って、緊密で抑制されたシャブロル演出が堪能できる傑作だった。高崎さんが言うように、クロード・シャブロルは大いにヒッチコックの後継者の資格ありと納得したものである。

・大久保清朗さんの情報によると、クロード・シャブロルの静かなブームが始まっており、間もなく爆発しそうだという。シャブロル特集が、3月、アテネフランセ以下すでに数回組まれているのが予兆とのことだ。シャブロルの監督作品は短編を含めると57作品あるが、とにかく日本では上映作品が少ない(未公開作品が多い)。少年時代の思い出から遺作となった『刑事ベラミー』まで、犯罪映画に情熱を傾けた孤高の映画作家が、監督した長編50作品の舞台裏を語り尽くしている。

・シャブロルの全貌が、この翻訳書で初めて明らかになるわけだ。シャブロルを知るのに、今、日本にはこの本しかない。シャブロル絡みのイベントや映画祭が期待できると同時に本も売れると思っている。大久保さんの説によると、2011年はヌーヴェル・ヴァーグという枠を超えて「シャブロル元年」といった再評価が映画ファンの間にも高まるのが必至という。特にシャブロルが敬愛したジョルジュ・シムノンの2本の映画化(『帽子屋の幻影』と『ベティ』)は日本で早く公開されてほしいと言う。大久保さん、高崎さんと一献傾けながらお話ししていると、お二人の映画芸術論が耳に心地よい。映画の細部の描写などに会話が弾んで、しばし時の経つのを忘れていた。

 

映画ファン、とくにヌーヴェル・ヴァーグの大好きな人たちにとって、大久保さん、高崎さんの薀蓄ある話は堪えられない!

2010.12.13番外編。清流出版の忘年会から。

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・日頃からお世話になっているライター、デザイナー、イラストレーター、校正者、外部編集者、印刷会社営業マン……などを招いて、社員ともどもささやかな忘年会をある夕べ、神田神保町の「新世界菜館」で挙行した。といっても、毎月、清流出版にお付き合いした方々を全部呼べば200人以上を超える数になるので、席の関係で全部呼べない。したがって、外部の方の代表として17名、そして社員8名、合計25名で小宴会をした。

・ここで出席者の名前を挙げたい(敬称略)。佐竹茉莉子、山中純子、柏谷佐和子、浅野祐子、塩見弘子、岩下幸子、宮下二葉(以上、ライター)、高崎俊夫(外部編集者)、西山孝司、村上晃三(以上、デザイナー)、くすはら順子(イラストレイター)、茂原幸弘(校正・校閲担当者)、対間克之(印刷会社)、斉藤勝義(海外版権エージェント)、村上愛(総合秘書)、社員では藤木健太郎、松原淑子、臼井雅観、田邉正喜、古満温、金井雅行、木内文乃、加登屋陽一、当日の司会は長沼里香と秋篠貴子。石田裕子、高橋与実、横沢量子の3人は、いずれもお子さんの具合悪くて欠席したが、早く治ることを祈りたい。

・僕の乾杯音頭で始まったが、挨拶は言語障害があるため聞きにくかったに違いない。フランスの哲学者アランの言葉を引きつつ、「本日の夕刊で発表された国家公務員の賞与が平均すると59万円強。ローンなどを抱えて苦しい人も多いと聞くが、その点、清流出版の賞与は国家公務員より多くて、ご同慶の至り」と僕は発言した。多分、僕のセリフに社員は納得されたと思いたいが…。

・恒例のビンゴ大会で、会場は大いに盛り上がった。勿論、空クジなしである。今年の賞品は、ワイン、日本酒等の酒類から、お米券、デパートの商品券、その他、腕時計、置時計、しわ取りクリームなんてのもあって例年に増してバラエティに富んだもの。ビンゴの司会者は金井君。長沼、秋篠の両嬢が補佐役として頑張った。20分位で、1等賞が臼井君に決まった。目出度し。本人は、その賞金を全部宝くじにつぎ込んで、さらに大化けさせたいと夢は膨らむ。僕の乾杯の挨拶でアランは、「人はワクワクドキドキしたい、と思っている。その一つが賭けである。どうせ賭けるのなら、自分の夢に賭けてみたい」と紹介したが、臼井君、賭けはアランも薦めている。この際、頑張って大きな夢に挑戦してほしい!

・お料理は中華料理だったが、フカヒレ、北京ダック、上海蟹と三羽烏のそろい踏み。大いに堪能してくれたものと思う。最後に藤木君が締めの挨拶をした。「来年の干支は、ウサギである。兎は常に臨戦態勢で、活発な繁殖活動を行なう。清流出版も来年、常に臨戦態勢で臨みたい!」とラッパを吹き鳴らした。今年もいろいろあったが、皆さん、「あの年の忘年会がよかった」などと思っているようではいけない。さらに、より一層、上を目指してください!

 

2010.11.24小山明子さんと大島渚監督の金婚式

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小山明子さんと大島渚監督の金婚式から。貴重な一枚をお借りした。

・小山明子さんがご来社された。ご著書の『小山明子のしあわせ日和――大島渚と歩んだ五十年』(弊社刊)の取材を受けるためである。お忙しい介護の合間を縫いながら、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ等に精力的にご出演くださっている。これだけ積極的に動いてくださる方はまれで、版元としては、まさに涙を流さんばかりに有難い著者である。

・この日(11月22日)も、午後2時から、文化放送の「大竹まことゴールデンラジオ」に生放送でゲスト出演され、その足で、わが社に向かわれた。最初に時事通信社のインタビュー、引き続き、産経新聞社の「話の肖像画」のインタビューを受けた。その後、学士会館に会場を移して、雑誌『パンプキン』の取材を受けられたとか……。移動をしながら四つのメディアからの取材である。お疲れにならないはずはないが、小山さんは終始、にこやかに応対をされ、そんな様子は微塵も感じさせなかった。ご自宅の鵠沼から、東京に出てくるのは大変である。精力的に取材依頼に応じていただき、本当に感謝の言葉もない。小山さんのマネージャー山田智江さんはじめ、販促のお手伝いをいただいたブラインドスポットの浦野稚加さん、わが社の編集担当・秋篠貴子も頑張ってフォローしてくれた。

・『小山明子のしあわせ日和――大島渚と歩んだ五十年』のパブリシティ関連を整理してみると、『女性自身』(小山さんインタビュー)、東京新聞・生活面『家族のこと話そう』(インタビュー)、テレビ朝日「ワイドスクランブル」の『山本晋也 人間一滴』(小山さんゲスト出演)、『毎日が発見』(小山さんインタビュー4ページ)、『ゆうゆう』(小山さんインタビュー)、『クロワッサン』(著者インタビュー)等々が、各メディアに登場する。検討中のメディアもあり、今後しばらくは、取材にTV、ラジオ出演にとご厄介をかけると思う。

・この本には、大島渚監督が脳出血で倒れてから、小山さんが介護うつになるなど、壮絶な病いとの戦いが描かれている。小山さんが書いた全四章の本文が感動的で、僕は何回も読み返した。ちなみに僕は、大島監督と同じ年に脳出血で倒れて入院し、右半身不随になった。畏れ多くも同病の戦友のつもりだ(僕はその後、もう一度脳出血を起こし、左右の脳を損傷している)。

・また、小山さんと瀬戸内寂聴さんとの対談も掲載している。京都の“寂庵”で収録されたものだが、小山さんを理解している格好のお相手。お互い理解し合い、尊敬し合っているのが、文脈から感じ取れる。寂聴さんにはこの本への推薦文を寄せてもらったが、「病夫 大島渚さんへの無償の愛と献身こそ、小山明子さんの美と若さの妙薬であった!」と絶賛しておられる。

・2010年10月30日、小山明子・大島渚夫妻は、近親者・お身内の方々に見守られて金婚式を挙げられた。本にそのことが予定調和のように「あとがきにかえて――二人の金婚式」で書かれているが、実際の刊行はその直前になった。金婚式の模様を小山さんが持参した何枚もの写真とテレビ番組(フジテレビ「スーパーニュース」)で僕は拝見した。その時の素晴らしい演出が忘れられない。お二人が「有楽町で逢いましょう」をデュエットされたのである。そこに僕は、夫婦の強い絆を見ていた。深い信頼関係が伝わってきた。僕は涙なくして見ていられなかった。

・この本には、『親子鼎談 大島家のこれまで、これから」(小山明子さん、長男・大島武さん、次男・大島新さん)も所収されている。その中で、大島武さんが「お父さんが倒れてから一五年だけど、よく頑張っているよね。しかも、これ以上ないほど楽しそうに日々を過ごしているのだから、頭が下がります」とおっしゃっている。愛息からもこんな評価をされる小山さんの献身ぶり。これだけ寄り添って介護される大島監督はつくづく幸せ者である。

わが社で、小山明子さんを囲んで、秋篠貴子と僕。背景に月刊『清流』のカバー。

2010.11.17小池邦夫さんの個展会場で。小池先生と臼井君と僕

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小池邦夫さんの個展会場で。小池先生と臼井君と僕。

・今年もまた小池邦夫さんの個展の時期がきた。11時過ぎに会社を出て、会場である銀座の鳩居堂画廊に馳せ参じた。すでに11月9日から個展は始まっていて、この日は12日の金曜日である。会期は二日を残すのみだが、あいにく土曜、日曜は松本市で法事の予定が入っていた。伺うにはこの日しかなかったのである。鳩居堂のエレベータ前に着いて盛況を確信した。何組かのご婦人グループが並んで待っている。2度、乗り過ごしてからようやく会場へ。会場である4階の画廊は、ごった返していた。9割方がご婦人たちだが、絵手紙人口の拡がりから、全国から熱心な絵手紙愛好家が駆けつけてきたと思われる。

・僕は混雑の中を縫いながら、やっとのことで近作絵手紙や筆文字の作品を見ることができた。小池さんはといえば、ファンの方たちにとり囲まれ、質問やら賞賛の声を背景に大忙しの態である。しばらくして、その小池さんが僕に近づいてきて、「先日は、武者小路実篤の本を出してくれて有難う」と、先に挨拶されてしまった。たくさん自著を買っていただいて、御礼を言いたかったのはこちらなのに、改めて腰の低い方だと思った。こんなに混雑している会場は初めてだというと、小池さんは時間帯に関係あるのだという。聞けば、主婦の方々は家事を片付け、午前中に見に来られる方が多いのだという。そんなこととは露知らぬ僕は、一番混雑するピーク時に訪れてしまったというわけだ。

・今回の個展は、一言で言えば「絵手紙50年!」のキャッチフレーズ通り、小池さんの絵手紙創始以来、半世紀の歩みがよくわかる仕組みになっていた。展示された作品も、その50年間を象徴した作品ばかりで、僕が見慣れぬ「吾作」の落款が押された絵手紙もあった。小池さんに聞いてみると、まだまったく無名で売れない二十代前半ころ、畏友・正岡千年さんに送った作品によく付けたものだという。農家の生まれだった小池さんが、「田吾作」を洒落のめしてつけた雅号であった。

・絵手紙作家の小池邦夫さんと書家・水墨画家の正岡千年さんは、ともに愛媛県松山市の出身。中学、高校と同級生であった。大学の進路こそ東京学芸大学(小池さん)と青山学院大学(正岡さん)に分かれたが、無二の親友であり、お互いに尊敬し合う仲として今日に至っている。展示された作品の中に、正岡千年先生宛とあり、「だれもこない、電話もない、世に捨てられた」と書かれた作品があった。今では考えなれない不遇の時代から、お二人が水墨の世界に魅せられ、お互い切磋琢磨されてきたことがしのばれた。小池さんの転機は34歳の時である。『季刊 銀花』総発行部数6万冊の一冊に一点ずつ、オリジナル絵手紙を挿入するという企画である。制作期間は1年間。毎日200枚ずつ描き続けなければ達成できない。同じ絵手紙を描くのだって大変なのに、何十種類も描くのだからさらに厳しい。こんな途方もない企画に挑戦し、成し遂げたことで、小池邦夫の名が世に知られることになった。“手紙書き”を仕事にしている人は、この人をおいてない。

・午後になって会場が少し空いてきたので、小池さんとも自由に話せるようになった。早速、臼井君は小池さんといろいろ仕事の打ち合わせを始めた。次に出す単行本企画のスケジュールを詰め、さらには臼井君本人の著になる絵手紙関連の単行本企画への協力も取り付けているようだった。そう、小池さんの一番弟子である臼井君の本もわが社から刊行する準備を進めている。臼井君は小池さんとは30年以上のお付き合いで、『絵手紙を創った男』(あすか書房刊)を書き、師の小池さんが認めた存在である。絵手紙愛好家が参考にできるような本が出せれば、小池さんも後押ししてくれるという。そのための精進が待たれるところだ。僕も一読者として、臼井君の本を楽しみにしている。

2010.11.01あることがきっかけで、うつ病に?

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野見山暁治さんと。かつて長島葡萄房の店で。今となれば懐かしく、僕にとっては貴重な一枚。

 

・僕がわが社から復刊を切望していた企画がある。それは、『出世をしない秘訣――すばらしきエゴイズム』(ジャン・ポール=ラクロワ作、椎名其二訳、1960年)という本である。50年も前に出た翻訳本に執心するのにはわけがある。実は、わが恩師・椎名其二先生の翻訳で、当時、ベストセラーになった本であるからだ。6年ほど前のことになるが、版権を持っている理論社のK氏にお会いする機会があった。神田のオフィスを訪ね、わが清流出版に同著の版権を譲ってほしいとお願いした。その時、K氏は理論社で復刊したいので、版権を譲ることはできないとおっしゃった。そういう事情であればと、僕も泣く泣く諦めた経緯がある。

・ところが、その企画がこぶし書房から刊行されることになったという。僕が椎名先生について書いたホームページを見て、9月11日、こぶし書房編集部のTさんからメールが届いて知った。版権を譲り受け、刊行するに先立ち、椎名其二さんの著作権継承者、ご遺族である相澤マキさんの連絡先を教えてほしいとの問い合わせである。早速、僕は前々から、理論社のK氏に版権を譲ってほしいとお願いしていた経緯を説明した。Tさんは驚いて、K氏に会いに行き、確認をしてくれた。K氏は「今回、こぶし書房から復刊するにあたって、1960年に刊行した経緯、ならびに椎名さんについてのエッセイ30枚を書きます」との返事を得たという。9月21日のことであった。完全に清流出版や加登屋の名前は、あの尊敬すべき信州人K氏の頭には残っていなかったのだ。僕は、日頃から出版人として尊敬してきたK氏に裏切られたことになる。ショックのあまり、僕は軽いうつ状態になってしまった。僕の父もそうだった。陽気で活発な性格だったが、古希の声を聞いてから突然、うつ病になってしまった。僕も70歳になってのうつ状態とは……うつ病は、遺伝するのかもしれない。

・ほどなくしての10月6日、理論社が東京地裁に民事再生法の適用を申請したというニュースが入ってきた。負債総額22億円。2008年4月期の総売上高15億7600万円だから、それを大幅に超える負債額だ。戦後すぐの1946(昭和21)年4月創業で、絵本や児童書では秀でた出版で鳴らした。あのK氏の創業した良心的な出版社が倒産とは……。そして、K氏のお眼鏡にかなったこぶし書房は、例の黒田寛一氏が設立し、福本和夫、高島善哉、務台理作、ヘーゲル、シェリング等の哲学・思想を出版する硬派な出版社である。言った言わないの争いごとは好まない。今となっては、こぶし書房にいい本作りをしていただいて、再び脚光を浴びて欲しい本だと思っている。

・この『出世をしない秘訣――すばらしきエゴイズム』が刊行された当時、椎名さんは73歳、僕は大学3年生(20歳)で、椎名さんには全人的な魅力を感じていた。このホームページにも何回か書いたが、親友の長島秀吉君は僕に負けず劣らず椎名さんの大ファンで、恩師の写真をタタミ一畳大にして部屋に飾っていた。当時、長島君のご母堂が「秀吉は、特注で拡大して飾っているんですよ」と僕に愚痴ったことがある。長島君と僕は、毎週、椎名さんとフランス語の原書を読んで、その後の椎名さんの内外情勢に対する高度な薀蓄話を楽しみにしていた。その椎名さんが赤貧生活の上、日本の政治的貧困、風紀紊乱の世を嘆き、かつて40年間住んだフランスへ帰ろうとした。その旅費の一部にしたいと翻訳した本で、僕にとっても特別思い入れの強い、思い出の一冊である。

・ある日、長島君と僕が、椎名さんの6畳の狭い部屋にいると、作家の芹沢光治良さんが訪ねて来た。『出世をしない秘訣』の話が出て、椎名さんが「そろそろ週刊誌が取材に来る。俺はあまり話すこともござんせんが……」という。本当に『週刊新潮』の記者が来て、僕たちは廊下に立って取材の話を聞いていた。いまでもはっきり覚えているが、記者が「出世をしない秘訣は、逆説のロジックで、そのようにしたら出世をする秘訣になりませんか」と質問した時、椎名さんが「俺の人生は、そのまま文字通り出世をしない秘訣でござんす。著者と僕は本音で出世を嫌っている!」と断固として答えた。芹沢光治良さんも、「椎名さんとはこうした方です」と応じた。長島君と僕は、記者は何とくだらない質問をするのかと、道すがら腹を立てたことを覚えている。今思い出しても懐かしいエピソードだ。

・いくらベストセラーになったとはいっても、廉価な新書版であり、フランスに帰る旅費には足らない。それを側面から支えたのが、野見山暁治さんである。当時、パリにいた野見山さんが椎名さんの旅費にと、主にデッサンを三十数枚送ってくれた。それに呼応した親友の仏文学者・山内義雄先生が音頭を取って、野見山さんの絵画を周辺の方に購入を薦めた。長島君も僕も野見山さんのデッサンを買った。売れ残った絵は全部、山内義雄先生が引き受けたと言う。こうした友情があって、椎名さんはフランスに帰ることができた。椎名先生はパリへ戻り、しばらくしてオンドヴィリエ村で余生を過ごした後、パリ市内の病院で息を引き取った。1962年のことだった。享年75。

・最後に、椎名先生と読んだ「クラシック・ガルニエ」版のヴォルテール作「ロマン・エ・コント」にある『カンディード、或は楽天主義説』に触れて話を終わりたい。この「クラシック・ガルニエ」版とは、椎名先生に薦められて20冊程集めた叢書だ。なかなか読めない原書だったが、いつか読んでやろうと思った。その中でも、『カンディード、或は楽天主義説』は、椎名先生とフランス語授業で最初に読んだ作品で思い出深い。その最後にある第30章に結語がある。――カンディードはただこう答えるのだった。「お説ごもっとも。けれども、わたしたちの畑は耕さなければなりません(Cela est bien ditmais il faut cultiver notre jardin)」。何より「実践」が大事であると、僕は学生時代、啓蒙哲学者ヴォルテールから学んだ。自分の畑を耕すことから僕の一日を始めなければならない。そう自戒している。

・椎名さんは高潔で純粋のまま、世間の当り前に断固「ノン」を唱え、孤高のまま死んでいった。僕は、あまりにも俗人であり、椎名先生の弟子とはお世辞にも言えない。昨年、畏友・長島君も他界した。椎名先生のことなら、夜を徹してでも語り尽くしたいが、今では語れる人がほとんどいなくなった。残念なことこの上ない。

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クラシック・ガルニエ版「ヴォルテール」の『カンディード』を読む。

2010.08.02鈴木皓詞さんを囲んで

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鈴木皓詞さん(左)を囲んで。右から秋篠貴子、藤木健太郎、僕

・月刊『清流』は創刊以来、今年で17年目に入っているが、創刊号からご執筆されている方が二人だけいる。安芸倫雄さんと鈴木皓詞(こうし)さん(左)である。そのお一人、茶道家の鈴木皓詞さんをご紹介したい。僕が、同期会や仲間の集まりに行くと、皆さんから「鈴木皓詞さんの連載を楽しみにしている」とよく言われる。僕の数少ない女友達も、圧倒的に鈴木さんファンが多い。『清流』の最新号が届くと、真っ先に鈴木さんのページを開くという方が多いのだ。趣味が茶の湯という方は、すべからく鈴木さんの誌上弟子と思っているに違いない。そして、鈴木さんが取り上げる話題は実に多岐にわたる。日本の伝統行事から、戦国武将や高貴な方、僧門の偉い方、文化人等の茶にまつわる逸話など、心に沁みてくるお話ばかり。だからこそ、もっと読みたいという方が多いのも、当然といえば当然である。

・鈴木皓詞さんは、北海道のお生まれ。得度して僧籍に入るが還俗。日本大学藝術学部卒業、在学中より裏千家の茶の湯を学ぶ。主な著書には、『近代茶人たちの茶会』『茶道学大系4・吉兆料理と日本料理』『茶の湯のことば』(以上、淡交社刊)、『茶の湯からの発信』(清流出版刊)、『物に執して』(里文出版刊)等がある。いずれも数寄者の蘊蓄が凝縮されている。お茶の世界は、茶室、庭、茶道具、焼物、掛けもの、書画……など、広範囲にわたって関係してくる。美術品の鑑定もよほどの目利きでなければ務まらない。あの小林秀雄も何度か苦渋を飲まされている。真贋を見分ける目を養う近道というものはない。骨董屋さんも一流になるには、小僧の頃から本物を見続けて、目を肥やしていくしかない。鈴木さんは、その確かな目利きのお一人。「ご覧になって、この壺、茶碗……はこの値で決めましょう」という値決めをすることも許されている。かつて中尊寺の夥しい宝物の値段が、何年もかけ、鈴木さんのアドヴァイスによって確定したという話もある。

・鈴木さんとのお付き合いも、かれこれ30年になろうか。きっかけは僕のかつての職場の同僚、否、麻雀、競馬、将棋等の遊び仲間であった田村紀男さん(元ダイヤモンド社社長)に紹介されたことによる。田村さんは秋田県出身で直木賞作家の和田芳恵氏の甥筋とか聞いた。その同郷の和田芳恵さんを師匠として学んだ鈴木皓詞さんは、最初、小説家志望だった。その後、曾野綾子さん、三浦朱門さんご夫妻と運命的な出会いをする。例えば三浦朱門さんが文化庁長官になった際、鈴木さんは秘書役として尽くされた。いまはその三浦さんも日本芸術院院長。鈴木さん曰く「私はこのお二人の食客で、週に4回もごちそうになったこともあるんですよ」。長いお付き合いである。曾野綾子さん、三浦朱門さんとの交流では、数々の面白い逸話もあるようだ。抱腹絶倒の話もお聞きしたが、差し障りがあるのでここでは言えない。

・鈴木皓詞さんは、茶の湯の世界では“裏千家”のみならず、“表千家”、“武者小路千家”など、流派を超えて親しいお付き合いをされているとか。そういった付合いができる人というのは、この世界でも稀有な存在らしい。月刊『清流』以外にも、『淡交』、『なごみ』、『目の眼』等の専門誌などに茶の湯のことを書いておられる。この日も、『目の眼』の最新号を持ってきて僕にくれた。『目の眼』には「物に執して」のタイトルで連載している。この号が実に135回である。松永耳庵のことをお書きになっていたが、耳庵翁のことは『清流』や『茶の湯からの発信』でも、何回も書いてくださっている。僕は、その耳庵さんには頭が上がらない。直接、松永安左ヱ門に、どうこうしたというわけではない。実は鈴木さんが年に何回かくれる酒の名前が、「松永安左ヱ門翁」(玄海酒造 壱岐)なのだ。高価で貴重な本格焼酎で、呑み始めたら止められない美味しさである。他にも鈴木さんは、「森伊蔵」「百年の孤独」等の銘柄を僕に送ってくれたことがあるが、いずれも素晴らしい焼酎であった。

・この日、『清流』の編集担当・秋篠貴子は、鈴木さんの連載したページが出来上がって雑誌を持って行ったが、実は、僕はもう一冊わが社の単行本を持って行った。『独歩 辻清明の宇宙』(辻清明著、写真・藤森武、装丁・坪内祝義、31500円)がこの日、見本が上がってきていたので、鈴木さんに見せて感想を聞こうと思ったのだ。だが、これは野暮であった。一目見るなり、鈴木さんは話題を変えた。この席は、鈴木さんご贔屓の名店「鮨寛」(港区六本木)である。美味しい寿司を肴に、お酒を楽しむ場所である。それが、もてなしの心というものである。正直言って、これほどの美味しい酒と寿司は近ごろ味わったことがない。著者である鈴木さんにご馳走になったのでは、本末転倒である。今回散財させたのを申し訳なく思う。鈴木さんにはポトラッチを上回るもてなしの心があるようだ。

2010.07.15宮崎正弘さんを囲んで

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宮崎正弘さん

・現在、日本で最も注目されるチャイナ・ウォッチャー(中国通)といえば、真っ先に名前が挙がるのは、間違いなくこの人、宮崎正弘さん(写真)。宮崎さんの中国通ぶりには、近年、ますます拍車がかかっている。とにかく訪れた回数が半端ではない。中国への渡航も、数十回に及ぼうかという人なのだ。福建省、広東省、四川省、山東省、河北省など、中国33のすべて省、直轄市、モンゴル、ウイグルなど自治区、特区を踏破している人など、日本人ではそうそういまい。宮崎さんは、これを『出身地でわかる中国人』という本にまとめている。だから細部にわたって実に詳しい。そもそも現地で日本人と思われない。ほぼ、中国人で通ってしまう人なのだ。会話も自然だから現地の人も取材されているとは思っていない。それほど溶け込んでいる。“中国を一つの国だと思うのが、そもそも間違いだ”というのが宮崎さんの持論である。

・例えば、同じ中国国内であっても、“愛国虚言”を弄する北京人がいれば、海外志向が強い上海人がいる。広東人の日常の挨拶は「儲かりまっか」だというし、“中国のユダヤ人”と異名をとるしたたかな温州人がいる。凶暴なマフィアで知られるのは福建人である。辺境の地を行けば、漢族を恨むウイグル、チベット族がいる。中国の少数民族は、漢族を除いて実に55族にものぼるといわれている。当然のことながら、地域が変われば言葉は通じないし、気質も習慣も違う、文字通り多民族国家なのである。宮崎さんの言は、地道な取材の裏づけがあるだけに説得力がある。宮崎さんによれば、なぜか嫌われ者は上海閥、上海人なのだそうだ。だから上海万博に7000万人もの人が押しかけるのはあり得ないという。その嫌われ者の上海閥が、実は政治の中枢を牛耳っている。軍を支配しているのは、山東閥であり、商業については広東省が台頭しつつあるという。複雑に利権・特権が入り乱れているのである。

・宮崎さんから配信していただいている、プログ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」は、僕の知っている限り読み手も多く、ほぼ毎日、多いときには数度も更新されている。宮崎さんの著書は、これまで約150冊にも及ぶが、そのうち半分くらいが中国の分析、早耳情報だと思う。僕と宮崎さんとはダイヤモンド社時代からで、30年以上のお付き合いになる。最初のころは、「日米の特許戦争」「先端産業ルポ」から、「三島由紀夫もの」なども書いてもらったが、最近はやはり中国ものが中心だ。弊社から刊行した『中国よ、「反日」ありがとう!』『迷走中国の天国と地獄』『風紀紊乱たる中国』など、何れもタイムリーなテーマということもあり、よく動いた。

・今回も同じ中国もので、『上海バブルは崩壊する――「宴のあと」の悪夢のシナリオ』(仮題)を予定している。宮崎さんの企画書にあった、「中国の上海バブル崩壊は、秒読み、ドバイ、ギリシアの1000倍!」を見て、すぐさま弊社に来てもらった。弊社から数分のところに、宮崎さんがよく行く中華料理店がある。宮崎さんが関わる「憂国忌」など、九段会館でのイベントも結構あるが、その後、必ず行くのがこの中華料理店だ。その店で一緒に昼食を摂りながら、細部の詰めをさせてもらった。上海万博がまだ開催中ということもあり、このテーマだったら早く出せるにこしたことはない。もともと宮崎さんの原稿執筆は早いほうであり、基礎となる原稿はすでに書き上げてある。大至急、ブラッシュアップしていただくことになった。藤木健太郎君が編集担当者、外部編集スタッフに信頼できる旧知の川鍋宏之さんにお願いして、9月刊行を目処に進めさせてもらうことになった。

・黄砂に埋もれる北京、泥海に沈む上海、自壊していく中華帝国の未来が見えてくる。経済繁栄はうたかた、“邯鄲の夢”のように儚く消える。農村は疲弊し、相次ぐ農民の反乱。少数民族が反旗を翻し、蒙古族のナショナリズム復活が囁かれる。イスラム教徒のテロも脅威になりそうだ。内では、ドルなど外貨を着服する政府高官が続出している。子弟を海外へ留学させ、スイス銀行にせっせと預金する。着服し持ち出す外貨が半端でないので、あるはずの外貨準備高と実際の外貨との差が著しいなど、中国ならではの異常事態も露呈している。中国崩壊の序曲は、上海のみならず、すでに内側から始まっているのである。面白い本になりそうな気がしている。他社の最近の販売実績からしても、ある程度の部数は配本できそうだ。この先も、中国ものをあと数弾仕掛けたい気持ちがある。宮崎さんとは、今後とも長いお付き合いになりそうだ。よろしく宮崎さん。

 

2010.06.28佐治晴夫さん、堤未果さんを囲んで

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 左前から堤未果さんと佐治晴夫さん

 ・本欄に何回も登場いただいた新進気鋭のジャーナリスト堤未果さん(前列左)の対談本の企画を進めている。一人目の対談相手として素晴らしい方を選んでくれた。佐治晴夫さん(前列中央)である。理学博士で理論物理学と宇宙物理学が専門という。現在は鈴鹿短期大学学長の要職にありながら、大阪音楽大学客員教授と玉川大学客員教授を兼務し、超多忙の身である。昭和10年生まれというから後期高齢者に該当する75歳だが、どう見ても60代前半にしか見えない。数々の研究、発言、発想、行動も若々しさに満ち溢れている。「行動する学者」の典型だと感じた。この日の対談は、堤未果さんがジャーナリストの本領を発揮し、和気藹々とした中にも時に鋭い突っ込みもあり、よい対談となった。

・佐治さんの研究で有名なのが、1/fゆらぎ理論である。ゆらぎ研究会を主宰し、数学、物理、美学を融合させ、学際的新分野の「数理芸術学」を提唱された。かつて僕は、龍角散の故・藤井康男社長の本を手がけたことがある。藤井さんのご家族は、弦楽四重奏をファミリーでしばしば演奏され、1/fゆらぎ理論を実感されていた。この藤井さんの本で僕が1/fゆらぎ理論をいち早く紹介しているのも不思議な暗合で嬉しかった。また、佐治さんは無からの宇宙創成の理論やNASA(米航空宇宙局)によるボイジャーのゴールデンレコードにバッハのプレリュードの収録を提案した話が有名である。2010年6月23日、日本の小惑星探査機「はやぶさ」は、地球から3億キロ彼方の小惑星「イトカワ」へのタッチダウンを果たし、数々のトラブルで満身創痍になりながらも、奇跡的に地球に戻ってきた。この話をされているとき、佐治さんは思わず涙声になった。小惑星「イトカワ」、探査機「はやぶさ」というそれぞれの名称は、日本宇宙開発の父である故糸川英夫博士にちなんだもの。「はやぶさ」を開発した母体の組織が以前、「イトカワ」先生がいた東大の生産技術研究所だったこと、それに加えて、第二次世界大戦で活躍した陸軍の名戦闘機「隼」の設計者が糸川先生だったことによる。僕もかつて糸川英夫先生の単行本を作ったことがあり、よく六本木のオフィスをお訪ねした。チェロを弾きバレエにも挑戦していた糸川先生。お忙しい身である先生は食事らしい食事をとらず、いつもアンパンやコッペパンで済ましていたことも印象に残っている。

・佐治さんは糸川先生と同様、趣味も多芸多才で、例えば能楽をたしなみ、国立能楽堂の舞台で「菊慈童」を演じたのをはじめ、各地の能舞台に上っている。また、囃子の大倉流太鼓奏者の大倉正之助さんとしばしばコラボレーションイベントを行なうこともある。つい先頃(2010年4月23日)、お亡くなりになった免疫学者の多田富雄さんも、謡曲を唸り、新作能をお作りになって、同じ趣味の佐治さんとも交友関係にあった。多田さんは9年前に脳梗塞で倒れ、意識回復後、謡曲を自分の脳機能を試すために頭の中で歌ったという。話が変わるが、佐治晴夫さんは自動車のA級ライセンスをお持ちであり、テストコースで時速300キロを超えるスピードをしばしば体験している。スピード狂だった僕もさすがに300キロという経験はなく、アウトバーンで記録した240キロというのがマックス。佐治さんによれば、210キロと280キロ付近に壁があり、280キロを超えると鼻の奥にツーンときな臭い、独特の匂いを感じるという。物理的ではなく、精神的な匂いであるというのも興味深かった。

・詳しい話は省くが、本田宗一郎さんともご交友があり、ホンダの新開発試作車に試乗して意見を求められたこともある。加速性能、エンジン音、ハンドルやブレーキの利き方など、専門家にしかわかり得ないメリット・デメリットを鋭く指摘し、あの本田さんを驚かせたらしい。佐治さんは、飛行機のA級ライセンスも持っており、あのサン=テグジュベリの数々の冒険の中から得た思想・哲学のすべてを作品に訳せるのは、自分しかいないと自負しているという。なぜなら、サン=テグジュベリはパイロットであり、雲中飛行、夜間飛行など飛行が重要なシーンとして登場してくる。この心理描写はパイロットの実体験なしでは分からないらしい。そして最後のサプライズをご披露しよう。なんと佐治さんは、将来の夢として、「神主」の資格をとりたいとおっしゃる。常に新たな挑戦を続ける、この前向きな生き方にも心底感心させられた。

・堤未果さんのもう一人の対談相手が決まっている。脳科学者の茂木健一郎さんだ。佐治さん、茂木さんの素晴らしい学者二人と、どのようなやりとりで単行本に仕上げていくのか、いまからわくわくしている。残念なことに2010年4月9日、未果さんのご尊父「ばばこういち」さんがお亡くなりになった。享年77。合掌! 落ち込むなというほうが無理だが、これからも前進し続けてほしい。お母さまの堤江実さん、夫の川田龍平さんはじめ、未果さんの周りにはまだまだ心強い味方がたくさんおられる。今後とも、大いなるご活躍をお祈りしている。

 

2010.06.21堤江実さん、出射茂さん、功刀正行さん

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・詩人の堤江実さんの作、画家の出射茂さんの絵、農学博士の功刀正行さんが解説――弊社では、この三人の共同作業による絵本「地球いのちの星シリーズ」三部作を刊行した。この絵本が日本書籍出版協会の主催する造本装幀コンクールにおいて、『水のミーシャ』(ブタペスト・クラブ会長のアーヴィン・ラズロ博士のご推薦をいただいた)が“読者推進運動協議会賞”、『風のリーラ』が“ユネスコ・アジア文化センター賞”、『森のフォーレ』が同じく“ユネスコ・アジア文化センター賞”を受賞した。

・シリーズ三部作のスケジュールは毎年一冊ペースで刊行してきた。それらすべてが受賞するというのは極めて稀有なことであり、称えられるべき快挙であろう。受賞をお知らせすると、3人は、ワイン持参でお祝いに駆けつけてきた。美味しいブルーチーズを食べながら杯を重ねた。話も弾んだ。7月10日(土)に東京ビックサイトの第17回東京国際ブックフェア会場で授賞式とパーティが行われる。デザイナーの西山孝司さんと晴れの場に参加するつもりだ。

・もともと、お三方は世界に誇る豪華客船「飛鳥」の講師仲間であり、長期間、生活を共にされた間柄である。阿吽の呼吸で意が通ずる。だからこそ、こうした魅力ある絵本が出来たのだと確信できた。これからは三冊をセットにして、新たに販促を仕掛けたいと思っている。また、バイリンガルの作りになっているので、外国人にも理解が可能だ。すでに韓国からは引き合いがきている。シカゴやフランクフルトなどブックフェアで欧米にも売り込みたいと思っている。世界に雄飛する可能性もある金の卵なのである。

 

 

 

 

2010.05.31松井喜一・美知子ご夫妻

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 松井喜一・美知子ご夫妻


・天気のよい日は、自宅近くの野川沿いをゆっくり散歩する。歩数にすれば3000から4000歩、距離にして約1500メートル位であろうか。僕にとってリハビリを兼ねた散歩は絶対に欠かせない。サボるとてきめんに結果として表れる。右足が反り返って歩行困難になってしまうのだ。そうならないために一所懸命歩くので、周りの人々や景色が目に入らないことが多い。だがすれ違う相手は、僕の杖と歩き方を見ている。右半身が不自由であることは一目瞭然らしく、「大変ですね。がんばってください」と話しかけてくる人もいる。


・僕には言語障害もあるが、相手がフレンドリーだと、つたないながらあれこれ話が弾んで、フッと気づくと2時間経っていることもしばしば。その散歩の途中で親しくなったご夫婦を紹介したい。そのご夫婦は、かつて同じマンションの住人だった。実は昨年、隣の町に引っ越しをされたのだ。同じ野川沿いで、健常な人の足で20分ほどのところである。お名前は松井喜一さん、美知子さん。


・ご主人のホームページが充実しているので、それを元にザッと略歴をご紹介する。松井喜一さんは元電通の映像事業部長で、現在は陶芸家(落款は「松風」)としてご活躍だ。富士の麓裾野市に「松風陶芸窯」を築窯、富士焼を創始した方で、現在は焼き物のほか、ゴルフ、旅行、エッセイの執筆などを楽しんでおられる。昭和21(1946)年生まれの団塊世代。浦和高校からICU(国際基督教大学)に進み、フランスのストラスブルグ大学に留学した。その後、1968から69年にかけ、フランスからシルクロードを経てインド・カルカッタまで約3万キロを車で踏破する。


・70年、電通入社。79年、同社パリ支局を創設。87年まで責任者として駐在した。87年に帰国。その後、黒澤監督の最終作品「まあだだよ」、ヴィム・ヴェンダース監督「夢の果てまでも」、フレッド・スケピシ監督「ミスター・ベースボール」ほかに、スタッフとして映画製作に携わる。僕は元電通の作家・新井満さんご夫婦とは、長い付き合いがある。いつも新井さんから新著、CDなどを贈ってもらう仲だと言うと、ますます親しみが増した。


・今週、この松井さんからお葉書を戴いた。それによると、10年ぶりの個展を開催するという。タイトルは、「元気の出る器」展。器に富士山の溶岩を練り込んだことにより、イオンを発生する“パワー陶器”を焼いたのだという。早速、僕は妻に車で連れて行ってほしいと頼んだ。興味を引かれた方は、下記に連絡先を記すので訪れてみたらいかがだろう。場所は、調布市深大寺元町3-30-3 曼珠苑ギャラリー(深大寺山門そば)TEL0424-87-7043 期間は、平成22年7月1日(木)から7月6日(火)開館時間は11時から17時。おいしい深大寺蕎麦と古刹参詣をかねて、松井松風さんの元気の出る器を楽しみにしたい。


・松井さんのホームページには、いつも感心している。文章力がある上、取り上げるテーマが実に広範囲にわたる。最近では、「大和路逍遥」を数回にわたって楽しんだ。力作で読みでがあり、覗いてみることをお勧めする。古くは、「ばら色の人生(40年前地球散歩)」も興味深かった。1967年のユーラシア大陸横断の記録が元になったが、こうした経験をされた方は滅多にいない。22歳だった松井さんの冒険譚は、あの小田実や小澤征爾に勝るとも劣らない快挙と言いたい。


・奥様の松井美知子さんのホームページもよく読む。『フランスとフランス語の話』と題され、読むと忘れ去ったフランス語がおぼろに蘇ってくるような気持ちにさえなる。美知子さんは、青山学院大学を経て、現在は大妻女子大学でフランス語を教えている。著書も数冊あり、僕がもらって愛読しているのが『パリの憂鬱』(シャルル・ボードレール著、松井美知子訳注、大学書林語学文庫)である。有名な『悪の華』と並ぶ、ボードレールの傑作である。懐かしかったのが、『パリのどこかで(改訂新版)』(第三書房刊)の著者陣に美知子さんと一緒に山崎庸一郎さんが入っていたこと。約40年前のこと、山崎庸一郎さんにサン=テグジュペリについて原稿執筆をお願いしたことがある。その後、数度、手紙のやりとりをしたことが強く印象に残っている。


・美知子さんの発信している情報で一番の楽しみが、「映画」関連のお話。つい最近も、カンヌ映画祭が終幕、今年のパルムドール(最高賞)はタイの『ブンミおじさん』に決定したのを美知子さんのホームページ(もちろんユーチューブ)で知った。その映画で僕の大好きなジュリエット・ビノシュ(主演女優賞)を、美知子さんのホームページで見せてもらえたのは、うれしい限り。ご主人の葉書が届いた翌翌日、散歩の途中でバッタリ美知子さんに会い、映画談義で盛り上がった。最近(2010.1.12)、お亡くなりになったエリック・ロメールの『緑の光線 Le Rayon Vert』こそ、フランス映画の大傑作、ということで意見の一致をみた。早速、わが社で刊行している『中条省平の「決定版! フランス映画200選」』をお贈りすることを約束した。
 

2010.04.26川鍋宏之さん、僕

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川鍋宏之さん、僕

 

・弊社から『福田和也と魔の思想』(2005年)、『悠仁天皇と皇室典範』(2007年)の二冊を刊行させていただいた筑波大学名誉教授・中川八洋さん。この度、緊急出版を提案してこられた。現・民主党政権に危機意識を持ち、参議院選挙前のできるだけ早くに出してほしいとのご要望である。中川さんの依頼文によれば、民主党政権がこのまま続くと日本は崩壊(カタストロフィ)へと向かいかねないとまで言い切る。その論拠をざっと見ていくと、民主党のシンパサイザーでさえ、「これは容易ならぬ事態である」と思うこと必至で、大いに波紋を呼びそうなテーマである。

・先に弊社では、藤原肇さんの著になる『さらば、暴政――自民党政権、負の系譜』という本を刊行した。小泉から安倍、福田、麻生と続いた自民党政治の迷走と暴政ぶりを総括したもので、当然のことながら民主党寄りの論点で書かれている。この本は特にネットを中心に浸透し、増刷にもなっている。中川さんの本は、まったく逆の立場からの論調で、それだけに一瞬躊躇したのも事実だが、民主、自民両陣営の本を発行するのも、小社のような小出版社らしくて良いじゃないか。

・テレビ司会者の田原総一朗さんなら、もっと激しく対立する者同士を登場させ、丁々発止と渡り合う場を用意するであろう。いわば「お互いをけしかけるジャーナリズム」である。岐路に立たされている日本の政局。どう舵取りしていったらいいのか。群雄割拠する小政党も含めて、いずれにも言い分はあるはず。持ち込まれた原稿を、平等に出版して、読者の判断を待ちたい。そんな観点から、民主党政治の危機的状況を指摘する中川八洋さんの『民主党大不況――ハイパー・インフレと大増税』(仮題)を刊行するつもりだ。これも小出版社が生き残る一つの選択肢である。

・天下の秀才である中川八洋さんは、初めは理工系の学問(東京大学工学部航空学宇宙工学コース)を目指し卒業したが、その後、ガラッと興味の対象を変え、米国に留学し、スタンフォード大学政治学科大学院を修了された。帰国後、科学技術庁に勤務された後、筑波大学に転じ、同大教授、現在は同大名誉教授になられた。

・理工系から文系へと転じた中川さんは、現在まで約五十冊の単行本を上梓されてきたが、それを著作集か全集として出版したいという構想もお持ちである。『中川八洋著作集(案)』の全貌を拝見すると、深淵な構成によって、清流出版の既存書も位置づけられる。まず全体を見ると、哲学・現代思想・憲法思想のジャンル(第1巻-第4巻)、国際政治学のジャンル(第5巻-第8巻)、比較政治学のジャンル(第9巻-第10巻)の3部構成になっている。弊社より刊行した『悠仁天皇と皇室典範』は、第2巻「皇位継承学」に、もう一冊の『福田和也と魔の思想』は、第4巻「現代思想」の範疇に入る予定となっている。そして、今回の『民主党大不況――ハイパー・インフレと大増税』(仮題)は、第9巻「"日本解体の制度改悪の連鎖"をいかに阻むか」に入る予定とのことだ。

・写真に写っているのは、本書の校正、校閲の任に当たった川鍋宏之さん(右)である。本来ならば、著者・中川八洋さんが写っていなければいけないのだが、緊急性を帯びた企画なので、どんどん進めた結果、残念ながら間に合わなかった。それに中川さんはどうやら、都心の赤坂のマンション住まいから、閑静な別荘地に居を移したようである。

・川鍋宏之(通称ナベ)さんのお兄さんは、『週刊現代』元編集長で、1975年に『日刊ゲンダイ』を作ったあの有名な川鍋孝文さんである。漏れ伝えるところによると、「賢兄愚弟」、「小市民的な人生を送れない弟」とお兄さんは言うようだが、僕から見ると、どうしてどうして弟の宏之さんは立派な見識があり、校正・校閲者としても極めて有能な方である。作家的な資質もあり、良質のエッセイや小説も書ける方だと僕は確信している。

・ナベさんは、僕がかつてダイヤモンド社で『レアリテ』誌の編集者をしていたとき、助っ人募集に応じてきた一人。約100名の応募者の中でも光っており、僕が自信をもって採用した優秀な男である。入社してしばらくの間、ナベさんは、僕のことを「試験官」と呼んで揶揄したものだ。その後、ナベさんはダイヤモンド社の組合委員長として、大いにその辣腕ぶりを発揮することになる。考えてみれば、その頃は、二人ともまだ三十歳前後の若者だったわけだ。

・中川八洋さんに、外部編集スタッフとしてナベさんを予定している、と言うと、『日刊ゲンダイ』は中川さんをこれまで目の敵にしている共産党機関紙のようなので、お断りしたいと言う。僕は、川鍋兄弟の間を知っているので、仕事の上で中川さんの心配は全く杞憂だと反論した。藤原肇さんの『さらば、暴政――自民党政権、負の系譜』も、川鍋宏之さんが校正、校閲している。結果的に、川鍋さんを起用してよかったと確信している。中川さんも校正・校閲の仕事ぶりを見て、この人選に納得してくれたものと思う。

 

・中川さんの真正保守主義者としての本領が、本書にはよく現れている。ちなみに、2部構成であり、第1部 「民主党の解剖カルテ――日本崩壊への政治アジェンダなのか?」、 第2部 「溶解して消えるのか? 迷走する自民党――政権奪還の道が、ただひとつだけある」となっている。  

・もう少し詳しい内容については、章タイトルをざっとご紹介しておこう。

 第一章 北朝鮮型「子供の国家管理」

     ――民主党「子育て支援」の、本当は怖ろしい正体

 第二章 "欲望人の衆愚政治"となった、日本の民主政治

 第三章 夫婦別姓、ラブ&ボディ、フェミニズム 

     ――「日本人絶滅」への三大スーパー高速道路

 第四章 ナチ型の一党独裁体制が、民主党の狙い

     ――魔語「官僚主導政治の打破」で隠す底意

 第五章 東アジア共同体、地方分権、外国人参政権

     ――「日本国の廃滅」に至る、国家解体の三大政策

 第六章 "大企業つぶし"が、民主党の秘めた真意

 第七章 "英国の大宰相"マーガレット・サッチャーに学ぶ

     ――福祉国家路線の断罪、"自立&勤勉"の復権、

       社会主義思想の絶滅

 第八章 "転落と破綻"の自民党二十年史

 第九章 「国家永続法」(仮称)の制定

     ――出生率低下/家族解体/勤勉の倫理の否

       定/赤字財政の増大/〈法の支配〉の破壊

・今年の夏は、保革混在、稀に見る政治不況下での〈決戦〉が見られるだろう。二大政党それぞれに、政治への不信感が払拭できないでいる。無党派層の投票行動によっては、多くの政治家たちの予想を裏切る結果になるかもしれない。そうなると、弊社の出版物も余り期待できないかもしれない。

2010.04.01竹本さんと堀尾さん

 

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竹本忠雄さん、堀尾真紀子さん、長沼里香、僕

 

・堀尾真紀子さん(右)は昨秋、弊社から『絵筆は語る――自分色を生きた女たち』を上梓されている。その堀尾さんから、筑波大学名誉教授の竹本忠雄さん(左から2人目)をご紹介いただいた。早速、日時を指定して、担当編集者の長沼里香(左)をはじめ、わが社の幹部(藤木健太郎、松原淑子、臼井雅観)を交えて竹本さんの単行本企画案を検討することになった。


・堀尾さんは東京藝術大学大学院修士課程入学後、フランスへ留学(フランス国立美術工芸大学)しているが、現地で竹本忠雄さんの知遇を得て、すでに 40年近いお付き合いになるという。堀尾さんの留学期間(1969-70年)には、僕もフランス語版の雑誌『レアリテ』の版権交渉や編集技術、販売・広告戦略のノウハウを取得するためパリに滞在していた。だから三人が現地で遭遇する可能性もあったわけだが、それほどドラマチックな出会いはさすがに用意されていなかった。今回、40年という長い時を経てようやく実現したのである。


・今回の企画は、堀尾真紀子さんの著書(『画家たちの原風景――日曜美術館から』、NHKブックス刊、1986年)の中でも、1章を設けて記述されている銅版画家・長谷川潔を改めて世に問いたいという話である。堀尾さんも件の『画家たちの原風景』で長谷川潔の生涯を俯瞰し、「マニエール・ノワール」(黒の様式)を完成するまでの経緯を執筆されている。当の長谷川潔は1980年に亡くなった。画家本人が執筆、構成した本が上梓(1982年)されているが、読みたくても絶版となった今ではなかなか手に入らない。


・そこでこの貴重な『白昼に神を視る』(長谷川潔著、白水社刊、4500円)をわが社から復刻しようというのである。一言でいえば長谷川潔の画文集だ。語録、遺稿、書簡、回想録を集成し、重要作品を精巧な図版によって忠実に再現する。渡仏62年、ついに一度も故国に帰ることなくパリに客死した銅版画家・長谷川潔。彼はこの本で、芸術の底流に流れる思想的背景、対自然観、作品の構成法、版画の技法などを明らかにしている。


・長谷川仁、魚津章夫、竹本忠雄の各氏が編集者の立場でこの本に深く関わっている。とくに「回想録」は、竹本さんが1967年10月から約 2年にわたって画家のアトリエに通いづめ、本人から直接聞き書きをした労作である。さらに竹本さんは、刊行に当たって、今日的意義を加筆するとともに、堀尾さんの「長谷川潔の思い出」等も追加、更なる充実を図りたい意向だ。幸い来年は、長谷川潔の生誕120年、没後30年の節目に当たる。出版に絶好のタイミングということもある。


・ここで竹本忠雄さんのプロフィールを紹介しておきたい。東京教育大学大学院修士課程修了後、1963年に仏政府給費留学生としてソルボンヌ大学に留学。専門はフランス文学だが、美術、文芸、霊性文化の領域でも評論、講演活動をする等、国際的に活躍しておられる。コレージュ・ド・フランス元客員教授で、フランス騎士勲章受章。アンドレ・マルローとの親交で知られる方でもある。『ゴヤ論―サチュルヌ』 (アンドレ・マルロー著、竹本忠雄訳、1972年)や『アンドレ・マルロー――日本への証言』(竹本忠雄著、美術公論社刊、1978年)など、マルロー関係の名著訳書もある。


・僕は会う前から竹本さんには旧知の印象があった。その理由は、共通の友である評論家の宮崎正弘さんのお蔭だとも言える。彼のブログ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」が日々ネット配信されてくるが、例えば、フランスの文化大臣アンドレ・マルローは1974年に日本を訪問、熊野・那智の瀧や伊勢神宮に参拝している。五十鈴川の清流で禊をうけた折に体得し「このバイブレーションはなんだ」と震えたことを宮崎正弘さんがブログに書いている。


・そして、竹本さんに関する動向もよく記述される。著書『皇后宮美智子様 祈りの御歌』(扶桑社刊)、『天皇 霊性の時代』(海竜社刊)などを書評で取り上げているが、特に歌集は、竹本さんが皇后宮美智子様の『瀬音―皇后陛下御歌集』(大東出版社刊、1997年)をフランス語に訳された労作(歌集『SEOTO』)である。竹本さんは御歌選集『セオト―せせらぎの歌』を3年がかりで訳し、2007年に完成されている。皇后伝執筆のために積み重ねてきた研究は、《皇后宮(きさいのみや)美智子様―ポエジーと祈り》として訳書の後記に生かされている。この竹本さんの訳業は、全世界の心ある方々に皇后宮美智子様の素晴らしさを伝える好著となった。実は、僕の部屋には美智子皇后陛下が御蚕の繭玉を慈愛溢れる眼で見つめている写真が飾ってある。日々、そのお姿に挨拶し、「今日もお元気ですかと?」お尋ねするのが僕の日課となっている。


・竹本さんによれば、『白昼に神を視る』を段取りよく制作するには、横浜美術館がキーポイントになるとのこと。同館は長谷川仁さんからの寄贈を含め、長谷川潔の作品を3000余点所蔵しているという。そして、同館学芸員の猿渡紀代子さんが長谷川潔の熱心な研究者であり、『長谷川潔の世界』(渡仏前・渡仏後1、2全三巻、有隣堂刊)の著書がある。堀尾さん、猿渡さんのご協力をあおいで、良い本が出来ることを期待している。


・なお、堀尾さんの旧著『画家たちの原風景――日曜美術館から』も、弊社で復刊することを決めた。この本は、第35回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。長谷川潔のほか、神田日勝、芹沢銈介、池田遙邨、三岸好太郎と節子、斎藤義重……などを俎上に乗せた画家論である。かつて『家永三郎集、月報、第3巻、1998年1月』に堀尾さんが、《生活者にむける熱い眼差し――「日本文化史十二講」から》という論文をお書きになっている。今までこのような幅広いジャンルを、これほど優しく平易に書ける方はざらにはいないと実感した記憶がある。今回、復刻した本をお読みいただけば、皆さんにも僕の言うこの意味を分かっていただけるに違いない。

 

2010.03.01宇佐美恵子さん 室田尚子さん

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宇佐美恵子さん、小野間知子さん、ジョエル・ブリュアンさん、松原淑子、僕

・月刊『清流』で2年間にわたって連載していただいた宇佐美恵子さん(中央)と秘書の小野間知子さん(右)。これまでのご苦労を労うとともに、今後の単行本化をどうするか、会食しながらの会議となった。連載は、1年目のテーマが「ようこそ、宇佐美恵子のキレイ塾へ」で、2年目が「日々是進化」となり、宇佐美さんの生活と人生を赤裸々にお書きいただいた。1年目と2年目ではテーマが異なるので、単行本としてどのような章立てにするのか、工夫が必要だと思われる。でも、どちらも宇佐美さんの持ち味が十分発揮されているので心配はしていない。今後、別のテーマでご依頼し、3章立て構成もあるかなと胸算用をしている。宇佐美さんは、これまで『トップモデル物語』、『いい女になる33のヒント』、『人に好かれる”大人のキレイ”を楽しむ習慣 50歳からのさり気ない気品が身につく』、『お金のかからないエイジレス美人術』等の著書がある。わが清流出版の本は、もう少しワサビが利いた本を目指したい。その核となる部分が連載にも現れているので、安心している。編集担当である松原(左)の構成案を待って進めたいと思っている。

・宇佐美さんは、ソムリエの資格を取るほどのワイン通であることを聞き、僕は、東京ミッドタウンの「キュイジーヌ・フランセーズ・ジェイジェイ」にお呼びすることにした。オーナーシュフのジョエル・ブリュアンさん(右から2人目)は、ポール・ボキューズの直弟子である。本格的なフレンチを出すことで知られ、ワインも裏切られたことがない。美人好きのジョエル・ジュリアンさん。宇佐美さんのために腕を振るいサービスに努めてくれたが、果たして宇佐美さんの肥えた舌にかなったかどうか。宇佐美さんはソムリエの資格の話になると、「いえ、ノムリエでございます」と謙遜されるが、ワインについてもどう評価されたのか本音をお聞きしたい。

・宇佐美さんは平成20年1月に、美しく、お洒落で、人目を引く方だった伯母様(お母上の姉上様)を亡くされた。その伯母様は昭和22年、東京・中野に織田デザイン専門学校を設立し、校長を務めていた。精力的な働きをされていた伯母様が83歳でお亡くなりになったが、生前、宇佐美さんの人となりに惚れ、後を託したいとの思いが強かった。長年言われ続けてきただけに、宇佐美さんも引き受けざるを得なかったのだろう。平成20年4月に校長に就任する。トップ・モデルからファッションコーディネーター、アンチエイジング研究家として仕事の幅を広げてきた宇佐美さん。56歳にして初めて、組織を運営することになった。生徒募集、学校宣伝、入試、テスト、学校行事……。今までの生活が一変する。毎朝、6時に鎌倉の自宅を出発し、8時には中野の学校での朝礼、訓示、レポート、来客との応接……。僕も組織人としての経験があるが、伯母様の眼力は確かである。「あなたに託したい!」の夢は立派に実現されるだろう。僕も宇佐美さんならやり遂げる力があると思う。

・全学年合わせて800名。生徒数を聞いて、すごいなあと感嘆した。その中のファッション校では、毎年、成績がトップだった生徒をパリの姉妹校に遊学させる。宇佐美さんは、最終決定前にもう一度吟味する。果たしてその決定に誤りはなかったろうか、と……。例えば、生徒の生活実態に注目する。中には、奨学金をもらっても、学費ではなく生活費の一部として使ってしまう人もいる。そこをきちんとできるかできないかは、その後の人生に大きな影響を与える。また、留学生の問題もある。全生徒の20パーセントまでなら、外国人留学生の受け入れが可能だ。ところが現在その数は、5パーセントほど。それもアジア人留学生しかいないという。かつて森英恵に代表される日本のファッションは世界をリードしてきた。現代の日本におけるファッションは、いまいち魅力に欠けている。ファッションリーダーとして再認識させれば、留学生も自然に増えてくるはず、と宇佐美さんはその夢を語る。

・「学校法人 織田学園」をはじめ、「織田ファッション専門学校」、「織田きもの専門学校」を率いる他、併設校にも「織田栄養専門学校」、「織田調理師専門学校」、「織田製菓専門学校」、「織田福祉専門学校」、「おだ学園幼稚園」などがあり、全部合わせると、大きな教育産業グループになる。お父上は、「織田家の女は強い」とよく言っておられたそうだ。さにあらん、織田家は織田信長の弟の家系に当たり、新しい物が好きで、強い性格に特徴があるが、それは血筋のせいかもしれないとお母上もおっしゃっていたという。頷ける話である。

 

 

 

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室田尚子さん、青柳亮さん、僕

・前回(2006年6月)、本欄に登場された室田尚子さん(中)は、クラシック音楽を分かりやすく解説する本を執筆するはずであった。が、折悪しく(清流出版から見たらそうなるが、室田さんにとっては好運にも)素敵な男性と出会い、結婚するに至った。さらには、子宝にも恵まれる奇跡も起きたため、子育てと音楽評論に邁進するようになり、当時立てた単行本企画は頓挫せざるを得なかった。今回は、ご子息を預かる保育園が見つかったので、弊社の希望通り、執筆環境が整いつつある。果たしてどんなクラシック音楽の本を書いてくれるのか、と期待感は大きい。前回と同様、ラグタイムの青柳亮さん(右)が側面から応援してくれることになっている。

・改めて室田さんのプロフィールを簡単に述べよう。東京藝術大学大学院修士課程(音楽学)修了。現在、早稲田大学・立教大学・武蔵野音楽大学各講師。東京新聞や日本経済新聞、雑誌『音楽現代』等で演奏会評・音楽時評を手掛ける。また読売日本交響楽団の定期演奏会「名曲シリーズ」や読響『Orchestra』、『二期会通信』などをはじめとする演奏会の曲目解説を行ない、音楽評論家・ライターとして活躍中。特にドイツの音楽キャバレーにおける音楽文化、ヴィジュアル・ロックや少女マンガ、とくに「やおい」など、「ネット・コミュニケーション」「大衆文化」「オタク文化」をキーワードに、より幅広いフィールドで執筆活動を展開されている。そのほかにも、NHK?FM「クラシック・サロン」「クラシック・リクエスト」、衛星PCM放送ミュージックバード「Naokoのクラシック・ダイアリー」のパーソナリティを務めるなど、ラジオ放送でのクラシック音楽紹介にも力を入れておられる。著書には『チャット恋愛学 ネットは人格を変える?』(PHP新書)ほか、約10冊の共著がある。

・今回、企画再開にあたり、室田さんは、お正月明けのメールで編集担当の藤木君に「オペラを切り口にしたい」との意向を伝えてきた。狙いは「初めてのオペラ鑑賞」に絞り、オペラ劇場に行くところから、細部までオペラの楽しみ方を懇切丁寧に解説したいと言う。その発言を聞いて、僕は昨年末、日本経済新聞で室田さんが4回にわたって「オペラの中の女たち」をご執筆されたことを思い出した。それは女性のみならず男性読者にも読み応えのあるオペラの素晴らしい紹介エッセイであった。全くストーリーを知らない人も気楽に読めるもので、従来のステレオタイプのヒロイン観の由来を探り、新しい見方を提示している。明解で、ユーモアに満ちた文章なので、難しい内容説明も、ストンと腑に落ちる。『蝶々夫人』では、一人の女性として、「男に人生を賭けちゃダメよ」などと、女性にしか書けないアドヴァイスがある。室田さんは『二期会通信』に毎回、「オペラの楽しみ」という連載をやっていることもあり、このオペラファンを増やそうという願いもあろう。僕も以前からオペラを題材にする企画を本にしたかったが、室田さんのような才人におまかせすると、自由奔放に発想が飛躍するので必ず面白いものになると直感した。幸い藤木君は昨年5月に『歌劇場のマリア・カラス――ライヴ録音に聴くカラス・アートの真髄』(蒲田耕二著 弊社刊)を編集担当していて、このジャンルには実績がある。社内的にも意見が一致し、室田さんにぜひ自由に書いてもらいたいとお願いした。

・企画の細部にわたってここで全部明かすわけにいかないが、オペラに行きたくても躊躇している読者(特に女性)に対し懇切丁寧な解説、注釈、楽しみ方を室田さんが諄々と説明する内容であることを信じる。とにかく音楽を語って、面白く、薀蓄が増えること間違いなしと思う。室田さんの筆力は、今あらゆるジャンルで突出し、抜群である。願っても簡単に適わない方にご執筆いただけるので、僕は嬉しい!

 

 

 

 

・前号は椎名其二さんと森有正さんとの関係を主に話した。その延長線上で今回は、森有正さんの弟子・辻邦生さんのことを書く。辻さんがまだ立教大学文学部助教授の頃、僕がフランスで版権取得した新雑誌『レアリテ』のために、原稿執筆の依頼をした。テーマは「森有正氏の書斎」である。実は、椎名其二さんは哲学者アランの全集を所蔵していたが、それをすべて森有正さんに譲ってしまった。このことを僕は知っていたからである。日頃からアランのことを口にしていた椎名さん。今にして思えば、椎名さんは、森有正さんがアランに深く学んだほうがよいと言う親心で、譲ったのではないか。それを機として、森有正さんの書斎にはアラン・コーナーができた。辻邦生さんも恩師の書斎について書きたいと思っているに違いないと、30歳の編集者だった僕は考えたのだ。辻邦生さんは喜色満面、締切りの大分前に原稿を完成してくれた。その後、何かというとお声がかかり、池袋の喫茶店に呼んでくれ、楽しい会話をした。

・実は、辻邦生さんを知る以前から、奥様の辻佐保子さんのお名前は知っていた。辻佐保子さんの翻訳で、美術出版社から『ロマネスク美術』(ルイ・ブレイエ著 1963年)、『ビザンチン美術』(ポール・ルメルル著 1964年)、『ゴシック美術』(エリー・ランベール著 1965年)の三部作を、当時、次々と愛読したものだ。辻邦生さんが『廻廊にて』(1963年、新潮社刊)に続き、『夏の砦』(1966年 河出書房新社刊)を上梓されたが、確信があった僕は、「モデルは奥様でしょう?」と訊いて見た。「いやー、ほんの少々です。家内はあれほど魅力的ではないですから」と言いつつも、満更でもないという表情を見せた。辻佐保子さんとは、例の天才ヤスケン(安原顯)のお葬式で初めてお会いした。ヤスケンも、編集者として辻邦生さんと付き合っていたが、不思議なことに、我々二人は辻さんの前で会ったことはない。お互いに持ち味(テリトリー、ジャンル)の違いがそうしたバッティングを生まなかったと言えよう。そして僕が、同じ親しいとはいえ、一歩下がる編集者であったことが大きい。それにヤスケンは天才、加登屋は凡才だった。僕が最初の翻訳書『敗戦国の復讐――日本人とドイツ人の執念』(マックス・クロ、イブ・キュオー著、嶋中行雄・加登屋陽一共訳 日本生産性本部刊)を贈呈した時、丁寧な言葉で激励されたことは僕にとって数少ない誇りである。

・晩年の森有正さんの悩みは、哲学上の問題と、女性問題に尽きると僕は判断している。森有正さんは1911(明治44)年生まれ、森有礼の孫。1976(昭和51)年、65歳で亡くなっている。55歳の時、運命的に16歳年下(39歳)の女性に出会う。お相手の栃折久美子さんが『森有正先生のこと』(2003年 筑摩書房刊)をお書きになったので、読めばおおよそその関係は分かる。栃折久美子さんは、筑摩書房を経てフリーのブック・デザイナーとなったが、森有正の死に至るまでおよそ10年間、恋に溺れ、悩みながら生きていく。かつて一回目の結婚をした時も、離婚だの新しい恋人だの騒いだことに、椎名其二さんに「東京大学の偉い先生も自分のことになると全くだめだな」と揶揄された。

・栃折久美子さんの親友の一人がモリトー・良子さんである。モリトー・良子さんは、椎名其二さんにルリユールを学び、栃折久美子さんとの共著『ルリユール(Reliures)製本装釘展覧会カタログ』 を出されている。蛇足だが、ドイツ在住のモリトー・良子さんは、長年、月刊『清流』の定期購読者である。毎年、妹さんの曽禰知子さん(ご主人は元東急ハンズ社長)に、年間購読料を代わって納めていただいている。そのお二人の弟さんが住田良能産経新聞社社長で、華麗な血族であるのはお分かりいただけよう。モリトー・良子さんがドイツから帰国する度に、野見山暁治さん、近藤信行さんをはじめ椎名其二さんをよく知る方たちが集まる。その話は、月刊『清流』に近藤信行さんを取材してくれたのが藤木健太郎君で、まだフリーの編集者時代《1998(平成10)年》だった。『清貧に生きる』の特集で、「自由人として、生きる喜びを大切にした椎名其二さんのこと」(近藤信行さん談)を要領よくまとめてくれた。その文章の中には、昨年末に亡くなった親友・長島秀吉君の談話も入っており、今となっては懐かしい貴重な誌面を残してくれた。藤木君は長島君の自宅まで行き、取材しながら、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番を聴いている。取材が長引いて電車がなくなったので、長島君に愛用のシトロエンで送ってもらったという話だ。モリトー・良子さんが久しぶりに帰国された折、銀座で関係者が集うというので、僕も呼ばれたことがある。あの時から随分時間が経ったが、今もって懐かしい。長島君が生きていれば、出席した誰よりも熱く椎名其二先生の思い出を語り尽くすことだろうと残念でならない。

・「椎名其二さんの話」はまだまだ続けたいが、余りにも受けないテーマだと困るので、半分はそろそろ終わりにしたい気持ちもある。
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日本では暮らせないと結論し、再び40年間住み慣れたフランスへ。哲人72歳の椎名其二さんの胸に去来するものは何であったろう。貨物船に乗る前の椎名さんを長島秀吉君が撮った写真。

 

2010.02.01千代浦昌道さん 白河桃子さん 相澤マキさんほか

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千代浦昌道さん、藤木君、僕

・獨協大学名誉教授の千代浦昌道さん(右)。先月の本欄末尾で少し触れさせていただいたが、わが先輩であると同時に、わが親友の故・長島秀吉君のよき理解者でもあった。長島葡萄房でのコンサートには、愛妻とほぼ皆勤されるほどの、音楽を楽しむ常連である。千代浦さんはジャズコンサートにも熱心に通ったが、クラシックコンサートの「アンサンブル・ヴィーニャ」(ヴァイオリンの三好明子さん、チェロの大石修さんを軸に組んでいる日本フィルハーモニーの室内楽メンバー)が大好きだった。長島秀吉君は「アンサンブル・ヴィーニャ」の第100回長島葡萄房コンサート(2008年3月19・20日)に際し、アンサンブルの「小さな歴史」(第1回は1987年5月29日)を編んで出席者に配布してくれた。僕も清流出版の有志とコンサートに参加していたが、残念ながらその小冊子を紛失してしまった。後日、千代浦さんから拝借して親友が企画開催したコンサートの偉大な足跡を改めて偲んでいる。町の一介のイタリアンレストランのオーナーが、手作りのコンサートを20年以上情熱的に運営してきた。いまや町の名物となり、方南町イコール長島葡萄房コンサートとして耳の肥えたファンの期待に応え、成功している。このコンサートは大ホールで聴くコンサート以上に我々を感動させ、その記憶は今も胸に深く残っている。これまで、もし千代浦夫妻と会いたくなったら、長島葡萄房コンサートに行けば大抵会えたが、昨年暮れに長島秀吉君が亡くなって、最早、できなくなった。

・その千代浦昌道さんを年明け早々わが社に招いた。実はかねてより版権の取得を目指し、やっと取得できたフランス語の原書を見ていただきたいと提案したのだ。千代浦さんはご多忙の中を、スケジュールを繰り合わせて来社してくれた。原書は、ジャン?ミシェル・バロー著『現代の海賊ども』(Jean?Michel Barrault;PIRATES des MERS d’aujourd’hui GALLIMARD  2007年)である。著者のジャン?ミシェル・バローは世界一周航海者、海洋作家、ジャーナリスト、海洋アカデミー会員である。その著書は35冊以上に及び、大半が海洋に関するもので、世界十数か国で翻訳刊行されている。この本を紹介する前に千代浦さんという人物を紹介しておこう。

・千代浦さんには以前、僕の勤めていた出版社で翻訳を依頼したことがある。『海洋資源戦争――新たな分割競争を生きる道』(G.シュラキ著、ダイヤモンド社、1981年)がそれ。これはダイヤモンド現代選書の一冊として、当時、他に類のない書としてかなり評価を得た。当時の日本人、なかんずく政治家、経済人に、海洋資源をもっと重要視する姿勢がほしいと思っての出版だった。現在、このような問題に対し、日本は決定的に対応が遅れている。今回のジャン?ミシェル・バローの『現代の海賊ども』も、ソマリアの沖合などで船舶を襲う海賊を扱った本で、国際的にも日本が焦眉の急として対策を講じなければいけない重要テーマだと思う。そこで今回、千代浦先輩にご登場願ったというわけだ。原書はフランス語で書かれており、千代浦さんが最も得意とする言語である。その他、千代浦さんの主な翻訳書としては、『ヨーロッパの賭  経済再建への切り札』(ミシェル・アルベール著、竹内書店新社)、『フランスの経済構造』(ピエール・マイエ著、白水社)等がある。

・千代浦さんの大学での専門・研究テーマは、途上国の経済開発理論の研究、アフリカ経済の研究(旧フランス領アフリカ諸国を中心に)、現代フランス経済の研究と3つあるが、名誉教授となって多少時間的余裕もできた現在、「世界の海洋資源と紛争・戦争」の項目を加えていただけたらと思う。いや、もう一つ、「マダガスカルの政治と経済の研究」もある。研究者として現地へ何回も赴き、かのマダガスカルの高地族と海辺族、アジア系とバンツー・アフリカ系の民族間のいざこざや大統領選にまつわる話、農業の話などにも詳しく、原書の背景となる事情にも十分通じておられるのも強みである。

・ジャン?ミシェル・バローの『現代の海賊ども』だが、近年、ソマリア沖での頻繁な海賊行為が世界中で大きな関心を呼んでいる。だが、海賊行為そのものはソマリア沖だけではなく、東南アジア、マラッカ海峡、インド亜大陸、アデン湾、紅海、アフリカ、南米、カリブ諸島……と、全世界の海上で行われている。過去20年間に実に4000件以上起き、現在も多発している。しかも現在、世界の全物流品の97パーセント、石油の60パーセント以上が海上輸送に依存している。この貴重な財産を狙って、機関銃や携帯ロケット砲や手投げ弾で武装した組織的な海賊が出没し始めた。それも人質を取って身代金を要求したり、乗組員を拷問したり殺人を犯すなど、極めて凶悪、凶暴化しつつある。時には船を奪取し、塗装し直し、船名を変えて売り払うようなこともする。このような実態を個別に詳細に分析し、豊富な実例をドキュメンタリータッチで生き生きと活写し、海賊の実態を抉り出している。

・日本政府も海上自衛隊の護衛艦「さざなみ」「さみだれ」等を現地に派遣した。そして、2009年6月19日に自衛隊の新たな海外任務である海賊対策をめぐって「海賊対処法」が可決。海上自衛隊がインド洋での補給支援活動に加え、ソマリア沖での海賊対策部隊派遣を受けて、「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律」が成立した。いわば世界が注目する「時の話題」であった。海洋立国・日本が、大きく世界に貢献できることにもなる。そうした問題に真摯に取り組んだ本にしたい。そのこととは直接関係ないが、今、映画界ではジョニー・デップ主演の「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズがここ数年大人気となっている。「海賊」という単語はすでに、定着しているといってもよいだろう。翻訳書が刊行されたら、ぜひ有識者に読んで、書評に取り上げてもらいたいものだ。

・千代浦昌道さんと僕の関係についてもう少し述べておきたい。千代浦さんは僕より1年先輩で、ともに早稲田大学第一政治経済学部経済学科で学び、以来約50年間親しいお付き合いが続いている。千代浦さんはカトリック研究会(カト研)、フランス文学研究会(仏文研)の部活動をやり、僕の友人たちも同じ部活動で接点があり、そうした関係で知り合うこととなった。親しくなった経緯は大先輩の龍野忠久さんを中心に、日仏学院で長塚隆二先生の「フランス・ジャーナリズム研究」講座を一緒に学んだことが大きい。その日仏学院の行き帰りに聞いた、僕より12歳年上の龍野さんとの話が刺激的に面白かった。まもなく僕が出席した山内義雄先生のフランス語の授業も龍野さんとの関係を深める要因となった。千代浦さんとは学年が違ったので山内先生との結び付きは同じというわけではない。だが、学年や年齢を超え、いわば「龍野ファミリー」の一員として、千代浦さんたちと遊びながら芸術や文化のあらゆるジャンルで刺戟を受け、与えあったのは僕の人生においてかけがえのない幸せな体験だった。画廊、演劇、映画、写真、音楽、建築、デザイン、古本屋巡り……などをしながら全員で切磋琢磨した。この集まりの中に、先号で触れた長島秀吉君、正慶孝教授、神本洋治君、鈴木恭代さんらがいた。1993年秋、龍野さんが肺ガンでお亡くなりになって、以来、僕は千代浦さんを師として敬愛してきた。千代浦先輩は、大学を卒業した後、第一銀行に就職、その後、早稲田大学の大学院に戻って学問を究め、社団法人日本経済調査協議会の仕事を経て、獨協大学教授として学究生活を送られた。晩年は獨協大学図書館館長として腕を振るった。この間、パリなどの海外生活も経験された。かつて僕が若かりし頃、千代浦夫妻の結婚式の司会役を仰せつかったことを密かに誇りと思っている。千代浦さんは堅実な人柄と温厚な紳士として定評がある。例えば、読書はモンテーニュの『エッセイ(随想録)』を読むほかユマニストの著書を好み、『老子』をより深く理解したいと中国語を学び、努力を惜しまない素晴らしい人である。今後も折に触れて、その人格と教養の一端に触れたいと思っている。

 

 

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白川桃子さん、ジョエル・ブリュアンさん、松原、僕

・月刊『清流』に連載コラム「白河桃子のトレンド講座」をお願いしている今一番の売れっ子ジャーナリスト・白河桃子さん(左)をお呼びして、会議を兼ねた会食の時間を取っていただいた。白河さんは「婚活」という言葉をいち早く世に広めた方として知られる。「結婚活動」の略であるこの言葉は、NHKやフジテレビがすぐにドラマに使って、「婚活ブーム」が起こった。その火付け役となったのが『「婚活」時代』(ディスカヴァー刊)という著書を家族社会学の山田昌弘中央大学教授と共著で出版され、一躍全国区として有名な言葉となった。2008年の流行語大賞にもノミネートされたほどである。そのほかテレビの「情熱大陸」では、地方自治体の「お見合いパーティ」を改革していく白河さんを追い、役場のベテラン担当者も目からウロコとなった「白河流・交際管理術」を披露された。少子化問題や女性のライフスタイルについて、丹念な取材を重ねてきた白河さんは、非婚・晩婚化時代の救世主となるのではないかと期待されている。

・月刊『清流』では、「婚活」のほか、「アラフォー」、「草食系男子」、「ケータイ」、「レキジョ」、「ファストファッション」、「イケメン」、「ギャル」、「専業主婦回帰」、「森ガールVSクーガー女」、「B級グルメ」など今時のトレンドを1年間にわたって検証していただいた。この連載はひとまず終了するが、白河さんが長年温めていた別の企画を、少し時間をあけてご執筆いただく予定である。その有力候補は、「戦場に行った女性たち」。昨年お亡くなりになった上坂冬子さんは、川島芳子、満州事変、第二次世界大戦を幅広いテーマにお書きになっていた。だが、白河さんの場合は、現在紛争中のイラク、イラン、アフガニスタン、東ヨーロッパ、アフリカ、中南米、アジア……の現地に飛び込む日本女性たちが取材対象者。聴くと若い人がどんどん海外の紛争地帯、戦争の真っ只中に飛び込んで行き、看護や調停や後方支援の仕事をしている。自分のことは二の次で、身を粉にしての活動ぶりというのだ。国際的にも視野の広い活動で、平和ボケの日本人に活を入れる、よいルポ記事になるだろう。

・今回の会議で、白河さんの興味の対象となるジャンルがわかった。その一端をご紹介すると、「跡取り娘社長」、「産活」、「セレブ妻」、「結婚力検定」などのテーマを追求したいとおっしゃる。なんとも言葉だけでもそそられるテーマである。そして、ほぼ15年間修業し、忙しいので途中でお止めになった茶道を今年から本格的にやりたいとおっしゃる。お話がつねに前向きなのが素晴らしい。個人的には、「戦場に行った女性たち」のテーマに一番期待するが、もう一つの気になるテーマが「跡取り娘社長」だった。着眼点がよいと思った。お話を伺って、女性が日本を立て直すという気がしてきた。それも白河さんのお話によると、美人ぞろいの賢婦人たちが先駆者となり、日本の産業、企業を立て直すケースが可能だという。

・白河さんとのお話の途中、名前を失念していたが、テレビなどに出ている骨董商・古美術鑑定家の中島誠之助さんが贔屓にしているレストランの名前は、松本市の「鯛萬」(たいまん)でした。松本を代表する格調高いフランス料理店で、白壁に黒い柱、松本民芸家具を配したシックな雰囲気の店内。北アルプス登山をして下山したら、鯛萬でコース料理を堪能するのが山男たちの夢といわれた。中島誠之助さんは午後、思い立って中央線の「あずさ号」に飛び乗り、松本の鯛萬で食事する。誠之助さんの口癖である、「いい仕事してますねー」と言いたい気分だと思う。今回の白河さんとの会食は、東京ミッドタウンにある「キュイジーヌ・フランセーズ・ジェイジェイ」というレストラン。オーナーのジョエル・ブリュアンさん(左から二人目)が僕と同じマンションの住人である。言語障害の僕より日本語が上手である。正統派フレンチを味わう店として申し分ない。「ジェイジェイ」という名前をつけているのは、「ジャポンのジェイ、ジョエルさんのジェイ」にちなんだネーミング。ぜひ贔屓にしてください。

 

 

 

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菅原猛さん、相澤マキさん、福井和世さん

・先月号の本欄で相澤マキさん(左)のことに少し触れた。その時は、僕の尊敬する恩師・椎名其二さんと親戚関係にあるとしか書けなかったが、その後、マキさんとメールのやり取りで分かったことがある。椎名其二さんが72歳で来日するも、日本に失望して、また40年間住み慣れたフランスへ戻る際に、同じ汽船に乗って渡仏した女性がいた。椎名其二さんが大伯父に当たる椎名ミチさんである。ミチさんは当時、僕と同じ19歳ぐらいで、東京学藝大学に学んでいた。いつも椎名先生の狭い部屋の片隅に座って本を読んでいた。その妹さんが相澤(旧姓・椎名)マキさんである。父上は椎名正夫さん。椎名先生の所でしばしば会ったことがあるが、温厚な紳士だった。椎名ミチさんは大伯父である其二さんの世話をする係りとして日々暮らしていた。結局、ミチさんは椎名其二さんと一緒にフランスへ渡った。マキさんは当時、高校生であまり事情を詳しく知らないまま、姉妹が日本とフランスへ分かれてしまった。その後の人生をマキさんに初めて聞いた。半世紀経った現在、父・正夫さん、姉・ミチさんのほか兄弟がことごとく亡くなり、残ったのは92歳になる母・和子さんと相澤マキさんしかいないという。マキさんは、現在、秋田の地方紙でフリーランスライターをやり、九段下にある日本語学校のホストマザーや秋田の農家の代行で農業関連の記事を書く仕事をしているという。そして、ある日、清流出版のホームページ欄で僕が書いた椎名其二さんのことを読んで、僕にコンタクトを取ったということである。相澤マキさんの好奇心が、そもそもの話の発端であった。便りをくれたころは年末年始のスケジュールで忙しいほか、長島秀吉君の逝去、山内義雄先生のお嬢さんとの初お目見えなどがあって、マキさんに会うのは少し待ってもらった。

・相澤マキさんは、僕と会う際に従姉を同行する許可を求めてきた。その方は、椎名其二さんの兄上・椎名純一郎の孫に当たられるという。かつて僕が本欄に書いたように、其二さんの兄・純一郎さんは昭和12年に亡くなっている。純一郎さんの一高の同窓生には安倍能成や藤村操らがいて、角館初の地元新聞「角館時報」創刊に尽力、大正期の角館の若きリーダーとして活躍されたと書いた。そして、椎名其二さんがフランスから第1回目の帰国を果たした際(大正11年)、純一郎さんは弟のため当時珍しい木造の洋館を屋敷内に建てたという。その純一郎さんのお孫さんが福井和世さん(後列中)である。僕と同年齢で、相澤マキさんより4歳ほど年長。福井さんは早稲田大学の文学部仏文科で学び、マキさんは早稲田大学の教育学部を卒業された。たまたま早稲田出身者が重なった。福井さんは、現在、ご主人と株式会社リーブル(創立1987年)という出版社を経営しておられる。児童書、絵本を中心とした出版社である。日本童謡賞、日本童謡賞新人賞、三越左千夫少年詩集……などいくつかの賞を取っている。やはり祖父・純一郎さんのマスコミ人としてのDNAが福井和世さん夫妻に受け継がれていると思う。

・今回の集まりにもう一人、椎名其二さんにフランス語を習った文学部仏文科の菅原猛さん(右)もお呼びした。彼は語学にかけては仏文科の秀才であり、イタリア語もできる方だ。長島君や僕のような政治経済学部の人にはできない人脈と知識がある。例えば、椎名其二さんと知り合いの画家(岡本半三さん、戸田吉三郎さんなど)や作家・評論家(近藤信行さん、蜷川譲さん)等、僕より詳しく知っている。また、菅原猛さんは渋谷区神宮前で色彩美術館を主宰されている。奥様もヨシタ ミチコさんのペンネームで(株)カラースペース・ワムの代表をされていて、月刊『清流』でその知識の一端を披露されたこともある。当日、菅原猛さんの言葉で初めて分かったことがある。椎名先生の伝記を書こうとした元中央公論社編集長、現在山岳文学研究の第一人者である作家兼山梨県立文学館館長・近藤信行さんが椎名先生に纏わる大事な資料などをある方に抑えられていて、大半を書いたが肝心のところで完結できないということである。近藤さんが同人誌『白描』に書いてある椎名其二さんのことは、完成すれば椎名其二さんの全貌が明らかになるに違いない。僕は近藤信行さんにエールを送り完結を待っていることをここに改めて発言したくなった。

・当日、菅原猛さんの持参した新聞記事には特筆すべきことが書いてあった。パリ大学東洋語、東洋文化研究所教授の肩書で森有正さんが、「椎名其二氏のこと」と題してエッセイをお書きになっていたのである(昭和47年10月27日)。その一部分を紹介しよう。「……そしてそれは何というすばらしい物語だったであろう。心底まで真面目で純粋な椎名さんはまたすばらしい理智をそなえていた。だからその話には馬鹿げたところは少しもなかった。それから椎名さんの毒舌は全く何ともいえないもので、私はそれに耐え終(おお)せることが出来なかった。それは私の人格力の貧寒さを証明するだけである。しかしそれまで与えられただけでも私の消化しきることの出来るものではなかった。」――この森有正さんの文は、椎名其二さんの本質と性格をよく表現している。「この優れた人格の五十年の経験がこちらに噴(ふ)き込んで来るその凄(すさ)まじさは何にたとえようもない」と。椎名老人はあの哲学者・森有正をも吹き飛ばすほどの騎虎の勢があったのである。

・この日、僕も偶然、森有正さんの本を持って行った。『木々は光を浴びて』(筑摩書房刊、昭和47年5月)である。冒頭の「雑木林の中の反省」の章で、S氏という老人を森さんが書いている。それが椎名其二さんのことだと我々にはすぐ分かる。その文章の中で――、《S氏は「金」(かね)で生涯苦しまれた。しかし「金」の本性を徹底的に見抜いておられたと思う。「と思う」と言ったのは、私自身がその点までまだ辿りついていないからだ。S氏の深い洞察は、「金」はものではない、ものとなることは決して出来ない、という一言に尽きると思う。そしてそれは凡ての革命の根本原理である。しかし氏もまた金のために働かねばならなった。「経験」の中に本当のものとの邂逅に向って歩みつづけるS氏にとって、それは耐えがたい苦痛だった。その苦痛の中で、「金」の本性はますます明かに見破られて行ったのだと思う。》――「金」と「もの」と「経験」。あの高潔な老人に対し、人間の尊厳と「金」のからくりは永遠の課題として圧し掛かっている。僕は今の年齢になってこの問題がやっと分かるようになった。森有正さんの言うように――、《「金」と「もの」、この二つのものは、経験の両極のように思われる。かねにはかねの合理性があり、その合理性は、働かないで他人の必要を利用して、一つの運動を実現する極端に人間臭の強い一面があり、そこから経験の中に介入して来る。それは殆ど必然的でさえある。》 そして、《ここではかねはものではない、という直感を確認すれば十分である。》と論じる。椎名老人と哲学者・森有正さん、それぞれの人生の生き方が分かる文章だ。

・「椎名老人」のテーマはまだ話したいことがあり、今号は尻切れトンボだが、一先ず、終わりにしたい。相澤マキさん、福井和世さん、菅原猛さんと会って触発を受けた。椎名其二さんに纏わる話は、亡くなった親友・長島秀吉君と僕が「聞こえない会話」を繰り広げる気分であって、みなさまに関係がないとも言える。最も間接的な話は、最も直接的に心に響く――ことを祈る!

 

2010.01.01訃報 鈴木主税さん 長島秀吉君

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鈴木(旧姓:野中)邦子さんと。故・鈴木主税さんのご位牌の前で

・鈴木主税(ちから)さんの死亡記事(2009.10.25各紙)を見て、ビックリした。「喪主・妻の野中邦子」、とあるではないか。鈴木さんとは24年位前からのお付合い。その弟子筋の野中さんとも同じくらい前からのお付合い。まして野中邦子さんは2009年夏、弊社から『レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実』(スティーヴン・バック著)の翻訳を上梓されたばかり。野中さんは、鈴木さんが主宰する翻訳グループ「牧人舎」の同人とだけ僕は認識していた。それがご夫婦であったとは……。人と人の関係とは分からぬものである。逝去後1か月以上経ったある日の午後、担当の松原淑子『清流』編集長と野中さん宅に、お悔やみに伺った。昭和9年生まれの鈴木さんと、野中さんの年齢差はたぶん20歳位になろう。だが、鈴木主税さんとの結婚生活をくわしく伺うと、このお二人が師弟関係から夫婦関係を選択し、結婚されて本当によかったと思う。人生のつらさを超え、闘病生活の中にも喜びや張り合いがあって、鈴木さんも幸せだったのではないかと思う。

・鈴木主税さんは歴史、経済学、経営学、国際問題など人文・社会科学分野の翻訳を数多く手がけた人である。翻訳者でこのジャンルのナンバーワンだった。アマゾンで見ると鈴木さんの手掛けた翻訳書は、これまで、実に227冊にもなる。その中でも、ウィリアム・マンチェスター著『栄光と夢』(全5巻、草思社刊、1976?78年)は翻訳出版文化賞を受賞している。その他、ポール・ケネディ著『大国の興亡――1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争』(草思社刊、1988年)、マンチェスターほか著『In our time ――写真集マグナムの40年』(文藝春秋刊、1990年)、サミュエル・P・ハンティントン著『文明の衝突』(集英社刊、1998年)など、数々のベストセラーや話題作を翻訳している。翻訳だけではない、自著もあり、『私の翻訳談義』(河出書房刊、1995年)、『職業としての翻訳』(毎日新聞社刊、2001年)などを刊行している。精力的な翻訳活動をされてきた鈴木さんが、ここ四年余りトーンダウンしていらっしゃると思ったら、なんとガンとの闘いをされていたとは……知らなかった。70歳を過ぎてからの鈴木さんは、仕事を厳選、セーブしているなと僕は勝手に思い込んでいた。

・鈴木主税さんと仕事をした中で僕が一番忘れ得ぬ企画といえば、クラウディオ・ガッティ、ロジャー・コーエン共著『シュワルツコフ正伝 PART?1「ジャングルの道」、PART-2「砂漠の嵐」』(いずれもダイヤモンド社刊、1991年)である。湾岸戦争で英雄になったシュワルツコフ将軍の伝記だ。上下二巻の翻訳ものだったが、アメリカの出版社から毎週届くゲラを僕が鈴木さんに転送し、それを鈴木さんは片っぱしから翻訳され、校正ゲラをチェックし、結局、正味1か月で2冊の本作りを終えた。1991年7月下旬から始めてPART?1が8月8日完了、PART?2は8月29日完了で刊行にこぎつけた。このスケジュールはアメリカの出版社の刊行スピードをはるかに超えていた。アメリカの版元からは、いったいどうして本家本元より早く刊行できたのか、と不思議がられたものだ。

・ちょうど同じ頃、もう一つの僕が担当していた本がある。『香港 極上指南』(香港お百度参りの会編)というガイド・ブックだが、この本が鈴木主税さんの翻訳スケジュールともろにぶつかってしまった。そもそも、ことの発端は1991年の夏、香港観光協会からわれわれを招待したいとの話がきた。1997年の中国返還前はイギリス領だった香港の、史上初めて懇切丁寧なガイド本を出版するに絶好のタイミングだった。香港観光協会が乗り気だったのでとんとん拍子に話が進んだ。ホテル、ショッピング、レストラン、見どころを、香港マップを手がかりに地域ごとに取材して、ミシュランのようにランク付けをするものだが、僕は総勢10名の取材陣のホテル代を無料にしてほしいと協会にかけあって説得に成功した。本来なら僕も香港に飛び、率先して取材をするところだったが、翻訳本とガイド書の二つが同時進行している。責任者として職務を全うするには無理がある。泣く泣く僕は日本に留まり、取材フォーマットを作って、東京、香港間の迅速な情報ネットを作ることにした。そして1992年の春、『香港 極上指南』は刊行になった。この本は後々まで古巣に余波を残した。香港観光協会、主だったホテル、レストランなどから僕個人に宛てに、招待状が舞い込み、僕がダイヤモンド社を辞めた後も続いたそうだ。

・だが当時、ニュースのウエイトは湾岸戦争の行方にあった。シュワルツコフ将軍の言動はきわめて重く、よりニュース的な価値があった。ここに僕が刊行を急いだ理由がある。鈴木主税さんは乗りに乗って翻訳にいそしんだ。一日も無駄に出来なかった。ましてその当時、シュワルツコフ将軍を次期大統領に推す動きがあり、大化けする期待感もあった。その半年ほど前にも、同じ次期大統領と噂された大物財界人ロス・ペローの伝記も鈴木主税さんに訳出を頼んでいる。『ロス・ペロー――GM帝国に立ち向かった男』(ドロン・レヴィン著、ダイヤモンド社刊、1991年)がそれ。このように、売れそうな原著には常にアンテナを張っていた。いち早く、時代を先取りし、売れそうな予感がする原著を見つけると、代々木にあった鈴木さんのオフィスをよく訪ねたものだった。

・鈴木主税さんは、多趣味な方で、とくに音楽と登山と沖縄が大好きであった。今から15年前、こんな話をお聞きした。翻訳する時はBGMとしてクラシックのCDを聴いているが、当時は一枚終わるごとに取り換えるのが面倒だとおっしゃっていた。翻訳の筆を中断することのないMDや新製品を見つけているとのことだった。現在、僕が愛用しているI-podなどは、何時間でも聴け続けることもでき、とても便利なのだが、ガンとの闘いの中では、多分検討する余裕がなかったのではないかと思う。天上にいかれた今は、好きなクラシック音楽をこころおきなくたっぷり楽しんでいることであろう。僕らがお悔やみしている間、鈴木さんの大好きだったベートーベンの曲が静かに流れていた。合掌。

 

 

 

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ありし日の長島秀吉君と僕。長島葡萄房にて

・わが生涯無二の親友、長島秀吉君が膀胱ガンで亡くなった。2009年11月30日没、享年68。その1週間ほど前のこと、NHK?BSの特集番組で、立花隆さんがレポーター役を務め、ガンの解明はまだ難しいと語っていた。これを見た時、真っ先に頭に浮んだのが長島君だった。立花さんも長島君と同じ部位の、多発性膀胱ガンを発症していると聞く。

・長島君と僕は、ある時は反発したこともあるが、素晴らしい友情を育んできた――知り合って約54年になるが、生涯で心許せる友の一人だった。共にフランス語を学び、クラシックやジャズなどを楽しみ、内外文学を深く愛し、モノクロ写真の名人でもあった。杉並区方南町のイタリア・レストラン「長島葡萄房」の経営者として、常連客に愛される人気者であった。

・ちょうどその日(月)は、野中さんのもとに鈴木主税さんのお悔やみに伺った日であった。まだ親友の死を知らず、ただひとえに鈴木さんのご冥福を祈っていた。この日は翻訳家の藤原啓介さんとその弟子の上松さちさん、村松静江さんが来社され、翻訳本の打ち合わせをしていたが、皆さんとは挨拶ぐらいしかできなかった。今は野中邦子さんの「牧人舎」と藤岡啓介さんの「サン・フレア」の二つの翻訳グループが、引き続きわが社とよい関係を維持し、いい翻訳本をこれからも世に問い続けられることを願っている。

・その翌日(火)、長島君と僕の恩師・山内義雄先生のお嬢様とお会いすることになった。森友幸照さん(作家、元ダイヤモンド社『レアリテ』編集長)を介して、「加登屋さんにお会いしたい」とのことであった。もちろん、僕もお会いするに否はない。すぐにお会いする日取りが決まった。アンドレ・ジイドの『狭き門』、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』などの翻訳で有名な山内先生のお嬢様のお名前は、現在結婚されて山本篤子さんになったということも知った。その時もまだ、長島秀吉君のことは知らない。

・長島くんの死亡通知は、死後二日経ってから、奥様からわが家にあった。ちょうどこの日は出社日(水)であった。帰宅し、入浴、夕飯を済ませた後、妻から長島君逝去の報が知らされた。僕が仕事中にこのことを知ったら、動揺して仕事にならないとの配慮からだった。……「親友の死」、それは、それはショック! 長島君との懐かしい思い出が走馬灯のように去来して、結局その日は一睡もできなかった。

・この日、会社で思いがけない方からメールをもらった。相澤マキさんという方からである。僕がまったく知らない方である。だが、椎名其二さんの親戚関係にあることが文面からうかがい知れた。わが社のホームページを見て、僕の存在を知ったのだという。いつも長島君と僕は、椎名其二さんのことになると目の色を変えた。その素晴らしい方の存在も山内義雄先生が教えてくれたのである。なんと二日続けて、五十年ぶりに、二人の恩師に縁ある方々と糸が繋がった。不思議なめぐり合わせとしか思えない。相澤マキさんとは、年内の多忙を理由に新年に会う約束をした。

・翌日(木)、2008年に亡くなった友人・正慶孝さんの奥様から、貴重な本が二冊送られてきた。アルビン・トフラー著の『大変動』(徳岡孝夫訳、中央公論社刊、1983年)と田中逸平研究会編『近代日本のイスラーム認識――ムスリム田中逸平の軌跡から』(自由社刊、2009年)である。二冊とも僕が読んでいなかった本だ。かつてダイヤモンド社に在籍中、徳岡孝夫さんにアルビン・トフラーの『未来適応企業』(1985年)を訳していただいたことが懐かしく思い出された。正慶孝さんも長島秀吉君と大学時代、山内義雄先生の「フランス友の会」のメンバーだった。本人は第2外国語がスペイン語なのに、山内先生のお許しを得てメンバーの一員になっていた。奥様の昭子さんは、亡夫の残した書物や小物を綺麗に整理されていることがよくわかる。夫の業績もきちんと理解をされ、天晴れなことである。博覧強記の大学教授・正慶孝さん、芸術・文化のよき理解者の経営者・長島秀吉君――二人とも、僕よりもっと長生きして、そのあり余る才能を周りの方々の役に立ててほしかったのに……。

・その翌日(金)、森友幸照さんに同道されて山本篤子さん(山内義雄先生のお嬢様)が来社した。お会いすると同時に、あの山内先生の温顔を思い出した。瓜二つと言ってもいいくらい、よく似ていらっしゃる。森友幸照さんと僕の関係は、大学1年生の時、わが先輩にしてよき芸術・文化の道案内人・龍野忠久さんが結び付けてくれたもの。その後、僕は森友さんにアルバイトを紹介していただいたり、昼食も数えきれないほどご馳走になった。龍野さんには、本当に良い先輩を紹介していただいたという感謝の気持ちで一杯である。

・龍野忠久さんと僕は年が一回り違う(もちろん龍野さんが上)が、当時、時事通信社を辞めて、山内義雄先生の授業を受けたいと、われわれと机を並べた。第1政治経済学部の外国語フランス語科の正規の生徒は長島秀吉君と神本洋治君しかいないが、そこに割って龍野忠久さんと僕が先生のお許しを得て出席していたのだった。龍野さんは山内先生に言われて、椎名其二さんからフランス語の講読を受けた。ところが、二人とも同じ自主独立の性格から意見を異にしており、「椎名さんの否定的な部分しか学べない」と龍野さんはこぼしていた。講読したのはモラリストのラ・ブリュイエール著『Les Caracteres カラクテール―当世風俗誌』だが、女性の心情、文学作品、宗教界、思想の流行、社会の陋習などの解釈で、ことごとくお二人は対立したそうだ。お二人の解釈の相違を聞いた僕には、今考えても贅沢なやり取りであり、うらやましくもある。だが突然、龍野さんが「フランスに行きたい」と言い出した。結果、大学3年生の時だが、いったん別々の道を歩むことになった。その後、椎名先生も祖国日本の政治情勢や風紀の騒乱状態に失望し、四〇年間住み慣れたフランスへと帰ることになった。帰るための費用の一部は野見山暁治さんが絵画を提供され、皆さんにその絵を買ってもらうことで賄った。売れ残った絵は、全部、山内義雄先生が引き受けたと聞いている。こういうやりとりは、人間の本質に関わることで、山内先生の隠れた美徳もいつかは明らかになる。先生の器の大きさを知るに絶好のエピソードである。

・わが長島秀吉君は長い人生の要所要所に現れて、僕のためによき人々を紹介する役柄を演じてくれた。山内義雄先生、椎名其二先生、龍野忠久先輩、森友幸照先輩、正慶孝さん、そして山内先生のお嬢様、山本篤子さん。皆さんと知り合えたのも、ひとえに早稲田大学高等学院時代の同級生・長島秀吉君のお蔭と確信している。しみじみ有難いと感謝する。持つべきは「真の友」である。

・長島君が経営するイタリア・レストラン「長島葡萄房」について述べたい。「葡萄房」と名付けたのはあの龍野忠久さんである。龍野さんは校正者、編集者として河出書房、講談社、新潮社で仕事をされたが、キャッチフレーズを付けることがとてもうまかった。長島夫妻の仲人でもあった。ついでに言うが、龍野忠久さん夫妻の仲人は二人いる。一人は山内義雄先生、もう一人は美術評論家の瀧口修造さんだ。考えられないほどの豪華な仲人だ! その結婚式のエピソードはいつか機会をみてご披露したい。長島葡萄房は営団地下鉄丸の内線方南町駅からすぐ近くにあった。その片隅のテーブルに『清流』を何冊も積み、長島君は出版社を営む僕のために宣伝してくれた。そして常連客が、『清流』の年間購読者になってくれた。今でも杉並区、中野区、練馬区、渋谷区、世田谷区の購読者リストを見ると、長島葡萄房の常連さんを思い浮かべる。この不況下に、積極的に定期購読者の勧誘をしてくれるとは……。長島君らしいと感謝している。

・長島葡萄房は、クラシックやジャズの生演奏をやることでも知られていた。クラシックでは、三好明子さん(ヴァイオリン)、九鬼明子さん(ヴァイオリン)、山下進三さん(ヴィオラ)、大石修さん(チェロ)、多田直子さん(ピアノ)など日本フィルハーモニー管弦楽団のメンバー、ヴァイオリンの奥村智洋さん、ジャズの笹本茂晴さん(ベース)、小林裕さん(ピアノ)、井上尚彦さん(ドラム)、深沢剛さん(ハーモニカ)といった名演奏家が集まり、この店を舞台に演奏を繰り広げた。2009年6月に、ガンの闘病でもはや仕事は無理との判断で、「トラットリア葡萄房by The Camel」に店を譲ったのだが、その後も演奏会を約10回位、開催している。11月26日(木)には、すでに体力を回復することもなく入院し、僕の弟(加登屋健治)に司会を託して、ヴァイオリンの奥村智洋さんのコンサートを挙行した。その席にわが社からは、藤木健太郎君が参加している。その四日後に、親友はこの世におさらばしてしまった。11月30日(月)に亡くなって、12月6日(日)にお通夜、7日(月)に告別式。この1週間というもの、心情的には1年のように長く感じられた。もう長島君はいないのだと自分に言い聞かせても、どうしとても信じられない。ひょっとしたらあの葬儀は冗談だったのではなかろうか。頭の中での長島君は、時に今でも生きていて、われわれ二人にしか通じない会話をしている。

・長島葡萄房の常連客と清流出版有志は、ここ三年位、演奏会を楽しむバス旅行をしている。1台のバスを借り切って、長野、山梨方面に1泊旅行をするもので、1回目は、八ヶ岳のリゾナーレホテルでクラシックのコンサート、2回目は上田の無言館でのクラシックのコンサート、3回目は八ヶ岳美術館でモダンジャズのコンサートをやった。いずれも長島君が企画した素晴らしい旅行で、今となってはいい思い出になっている。ハイライトは窪島誠一郎さんの了解をいただいて、無言館でベートーベンの弦楽四重奏曲第15番を生演奏で聴いたことだ。この曲は、長島君と僕にとってはあの懐かしい椎名其二先生の思い出に連なる曲で、生涯聴き続けたいと思っている曲だ。故郷の秋田県角館を去ってアメリカのミズーリ州の大学(ジャーナリスム専攻)に学んでいた椎名青年は、当時、絶望して死ぬつもりでいた。その時、ベートーベンの弦楽四重奏曲第15番のメロディが流れてきた。感動のあまり、死ぬのを思いとどまった。――そんなことがあって、エマーソン、ホイットマン、ソーロー……の国から、順次、クロポトキン(ロシア)、カーペンター(イギリス)等、ジャン・ジョレス、エリゼ・ルクリュ(フランス)等、親友の伝手を頼ってパリに到着、以来四〇年在仏した。フランス人から東洋の哲人と呼ばれた椎名其二さん。長島君と僕をこれほど夢中にさせる気持ちが少しは分かっていただけたか、どうか。

・ここまで書いてなかったが、お葬式に参列された、例えば千代浦昌道さん(独協大学名誉教授)、青木外司さん(青木画廊)、鈴木恭代さん(ピアニスト、東京音楽大学選任講師)……皆さん、長島君のほぼ五〇年来の仲間です。僕の強引な紹介で、わが社の藤木健太郎君、臼井雅観君などは、すっかり仲間の一員となっている。それもこれも長島君の魅力ある豊かな人生に範を求めているからこそと思っている。合掌。

 

 

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山本篤子さん、森友幸照さん、僕

 

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山内義雄先生の遺影。その前に2杯のワイン。1杯は先生のため、もう1杯は長島秀吉君のため。今は山内先生からフランス語をこころおきなく学べる。今時、モンテーニュを原書で読む長島君は、本当に「人生に賢い!素晴らしい!」

 

2009.12.01堀尾真紀子さん 植田いつ子さん 假屋崎省吾さんほか

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堀尾輝久さん、堀尾真紀子さん、野口徳洋さん、臼井、長沼、僕

・月刊『清流』2010年1月号の『夫婦対談』にご登場された堀尾輝久さん(右から2人目)と堀尾真紀子さん(左から3人目)。お二人はともに研究者として活動する一方、貴重な緑を守る住民運動、地域活動に取り組んでいらっしゃる。仲間と「崖線の緑を守ろう」運動のグループを結成、ねばり強く未来世代のために活動を展開されておられる。『清流』1月号をご覧になった方は、お二人の活躍ぶりと、どのような視点から発想しているか分かるはずである。堀尾夫妻のお宅に近い「国分寺崖線」と呼ばれる「緑の回廊」の野川沿いにわが家があり暮らしているので、人一倍関心がある。もう一つ、昨年初めて堀尾真紀子さんにお会いした際、お住まいの近くに準絶滅危惧種の「ヒカリゴケ」が発生するという話が印象に残った。すぐ思い出したのは武田泰淳の『ひかりごけ』という小説である。ここでは北海道の自生地がモデルになっていたが、東京の武蔵野の地にも珍しい植物「ヒカリゴケ」があった! 特筆すべきことなので記憶に残っていた。その話はさておいて、この夫婦対談で、真紀子さんは「よく夫は≪難に入りて、難を楽しむ≫という言葉を口にする」と発言されている。けだし名言である。尊敬に値する言葉であり、僕が真似したくても出来ない。人生をわたる覚悟である。こうした素晴らしいご夫妻をある夕べ、招いて会議、会食をした。

・まず堀尾真紀子さんからご紹介したい。東京藝術大学美術学部、同大学大学院修士課程を修了され、現在は文化女子大学教授である。NHK「日曜美術館」の司会をされたこともある。堀尾さんは弊社から『絵筆は語る――自分色を生きた女たち』を発売したばかり。フリーダ・カーロをはじめ、小倉遊亀、三岸節子、いわさきちひろ、グランマア・モーゼス、ケーテ・コルヴィッツなど8人の女性画家を取り上げ論じた本である。人生に悩み、翻弄されながらも、自分色を生き抜いた生涯を堀尾さんは綴ってくれた。「あとがきにかえて」に、「……彼女たち八人とは、時代も状況も比ぶべくもないが、私の内にも小さな鬼がいた。私が彼女たちに共感するのは、この鬼との対峙を通しての成熟への道のりである。」とおっしゃっている。こうした鋭い動機づけが執筆を促し、素晴らしい作品になったのは間違いないところ。「小さな鬼」とは何か、お聞きすることをしなかったが、女性であることによる様々な社会的ハンディや軋轢と無縁ではない、と想像している。

・この企画は外部スタッフの野口徳洋さん(左から2人目)が終始一貫して編集の任にあたってくれた。わが社の編集担当・長沼里香(右)もいろいろの面で勉強になったと思う。昨2008年7月号の本欄に、堀尾真紀子さんが登場されているので、ほぼ1年強で素晴らしい評伝が出来上がった勘定になる。この間、毎月のように、文化女子大学を訪れ、細部までこまごまと打合せしてくれた2人の情熱を有難いと思う。この間、堀尾さんは他社から『フリーダ・カーロ――痛みこそ、わが真実』、『フリーダ・カーロとディエゴ・リベラ』の2冊の新刊書が相次いで刊行された。そうした超多忙の中、堀尾さんは『絵筆は語る――自分色を生きた女たち』の執筆にも頑張っていただいた。僕は臼井雅観出版部長(左)の同席を促した。なぜこの本の定価が2520円にもなったのか、著者に釈明してほしかったのだ。全国津々浦々の書店に配本して欲しいが、一方で取次店からの返品の問題がある。いきおい、部数を絞っていくと、定価があがる悪循環に陥る。いわば、わが社の限界だとも言った。そうなれば、わが社=社長の限界で著者には本当に申し訳なく思っている。

・僕は、冒頭のフリーダ・カーロをはじめ、八人の画家について強い共感を持っていただけに、評論と解説がどう展開されるか期待した。結果的には≪簡潔にして要≫にまとめていただいた。紙数を費やせばいいというものでもない。堀尾さんのこのような凝縮された文体には敵わないと思う。美術評論のなんたるかを熟知して、要領よく上手に紹介された。例えばケーテ・コルヴィッツなどは、僕が1970年と1971年に銀座の青木画廊で初めて観た。1990年代には八ヶ岳南麓のフィリア美術館で都合3回ほど観ている。それだけ魅力的な作品だったが、堀尾さんのケーテ・コルヴィッツ論は、心にしみじみと余韻が残す名文になったと感心した。

・次にご主人の堀尾輝久さんをご紹介したい。東京大学法学部政治学科卒、同大大学院博士課程修了(教育学博士)、東京大学教授、中央大学教授、日本教育学会会長、日本教育法学会会長などを歴任。大学時代は、あの丸山眞男ゼミであった。輝久さんのご著書をアマゾンで引くと50冊、ビーケーワンだと67冊出てくる。教育問題が多いが、最近は絵本『ピース・ブック』(ドット・パール原作 2007年童心社刊)も刊行され、子どものみならず、大人まで楽しめる翻訳本を手がけている。

・輝久さんの本をわが社でも作りたいと強く願って、この日を迎えた。野口徳洋さんが予め先生と打合せをし、スケルトンを作ってくれていた。章立てやキャッチワードを見て、おおよそ内容が分かったのは有難かった。身近なエピソードから大きなテーマへと導かれるように、帰納的なアプローチで論を進める。一つのエピソードから導かれるテーマは複数考えられるが、どこをポイントにするかは全体のバランスのなかで整理していく。このスケルトンを見て、僕は気に入った。ただ、スケルトンに漏れたこととか、もう少し突っ込んで欲しいテーマがあった。

・例えば、第1章の歴史的認識の部分で、僕は堀尾先生が数々の受賞をされたことを反映した方がよいと注文を出した。まず、1994年にパルム・アカデミック賞(フランスの文化功労章)を、2008年にトゥールーズ大学の名誉博士号を受賞されたが、このような場合は各々受賞挨拶をベースにして、関連の項目を立ててほしいと注文した。わけてもトゥールーズ大学の名誉博士号の時は、おそらくジャン・ジョレスのことに触れたに違いないと思い、ジャン・ジョレス論を書いて欲しいとお願いをした。

・ジャン・ジョレスは、トゥールーズ大学の哲学教授として教壇に立った。その後、社会主義者として代議士となり、社会党(SFIO)の指導者になる。『ユマニテ』誌を創刊。政治家として国民の教育を重視した論客ジャン・ジョレスは、輝久さんにどのような影響を与えているか、僕は知りたかった。また、『チボー家の人々』(ロジェ・マルタン・デュ・ガール著)の中で、ジョレスが暗殺されるシーンは特に印象に残る。訳者の山内義雄先生は僕の大学時代の恩師である。そうした個人的な感情を抜きにして、堀尾さんには、ぜひ触れていただきたいと思う。なにせフランス人はジャン・ジョレスが大好きで、パリには2つの地下鉄がジャン・ジョレス駅、トゥールーズにはジャン・ジョレス通りがあるほどだ。 

・輝久さんとお話をして、ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、ジャン=ジャック・ルソー、ビュッホン、コンドルセ、ジャック・テュルゴー……以下、百科全書派(アンシクロペディスト)に話題が及んだのが嬉しい。「(5)教育の項で、ルソー『エミール』―→子どもの発見と子どもの権利。地球時代の子どもの権利と子ども観。学校教育と家庭教育。」を立て、野口さんは取り上げる予定だが、これには僕も大賛成だ。僕は大学時代、在仏40年の椎名其二老人に学んだことがある。秋田弁で百科全書派の哲人たちの精神のエッセンスを語ってくれた。フランス語のガリマール版、プレイヤード版を何冊も勉強させられたのも懐かしい。輝久さんに巡り会って、50年ぶりに向学心を刺激された。堕落しきった頭に、ガツンとかつを入れられた気がした。

・≪第3章には、無言館で「スタバート・マーテル」を合唱―→ 戦争で散った若者への思い。戦争と平和。≫――と野口さんがスケルトンに書いてある。僕の大好きな無言館と曲があるので、ちなみに作曲家はだれなのか聞いてみた。「スタバート・マーテル」は、僕は、ペルゴレージ、ドボルザーク、ヴェルディ、ハイドン、ロッシーニ、ヴィヴァルディ、パレストリーナ、プーランク、ペンデレッキー、シマノフスキーなどを聞いたことがある。輝久さんが「ドボルザークです」とおっしゃった。それで納得した。輝久さんのバリトンの声だったら、この上なく合うと思った。

・この会の最後に輝久さんは、見事な歌声でシャンソンの「枯葉」を歌ってくれた。イブ・モンタンを彷彿とさせる美声で、僕も知っているフランス語の歌詞が滔滔と流れる。「木曽路調布店」で、このような素晴らしい歌声が漏れ聴こえ、お店の人もさぞびっくりされたことであろう。堀尾さんの「枯葉」をぜひ皆さんにもお聞かせしたいと心から思った。

・ここから先は、企画にあまり関係ないことだが、堀尾さんはコンドルセの研究家でもある。そこで、今回のわが国総選挙の結果、民主党が大勝したが、「コンドルセのパラドックス」の理論で言うと、今後どのような展開が考えられますかと質問した。先生は、その理論的な根拠「投票の逆理」を明快に説明してくれた。だが、今後の展開はおっしゃらなかった。でも、僕は満足した。『人間精神の進歩に関する偉大な人道的考察』(1795)を書いたコンドルセは、1789年のフランス革命で指導的な役割を果たした。その後、捕まり獄中にあったコンドルセは自殺か、殺されたか、今では謎の最後を迎えた。ジョレスといい、コンドルセといい、惜しい知的巨人を失った。

・蛇足ながら、僕は40年前、すなわち1969年にパリの地下鉄で堀尾真紀子さんを見かけている。反対側のプラットホームに彼女が立っていた。僕と真紀子さんは、1分間ほどだと思うが、ずーと見つめ合っていた。僕は二度、脳出血を体験している。錯覚ではないか、という人もいるかもしれぬ。1分間は短いようで長い。当時、パリでは日本人は珍しかった。記憶の底にその面影はしっかりしまいこまれていた。どこの、だれかは知らなかったが、昨春、わが社を訪ねてくれた堀尾真紀子さんを観たとき、40年前の記憶が蘇った。「あっ、あの時のあの方だ!」と……。優しい方である。「あの時、わたしは可愛かったでしょう」――堀尾さんが僕の《あいまいで、確実な記憶》をフォローしてくれた。よい著者を持って、本当にうれしい。この頃の国際免許証(下)がある。今と違って髪の毛がたっぷりとある。興味があったらご覧ください。

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パリに持って行った国際運転免許証。そろそろ髪の毛が気になる頃。ドイツからフランス経由でイタリアまで、ベンツを転がして時速230キロで素っ飛ばしたこともしばしばある。

 

 

 

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青木久惠さん、三戸節雄さん

・ある日、著作権代理会社のタトル・モリ・エージェンシーから高橋与実編集委員にいい提案があった。アガサ・クリスティ本の翻訳出版をやりませんか? との打診である。 『AGATHA CHRISTIE AT HOME』が原著タイトルで、Hilary Macaskill の構成だとか。僕はその話を聞くなり、1890年9月15日生まれのアガサ・クリスティは来年生誕120年になることを知り、絶対やるべきだと即決した。

・その際、僕は翻訳者に青木久惠さん(右)を起用したいとの希望を高橋に伝えた。僕がダイヤモンド社に入って3、4年後、青木さんがダイヤモンド社の子会社プレジデント社に入った。名物編集者・馬場禎子さん(その後、オレンジページの編集長・社長・会長、ダイエー初の女性取締役を歴任)のもとで青木久惠さんが頑張っているなと思っていたが、いつの間にか青木さんはプレジデント社をお辞めになっていた。それから突如、海外の推理小説の翻訳者となって、僕の前に現れた。

・いま、ビーケーワンのリストには84冊の青木久惠さんの翻訳書がある。調子の良い時は年に5冊、少ない時でも年2冊ほど翻訳され、精力的にお仕事をしておられる。アガサ・クリスティ作品も、『そして誰もいなくなった』、『青列車の秘密』などを翻訳された。その他、アーロン・エルキンズ、P.D.ジェイムズなどは、ほぼ独占的に青木さんが翻訳されている。まさに、青木さんの独壇場である。

・青木さんの消息を知ろうと、同じプレジデント社に勤めていた三戸節雄さん(左)に聞いたところ、「近年、OB会にも来ませんでした。たしかアメリカ在住の噂がある」と言うばかり。その後、高橋と僕は全然違う線(と言っても早川書房の方は同じだが)からほぼ同じ日にアメリカ在住の、青木さんのメールアドレスを手にした。編集者仲間は、こうした麗しい友情が残っている。早川書房の川村様、小都様、仲介に立ってくれた翻訳者の野中邦子様、本当に有難うございました。

・そうして、青木さんがいよいよ日本に帰ってくる日が確定した。わが社に三戸さんを迎え、久しぶりの再会を図った。青木さんはなんとアメリカ人と結婚して、毎年、税務申告の時など、日本へ帰るという。さっそくスケジュールを決め、翻訳してもらうことに決めた。ご主人は、無類の読書好きで、キンドルを手放さないという。あちらの生活を語り、日米の文化比較をされる。本当に国際人に変身されたなと、僕は感慨深かった。45年前の彼女の面影は完全に残っていない。

 

 

 

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植田いつ子さんと

・紀尾井ホールで天満敦子さんの「デビュー30周年 無伴奏ヴァイオリン・リサイタル」が行なわれ、聴きに行った。この日、会場の入口付近で窪島誠一郎さんの姿を見かけたので挨拶した。待ち合わせのような様子なので、「どなたか、いい人を待っているんですか?」と声をかけた。「恋人みたいな方を待っている」とのお答えである。そんな答え方をされると興味をそそられたのであるが、その人が、なんと終演後、廊下で出会ったから分かった。植田いつ子さんであった。植田さんが窪島さんのお相手だったのである。植田さんは月刊『清流』にも以前、登場していただいたほか、弊社が學士會館で行なった野見山暁治さんと窪島誠一郎さんの合同出版記念会にもお越しになっている。僕と同じに杖をつくお身体。窪島さんが一枚撮ってあげようかと言い、恐縮ながらのツーショットがこの写真。植田いつ子さんはいつも皇后美智子様と共に僕の念頭にある。

・今回の天満敦子さんの演奏は、今まで聴いた中で最高の出来栄えだった。バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第1番ロ短調BWV1002と同第2番ニ短調BWV1004「シャコンヌ付き」、バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタより、シャコンヌのテンポでプレスト、お馴染みのポルムベスク「望郷のバラード」のほか、日本人の作曲した竹内邦光「古謡」、和田薫「独奏ヴァイオリンのための譚歌?・?・?・?」という構成だったが、この竹内さんの作曲した「古謡」と和田薫さんの「譚歌」が素晴らしかった。お二人は、演奏直後にご自分の席で立ち上がって返礼されたが、このような優れた曲がもっともっと世の中に注目されてもよいと思った。

・わが社から希望者8人がこの演奏会に行ったが、いい演奏、いい音楽を聴いて大満足であった。今後も天満敦子さんの超絶技巧を聴くのが楽しみだ。

 

 

 

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假屋崎省吾さん、秋篠、僕

・今年も假屋崎省吾さん(中)の個展の季節がやってきた。これを見ないと、暮れが来た気がしない。編集担当の秋篠貴子(右)と臼井出版部長と連れだって、目黒の雅叙園に行った。假屋崎さんがプロデュースしたブライダル・ブーケのファッションショーは、モデルが綺麗なこともあり、愉しく拝見させていただいた。また、ショーの最後には、サプライズが用意されていた。弊社でも単行本を出させていただいているフジ子・ヘミングさんの演奏があったのだ。弊社社員は何度か、大挙してフジ子・ヘミングの演奏会を聴きに行っている。今回、フジ子さんはブレークのきっかけともなった「ラ・カンパネラ」で最後を締めたが、久しぶりに生のフジ子さんの演奏を堪能した。ただ、演奏に切れがなかったのは気がかり。売れっ子ピアニストの宿命だろうが、多少、お疲れではないだろうかと、懸念される。

・それにしても1000人近い人が入っている。その人いきれで熱気がムンムン。フジ子さんの演奏が終わるころに、臼井君が酸欠気味で気持ちが悪くなったという。実は僕も限界に近かった。ショーの間、立ちっぱなしだったうえ、数杯、お酒も入っている。身体がふらつき始めていた。これ幸いと三人急いで会場の外に出た。今回、早めに行ったので、真ん中付近に入ってしまったのも反省材料であった。

 

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小池邦夫さん、斉藤勝義さん、臼井、僕

・絵手紙作家の小池邦夫さん(左)は、弊社から4、5冊本を出している。11月の初旬には毎年、鳩居堂を会場に個展を開催している。主に弊社で海外版権を手伝ってもらっている顧問の斉藤勝義氏(右)と臼井出版部長(右から2人目)を帯同して出かけた。小池さんは絵手紙の創設者。狛江にお住まいだが、狛江市は絵手紙発祥の場所として大いにPRしている。垂れ幕が下がっているのでご覧になった方もいるだろう。

・今回の作品の中では、この写真の背景に写りこんでいる大きな書が気に入った。奥さんの恭子さんにお聞きしてみると、こんなに大きな作品は久し振りなのだという。そもそも季刊『銀花』で絵手紙が特集されたとき、この大きな和紙を編集部からいただいたのだという。せっかくこんないい和紙が手許にあるなら、思い切って挑戦して書いてみた。それがこの作品だった。

・やはり大きなものを書くにはエネルギーがいる。息もつかず書いていくから、身体的にも相当きつい。でも、終わったあとの清々しさはなんともいえない。その感じを久方ぶりに味わって、また挑戦したいという。実は弊社には書道部がある。部員は臼井君と僕の二人だけだが、大きなものを書くのはやはり愉しい。写経のセットもあるが、ちまちま書いていると逆にストレスが溜まる。小池さんの気持ちが体験から少しはわかる。来年が白樺派100年の節目。小池さんの監修で武者小路実篤の本を進めているが、是非、小池さんのツキをいただいて、成功させたいと思っている。

 

 

 

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藤岡啓介さん、上松さちさん、村松静枝さん

・翻訳家の藤岡啓介(右)さんが上松さちさん(中)、村松静枝さん(左)を伴って来社された。『シンキング・プレイス――偉大なアイディアの生まれた場 所』(ジャック・フレミング、キャロライン・フレミング夫妻の共著)という本の翻訳をお願いする予定なのだ。藤岡さんはディケンズの『ボズのスケッチ』(岩波文庫)『翻訳は文化である』(丸善) 『世界でいちばん面白い英米文学講義』(草思社)など五十冊を越える著書・翻訳書がある。翻訳のプロを目指す人のための「鎌倉翻訳勉強会」というサークルも主宰されている。また、大手翻訳会社サン・フレアで『WEBマガジン 出版翻訳』を立ち上げ、わが社から刊行の、『世界を変えた歴史的な日――その時、歴史が動いた』、『世界を変えた名演説集 ――その時、歴史は生まれた』の二冊を翻訳していただいた平野和子さんも、この執筆者のお一人。今回、共訳者となる上松さん、村松さんも藤岡勉強会での教え子ということになる。

・この本は、エドヴァルド・グリーグ、ジョージ・バーナード・ショー、マーク・トウェイン、ウィアム・ワーズワース、ジェーン・オースティン、チャールズ・ダーウィン、チャールズ・ディケンズ、ヴァージニア・ウルフ、ディラン・トマス、アーネスト・ヘミグウェイ……など、約30名の19世紀?20世紀にかけて活躍した偉大な創造的人物を取り上げている。こうした人物の作品がまず解説され、その先に彼らが思考し執筆するための場所、日常の煩わしさから逃れて想像力を働かせるための「シンキング・プレイス」について詳しく語られる。

・原著を手にしたとき直感が湧いた。この企画はいけるのではないか、と……。原著の表4部分には、「面白い人たちによる面白い本。文学探究と人知への、喜びに満ちた押さえきれない情熱が形になった」といった大学教授の推薦文がある。”旅行記のもつべきすべての特性を見事に備えた一冊”との売り文句にも惹かれた。僕は賭けるつもりで版権取得を決意したのである。

・この本は、原書の30名すべてを訳すとかなりなボリュームになるし、日本人が馴染みの 薄い作家も入っている。日本での知名度や作品の内容を加味して、20名前後に絞り込むことも考えている。藤岡さん、上松さん、村松さんの三人が作家別に分担して訳し、最終的に藤岡さんが全体を通しての、文体や翻訳の問題点をチェックするという。安心して任される翻訳体制が整ったとみていい。また、進行についてだが、弊社の編集担当の古満温と、編集経験もあるという上松さんが話し合いながら進める。ちょうど、同時進行で高橋与実が編集担当で「アガサ・クリスティ」の本の翻訳が進められているので、刊行時期も合わせられたらと思っている。

 

 

2009.11.01野見山暁治さん 堤未果さん

 

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野見山暁治さん、山口千里さん、僕  

・画家・野見山暁治さん(左)は、本欄に何度も登場していただいた。窪島誠一郎さん、堀文子さん、椎名其二さん、田中小実昌さん……など、僕もよく知っている人たちとの交流はもちろん、その他の方々とのお付き合いや発言について、月刊『美術の窓』の名物コラム「アトリエ日記」には、日ごろから注目してきた。野見山さんは、八十九歳になられる今も進化しておられるところが凄い。洋画のみならず版画にも手を染め、最近では水墨画展もされた。常に新境地を開拓しておられる。野見山さんの作品が、街中に進出しているのをご存知だろうか。東京の副都心線の明治神宮前駅に展示されたステンドグラスの大作は、その作品の一つである。僕はNHKの美術番組でこの制作過程をじっくりと観る機会を得た。杖をつかなければ歩行が困難な僕なので容易ではないが、車椅子とエレベーターを駆使していつの日か実物を観に行こうかと思っている。

・この日、野見山さんの新刊『続 アトリエ日記』の見本刷りが上がってきた。野見山さんは、秘書で、自身画家でもある山口千里さん(右)に伴われて来社され、わずか1時間足らずの間に販促等に使用させていただく100冊にサインをし終えた。休む間もなく、お二人はその足で、銀座に向かった。この日は銀座「みゆき画廊」での野見山先生の個展初日。その忙しいスケジュールをやりくりして、弊社に駆けつけてくださったのである。今回の個展のメインテーマは版画だという。

・一冊目の『アトリエ日記』は2003年9月22日から2006年5月20日までの日記であり、『続 アトリエ日記』は2006年5月22日から2008年11月30日まで収録してある。今後もこのペースで書き続けられると、2年位で『続続 アトリエ日記』を出すことになりそうだ。今一番面白い日記だと思っているので、長く続いてほしい。

・思えばこの本が出来るまで、結構時間がかかっている。野見山暁治さん、山口千里さん、『美術の窓』の小森佳代子さんと待ち合わせをし、今回の『続 アトリエ日記』の件で打ち合わせをしたのは、真夏の暑い盛りのころであった。もともと「アトリエ日記」は月刊『美術の窓』の連載で、小森さんなくては出せない企画だった。この場で、お礼を申し上げたい。

・後日、野見山さんから、『野見山暁治 全版画』(アーツアンドクラフツ刊)が送られてきたが、発行日は2009年10月15日、我々の『続 アトリエ日記』が10月19日である、ほぼ同時に出来上がったことが分かる。それを見ると、四十有余年に及ぶ版画制作の集大成で、銅版画116点、リトグラフィ87点、モノタイプ88点、シルクスクリーン14点を一挙に載せた力作で、定価6800円は安いと思う。もちろん会場でも売れ行きがよく、我々も一冊購入した。その『野見山暁治 全版画』の本には、美術評論家の有木宏二さんが、椎名其二さんと野見山さんの詳しい交友関係を描写している。しかもあの名著『四百字のデッサン』にも触れている。

・さて当日、臼井君と僕は博報堂と朝日新聞の関係者に、野見山さんを引き合わせる仕事が控えていた。驚いたことに、インタビューアは蜂須賀裕子さんだった。かつて月刊『清流』を立ち上げたころ、ライターとして活躍してもらった人である。久しぶりの邂逅であった。彼女の生地は芸術家たちが集まっていた「池袋モンパルナス」の周辺で、僕もすぐ近くの東長崎で若い頃を過ごしたので懐かしかった。そんな僕の感傷には関係なく、いつものカメラマンや広告代理店の方々が協力して野見山さんのポートレイト撮影は進んだ。

・みゆき画廊の会場は初日に加え、野見山さんの人気にも後押しされて、会場は熱気に包まれていた。各作品には購入済みの赤い丸印がどんどん増えて、オープニング初日は稀に見る盛況のようだ。僕の旧知の色彩美術館の菅原猛さんとか、みゆき画廊には野見山さんと話をしたい方が訪ねてくる。そのため、インタビューは近くの喫茶店でということになった。ここまでつないだところで、臼井君と僕は「みゆき画廊」の店主・牛尾京美さんに挨拶をし、ここで失礼することにした。

・それにしても野見山さんの絵画、版画が素晴らしい。すでに文化功労者であるが、ひょっとしたら来年か再来年に文化勲章を受賞するのではないかと僕は睨んでいる。そんな俗事のことに関係なく、野見山さんらしい天衣無縫なお話を楽しみにしている僕だ。ひょうひょうとしており、感性が若々しくて、発言の隅々まで酔える。僕の敬愛している椎名其二さんを彷彿する語り口と言いたい。椎名さんの場合、秋田弁だが……。今回の『続 アトリエ日記』では、残念ながら椎名其二さんが登場するページがない。必ず次の『続続 アトリエ日記』では出てくると思うので、楽しみにしている。

・この後、野見山さんと親しい画家・堀文子さんの本『対談集 堀文子 粋人に会う』が弊社から刊行と同時に銀座の中島アート画廊で個展をする予定。90歳前後のお二人の活躍ぶりには頭がさがる。よって今回は、野見山さんの『続 アトリエ日記』の内容にはあえて触れない。一例をあげると、野見山さんが「オレオレ詐欺」に引っかかった話はけだし傑作。89歳にして、友人と思わしき男にまんまとやられた経緯は、本当に可笑しい。いまどき日記で堂々とベストセラー(神田・東京堂で第6位)街道驀進中とは素晴らしい。コアなファンが確実にいるので、出版社としては頼もしい著者である。

 

 

 

 

 

 

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堤未果さん、佐藤より子さん

・今注目のジャーナリスト・堤未果さん(右)が堤オフィスのマネジャー・佐藤より子さん(左)と打合せのため、来社された。未果さんのお母さんの堤江実さんが堤オフィスの代表だが、彼女はこれまでかれこれ6冊ほどわが社から刊行していただいた。そこで当然なことだが、娘の未果さんにも本を出してもらいたいと僕は執心した。だが、いまや売れっ子になった未果さんはお忙しくて、おいそれとは実現できない。

・2008年1月に出した『ルポ貧困大国アメリカ』(岩波書店刊)は日本エッセイストクラブ賞、2009年新書大賞受賞で28万部のベストセラー。その前後、あっと言わせるニュースが飛び込んできた。参議院議員の川田龍平さんとの結婚話(本来なら川田未果さんと呼ぶのだが、堤未果さんと僕は慣れているほうを採用する)。その後も、『正社員が没落する』(湯浅誠さんとの共著 角川書店刊 2009年)の刊行やテレビ番組出演。僕が毎週観ていたのは「朝日ニュースター ニュースの深層」で、サブキャスターだったが、メインキャスターの宮崎哲弥さんと辻広雅文さんに伍して発言させればよかったのに、残念ながら未果さんの本領が発揮できなかった。結局、2006年4月から始めたが、今年3月で降板した。今はNHK教育やNHK BS出演など多忙を極めていらっしゃる。

・ここで面白い対談を紹介したい。新潮社の「波」2009年5月号より、田勢康弘さんと五木寛之さんが語った一説である。
田勢――昔とくらべたら、ずいぶん変わりましたね。岩波といえば、『ルポ 貧困大国アメリカ』を書いた堤未果さんのお父さん、意外な方なんですね。五木さんはご存知でしたか?
五木――知ってるも何も、彼にはどれだけやられたか。かつての雀友、ばばこういちさん。無頼派ジャーナリストの彼に、あんな優秀なお嬢さんがいたとは……時代は変わったなあ(笑)≫

・思うに、未果さんは意識するしないに関わらず、父親からは「ジャーナリスト魂」を、母親からは「詩人の魂」を受け継いできたように思える。今後もお二人から良い刺激を受け、さらに書き手として成長するに違いない。周りの方がほっておけない人なので、ジャーナリストとしても、今後急成長していくと思う。

・堤未果さんは、いま展開したいのが≪対談集≫と言う。それもすでに、対談相手もほぼ決まっている。数ある中で、未果さんが選んだ相手は、茂木健一郎さん、福岡伸一さん、佐治晴夫さん。このメンバーを聞いたとたん、僕は素晴らしい人選だと納得した。当節、人気、実力のある学者たちで、誰をとっても異存がない。脳科学者、分子生物学者、物理学者を相手にどんな聞き方や展開の対談になるか、期待したい。今後の詰めが大事だが、きっと上手くいくと思う。

 

2009.10.01小山明子さんと野坂暘子さん

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小山明子さん、野坂暘子さん、僕(撮影:小尾淳介)

・月刊『清流』の人気コラム「小山明子のしあわせ日和」を連載していただいている小山明子さん(左)と、野坂昭如さんの奥様・野坂暘子(ようこ)さん(右)が対談を快く引き受けてくださり、過日、お二人に対談場所であるホテルグランドパレスにお出でいただいた。僕は美しいお二人に挟まれて、両手に花状態で言葉もなく感動するばかり。担当編集者の秋篠貴子は、このお二人の対談を単行本化したいと切望したが、残念ながらすでに「かまくら春秋社」での刊行が決まっており、先を越された。やむなく月刊『清流』の新年号企画でお届けする線で決着した。

・よって、本企画は『清流』の2010年1月号(2009年12月1日発売)の「新春対談 妻として、女性として、きらめいて生きる」(仮題)として掲載させていただくことになった。お二人は、新年号にふさわしい、艶やかな和服姿で登場され、読者にサービスできることになったのは望外の喜びである。

・お二人は異彩を放ち、共に時代を牽引したご主人(映画監督の大島渚さん、作家の野坂昭如さん)の活躍を支えてきた。数々の苦楽を共にしてこられたが、ある日突然、その夫たちが倒れ、それまでの生活ががらりと一変する。妻として最大の危機に遭遇することになる。後遺症への対処、現実を受け止めるまでの思い切り、そして、妻として、そして母としての役割、直面する介護の実態や身体的な疲労の重なり、そうした介護の日々を過ごしながら、女性として美しさを失わない秘訣、新年号にふさわしい2010年への熱い思い……等々、語り合っていただくテーマはいくらでもあった。

・対談は終始なごやかに進み、野坂さんが小山さんを介護の先輩として、敬愛しておられることがよくわかった。お互い同じような体験をされてきたので、打てば響くように通じ合える、実に気持ちのいい言葉のやりとり。時として、お二人はユーモアを交えて語っていただいた。お二人とも、夫を尊敬し、夫が少しでも気持ちよく、楽しく毎日を過ごせるよう心を砕いていらっしゃるエピソードが印象的であった。

・これまで本欄には、小山明子さんが(2008年12月分)の回で登場、ご主人のほかにお子さん(長男・武さん、次男・新さん)にも触れた。月刊『清流』の「小山明子のしあわせ日和」読者であれば、ご家族もお馴染みになったはず。一方、野坂暘子さんも月刊『清流』2009年9月号でご登場いただいたが、ご家族については触れなかった。

・野坂さんは宝塚歌劇団で「藍葉子」の芸名で活躍。タカラジェンヌのまま作家・野坂昭如さんと結婚した。それを機に退団、二女をもうける。血は争えないもの。長女・麻央さん、次女・亜未さんは、ともに母親と同じ元タカラジェンヌである。暘子さんは1991年より東京・溜池で画廊「ギャルリーymA」を経営。シャンソン歌手としてステージにも立つ。今は、介護と仕事で多忙な日々を送っていらっしゃる。

・当日僕は、野坂暘子さんに「大学生の時、野坂昭如さんが寄稿した『けのつく話』(月刊『投資生活』ダイヤモンド社)が面白くて愛読していました。”食いけ”、”色け”、……以下『けのつく話』の話です」と言ったところ、「あと残りの『け』は何だったでしょうか?」と質問された。しかし、”金け”だったか、”欲け”だったか、とっさには思い出せなかった。約五〇年前の話で、記憶が定かではない。1962年に野坂さんは結婚されたので、その年前後までは続いた連載だと思う。とにかく、この連載を一読、野坂昭如さんがタダモノではない、偉才の人であるのを、痛感したことを覚えている。また、野坂さんの傑作『火垂るの墓』『戦争童話集―忘れてはイケナイ物語り』は、後世まで燦然と輝き続ける金字塔であろう。

・小山明子さん、野坂暘子さんに共通していえるのは、夫が倒れても、介護しつつ、自分を高める仕事や趣味、自己啓発の手段を持っていることである。何と素晴らしい女性たちであろうか。心から敬服する。大島渚さん、野坂昭如さんお二人の斯界での立派なご功績もさることながら、それを支え続けた奥様たちの奮闘こそまず称えたい。