2009.09.01小池邦夫さん 武者小路実篤記念館
暑い日、調布市武者小路実篤記念館で長時間企画会議の後、
「みなさん、ご苦様!」。木曽路調布店で暑気払いのひと時。
・絵手紙の創始者、小池邦夫さん(左)がこの8月、面白そうな出版企画を提案してくれた。来年が「白樺派100年」の節目に当たるということで、それに合わせて武者小路実篤の魅力を再認識しようというものだ。遅くとも年末までには出しておかなければならないから、少し急がなければならない。さすがに小池さんは絵手紙の創始者である。過去に刊行された実篤本とは視点が違った。実篤の言葉の面白さ、画の力強さを知ってもらう。さらにはそんな世界を紡ぎだすために、実篤もこだわった文房四宝の世界を、わかりやすく読者に提供する。調布市武者小路実篤記念館が所蔵するものと外部コレクター作品から、これまで未公開の作品を中心に、小池さんがすでに粗選びを済ませたところだ。
・暑い日、武者小路実篤記念館に出向き、企画の実現に向けて、ほぼ半日を費やした。実は、2ヵ月前も、同じ件で我々が実篤記念館へ行って、このような試みの本が作れないか、皆さんの感触を確かめる会議をした。その時、まだ人口に膾炙しない作品が多々あって、僕は「これはいける!」との感触を得た。臼井君は、二回目の会議の叩き台として、武者小路実篤の言葉を50音順で約2000フレーズ用意していったほど入れ込んだ。
・福島さとみさん(右)――調布市武者小路実篤記念館運営事業団首席学芸員、伊藤陽子さん(中)――同主任学芸員たちの熱心な助力もあって、ポジフィルムから候補写真選びをした。枚数にして約2700枚に及んだ。小池さんは十代の頃からの熱狂的実篤ファンである。過去に刊行された実篤本には、小説は勿論のこと、画集、全集など、ほとんど隈なく目を通している。だから瞬時に、過去に公開された作品かどうかを判断できる。小池さんの作品選びの基準は未公開作品、極力知られていない作品を中心に選んだ。弊社はこれらの作品をもとに、百数十頁、B4判かAB判の本を作りたいと思っている。
・しかし、僕はまったく知らなかったのだが、実篤の描いた油絵の素晴らしさはどうだ。僕は数点の油絵を見せられて、一瞬言葉を無くした。セザンヌばりの面影を宿した傑作である。実篤といえば、素人画家だと思われている。じゃが芋や南瓜といった野菜を思い浮かべる方もいるだろう。実は僕もそう思っていた一人だ。とんでもない誤解である。中川一政や梅原龍三郎といった一流画家が、なぜそれほど実篤の画を高評価していたのか。その疑問が氷解した。この画を見れば誰だって頷ける。皆さんも是非、実篤の油絵に注目してほしい、この傑作を観てほしい、と思っている。
・館ではこれまで平成になってから、『武者小路実篤記念館図録』(平成6年刊)、『調布市武者小路実篤記念館』(平成6年刊)、『仙川の家』(平成14年刊)、『没後30年心豊かに 実篤の画讃に生き方を学ぶ』(平成17年刊)、『写真に見る「実篤とその時代」』(平成18年刊)などの出版物、パンフレットや写真集を出しており、また小学館、求龍堂、筑摩書房、文化出版局など大手出版社が刊行した単行本もある。だが、今回の単行本企画は小池さん流の切り口で、斬新である。作品も未公開作品が中心。そんなことを勘案すると、わが清流出版も遅まきながらも参入できそうだ。いまは混迷の時代、人生の岐路に立たされたとき、指針に悩む人も多いはず。実篤こそ、今の世の中、見直されるべきだと僕は思っている。もう一度、世に問いたいという熱い思いをたぎらせている。
・武者小路実篤は文学に限らず、美術、演劇、思想と幅広い分野で活躍した。明治18(1886)年から昭和51(1976)年まで、その生涯は燃えに燃えた。友人も志賀直哉、有島武郎、有島生馬、里見弴、柳宗悦、岸田劉生、長与善郎、安倍能成……などの深い付き合いが一生続いた。
・実篤の90年の生涯は、晩年になるほど画讃、筆の勢いが素晴らしい。小池さんも、思わず唸るほど墨色がよくなっているし、味わいのある言葉に勇気づけられるとの感想を洩らしておられる。「白樺派100年」という時期に、この本をぶつけるには絶好の企画であると確信されている。今から良い本ができそうで、待ち遠しい。
・実は小池邦夫さんのお住まい(狛江市東野川)と僕のマンション(世田谷区成城)と武者小路実篤記念館(調布市若葉町)は、車で行くと僅か10分間位。お隣同士の近さである。そして、狛江市のコミュニティバス(こまバス)には、小池さんが書く「絵手紙の発祥地 狛江」の横断幕が目を引く。僕の住まいにも「こまバス」が野川辺りで往来するのがしばしば遭遇する。そういうわけで、記念館を頂点にして三画図を引くと、この実篤の企画はなるべくしてなったという思いが深い。
・小池さんが、我々に提案してくれたもう一つの企画だが、面白い経歴の人をご紹介頂いたのだ。メディア理論、科学ジャーナリストの大家・林勝彦さんである。林さんの単行本企画については、鋭意検討中であり、詳細については後日書くつもりだ。林さんはNHKの科学・環境・医学番組のディレクター、デスク、エグゼクティブ・プロデューサーとして40年間、現場で番組制作され、幾多の世界的な賞を受賞されている。その敏腕ぶりはNHKでも、つとに鳴り響いていた。さにあらん、慶応義塾大学の哲学科を卒業しながら、世界的に評価された番組は、「遺伝子DNA」「脳と心」など、理科系でそれもかなり専門性の高いもの。あの立花隆、養老猛司といった方々とも、丁々発止をやりあいながら番組を制作してきた。その後、東京大学先端科学技術研究センター客員教授兼務(3年間)。現在は、東京芸術大学、武蔵野美術大学の非常勤講師を務める他、日本科学技術ジャーナリスト会議理事、科学ジャーナリスト塾塾長でもある。小池さんと林さんは従兄弟同士だという。小池さんが学芸大学に入学して愛媛県松山から上京した際、下宿先が湯島の林さん宅だった。隣の部屋で寝起きし、勉強の切磋琢磨を営んだ体験もあると聞く。お二人の青春時代はさぞかし実の入った時期だと思った次第。とにかく小池邦夫さんと我々は暑い夏、企画に入れ込んだ。いよいよ仕込みをしなければならない。
小池邦夫さんが僕にくれた絵手紙の一部分。
2009.08.01斎藤明美さんほか
斎藤明美さんの『最後の日本人』刊行を祝って集まった方たち。
・斎藤明美さん(右から3人目)の著書『最後の日本人』が弊社から刊行になった。これを機に、ささやかながら出版記念を兼ねた食事会を六本木のレストランで開いた。当日、集まったメンバーは、文藝春秋副社長の笹本弘一さん(右から2人目)、アシェット婦人画報社の「25ans & 婦人画報グループ」ニューディベロップメントディレクター・今田龍子さん(右)、同『婦人画報』編集長代理・桜井正朗さん(右から4人目)、デザイナーの友成修さん(左から4人目)。あとわが社から、本書を編集担当した秋篠貴子(左から3人目)、臼井雅観出版部長(左から2人目)、僕という都合8人のメンバー。
・こんな笑い転げ、楽しかった会は近年ついぞ記憶にない。斎藤明美さんの稀に見る漫談調の話上手ぶりに、終始笑い声が絶えなかった。特に、かあちゃん、とうちゃんと呼んでいる、高峰秀子さん、松山善三さんとの珍問答を、その場に居合わせたような語り口調で再現してみせ、おなかの皮がよじれるほど笑った。お会いした人との会話は、その情景とともに、一字一句とまでは言わないまでも、ほぼ完璧に覚えているという、斎藤さんのその記憶力には脱帽である。語り部としてのその才もお持ちである。冗談ではなく、吉本興業に先んじて売り出してもよいタレントだと思ったほどである。
・少しだけこの時の話をご披露しておく。斎藤さんが麻布のマンションに転居するに至った逸話である。なお、この話は、斎藤明美さんが『婦人画報』8月号に「高峰秀子との仕事」として連載中で、この話が載っている。……平成8年の6月末のこと、斎藤さんは当時住んでいた世田谷のマンションの一室でテレビを観ながらゴロゴロしていた。そこに電話がかかってきた。「あんたんち、カネある?」高峰秀子さんからである。高峰さんは無駄なことは一切言わず、いきなり用件を話す。斎藤さんは「カネ」のこととは思いもよらず、「ハネ? ですか?」と聞き返す。「違う違う。金、お金よ。お金ある?」「お金はありませんけど……」斎藤さんはおずおずと応える。「アパート、買わない?」「アパートって……それ、アパートのオーナーにならないかってことですか?」「違う違う。部屋よ。アパートの部屋を買わないかって聞いてるの」「アパートって、木造ですか?」「そうじゃないかなぁ」この返答に斎藤さんは固まってしまう。ご本人は知らないらしい。「木造のアパートの部屋は売らないでしょう、普通」と返すと、高峰さんは、「ん? 三分後に電話する」
・後日わかったのだが、そのマンションには松山善三氏のお姉さんが住んでいたのだが、体調を崩され息子さんの家で暮らすようになった。だから空いたマンションを売ることにしたという経緯がある。だが、斎藤さんはこの時点でそんなことは一切知らない。再び高峰さんから電話。「鉄筋だって」「じゃ、マンションですね?」「そうなの? じゃ、マンションでもいいや。マンション買わない?」「マンションってどこの……」「うちのすぐ近く。歩いて四、五分かな。便利よぉ、会社に行くのに」「麻布のマンションなんか、とても私には買えません」「安いわよぉ。幾らか知らないけど」……。こうした珍妙なやりとりを声音もそのままに再現してみせるのだから、おかしくておかしくてみな笑い転げるしかない。
・この顛末は、高峰さんと斎藤さんの関係を知るに格好のエピソードなので、是非、『婦人画報』の本文を読んでもらいたい。とにかく一幕の芝居、いや上質の落語でも聴くようで、全員拍手喝采だった。高峰秀子さんを「かあちゃん」、松山善三さんを「とうちゃん」と斎藤さんが呼ぶ由来もよく分かった。
自著を持つ斎藤明美さんと、高峰秀子さんの『にんげん蚤の市』を持つ笹本弘一さん。ほぼ同時刊行された高峰さんの本は、版権を文藝春秋から譲っていただいた。驚いたことにこの連載は、『オール読み物』編集長だった笹本さんと斎藤さんが依頼に伺って実現したものだという。世の中は本当に狭い。
・ここで当日集まったメンバーにも少し触れておきたい。まず文藝春秋副社長の笹本弘一さん。本書の<「S氏のこと」?あとがきにかえて>を読んだ方は、ハハーンとうなずかれるかもしれない。斎藤明美さんが23年前、文藝春秋の『Emma』編集部に採用されるも、フライデー襲撃事件が起こり、写真週刊誌は軒並み影響を受ける。ご他聞にもれず、『Emma』も廃刊が決まる。斎藤さんは採用されたものの、廃刊まで三号ほどライターとして働いてだけでお役ごめんとなった。しかし、ズブの素人だった斎藤さんの文章を読み、才能のきらめきを感じていたSさんは、フリーに戻っていた斎藤さんに声をかけ、『週刊文春』に働く場を提供したのだ。入社後も編集の「イロハ」から教え育てた、いわば斎藤さんにとって大恩人だ。斎藤さんはこう書いている。いまもって――私が電話やメールで打診すると、一度も「何の用?」と聞いたことがない。私の声の調子と文面の書き方から、その”緊急性”の度合いを察して、返信をくれた――。ここまで信頼を築くのは師弟関係の見本である。
・なお、席上、笹本さんが月刊『文藝春秋』編集長の時、巻頭のエッセイを長年書き続けてこられた司馬遼太郎氏がお亡くなりになり、次の連載候補者として阿川弘之氏に白羽の矢を立て、頼みに行った。固辞されて一旦引き上げ、再び、上司とともに訪問した笹本さんは、「巻頭言から蓋棺録まで書いてほしい」のウィットに富んだ言葉で口説き落とした。この経緯を僕は笹本さん本人の弁でと勘違いしていたが、ご本人の事情説明で上司と二人で説得したことがよくわかった。いまでも『文藝春秋』の巻頭言、阿川弘之さんの『葭の髄から』は名文で、並ぶものなき珠玉のコラムである。
・今田(こんた)龍子さんは、斎藤さんが『婦人画報』連載中、当時の編集長。いまは「25ans & 婦人画報グループ」ニューディベロップメントディレクターの肩書に昇格。山形県人で、着物姿が似合う東北の典型的な美人。彼女の編集方針は「ベルファム(美しい人)」というキーワードに集約される。「ベルファムとは、年齢を重ねるほどに咲き続ける女性」。知ること、学ぶこと、考えることを日々重ねて、人は美しくなってゆくという考えである。「豊かであれ、美しくあれ」と願いながら魂を込めて編集してゆく。この姿勢、わが『清流』にも一脈通じることである。
・先月号の本欄にも登場した桜井正朗『婦人画報』編集長代理。日本庭園、茶道など純日本のテーマに強い方である。席が遠く、今回はほとんど喋る機会がないまま終わったが、今後ともどうぞよろしく。
・デザイナーの友成修さん。友成さんの装幀は素晴らしい。高峰秀子さんも一目見るなり、その仕事ぷりに惚れたらしい。「あの方に任せたい。」とおっしゃる。僕はその前に、文藝春秋から出た『舌づくし』(徳岡孝夫著 2001年)の本に惚れた。僕の旧知の著者(徳岡孝夫さん)、編集者(照井康夫さん)の本を見事な装幀で飾ってくれたのが友成修さん。この本を笹本弘一さんも名文のエッセイと装幀だと薦めてくれた。
・今回の会場になった六本木の東京ミッドタウン(ガレリア内ガーデンテラス2F)にあるレストラン『キュイジーヌ・フランセーズJJ』についても一言。あのポール・ボキューズの直弟子で、1972年に来日したジョエル・ブリュアンさんがオーナーシェフ。日本人に正統派フレンチを楽しんでもらいたいとの気持ちで出店したレストランだ。言語障害の僕以上に日本語が達者で、ウィットとユーモアに溢れる会話がいつも愉しい。実はジョエルさんは、僕と同じマンションの住人。いつも可愛い犬を2匹連れて散歩し、またある時はカッコいいポルシェのハンドルを持つエンスー(enthusiast)である。今回の出版記念会に参集した面々も、ジョエルさんの出す料理をおいしい、おいしいと連発、大いに正統派フレンチを楽しんでいただいた。「新しいご馳走の発見は、新しい星の発見よりも人々を幸せにする。」(ブリア・サヴァラン)――この文のように、ジョエルさんの出してくれる料理は、みんなを幸せにする!
ジョエル・ブリュアンさんと秋篠貴子、僕。集合の定刻前、ミッドタウンの廊下で偶然会って、秋篠と僕は一枚撮らせてほしいとお願い、快諾してくれた。
・最後に販促について述べておく。弊社も全国紙への宣伝広告などこれから販促にこれ努めていく所存であり、早めの増刷にこぎつけたいものと思っている。いい追い風も吹いており、この本が刊行されると、「日経新聞」、「高知新聞」、『週刊文春』、月刊『婦人画報』などに、書評や著者インタビューが掲載されている。斎藤さんの郷里(高知県土佐市出身)の高知新聞などは大きくスペースをとって報じてくれた。是非、皆様方のお力添えをいただいて、斎藤さん、弊社ともにハッピーになれればと思っている。なお、後日談だが、「素晴らしい食事会で身に過ぎた一夜でした」と、斎藤さんからお礼の手紙をいただいた。ふと封筒を裏返してみると、高峰さんと同じ住所。僕は知らなかったが、スープの冷めない距離にお住まいのようだ。これからも、高峰さん、松山さんの素晴らしい絶版本を復刻させていただくなど、お付き合いを深めていきたいと思っている。
2009.07.01堀文子さんと坂田明さん
堀文子さんと坂田明さん
・『清流』の2001(平成13)年11月号「人々 people」欄にご登場いただいた画家の堀文子さん(左)。1年ほど前、生死の境をさまようような大病をされたが、奇跡的に回復され、91歳になる現在は体調もよく、大磯に居を構えて絵を描く毎日を続けておられる。僕は堀さんの大ファンだったので、もう一度お会いしてお話する機会があればと思っていた。それが、意外なところからお会いする機会が飛び込んできた。堀さんは、1997年から1998年の2年間『婦人画報』誌に連載で、「堀文子の人生時計は”今”が愉し」というタイトルで対談をされていた。その対談をまとめての、「堀文子対談集」をわが社から単行本化にする話が舞い込んだのである。
・この話を持ってきたのが、元『婦人画報』編集部に勤務されていた近藤俊子さんである。この対談の企画編集者であり、対談相手の人選から司会まで一貫して担当された。今はフリーの編集者として活躍中の方である。この件は、現在の桜井正朗『婦人画報』編集長代理も積極的に応援していただいて実現したものだ。
・堀文子さんは画業一筋に世界の僻地を放浪した経験をもち、「自然と命」を見つめる一方で、交友関係の広さは驚くばかり。当然ながら対談相手も多彩で、各界の錚々たるメンバーが多い。作家、俳人、女優、歌舞伎役者、能役者、建築家、音楽関係、タレント、実業界……等々。すでに故人となった山本夏彦さん、鈴木治雄さん(元昭和電工名誉会長)のお二人を含め、キラ星のように輝いている人ばかりである。
・今回は、『婦人画報』の連載に漏れたジャズ・サキソフォニスト兼タレント兼俳優兼東京薬科大学生命科学部客員教授の坂田明さん(右)との対談である。坂田さんにご登場願った理由は、極微の世界の大先輩だからだ。堀さんの対談連載中にはミジンコの話などは出てこなかった。だから最近の堀さんを知ってもらうためにも、坂田さんにご登場いただいたわけだ。単独で単行本に収録するのはもったいない、月刊『清流』の読者にも楽しんで欲しい。というわけで、長時間の対談をお願いすることにし、グランドパレスホテルの一室を取ったのだ。
・途中から僕も参加し、対談模様を一緒に見せていただいた。その時、僕が持っていった『清流』の創刊号を皆さんにご覧いただき、話が盛り上がった。そこにはなんと坂田明さんが表2の広告で登場されていた。帝人の広告だが、僕の中学時代の同級生・松本邦明さんが当時、帝人の広報部長だったため、有難いことに創刊号のため好意的に広告を出してくれた。それが坂田明さんのミジンコ観察(下)の風景だったのだ。そのミジンコの話になると、堀文子さんも身を乗り出して、細胞分裂からプランクトンの遊泳力まで熱心にメモを取り、図を描いたもらうほどの入れ込み状態となった。
・堀さんが極微の世界に魅せられたのには理由がある。実は2001年の春にも大病されたが、いくら回復しても辺境へ旅するのは難しくなる。絶対安静の1か月近い入院中、子供の頃にはまりかけて中断していたプランクトンの世界が、突然マグマのように噴出したというのだ。顕微鏡を手に入れよう。一滴の水の中にうようよ泳いでいる微生物が見える。「ゾウリムシが見たい」という衝動がこみ上げてきた。スライドガラスの上に垂らした一滴の水。それをそっと覗いてみると、いるわいるわ、アオミドロ、ツヅミモの間を大小の微生物がうごめいている。
・ミジンコを初めて見たときの感動は格別だったという。2ミリ以下の小さな生命体。円い頭に黒い大きな眼が一つ。口をとがらせた顔があどけない。体は鳩胸のようで背中はまあるくなっている。卵型の体型がかわいらしく、肩には枝分かれした触覚があり、その先に細い毛のある剛毛が指のように何本も出ていて、この両腕を振るのである。体の中心を太い腸が走り、ぴくぴく動く楕円形の袋は心臓だ。透き通った体の中で、食べて、消化し、排泄し、子を生み、子孫を残す。この極微の体で完璧に行なっていることに感動されたのである。対談相手の坂田さんはミジンコ博士のような方。話が盛り上がるのも当然である。
・堀さんはこんなにも知的好奇心があり、若々しい。このお美しい姿を見ると人生120歳寿命説を信じたくなる。上村松園賞(昭和27年)、ボローニャ絵本賞(昭和43年)、神奈川県文化賞(昭和62年)等の賞を取ったが、ご本人は賞など一切忘れたかのように、天真爛漫に人生の苦楽、無尽蔵の知識を楽しんでいる。
・まだまだ書きたいことはあるが、月刊『清流』と単行本の対談集を買ってもらいたいので、あえて言わないでおきたい。僕が堀文子さんの熱烈なファンであることが分かってもらえばうれしい!
・『婦人画報』を出すアシェット婦人画報社は、母体が仏ラガルデールグループのアシェット・フィリパッキ・プレス社である。そもそもアシェット社は、フランス・メディアの一大グループである。かつて僕は40年前、20代の頃、パリから『レアリテ』という月刊誌の日本語版権を買い取りに行ったが、当時、S.E.P.E社という『レアリテ』の発行所は、元を正せばアシェット社グループの一員だった。僕は研修のためアシェット社に何回か行っている。その流れを継ぐ『婦人画報』といまこうして仕事を持つことが出来た。僕としては不思議な縁という以外言うべき言葉がない。
月刊『清流』創刊号の広告ページ
堀文子さんと僕
●写真撮影はすべて広瀬祐子さん。このためパリの事務所から急遽馳せ参じてくれた。
2009.06.01奥村智洋さん
・月刊『清流』8月号の「きらめきびと」欄にご登場いただくヴァイオリニストの奥村智洋さん(左から2人目)。彼を囲んで、ライター・塩見弘子さん(左)と松原淑子『清流』編集長と僕は、食事をしながら追加取材をした。塩見弘子さんは、今回、初めて起用するライターで、ホリスティック医学で著名な帯津良一先生からのご紹介。クラシック音楽が大好きという塩見さんなので、僕は所を得た起用と悦に入っている。
・奥村智洋さんのヴァイオリンの生演奏を、僕は昨年から今春にかけて都合3回、聴いている。その素晴らしさを少しでも読者にも伝えたくて、文章では限りがあるが、8月号の台割に入れた。わが社では藤木健太郎君と臼井雅観君が、僕に付き合って奥村智洋さんの「長島葡萄房コンサート」に2回、参加してくれた。
・蛇足だが、編集者は、音楽、美術、映画、演劇、写真……など、努めて生の現場を見聞したほうがよい。そうした経験は、感性を磨き、企画やデザインにきっと役立つ。僕はこうした「忙中閑」の時間が編集者には欠かせない、と勝手に決め込んでいる。その意味では、わが社の中老年3人は馬齢を重ねつつも、辛うじて合格である。今後は、この種の催しに若い社員がどんどん参加してくれるよう期待している。
・で、肝心の奥村智洋さんだが、根っからのまじめ人間で、ヴァイオリン一筋の方。1969年東京の生まれ。4歳からヴァイオリンを始め、若干15歳にして、第53回日本音楽コンクールで第一位に。合わせて増沢賞を受賞した。増沢賞は、全部門の入賞者の中から最も印象的な演奏・作品に対し賞状と金30万円が贈られる。日本のクラシック音楽コンクールで、権威と伝統のある音楽のコンクールの一つであり、若手音楽家の登竜門として確立した。1981年度から贈られるようになっており、奥村さんは第4回(1984年度)受賞された。僕が増沢賞を覚えているのは、第2回(1982年度)、仲道郁代さん(ピアノ部門)が受賞され、印象に残った。
・増沢賞を取った後、高校を卒業した奥村さんは、奨学生としてジュリアード音楽院に留学。1990年、カーネギーホールでニューヨーク・コンサート・オーケストラとラロのスペイン交響曲を弾いて米国デビューを果たす。1992年、カール・フレッシュ国際ヴァイオリン・コンクールに入賞、同時にパガニーニの演奏に対して特別賞を受ける。1993年、ナウムバーグ国際ヴァイオリン・コンクールで優勝し、一躍アメリカ楽壇に認められ、全米各地のオーケストラと共演する。ワシントン・ポスト、ロスアンゼルス・タイムズ、フィラデルフィア・インクァイラーなどの有力紙で絶賛される。その後も、ニューヨーク・タイムズ紙から最高級の賛辞や全米各地のリサイタルで好評を得ている。
・7年前、ニューヨークから東京へ居を移し、NHK交響楽団、読売日本交響楽団、新日本フィルハーモニー、東京交響楽団、オーケストラアンサンブル金沢……など日本の交響楽団と共演したほか、個人リサイタルもしばしば開催している。
・ここで、奥村さんの人となりを知るに格好のエピソードをご紹介しよう。奥村さんの住まいは、電車で行った場合、西武池袋線の江古田駅が一番近い駅だが、ある時、知人が隣の駅から一所懸命に歩いている奥村さんを見かけた。隣の東長崎駅と江古田駅は料金の差が30円。奥村さんは少しでも倹約したいからと、一駅歩いていたのだ。知人に「芸術家は大変だなあ」と、感心されたという話だ。これと関連するが、奥村さんは鉄道に大変興味がある。唯一の趣味だという。日本全国、行きたい所には大枚はたいてでも行き、しかもカメラを駆使して風景を撮りまくる。地方の名もない駅や鉄道、列車、ひなびた日本の風景などに心動かされるという。ヴァイオリンと鉄道さえあれば、奥村さんは幸せだという。長島葡萄房の演奏会の後、奥村さんは大事に持参してきた鉄道にまつわる写真集を見せてくれた。遊びに夢中のときの子供のように、嬉々として説明してくれた奥村さんに、僕は大いに好感を抱いた。
・今春から、奥村さんは、国立音楽大学の付属中学、高校の講師も務める。後進の指導に時間を割くことは、むしろ本望という。かつて鷲見三郎、堀正文、江藤俊哉、ドロシー・ディレイ、川崎雅夫、フェリックス・ガリミア……に師事した奥村さんは、芸術家、分けてもヴァイオリンの系譜が師匠から弟子へと受け継がれていくことを、身を持って感じている。十代の後輩を育てていくことが、ソリスト奥村の人間的成長を促す。もう一段高みに飛躍できるはずで、奥村さんの前途に期待している。
2009.04.01沖藤典子さん
沖藤典子さんを囲んで、古満くんと僕
・ノンフィクション作家の沖藤典子さん(右)が単行本の企画打ち合わせのため来社された。沖藤さんといえば、女性の生き方や家族の問題、シニア世代の研究、介護問題などに深い関心を寄せ、旺盛な執筆活動、市民運動を続けている方である。沖藤さんの豊富な取材エピソードから、年を重ねて益々輝いて生きている人、老いてなお明るくしなやかに生きている人の「生きかた模様」を取り上げ、元気に年を重ねるための知恵を提案するというもの。避けては通れない「介護問題」も取り上げる。
・編集担当は古満君(左)。ここ数年来、沖藤さんにお付き合いをしていただき、古満君もすっかり介護の問題、高齢者の事情などに詳しくなった。世界最速で高齢社会を突き進む日本。難問解決への一助となるような本を刊行できればと思っている。
・いまのところ仮題であるが、『人間、いくつになっても!――30人のいきいきシニアライフ』。コアターゲットは五十?七十代の「シニア・介護世代」の男女(特に女性)である。全体構成もすでに出来上がっているが、本を読んでもらいたいので、ここでは割愛する。6月中旬刊行予定で進んでいる。
・北海道の十勝平野池田町に育った沖藤さんは、1961年に北海道大学文学部を卒業。前年に出来たばかりの?日本リサーチセンターへ入社され、15年間各種調査研究に没頭する。その後、独立され、1979年女性の社会進出をテーマに書いた『女が職場を去る日』(新潮社刊)を出版し、執筆活動に入る。主な著書に、『長生きしてはいけませんか』(講談社刊)、『あなたに似た家族』(徳間書店刊)、『女50歳人生後半が面白い』(ミネルヴァ書房刊)などがある。
・女性の生き方や家族の問題、シニア世代の研究、介護問題などに積極的に取り組んできた経験から、乞われて政府や各種団体の役員にも就任、公私とも多忙な日々を送られている。その数、全国高齢者ケア協会副会長、日本の社会福祉会理事、高齢社会をよくする女性の会副理事長、厚生労働省社会保障審議会・介護給付費分科会委員、内閣官房地域活性化戦略チーム委員、(財)介護労働安定センター評議員、(社)日本介護福祉会理事、シニア社会学会理事(次世代育成支援研究会座長)、『共同参画』市民スタディ21代表、神奈川女性会議代表……など十指に余る。この間に、相模原市女性計画推進委員会や立教大学非常勤講師なども務めている。平成19年度には、「内閣府・男女共同参画社会づくり功労者表彰」を受賞された。
・合間を縫って海外の情報収集もされている。アメリカ、イギリス、ドイツ、北欧諸国、台湾、中国、韓国……など、その国特有の高齢者対策、福祉政策などを見て、日本との彼我の差や利点を学び、どう日本的な制度として結実させていくかを模索している。
・沖藤さんの公式ホームページ「らっきょう亭」を読むと、さまざまな問題で悩んでいる高齢者、介護の必要な方たちに向けメッセージを発信しておられる。ぜひ読んでみてください。僕の拙い説明文よりよほど分かりやすい。
2009.03.01山田俊幸さんと竹内貴久雄さん
山田俊幸さん(左)、竹内貴久雄さん(右)
・帝塚山学院大学文学部教授の山田俊幸さん(左)と「オフィス竹内」代表でeditorの竹内貴久雄さん(右)が来社された。お二人は高校生時代からのお付き合いで、山田さんのほうが二歳年長(昭和22年生まれ。高校3年になるとき、竹内さんが入学してきた)とのこと。とにかく高校時代から、今日に至る長いお付き合い。この年齢になっても、お互いの特技を活かして仕事の分担割りをし、高めあうという羨ましい関係である。今回も、山田さんが執筆・監修を担当、竹内さんは、レイアウト、本文組みなど編集進行作業を担当する。
・わが社の編集担当は、古満温(すなお)君である。古満君は企画提案する際、当然「小林かいち」と言ったらしい。だが、僕は「ああ、あの17歳で死んだ天才・山田かまちのこと」と聞き間違えてしまった。よくよく話を聞いてみると「小林かいち」。初めて聞く名前であった。企画書をじっくりと見ると、山田さんの監修で『小林かいちのデザイン世界――京都アール・デコ幻の巨匠』(仮題)を作ろうというものであった。
・かいちは、大正末期から昭和初期にかけて活躍した画家だというが、いまだに謎に包まれた部分もある。近年、絵葉書や絵封筒に描かれた大正ロマン漂う「京都アール・デコ」の作風が人気を呼び、評価が高まっているとか。古満君もそうした機運をつかんでの企画提案だったと思う。ハンディでお洒落な作品集とし、中心となる読者対象は30代の女性、作風からして竹久夢二のファン層にも狙いをつけたいという。
・後日、編集進行のオフィス竹内(担当:竹内貴久雄さん)から送られてきたレジュメを見ると、判形は「四六判」、総ページは160ページ、カラー80ページ。序章「かいちとその時代」から始まって、第1部「かいちデザイン7つの表情」、第2部「かいちをめぐる3つの謎」、第3部「年譜・資料」と微に入り細を穿った編集内容で、好感を持った。
・竹内さんから送られた組版の見本(下)を見ても素晴らしい。文字組みも魅力的で、何よりもかいちの絵が素晴らしい。竹久夢二、高畠華宵や蕗谷虹児とも違うアール・デコ・イマジュリィ(イメージ図像を指すフランス語。挿絵、ポスター、絵葉書、広告、漫画、写真など大衆的な図象の総称として用いられる言葉)の世界が展開されている。
・山田さんは、もともと中学校教諭をしていた方である。その後、帝塚山学院大学文学部教授になり、日本近代文学、大正イマジュリィを専門分野にして活躍中。絵葉書というコミュニケーション・ツールにより旧宮家のドキュメントや、『白樺』を中心とした美術運動の展開、大正の詩と絵画の接触にあらわれるイマジュリィを研究している。
・山田さんの著書には、『アンティーク絵はがきの誘惑』(産徑新聞出版)、共著に『小林かいちの世界――まぼろしの京都アール・デコ』(国書刊行会)、編著に『論集 立原道造』(風信社)、『雑学3分間ビジュアル図解シリーズ 語源』(PHP研究所)などがある。現在、日本絵葉書会会長、大正イマジュリィ学会常任委員、四季派研究会主宰、『一寸』同人。展覧会の企画監修実績も数多く持っている。高畠華宵を研究する華宵会の会報誌『大正ロマン』を見ると、毎号のように山田さんの記事が載っている。平成の世に大正ロマンが息づいているのにはホッとさせられる。
・かいちのことは本文で読んでほしいので、さわりを紹介するに留める。彼は、京都に在住の抒情版画家であった。今から85年前、大正12年の関東大震災頃から作品を世に問い始めた。京都は当時、日本の前衛文化の中心で、ヨーロッパから押し寄せる新美術の情報と京都の伝統産業の基盤としての琳派風表現が渾然一体となり、かいちの版画世界に反映して独自の世界が生まれた。山田さんをはじめ永山多貴子(郡山市立美術館学芸員)さんなど複数の執筆者は、抒情的版画の魅力を存分に書いてくれたとのこと。楽しみである。
・竹内さんも、山田さんに劣らず活発な活動をし、出版界に足跡を残した方だ。お二人は、1970年代から、「風信社」というインフォーマルな組織で、立原道造、堀辰雄らが集った近代日本文学史上の一派「四季派」の研究を続けてきた。その数年前から、初等教科書の出版社である泰流社の経営者は、竹内さんに編集長への就任を要請していた。取次店への販売委託を受けた「風信社」と「工業出版」両社の編集長をしていた竹内さんの力量を見込んでのことである。編集長に就任した竹内さんは、「風信社」「工業出版」の路線を縮小して継続させる傍ら、マイナー言語の語学書出版部門の強化を中心に文化史、思想史分野への進出を図った。また、20世紀西洋音楽の作曲家の伝記を探るなど路線変更を行なった。
・竹内さんの手掛けた本の中には、俵万智のベストセラーのもじりだが、『男たちの「サラダ記念日」』(1987年)もあった。この本は半年で20万部という実売部数。立派な数字だ。結局、竹内さんはその年、自分の編集会社の運営に専念するために泰流社を退社された。僕が評価しているのが、ライターとして音楽関係の著書3冊を刊行されたことだ。いわば音楽研究家として『クラシック名曲・名盤事典――貴重で珍しいジャケット写真が満載!』(1992年 ナツメ社)、『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』(1994年 洋泉社)、『歴伝/洋楽(クラシック)名盤宝典――CDジャーナルムック』(1999年 音楽出版社)などの著書がある。
・企画を立てた古満君に「このお二人は紹介者があったのか?」と問うと、全然ないとのこと。自分で探して連絡を取り、見つけた著者だという。やはりこうした地道な努力をしてわが社の著者になってもらうことこそ、編集者の生き甲斐であり、本筋であると思う。これからも、好漢、がんばれ!
2008.12.01小山明子さん『源氏物語』の朗読
・月刊『清流』の人気欄「小山明子のしあわせ日和」を連載していただいている女優の小山明子さん(中央)が、銀座の博品館劇場で『源氏物語』の朗読公演をされた。小山さんは今年で3回目の源氏物語朗読である。昨年までの2回は、「明石」の帖だったが、今回は「夕顔」の帖である。凛とした舞台で、素晴らしいとしか表現しようがない。僕は下手な謡をやるが、小山さんの朗読出演を知り、大いに刺激を受け、謡曲「夕顔」を自宅で密かに唸った。「ただ何某の院とばかり書き置きし世は隔たれども見しも聞きしも執心の色をも香をも捨てざりし涙の雨は後の世の障りとなれば今もなほ……」。能舞台で「夕顔」を見た時の思い出がよみがえってきた。
・小山明子さんは前回、10カ月間ボイストレーニングに通い、家では朝晩、大きな声を張り上げて読む練習をしたと言う。「夕顔」の帖の瀬戸内寂聴さんの現代語訳も現代にピタリと合った。その上、小山さんの語り口調が舞台に映え、もののあはれがしみじみと伝わってきた。儚く散った夕顔の悲しい運命。ヒロイン夕顔の魅力が一段と増していた。小山さんの担当編集者、秋篠貴子(右)と僕は終演後、小山さんと記念撮影したのがこの写真。撮影は臼井雅観君。小山さんの旧姓も臼井とのことで、小山さんと臼井君は電話でこの話題で盛り上がったという。
・今年は「源氏物語一千年紀祭」特別記念公演(公演名誉会長は瀬戸内寂聴)で、会期も1カ月以上の意欲的な催しとなった。「まるごと源氏物語」と銘打って、朗読のほかに落語、詞劇、シャンソン、ダンスなど盛りだくさん。ハープ、琴などの演奏も入っており、楽しみつつ勉強になった。小山明子さんの朗読の前に、筝演奏の松本英明さんが若者にしては素晴らしい演奏をしてくれた。
・月刊『清流』には多種多彩な人々が登場するが、小山明子さんほどご多忙な方は珍しい。ご主人・大島渚さんの日々の介護をする傍ら、テレビ出演、雑誌などへの執筆がある。朗読公演もされている。ここ1?2カ月位のマスコミ露出度も驚異的だ。各メディアがどう伝えたか、僕も”小山明子さん追っかけ”の一人となって情報を集めてみた。
・まずテレビでは、10月20日、テレビ朝日系で、ドキュメンタリスペシャル「大島渚”最後の闘い”壮絶!小山明子献身愛脳出血に倒れた夫よ…密着4000日」が放映された。つづいて10月24日、テレビ東京の「たけしの誰でもピカソ」に登場された。また11月1日、テレビ朝日「スペシャルな午後」に出演。一連の番組で、1996年に大島渚監督が脳出血で倒れて、懸命の介護に専念、自らもうつ病を患って、助かった命。そんな経緯を包み隠さず語られた。
・週刊誌では、『週刊女性』10月21日号で”人間ドキュメント”「うつ病を乗り越え、夫への献身介護を続ける」と題し、「死に場所をもとめてさまよった私がいまはふたりでいられるだけで幸せです」のメッセージ。12月5日号の『週刊朝日』では「親子のカタチ」の欄で、小山さんとご長男の大島武さん(東京工芸大学准教授)が対談している。「子どもは宝物だけど、一番愛しているのはパパだから。あなたたちは自分で家庭をつくって生きていきなさいというのが、ずっと私の教育方針」という小山さんの言葉に対して、「お父さんがお母さんに惚れてる感じがするよね。いい年した今でも。それは子どもにとってもすごく良かった」とご長男は応ずる。
・月刊誌では、『清流』誌が独占的に毎号、小山さんの近況を伝える。今出ている号では、「地域でいきるということ」と題して、小山さんの隣近所の付き合いをお話している。神奈川県藤沢市の鵠沼にお住まいで、この春から町内会(一照会)の班の組長をおやりになっている。毎号、そのような日常的な話題を含めて、女優・小山明子さんの全貌をお届けする。
・新聞では、日本経済新聞で10月27日?30日、「人間発見」欄にご登場。「夫の介護が生きがいに」という小山さんの日々の生活を5回にわたり赤裸々に語ってくれた。主な内容は、05年に朗読公演で舞台へ。女優業の快感よみがえる。自宅では大島監督の車いす押す生活。スキンシップ大事に。雑誌写真きっかけに映画界へ。「第2の岸恵子」と騒がれる。京都の撮影所で大島と出会いデート重ね「この人を好きかも」。大島監督とのラブレター360通。監督独り立ち機に結婚。「日本の夜と霧」上映中止。夫婦で松竹退社、生活費に苦労。大島監督倒れ重い後遺症。自分もうつ病、自殺考える。「御法度」で監督復帰。夫婦でカンヌに招かれる。……こうした一方、小山さんは自己を見つめ、水泳、ヨガ、料理教室、一筆画教室などを楽しみ、前向きに人生に対処してきたというのが印象的である。
・11月5日の讀賣新聞は、文化欄をつかって、大島渚監督の著作集やDVD集の刊行・発売が、この秋相次ぐのに合わせて、大島作品にこめられた日本社会や映画界に対する問題提起に改めて向き合う好機との記事を載せた。その中で、著作集の編集と各巻の解説を手掛けた四方田犬彦さんは、大島さんの「体験的な意味での映画理論であり、映画体験記であり、戦後の一知識人の掛け値なしのドキュメンタリー」と絶賛している。映画監督の是枝裕和さんは「大島作品がもっていたような「毒」と茶の間にいる私たちを対峙させるような番組を期待したい。陶酔より覚醒を――。困難ではあるが、それがドキュメンタリーの持つ本来の力であり、役割だと僕は信じている。」と書いた。早速、僕は『大島渚著作集』(現代思潮新社)の第1巻を買った(実際は、秋篠が神保町の三省堂へ買いに行ってくれたのだが)。
・ご次男の大島新さんにも触れておきたい。昨年末、デビュー作のドキュメンタリー映画『シアトリカル?唐十郎と劇団唐組の記録』が公開された注目の新人監督である。1999年、フジテレビ退社後、フリーのディレクターに転身。「情熱大陸」ディレクター時代には、唐沢寿明、寺島しのぶ、見城徹や秋元康など10本以上を担当した。大島渚さんの息子らしい活躍ぶりである。
・『清流』の「小山明子のしあわせ日和」が、読者からの反響も大きいことから、早くも2年目の連載を決めたところである。お忙しい身でありながら、連載を快く引き受けていただいた小山さんには心からお礼を申し上げたい。大島渚監督と僕は、同じ年(1996年)に脳出血で倒れた。いわば闘病の戦友とでもいえようか。その後の生活が、妻という存在なくしてはあり得なかった。ここにも共通点があり、僕が他人事とは思えない所以である。
2008.11.01
窪島誠一郎さん、天満敦子さん、長島君、笹川さん、藤木君、臼井君、僕
・「編集部から」(2008年9月)に藤木企画部長も書いているように、窪島誠一郎さん(後列右から2人目)の新刊『私の「母子像」』が8月下旬に刊行された。10月に入ってから遅まきながら出版を記念しての食事会を開いた。この席に窪島さんと親しいヴァイオリニストの天満敦子さん(前列右)が飛び入りで参加してくれた。お蔭で華やかで楽しい食事会になった。
・冒頭、熊本日日新聞に大きなスペースで載った書評が話題に上った。出久根達郎さんの筆になるもので、《本書を開いて、まず驚いたのは、「母子像」を描いた絵画が、こんなにもあるのか、ということだった。……(中略)これは「母子像」の名作を通して語る、著者の自伝でもある》と書いておられる。窪島さんもこの本の中で《名画家、実力画家が描いた三十六点の「母子像」に託して生父母や養父母に対する思いのたけ、ザンゲ、後悔の思いのたけを吐き出した》と執筆意図を書いているから、出久根さんのご指摘は、ズバリ正鵠を射たものであった。
・『私の「母子像」』には、窪島さんの生母と養母、終生二人の母の子でありたかったとの願いが溢れ出ている。子を思い、母を思う心は永遠である。時代を超えて変わらぬモチーフであった母と子、さまざまな「母子像」とのめぐりあいは感動にみちて、その情熱が文章の端々まで反映した一冊であった。
・窪島さんの著書は優に五十冊を超えている。今更言うのは気が引けるが、窪島さんの文章のうまさは天下一品である。父君である水上勉さんの文才を引いていると思わざるを得ない。
・もっと語りたいが、ここからは天満敦子さんの話に切り替える。この日、窪島さんがもっぱら天満さんのことを話題にしたからである。お陰で普段は聞けないような話もたくさん聞けた。窪島さんは軽妙洒脱な話術が巧みで、それを如何なく発揮したのが、天満さんの来し方を紹介するエピソードである。細部にわたり面白おかしく語って飽きさせない。このお二人は、「あっちゃん」「せいちゃま」(注1)の愛称で呼びあうほどの仲良し。天満さんが「せいちゃま、だーいすき」と言いながら、隣の窪島さんの肩にしなだれかかる。天衣無縫な天満さんしかできない芸当だ。
・窪島さんの巧みなスピーチを再現したいところだが、とてもとても僕の文章能力では難しい。我慢してお読みいただきたい。天満さんの才能は幼少の頃から抜きん出ていた。6歳からヴァイオリンをはじめ小学校時代、NHK・TV「ヴァイオリンのおけいこ」に出演、講師の故江藤俊哉に資質を認められた。東京藝術大学在学中に日本音楽コンクール第1位、ロン・ティボー国際コンクール特別銀賞を受賞し注目を浴びた。ここまでは窪島さんの言を待つまでもない世間周知のことだ。
・ここから驚きの連続となった。天満さんの女子高生時代に遭遇した事件? が明かされたのだ。16歳の時、御茶の水で作家の井上光晴に見初められたのだという。勁草書房の窓ガラス一面にでかでかと井上光晴の顔入り宣伝ポスターがあり、天満さんがしげしげと眺めていると、当の井上光晴に声を掛けられた。「この先の芸大附属高校に通ってるんです」と応えると、「この先の『ジロー』でケーキでも食べませんか」と誘われたのである。以来、年齢差30歳余りという稀有な交際が始まる。その時のやりとりや成り行きが、窪島さんと天満さんの口から語られて面白かったが、僕は文章に表す自信がない。
・ときに井上光晴は瀬戸内晴美と恋愛関係にあった。天満さんのお母さんと瀬戸内さんが東京女子大で同級生だったこともあり、複雑な人間関係に入る。つい最近、齋藤愼爾さんが出版した『寂聴伝――良夜玲瓏』の作品がこの件を多分触れているのでないかと天満さんは言う。そして、井上光晴の仲間には埴谷雄高、島尾敏雄、野間宏、橋川文三、秋山駿……などといった錚々たる文士がいた。丁々発止と文学論を戦わす中で天満さんは鍛えられる。「この子は天才だ」という井上さんの言を柳に風と受け流し、いわば天満さんは才能あるかわい子ちゃん的存在で、≪オジサマ殺し≫の青春時代を送ったのだと思う。
・のちに丸山眞男も熱烈な天満ファンになり、わけても天満さんの弾くバッハの「シャコンヌ」を熱愛した。後年、丸山さんが亡くなって偲ぶ会が行なわれたときもその曲を弾いている。丸山さんの魂が乗り移って「人生の軌道を変える出来事」のように思われる経験だったと天満さんは述懐する。なお、天満さんはヴィターリの「シャコンヌ」も演奏会でしばしば弾き、どちらの曲も僕は大好きだ。簡単にまとめたが、まさに事実は小説より奇なりである。
・本業のヴァイオリンでは、海野義雄、井上武雄、間宮芳生、宇野功芳、田村宏、シゲティ、レオニード・コーガン、ヘルマン・クレッバースらの師匠にも恵まれた。井上光晴さんの「ヴァイオリン一筋でいけ。わき目を振るな」「本物を見つめろ」「あんたは本物になれ」の言葉を守り通したことになる。
・その井上光晴ががんで亡くなった1992年、天満敦子さんにとっても、人生の曲がり角だったと窪島さんは言う。この年、天満さんはルーマニアを「文化使節」として訪れたことが縁になって、ルーマニアの「薄幸の天才作曲家」ポルムベストの「望郷のバラード」に出合うことになる。早速、この曲を日本に紹介。いまや演奏会の時に欠かさずその曲を弾いて、天満さんといえば「望郷のバラ?ド」が代名詞といわれるまでになった。
・その曲を手にした天満さんを、芥川賞作家・高樹のぶ子は『百年の預言』というルーマニア民主化を背景にした恋愛小説として世に出す。主人公の走馬充子は明らかに天満敦子がモデルで、これまた話題になった。
・清流出版有志(藤木、臼井、僕)も天満敦子さんのコンサートをこの出版記念会を挟んで9月と10月、二度聴きに行った。名器アントニオ・ストラディヴァリウス「サンライズ」と弓は伝説の巨匠ウージェーヌ・イザイ遺愛の名弓の奏でる音に酔った。9月は天満ファンを自認する小林亜星とのジョイントコンサート(なかのZERO大ホール)があり、10月はミッシャ・マイスキー(チェロ)とのジョイントコンサート(東京オペラシティコンサートホール)があった。この10月のミッシャ・マイスキーとの共演は素晴らしく、いつまでも心に残る音楽会だった。どちらの演奏会でも、天満さんは「望郷のバラード」を弾いた。憂いを帯びた美しい旋律と、曲に秘められたエピソードを聞いて、天満さんの人間的魅力がますます好ましくなった。これからも熱烈な天満ファンでありたいと思っている。
・また今回、わが学友・長島秀吉君(前列左)が同席しているのには理由がある。窪島誠一郎さんの格段のご配慮についてお礼を述べる機会としてもらいたかったからだ。実は、長島君は今年3月にがんの手術に成功し、6月に自身経営する長島葡萄房主催でコンサートを行なった。それが上田の無言館(注2)である。窪島さんの承諾を得て無言館が閉館した後、模様替えをし、約50名の観客を集めて夢の音楽会を催したのだ。戦没画学生たちの作品を集めた慰霊美術館である無言館は、ある意味神聖な場所であり、めったなことでは他人に開放しない。それを長島君のたってのお願いで、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲15番(われわれ二人の恩師・椎名其二さんが大好きだった運命的な曲)などの曲を演奏し、感動的なコンサートが実現したのである。窪島さんは命を賭けた長島君の願いに賛同してくれたのだった。僕も、窪島さんの配慮には心から感謝している。
(注1)
天満敦子さんと窪島誠一郎さん
(注2)
無言館
楊逸さんとの楽しい会話
・月刊『清流』の編集者・長沼里香(後列左から二人目)は最近、時の人、旬な著者を登場させており大活躍している。今回も、中国人作家として初の芥川賞を受賞した楊 逸(ヤン イー)さん(後列中央)にアタックし、『清流』10月号の「この人に会いたくて」にご登場いただいた。「笑っちゃうような人間くささを日本語で表現したい」というメッセージももらっている。
・その後、長沼は楊さんのことを雑誌だけでは惜しい、なんとか単行本企画にしたいとの思いを募らせていた。清流出版の総力をかけて楊さんを狙ってみたいとの気持ちを僕に伝えた。こうした向上心や冒険心は僕も大好きである。早速、10月のある一夕、ホテルグランドパレスで、わが社の幹部連中を集めて、お忙しい楊さんと会合を持った。
・ここでちょっと楊さんの略歴を述べておく。すでに新聞、週刊誌、テレビ等々で御承知のように、1964年、中国黒竜省ハルビン市で生まれ、1987年、留学生として来日した。お茶の水女子大学文教育学部地理学を専攻、卒業後、在日中国人向けの新聞社を経て、中国語教師として働く。昨年、『ワンちゃん』で芥川賞候補になるも、惜しくも落選となる。今回、『時が滲む朝』で見事、第139回芥川賞を受賞した。日本語以外の言語を母語とする作家として、史上初の芥川賞受賞となった。
・楊さんは、中学生の頃、日本に住む親戚が送ってきた日本の風景写真を見て、日本という国に憧れを抱く。来日した当初は、日本語が全く分からなかったため、皿洗いなどのアルバイトをしながら授業料を稼ぎ、日本語学校に通ったという。今では、日本語の細かい綾も理解できるほどになっている。だからこそ表現力は素晴らしい。
・楊さんは現在、高校2年生の息子さんと中学1年生の娘さんの三人暮らし。女手一つで、たくましく育てている。この日、息子さんは沖縄への修学旅行中。娘さんが一人でお留守番だった。会合の合間に、娘さんから夜のご飯はどうするのと携帯電話で聞いてきた。楊さんは丁寧に、用意しておいた夕食について伝えていた。
・楊さんの住まいは、ウォーターフロント、勝鬨橋近くの公団住宅である。何回も公団住宅に応募したものの、くじ運に恵まれず、十数回目でようやくこの住宅を射止めた。25階という高層階のフロアーで、高所恐怖症の楊さんは下を見ないようにしている。中国では地震は少ない。慣れていないから、高層階の揺れにも敏感で、地震があると眩暈がするという。この会合の席もホテルグラドパレス23階である。窓側に案内したら、「こわい!」としり込みする。高所恐怖症を扱った短編小説を書いたらいかが、と薦めたらしばし沈黙していた。
・『清流』の副編集長・松原淑子が日本の温泉巡りの話をしたら、楊さんも温泉好きらしく急に身を乗り出した。各地の秘湯に行ってみたいと話が弾んだ。楊さんは日本の三大名湯を道後、別府、草津温泉だと思っていたが、松原が正しくは有馬、下呂、草津温泉だというと「二十年間、ずっと間違えてました」と苦笑していた。日本の温泉は最高と思っている楊さんに、温泉の魅力についてぜひ書いてほしいとお願いした。このお願いも楊さんには即答していただけなかった。基本的に楊さんは、年に二作、小説を書きたいというが、作家を本業とは思っていないとのこと。こうなると文藝春秋が俄然有利だが、合間合間を縫って、わが社にも原稿をいただこうと思っている。
・こんな話をしつつも、僕は前項の天満敦子さんと共通する人を思い浮かべて秘かに楽しんでいた。それは、芥川賞と直木賞は同日受賞パーティがあり、直木賞はなんと井上光晴のお嬢さん、井上荒野さんが受賞した。東京會舘の記者会見では楊さんと井上さんが仲良く並んでいた。天満さんゆかりの井上光晴の娘である荒野さんが、時の人として脚光を浴びている。面白い偶然である。もう一つの偶然を発見して僕は悦に入った。芥川賞選考委員の高樹のぶ子さんは受賞作『時の滲む朝』を、「前作『ワンちゃん』より日本語の表現がよくなった」と評している。天満さんをモデルにして『百年の預言』を書いた高樹さん。人生というのはいろんな出会いで織り上げられた織物のようなものだが、今回取り上げた話も、一つひとつは独立した織り糸のようで、最後に見事なタピストリーが完成した。やらせのようであるがそうではない。確かに出来すぎな話ではあるが!
2008.09.01出久根達郎さん 徳岡孝夫さんほか
出久根達郎さん、藤野吉彦さん、藤木健太郎君、僕
・真夏の暑い夕暮れ、中野駅前の割烹『ふく田』で、作家の出久根達郎さん(右から二人目)を囲み、フリーの編集者・藤野吉彦さん(右)、藤木健太郎君(左)と僕とで、大いに美酒に酔い、語り合った。
・出久根さんは、これまで弊社から二冊の単行本を出させていただいた。『養生のお手本――あの人このかた72例』(1600円、2005年5月刊)と『下々のご意見――二つの日常がある』(1500円、2005年11月刊)である。好意的な書評も幾つか載ったこともあり、いずれも売行きは順調。今回は三冊目の企画で、タイトルも『ときどきメタボの食いしん坊』にほぼ決定した。いかにも面白そうな書名で、今から刊行が待ち遠しい。その前に恒例の人物紹介をしたい。といっても、出久根達郎さんのように多くの読書人から人気のある方を、今さらながら僕が紹介するなど愚の骨頂だと言われかねないが……。
・出久根さんは、ご存じ古書店家業をしながら書いた『古本綺譚』で作家デビュー、1992年に『本のお口汚しですが』で第8回講談社エッセイ賞を、93年に『佃島ふたり書房』で第108回直木賞を受賞した。その後も、2004年に『昔をたずねて今を知る読売新聞で読む明治』で第17回大衆文学研究賞特別賞を受賞するなど、数々の話題を提供して健筆を振るっている当代有数の人気作家だ。
・今回の『ときどきメタボの食いしん坊』(仮題)をもう少し説明すれば、まさに出久根さんの真骨頂が発揮されているエッセイ集である。いまやメタボ(メタボリックシンドローム、内臓脂肪症候群)といえば、世の男性のみならず女性からも忌み嫌われる言葉。そこを逆手にとって、出久根さんが、メタボどこ吹く風で、面白く、笑えて、かつしんみりともさせてくれる。読んでいただきたいので、ここで細部は明かせない。
・出久根さんが、優秀な企画マンでもあることを再認識した。というのも、アルコールが回るほどに、アイデアがこんこんと湧いてくるようで、尽きることがないのだ。我々も負けず知恵を絞ってアイデアを出し合ううち、いつしか企画会議になってしまった。内容に触れるわけにはいかないが、閉塞感漂うこの時代にあって、読者は明るいもの、希望のもてる読み物を求めているのではないか、という意見の一致をみた。閉塞状況にある日本社会に、希望の光を投げかける一書を提案されたが、ここに書くことはできない。今後、請うご期待である!
・当日、僕が大事に取ってあった古い小冊子『中央沿線 古書店案内図付、古書店名簿――東京都古書籍商業協同組合中央線支部発行 昭和五十三年改訂版』(頒価50円)をお見せした。この「高円寺」のページにかつて出久根さんが経営していた古書店、芳雅堂書店の名前がある。僕は10代後半から30代にかけて、毎日のようにリュックサックを背負って、早稲田界隈、神田神保町界隈、中央線界隈など、ありとあらゆる古本屋を巡り、古書を買い漁った。もちろん、芳雅堂書店でも、多くの本を買っている。出久根さんは懐かしそうに小冊子を開いて感じ入り、感慨にふけっていた。このように執筆者と触れ合い、親しい関係を持ち続けていることは、僕にとっては夢のようなこと。これからも著者とのこうした関係を大切にしたいと思っている。
・フリー編集者の藤野吉彦さんについても一言触れておきたい。札幌北高校から東京大学に進み印度哲学を専攻した俊才だ。仏教に造詣が深く、何冊かの本を出している。そのほか、『中村元選集』(春秋社刊、別巻を含め全40巻)の編集も手掛けている。わが社では、専ら編集者として協力してもらい、数多くの本を編集担当していただいた。話題が豊富で、この酒席でもさまざまな話題を提供して、座を盛り上げてくれた。今度出る出久根さんのエッセイ集『ときどきメタボの食いしん坊』(仮題)にも、藤野さんがイヌ年にちなんで書いた年賀状の英語のアナグラムが紹介されるはずだ。
・後日、丁重なる出久根達郎さんのお葉書(注1)をいただいて恐縮した。この日の高額な宴席代金は思いがけず出久根さんに払っていただいた。著者に出していただくのは筋違いであり、第一、出版社の社長として恥ずかしい。本が出来た暁には、盛大なる出版打上げ会をやり、今度は僕が持たせていただくと心に決めている。
(注1)
徳岡孝夫さん、僕
・つい最近、弊社から刊行された『ニュース一人旅』の著者・徳岡孝夫さんと、一夕、出版打ち上げ会をやったところ、その数日後、徳岡さんから傑作なメールをいただいた。ご本人の承諾を得て、転載し、みなさんに供したい。
× × × × ×
清流出版 加登屋陽一様 松原淑子様 徳岡 孝夫 (浅虫温泉・某楼にて)
金曜日は、たいへん結構な御馳走になり、有難うございました。酒も甚だ上等で、 心地よく酔わせて頂きました。酔いにまぎれて、松原さんにいろいろ失礼な行為を致しましたが、酒がさせたのです。どうかお許しください。
あれから並木通りでタクシーに載りましたところ、運転手が「横浜の港南台でござ いますね」と訊きました。「おまえ、タクシー券を貰ったのか」と反問すると「はい」 との返事です。私は「それじゃ、青森の手前の浅虫温泉へ行け。道は財務省の役人を送ったときに知っておるだろ」と言うと、素直に「はい」と答えました。騎虎の勢い です。そのまま東北自動車道路を浅虫まで突っ走りました。いずれ請求書が行くと思いますが、宜しくお願い致します。
湯煙立ち込める当地は、北国だけあって朝夕は涼しく、「東京で働いているヤツはアホかいな」と、思わず独り言が出ました。適当な芸者を一人、見つくろってもらい、 以後三日間酒池肉林で「一人旅」を楽しんでおります。聞ゆるは、ただ昼夜を問わず どうどうと鳴る青森湾の波の音だけ。命の洗濯とはこのことかと、満悦しております。
しかし杯を置いてつらつら思うと、私がこのような天上の愉悦を味わえるのも、清流出版と御二方の御配慮あってのこと、せめて一言の御挨拶を申し上げるのが人倫に叶う道と思いつき、かくご報告を致す次第です。もし御羨望禁じ得なければ、東北新幹線にて合流してくださるのも、また一興かと存じます。宿は××楼。玄関に「徳岡孝夫様御遊興中」と書いてあるから、すぐ分かります。いかがでしょう、真夏の夜の夢に、皆様おそろいでお出でくださっては? また来月号でお目にかかりましょう。
匆々
・徳岡孝夫さんのウイットに満ちたメールに、ただただ、唖然茫然とするばかり。僕もできたら浅虫温泉であろうと、知床半島の羅臼温泉であろうと徳岡さんとご一緒に酒池肉林の、浮世の極楽を味わいたいのは山々だが、あいにく今月は上期の決算作業が控えている。無粋の僕は、猛暑で朦朧とした頭で洒落た言葉も見つからず、ついつい徳岡孝夫さんに気の利いた返事を出せなかった。
・だが、徳岡さんの『ニュース一人旅』は、ある意味で時代を超えた箴言集で、僕としては拙い言葉だが、宣伝をしたい。いわば『ニュース一人旅』の本は、兼好法師の『徒然草』、モンテーニュ『随想録』、アランの『プロポ』に匹敵する快著であると信じている。時代、社会を達観する文章で、三つの本と同様、「人間通の論」以上に同じ上質な香り、センスが漂っている。
・徳岡孝夫さんと一夕を過ごした銀座のレストラン「六雁」は、「いわかむつかりのみこと」(磐鹿六雁命)、いうなれば日本料理の始祖から取った名前の店。日本書記などに載っている料理の始祖、調味料の神様として祀られているとの由来を知り、一度訪れてみようと選定したもの。当日は、徳岡孝夫さんを囲んで、フリーの編集者・松崎之貞さん、担当の松原淑子副編集長、それに僕の四名が大いに語り、喋った一夕だった。
荒井宗羅さん、大城さん、岡野さん、僕
・先々月の本欄にご登場いただいた山田真美さんが、我々清流出版の中老年不良仲間(臼井出版部長、藤木企画部長、僕)を、ある会に誘ってくれた。正式名は「オーストラリアワインとカウラ秘話の会」である。弊社から刊行した山田真美さんの翻訳『生きて虜囚の辱めを受けず――カウラ第十二戦争捕虜収容所からの脱走』(ハリー・ゴードン著)から発して、山田真実さんのカウラ事件を扱ったノンフィクション『ロスト・オフィサー』、さらに日本テレビ開局55年記念スペシャルドラマのカウラ事件を扱ったテレビ放映、という一連の世界に付き合った結果の行動である。
・今回は、そのテレビ放映(小泉孝太郎主演の『あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった――カウラ捕虜収容所からの大脱走』)と直接の関係はないが、カウラの大地に根付き収穫された葡萄から作ったオーストラリアワインと食事を楽しみ、山田真美さんの講演を聞くという趣向である。講演は、あのカウラ事件のテレビに出てこない真相を明かすとの趣意に賛同した我々が、神楽坂のこじゃれたレストラン「s.l.o」に参集したという次第だ。
・当日は、オーストラリア政府の貿易担当官や在日大使館の商業担当公使として活躍し、いまは高名なワイン評論家のデニス・ガスティンさん、オーストラリアワインと食品インポーターの唄(ばい)淳二さんとお二人の挨拶に続いて、ワインを楽しみつつの会食となった。そのあと何も知らない人にもわかりやすく、真美さんが手際よくカウラの話をしてくれた。
・この席で久しぶりに荒井宗羅さん(左)と再会した。弊社から『和ごころで磨く』(1997年6月刊)を出させていただいた著者である。聞くと、真美さんは宗羅さんに茶道を教えていただく師弟関係の間柄とのこと。多分、お二人は相前後して弊社から著書を出しているので、お互い気になる存在だったはず。編集者の大城さゆりさん(右)と岡野知子さん(右から二人目)が両者を引き合わせたのだと思う。僕のまったく知らないところで、「友達の輪」が出来たに違いない。
・お会いして、あの時、大盛況だった宗羅さんの出版パーティのことを思い出した。船井幸雄さん、竹村健一さん、ジェームス三木さん、細川隆一郎さん、浅草寺の京戸慈光師、渡部昇一さんをはじめ、綺羅星のごとく荒井宗羅ファンが押しかけた。当時、僕は第1回目の脳出血をして半身不随の身であったが、発症して1年ほど経った1997年7月には、皆さんとともに荒井宗羅さんの出版記念パーティ(注2)をやれるほどにまで回復していた。以来、まずまず生かされている! 感謝せねばなるまい。
(注2)
2008.08.01岩波唯心さん 落合恵子さん
岩波唯心さん
・ある日、わが清流出版に身体に障害を持つ天才がやってきた。僕と同じで右半身が麻痺していて、さらに目が不自由だという。なぜ天才かは、順を追って説明する。今は無名だが、そのうち天下に認められるだろうと断言して、僕ははばからない。その人の名前は岩波唯心さん(写真)である。
・岩波茂雄(39)さんが本名で、岩波書店の創立者と同姓同名だ。出身地も同じ長野県諏訪市である。岩波さんは幼少の頃から絵と書に関心があったという。持参した作品の一部(注1)を見て、40歳前の年齢でいながら枯れた味がして、しかもとうてい身障者が描いたものとは思えない繊細なタッチに見とれた。墨で描いたもぐらの絵は、体毛の一本一本が精緻に描きこまれ、鯉を描けば、うろこの一枚一枚まで精密に描き込まれている。書も水茎のようで流麗そのもの。見事というしかない。とても利き腕を失い、左手で書いたものとは信じられなかった。「天才だ!」と僕はうなった。来し方や精進の経緯、師事した画家など詳しい話を聞いて、岩波さんの本を刊行することにした。
・岩波さんの経歴書によると、4歳で油絵を習い始め、8歳で書の手ほどきをうけた。これまでの人生は波瀾万丈。艱難辛苦を乗り越えてきた。少年から青年期への移行期にも、学校生活や家庭の事情により荒波を受けている。中学時代、生徒会の会長をやり、会議での発言が物議をかもすことになった。やがて先生方も含め、全校を真っ二つに割る大騒動となった。渦中にあった先生から「君が来ると授業にならない。もう学校にこなくてもいい。卒業証書は出すから」といわれたこともある。本人は正論を吐いたつもりだったが、学校側には問題児と受けとられたのである。高校は文化学院高等課程美術科へ画家・村井正誠さんの推薦で進学した。しかし、家庭の事情により、ほぼ2ヶ月で中途退学をせざる得なくなる。16歳の終わりには、社会への厭世観と疑念により、家を出てある仏画師の下で修業した。
・22歳の時、難病の網膜色素変性症に罹患していることが判明(現在、視野障害1級)。次第に悪化し、仏画師としての道を断念せざるを得なくなる。その後、薄明かりの中で墨絵と書をかいた。公募展にも数回入賞。請われて各種審査員等も委嘱されるが、自分の性に合わないことを覚り、26歳の初めまでにすべての肩書を捨ててフリーとなる。その後は自らの心情を文字と言葉に託す「書」にして、「人の心、命とは何か」の問いと模索を主題として作品を制作し続けてきた。
・間もなく更なる試練が襲う。31歳の終わり、原因不明の脳内出血により、右半身麻痺となったのだ。歩行に困難をきたすとともに、利き腕がいや応なく右手から左手に変わった。185?前後あった身長も、3?位縮まったという。そうした障害の結果、肉体的、経済的な自立の困難さが岩波さんの身にのし掛かった。だが不屈の精神力で耐え抜いた。
・1992年から2年おきぐらいに個展を開いている。主だった個展は、高島屋立川店、吉祥寺のあーとらんだむ、大塚の?マスミ企画、帝国ホテル内絵画堂、銀座ふそうギャラリーなどが挙げられる。個展を通じ、作品を世に問うてきたが、思ったほどにはまだ評価はされていない。
・岩波さんは、右半身麻痺に陥る前、世界に向けての活動を始めていた。例えば、2000年5月、オランダの映画に出演し、ドキュメンタリー映画『日本の激流の中で』(ルイ・ファン・ファステレン監督)で、書作品の製作風景が紹介された。この時、映画のキーワードであった「自然」を揮毫した。また、2000年11月には、インドのジャイナ教テーラーパンダ派の研修所の一つジャイン・ヴィシュバァ・バーラティーを訪れる。最高指導者アーチャリヤ・マハープラギャによる教徒への説法の折、御前揮毫で書作品「不殺生」「無諂曲(むてんごく。”無所有”の意)の2点をしたためた。その作品は同センター内にあるギャラリーに収蔵された。このアーチャリヤ・マハープラギャ師とあった場所は、宗教や思想を超えて世界平和を祈り、チベット仏教のダライラマ14世も訪れ、立たれた場所という。
・話は変わるが、岩波唯心さんが5月中旬、銀座・ふそうギャラリーで個展を開催した際、臼井君と僕が行き、ある作品を買ってきた。わが社に来社してくれた人は応接室に実物があるので、ぜひご覧になってほしい。その作品は「so ham(ソー・ハム)というサンスクリット語の文字(注2)が書いてある。15センチ位の木片に書かれた書だが、岩波さんの緑色でしたためた文字が美しい。岩波さんの解説では「あなたがいるが故に、わたしがいる。」という意味だそうだ。実際にはひげ文字で分からないが、インドで紀元前5世紀頃から紀元9世紀頃まで有識者階層間で、法律、詩文、宗教に使われた古典サンスクリット語である。その言葉の文字が紀元前4世紀頃から紀元4世紀位までインドの北西部からアフガニスタンにかけて主に碑銘文に使われたカローシュティー文字で表わしたものだ。僕は、その意味を知って、ぜひ清流出版のコレクションにしたくなった。「あなたがいるが故に、わたしがいる」。われわれ人間の存在は、この関係に尽きると思う。
・岩波さんの本は、9月末に『岩波唯心書画集』(A4判並製 予価2700円)の書名で刊行予定。この網膜色素変性症と右半身不随の身でありながら、渾身の筆を取り、見る人に訴えてくる水墨書画の迫力を多くの読者に見てもらいたい。
(注1)
岩波唯心さんの書画の一つ。文字も墨絵も素晴らしい。とても半身不随の身で書(描)いているとは思えない。
(注2)
なんの変哲もない流木片に書かれた緑色の筆が美しい。「あなたがいる故に、わたしもいる。」という意味のサンスクリット語。覚えやすい「so ham」(ソー・ハム)という言葉。
落合恵子さん、背後に岡部伊都子さんの遺影
・名文の随筆家として知られ、多くファンを持っていた岡部伊都子さんが惜しくも今年4月29日、お亡くなりになった。享年85。その岡部さんの追悼会が5月31日、同志社の新島会館で、東京では7月6日(日)、新宿中村屋本店「レガル」で、「岡部伊都子さんを偲ぶ会」があり、臼井君と僕が参加した。
・この偲ぶ会の発起人の一人で、わが社から『トゲトゲ日記――サボテンとハリネズミ』を出された落合恵子さん(左)が挨拶された。後ろに岡部伊都子さんの遺影がある。かつて落合恵子さんと評論家・佐高信さんは、ともに岡部さんの熱烈な支持者として、岩波書店版『岡部伊都子集 全五巻』の編者を務めた。落合さんは、さすがに話がお上手で、しんみりとした中にも、一本筋が通った追悼の言葉だった。その他、利根川裕さん(作家。見事な白髪が印象的)、藤原良雄さん(藤原書店社長)、海勢頭豊さん(注3)(ギタリスト、シンガーソングライター兼作曲家)、李広宏さん(注4)(中国の歌手、『シカの白ちゃん』中国語対訳者)、岡田孝子さん(帝京平成大学教授)、岡村遼司さん(早稲田大学教授)……などが挨拶し、しばし岡部さんを偲んだ。
・一番印象的だったのが元・岩波書店の編集者高林寛子さんのお子さんとお孫さんたちが「いっちゃん」(岡部さんの愛称)を偲んで挨拶されたこと。高林寛子さんは定年後、藤原書店に入り、岡部さんの本を次々と16冊ほど出し、名編集者として業績を残されて、今年1月にお亡くなりになった。病床にあった岡部さんには、最後まで高林さんの訃報は秘密のままであった。著者と編集者の関係でこのような良い話を聞いて一同、感激した。
・思い返してみると、岡部ファンになったのは僕が大学生の時。『藝術新潮』誌に載った岡部さんの「観光バスの行かない…埋もれた古寺」や「古都ひとり」の連載を読んでからである。以来、50年間、岡部さんの愛読者だった。かつて月刊『清流』にも、「映すしらべ」というシリーズ名で、見開き2ページの珠玉のエッセイを書いていただいた。何度も賀茂川近くにある岡部さんの家を訪れ、色々と楽しく語り合った。ある時は、僕が以前勤めていた出版社の話をしたことがある。入社して間もない頃、荒畑寒村さんが同じフロアーにいて、会話を交わしたことなどを語ると、乗り出すようにして聞いてくれた。また、ある時は、京都の美味しいお酒が手に入ったので飲みましょうと誘ってくれた。お宅を辞す時、「花あかり」と名づけた蝋燭をいただいたことがある。水に浮かべて灯す丸いおしゃれな蝋燭で、その下さったときの言葉とともに懐かしく思い出される。その後、僕が第一回の脳出血になり、病院へ入院したと同時に雑誌連載は終わった。約1年間の連載だった。岡部さんは、新しい単行本を出す度に律儀に送ってくれた。その本を読み返しながら、岡部さんの残した重いメッセージ、反戦、沖縄、差別、在日、ハンセン病等を忘れてはならないと思いを新たにしている。
・偲ぶ会の終了間近、この会を企画立案した藤原書店の藤原良雄社長さん(注5)に、ご挨拶をした。良い会を企画してくれたことに感謝の言葉を述べた。また、僕の恩師・椎名其二さんのことを書いた『パリに死す 評伝・椎名其二』(蜷川譲著 1996年 藤原書店刊)も、よくぞ出版してくださったとお礼を申し上げた。今、出版界に一定の価値ある出版物を刊行する先達として、藤原書店こそ掛け値なしの優良な会社である。少しでも見習いたいものである。
(注3)
ギタリスト、シンガーソングライター、作曲家の海勢頭(うみせど)豊さん。沖縄から遠路参加された。岡部さんとの逸話をはじめ、ギター演奏しながら岡部さんゆかりの歌を歌ってくれた。なかでも「鳥になって」が記憶に残る。
(注4)
中国の歌手・李広宏さん。この方は、岡部伊都子さんの童話『シカの白ちゃん』を中国語対訳した方である。中国蘇州市出身で、現在兵庫県西宮に在住である。李さんも素晴らしい声の持ち主。最後に「千の風にのって」を日本語と中国語で歌ってくれた。
(注5)
藤原書店の藤原良雄社長さんと。1990年創業というから、清流出版の4年前に作られた出版社で、「新評論」の有力編集者だった藤原さんが独立創業した。設立して間もなく、初の発行物のフェルナン・ブローデル『地中海』全5巻を刊行し、出版界で大きな反響を呼んだ。その後も、意欲的な刊行物で、数々の話題を提供している。学芸総合誌の季刊『環』やPR誌『機』等、僕の気になる出版物を出している。
2008.07.01三戸節雄さん 堀尾真紀子さん 仙名紀さん
(注1)
・かつてお付合いをした翻訳者の仙名紀さん(右)と久しぶりにお会いした。仙名さんは、元朝日新聞社の編集者で、数々の名翻訳を手がけ、とくにノンフィクションものを得意とする貴重な人である。僕は、前の出版社で『ディズニー・タッチ――王国を建て直した経営の魔術』(ロン・グローヴァー著)の翻訳をお願いした。当時、僕はM&Aの本をいろいろと漁っていて、時局を得た一冊で記憶に残っている。M&Aのターゲットにされ、倒産の危機に瀕していたディズニー王国を扱った内容で、奇跡的カムバックを成し遂げた内幕を仙名さんに訳していただいた。
・今回は、H.P.Jeffersの『Diamond Jim Brady――Prince of the Gilded Age』(John Wilery & SonsInc. 2001) という作品を依頼した。仮題は『大物財界人ダイヤモンド・ジム、肥えて悪いか!』と、現在は呼ばせてもらいたい。原書は368ページもの大著。この翻訳は、最初、徳岡孝夫さんに頼んでいたが、目がどんどんお悪くなって、急遽、毎日新聞社OBの徳岡さんから、朝日新聞社OBの仙名さんへバトンタッチしていただいた。
・その間の経緯を仙名紀さんがご自分の『トリビア・ジャーナル』でこう書いている――≪徳岡氏とは、何回も接点がある。彼のほうが6歳年長だが、私が「週刊朝日」、彼が「サンデー毎日」にいたころ、このライバル週刊誌同士の草野球定期戦が春秋の2回あって、徳岡氏は敵のキャッチャーだった。私の背番号は6。足が速かったから、外野が多かった。その後、徳岡氏とはイスラエルやベトナムの取材でも顔を合わせた。だが、別にそのような義理があったのが理由ではない。清流出版のオーナー加登屋氏が双方を知っていて、このリレーに固執したからだ。悪い本ではないのだが、日本でショーバイするにはシンドイ本だろうという予感がする……≫。いやー、仙名さん、すみませんでした。
・この話を進めながら、仙名さんには後日、もう一つ別の翻訳をお願いした。世界の長寿地域ルポものでDan Buettnerの『The Blue Zones』(National Geographic2008)である。仙名さんが原書のレジュメを送ってくれ、時代の風潮にぴたりと合う内容だった。僕がさっそくイングリッシュエージェンシーの澤潤三さんにオファーを出した。だが先に手を挙げた出版社があって難しかったが、清流出版の熱意が通り版権取得に成功した。合わせて二冊、同時に仙名さんへ進めていただく。感謝、感謝!
2008.05.01東北旅行 角館
(上の写真は、秋田・角館にある新潮社記念文学館で、椎名其二さんを展示したパネル。このコーナー、石川達三、高井有一氏らと並んでいる。)
(前列中央が椎名其二・マリー夫妻、後列左から息子のガストン夫妻、野見山暁治・陽子夫妻、安齋和雄、蜷川譲の各氏)
・ここで椎名其二さんと交流のあった主だった人々を列挙しておきたい。
亡くなった方では(敬称略)、石川三四郎、黒岩涙香、佐伯祐三、芹沢光治良、堀井金太郎(梁歩)、森有正、山内義雄、山本夏彦、吉江喬松、浜口陽三、小牧近江、新庄嘉章、恒川義夫、小島亮一、中村光夫、青野季吉、山口長男、渡辺頴吉、望月百合子、阿部よしゑ、大沢武雄、龍野忠久、ポール=ルクリュ、ジャック・ルクリュ、ロマン・ロラン……。
現在生きている方では、旧知の野見山暁治さんはじめ、近藤信行、モリトー良子、小宮山量平、安齋美恵子、岡本半三、高松千栄子、戸田吉三郎、長島秀吉、神本洋治、菅原猛……の方々。みなさん、椎名さん譲りのアミチエ(友情)溢れる人々だと思う。
(武家屋敷らしい旧家の佇まい。現在の持ち主は太田さん。立派な門構えに驚く。)
(入口を入ったところに庭がある。その場所から奥に、多分、椎名其二さんが第1回目の帰国した時、長兄が建てた木造の洋館を偲ばせる建物がある。)
・菅原球子さんから教えていただいた「椎名其二生家跡」を急いで見に行った。何せバスの集合時刻が迫っている。生家跡は田町武家屋敷通りに面しており、記念文学館から約五〇メートル離れた場所にあった。現在の持ち主は、太田芳文氏。塀の隅にある「おおた後援会」から察するに政治家らしい(あとで調べたところ、前・角館町長だった)。ちょうどわれわれが門に近づいた時、家の中から車に乗った人が出て行った。あとはひっそりと静まり返ったままだ。
フランスから1回目の帰国の時(大正11年)、椎名家の長兄・純一郎さんは弟・其二さんのために当時としては珍しい木造の洋館を屋敷内に建てた。その面影がいまでもはっきりとわかる建造物である。たぶん、二階部分に椎名さんの部屋があったのではないか。しばし、感慨に浸った。純一郎さんは明治15年生まれだから、其二さんより5歳年長。昭和12年に亡くなっている。純一郎さんの一高の同窓生には安倍能成や藤村操氏らがいる。角館初の地元新聞「角館時報」創刊に尽力、大正期の角館の若きリーダーとして活躍した方である。
(角館ガイドマップ。これを見ると、椎名其二生家跡「田町上丁18」を見つけるのは簡単。新潮社記念文学館の住所は、5番地違いの「田町上丁23」であった。)
- それにしても新潮社を創立した佐藤義亮さん(明治11年?昭和26年)は素晴らしい業績を残した。角館町のご出身で、18歳の春、文学に生涯を賭ける覚悟で東京へ出た。数々の困難を克服し、1904年(26歳)で新潮社を創立している。以来、文芸に秀でた総合出版社として、新潮社は不動の地位を得た。今年は佐藤義亮生誕130年に当たるとか。機会があったら新潮社記念文学館を、もう一度、ゆっくり訪ねてみたいと思っている。
- 約半世紀前、大学に入学したばかりのころである。ある時、高校からの学友・長島秀吉君と僕は、大学院の校舎に行った。新入生には縁遠い校舎である。そこの廊下に山内義雄先生が張り紙を出していた。ちょっと長くなるが、その文章を控えていたので披露する。
「椎名其二さんのこと――――山内義雄 滞仏四十年といっても、それは椎名さんの場合、簡単に言いきれないものがあります。最近、『中央公論』に連載中の滞仏自叙伝によって御承知の方もあろうと思いますが、永い滞仏中、終始フランスの思想、文化、社会、政治にわたっての巨細な観察と犀利な批判につとめられた椎名さんのような方は、けだし稀有の人をもってゆるされるだろうと思います。そうした椎名さんのフランス語については今さら言うまでもありませんが、語学を通じて、さらに語学を踏みこえて、フランス文化の骨髄をいかにつかむべきかについての椎名さんの教えは、聴くべきもの多々あることを信じて疑いません。
かつて一旦帰朝の際、吉江喬松博士の招請により早稲田大学フランス文学科に教鞭をとっておられたころの椎名さんのお仕事には、バルザック、ギーヨマン、ペロションなどの文学作品の翻訳とともに、ファーブル『昆虫記』の翻訳がかぞえられます。文学者であるとともに科学者であり、さらに一個哲人のおもかげある椎名さんの祖国日本に帰られてからのお仕事には、大きな期待を禁じ得ないものがあります。」
この文章を見て、僕ら二人は勇み立った。長島君はフランス語が得意だったが、僕の第2外国語はドイツ語で、ABC(アー・ベー・セー)も分らなかった。でもどうしても、椎名先生にお会いしたくなった。フランス語にも猛然と興味が湧いてきた。 - 閑話休題。昭和2年、再びフランスに帰る決意した椎名先生は、翌年、渡辺頴吉さんの紹介があり、大倉商事パリ支社で働くことになった。しかし、戦争に加担する武器を扱っている商社には勤めたくない、と勤め始めて数日で辞めてしまう。いかにも椎名さんらしいエピソードである。
大倉商事を斡旋した渡辺頴吉さんの孫に当たるのが、正慶孝君のお通夜でお会いした片倉芳和さん(本欄2008年3月の写真参照)の奥様。90云歳のおばあさんからの話によると、椎名其二さんの思い出は今でも生き生きと残っているとのこと。
また、4月に嶋田親一さんの著になる『人と会うは幸せ!』という本が弊社から刊行されたが、嶋田さんの祖父・小牧近江さんについて書いている個所がある。新潮社記念文学館では奇しくも椎名其二さん、小牧近江さん、渡辺頴吉さんが、展示パネルの上で、楽しく、仲良く語り合っている。わが亡父が秋田市出身だけに、このところ秋田ゆかりの話題が多く、奇妙な巡り合せに驚いている。 - 同じく閑話休題。今回の「バリアフリー 桜を巡る東北旅行」は、身障者の方々に向けて旅行業者が組んで、提供したもの。この2泊3日の行程は、僕のような身では有難いの一語。聞くと添乗員も前職は介護関係の仕事に就いていたという。入浴も介護してくれ、温泉も楽しんだ。秋田・角館ばかりでなく、盛岡の石川啄木の詩碑、宮沢賢治記念館、北上市のサトウハチロー記念館等を見学して、文学を堪能した。
(在りし日の椎名さんと僕が話している情景を長島君が撮ってくれた。6畳一間きりで、持ち物もごく少なかった。後日、フランスへ帰る際、その中から、椎名さんが製本装丁した総革の美しい本を3冊頂戴した。僕の宝物だ。)
2008.04.01徳岡孝夫さん 藤森武さん クーペさんほか
・前項の多摩市連光寺に辻清明さんを訪ねた日の夕方、多摩市関戸にあるサウンド・カフェ・バー「Stand by me」に行って、「クーペ&Shifo(シホ)」さんに会いたくなった。その店でお二人はライブ演奏をしていることを昨年『清流』10月号の「この人に会いたくて」欄で知っていたからだ。
・臼井君がタクシーの中から『清流』で担当した松原副編集長に店の住所と電話番号を聞いたところ、京王線の聖跡桜ヶ丘駅のすぐ側と分かった。車だったら15分位の近距離である。クーペさんにお目に掛かって、かねてよりわが社から依頼中である単行本化の進捗状況も聞いておきたかった。忙しい方だから、僕から念押しのお願いも必要と思った。
・クーペさん(左)の経歴を簡単にご披露すると、今は亡き名落語家、林家三平師匠から九回も破門されたというヤンチャぶり。素行の悪さで落語家・林家クーペの名を返上し落語家ならぬ落伍家になる。借金まみれ、酒もギャンブルもやり放題、妻子に逃げられ、住所不定の風来坊となった。だが、25年前に別れた娘さんからの一通の手紙が奇跡を起こした。「働かない、だらしない、愛せない」の三重苦だったクーペさんの生活が一変した。自作の詩「25年ぶりの手紙」にシンガー・ソングライター兼従業員のShifoさん(右)が美しい曲をつけ、2003年に五十五歳で歌手デビュー。でも、2005年、思いもしなかった脳梗塞で倒れ、右半身が麻痺する羽目になる。一命を取り止め、生かされた幸運に感謝し、恩返しに生きたいとさらなる演奏活動に打ち込んだ。そして、ついに娘さんと再会。2007年7月に「奇跡体験!アンビリバボー」(フジテレビ)で放映……。ザッと振り返っただけでも、いかに強烈な人生を歩んできたかが分かろうというもの。
・お会いした翌日のクーペさんのホームページに、《今日、清流出版の社長が来られた。(略)俺よりひどい後遺症だがこの社長明るい。明るい上に自信持っている。なに喋ってるか分らないのによく喋るんだから。笑った。みんなで大笑い。また一人素晴らしい人に会えた》とあった。
・一緒に行った藤森さん、臼井君にも確かめたが、上の写真、三人はなんで大笑いしていたのか、今となってはわけが分からない。どちらにせよ、クーペさんとお会いして素晴らしいひとときが持てたことに感謝している。椅子に腰掛けながら2曲歌ってくれたが、だみ声でシャウトするような歌いっぷり。腹の底にジンジン響いてきた。演奏会のパンフレットを見ると、書や絵もクーペさんが描いている。”芸術は爆発だ”、を地でいくような味があり、つくづく書は人なりと思った次第。
・ここからは「クーペ&Shifoコンサート」の案内をする。来る4月13日(日)、会場はNHKホール、5:00PM開場、6:00PM開演。「50歳過ぎたら聴きたいコンサート」として、売り切れぬうちにライブチケットを! 全席指定で一枚3500円。ちなみに僕は8枚の切符を購入した。編集部の有志と、そもそもこのクーペさんを取材したいと『清流』誌へ企画を持ち込んでくれた外部編集者の山中純子さんを誘って行きたい。
・外部編集者の高崎俊夫さん(左から二人目)が紹介してくれた評論家の上野昂志さん(中央)、編集者の濱田研吾さん(右から二人目)と、デザイナーの西山孝司さん(右)を囲んで会食し、企画会議をした。
・まず高崎さんが仕掛けたわが社の本を中心にして話は始まった。とくに、『花田清輝映画論集 ものみな映画に終わる』では、上野昂志さんがこの本の冒頭に「外部に開く 花田清輝の映画批評」と素晴らしい序文を書いてくれた。上野さんは『図書新聞』で長いインタビュー記事を引き受けてくれ、同書を宣伝してくれた。その聞き手をこの本の仕掛け人の高崎俊夫さんが務めた。上野さんは評論家だが、それも映画、文学、マンガ、写真等、文化現象全般にわたる批評を展開するオールラウンドの書き手。日本ジャーナリスト専門学校や日本大学藝術学部でも多くの若い人を指導されており、今後もわが社の単行本執筆者として、とくに書評などの書き手として期待できる。
・濱田研吾さんは、京都造形芸術大学芸術学科卒業後、編集プロダクションの?同文社に勤務するかたわら、昭和を彩る名優や放送タレントについての研究を続けている。自費出版した『三國一朗の放送室』(ハマびん本舗)は限定100部、230ページもあり、本文のほか、三國さんの著作一覧、年譜、三國さんが編集したアサヒビールのPR誌『ほろにが通信』の総目次、人名索引と資料も充実していた。この本を高崎さんが高く評価した。そして、わが清流出版で本格的に単行本を出せば売れるはずと提案された。
・往年の三國一朗ファンである僕もその話に乗り、上梓することにした。4月中に『三國一朗の世界』と題し、わが社から刊行する予定だ。濱田さんはまだ三十二歳の若さながら新刊、古書問わず本やミニコミに詳しいので、いずれ書き手として大化けする可能性がある。清流出版の若い社員たちへも付き合いを深めて刺激を受けてほしいと僕は思っている。
・一連のわが社の本をデザインしてくれている西山孝司さん(右)である。杉浦康平門下といえば実力はうなずけよう。高崎さんの企画した本はすべて西山さんが装丁している。一冊毎に本の内容を熟読吟味し、ぴたりと装丁をしてくれる。この西山さんも映画好きな方だ。映画専門の高崎さんと話す内容を聞くとよく分かる。古いものから新しいものまで映画をよく見ている。視点もユニークで、映画評論家顔負けのアングルから迫る。僕も映画が好きだから、この人たちと話すと燃えるものがある。
2008.03.01正慶孝さん追悼ほか
・わが社から昨年8月、今は亡きプロウィンドサーファー飯島夏樹さんを偲んで『パパといっしょ』(吉田ふよう著 千金美穂画)を刊行した。この絵本はハワイ在住の遺児たちにも読んで欲しいと、バイリンガル版で刊行したが、その英文訳を担当してくれたのがデイヴィッド・H・シャピロさん(左)だ。1942年、ニューヨーク生まれ。かつてエチオピア、フィリピンなどを巡り、26歳で来日した。以降、東京とニューヨークを行き来しながら、バイリンガル辞典の編集、大学講師などを勤めた方である。
・実は、今度、シャピロさん原作の絵本の刊行を計画している。原文も日本語である。仮題は『ばーか、かーば、ちんどんや!』。かばのピポを主人公とする面白い作品である。「かばにはかばの常識がある。かばにしかない理性と品格がある」と示唆する寓話的なストーリー。子供も大人も読めるので、刊行の暁にはぜひともご一読を乞う。
・シャピロさんは、この作品にぴったりの挿絵画家を推薦してくれた。ダミーを描いてもらって、その絵が気に入ったのである。デュフォ恭子さん(右)がその人。恭子さんは名古屋市の生まれだが、いまはフランス人と結婚して、普段はパリ市近郊に住んでいる。たまたま来日して、東京でシャピロさんと会い、この話を詰めてくれた。恭子さんは、昨年刊行の『ぴいすけのそら』(チャイルド本社)の挿絵を担当された。その本を持って来てくれた。
・シャピロさんは、『雨のち みみず晴れ』(情報センター出版局刊)、『ハリィの山』(ブロンズ新社刊)等の作品で、寓話のセンスが素晴らしい方だ。著書『菊とサラブレッド』(ミデアム出版社刊)のほか、「ザ・タタミ」はニューヨークのオフブロードウェイで、「サイモンSAYS」は日本で上演されたとか。ちなみにある競馬新聞で、ご自分のコラムを持っていたこともあるという。
・デュフォ恭子さんは、海外の生活が長い。大学はメキシコに留学、その後、日本の南山大学外国部学部スペイン語科を卒業、一旦、日本で就職したが、すぐ海外に目を向け、青年海外協力隊に参加、カンボジア教育省青年総局勤務、パリのアカデミージュリアン留学、結婚した夫の赴任によりコートジボワールに赴いたこともある。その間も、デザイン、挿絵、絵本の表紙……を欠かせず発表してきた。
・シャピロさんとデュフォ恭子さん二人の出会いも面白い。わが社から刊行された『大野耐一さん「トヨタ生産方式」は21世紀も元気ですよ』(Text三戸節雄、Photography廣瀬郁)の廣瀬さんの所で、初めて出会ったという。頻繁に海外出張している廣瀬さんらしい引き合わせである。シャピロさんの『雨のち みみず晴れ』の本は、廣瀬郁さんのご子息の広瀬弦さんが「画」を担当しているが、今回はデュフォ恭子さんの絵で新展開を図るつもりらしい。
・昨年末、わが社から刊行した『神田村通信』の著者・鹿島茂さん(左)とカバー・本文挿絵を担当してくれた奥様の岸リューリさん(右)。お二人を招いて、編集担当の長沼里香と臼井出版部長、僕の五人でホテルグランドパレスの23Fクラウンレストランでささやかな出版のお祝いをした。
・『神田村通信』は、神田神保町の東京堂で発売と同時に、その週のベストワンに選ばれた。以降、順位は多少上下しつつも、ベスト10には入り続け、刊行後すでに数ヶ月経ったにも関わらず、今週も3位に入っていると岸リューリさんが報告してくれた。本書は、月刊『清流』に連載された神田村暮らしのエッセイをメインにプラスして、他の雑誌、新聞からのエッセイを精選して一冊に編んだもの。東京堂のすぐ傍に仕事場と居宅があり、勤め先の共立女子大も神田村にある。だから帯にこう書いた。「本の町・神田神保町に暮らす”フラヌール鹿島”の全生活を公開!!」と。幸いなことに他の書店でも売れ行きがよく、本が売れない時代だけに発行人として喜ばしい限りだ。
・鹿島茂さんといえば、32歳の時、翻訳した『映画と精神分析』(クリスチャン・メッツ著 白水社 1981)を皮切りに、数々の著訳書があり、現在ざっと数えただけでも120冊余を超える。わが国有数の書き手として、一年で4?5冊の本を出版していらっしゃる。
・1991年には『馬車が買いたい!』(白水社刊)でサントリー学芸賞、96年に『子供より古書が大事と思いたい』(青土社刊)で講談社エッセイ賞、98年に『愛書狂』(角川春樹事務所刊)でゲスナー賞、99年に『職業別パリ風俗』(白水社刊)で読売文学賞、2002年に『成功する読書日記』(文藝春秋刊)で毎日書評賞を受賞している。出版する本が軒並み高く評価されるという稀有な作家である。しかし、これだけの売れっ子になると、書き下ろしは絶対に無理だという。20本以上の連載を抱えていると聞けば、無理ならんと思えてくる。
・今回わが社の『神田村通信』とほぼ同時期に刊行された『パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡』(平凡社刊)、『ジョルジュ・バルビエ画集 永遠のエレガンスを求めて』(六耀社刊)、『あの頃、あの詩を』(文藝春秋刊)、『乳房とサルトル』(光文社刊)のうち、前の二冊の版元、平凡社と六耀社が共同で出版記念パーティを開くと知らせを受けたが、二冊とも、ご長男であるカメラマンの鹿島直さんが関わっての企画だそうだ。
・鹿島茂さんは、なんといっても19世紀フランスを専門領域とし、わけてもオノレ・ド・バルザック、エミール・ゾラ、ヴィクトル・ユゴー等を題材にしたエッセイで知られている。その上、古書マニアとして有名だ。毎回、フランスへ行くと、どっさり古書を買ってしまう。船便でも送る。その本好きな鹿島さんが、世界でも稀有な古本屋街・神田神保町に引っ越したのだから、さあ大変。あっと言う間に蔵書約5万冊。日を追ってその数も増え、書棚がどんどん増え続けている。その途中経過は、わが社の『神田村通信』をじっくり読んでもらいたい。
・今後、マルセル・プルーストの作品と本格的に取り組む。そのために今年1月、イリエ=コンブレーのプルーストの生家を訪ねたという。その他にも盛り沢山の研究・執筆テーマがあり、ともかく寝る暇もないくらい忙しい方である。4月からは、長年勤めていた共立女子大学から、明治大学に今年誕生した国際日本学部に転任する話も出た。明大も神田駿河台が本校。相変わらず神田村住まいは変わらない。
・当日、別れ際にご夫妻へ記念にサインをお願いすると、2008.2.20の日付とともに、岸リューリさんは猫のイラストをサッサッと描き、鹿島茂さんがバルザックの愛した座右銘「進みながら、強くなる」を書いてくれた。
・僕が出版企画で会いたい方は、なんらかの引力を感じる方である。何か強みがある方、個性的な方、因縁を感じる方、斯界の第一人者、加えて文章力があればいうことない。
・僕の前の職場、ダイヤモンド社で出版局編集長を務めた小黒通顕さん(右)が、嶋田親一さん(左)を紹介してくれた。嶋田さんは、昭和6年生まれ。略歴を見て、早稲田大学高等学院卒の所にまず注目した。
・新制高等学院の第1期生(昭和25年3月卒)に当たる方だ。卒業名簿を見ると、嶋田親一さんの同級生は優秀な人が多く、世に出た人が目に付く。かつて僕が新入社員時代、麻雀など親しく付き合った元プレジデント社取締役、元高千穂商科大学学長の高野邦彦さんが同じクラス。ほかのクラスにも作家・元参議院議員の野末陳平さん、元参議院議員・元経済企画庁長官・現在の世界銀行MIGA初代長官の寺澤芳男さん、演出家の加藤新吉さん、経営学の望月衛さん、元東洋経済新報社社長の中島資皓さんなど多士済々で、主に実業界で活躍する経営者が多い。嶋田さんも学院を出た後、大学の政治経済学部経済学科に進んでいるから、僕のいわば大先輩である。ちなみに僕は学院の第10期生に当たる。
・その嶋田親一さんが持ってきた企画は、ご自分が演出家、プロデューサーとして接したスター50人の素顔という読み物だった。いわば芸能秘録で、「わが忘れじのスター交友録」である。一読、これはいまこそ世に問うべき本だ、と感じた。今のところ仮題は『人と会うは幸せ!――わが「芸界秘録」五〇』である。
・嶋田さんは、日本演劇協会理事、放送批評懇談会理事を務め、その他、フジテレビ開局に参加し、ディレクター、プロデューサーとして活躍、新国劇社長、スタジオアルタ常務取締役等を経験した猛者である。美空ひばりに「シマちゃん」と慕われたと聞くが、石原裕次郎とも付き合いがあった。嶋田さんは友人に、「片方だけならともかく、ひばりと裕次郎の両人と交友があるという人は極めて珍しい」と言われたそうだ。確かにそう思える。ここに森繁久弥、森光子などといった大御所が入ってくるのだから、人脈の凄さがわかろうというもの。
・嶋田親一さんは秋田県の出で、親類にフランス文学の小牧近江さんがいると聞いて、縁の深さを感じた。僕は大学時代、恩師・山内義雄先生が「フランス友の会」を主宰し、そこに小牧近江さんを招いて講演をお願いしたことがある。小牧さんはアンリ・バルビュス『地獄』の訳出で有名な上、フランスから帰国後、雑誌『種撒く人』を創刊して、日本のプロレタリア文学を生んだ。小牧近江さんの教壇での立ち姿を昨日のことのように思い出した。
出版パーティのことにも触れておかねばならない。4月6日(日)、この本の刊行を記念して行われる。詳細はまだ知らされていないが、一軒の店を一日中借り切って、一日何回でも出入り自由とするらしい。そのための通行手形のようなチケットを発行するという。この凝りよう、念の入れようったらどうだろう。まさに根っからの名プロデューサー、名ディレクターである。
・僕の学友の正慶孝さんが、突然お亡くなりになった。第一報を知らせてくれたのが前項登場の小黒通顕さんである。小黒さんと親しい科学技術・経済ジャーナリストの猪口修道さんからの電話で知った模様。正慶孝さんの死因は心臓発作だという。享年67歳。明星大学教授、文化社会学者、評論家。あまりにも早すぎる死で、約半世紀もの間、親しく付き合った学友の僕は呆然自失状態である。
・親しかったから、特にアポイントも取らず、よくわが社を訪ねて来た。来るとよく酒になった。酒はそれほど強くはなかったが、談論風発する楽しい酒だった。真っ赤な顔をして、乗ってくると駄洒落を連発していたのを懐かしく思い出す。
・訳書として出たダニエル・ベルの『二十世紀文化の散歩道』『21世紀への予感――現代の問題を未来の視点から読む』(いずれもダイヤモンド社刊。僕が担当した)はいまだに名著の誉れ高い。著書に、『IT時代のライフ・スタイル宣言――新しい未来社会の展望』(清流出版刊)、『経済学ワンダーランド』(八千代出版刊)、『新大陸ヨーロッパの策謀』(学習研究社刊)などの他、共著も多数ある。
・科学技術からライフスタイルに至る問題について独特の視角で論じ、経済社会の変動を歴史の流れの中で文明の次元で捉えて、洞察に満ちた分析と総合的な検証を展開し、正確な言葉の概念を確立することで知られた練達の文化社会学者であった。かつて親しくお付き合いをされた碩学・清水幾太郎さんを彷彿する方。また、藤原肇博士と共著で『ジャパン・レボリューション――「日本再生」への処方箋』(清流出版刊)を刊行すると、多くの読者がファンになった。
・正慶孝さんは「歩く百科事典」、博覧強記の人、百科全書派(アンシクロペディスト)、「意味論(セマンティックス)の達人」……さまざまな表現で礼賛された。その博識ぶり、その魅力をもっと多くの人に知って欲しかった。
・2月1日(金)の夜、亡くなったが、その直前まで新宿のゴールデン街のバー「花の木」で親しい方々と呑んでいたらしい。別れて帰宅途中での出来事だった。丸の内線に乗るため、地下鉄の駅構内に入ったところで心臓発作に襲われたのである。駅員が通報してすぐに救急車で東京医大に運ばれたが、すでに手遅れだった。
・ここでは、宮崎正弘さんの「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成20年(2008)2月17日(日曜日)通巻 第2087号から、「追悼文」を転載することをお許し願いたい。
((( 宮崎正弘さんの追悼文 )))
昭和48年前後と記憶しますが、初めて正慶孝さんと出会った場面は加瀬英明氏主宰のなにかのパーティでした。平河町の北野アームズの十階で、やけに外国人が多かった。
当時、『中央公論』の編集長は島村力さんで、銀座が好きな人で、のちに拓殖大学教授になった。島村さんとは韓国へ一緒に取材したこともあり正慶さんを交えて、そんな話をしたように記憶します。
その後、正慶さんは中央公論のなかで、「WILL」(経済ビジネス中心の大型判。当時は中央公論が出していた。現在の花田紀凱氏主宰の『WILL』とは別)編集部に移動され、ほぼ毎月のように何かを書けと言われ、励んだものです。昭和56年前後のバブル時代には、よく経済の分析を寄稿しました。
小生が当時書いたロボット革命の本や「資源戦争」に関して興味を惹いたようです。正慶さんは中央公論編集者の傍ら、哲学解説書の本を書かれ、その博覧強記にはいつも圧倒されましたが、ダニエル・ベルの翻訳と解説も正慶さんが遺した大きな仕事でしょう。(ダニエル・ベル著、正慶訳『二十世紀文化の散歩道』、1990年、ダイヤモンド社刊、同『21世紀の予感 現代の問題を未来の視点から読む』、ダイヤモンド社刊、91年)。あれはたしかホテルオークラでのポール・ボネのパーティのときに上記の分厚い本を頂きました。しかも当該書籍の半分が正慶さんの解説でしたっけ。
その後、アカディミズムの世界へ転身、明星大学教授となられ、さて面白い本は何時出るのか、と期待していたところでした。最近の三、四年ほどは憂国忌にも皆出席。意外と三島ファンでもあった。近代思想を解説する正慶さんが、情念の世界にも通じているのは意外でした。維新の志士群像は誰でも知っていることですが、かれの博識は板垣退助、三島通庸ら自由民権運動の闘士たちにおよび、その出身地から学校、人脈など人生の軌跡にやたらと該博なことでした。作家の中村彰彦氏ら共通の友人と飲むと、この話でときに盛り上がる(と言うより宴席は荒れたりしました)。
光文社時代の正慶氏と仲間だった高田清さんがなくなる前まで毎年やっていた”神楽坂忘年会”でも必ず正慶さんと同席、小生が「この人が、かの『歩くエンサイクロベディア、正慶ニカ』です」と参加者に紹介するとまんざらでもない表情でした。
最後に飲んだのは、まさにその新宿ゴールデン街の名物バア「花の木」で、昨年師走、恒例の「自由」社の忘年会のあと、二次会に十数名の有志(勇士?)が繰り出し、カラオケ大会。それから正慶教授と二人で広田和子さん経営の『花の木』での「三次会」へ。そこで昔の芸術論などを酒の勢いで議論したものでした。 合掌 宮崎正弘
・上の写真は、1月18日(金)、正慶孝さん(右)とカヴァザンさん(左)を交え、次の企画のため打合せ中の模様。この後、2週間でお亡くなりになるとはあまりに切ないし、残念無念!
●お通夜で。喪主の昭子さんを囲んでお二人のお嬢様。一番左に片倉芳和さん(早稲田大学雄弁会で正慶さんと弁論を鍛えた仲。現在は日本大学非常勤講師)、ピアニストの鈴木恭代さん(右から二人目)、斉藤勝義さん(右から三人目。片倉芳和さんは斉藤さんの義弟にあたる)、藤木健太郎君(右)、車椅子の僕。なお撮影者は、臼井雅観君。
2008.02.01深田祐介さん 清川妙さん 泉三郎さん
- 月刊『清流』2月号から連載が始まった「あの人、あの時 深田祐介の出会い交友録」の執筆者である作家の深田祐介さん(右)が来社された。深田さんは、工藤美代子さんのご紹介で同誌昨年12月号「著者インタビュー」欄に登場し、それがきっかけで本企画に結びついた。編集担当は秋篠貴子。「人との出会いは人生の宝物。幅広い交友関係を持ち、出会いを楽しむ作家・深田さんが人生のさまざまな場面で、記憶や心に残るシーンを語ってもらう」趣旨である。
- 僕は深田さんの近著『歩調取れ、前へ!――フカダ少年の戦争と恋』(小学館刊)を読み、1931(昭和6)年生まれの深田さんの波瀾万丈の人生の一端を垣間見た。生家は麹町一番町、父親が深田銀行、深田証券を引き継いだ身分となれば、並みの人生が待つはずもない。フカダ少年の玉砕教練あり、大空襲あり、父親の企業倒産ありと、息もつかせぬ波瀾展開の自伝的小説に一喜一憂させられた。
- かつて深田さんと僕は何度かニア接近している。深田さんが日本航空広報室次長時代、僕が当時勤務していたダイヤモンド社の月刊誌でアンケート取材したほか、嵐山光三郎、坂崎重盛両人と同行したタイ取材旅行中、泊まった宿がバンコクのオリエンタルホテルで隣室が深田祐介さんだった。こういった偶然もあり、僕は一方的に親近感を持っていたのである。会って初めて分かったのだが、お互い身障者同士。所持している「身体障害者手帳 第1級」を見せ合って、現在の体調を確かめあった。
- 深田さんは、1976年に『新西洋事情』で大宅壮一ノンフィクション賞を、その後、1982年に『炎熱商人』で直木賞を受賞されている。直木賞受賞をきっかけに日本航空を退社し、作家生活に専念したが、当時、あまり例のなかったエリート・ビジネスマンから売れっ子作家への華麗な転身が、僕にはなんともうらやましかった。
- 話してみると、共通の恩師・知人が続出し、会話も大いに盛り上がった。わけてもフランス語、暁星学園、早稲田大学、パリ……などの話題で、二人は同じ人、場所、本、文化を共通体験していることが分かった。特に山内義雄先生、田辺貞之助先生、磯村尚徳ご夫妻、藤島泰輔(ポール・ボネ)さん、嶋中鵬二・行雄父子などの話は、本当に懐かしく、興味深かった。
- その日、わが社から刊行した『聴かせてよ愛の歌を――日本が愛したシャンソン100』(蒲田耕二著)を贈呈したら、数日後、深田さんから「この本のCDを自宅に帰って聞きだすや否や、老化した涙腺がこわれてしまい、大声で泣き出したので、妻が呆然と見ておりました」というFAXを送っていただいた。「なぜ泣き出したかといえば、CD技術のすばらしさに驚愕致したからであります。選曲、解説のみごとさもさることながら、CDのマスタリングにはまったく脱帽しました。日本技術陣の大ヒットと存じますが、古いシャンソンの原盤の音質をしのぐものがある、といまだ感動醒めやりません」――深田祐介さんもズバリ認めている。やはり分かる人には分かると、この本を編集した藤木健太郎君と僕は快哉を叫んだ!
2007.11.01ナタリー・カヴァザンさん 岸本葉子さん
2007.06.01グアム・サイパン南十字星洋上大学
・硫黄島沖合で、戦争の犠牲者に哀悼の意を表した。わが国最南端の「南硫黄島」は高さ970m、周囲1.9kmの無人島。東京から1278 km南である。ここまでが東京都小笠原村だ。
・われわれ3人が所属したアドグルD班の方たちと甲板で記念撮影。前列中央に秋草鶴次さん。パッと見ると、熟年者が多い。若い方は、ゴスペルグループ3人でいずれも25歳。なんとその次に若い人が臼井君(59歳)。大半が70歳以上だ。でも人生は年に関係なく、元気で精神的にはりのある生き方をしているほうがよいことを証明する方々ばかりだった。
・パーティーで若い人たちからエネルギーをいただくのも船旅ならでは。加藤団長の若さの秘訣も、年1回続けている洋上大学の効能ではないか? 来年も参加したいという声も多く聞かれた。また洋上大学が開催されたら、わが清流出版からも何人か参加させようと、改めて思った。
2007.05.01野見山さん 窪島さん 出版記念会
「野見山さんと窪島さんの本の中から……」と、朗読を務めてくれた青木裕子さん。お二人の著書のさわり部分を朗読された。舞台左側には、お二人の本が10冊ずつ飾られていた。
青木裕子さんの朗読部分は極めて適切だった。野見山暁治さんと窪島誠一郎さんの人となり、ご両人の関係、無言館の赤ペンキ事件についてお二人の反応の違い等がよくわかったはずだ。まだ読んでいない方も興味を喚起されたに違いない。
「久しぶりのヨモヤマばなし」と題する対談のため登壇された野見山暁治さん(右)と窪島誠一郎さん(左)。「会うたびに、背が大きくなる」と、野見山さんがおっしゃるほど、窪島さんの身長は高い。
旧知の間柄だけに無言館設立までのエピソードやお互いの人となりに話の花が咲いた。とくに無言館が影も形もない頃の苦労話は、聴衆の涙を誘った。
軽妙洒脱なやりとりに場内も笑いの渦に。著名人も僕が気づいた植田いつ子さん、小林亜星さん、永井龍之介さん等をはじめ何人か散見された。約240名の聴衆の方が熱心に聴いてくださった。
天満敦子さんのヴァイオリン演奏には聞きほれた。会場には天満さんの追っかけとも見られる方が50名位いた。なにせ天満さんのヴァイオリン演奏付のパーティとなると、3万円から5万円ぐらいするから、2500円の入場料は破格の安さ。
演奏の合間にご挨拶。誠ちゃま(窪島誠一郎さん)との出会い話は笑いを誘った。
第二部「懇親会。野見山さんと窪島さんを囲んで……」の司会進行した青木裕子さんとそれをアシストした弊社・藤木企画部長。
二冊の本を編集担当した野本博くん(愛和出版研究所代表取締役)。「編集者は黒子の存在で、お二人の本作りを通じて至福の時間を過ごすことができた」との挨拶。
合間に、社員が考えた福引きをやった。右端の金井くんが持っているのが抽選箱。くじを引くのはゲストの方々。社長の私も引かされた。
福引き抽選の選者として挨拶する野見山暁治さん。「こんなことをし、大出費して、儲からない結果を恐れる」とのお言葉。いやいや、ありがたいお言葉で恐縮いたします。
野見山暁治さん、窪島誠一郎さんと記念撮影する方が続出する。
淑やかな方たちに囲まれた野見山画伯。
広い会場で様々な交流が行なわれた。
右端、後ろ姿の窪島さんが植田いつ子さんとお話されている光景も。そういえば美智子皇后陛下も無言館には以前からご興味をお持ちだった。植田いつ子さんといえば美智子様とお親しいので、本日の講演、無言館設立の話を皇后陛下にもしてくれるのではないかと、勝手に想像している。
野見山さんがパリにいた頃からの親友である画家の岡本半三さん(右から二人目)も、パートナーである高松千栄子さん(中央)と鎌倉から参加された。 美術評論家の菅原猛さん(右)も奥さんであるヨシダ ミチコさん(左から二人目)と参加してくれた。皆さんと僕は旧知の間柄。
山梨県北杜市から参加された詩人の林立人さん(右)と奥様(左から二人目)。林さんは、野見山さんの義弟・田中小実昌さんと親しかったので話も弾んだ。僕の知っている人では、無言館のある上田市から写真家・岡田光司さん、康子さん夫婦もわざわざ駆けつけてくれた。
第二部会場は満席状態で終始した。
会場の外では、二冊の本と月刊『清流』2007年5月号を即売した。担当の田邉営業部長と木内文乃さん、ごくろうさんでした。
お二人のサイン本購入に長蛇の列ができた。
当日、張り切って運営に当たった社員たち。
この日の御礼を感謝して、閉会の挨拶。僕は言語障害の上、ワインで酔っ払っていたので、メロメロの挨拶だった。それにしても盛会だったな。
2007.04.01野見山暁治さん 正岡千年さん
(注1)
椎名其二さんの風貌。写真が紛失し、コピーしか残っていない。演壇風景は早稲田大学フランス友の会に出席した折の一枚が残っていた。もう一枚の写真は早稲田の下宿で撮ったもの。
(注2)
野見山暁治さんとツーショット。撮影者は長島秀吉さん、場所は長島葡萄房。長島君と僕は椎名さんのことになると、今でも夢中になる。
2007.02.01窪島誠一郎さんと無言館
(注1)
無言館の慰霊碑「記憶のパレット」
(注2)
野見山暁治さんの2007年 冬 寒中お見舞