本ウェブページ、高崎俊夫の「映画アットランダム」は、すでに連載終了しております。
加筆修正され、国書刊行会から『祝祭の日々: 私の映画アトランダム』として2018年2月27日に発売されました。
このウェブには、未掲載分20本を残しております。
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オーディトリウム渋谷で大規模な「ダニエル・シュミット映画祭」が始まった。第一部は彼のほぼ全作を網羅した「レトロスペクティヴ」、第二部はドキュメンタリー『ダニエル・シュミット――思考する猫』、第三部は「ダニエル・シュミットの悪夢―彼が愛した人と映画」と題し、『歴史は女で作られる』『グリード』など彼が偏愛してやまなかった八本の映画が上映される。
先日、『ダニエル・シュミット――思考する猫』の試写を見せてもらった。私は、パスカル・ホフマンとベニー・ヤールがチューリッヒ芸術大学大学院の終了制作として撮った、この優れたドキュメンタリーを見て、さまざまな思いに耽ってしまった。
ダニエル・シュミットという名前は、ミニシアターが華々しく登場した一九八〇年代初頭という時代の記憶と深く結びついている。一九八一年に、フィルムセンターの特集「スイス映画の史的展望」において、シュミットの『ラ・パロマ』が上映された時の異様な混雑ぶりはよく憶えている。その理由は、はっきりしていた。蓮實重彦が、当時、『話の特集』のコラムで、この無名の映画作家の『ラ・パロマ』を大絶賛していたからだ。
今、思えば、ダニエル・シュミットを世界中でもっとも高く評価したのは、日本の映画ファンであり、より正確に言えば、当時、絶大な影響力を誇示していた蓮實重彦の扇動的な批評によるところが大きかったと思う。一九八二年にアテネ・フランセで開催された「ダニエル・シュミット映画祭」は、日本で一本も正式公開されていない映画作家の特集としては、異例の大成功を収めた。
この年に、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが亡くなり、ちょうど、映画祭で来日していたシュミットがドイツ文化会館でファスビンダーの追悼講演とシンポジウムを行った。この時に司会兼通訳を務めた岩淵達治さんには、その後、シュミットへのインタビューをお願いし、それらをまとめる形で、『月刊イメージフォーラム』で「R・W・ファスビンダー研究」という特集をつくったのである。
ダニエル・シュミットといえば耽美的でキッチュで倒錯的なメロドラマの作家と語られがちだが、私がこのシンポジウムで、強く印象に残ったのは、彼の次のような発言だった。
「だいたい私は、二人の人間関係、たとえば、男と女とか夫婦関係というものが最少単位のファシズムの発生するベースだと思う。つまり、ファシズムをそういうふうに二人の人間の従属関係から捉えた場合は、日本だろうとソ連だろうとアメリカだろうとドイツだろうと皆同じではないだろうか。」
『思考する猫』ではシュミットの、一九六〇年代のベルリンにおける政治運動やカウンター・カルチャーの洗礼を浴びた経験が語られていて興味深かった。そして、一九七〇年以後は、映画の世界で一挙にバロック風な幻想的な資質を開花させた経緯が、あざやかにスケッチされており、あらためて、一筋縄ではいかない映画作家だなと思った。
この作品のなかで、図らずも、シュミットをスイスの山脈の斜面によって自己形成を遂げた〈山の人〉と指摘するビュル・オジェと蓮實重彦はさすがに鋭い洞察を示しているが、すっかり頭部が薄くなってしまったキャメラマンのレナート・ベルタが登場すると、妙になつかしくなって思わず見入ってしまった。
レナート・ベルタは、『今宵かぎりは……』(72)以後のダニエル・シュミットのほぼ全作品、さらに、ゴダール、アラン・レネ、そしてなによりも、スイス映画の盟友アラン・タネールのキャメラマンとして知られている。
そのレナート・ベルタが最初に来日したのは、一九八五年に開催された「アラン・タネール映画祭」の時だった。招聘したユーロスペースの堀越謙三さんから依頼があり、ベルタへのインタビューを行ったのだが、面白かったのは、その後、ベルタが、突然、新宿歌舞伎町のノゾキ部屋に行きたい、と言いだしたことだ。
どうやら、シュミットら映画仲間から、新宿の風俗情報などを聞いていたらしい。ベルタと新婚らしき奥さん、それに通訳をお願いした、当時ヘラルドエースにいた寺尾次郎さん、それに私というメンバーで、当時、人気絶頂だったアトリエ・キーホールかどこかを数軒、ハシゴしたはずだが、レナート・ベルタが好奇心に満ちた眼差しで、そんな東京の怪しげな最前線の風俗店をみつめていたのを、おぼろげながら記憶している。
ダニエル・シュミット、アラン・タネール、そしてレナート・ベルタは、ミニシアターの黄金時代をそのまま体現する固有名詞といってよいだろう。映画批評家ではもちろん蓮實重彦の名前を逸するわけにはいかない。そして、配給・興行のサイドで、この時代をシンボライズする人物といえば、やはりユーロスペース代表の堀越謙三さんをおいてほかにいないだろう。
私は、以前から、ミニシアター・ブームの牽引役を務め、レオス・カラックス、アッバス・キアロスタミのプロデューサーとして、さらには東京藝大大学院映像研究科を立ち上げた教育者の貌も持つ堀越謙三さんのユニークな軌跡に深い関心を抱いていた。
今度、筑摩書房のPR誌「ちくま」で始まった堀越さんの聞き書きのメモワールは、ミニシアターという時代がなんだったのか、をめぐってある答えを与えてくれるような気がしている。
『ダニエル・シュミット――思考する猫』
先日、洋泉社から大部の『今野雄二 映画評論集成』が届いた。二〇一〇年七月に自死を遂げた映画評論家今野雄二さんの遺稿集である。
最初は、今野さんとほとんど面識がなかった私に、なぜ送られてきたのだろうと思った。実際に、私が今野雄二さんと言葉を交わしたのは、たぶん、一度きりである。ジョン・ウォーターズの『セシル・B・シネマウォーズ』(00)が公開された際、配給会社のプレノンアッシュが、六本木の焼肉屋で今野さんとジョン・ウォーターズの食事会をセッティングし、パンフレットを編集した私も呼ばれて同席したのだ。その時に、ジョン・ウォーターズがゲイ・セクシュアリティがらみの冗談を連発し、今野さんが苦笑していたのを覚えている。
本書の帯には、「日本のサブカルチャー&カルト映画ブームを牽引した孤高の映画評論家が遺した幻の評論原稿を厳選採録!」という文言が謳われているが、通読してみて、今野さんの批評がもっとも活き活きと輝いていたのは、やはり、一九七〇年代という「アメリカン・ニューシネマ」の時代だったなとあらためて思った。
たとえば、今野さんは、七一年の「キネマ旬報」の年間ベストテンで「これまで見たすべての映画が『ファイブ・イージー・ピーセス』へ至る為の指針だったことになり、今後、見るあらゆる作が、『ファイブ・イージー・ピーセス』を越えなくてはならぬという宿名を、担うことになる」と書いたが、当時、高校生だった私はなんとカッコいいコメントだろうと思った。当時、こんなふうに一本の映画への熱愛をキザに語ってしまう映画評論家はいなかったからである。
ひと口にニューシネマと言っても、今野さんの好みは千差万別で、『イージー・ライダー』を、「『白昼の幻想』や『ワイルド・エンジェル』同様に、一連のアメリカン・インターナショナルの延長でしかないこのフォーニー(ニセモノ)・フィルム」とまで酷評している。
本書を読んでいて嬉しかったのは、『ウェスタン・ロック・ザカライヤ』(71)という珍品の批評が載っていることだ。ニューシネマ全盛時代にひっそりと公開された、この異色の西部劇は、陽炎がゆらめく荒野で、カーボーイたちがロックギターをかき鳴らすフシギな場面や、突然、現われたジャズドラマーの大御所エルヴィン・ジョーンズがロックドラムを叩いている若造を蹴飛ばして、居座るや、ドラムソロを延々と繰り広げるシーンなど断片的な記憶だけが残っているが、私にとっては、幻のニューシネマの一本なのであった。
当時の今野雄二さんのお気に入りは、何といっても、ロバート・アルトマンとケン・ラッセル、そしてブライアン・デ・パーマ(彼はこの表記に固執した)だが、アルトマンに関しては、『ナッシュビル』や『ウェディング』の批評にせよ、海外の文献を渉猟した綿密な研究という趣きがあり、今、読み返しても、その鮮度は決して失われていないと思える。
ブライアン・デ・パーマ作品に至っては、手放しの礼讃で、たとえば、『スカーフェイス』評において、「デパーマに目覚めてしまった者が、映画を楽しむ基準としてストーリーは二の次にしてとりあえずはその映像のスタイル美を第一に考えるようになる」という、内容よりも様式の美しさを顕揚するくだりなどは、スーザン・ソンタグの『反解釈』の多大な影響を感じないわけにはいかない。
実際に、最初期に書かれた「ブラック・ユーモア――そのフリークの世界」という『映画評論』70年11月号に載った評論の結びには、「「キャンプ」という感覚を論じようとしたソンターグにならって、あえて、「ブラック・ユーモア」を定義づけようなどという野心は抱かない方がこの際、賢明というものだろう」という一節がみえる。
今、思うと、過剰なまでのソフィスティケーションを志向するスーザン・ソンタグのきらびやかなキャンプ論には、彼女の両性具有的な美学、あるいはレズビアニズムの影が垣間見えるような気がする。
本書に目を通すと、あらためて、今野雄二が、批評家として出発点から、映画における同性愛、ホモ・セクシュアリティの主題に深く執着していたことがわかる。
たとえば、『キネマ旬報』68年8月別冊「アングラ68ショック篇」に収められた「ホモ的エロティシズムと日本のアングラ」という長篇のエッセーでは、西村昭五郎の隠れた秀作『帰ってきた狼』(66)の主人公と混血のヤクザ少年とのセクシャルな関係に着目しているのが印象深い。
この論考で、私が興味を覚えたのは、今野雄二が、ドナルド・リチーのスキャンダラスな実験映画を絶賛していることだ。なかでも、年上の女が若い男子学生を、古びた庭園にひきずり込み、芝生で全裸にして愛撫する『し』に言及し、今野さんは、「この映画で最も魅惑的なのは、年上の女がフェラチオという性技を駆使して、遂に相手の少年を死に到らしめる、というショッキングなテーマだと思います。これとても、ホモ・セクシュアルな発想なしには、とうていなし得なかったはずであります」と書いている。
一九六八年当時、ドナルド・リチーと今野雄二さんは、恋人同士だったという噂を耳にしたことがあるが、実情は詳らかではない。
その頃、ドナルド・リチーは『季刊フィルム』に「私の映画遍歴」という一文を寄せているが、私は、これはドナルド・リチーによって書かれたもっとも感動的なエッセーと考えている。映画に耽溺することの恍惚と病いを、これほど真率に告白したエッセーは稀であり、次に引用する冒頭の一節は、おそらく、今野雄二さんも深く共鳴していたのでないかと想像されるのだ。
「妻は、私と離婚する直前にこういった。「私がもし、これから結婚しようとする人にアドヴァイスを頼まれたら、その女性には、映画を好きな男とは結婚するな、っていうでしょう」。彼女の判断は正しかった。映画が好きな男は、ほとんどの時間をひとりぼっちで暗闇で過ごすために、自己本位で社交嫌いになってしまう。そのうえ、それほど映画が好きだというのは、幼い頃から映画を見始めているに違いないのだ。彼の幼年期は歪んだものだ。自分の家族よりもスターを愛し、彼は暗闇の中にひとりぼっちで坐っていた。最後には、彼がそれほどまでに映画が好きになるには、スターが必要となったはずである。これは不幸な家庭を意味し、あまりにも不幸であるために彼は映画館へ逃避せざるを得なかったのだ。あまりにも映画が好きな子供は、病める子供であり、病める人間になる。彼は現実よりもスクリーンの幻影を愛するようになる。」(今野雄二訳)
大部の遺稿集『今野雄二 映画評論集成』(洋泉社)
最近、試写で『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』というイタリアのドキュメンタリー映画を見た。ローマを取り巻く高速道路GRAの周辺に住む、ひと癖もふた癖もある個性的な人物たちを定点観測のようにスケッチした愛すべき小品で、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞しているが、プレスを読んで驚いた。監督のジャンフランコ・ロージが、「この映画はイタロ・カルヴィーノの『見えない都市』にインスパイアされた」と語っていたからだ。
イタロ・カルヴィーノは、多分、翻訳された作品をほとんど読んでいる唯一の作家といっていいかもしれない。亡くなって三十年近くの歳月が流れたが、彼の発見者であるチェーザレ・パヴェーゼと同様、未だに岩波文庫で陸続とその作品が復刊されているのはうれしい限りである。一時期、高橋源一郎が激賞したせいもあってか、カルヴィーノは、〈エレガントな前衛〉〈ポストモダンの作家〉などと称されて、実験的なメタ・フィクションの作家と目されがちだが、私にとっては、カルヴィーノとは、なによりも豊潤なイタリア映画の名作と同じように、〈美しい物語〉の語り手である。
最初に読んだのは、一九七一年に晶文社から刊行が始まった〈文学のおくりもの〉シリーズの『まっぷたつの子爵』 だった。その詩的で奇想に満ちた面白さにめまいのような感動を覚え、すぐさま『木のぼり男爵』(白水社)、『不在の騎士』(学芸書林)、『マルコヴァルドさんの四季』(岩波少年文庫)と読み継いで、すっかり魅了されてしまった。
とりわけ、十八世紀の啓蒙思想の時代を背景に、ある日、森の木に登って、一生涯、木から降りてこなくなった少年を描いた『木のぼり男爵』は、あまりの童話的な残酷さと澄み切ったユーモアの混交に圧倒された。
ちょうど、その頃、封切られた『フェリーニのアマルコルド』(73)に、主人公の少年が精神病院に入院しているテオ叔父さんを連れ出して、一家で郊外にピクニックにでかけるエピソードがあった。テオ叔父さんは、突然、田舎家のはずれにある樹にのぼりはじめる。そして、夕暮れになっても、降りて来ず、地平線の彼方に向かって、「女を抱かせろ!」と叫び続けるのだ。この涙が出るほど、可笑しい場面を見ながら、私は、まるで『木のぼり男爵』のようだ、と呟いた。
それ以来、ずっと長い間、私は、イタロ・カルヴィーノの魔術的な想像力とフェリーニのノスタルジアに満ちたサーカス的な夢想の世界は、きわめて近しいのではないかと思っていた。
一九八五年、不思議な偶然だが、カルヴィーノが亡くなる直前、雑誌『ユリイカ』が「イタロ・カルヴィーノ 不思議な国の不思議な作家」という特集を組んだことがあった。その号はとても充実した内容で、今も私の手元にあるが、とくにパゾリーニへの深い友情を感じさせる「パゾリーニへの最後の手紙」、偉大なコメディアン、グルーチョ・マルクスを追悼した「グルーチョの葉巻」などを読むと、カルヴィーノがいかに映画に深く傾倒していたのかが了解されるのだ。
カルヴィーノの没後、ずいぶん経ってから、『サン・ジョヴァンニの道――書かれなかった[自伝]』(朝日新聞社)が刊行された。この中にある「ある観客の自伝」という章は、カルヴィーノの幼少期から青春時代に出会ったアメリカ映画やイタリア映画への想いを綴ったメモワールで、とくに後半は、まるごとフェリーニへの熱いオマージュとなっている。たとえば、次のような一節はどうだろうか。
「フェリーニのヒーローの伝記――それを監督は毎回最初から撮りなおす――は、この意味でわたしのものよりはるかに典型的だ。若者が地方を離れ、ローマに出て、スクリーンの向こう側へ移って映画をつくり、自分自身が映画になるからだ。フェリーニの作品は、裏返された映画なのだ。映写機は客席をのみこみ、カメラはセットに背を向けているというのに、その二つの極がいつももたれあいながら、地方はローマによって憶いだされることで意味を獲得し、ローマは地方からやってくる人びとのなかに意味を獲得し、両側に棲む怪物じみた人間たちのはざまで同じ神話が生まれ、それが『甘い生活』のアニタ・エクバーグの巨大な女神となって、そのまわりを回っている。フェリーニの仕事が狙っているのは、この発作的な神話を明るみに出し位置づけることであり、その中心にあるのが、さまざまな原型が螺旋状にひしめきあう『81/2』における自己分析なのだ。」
まさに、目の覚めるような卓見がちりばめられたこの美しいエッセイを読み返しながら、私は、カルヴィーノが、シナリオライターとして関わった二本の作品があったことを思い出した。
一本は、フォルコ・クィリチ監督の『チコと鮫』(62)、もう一本は、『ヴォッカチオ70』(62)の第一話、マニオ・モニチェリが監督した「レンツォとルチアーナ」である。
このオムニバス大作は、深夜、巨大な女神アニタ・エクバーグがローマの街を闊歩する、フェリーニ篇の「アントニオ博士の誘惑」ばかりが取り沙汰されるが、日本では劇場公開されなかった職人モニチェリのパートも、実に愛すべき小品である。
実は、最近、初めてこの「レンツォとルチアーナ」を見て驚いたことがある。工場に勤めるカップルが、職場結婚を禁止されているために極秘で結婚式をあげたものの、発覚して会社をクビになる。夫は夜間勤務の工場で働き、妻は、夫が早朝、帰宅する時刻に、目覚まし時計と共にベッドを起きだし、コーヒーを用意し、あわただしくキッスをかわしながら、仕事へ出かけて行く。残された夫は、ベッドに入ると、片側の、今しがたまで妻が寝ていた、その躰のかたちをとどめたままの温かい窪みのなかで、顔を枕にうづめ、妻の薫りにくるまれるようにして眠りにつくのだ。
このエロティックなラストシーンを見ながら、私は、カルヴィーノの傑作短篇集『むずかしい愛』(福武書店、のちに岩波文庫)のなかの名篇「ある夫婦の冒険」の忘れがたいエピソードがそのまま再現されているので、思わず、微苦笑してしまった。
イタロ・カルヴィーノは、名著『なぜ古典を読むのか』(みすず書房、のちに河出文庫)のなかで、「古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさとなる本だ。しかし、これを、よりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじくらい重要な資質だ。」と書いている。この古典についての見事な定義は、イタロ・カルヴィーノの作品にそのまま当てはまるように思えるのである。
イタロ・カルヴィーノの傑作短篇集『むずかしい愛』(和田忠彦訳・岩波文庫)
さる三月二十一日の夜、赤坂BLITZで「我が青春のパック・イン・ミュージック」なる気恥ずかしいタイトルのイベントがあり、私も一員である「ハヤシヨシオ的メモリアルクラブ」に招待チケットが回ってきたので、のこのこと出かけて行った。久々に何人かのメンバーに再会し、林美雄夫人の文子さんにもご挨拶ができた。会場は五十代、六十代でぎっしりと埋めつくされていた。小島一慶と兵藤ゆきの司会で、山崎ハコ、山本コウタロー、小室等のミニライブがあり、客席には、パックでパーソナリティだったTBSの元アナウンサー桝井論平の顔も見られ、さながら、パックの同窓会の様相を呈した。
私がパックをもっとも熱心に聴いていたのは、林美雄さんが金曜第二部を担当していた一九七四年の八月までである。だから、一九八二年まで続いたパックの終了時の記憶はまったく欠落している。ただ、この夜のイベントで改めて実感したのは、パック・イン・ミュージックの歴史の中で、超メジャーの野沢那智と超マイナーの林美雄というすでに鬼籍に入った二人の存在がいかに大きかったかということだ。
「ハヤシヨシオ的メモリアルクラブ」では、一時、もし林美雄が生きていたら、絶賛したであろう新作映画を各人が推薦しようという呼びかけがあったが、最近、これは、絶対に林さんが狂喜するだろうと思える映画を見た。
呉美保監督の『そこのみにて光輝く』だ。原作は一九九〇年に四十一歳で自死した作家、佐藤泰志が遺した唯一の長篇小説である。
村上春樹と同世代の佐藤泰志は、その小説を読むと、同時代の映画の引用が目につき、かなりの映画狂であったことがわかる。作り手たちもそのことを意識していると思しく、映画『そこのみにて光輝く』は、一九七〇年代のアメリカン・ニューシネマやATGの青春映画、初期の日活ロマンポルノの記憶を刺戟するような不思議な魅力をたたえている。
たとえば、主人公の達夫(綾野剛)と拓児(菅田将暉)がパチンコ屋で、百円ライターをきっかけに知り合うシーンは、『スケアクロウ』(73)の冒頭、最後の一本のマッチがきっかけで、ジーン・ハックマンとアル・パチーノが意気投合する場面を、思い起こさせる。
ある過去の事故の記憶にさいなまれ、無為な日々を送る達夫は、バラックのような拓児の家で、姉の千夏(池脇千鶴)と出会い、心を動かされる。千夏は売春で貧しい家の家計を支え、母親のかずこ(伊佐山ひろ子)は、脳梗塞で寝たきりの父親の性欲処理を黙々とこなしている。この荒みきった悲惨な家族の光景は、東京の川向うの浦安を舞台に、行き場のない女たちの淀んだ日常を描いた曾根中生の『色情姉妹』(72)を彷彿とさせる。
さらに、自転車をくねくねと乗り回す拓児や、互いに惹かれあう達夫と千夏が、人の気配がない寒々とした砂浜を歩くシーンは、神代辰巳の『恋人たちは濡れた』(73)の大江徹や中川梨絵の抱えていた白々とした虚脱感や閉塞感とだぶって見えて仕方がなかった。
絶えず煙草を吸い、よるべない怒りや焦燥をもてあます綾野剛、絶望の淵からなんとか外の世界へと視線を投げかけようと身悶える池脇千鶴、ノンシャランな存在感が『共食い』以上にリアルに迫ってくる菅田将暉、それぞれがベストパフォーマンスと言えるすばらしさだ。だか、私は、この映画では脇役がひときわ光っていると思う。千鶴の愛人で気勢をあげながらも、千鶴への身勝手な執着を止められない造園会社の社長を演じた高橋和也の浅ましさ、そして、かつて達夫の上司で、達夫の「家族持ちたくなったんだ」という言葉に、「バカか、俺を見れ、誰もいねえ、……それでいいんだ」と自嘲気味に呟く火野正平の深い皺が刻み込まれた異貌は、忘れがたい強烈な印象を残す。
俳優たちの自在でのびやかな演技を引き出した呉美保監督の演出手腕も見事だが、七〇年代ニューシネマのルックを意識した撮影の近藤龍人も特筆すべきだろう。深夜、函館のネオン街をあてどない不眠症患者のごとく徘徊する達夫に寄り添うキャメラは、ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』(73)で、夜のロサンゼルスを彷徨うフィリップ・マーロウをとらえたヴィルモス・ジグモンドの魔術的なキャメラワークを想起させる。
画面からにじむような橙色の光が氾濫する『そこのみにて光輝く』の海辺のラストシーンを見ながら、私が思い出していたのは、フランク・ペリーの『去年の夏』(69)だった。まぎれもなく藤田敏八の『八月の濡れた砂』(71)に影響を与えた、このニューシネマの隠れた秀作は、夏にもかかわらず、全篇にわたって、陽光がさすことはなく、空はどんよりと曇り、橙色のくすんだ色調で染まっていたという記憶がある。しかし、ある意味では、『八月の濡れた砂』以上に残酷で、悲痛な結末を迎える『去年の夏』とは対照的に、『そこのみにて光輝く』は、かすかな希望にも似た曙光に満たされて、幕を閉じる。
『そこのみにて光輝く』は、今の酷薄な格差社会の実相をリアルに映し出しながらも、いっぽうで、一九七〇年代という時代をめぐって思いを馳せるような、稀有な思索的な映画である。
呉美保監督『そこのみにて光輝く』
(C) 2014 佐藤泰志 / 「そこのみにて光輝く」製作委員会
*お詫びと訂正
前々々回のコラム「『私が棄てた女』、あるいは「蒼井一郎」という映画批評家について」の中で、球磨元男氏について(早逝してしまったが、スポーツ新聞の記者だったと思う)と書きましたが、読者の方から、球磨氏は「東宝東和の宣伝部に勤めていらした方」であるとご指摘をいただきました。ここにつつしんでお詫びし、訂正いたします。
前回、優れた『私が棄てた女』論をものした映画批評家・蒼井一郎について書きながら、私は、もう一人、浦山桐郎の最も深い理解者であった同時代の映画批評家がいたことを思い出した。長部日出雄である。
直木賞作家の長部日出雄が、かつてきわめてジャーナリスティックなセンス溢れる映画批評家であったことはつとに知られている。『週刊読売』の記者時代に、大島渚らが一斉に登場した際に、「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」と命名したことはあまりに有名なエピソードだ。
長部日出雄は、今も『オール讀物』に「紙ヒコーキ通信」を連載中である。この「紙ヒコーキ通信」は、劇場で見たばかりの新作映画をとりあげた時評で、これまで『映画は世界語』『映画監督になる方法』『映画は夢の祭り』(すべて文藝春秋)という三冊の単行本になっているし、昨年は、ライフワークともいうべき『新編 天才監督 木下恵介』(論創社)も上梓している。
とりわけ、私は、虫明亜呂無ほか物故した映画人のメモワールを収めた『振り子通信』正続、『精神の柔軟体操』(すべて津軽書房)などのエッセイ集を愛読している。
長部さんは、映画好きが嵩じて、自らの原作・脚本で『夢の祭り』(89)という映画まで監督してしまったが、作家に転身して以降は、作り手の視点に寄り添うようになり、かつてのような鋭い批判的な言辞は一切、封印してしまったように思う。そこが、私は少し不満でもあった。
というのも、かつて佐藤忠男が編集長を務め、虫明亜呂無、品田雄吉が編集者だった一九六〇年代半ばの『映画評論』に長部日出雄さんが発表していた映画評論は、辛辣な批評精神と同時代をリアルにとらえる鋭敏で柔軟な志向性が融合した独特の魅力を放っていたからである。
その代表作といえるのが、『赤ひげ』を論じた「黒澤明の世界」(『映画評論』1965年7月号)で、マックス・ウェーバーを引きながら、黒澤明の作品世界に、一貫した家父長的な支配構造を見出したこの名高い論考は、図らずも、以後の映画ジャーナリズムにおける黒沢明批判の先鞭をつける役割を果たすことになった。
この時代の長部日出雄の批評で出色なのは、たとえば、「『裏切りの季節』―この汚辱にまみれた旗」(『映画評論』1966年8月号)である。冒頭の一節を引いてみよう。
「混沌とした映画である。が、これは新人がひさびさに、既成のモラルでない、それだけに不定型な自己の内部の観念を思うさまフィルムの上にぶちまけた作品だ。」
こんなぐあいに、悠然たるタッチで大和屋竺の鮮烈なデビュー作『裏切りの季節』を論じながら、当時、勃興していた三百万でつくられるエロダクション映画の可能性を見出している。
長部日出雄の生涯のベスト・ワンはフェリーニの『81/2』である。長部の「フェリーニの『81/2』」(『映画評論』1965年5月号)は、公開当時に書かれた数多の『81/2』の批評の中でも、もっとも長大で(原稿用紙で40枚以上あったと思う)、緻密で、卓越したスリリングな論考であった。私は、イメージの万華鏡のような『81/2』の魅惑的なディテールを鮮やかに再現する、その途方もない筆力に舌を巻いたが、この傑作評論は、たしか、『非行少女』をもってモスクワ映画祭に行った浦山桐郎監督から、その年のグランプリを獲得した『81/2』がいかに素晴らしかったかを延々と聞かされていた、という印象的なエピソードからはじまっていたと記憶する。
長部日出雄が『映画評論』の一九六四年八月号から始めた「日本の映画作家」という連載がある。第1回目が浦山桐郎で、以後、今村昌平、増村保造、市川崑、山田信夫、岡本喜八、蔵原惟繕、篠田正浩と続くのだが、この連載が途中で終わったのはなにか理由があるのだろうか。これも40枚以上ある長篇論考で、抽象的な作家論ではなく、監督の出身、背景を丹念に調べ上げ、周到な取材を積み重ねて、作品と監督の人物像の相関を見つめた秀逸なポルトレの趣があり、今、読んでも新鮮である。
私は、長部日出雄が『ヒッチコック・マガジン』(1962年6月号)に書いた、あるエッセーがずっと気になっている。というのも、小林信彦が名著『日本の喜劇人』の中で、次のように書いているからである。
「これは、彼の書いた多くの文章のなかでも、すぐれたものの一つだと私は確信している。〈あるコメディアンの歩み――石井均はなぜ東京を去ったか〉という短文を私は、ここに、全文、紹介したい気がする。長部は、惚れた相手にからみ、どう仕様もなくなってしまったとき、いい文章を書く。石井均もそうした対象の一人なのである。」
「あるコメディアンの歩み」は引用部分を読んだだけでも、優れた喜劇人論となっていると思えるが、ぜひ、全文を読んでみたい。小林信彦さんは、『日本の喜劇人』の中で長部さんについて「喜劇について語るに足る数少ない友人の一人」と書いているが、私もあるエピソードを思い出す。
一九八五年十月、浦山桐郎の訃報が入り、当時、『月刊イメージフォーラム』の編集者だった私は、すぐさま、長部日出雄さんに追悼文をお願いした。「〈戦後〉の最良の表現者」と題された、その追悼は、深い哀惜の想いを溢れんばかりに伝わってくる感動的な一文で、かつて日活社員だったオペラ演出家の三谷礼二さんが「一読し、泣きました」とわざわざ電話をくださったほどだ。
私は、長部さんの原稿を受け取った時に、新宿に飲みに誘われたのだが、私はその際、新宿の紀伊國屋書店の裏手にあった「あさぎり」というお店に長部さんをお連れした。その少し前に、昼間、偶然入ったカレー屋「あさぎり」のママさんが、話してみると伝説の喜劇俳優シミ金こと清水金一の奥さんで、引退した女優の朝霧鏡子さんであると知っていたからだ。朝霧さんからも「夜は、お酒も飲めますから、ぜひ、一度、いらしてね」と言われていたのである。
長部さんは伝説の女優に会えたので大感激し、全盛期のシミ金の映画を絶賛するや、朝霧鏡子さんも大喜びで、松竹少女歌劇団時代のチャーミングな写真が沢山貼られたアルバムを見せてくれたりもした。果ては美しいおみ脚を披露する大サービスもあって、長部さんも狂喜乱舞して、朝霧さんと松竹少女歌劇団のテーマソングを大合唱したりと、なんとも楽しい一夜であった。
その後、ずっと引退していた朝霧さんが、一九九五年、新藤兼人監督の『午後の遺言状』で、突然、華麗なカムバックを遂げたのは周知の通りである。
長部日出雄さんとは、その後、『夢の祭り』がビデオ化された際に、『A?ストア』誌でインタビューしたが、その際に、一九六〇年代に書かれた映画評論をまとめないのですか、と訊いてみたことがある。
長部さんは、「黒澤明の世界」をはじめ、当時、書いた映画批評を本にすることには否定的な発言をされていた。やはり、創作者、作り手に回ったことで、大きな意識の転回があったようである。しかし、私は、『映画評論』を中心に、長部日出雄さんが一九六〇年代に書かれた映画批評は、同世代もしくは同時代の監督への大いなる挑発であり、励ましであり、まぎれもない、血の通った繊細な創作者の〈言葉〉として、再発見されなければならないと思っている。
今年の東京フィルメックスは、中村登とジャン・グレミヨン特集など気になるプログラムもあったのだが、仕事に追われ、あまり通えなかった。ただ、どうしてもツァイ・ミンリャンの新作『ピクニック』だけは見たかった。
というのも、ツァイ・ミンリャンは、今年のベネツィア国際映画祭の記者会見で、「『ピクニック』で監督を引退する」と表明していたからだ。四年前の東京フィルメックスでオープニングを飾った前作の『ヴィザージュ』(09)は結局、一般公開されなかった。恐らく、『ピクニック』もどこの配給会社も買わないだろうし、私は、これが最後の機会になるだろうと思い、今回、来日したツァイ・ミンリャンにインタビューを申し込み、その真意を聞いてみたいと思ったのだ。
『ピクニック』は、まさにツァイ・ミンリャンにしか撮れない、とてつもない映画だった。台北の街頭で高級住宅地のPRの看板を持って一日中立ち続けるリー・カンション。二人の幼い子供はスーパーマーケットの試食品コーナーを徘徊し、彼らは廃屋となったビルの一室で寝泊まりしている。この世界から打ち棄てられ、壮絶な貧困と孤立を強いられた家族の光景を、ツァイ・ミンリャンは、驚異的な長回しによって凝視し続ける。その果てに、夢とも現ともつかぬ不可思議な〈時間〉が流れ出す。こういう稀有な体験は、今や、ツァイ・ミンリャン以外の作品では味わうことができない。
私は、『ピクニック』を見ながら、『愛情萬歳』(94)を思い出していた。高度経済成長下の台北を舞台に、高級マンションの不動産セールスレディ、ヤン・クイメイが抱える孤独と空虚が鮮烈に描かれ、ベネティア映画祭で金獅子賞を受賞した傑作だった。この映画を配給したプレノン・アッシュは、その後も『Hole』(98)、『楽日』(03)、『西瓜』(05)、『黒い眼のオペラ』(06)とツァイ・ミンリャンの映画を公開し続けた。
私は、これらの作品のパンフレットをすべて編集していたので、ツァイ・ミンリャンの映画がいかに一部で熱狂的なファンを擁しながらも、興行的には厳しい苦戦を強いられていた現実をよく知っている。プレノン・アッシュは、残念ながら、今年、倒産してしまったが、私は、大ヒットを飛ばしたウォン・カーウァイ作品よりも、むしろツァイ・ミンチャンの映画を持続的に配給した功績によって、プレノン・アッシュは永く評価されるべきだと思う。
『ピクニック』には、冒頭で二人の子供を見守る守護天使のようなヤン・クイメイが登場し、さらに、ルー・イーチン、後半には母親とおぼしきイメージを背負ったチェン・シャンチーと、ツァイ・ミンリャンの映画の常連だった女優たちが、次々に現れる。
この謎めいた女たちについて、ツァイ・ミンリャンは、こんなふうに語っている。
「私は、当初、ルー・イーチンだけをキャスティングしていたのですが、クランク・イン前にひどく体調を崩してしまい、もしかしたら、これが最後の映画になるのではないかと危惧しました。そこで、これまで私の映画に出てくれたヤン・クイメイ、チェン・シャンチーにも急遽、出演してくれるように声をかけたのです。役柄などは別に考えもしませんでした。この映画では、ヤン・クイメイ、ルー・イーチン、チェン・シャンチーの三人がひとりのキャラクターを演じているといってよいかもしれません。しかし、映画が出来上がってみると、もう、そんなことはどうでもよいと思えるようになりました。」
ツァイ・ミンリャンは、もはや通常の意味でのプロットや物語を語ることにまったく興味がない。意図や主題をめぐって積極的に云々することもない。彼は、主演のリー・カンションについて話題が及んだ時にのみ、心底、饒舌になるのだった。
デビュー作『青春神話』(92)以来、すべてのツァイ・ミンリャンの映画に主演しているリー・カンションとの関係は映画史的にも極めてユニークである。ツァイ・ミンリャンは、「私の映画には、ただリー・カンションの顔だけがあるのです。」とまで断言するのだが、それは、彼が『ふたつの時、ふたりの時間』(01)で引用していた『大人は判ってくれない』のフランソワ・トリュフォーとジャン・ピエール・レオとの関係とはやや異なるように思う。
トリュフォーは、ジャン・ピエール・レオーを主演にしたアントワーヌ・ドワネルものにおいて、自らの過去を、ある距離をもって、トラジコミカルに回顧、再構成しているが、ツァイ・ミンリャンにとって、リー・カンションという俳優は、映画を作り続ける根拠そのもの、創作というイマジネーションの絶えざる霊感源にほかならないからだ。それは、一時期のジャン・コクトーの映画におけるジャン・マレーのような存在と言ってよいかもしれない。
ツァイ・ミンリャンは、この映画でも、リー・カンションが、ただひたすら食べること、排泄する光景を注視し続けるのだが、とりわけ、彼が子供たちがいなくなった蒲団の上で、キャベツをむさぼり喰う、愛と憎しみが複雑に入り混じった、おぞましくも悲痛に満ちた行為を長回しでとらえたショットは、名状し難い感銘を与える。
その直後に、大雨の中、リー・カンションが子供たちを連れて河上のボートに乗せようとする瞬間、ルー・イーチンが木の上から二人を救出する幻想的な場面がある。ここでのリー・カンションは明らかに邪悪なイメージを身にまとっているのだが、ゆくりなくも、ある一本の映画を連想させずにはおかない。チャールズ・ロートンの『狩人の夜』(55)である。
リー・カンションは、河上でボートに乗った孤児の兄妹に襲いかかる殺人鬼の牧師ロバート・ミッチャムの恐ろしくも甘美で夢魔的なイメージを体現し、そしてルー・イーチンは、ライフルを持ってふたりを守ろうとするリリアン・ギッシュの神話的なイメージにぴったりと重なるのだ。
そのことを指摘すると、ツァイ・ミンリャンは、あえてことさらにシネ・フィル的に言及することはしなかった。だが、昨年、『サイト・アンド・サウンド』誌による映画監督が選ぶ映画史上のベストテンというアンケートで、ツァイ・ミンリャンは『狩人の夜』を選んでいるのだ。無意識のうちに、『ピクニック』を撮っている際、あの呪われたカルト・ムーヴィーの記憶が揺曳していたことは充分に考えられると思う。
予定の一時間を超えてもなお、ツァイ・ミンリャンは率直に現在の心境を語ってくれた。その一端は、いずれ『キネマ旬報』誌上で、ご紹介できるかと思う。
そして、公開はとうてい無理かと思われた『ピクニック』だが、ムヴィオラが配給することが正式に決定したようだ。アートフィルムが冬の時代を迎えている今、ムヴィオラの大英断には心から敬意を表したいと思う。
ツァイ・ミンリャン監督『ピクニック』
先日、神保町の東京堂書店で『昭和怪優伝―帰ってきた昭和脇役名画館』(中公文庫)の刊行を記念して、著者の鹿島茂さんと坪内祐三さんのトーク・イベントがあり、出かけて行った。
二〇〇五年に講談社から出た単行本『甦る昭和脇役名画館』は、私の愛読書で、『プレミア日本版』で書評したこともある。荒木一郎、ジェリー藤尾、岸田森、川地民夫、吉澤健、佐々木考丸、伊藤雄之助…といったシブい個性派俳優への熱いオマージュで、とくに一九七〇年代の映画館の記憶と当時の鬱屈した著者の心象風景が重ねあわされ、極私的であることこそが普遍性を持つという映画評論の模範的な達成かと思われた。
爆笑を誘うエピソードが満載の御二人のトークも、まるで気のおけない同世代の映画談議につきあっているようで、とても楽しかった。場内にはお二人と親しい映画監督の内藤誠さんもいらしていて、一緒に打ち上げに参加させていただいたが、鹿島茂さんからは、私が十代の頃、ファンクラブに入っていた伝説の深夜放送のパーソナリティ、大村麻梨子さんの近況をうかがうことができたのも嬉しかった。
大幅に加筆・増補された文庫版を再読しながら、ジェリー藤尾の章で、日本映画史上最高のハードボイルド映画『拳銃(コルト)は俺のパスポート』(67)が絶賛されているので、あらためて溜飲が下がったが、監督の野村孝については、近年、あまり言及されることがないような気がする。鹿島さんも、「この大傑作以外にはあまり見るべき作品がないですよね」と、おっしゃっていたが、実は、野村孝は、私がもっとも偏愛する映画監督のひとりなのだ。
あれは、私が毎週のように池袋の文芸坐オールナイトに通っていた時期だから、一九七〇年の半ば頃だったと思う。当時の文芸坐オールナイトは鈴木清順を定番にして、日活アクション映画の五本立てが監督別に組まれ、舛田利雄、蔵原惟繕、長谷部安春、沢田幸弘などの特集はひときわ人気が高かった。そんな中で、野村孝特集がかかったのである。
たぶん、その時に、初めて『拳銃は俺のパスポート』を見たのだと思うが、ラストの荒涼とした埋め立て地での四人の殺し屋を相手にした宍戸錠の胸のすくようなガン・アクションには、度肝を抜かれた。
宍戸錠は、前方に拳銃を放り投げ、まず、ライフルで二人を倒した後、弾がなくなったライフルを投げ捨てるや、全力疾走で、身体を一回転させながら、先の拳銃を拾って一瞬で二人の止めをさす。この宍戸錠の流れるような身体の動きを横移動でとらえた名手峰重義のめまいのようなキャメラワークもすごいが、宍戸錠の身体の動きのあまりの美しさに、場内から一斉に溜息が漏れ、次の瞬間、拍手喝采となったのは言うまでもない。
『拳銃は俺のパスポート』のラストのガン・アクションは世界的にも類を見ない水準に達しているが、野村孝の本領は、ガンのメカニックな魅力をめぐるディテールの描写や非情なハードボイルド・タッチと表裏をなすセンチメンタリズムにある。宍戸錠とジェリー藤尾が逗留する横浜の渚館での小林千登勢との淡い交情は、まるでアンリ・ヴェルヌイユの『ヘッドライト』のような甘さと暗いリリシズムが横溢していた。
この時の文芸坐オールナイトでは、ほかに『夜霧のブルース』(63)と『昭和やくざ系図 長崎の顔』(69)『無頼無法の徒 さぶ』(64)、それに『黒い傷あとのブルース』(61)が上映されたように思う。
『黒い傷あとのブルース』の冒頭、霧笛が流れる横浜の波止場に白いトレント・コートの小林旭が現われ、回想に入っていく瞬間、あっと声が出そうになった。これを私は七歳の時に封切りで見ていたからだ。『黒い傷あとのブルース』は恐らく私が最初に見た日活映画で、小林旭が歌うバタくさい抒情あふれる主題歌は忘れようもなかった。旭は清純なバレリーナ吉永小百合と恋に落ちるが、父親の大阪志郎と共謀した神山繁が旭の組を潰した黒幕であることが判明し、苦い復讐を遂げるという物語だった。
今、思うと、『黒い傷あとのブルース』は、小林旭と吉永小百合が共演した唯一の映画なのだった。
『野獣の青春』のシナリオライター山崎忠昭さんの証言にもある通り、この当時の日活無国籍アクション映画の大半は、欧米のメロドラマの名作のプロットを平気でパクっていたのは有名な話である。だが、野村孝の映画は、ハンフリ・ボガートばりに白いトレンチコートを着た旭がキザな台詞を呟こうが、いっこうに軽佻浮薄になったり、アイロニカルな自己批評的なトーンを帯びることはない。それは、野村孝の本来的な資質が、強靱なまでの〈抒情と感傷〉をあるからだろう。
回想が入れ子ふうな構造になっている『夜霧のブルース』でも、ヤクザの石原裕次郎が、喫茶店で、オルガンで賛美歌を弾いている浅丘ルリ子を見初め、通いつめるシーンや、長崎の坂道で、雨の中、ようやく心を通い合わせたふたりが白い傘をさして歩いていくロング・ショットの哀切な美しさは忘れられない。
実は、讃美歌のメロディは大陸での裕次郎の幼少期の至福の記憶と結びついたものなのだが、野村孝は、照れずに、たっぷりと甘いセンチメンタルな音楽と回想形式という語り口の常套と通俗性を前面に押し出しながら、血の通った映画の感情と体温を伝えてくる。野村孝の映画のかけがえない魅力はそこにあるのだと思う。
最近、歳下の映画ファンと話していて話が通じにくいのは、たとえば、一九六七年に鈴木清順が『殺しの烙印』で日活を馘首された後、次の作品を撮れるまでの十年間がいかに長かったかということだ。その間、いくつもの企画が立ち上がってはつぶれ、清順神話はいっそう強固なものとなっていった。だからこそ、一九七七年に、突然、『悲愁物語』が公開されたときの驚きと喜びと戸惑いはどう形容してよいかわからなかった記憶がある。
私は浅草松竹の初日にかけつけたのだが、驚いたのは、併映が野村孝の『雨のめぐり逢い』だったことだ。私は、奇怪きわまりない清順の新作を堪能しつつ、『雨のめぐり逢い』にも深く心打たれた。大金を強奪した山城新伍が、その際、突き飛ばして失明させてしまった竹下景子の手術費用を出そうと懊悩する、まるでチャップリンの『街の灯』を犯罪もので味付けしたようなベタなお話だったが、市川秀男のリリシズム溢れるジャズピアノの旋律がきわだって印象的で、なんども涙腺がゆるんでしまったおぼえがある。『雨のめぐり逢い』は、いまのところ、野村孝が撮った最後の映画であるはずだ。
こんなふうに、野村孝の映画についてとりとめもなく回想しているうちに、無性に彼の映画が見たくなってしまった。ぜひ、ラピュタ阿佐ヶ谷あたりで野村孝特集を組んでいただきたい。
鹿島茂著『昭和怪優伝――帰ってきた昭和脇役名画館』(中公文庫)
新作が長い間、見られないために、時どき、今、どうしてるのかなと、その動向が気にかかってしまう映画監督がいる。中国のニン・イン監督はそのひとりだ。八年前、東京フィルメックスで上映された『無窮動』(2005)以来、何の音沙汰もなかったからだ。
だから、今年の東京国際映画祭のコンペ部門のラインナップにニン・インの『オルドス警察日記』(2013)というタイトルを見つけた時にはちょっと驚いた。そうか、ニン・インは新作を撮っていたのか!
先日、その『オルドス警察日記』の内覧試写があり、見に行った。内モンゴル自治区の町オルドスで地元の住民たちに英雄のように慕われたハオ・ワンチョンという実在の人物をテーマにした作品である。
ハオ・ワンチョンは、謹厳実直を絵に描いたような男で、パトロールの巡査から公安警察局長にまでとんとん拍子に出世するのだが、2011年、ジョギング中に、心臓発作で急逝してしまう。
映画は、この地元が生んだヒーローをめぐるルポを依頼された敏腕ジャーナリストが、彼が書き残した膨大な業務日誌を手がかりに、その生涯を追跡していく。冒頭に主人公の葬儀のシーンが置かれ、記者が彼の周辺人物たちを取材しいく中で、モザイクの断片が集積され、次第に人物像が結ばれていく手法は、明らかに『市民ケーン』の〈語り口〉を意識している。
当初、美談めいた偉人伝を書くことに否定的だった記者も、賄賂を一切、受け取らず、オルドスへ流入し、窮迫する移民労働者たちにも援助を惜しまなかったハオ・ワンチョンという人物に魅かれていく。
映画の中では、ハオ・ワンチョンが新米警官時代に遭遇した親子三人が惨殺された事件が、トラウマのように何度もフラッシュ・バックされる。彼が関わった中で、唯一、未解決のままになったこの謎めいた事件の描写は、不穏な、おぞましいサイコ・サスペンスを見ているようなリアルさで圧倒される。別の殺人事件の犯人を辺境にある実家捕まえるくだりも緊迫感にあふれ、ニン・インは極上のクライム・ムーヴィーも撮れるのではないかと思った。
『オルドス警察日記』は、未曽有の消費社会に変貌を遂げる一方で、急速に階層化が進む経済大国中国の現実を、辺境の町のクロニクルを通して逆照射するドラマだが、ニン・インは、家族を顧みない常軌を逸したワーカホリックであり、なおかつ武骨な人情家でもある主人公をヒロイックに礼讃もせず、一定の距離をもって見つめている。主人公の設定も含め、下町の警官の日常を描いた、初期の『スケッチ・オブ・Peking』(96)の作風に回帰したようにも思えた。
それにしても、ニン・インといえば、やはり、八年前に見た『無窮動』(05)の印象が未だに強烈である。なぜ、あの傑作が日本で一般公開されなかったのだろうか。
私は、東京フィルメックスでニン・イン監督が来日した時に、『文學界』2006年3月号でロング・インタビューをしている。その時の発言を思い出しながら、彼女のキャリアを素描してみたい。
ニン・インは一九七八年に北京電影学院に入学、同期には〈中国第五世代〉と呼ばれるチェン・カイコー、チャン・イーモウがいるが、年齢的に彼らよりはるかに若い。
その後、イタリアのローマ実験映画センター(チェントロ)に留学し、ベルナルド・ベルトルッチの『ラスト・エンペラー』に助監督として就いた経験が彼女を大きく変貌させる。ちょうど、かつて一九五〇年代にチェントロで学び、デビュー作『くちづけ』(58)で閉塞した日本映画界に新風を吹き込んだ増村保造のように、ニン・インの処女作『北京好日』(93)も清新な中国映画の台頭を予感させた。
最初の二本は、ロベルト・ロッセリーニのネオ・レアリズムを想起させる堅牢なタッチだった。しかし、第二回東京フィルメックスで上映された『アイラブ北京』(00)は、北京市内を周遊するタクシー運転手の視線を通して、急激な経済成長によって享楽的な消費社会へと変貌した北京の街が、バロック的な感覚でとらえられ、フェリーニの『甘い生活』を彷彿させた。
そして、『無窮動』は、リアリズム的な手法、演出スタイルをかなぐりすて、舞台劇を思わせる趣向で、現代北京のグロテスクな断面に鋭いメスを入れる。
主人公の女は、旧正月のお祝いを口実に、夫宛てに卑猥なメールを送ってきた夫の浮気相手を探すために、三人の女友達を自宅に呼び寄せる。不動産、芸術、出版、芸能界の各分野で成功を収めた彼女たちは、あけすけな男性体験の告白など他愛ないお喋りに終始するが、次第に、文化大革命の時代の悲痛な記憶、それぞれが心の奥底に抱えていた癒しがたい想念を吐露し始める。
主演しているのはすべて素人で、実際に中国の政財、文化界で成功を収めた女性たちであり、そのリアルさはなまなかではない。とりわけ、露骨な下ネタ、エロティックなダイアローグの応酬には、思わず腰が引けてしまうほどだ。鶏の足をむさぼり食らう彼女たちの口唇を超クローズアップで延々と映し出すシーンなどはあからさまな性行為のメタファーといった感じで、マルコ・フェレーリの傑作『最後の晩餐』をすぐさま思い起こさせる。
そのことを指摘すると、ニン・インもわが意を得たりとばかりに、あの食事のシーンは『最後の晩餐』を強く意識し、思い切り誇張して撮ったと嬉しそうに語っていた。
上映後のティーチ・インで、客席にいらした野上照代さんが立ち上がり、「この映画は、女性の本性は食欲と性欲の二つだということをズバリと描いていて、素晴らしい!」と感想を述べるや、壇上でニン・インも哄笑しながら、肯いていた光景が思い出される。
私も、この『無窮動』でニン・イン監督の官能的な資質が初めてあらわになったのではないかと問いただすと、次のような答えが返ってきた。
「たしかに、私は、これまで老人や若い警察官などを描いてきましたが、生身の私とはかけ離れたテーマばかりでしたので、私自身の内なる欲望は隠しおおせていたように思います。それが、この映画では、それまで我慢し、抑制してものが一挙にあらわになってしまいました(笑)」
『無窮動』は、一夜が明け、早朝、無人の高速道路を女たちが黙々と歩いている光景で唐突に終わる。「赤い貴族」と呼ばれる高級幹部の娘であり、表面的には成功したようにみえる彼女たちの内面に巣食う空虚さや喪失感があざやかに浮かび上がってくる。まるで、イタリアの高度経済成長下において澄明なニヒリズムを追求した『情事』や『太陽はひとりぼっち』のアントニオーニを見ているようであった。
このように、ニン・インの映画は、いつも最良のイタリア映画の匂いを濃厚に感じさせるのだが、『無窮動』については、ヒロインが住んでいる邸宅が、四合院と呼ばれる鄙びた伝統的な住宅であり、年老いたお手伝いの視点で描かれているため、私は成瀬巳喜男の『流れる』に似ているように思えた。
格式をもった花柳界の芸者屋を舞台に、そこに住み込んだお手伝いさんの視点で、古き良き世界が崩壊していくさまを描いた名作『流れる』を見たことがあるかどうか、と尋ねると、ニン・インは、「成瀬巳喜男のDVDは何本か持っていますが、まだ見ていません。さっそく、『流れる』という作品を見なければいけませんね」と答えてくれた。
その後、はたして、ニン・インは『流れる』を見たのだろうか。
ニン・イン監督『オルドス警察日記』(c Inner Mongolia Blue Hometown Production Co., Ltd)
ニン・イン監督
先日、オーストラリアのタスマニア大学教授で武田泰淳を研究しているバーバラ・ハートリーさんが来日したので、武田花さんと三人で渋谷で待ち合わせ、久々に一献、傾けた。バーバラ・ハートリーさんは堅苦しいアカデミシャンという感じはまったくしないチャーミングな女性で、昨年は、熊野大学主催の夏季セミナーで中上健次をめぐるシンポジウムにも出席したそうだが、いっぽう、大逆事件の研究者でもある。
バーバラ・ハートリーさんの永年の夢は、武田泰淳の『富士』と、金井美恵子の『噂の娘』を英語圏で翻訳出版することで、この二つの小説がいかに素晴らしいかを飽くことなく繰り返し熱心に語っていた。
バーバラさんには、今年の八月、平凡社から「金井美恵子エッセイ・コレクション[1964-2013]」全四巻の刊行が始まったことを伝えたが、彼女も金井美恵子さんのエッセイが大好きだという。そんな雑談をかわしながら、私は、今、ふたたび、静かな金井美恵子ブームが到来しつつあることを実感するのである。
私も金井美恵子さんの小説、エッセイの永年の愛読者だが、今、手許にある「金井美恵子エッセイ・コレクション」全四巻の内容見本を眺めると、どうやら、著者自身が「批評」「猫」「作家」「映画」という四つのテーマでセレクトし、新たに編まれたもののようだ。
そして「批評」をテーマにした第一巻のタイトルが『夜になっても遊びつづけろ』とある。思わず、ああ、なつかしい、とつぶやいてしまった。
四十年ほど前、私が初めて手に取った金井美恵子さんの本が、『夜になっても遊びつづけろ』だったからだ。
金井美恵子さんには、もちろん『映画 柔らかい肌』『愉しみはTVの彼方に』(河出書房新社)という映画エッセイ集がある。近年、金井さんの映画エッセイは、あたかもワンシーン=ワンショットで描写するように長いワンセンテンスが延々と続くその老練で典雅な文体にいっそう磨きがかかって、一種、凄みすら感じさせるのだが、いっぽうで、『夜になっても遊びつづけろ』に収められた、若き日の、ある独特の観念の硬さがそのまま、引き締まった持続と諧謔をたたえているエッセイにも私は深い愛着を感じている。
そこで、ふと、ひさびさにオリジナルの『夜になっても遊びつづけろ』 (講談社)を読み返してみたくなったのである。
一九七四年に上梓された、このエッセイ集は、金井美恵子さんが「十九歳(一九六七年)から二十五歳(一九七三年)までの間に書いた小説以外の文章の中から、詩人論、作家論、作品論といった類いのものを除いたほとんど」(あとがきより)を収録したものである。
ずっと私の記憶に残っていたのは、「視線と肉体――長谷部安春『野獣を消せ』」というエッセイだ。『野獣を消せ』の冒頭の名高い、基地のごみ捨て場で少女が犯され、自殺するシーンで、それまで両極が黒く塗られた画面が一挙にシネマスコープサイズに広がる視覚的な魅惑に言及したくだりとか、長谷部安春の前作『縄張はもらった』のきり込み場面の飛沫がサム・フランシスの赤い絵を思わせるとか、『野獣を消せ』の撃ち合いで壁にかかった星条旗が、ジャスパー・ジョーンズを思い出させること、そして、長谷部作品の魅力は「暴力的なアクションの内に開ける本質的なリリシズム」にあるとする指摘などは、今なお新鮮である。
ちょうど、この当時、文芸坐オールナイトで、長谷部安春の日活ニューアクション五本立てを見ていたせいもあるかもしれない。映画評論というのは、やはり、アクチュアルな時代の気分の刻印が押されていなければ面白くない。
「高橋英樹――テロルと肉体とアドレッセンス」は、あらためて読み返しても、つくづく見事な論考だと思う。金井さんは、高橋英樹の映画には、〈少年期との訣別〉という体験が繰り返し重要な意味合いをもって現れると書く。そして、『狼の王子』、『刺青一代』、『けんかえれじい』を論じながら、とりわけ『狼の王子』において、「高橋英樹は、青春期の過剰な熱狂に支えられた張りつめきった筋肉と、精神の熱狂的な硬直、いわばテロルの思想と肉体そのものであり、彼は眉の濃い、意志と自尊心の強いりりしい少年めく、それゆえ一種の硬直した精神の蒙昧さを具現していた」と鋭く洞察している。こういう卓越した評論を読むと、舛田利雄の『狼の王子』が見たくてたまらなくなってしまう。
時代性と言えば、「石坂浩二――スノッブの栄光」という俳優論が面白かった。論というよりも、一九七〇年当時、異様な人気を誇っていた石坂浩二をめぐって、あらんかぎりに罵倒し尽くした痛快な一文だが、私がひときわ興味を覚えたのは、当時、放映されていたテレビドラマ『憎いあンちくしょう』について言及した次のくだりだ。
「テレビの機構の中で疲れきってケンタイの最中にある人気タレントという役どころを、石坂浩二は実に楽々とまったく自然にこなしていた。しかし、『憎いあンちくしょう』という蔵原惟繕の傑作は、石原裕次郎と浅丘ルリ子という俳優と六二年という時代とによって作られた映画であったことによって成立したのである。今や、わたしたちは石坂・加賀(まりこ)の『憎いあンちくしょう』の中に、白々しさとどうしようもない低級な、いわば『少女フレンド』や『マーガレット』といった雑誌の中にようやく生きのびている類いのロマンスしか、見はしないのである。」
じつに、身もふたもない激烈な批判である。ただ、蔵原惟繕のオリジナルが傑作であることは言うを待たないが、私は、同じ山田信夫の脚本による、このテレビ版のほうも、当時、テレビマンユニオンの鬼才として知られていた村木良彦の斬新な演出が鮮烈に記憶に残っているのだ。当時、石坂浩二と加賀まり子が実際に恋人同士であったことも、奇妙なリアリティを感じさせたし、あの時代の白々しい気分を鮮やかにすくいとったヌーヴェル・ヴァーグ風な村木良彦の演出もすばらしかったように思う。
この村木良彦版の『憎いあンちくしょう』は、たぶん、映像も残っておらず、批評も皆無であるせいか、私の中では永い間、<再見したい伝説のテレビドラマの一本>となっていた。金井美恵子さんの歯に衣を着せない批評を読んで、私は、ひさしぶりに、この幻のテレビドラマを思い出してしまったのである。
金井美恵子著『夜になっても遊びつづけろ』(講談社)
四方田犬彦の六百ページを超える大著『ルイス・ブニュエル』(作品社)を読んでいたら、次のような一節が目に止まった。
「一九八〇年代に入ると、これまで日本ではブニュエルの暗黒時代であると見なされていたメキシコでの諸作品に照明が投じられることになった。最初の契機となったのは、一九八四年に開催された「ぴあフィルムフェスティヴァル」のブニュエル特集である。……中略……わたしはこの年をもってブニェエル元年と呼びたい気持ちを、今でも抱いている。」
そうだ、八四年にはPFFでルイス・ブニュエルの全三十二作品のうち二十九本を集めた大回顧上映会が開催されたのだ。あれは画期的な〈事件〉といってよかった。ブニュエルの自伝『映画 わが自由の幻想』(矢島翠訳・早川書房)が刊行されたのもこの年だった。
この空前絶後のブニュエル特集がすごかったのは、それまでまったく見ることができなかったメキシコ時代の彼の作品がほとんどすべて上映されたことである。
この特集によって、ルイス・ブニュエルにつきまとっていた〈難解でスキャンダラスなシュルレアリスムの巨匠〉というイメージが払拭されてしまった。
そして、それに代わって、ミュージカル、通俗メロドラマ、コメディ、とあらゆるジャンルを手がけ、スピーディなタッチで撮り上げてしまう、まるでマキノ雅弘を彷彿させる、プログラムピクチャーの職人監督としての貌が一挙にクローズアップされることになったのである。
世界中からプリントを集めたということで、二、三か国語の字幕が付いている奇怪なプリントが何本もあった。たしか、市ヶ谷のシネアーツで、連日、試写をやっていたはずで、そこで、たびたび、金井久美子さん、金井美恵子さん姉妹と一緒になり、見終わった後、近くの喫茶店で談笑した記憶がある。
金井美恵子さんは、かなり興奮気味に、ブニュエルについて語っていた。その後、金井さんは、何度も「メキシコ時代のブニュエル」というテーマでエッセイを書いていたが、それほど、このブニュエル特集は刺戟的であったということだ。
PFFの特集にあわせて、編集長である西嶋憲生さんの発案で、『月刊イメージフォーラム』でも「ルイス・ブニュエル伝説」という特集を組んだ。宇田川幸洋さんの「ブニュエル爺(ジー)の秘かな愉しみ」という長めのエッセイ、晩年のブニュエルの傑作のシナリオを書いたジャン=クロード・カリエールのインタビュー、ジャン・パイヤールの『銀河論』、ルイス・ガルシア=アブリネスの『ブニュエルの再生』というメキシコ時代の作品をテーマにした論考、それにメキシコ時代の十五作品の映画評を網羅した内容だった。
とりわけ、先日亡くなった梅本洋一さんによるカリエールのインタビューは、私も同行して帝国ホテルの一室で行ったのだが、演劇評論家でもあった梅本さんは、ピーター・ブルックとの共同作業について、熱心に訊いていたことが思い出される。
ちょうど同じ号に『女子大生・恥ずかしゼミナール』(後に『ドレミファ娘の血は騒ぐ』と改題)の製作ノートが載っているのだが、この問題作を撮ったばかりの黒沢清さんに『熱狂はエル・パオに達す』、水谷俊之さんに『昇天峠』と『幻影は電車に乗って旅をする』の批評を書いてもらった。ところが、その号が出た後で、『映画芸術』で評論家の野崎六助が、このふたりの批評にかみついたのだ。たしか、「こんな、理解不能な、ふざけきった文章を載せた編集部に猛省をうながす」みたいな批判であった。
しかし、今、ふたりの批評を読み返してみても、ふざけているとは思えない。ただ、未知のブニュエルの映画の世界に触れた、その新鮮な驚きの体験を、率直に言葉にしているだけである。
この特集では、私も『若い娘』とい過激なロリコン映画について書いている。PFFの特集の後で、一時、世界で一本しかないそのプリントが紛失してしまったという噂が流れた。実際、その後、ヘラルド・エースを中心にメキシコ時代の作品が上映される機会が増えたものの、この『若い娘』だけは、長い間、見ることができなかったが、数年前、日本でもようやくDVD化されたようだ。
四方田犬彦の『ルイス・ブニュエル』の最終章は「日本におけるブニュエル受容」と題され、ここは読みどころかと思う。戦前の瀧口修造の初紹介にはじまり、パリで『アンダルシアの犬』を見て、そのオリジナル脚本を訳出した映画評論家、内田岐三雄の功績が高く評価されている。
さらに、戦後、日本で初めて公開されたブニュエル作品『忘れられた人々』を、「シュルレアリスムと社会主義リアリズムを高次で統合した傑作」と喝破した花田清輝の炯眼が称賛され、その影響下から松本俊夫の名著『映像の発見』が生まれた背景が詳述されている。
この章で、興味深いのは、一九六〇年代に、唯一、メキシコ・シティの自宅でルイス・ブニュエルにインタビューした日本人への言及があることだ。金坂健二である。金坂は、ジョナス・メカスをはじめとするアメリカの実験映画、アンダーグラウンド文化の最初の紹介者であり、アメリカのカウンター・カルチャーに関する優れた批評家でもあった。
金坂健二のブニュエルのインタビューは、たぶん、一九六二年頃、『シナリオ』に掲載された「海外作家インタビュー」シリーズに載ったものではないかと思う。
今、私の手許にはアンドリュー・サリスが編纂した世界の映画作家へのインタビューをまとめた『インタヴューズ・ウィズ・フィルム・ディレクターズ』があるが、この中にも金坂健二による短いブニュエルへのインタビューが収録されている。初出は一九六二年の『フィルム・カルチャー』誌で、この時期、金坂健二がいかに旺盛に活躍していたかがわかる。このインタビューを読むと、ブニュエルは、ヌーヴェル・ヴァーグでは『二十四時間の情事』と『大人は判ってくれない』が好きであること、日本映画では『羅生門』『七人の侍』『地獄門』を見ていて、日本への関心はあるが、飛行機恐怖症のため、たぶん、日本へ行くことはないだろう、などと語っている。
金坂健二は、九〇年代であったろうか、映画祭かなにかのあるパーティで見かけたことがあるが、若い映画関係者、ライターたちのテーブルに立ち寄っては、しきりに「金坂健二です」と自己紹介している光景を憶えている。突然、声をかけられて、相手はぽかんとしていたが、あれだけの仕事を成し遂げた人物が、すでに忘れられた存在になっていることがショックであった。
私自身は、イメージフォーラム時代に、かわなかのぶひろさんから、「ジャパン・コーポ」総会において、金坂健二が「フィルム・アート・フェスティバル東京1969」開催をめぐって造反を起こした経緯をなんども訊いていたので、こちらから積極的に話をするということはなかった。
近年、北沢夏音による金坂健二の評伝ノンフィクションが書かれ、再評価が始まっているようだ。そして、金坂健二の造反で、「ジャパン・コーポ」を脱退し、「日本アンダーグラウンドセンター」をつくった佐藤重臣は、晩年、黙壺子アーカイブスで非合法でブニュエルの『アンダルシアの犬』や『黄金時代』『砂漠のシモン』を上映していたのだった。その佐藤重臣もふたたび脚光を浴びている。
『ルイス・ブニュエル』を読みながら、日本のアングラ文化との意外なむすびつきに思いを馳せてしまった。
四方田犬彦著『ルイス・ブニュエル』(作品社)
今年は寺山修司の没後三十周年に当たる。私が、寺山さんに初めて面識を得たのは亡くなる三か月ほど前のことだった。ちょうど、その頃、谷川俊太郎さんとの映像による往復書簡『ビデオレター』が完成したので、『月刊イメージフォーラム』で、この作品をめぐって二人に対談してもらったのだ。挨拶をすると、寺山さんはあの鋭い、しかし人懐こそうな眼で、一瞬、私を見すえた。
当時、寺山さんはすでに重度の肝硬変のために椅子に坐ることさえ大儀そうな感じで、編集部のソファに横になったままの状態で、谷川さんと対話しているのがなんとも痛々しかった。
この対談で、ひときわ印象深かったことがある。谷川俊太郎さんの発言は明晰そのもので、まとめたテープお越しの原稿にもまったくといってよいほど直しは入らなかった。そして、その原稿を渋谷の天井桟敷に届けたのだが、後日、戻ってきた原稿を一読して、あっと驚いた。寺山さんの発言部分がまったく原型をとどめないほどに書き直されていたからである。しかも、その場での発言とは似て非なる、まったく関係のない言葉のみが加筆されているのにもかかわらず、対談そのものは、谷川さんの発言にきちんと対応して成立しているのだ。
私は、この時、遅ればせながら、完璧なまでに、<虚構の人><言葉の人>としての寺山修司を目の当たりにしたという気がする。
寺山さんは、自ら<職業は寺山修司>と名乗ったほど、詩人、劇作家、脚本家、小説家、評論家、演出家、映画監督とあらゆる領域での八面六臂の活動で知られたが、たとえば、映画作家としては、生涯、フェリーニの視覚的なスタイルを引きづり、その影響下から抜け出せなかったのではないかと思う。その中でも、私は、初期の劇作『大人狩り』に想を得たと思しき『トマトケチャップ大帝』が、もっとも寺山さんの<アンファンテリブル>な資質が出ていて好きだ。
俳句、短歌においては、まぎれもなき天才であった寺山修司は<引用>の達人でもあった。<書を捨てよ、街へ出よう>という高名なるアジテーションにもかかわらず、私にとっては、魅惑的な書物の世界へと誘う最良のチチェローネ(案内人)のひとりであった。
たとえば、寺山修司のエッセイによって、私はネルソン・オルグレンという作家を知った。シカゴのスラム街を舞台に、ギャンブラーやボクサー、不具者、貧しい移民たちを好んで描いたネルソン・オルグレンは、寡作にもかかわらず、なぜか作品が二本も映画化されている。オットー・プレミンジャーの『黄金の腕』、そしてエドワード・ドミトリクの『荒野を歩け』である。
『黄金の腕』と『荒野を歩け』は、いずれもソウル・バスの傑作なタイトル・デザインと音楽をエルマー・バーンスタインが担当していることで映画ファンに記憶されている。
『黄金の腕』は、主人公のポーカーの名手フランキー・マシーンをフランク・シナトラが演じて、本格的なハリウッドへのカムバックを果たした作品として知られている。当初、シナリオにも参加したオルグレンは、原作では麻薬中毒の果てに自殺するフランキーが、恋人のキム・ノヴァクと共に更生の道を歩むというハッピーエンドに改変させられたことに激怒し、降板したと言われる。
私は、むしろ車椅子に乗った妻を演じたエリナー・パーカーが強く印象に残っている。たしか、虫明亜呂無も、あるエッセイで、彼女の生涯最高の演技だと絶賛していたのを読んだ記憶がある。
『荒野を歩け』は、昔、テレビで見たきりだが、ローレンス・ハーヴェイ、ジェーン・フォンダ、アン・バクスター、キャプシーヌ、バーバラ・スタンウィックという超豪華なキャスティングにもかかわらず、猫が歩いている秀逸なタイトルだけを覚えている。
ちょうど、その頃、一九七〇年代後半に、ハヤカワ文庫から『黄金の腕』の完訳と、晶文社から『荒野を歩め』(三谷貞一郎訳)が続けて刊行されたのですぐに読んだ。とりわけ、『荒野を歩め』は、不具者がぞろぞろ出てくるし、散文詩のような独特の文体のせいもあって、むしろ、ルイス・ブニュエルの『忘れられた人々』を思い起こさせた。<スラム街の詩>という形容がもっともふさわしい作品に思えた。
寺山修司が絶賛していた『朝はもう来ない』は、長谷川四郎の名作『遠近法』を出していた書肆パトリアという小さな出版社から発行されていたが、なかなか見つからず、神田の古本屋でようやく安価で発見した時はうれしかった。『朝はもう来ない』は、一九八七年には河出書房新社から同じ宮本陽吉の翻訳で完訳が出たが、私は、カバーのデザインも含めて、この書肆パトリア版を気に入っている。
シカゴの貧民街を舞台に、ブルーノ・バイセックという不良少年がヘビー級チャンピオンを夢見るが、仲間たちの横やりで挫折する、という物語は、いかにも寺山修司好みで、寺山さんの処女小説『ああ荒野』、そして東映で撮った清水健太郎主演の『ボクサー』の原典は、まちがいなく『朝はもう来ない』だろう。
『朝はもう来ない』と『黄金の腕』を最初に称賛したのは、ジャン=ポール・サルトルで、そのパートナーであったシモーヌ・ド・ボーヴォワールとネルソン・オルグレンが長い間、愛人関係にあったことはよく知られている。
ボーヴォワールの『アメリカその日その日』(人文書院・二宮フサ訳)を読むと、初めてのアメリカ旅行に同行したネルソン・オルグレンが印象的に描かれている。
たとえば、ニューヨークを一緒に散歩している時に、オルグレンが発した「シカゴにはユダヤ人街はない」という言葉に触発され、アメリカの反ユダヤ主義の跋扈に思いをはせる。あるいは、「シカゴ人の眼でニューヨークを発見する彼を見ていると面白い」といったオルグレンへの親密な感情を吐露した記述にたびたび出会うのである。
私が一番好きなネルソン・オルグレンの作品は『スティックマンの笑い』という短篇だ。ギャンブル狂の男が給料日に家に帰ると、女房は不在で、がっかりした男はふらふらと外へ出る。ダイスの勝負に賭け、有り金を全部すってしまい、泥酔して帰宅すると、妻がいて――。というお話だが、ラストの一行がいい。
この短篇は、むかし、白水社から出ていた『現代アメリカ短篇選集?』に収められていたが、最近、『20世紀アメリカ短篇選上』(岩波文庫・大津栄一郎編訳)にふたたび収録された。やはり、名篇なのだろう。
寺山修司によって見出され、映画にも縁が深かった作家ネルソン・オルグレンを決してわすれてはならない。
十二月十日、小沢昭一さんが亡くなった。享年八十三。十年ほど前に前立腺がんが見つかり、治療を続けていたことは知っていたが、それでも今、何とも形容しがたい喪失感に襲われている。
それは、多分、私が初めて名前を覚えた喜劇人が小沢昭一さんであったせいかもしれない。
一九六一年、私が小学校に入ったばかりの頃に、NHKの日曜夜八時から『若い季節』が始まった。淡路恵子が社長の「プランタン化粧品」を舞台に繰り広げられる洒落たコメディで、毎週楽しみに見ていた。この会社の社員にはハナ肇とクレイジー・キャッツ、ダニー飯田とパラダイス・キング、黒柳徹子、いつも白いタートルネックのセーターを着ている古今亭志ん朝などがいて、皆が行きつけの小料理屋の板前が渥美清だった。
今、考えでも信じがたいような豪華なメンバーである。そして小沢昭一さんは、たしかケチクマという渾名で、ケチでいつもぶつぶつ文句ばかり言っている若手社員を演じていた。その偏屈な、アクの強い、嫌われ者みたいな独特のキャラクターが毎回面白くてならず、子供心にも強烈な印象として焼き付いたのだった。
思えば、当時は、土曜の夜にNHKの『夢で逢いましょう』を見て、日曜日の夕方には民放の『てなもんや三度笠』と『シャボン玉ホリデー』を続けて見た後、『若い季節』にチャンネルを合わせるという黄金のルーティンが出来上がっていた。私のエンターテインメントに対する<基礎教養>は、この小学生の時に熱中したテレビドラマ、バラエティによって形成されたのは間違いない。
次に小沢昭一に出会ったのは、一九六九年に刊行された『私は河原乞食・考』(三一書房、のちに岩波現代文庫)である。ストリップから大道芸、香具師、ホモセクシュアル、落語など後の「日本の放浪芸」研究につながる私的な芸能論ともいうべき小沢さんの最初の著作であった。
この本を読んだきっかけは、その頃、毎週欠かさずに聴いていた永六輔の深夜放送「パック・イン・ミュージック」の影響が大きい。永六輔は、当時、熟読していた雑誌『話の特集』に「芸人その世界」を連載中で、「パック」にも小沢昭一をゲストに呼んで、この本を絶賛していたからだ。
たしか、中学校の卒業文集に「差別される芸について」などという身の程知らずの文章を書いたのを憶えているが、大半は、この小沢昭一さんの本の受け売りだったと思う。土台、中学生に理解できる本ではなかったのだが、そんないっぱしの芸の通人気取りのティーンエイジャーに、冷水を浴びせたのが、一九七二年に出た小林信彦さんの『日本の喜劇人』である。
当時、まさにむさぼるようにして読んだこの本には「上昇志向と下降志向」という章があり、渥美清と小沢昭一が対照されて論じられているのだが、次のような一節に、高校生だった私は心底驚いたのだ。
「ディテールにおいては鋭いものをもちながら、このエッセイ集(『私は河原乞食・考』)が、もう一つ私に迫らないのは、こういうところである。
『……新劇は新劇の伝統をまず作り上げることが急務でありましょう。しかし、それはそれとして、やはり、日本人のわれわれは、日本の伝統芸能に関心が向かざるを得ない。……。』
この<それはそれとして>というのが、どうしてもわからない。
<新劇>人としての小沢昭一がいる。一方に、伝統芸能に心を寄せる小沢昭一がいる。これをつなぐのが、<それはそれとして>では、マズいのではないか。河原乞食・伝統芸能――それらを意識した小沢昭一が、<新劇>(でなくてもいい。芝居でいい)のなかで、どういう演技を見せるかということによって、私たちは、小沢昭一の、<それはそれとして>といったアイマイなものではない方向を初めて知りうるのである。
小沢昭一の下降志向――ストリップや見世物やホモへの偏執――が、ある種のスノビズムやノヴェルティ(新奇さ)やモダニズムの裏返し(ブロードウェイ・ミュージカルへの憧れが、一転、大阪の角座の漫才に変る!)でないことは、よく納得できる。だが、小沢昭一には、どんなに下降しようとしても、しぜんに上昇してしまうようなところがある。
一方、渥美清は、いくら上昇しても、彼の内部の、白骨が散らばっている眺めから、自由になれないところがある。
昭和四十四年に、小沢が『私は河原乞食・考』を出版し、渥美が『男はつらいよ』で再起したのは、ほとんど、象徴的といってもいい。」
『日本の喜劇人』が掛け値なしの名著であるゆえんは、こういう厳しくも鋭い本質的な考察が、さりげなく随所に散見されるところにある。
別段、小林信彦さんの指摘を内心で受け止めたわけではなかろうが、以後の小沢昭一さんの仕事を見渡すと、映画出演がめっきり減り、新劇俳優としては、劇団『芸能座』、『しゃぼん玉座』を主宰するいっぽうで、ライフワークのCD・DVD『日本の放浪芸』シリーズを纏め上げ、『放浪芸雑録』、『ものがたり 芸能と社会』(新潮社)などの大著を次々に物し、近年は、まるで市井の民俗学者のような風格と面影があった。
『日本の喜劇人』のほぼ三十年後に書かれた小林信彦さんの傑作評伝『おかしな男 渥美清』(新潮文庫)の巻末に、小林さんと小沢昭一さんの「渥美清と僕たち」という、まさに見巧者同士による至高の芸談ともいうべき対話が載っているのは、一種、感動的でさえある。
結局、俳優としての小沢昭一の魅力を探ろうとすれば、一九五〇年代後半から六〇年代の初頭につくられた日活のプログラム・ピクチュアになるのではないだろうか。
中平康の『牛乳屋フランキー』のライバルの牛乳配達屋、川島雄三の『貸間あり』の万年浪人生、『幕末太陽傳』の貸本屋・金蔵、『しとやかな獣』の金髪のインチキ歌手、主役では西村昭五郎の『競輪上人行状記』の競輪狂いの果てに寺を失ってしまう破戒僧などが、すぐさま思い浮かんでくる。
数年前だったか、ラピュタ阿佐ヶ谷で「春原政久特集」が組まれた際に、小沢さんは主演作の『猫が変じて虎になる』が上映されると知るや、何度も通いつめたという話をきいたことがある。私は、テレビの『若い季節』と並行して撮られていた、この時代の小沢さん主演の喜劇映画をほとんど見ていないので、ぜひ、どこかの名画座でまとめて特集上映してほしいものだ。
そういえば、この頃、小沢昭一さんが「やっときたか!」と欣喜雀躍した企画がある。川島雄三監督が小沢昭一主演で、山口瞳の直木賞受賞作『江分利満氏の優雅な生活』を映画化するという話である。すでにシナリオも完成しており、傑作『しとやかな獣』と同様に、主人公の社宅の一室からキャメラが一歩も出ないという実験的な作品になるはずであった。
しかし、周知のように、一九六三年、川島監督の急逝により、『江分利満氏の優雅な生活』は、代わりに岡本喜八監督がメガホンをとって、小沢さんではなく、小林桂樹の主演で映画化された。
今では、『江分利満氏の優雅な生活』は、岡本喜八監督の代表作として、その評価はゆるぎないものになっているが、それでも、私は、時々、川島雄三と小沢昭一のコンビによる幻のヴァージョンも、ぜひ、見て見たかったな、と思う。
小沢昭一著『私は河原乞食・考』(岩波現代文庫)
ようやく企画・編集を手がけた吉岡芳子さんの『決定版!Vivaイタリア映画120選』(清流出版)が出来上がった。
佐藤忠男さんの日本映画、中条省平さんのフランス映画に続く国別のムーヴィーガイド・シリーズの第三弾だが、当初から、イタリア映画バージョンをつくるならば、吉岡芳子さんに執筆してもらうことは自明だった。
吉岡芳子さんとは、『月刊イメージフォーラム』の一九八四年十二月号の「現代イタリア映画を<発見>する」特集で、登場していただいて以来のおつきあいである。吉岡さんは、フランス映画社が『一九〇〇年』(76)、『カオス・シチリア物語』(84)などの傑作を立て続けに紹介し、一時、<イタリア映画社>などと呼ばれていた時代から、イタリア映画の字幕スーパーではすでに第一人者であった。以来、フェリーニ、ベルトルッチ、マルコ・ベロッキオ、エルマンノ・オルミといったイタリア映画界の巨匠たちすべての作品の字幕を手がけてきた。
吉岡さんは、映画批評家ではないが、長年培ったイタリア映画への真率な情熱では並ぶものがいないし、その信仰告白にも似た愛情あふれる作品解説はどれも読みごたえがある。
ネオ・レアリズモの端緒とされるルキノ・ヴィスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(42)からベロッキオの『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(09)まで、ここに厳選された120本の作品を見れば、間違いなく、ひとかどの<イタリア映画通>になれるはずである。
作品選択に関しては、フェリーニほかの巨匠の作品はほぼ網羅されているが、吉岡さん自身の好みも自ずとはっきり出ていて、なかでも特筆すべきは、マルコ・フェレーリの映画が六本も入っていることだ。『最後の晩餐』(73)、『バイ・バイ・モンキー』(77)、『マイ・ワンダフル・ライフ』(79)、『町でいちばんの美女 ありきたりな狂気の物語』(81)、『未来は女のものである』(84)、『I LOVE YOU』(86)と題名を書き写すだけでも、マルコ・フェレーリという特異な映画作家の魅力が伝わってくるようだ。
二〇〇一年から〇二年にかけてフィルムセンターで開催された大規模な特集「イタリア映画回顧展」でも、『猿女』(64)、『男と5つの風船』(68)というマルコ・フェレーリの未公開作品が二本入っていたが、これは恐らく作品選定委員の一人だった吉岡さんの尽力によるものだろう。
『猿女』は、胡散臭い山師ウーゴ・トニャッツィが、救貧院で見つけた体中が体毛で被われた女(アニー・ジラルド)を使って見世物にし、金もうけのショーを始める。ふたりは結婚し、女はやがて妊娠、毛むくじゃらの赤ん坊を生み落として、死んでしまうが、男は彼女の遺体を博物館から盗み出し、ふたたび見世物にするというお話。まるで『フリークス』のトッド・ブラウニングがフェリーニの『道』をリメイクしたら、こうなると妄想したくなるグロテスクな寓話なのだが、広場に集まった大群集の前で、アニー・ジラルドが突然、「ラ・ノビア」を歌い出すシーンに、不思議な感銘を受けたのを憶えている。
『男と5つの風船』も、お菓子工場主のマルチェロ・マストロヤンニが、婚約者カトリーヌ・スパークが風船を膨らませるのを見て、興味を覚え、風船に破裂するまでどれぐらい空気をいれられるかというオブセッションに憑りつかれる奇怪な話だ。やがて、乱痴気騒ぎの果てに、マルチェロは自宅のマンションの窓から投身自殺を遂げてしまう。
妊娠したカトリーヌ・スパークが異様に美しかったのが強く記憶に残っているが、フェレーリの映画では、一見、終末的でデカダンな世界を描いていても、澄み切った独特の明るさがあり、奇をてらったような難解さはまったくない。
八〇年代のフェレーリのミューズだったオリネラ・ムーティの妊婦姿がひときわ印象的な『未来は女のものである』という題名通り、フェレーリの映画は、すべて<未来は女のものである>というモチーフを飽くことなく語ってやまない。
ウーゴ・トニャッツィは、まさに、フェレーリの哲学を体現している奇特な俳優で、初期の『女王蜂』(63)では、豊満な若妻マリナ・ブラディの過剰な性欲に翻弄され、精力を吸い尽くされて、疲労困憊の果てに衰弱して死んでしまう夫を悲哀たっぷりに演じていた。ラスト、彼の葬式で喪服姿のマリナ・ブラディのどこか充ち足りないような不穏な表情のクローズアップがなんと無気味であったことか。
『最後の晩餐』では、ウーゴ・トニャッツィは美食家の料理長を演じている。社会的地位のある四人の男たちが、パリ郊外の古い屋敷に集まり、娼婦を呼んで、たらふく食べ、放縦きわまりない酒池肉林の果てに死んでいく壮絶な話であった。
この映画は、二十歳の頃、公開時に見て、スカトロジーやら何やらが盛り沢山で、とても面白かった記憶があった。だが、中年になってからあらためて見直すと、比較にならない凄絶なまでの感動に襲われてしまった。若い時には深く味到することができない種類の作品というのがあって、『最後の晩餐』は、まさにその筆頭に来る映画ではなかろうか。
私が愛聴するアルバム『マルコ・フェレーリの映画/フィリップ・サルド作品集』でも、とりわけ『最後の晩餐』のメランコリックなナンバーは、何度、聴いても決して飽きることがない。この体の芯の奥底にじかに響くような官能的な旋律に比肩するのは、カルロス・ダレッシオのもの憂いピアノ・ソロによる『インディア・ソング』のスコアぐらいではないだろうか。
このアルバムには、もう一曲、スタン・ゲッツのアルト・サックスが自在にブローする抒情的なナンバーが入っていて、ずっと気になっていたのだが、最近、ようやく、その作品を中古ビデオで見つけた。
『ピエラ 愛の遍歴』(83)という映画で、原案はなんとアルベルト・モラヴィアの最後の妻であった『不安の季節』のダーチャ・マライーニである。
幼少時から、男関係に自由奔放な母親エウジェニア(ハンナ・シグラ)に嫉妬と羨望、そして反撥を感じながら成長した娘ピエラ(イザベル・ユペール)の心理的な葛藤をラフなタッチで描いている。ピエラはやがて女優の道を歩む。
マルコ・フェレーリの映画では、浜辺で女たちが佇んでいるイメージが繰り返し現れるが、この作品でも、無人の海辺で、この母娘がお互いの服を脱がし合い、全裸のままに抱き合うというラストシーンが印象的である。
『ピエラ 愛の遍歴』では、冒頭からスタン・ゲッツの「枯葉」が軽快に流れ出し、思わず、陶然となってしまった。スタン・ゲッツは、この大スタンダード・ナンバーを数えきれないほど吹き込んでいるが、この映画で聴ける「枯葉」は彼のベスト・パフォーマンスといってよい。
『黄金の七人』に代表されるイタリアン・シネ・ジャズとはまったくコンセプトが異なるオーソドックスな音楽もさることながら、マルコ・フェレーリの映画は、もっともイタリア的な野放図さを感じさせながらも、いっぽうで、既存のイタリア映画のイメージを軽々と越えていくコスモポリタンな魅力が強烈にある。
マルコ・フェレーリは一九九七年、七十歳で亡くなってしまったが、未公開作品も数多くあり、その全貌はいまだに謎めいているのだ。
吉岡芳子著『決定版!Viva イタリア映画120選』(清流出版)
最近、必要があってイギリスの<フリー・シネマ>のことを調べるために、アマゾンで『長距離ランナーの遺言/映画監督トニー・リチャードソン自伝』(河原畑寧訳・日本テレビ)を買い直した。
それにしても、金井美恵子の『小春日和』、色川武大の『離婚』をそれぞれ前田陽一、森崎東の演出で二時間ドラマに仕立てた辣腕プロデューサー山口剛さんが、定年前に配属された日本テレビ出版局から出した一連の映画本のクオリティはほんとうにすごい。
本書以外に、『ビリー・ワイルダー・イン・ハリウッド』(モーリス・ゾロトウ著、河原畑寧訳)、『追放された魂の物語 映画監督ジョセフ・ロージー』(ミシェル・シマン著、中田秀夫・志水賢訳)、『スクリプター 女たちの映画史』(白鳥あかね他、聞き手・桂千穂)と見事なラインナップだ。
<フリー・シネマ>は同時代のフランスの<ヌーヴェル・ヴァーグ>やアンジェイ・ワイダ、ムンクらの<ポーランド派>と比較すると、過小評価されているきらいがある。ひとつは、批評家時代のフランソワ・トリュフォーの「イギリス映画は映画的ではない」という独断に満ちた否定的な言辞が、そのまま公理のごとく受け取られてしまったことが挙げられるだろう。
もうひとつは、<フリー・シネマ>が主に一九五〇年代の後半に興った<怒れる若者たち>、いわゆるジョン・オズボーンの戯曲『怒りを込めて振り返れ』に端を発するアングリー・ヤングメンと呼ばれたイギリスの若手作家の原作に依拠したためでもあったと思われる。
たしかにフリー・シネマの旗手トニー・リチャードソンの長篇デビュー作はオズボーンの『怒りを込めて振り返れ』(59)であり、彼は、その後もアラン・シリトー原作の『長距離ランナーの孤独』(62)、シーラ・ディレニー原作の『蜜の味』を監督している。彼がプロデュースしたアラン・シリトー原作、カレル・ライス監督の『土曜の夜と日曜の朝』(60)、さらに、デイヴィッド・ストーリーの原作を映画化したリンゼイ・アンダーソンの『孤独の報酬』(63)を加えれば、フリー・シネマの代表作の大半は<怒れる若者たち>の映像化だったことになる。
しかし、映画と文学は決して対立概念ではないし、むしろ、その相補的な関係こそ考察すべきであり、フリー・シネマもたんなる同時代の文学の映画化としてでではなく、その底流にはイギリス映画独自のドキュメンタリズムの伝統が流れていたことも見逃してはならないだろう。
この時代のイギリスの文学と映画を考える上で注目したいのは、フリー・シネマと微妙に距離を置きながら、特異な仕事をしたピーター・ブルックだ。
かつてイギリス劇壇で<神童>の名をほしいままにしたピーター・ブルックは、マルグリッド・デュラスの『モデラート・カンタービレ』を映画化した『雨のしのび逢い』(60)、ペーター・ヴァイスの戯曲が原作で、映画史上最も長いタイトルの『マラー/サド』(67)ほか数本の映画を撮っている。
私は、映画作家としてのピーター・ブルックについては、今一つ評価が曖昧なのだが、昔、輸入ビデオで見た『蠅の王』(63)だけは、文句のない傑作だと思う。
かつてルイス・ブニュエルが映画化を熱望したといわれるウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』は、ハリー・クック監督のリメイク版が一九九〇年に公開されているが、これはまったく原作の深い象徴性、寓意性が骨抜きにされてしまった駄作であった。
ウィリアム・ゴールディングは<無垢の喪失>というテーマを生涯、オブセッションのように執拗に描いた作家で、デビュー作『蠅の王』はその代表作としてあまねく知られている。
イギリスが原子爆弾の攻撃を受け、疎開先に向かう少年たちを乗せた飛行機が故障し、孤島に漂着する。そこで、ラーフという理性的な少年が率いるグループと、ジャック率いる野生の豚を狩る蛮行に夢中なグループが出来上がり、やがて、内なる獣性に目覚めた少年たちは凄惨な殺戮のゲームを始める。
ピーター・ブルックは、いわば『十五少年漂流記』のグロテスクなパロディともいうべきゴールディングの原作の言葉を忠実に生かしながら、突然、ハッとするような彼独自のイマジネーションを喚起させるシーンを創造している。
たとえば、海岸で松明を燃やし、少年たちが踊りながら、次第にトランス状態に没入していく呪術的な不気味なイメージは忘れることができない。
さらに、顔や全身に入れ墨のような装飾を施し、「豚を殺せ!豚を殺せ!」と絶叫しながら狩に奔走する少年たちを見ていると、『地獄の黙示録』で、河を上り詰めてカーツ大佐の王国にたどり着いたウィーラード大尉が、突然、仮面のような化粧を施した現地民たちの一群を目撃する異様な光景が思い浮かぶ。恐らく、フランシス・コッポラは、ピーター・ブルックの『蠅の王』を見ていたのではないだろうか。
イギリスの模範的な子供たちが大自然の野生の脅威に遭遇するというヴィジョンは、ニコラス・ローグの衝撃的なデビュー作『WALKABOUT 美しき冒険旅行』(70)にもひそかに反響しているように思う。あの映画における砂と岩山が広がるオーストラリアという空間は巨大な孤島というイメージがあった。
後に、ノーベル文学賞を獲ったウィリアム・ゴールディングは、昔から、私が偏愛する作家で、ネアンデルタール人の視点で人類の滅亡を描いた『後継者たち』、アンブローズ・ビアスの『アウルクリーク橋の出来事』と同じ手法で(つまり、ロベール・アンリコ監督の『ふくろうの河』だ)、一人の漂流する男が波間にある岩の上で延々と内的モノローグを繰り広げる『ピンチャー・マーティン』など奇想に満ちた面白い小説を書いているが、一冊だけあげるとすれば、『自由な顚落』だろうか。
『自由な顚落』は、世俗的な成功を収めた画家が自分が自由意思を失った時期を探究するという、ゴールディングの中ではもっとも私小説的な色彩の濃い小説で、その苦さ、痛切な味わいはわすれがたい。ちょっと『つぐない』の原作であるイアン・マキューアンの『贖罪』に似た感触がある。
できれば、絶頂期のジョセフ・ロージーかニコラス・ローグに映画化してほしかった作品でもある。
ピーター・ブルック監督『蠅の王』
イラン映画の名匠アッバス・キアロスタミが日本を舞台に撮った新作『ライク・サムワン・イン・ラブ』という題名を聞けば、ジャズ・ファンなら、すぐさま、ジョニー・バークの作詞、ジミー・ヴァン・ヒューゼンが作曲した同名のスタンダード・ナンバーを思い起こすだろう。
映画の中では、もと大学教授のタカシ(奥野匡)が、デリヘル嬢の女子大生明子(高梨臨)を自宅に呼んだ際に、レコードをかけるシーンで、デューク・エリントンの「ソリチュード」に続いて、エラ・フィッツジェラルドの名唱ともいうべき「ライク・サムワン・イン・ラブ」が聴こえてくる。
映画では意表を突くラストシーンに、ふたたびこの曲が流れるのだが、エラのスローなバラードは、不意打ちを食らって呆然とする観客をやさしく慰撫するような、不思議な鎮静作用があり、あらためて、スタンダード・ナンバーの偉大さに思いをはせることになる。
ジミー・ヴァン・ヒューゼンは、アーヴィング・バーリン、ジョージ・ガーシュインのような二十世紀を代表する巨人ではないが、以前、このコラムで取り上げたジョニー・マーサーと同様、アメリカのポピュラー音楽の歴史には欠かせない名ソング・ライターである。
黄金期のハリウッド映画と深い関わりがある点でも、ジョニー・マーサーとJ・V・ヒューゼンはとても似ている。
「ライク・サムワン・イン・ラブ」も、もともと『ユーコンの美女』(44)という日本未公開の西部劇の中で、ダイナ・ショアが歌って大ヒットした曲である。
J・V・ヒューゼンは、フランク・シナトラとは、彼の無名時代からの大親友で、トミー・ドーシー楽団の座付き歌手だった若き日のシナトラが歌った「ポルカ・ドッツ・アンド・ムーンビームス」などは、ジャズ・シンガーが必ずレパートリーに加える不朽の名曲といってよい。
『珍道中』シリーズをはじめパラマウントでビング・クロスビーが主演した映画にも数多くの佳曲を書いており、『我が道を往く』(44)の中の「星にスイング」は、アカデミー主題歌賞を受賞している。その後も、作詞家のサミー・カーンとのコンビで、フランク・シナトラが劇中で歌った『抱擁』(57)の「オール・ザ・ウェイ」、『波も涙も暖かい』(59)の「ハイ・ホープス」はオスカーを受賞している。六〇年代に入っても、『パパは王様』(63)の「コール・ミー・イレスポンシブル」と、トータルで四度もアカデミー主題歌賞を受賞した作曲家は、もしかしたら、J・V・ヒューゼンだけかもしれない。
そして、「ライク・サムワン・イン・ラブ」「ポルカ・ドッツ・アンド・ムーンビームス」と並んで、私がもっとも好きなジミー・ヴァン・ヒューゼンの名曲に「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」がある。
「夢の残滓だけでもとっておくべきだった。恋がこんなに冷たい雨の日に変わってしまうなんて……」というジョニー・バークの詞がなんとも切ないトーチ・ソングの代表作である。
私は、これまで「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」を、ローリンド・アルメイダとのデュオによるサミー・デイヴィス・ジュニアの軽妙洒脱なヴォーカル、アン・バートンの絶唱、そして名盤『フライト・トゥ・デンマーク』に収められた、デューク・ジョーダンのしっとりしたピアノトリオなどで愛聴してきたが、このナンバーが生まれたのは、一九五三年初演のブロードウェイ・ミュージカル『フランドルの謝肉祭』である。
『フランドルの謝肉祭』は、フランソワ・ロゼー主演、シャルル・スパーク脚本、ジャック・フェデール監督の往年のフランス映画『女だけの都』(35)を翻案したミュージカルで、台本・演出を手がけたのは、なんとあの天才喜劇映画監督プレストン・スタージェスなのだ。
一九五三年といえば、プレストン・スタージェスは、もはや奇跡と呼ばれた栄光のパラマウント時代をとうに過ぎて、二十世紀フォックスで『殺人幻想曲』(48)、『バシュフル・ベンドのブロンド美人』(49)を撮ったものの、タイクーン、ダリル・D・ザナックから興行的に失敗作とみなされ、契約も更新されず、長く苦しい失意の日々を送っていた時期だった。
厳密には、プレストン・スタージェスは、プロデューサーからジョージ・オッペンハイマーとハーバート・フィールズの台本の改訂を依頼され、演出も引き継いだだけだったようだが、この『フランドルの謝肉祭』という舞台がアメリカでのスタージェスのほぼ最後の仕事であるのは間違いない。
主演のドロレス・グレイは、当時のスタージェスを「優雅だけれど独裁的だった」と次のように回想している。
「彼は舞台の仕事から長らく遠ざかっていたせいか、私たちにどう動いてほしいのかまったく判っていませんでしたね。……彼は絶えず新しいページを私たちに持ってきて、ずっと台本を書き直していたわけですけれど、私たちみんなに対してどんどん専制的になることで、ご自分の恐怖心を隠していたようです」
しかし、プレストン・スタージェスの懸命な直しは効を奏さず、この『フランドルの謝肉祭』は、わずか四日間で打ち切られてしまう。一方で、主演のドロレス・グレイは、この舞台でトニー賞の主演女優賞を受賞し、彼女が舞台で歌った挿入歌「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」は、永遠のスタンダード・ナンバーとして今なお歌い継がれている。
ドロレス・グレイは、一九四六年、『アニーよ銃をとれ』のロンドン公演で主役を演じ、帰国後、この舞台に出演したのだが、以後、МGMと契約、スタンリー・ドーネンの『いつも上天気』(55)で映画デビューを飾り、さらに、ヴィンセント・ミネリの『バラの肌着』(57)にも出演し、本格的な女優になっていくのである。
女優の魅力を最大限に引き出す名人であったプレストン・スタージェスは、生涯、最後にこの<呪われた舞台>でドロレス・グレイという女優を誕生させたといってよいかもしれない。
舞台で彼女が歌った「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」は残念ながらレコード化された形跡はない。そのかわり、五六年に録音した『ウォーム・ブランディ』というバラード中心のアルバムが残されている。ドロレス・グレイはジュリー・ロンドンをさらに甘くしたようなエロティックなハスキー・ヴォイスで、夜中に聴いていると病みつきになりそうな魅力がある。
私は、時々、この悩ましいバラード集を聴きながら、プレストン・スタージェスの数奇な運命を想ったりしている。
先日、雑誌『清流』のために、新作『終(つい)の信託』を撮った周防正行監督にインタビューをしてきた。
『終の信託』は、終末医療の現場で一人の女医の決断が引き起こす事件の顚末を描いた作品で、これまでの明るい大衆的なエンターテインメントを志向してきた彼の映画とは異なり、まるでポーランドのキェシロフスキを思わせる渋く沈鬱なダークなトーンの画面が印象的で、ヒロインを演じた草刈民代のハードなベッドシーンまであるのには驚いた。
思えば、周防さんが、こういう<濡れ場>を撮ったのは、デビュー作『変態家族・兄貴の嫁さん』(84)以来ではないだろうか。
周防さんも、その話題に触れると、「なんだか撮り方を忘れちゃって」などど苦笑していたが、そういえば、私が最初に周防監督にインタビューしたのは、もはや、三十年近く前のことになる。
周防正行監督の『変態家族・兄貴の嫁さん』は、全編のカットが小津安二郎の映画へのオマージュに終始するという恐るべき大胆不敵なピンク映画で、初号試写を見た蓮實重彦さんが、当時、『話の特集』で連載していた「シネマの扇動装置」で大絶賛したことから、その名前が一挙に映画ファンの間で広まったことはよく知られている。
当時、私も、早速、新宿の歌舞伎町にあったピンク映画の封切館に見に行った。すると、『変態家族・兄貴の嫁さん』が始まると同時に、熱狂的ハスミファンと思しき数人の若い女性グループがどかどかと入ってきて、映画が終わると、回りの中年男たちの怪訝そうな視線を浴びながら、さっと出ていくフシギな光景を目撃している。
この時代は、前年に、黒沢清監督が『神田川淫乱戦争』(助監督に周防さんがついている)を撮るなど、ピンク映画が異常な熱気に包まれていた時代で、私も、ずいぶん見ているが、なかでも、<ユニット・ファイブ>と呼ばれた若い映画監督の集団の存在がとても気になっていた。
そこで『月刊イメージフォーラム』の一九八年五月号で「現代日本映画の座標」という特集を組み、彼らにインタビューを試みたのだ。座談会のメンバーは、磯村一路、福岡芳穂、水谷俊之、米田彰、周防正行の五人で、皆、高橋伴明監督の助監督出身である。
当時、高橋監督がディレクターズ・カンパニーへの参加を機に、高橋プロを解散したので、五人で青山に事務所をつくり、活動拠点にすると抱負を語ってくれた。ユニット・ファイブは、私とほぼ同世代ということもあり、彼らのつくるピンク映画は当時、すでに退潮気味であった日活ロマンポルノよりもはるかに刺激的であった。
ユニット・ファイブのメンバーの中では水谷俊之監督『視姦白日夢』(83)にもっとも衝撃を受けた。コピー機セールスマンの男(山路和弘)の日常を描いた作品で、男が、次第に妄想と現実の区別がつかなくなり、無人の高速道路で、全裸の妻をナイフでメッタ刺しにして殺害する幻想シーンなど、劇場のスクリーンで見ていて、思わず、めまいが起きそうになったほどだ。
その当時のピンク映画では、高橋伴明監督の『襲られた女』(81)が一部で絶賛されていた。しかし、私は、このロベール・アンリコの『冒険者たち』へのオマージュともいうべきパセティックな青春映画に感銘を受けつつも、全共闘世代特有の、あまりにホモ・ソーシャルで過剰なセンチメンタリズムが気になってもいたので、『視姦白日夢』の水谷俊之こそ、自分と同世代の感受性をもっともヴィヴィッドに体現する映画作家ではないかと思えたのだ。
明らかに、ユニット・ファイブでは水谷さんと周防さんが、高橋伴明監督のウェットなセンチメンタリズムからもっとも無縁な、乾いたポップで同時代的な感覚を濃厚に感じさせ、いわゆる当時の流行語でいえば、<ポストモダンな感覚のピンク映画>がようやく出現したように思われた。
ほかのメンバーの作品にも触れておこう。
福岡芳穂監督では『凌辱!制服処女』(85)という作品が強く印象に残っている。
米田彰監督の作品では『虐待奴隷少女』(83)が忘れがたい。この映画は、山路和弘が、白痴の女の子を引き受けたものの、最後に棄ててしまう悲惨な話だったが、これは、驚くべきことに、フェリーニの『道』(54)のザンパノとジェルソミーナの関係のあからさまな変奏なのだった。
米田監督は、座談会でももっとも寡黙で、ほとんど発言しなかったような記憶があるのだが、とてもシャイな方だった印象がある。
それにしても、「虐待奴隷少女」の濃密なセンチメンタリズムは師匠・高橋伴明以上で、いまどき、こんな反時代的な情趣纏綿たる作品を撮る監督がいるのかと驚き、逆に感動したのを覚えている。
磯村一路監督では、中年の不倫のカップルの行方を追う『愛欲の日々 エクスタシー』(85)が鮮烈だった。まるで<愛の不毛>を謳った初期のミケランジェロ・アントニオーニを思わせるような、独特のアンニュイの感覚が画面を覆い尽くしているのだ。さらに、主人公たちと対照的に、最後に心中を遂げる無邪気な若いカップルが登場するが、このエピソードは、明らかに山川方夫の傑作ショートショート『赤い手帖』にインスパイアされたものであった。
磯村監督は、愛欲を怜悧なまなざしでとらえている点では、ユニット・ファイブの中は最も成熟していた映画作家だったといえるかもしれない。
後年、磯村監督は、田中麗奈主演の『がんばっていきまっしょい』(98)で大ブレイクし、青春映画の旗手のごとく賞揚されたが、私は未だに、彼の最高傑作は、この『愛欲の日々 エクスタシー』だと思っている。
周防正行監督は、その後、『ファンシイダンス』(89)、『シコふんじゃった』(92)、『Shall we ダンス?』(96)、『それでもボクはやってない』(07)と寡作ながら、大ヒット作、ベストワン作品を連打し、文字通り、日本映画界を代表する映画監督になったのは周知のとおりである。
あれは、十数年ぐらい前だっただろうか、銀座の映画館で小津安二郎をめぐるイベントがあり、出かけたところ、偶然、席が隣あわせとなったのが周防さんで、その後、有楽町のガード下の飲み屋で一献、傾けたことがある。
久々に会った周防さんは、長いスパンで大きな予算の大作を続けて成功させているヒットメイカーとしての自負を漲らせていたが、その時、たとえば、たまには、五千万円ぐらいの低予算で、『変態家族・兄貴の嫁さん』のような、作り手の勝手・わがままし放題の映画を撮ってみるのは、いかがですか?と訊いてみた。
どんな返事が返って来たのかは忘れてしまったが、新作『終の信託』を見ながら、従来のエンターテインメント志向から社会派的な主題に徐々に移行しながらも、周防さんなりに筋を通した映画つくりをしているな、と心強く思った。
『変態家族・兄貴の嫁さん』は、もはや、周防さん自身が所有している35ミリのプリントしか存在しないらしい。ぜひ、機会があれば、スクリーンで上映してもらいたいものだ。
周防正行監督の新作『終りの信託』のパンフレット
暮れも押し迫った十二月二十八日、内藤陳さんが亡くなった。新聞の訃報記事では日本冒険小説協会会長、『読まずに死ねるか!』シリーズの書評家としての活躍ぶりがクローズ・アップされていたが、たしかに「トリオ・ザ・パンチ」全盛期のコメディアンとしての彼を知るのは、恐らく私の世代ぐらいが最後ではないだろうか。
内藤陳さんがエノケン(榎本健一)の最期の弟子であったことは一部では知られているが、実際にどのような師弟関係にあったのかは不分明なままである。そこで、ふと、昔、『月刊イメージフォーラム』(一九八三年四月号)で「喜劇 笑いのアクション」という特集を組んだ時に、内藤陳さんのロング・インタビューに立ち遭ったことを思い出した。
聞き手は初代編集長で内藤陳さんと親しいかわなかのぶひろさん、編集長の服部滋さんで、私はテープお越し要員みたいなものだったが、今、読み返してみると、エノケンと舞台への深い愛情が伝わってくる、出色のインタビューである。
たとえば、次のような発言には、当時の「MANZAI・ブーム」をクールに観察している内藤さんの視点が光っている。
「今のテレビ育ちのコメディアンの方は、恐らく徐々に全部駄目になっちゃうと思うんですよね。俺たちは舞台の空間を動き、蹴り、飛び上がりしてやったでしょう。毎日が客相手の舞台だから、毎日試行錯誤しながら、よりいいお笑いにもっていけるわけね。だって少なくとも毎日一回は駈け上がってサービスするとか、一回はその辺からボーンとジャンプして正座したまま坐るとか、遊べたものね。それはそのコメディアンが毎日稽古してるのと同じだからね。だから、未だにやれるんじゃない。」
さらにエノケンの芸は継承されるのかどうかという問いに対しても。
「したいですね。したいけど残念ながら時代が悪いですね。……中略……親父がもっていた親父の笑いと僕のねらっているのとは違うけど、基本的な精神だけはね。それから、そんなカッコいいことを言ってるけど動けることも事実だっていう自信もあるしね。だから早くヨボヨボにならないうちにもっと頑張らなくちゃいけないんだけど、飲んべえだし、ものを食わないし、本が好きだし(笑)、なにしろコメディアンが本を読んでいると不思議に思われる時代だから(笑)」
一九六〇年代当時、日劇ミュージックホールで人気絶頂だった「トリオ・ザ・パンチ」のコントにも、その精神は注入されていたとおぼしい。
「僕はだからもし(お客が)お判りにならなくてもいいと――、例えば、フィリップ・マーロウの台詞ね、それから007の動きね。それからジョン・フォードの西部劇の詩情、男の魂ね。ちょっとオーバーだけど、そういうものをひっくるめて映画的手法で演ってましたね。」
このインタビューを終えた後、新宿ゴールデン街にある内藤陳さんが経営するバー「深夜プラスワン」に連れて行かれた。その後も何度か顔を出すようになったが、この時期の「深夜プラスワン」は北方謙三や矢作俊彦が常連でカウンターに居座っており、喧喧諤々の議論も日常茶飯事で、全国各地から冒険小説ファンが聖地巡礼のように集まる、一種の聖域のようなアウラが漂っていた。カウンターの中にはバイトでまだ学生だった坂東齢人がいて、並み居る作家たちに議論を吹っかけていたのをよく憶えている。後に『不夜城』で鮮烈なデビューを飾ることになる馳星周である。
最後に内藤陳さんに会ったのは、二〇〇九年四月、新宿で開催された「イメージフォーラムフェスティバル」である。かわなかのぶひろさんの新作『酒場♯「汀」渚ようこ新宿コマ劇場公演「新宿ゲバゲバ・リサイタル」』が上映された時のことだ。この作品は、前年に、閉館が決まった新宿コマ劇場で念願のコンサートを実現させた歌手渚ようこさんの舞台裏を独自の視点で追ったドキュメンタリーである。内藤陳さんは、この舞台で十八番である西部劇の早撃ちコントを披露しているのだ。
この上映の後に、かわなかさんと渚ようこさん、内藤陳さんのトーク、さらに渚ようこさんのミニ・ライブもあり、映画『連合赤軍・あさま山荘への道程』で流れた、「ここは静かな最前線」が聴けたのも嬉しかった。
トークが終わって、ひさしぶりに会ったかわなかのぶひろさんに挨拶したところ、「これから打ち上げがあるからつきあわない?」と声をかけてくれたので、参加することにした。渚ようこさんとも初めて話したが、伝説のジャズシンガー安田南への憧れを滔々と語っていたのが印象的だった。遅れて来た世代である彼女は、林美雄の「パック・イン・ミュージック」はリアルタイムでは知らないものの、サブ・カルチュアが最も輝やいていた一九七〇年代への熱い想いがうかがえた。
すっかり酔いが廻り、終電の時間も過ぎてしまって、これは長丁場を覚悟しなければならないな、と思ったところで、かわなかさんが「陳さんが待っているから、これから『深プラ』へ行こう」と言い出し、二十年ぶりぐらいに『深夜プラスワン』へ顔を出した。
この頃、内藤陳さんは、すでに食道ガンの告知をされていたはずだが、いたって、お元気な様子だった。昔のように、客を恐持てで諭すようなこともなく、カウンターの向こうで、グラス片手に柔和に微笑んでいた。
その夜は、延々とゴールデン街のお店をハシゴする癖のあるかわなかさんとも、いつしかはぐれてしまい、最後は渚ようこさんの経営する「汀」に流れて、酔った勢いで、渚さんに「あなたは荒木一郎の「めぐりあい」と石原裕次郎の隠れた名曲「憎いあんちくしょう」をレパートリーに入れるべきです」などと話したのを憶えている。
内藤陳さん独特のダンディズムあふれる笑いは、『月刊イメージフォーラム』でインタビューした時代には、すでに時流とは合わなくなっており、そのギャッップをめぐる絶望の深さが『深夜プラスワン』の経営や冒険小説への耽溺に拍車をかけたのかもしれない。
その意味では、かわなかさんが撮った実験的ドキュメンタリー『渚ようこ「新宿ゲバゲバ・リサイタル」』は、内藤陳さんのコメディアン・舞台人としての最期の雄姿が見られる貴重な映像作品でもある。この映画は、この年の山形ドキュメンタリー映画祭でも上映され、好評を博したはずだが、以後、都内でも上映される機会が少ないようである。追悼の想いも込めて ぜひ、見てみたいと思う。
ほんとうに久々だが、ジョーン・ディディオンの『悲しみにある者』(慶應義塾大学出版会)という新刊が出た。
ジョーン・ディディオンといえば、カウンター・カルチャーが隆盛の兆しをみせていた一九六〇年代、サンフランシスコのヒッピーたちの生態を活写したニュー・ジャーナリズムの古典『ベツレヘムへ向け、身を屈めて』(筑摩書房)や、『60年代の過ぎた朝』(東京書籍)、そして『日々の祈りの書』(サンリオ)などの小説家として知られている。
なかでも、ポーリン・ケイルの『今夜も映画で眠れない』、ノラ・エフロンの『ママのミンクはもういらない』などと共に「アメリカ・コラムニスト全集」の一冊として刊行された『60年代の過ぎた朝』(原著名は『ホワイト・アルバム』)は、ブラックパンサーの青年の警官殺し、『氷の上の魂』で時代の寵児となったエルドリッジ・クリーヴァーの訪問記、ドアーズのジム・モリソンのレコーディング風景、チャールズ・マンソン一家によるシャロン・テート惨殺事件などがスケッチされ、一九六〇年代アメリカの不穏な空気をもっとも鮮やかに伝えるコラム集として、ひときわ印象深い。
しかし、『悲しみにある者』は、クールで鋭い時代観察者としての盛名を誇っていた彼女のそれまでの作品とはまったく趣きが異なる。
ニューヨークのICU(集中治療室)で、一人娘のクィンターナが敗血症性ショックと肺炎で生死の境をさまよっているさなかの二〇〇三年十二月三十日、病院から帰宅して一緒に食事中の夫ジョン・グレゴリー・ダンが心臓発作に襲われて急逝する。そして、その翌年にはクィンターナが死去するのだ。
『悲しみにある者』は、ジョーン・ディディオン自らが主人公となり、愛する家族を相次いで失った耐え難いまでの喪失感とその心かき乱す悲哀の意味を、真摯に探究したノンフィクションなのである。
巻頭で彼女は次のように宣言する。
<この本で私がしようと思っているのは、その事の起きた後の時期の意味を理解することだ。私がそれまで抱いていた「死について、病について、蓋然性と巡り合わせについて、幸運と不運について、結婚と子どもたちと思い出について、悲しみについて、人々の命は尽きるものだという事実を扱ったり扱わなかったりする仕方について、正気であることの皮相さについて、そして命自体について」のいかなる固定観念をも解き放った、その事の起きた後の数週間、数か月間を理解することだ。>
たとえば、ふたりの<死>の前後のなまなましい凄絶な記憶が喚起され、さらに、フラッシュバックのように、一九五〇年代の思春期、六〇年代、七〇年代の家族をめぐる甘美で至福に満ちた回想、情景が奔放かつ自在に流れ込んでくる。ジョーン・ディディオンの文体は、シュールレアリストのそれによく比較されるが、この本における「シークエンスをめちゃくちゃにし、今の私に浮かんでくる記憶のコマをすべて同時に読者に示す」ような独特のスタイルを自ら、映画の「編集室」に譬えているのは、むべなるかなと思う。
というのも、ジョーン・ディディオンと夫の作家ジョン・グレゴリー・ダンの名前は、一部の映画ファンの間では、幾つかの話題作を手がけているシナリオライター・コンビとしてよく知られているからである。
たとえば、バーブラ・ストライザンドが主演した『スター誕生』(76)、ジョン・グレゴリー・ダンの書いた小説が原作のロバート・デ・ニーロが主演した『告白』(81)、ロバート・レッドフォード、ミシェル・ファイファー主演の『アンカーウーマン』(96)と題名を挙げると、典型的なハリウッド作品が多いが、私がもっとも記憶に残っているのは、アル・パチーノが初めて日本で紹介された『哀しみの街かど』(71)という映画だ。
ニューヨークを舞台に、中絶手術をして心身ともにボロボロになった少女(キティ・ウィン)とヘロイン中毒者の青年アル・パチーノが出会い、パチーノにひきずられるように彼女も麻薬の世界に堕ちていくという悲惨な話だったが、冷え冷えとした酷薄なニューヨークの風景をとらえたルックが目にしみるようで、当時、新鋭だったジェリー・シャッツバーグの監督作品としては、代表作『スケアクロウ』(73)よりも、私はこの小品のほうがはるかに好きだった。なによりも大都会の片隅で、怯えた小動物のようにちぢこまって生きているカップル、とくにキティ・ウインの繊細なカラス細工を思わせる透明感をたたえた美しい眼差しが忘れがたい。
『哀しみの街かど』は、一九七〇年代の半ば頃、名画座で出会って以来、その後、見ていないのだが、今、思えば、この孤独なカップルをみつめる独特のクールで親密な眼差しには、『60年代の過ぎた朝』などの一連のノンフィクションで、六〇年代カウンター・カルチャーの光と闇、若者たちの荒涼たる精神の内実をアイロニカルにとらえたジョーン・ディディオン独自のダブル・ビジョンが反映されていたような気がする。
『悲しみにある者』は二〇〇五年に刊行されるや、全米図書賞(ノンフィクション部門)を受賞し、ジョーン・ディディオンの著作としては稀有なことに大ベストセラーとなった。さらに、ディディオン自身が本書を劇化して、初演では彼女の親友ヴァネッサ・レッドグレーヴがヒロインを演じたことも大きな話題になった。その際の彼女のインタビューやヴァネッサの舞台の断片を、ユー・チューブで見ることができるが、老境を迎えても、ジャンルを横断して果敢に生きるジョーン・ディディオンの姿には感動を禁じ得ない。
ジョーン・ディディオン著『悲しみにある者』(池田年穂訳・慶應義塾大学出版会)
昨年の12月に、武満徹の生誕80年を記念し、Bunkamuraオーチャードホールで「武満徹トリヴュート?映画音楽を中心に?」なるイベントが開催された。大友良英と菊池成孔という今をときめくミュージシャンが映画音楽家・武満徹へのオマージュを捧げたコンサートである。
私は行けなかったのだが、友人の滝本誠さんに聞いたところ、素晴らしいステージだったという。
プログラムを眺めると、菊池成孔プロジェクトで、フェリーニの『81/2』をモチーフにしたスコアがある。
武満とフェリーニ?
菊池成孔は熱烈な『8 1/2 』フリークで、たしか、DVDのライナーノートで、生涯のベストワンと告白していたと記憶する。
私も彼ほどではないが、1970年代にフィルムセンターのイタリア映画特集で初めて見て以来、夢中になり、一時、この映画にまつわる批評を探してきては読み耽ったことがある。
その中で、最も印象に残ったのが、植草甚一の「僕は『81/2』を見て映画の<死>を思った。これ以上の映画はもう創られないだろうという確信である。」というフレーズと、武満徹の「映画『81/2』を見る。フェリーニは『81/2』を“実現”したことで偉大だ。」という冒頭から始まる「日録」の一節だ。この「日録」は、武満の第一エッセイ集『音、沈黙と測りあえるほどに』(新潮社)に収められているが、多分、菊池成孔も、この美しいエッセイに触発されたに違いない。
武満徹が透徹した美意識と詩的な直観、深い思索をたたえたエッセイの書き手であることは、つとに知られているが、映画についても、鋭い洞察に満ちた論考を数多く発表している。
武満徹が、現代音楽の世界で国際的な評価を獲得しているのは言うを待たないが、もしかしたら、今後は、それ以上に、映画音楽家としての名声がいっそう高まっていくのではないだろうか。
武満は百本近い映画音楽を手がけているが、彼自身が、年間、三百本もの映画を見る無類の映画狂でもあった。
その映画好きの武満徹の全貌が露わになったのは、いうまでもなく1983年に、ジャン=リュック・ゴダールの『パッション』で開館した六本木シネ・ヴィヴァンのプログラムで始まった蓮實重彦との連載対談であった。
ミニシアター・ブームの幕開けを告げる、この劇場は、無くなってしまった今、思えば、セゾン文化の最後の残照といった印象があるが、なによりも映画ファンが、この対談に唖然としたのは、二回目のゴッドフリー・レジオの『コヤニスカッティ』、三回目のニキータ・ミハルコフの『ヴァーリャ!』をコテンパンに批判していることである。劇場用パンフレットで、当該の作品をあからさまに叩くというのは、まさに前代未聞で、当時、大笑いしながら読んだものである。
実は、ニキータ・ミハルコフは、武満徹のお気に入りの作家なのだが、蓮實重彦氏の激しい罵倒に、やや腰が引けてしまい、知らず知らずのうちに、相槌を打っている風情なのも妙に可笑しい。
しかし、タルコフスキーの『ノスタルジア』、ゴダールの『カルメンという名の女』、ダニエル・シュミットの『ラ・パロマ』、ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』『エル・スール』といった作品では、ふたりの呼吸もぴったりで、映画談議の愉しさが、読む者にも豊かな波動となって、生き生きと伝わってくる。
この連載対談は、「映画と音の誘惑」「映画・夢十夜」というふたつの長めの対話と合わせ、『シネマの快楽』としてリブロポートから刊行され、その後は、河出文庫に入っている。
武満徹には、もう一冊、『夢の引用』(岩波書店)という素晴らしい映画エッセイ集がある。これは雑誌『世界』に連載された長編の映画をめぐる随想をまとめたものだ。
「私にとって、映画は、夢の引用であり、そして、夢と映画は、相互に可逆的な関係にあり、映画によって夢はまたその領域を拡大し続ける。私の(映画に対する)興味は、鮮明で現実的(リアル)な細部が夢という全体の多義性を深めているように、映画においてもその筋立てより、物語に酵母菌のように作用してそれを分解するような、細部へ向う。だが、そうした細部、夢の破片をことばによって写しとるのは不可能である。それを可能にするのは、また、映画でしかない。」
このように目の覚めるような卓抜な考察が鏤められた『夢の引用』は、武満徹のなかでも最も美しい著作といえるだろう。
私は、今、武満徹の映画エッセイ集『映像から音を削る』(小社刊)を編集している。初めに、奥様の武満浅香さんにお電話をして、企画の趣旨を縷々説明し、何とかご了解をいただいたのだが、そのための条件として、この『夢の引用』からは一切、原稿を使わないでほしいとおっしゃられた。むろん、私も、当初から、ひとつの小宇宙をなしている『夢の引用』からは、まったく使うつもりはなかった。この瀟洒な本は「永年の映画仲間である妻へ、感謝をこめて」と献辞が入っていることからもわかるように、武満夫妻にとって特別な意味を持っているからである。
私が、新たな視点で編集した『映像から音を削る』に収録した映画をめぐるエッセイは、前述の「日録」を含めた『音、沈黙と測りあえるほどに』のほかには、『樹の鏡、草原の鏡』『音楽を呼びさますもの』『遠い呼び声の彼方へ』『時間の園丁』(いずれも新潮社)を底本にしているが、いくつか単行本未収録の文章も収められている。その代表的なものが、「ひきさかれた『女体』の傷は殺された牛よりもいたましい――恩地日出夫への手紙」である。
この『映画芸術』に発表された一文は、恩地日出夫監督が、『女体』のなかで牛を殺すシーンを撮影したために、マスコミから激しい非難を浴びた際に、武満が励ましたエッセイである。
二十年ほど前、ビデオ業界誌の編集長時代に、恩地日出夫監督に原稿を依頼したら、「武満徹からの手紙」という題のエッセイをいただいた。原稿を受け取る際に、恩地監督が、当時、とくに「アンブローズ・ビアスにしたがって言えば、あなたは嘘つきであるより詩人の側に立つ人です……」というくだりに、いかに深く感動し、慰められたかと嬉しそうに語っていたことが思い出される。
武満徹の映画音楽の代表作といえば、小林正樹の『切腹』、勅使河原宏の『砂の女』が挙げられるが、私は、恩地日出夫監督と組んだ『あこがれ』『伊豆の踊子』『めぐりあい』には、抒情派のメロディ・メーカーである武満徹の資質がもっとも表出されていると思う。そして、これらのみずみずしい青春映画こそは、恩地日出夫がまぎれもない詩人であることを明かす傑作だと思う。
武満徹の映画エッセイ集『映像から音を削る』(清流出版)
ジェイムズ・エイジー
傑作メモワール『王になろうとした男 ジョン・ヒューストン』(小社刊)には、豪放磊落なヒューストンに相応しく、さまざまな個性溢れる魅力的な人物が登場する。中でも印象深いのは『アフリカの女王』の脚本を書いたジェイムズ・エイジーである。
エイジーは優れた詩人・小説家であり、なによりもアメリカが生んだ最初にして最高の映画批評家だった。「ライフ」に発表した「喜劇の黄金時代」は、チャップリン、キートンをはじめとする偉大なコメディアンたちを復権させた名論文で、小林信彦氏の名著『世界の喜劇人』は明らかに、このエッセイの深い影響下で書かれている。
ジャン・ヴィゴの『操行ゼロ』、ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』などのアヴァンギャルド映画を初めてアメリカに紹介したのも彼であり、その功績は計り知れない。エイジーが「タイム」等に連載していた映画時評は、後に「エイジー・オン・フィルム」という大部の評論集として刊行されたが、映画嫌いで知られる詩人のW・H・オーデンがエイジーの映画批評だけは愛読したと絶賛の帯を書いている。
一九三〇-四〇年代にはフォークナー、フィッツジェラルド、ナサニエル・ウエストといった著名な小説家たちが生活のためにハリウッドでシナリオライターになったが、彼らはみな内心では映画を軽蔑していたのではないかと思う。フィッツジェラルドの『ラスト・タイクーン』にせよ、ウエストの『いなごの日』にせよハリウッド小説というよりもハリウッド批判の名作なのだ。
しかし、エイジーは違う。映画に演劇や文学以上の無限の可能性を見出していた熱烈な映画狂だったのだ。
脚本家としてのエイジーの代表作は名優チャールズ・ロートンが監督した『狩人の夜』である。この映画史に残る異様なカルト・ムーヴィーのシナリオは人物の微細な動き、カメラアングルまでが克明に指定され、明らかにエイジーが自ら監督するのを夢想して書き込んでいたことが伺える。しかし、映画が完成した五五年、永い間の過度の飲酒、憂鬱症の発作に苦しんでいたエイジーは四十六歳の若さで急逝する。
その二年後、未完の長篇『家族のなかの死』が刊行され、ピューリッツァー賞を受賞している。この少年時代に交通事故で父を亡くしたエイジー自身をモデルとした自伝的な小説では、父と幼い息子がチャップリンの映画を見に行き、一緒に哄笑する場面が忘れがたい。この地味な、しかし映画への美しいオマージュともいえる名作は、七八年に出た集英社版の世界名作全集にサリンジャーの『九つの物語』と共にひっそりと収録されている。
幻のカルト・ムーヴィー『狩人の夜』